ユリシーズ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

あらすじ

 作家志望のしがない教師、スティーヴンは、塔と呼ばれる家に友人と住んでいる。髭をそって、浜辺を散策。そして少年時代を回想しながら、授業をした後、原稿を提出しに新聞社へ向かう。
 同じ頃、広告代理店の営業マン、ブルームは知人の葬儀に参列し、調べ物をしに図書館へと行く。
 同じ頃、スティーヴンも酒場から図書館に。その一室でシェイクスピアの『ハムレット』について議論をする。『ハムレット』を手がかりに、シェークスピアの生涯を推測していくのである。
 一方のブルームは酒場で反ユダヤ主義者の市民と口論をした後、スティーヴンが散策した浜辺を訪れる。そして知人を見舞うために産婦人科へ行くが、談話室の宴会でスティーヴンが出産と芸術を結びつけて論じている。ブルームの知人が男子を出産したころ、スティーヴンたちの宴は二次会に突入し、別の酒場へと移動。ブルームもついていく。
 二次会も終わり、スティーヴンたちは売春街へ繰り出す。ブルームもスティーヴンも酩酊からか、盛んに空想に耽っている。例えば、巡査に逮捕される空想、自分が王になる空想、死んだ息子が蘇る空想。
 ブルームは酔い醒ましのため、スティーヴンを喫茶店に連れていくが、ここで水夫の法螺話に付き合わされる。ブルームはスティーヴンを自宅にまで連れていくが、鍵を家において出てしまい、柵を乗り越えなければいけなくなった。ブルームはスティーヴンとココアを飲み交わしながら文学談義に花を咲かせる。ここでブルームは妻が浮気していると確信する。
 最終章で、ブルームの妻はブルームの馴れ初め話やプロポーズに至るまでの経緯、浮気相手のことなどを思い起こす。浮気相手との性交渉には満足しているが、思い出しているうちに乱暴な一面が目につくようになり、ブルームとの再出発を決断する……。

『ユリシーズ』の難解さ

 上のあらすじだけ見てみると、何ということはない、普通の物語と思われるでしょう。また、物語の中ではブルームとスティーヴンの何気ない日常を追っているだけに過ぎません。
 しかし、ユリシーズは難しく、良くも悪くも二十世紀を代表する文学の一つに数えられています。それはかなり特殊で、分かりにくい書き方をしているからです。
 よく言えば技巧の粋を凝らしているとも言えますが、僕は余り好きに慣れませんでした。ただジェイムズ・ジョイスの意図は解ります。

オデュッセイアのパロディ

 『ユリシーズ』は古代ギリシャの叙事詩、オデュッセイアのパロディ。そもそもユリシーズという名前自体がオデュッセイアのラテン語ではUlysseus(ウリッセウス)が英語に訛ったものです*1。また、オデュッセイアの登場人物やキーワードにちなんで、各章のタイトルも付けられています。
ユリシーズ〈2〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ) しかし、この『ユリシーズ』はオデュッセイアだけでなく、さまざまな作品の引用が出てきます。例えば、聖書、シェイクスピアなどはもちろん、インド哲学の経典、アフリカの伝承などからも引用されています。
 また、第二部の第14話*2は英語が古文、聖書、エドワード・ギボン、チャールズ・ディケンズなどといった具合に英語史を時系列でたどる構成になっています。そして最終的には現代の若者言葉になっていきます。ここは翻訳者もかなり苦労されたようで、万葉仮名、太平記、漱石の文章などを参考にしたと訳注にあります*3
 他にも意図的にミススペルを多用し、しかも句読点が全く打たