アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

概要

『嫌われる勇気』でアドラー心理学が一世を風靡しました。ブームが終わった今でも、根強い人気があるようで、図書館では予約が殺到していました。そこで同じ岸見一郎さんのアドラー心理学入門を借りてきました。

個人心理学(individual psychology)

 アルフレッド・アドラーは個人心理学を立ち上げました。それまでフロイトやユングは個人を意識と無意識に分割して考えていたのですが、アドラーは個人を分割不可能な存在と名付けました。その考えはindividualという名前にも現れています。

individualの意味

 individualは「分割不可能な」という意味です。individualのinは否定を現します。例えばinformal(非公式の)はformalの否定形、incorrect(正しくない)はcorrectの否定形となっていますよね。
 次にdivideですが、分けるという意味。例えば「My mother divided the cake into four pieces」は「お母さんがケーキを四つに分けた」という意味になります。
 最後のualですが、名詞に続ける時に必要なもので、日本語で言えば「な」に当たります。例えばcasual fashionはfashionが名詞だからcasualになっているのです。

個人は分割不可能なもの

 このindividualという言葉にこそアルフレッド・アドラーの考えがよく出ています。アドラーもフロイトのもとで精神分析を学びます。精神分析といえばオカルトめいた響きがあるかもしれませんが、カウンセリングの技法。今でこそ精神科は投薬治療がメインなのですが、初期の精神科医はカウンセリングで治療していたのです。
 フロイトはすでに触れたように、個人を意識と無意識に分割して考えました。これはフロイトの臨床経験が大きな役割を果たしています。ある女性が水をどうしても飲めない、としてフロイトのところを受診します。フロイトがカウンセリングを進めていくうちに、家庭教師が犬にコップで水を与えていた場面を思い出します。犬が大嫌いだった彼女は、コップを見るたびにその記憶が沸き起こって、いつしか水が飲めなくなっていたのです。しかし、その出来事を思い出すや否や、コップで水が飲めるようになりました。
 このような極端な例でなくても、他人に指摘されてようやく思い出す記憶があります。これは単に忘れていたからではなく、不愉快な記憶だから思い出したくない、とフロイトは考えます。

アドラーはこう考える

 ところが個人は分割不可能なものだと、アドラーは考えます。
 アドラーが自分の創始した心理学の体系を「個人心理学」と呼んだのは、最初に見たように、人間を分割できない全体と捉え、人間は統一されたものである、と考えるからです。そこでアドラーは、たとえば、人間を精神と身体、感情と理性、意識と無意識にわけるというようなあらゆる形の二元論に反対します
 それではアドラーは神経症についてどのように考えているのでしょうか。「面目を失いたくないから、当面の課題から逃げている」のだと。トラウマのせいにして、可哀想な自分を演出したいだけなのではないかと。
 全面的にとは言わないまでもアドラーよりもフロイトに賛成していますが、その理由を見る前にアドラーの考えを見ていくことにします。

行動には目的がある

 すべての行動に目的がある、とアドラーは考えます。「面目を失いたくはないがため、ある出来事を自分が課題に直面できないことの原因とするのです」と岸見一郎は解説しています。
 アドラーの思想に通底しているのは目的ではないでしょうか。例えば、アドラーは児童相談所で食べ物を中々飲み込まない子供について、相談をうけます。「飲み込むまでは次のものを食べてはいけない」というルールを家庭内で作るのですが、中々守りません。そこでアドラーは子供にこう言います。
「口に出すものをテーブルの上に吐き出すのだ。そうしたら皆困ってしまって、君のことしか話さなくなるよ」
 つまりアドラーはこの子供が母親の注意を引く目的で困らせようとしている、と見抜いていたのです。
 また別のカウンセリングの事例では、子供のイタズラに手を焼く先生が相談に訪れます。授業中に黒板消しを先生に投げつけるのです。「校長は何度も彼を家に帰らせた。それにもかかわらず投げるのを止めない」と。しかしアドラーはだからこそ、黒板消しを投げるのを止めなかったと説明するのです。注目を集めたいから、黒板消しを投げたのだと。
 アドラーは少年と実際に面談するのですが、少年が小柄であることに気付きます。カウンセリングを受けた後、こう述べています。
 自分を実際よりも大きく見せようとしているのです。僕は実際よりも大きくなければならない。皆にも自分にもそのことを証明しなければならない。権威に反抗しなければならない。先生に黒板消しを投げたりして
 つまり、背の小ささに劣等感コンプレックスを抱いていたので、教師へ黒板消しを投げたのです。
 多分、フロイトならこの事例を父親と教師を同一視して、父親への反抗心が教師へ向いたのだと解釈するところでしょう。
 このカウンセリング事例からも解るように、アドラーは目的を重視しています。そして最終的に人生の目的を意識させることで、患者を治療していくのです。この辺りはヴィクトール・フランクルの考えに近いものがあります。

アドラー心理学の限界

 しかし、それでもなお、僕はアドラー心理学に部分的にしか賛同できません。言ってしまえば、アドラー心理学は付け焼刃的な印象を拭えないのです。このことは重大な弊害をもたらしかねません。
 その前に、素人の僕でも危険だと思う事例があります。それは、中々飲み込まない子供の事例。これは、そもそも正常に嚥下ができるにもかかわらず、飲み込まない、という前提があります。つまり、まずは器質的な<原因>を疑って掛かるべきです。喉の筋肉、唾液分泌量……。そういった器官が正常だと解って、始めてアドラーの診断が下せるのです。
 例えば肉の繊維が噛み切れなくて、中々飲み込めないのだとしたら、それは子供の咀嚼力を上げるなどの対応が必要です。さらに重要なのは母親は医学に対して素人。母親が「口の中にものを入れたまま中々飲み込まない」という観察を鵜呑みにできません。

目的論では解決できない問題がある

 人間関係は目的論で解決できるかもしれません。しかし、目的論では解決できない問題もあります。一つは機械の話。こればかりは動けばいい、という思いだけで設計すると大変なことになりかねません。
 例えば、エクセルでは=”1”+”1”、=1+1、=”1”+1を同じように計算します。しかし、もし指導する立場にあったら=1+1と書かせます。どうしてか。ある日、突然、=”1”+”1”は文字列同士の演算と見なされ、#VALUEが出るかもしれないからです。
 それに=”1”+”1”と=1+1とを区別しない言語は珍しい。言語によっては計算結果が全く違い、”1”+”1”を”11”と定義しています。このルールに従えば"あ”+”あ”は”ああ”と返ってきます。つまりプログラムを組む上では文字なのか数字なのかを意識していなければいけないのですが、”1”+1と書いたら数字か文字かを意識できていないことになるからです。
 そしてこのことはVBAでマクロを作らせたときに、重大な問題を引き起こしかねません。

人間関係でもまた原因が重要となる場面がある

 例えば、プログラマ同士で雑談する時は、自明のことでも必要ならわざわざ言います。そして自明のことでも逐一確認をします。また、隣の人でもメールで会話します。
 外部からの人間は奇妙に思われるかもしれません。しかし別に仲が悪いのではなく、ちゃんとログに残ってコピーができるというメリットがあります。情報伝達をしたいだけなら、話したほうが早いでしょう。ちゃんとそこには理由があるのです。
 そしてこの理由が解らないと、なかなかプログラマという人種は理解されないでしょう。
 これはプログラマという特殊な職業を理解するために必要なのでしょうか。例えばイヌイットの人はアザラシの生肉を食べます。これはビタミンを植物から取れないという原因があり、その結果として生肉から摂取しようとしているのです。
 したがって野蛮だと非難することはできません。もちろん野蛮だと非難することで優位に経とうとしているのだとアドラー心理学では解釈されるのですが、人間の行動には必ず原因があります。他者の行動を理解するためには、その原因を探っていく必要があるのだと僕は考えます。
 プログラムをデバッグするときのように丹念に、相手の論理を一つずつ追いながら。

アドラー心理学は無意味なのか

 アドラー心理学が無意味なのかと言えば、そうではありません。目的を理解しなければ、生きる意味を見失ってしまうからです。
 場合場合によって目的論か、原因論なのかを使い分けなければいけないと僕は思います。

日本でなぜアドラー心理学が流行ったのか

 同じ著者の「嫌われる勇気」はベストセラーになりました。それだけ人間関係に悩んでいる人が増えているのだと思います。

憧れ

 嫌われてもいいから自分の意志を貫く、という姿勢は中々できるものではありません。それゆえにある種の憧れとして、アドラー心理学が流行っているのではと思います。
 この憧れはテレビドラマにも現れています。「相棒」も「ドクターX」もいわば自分の正義を貫く人。相棒の「暴発」では神戸尊を敵に回してでも自分の正義を貫きますが、現実で叶わないからこそ、杉下右京や大門未知子に熱を上げるのではと思います。あるいは、半沢直樹の倍返しが流行した背景も。

人生論が好き

 加えて日本人の多くは歴史的に見て、人生論が好きです。哲学と人生論を混同してる人すらいるのではないでしょうか。例えばサルトルも意識とは何かを考えた「存在と無」、戯曲などは顧みられず、社会参加をすれば人生は変わると受け取られ方をしているふしがあります。
 自己啓発セミナーが流行し、アドラー心理学の解説書を「自己啓発の源流」としている辺り、人生論や自己啓発の関心の高さが窺えます。別に自己啓発を否定する気はありませんし、重要なことだと思います。ただしそれは本だけ買っても意味がありません。嫌われる勇気を実行しなければ意味がないのです。
 口で言うのは簡単だけど、実行できたら苦労しないって……。難しい本を理解できたら苦労しないって……。そういう人は自分のプライドを保ちたいから、実行しないだけだ、とアドラー心理学ならいうと思うんですけどねぇ。

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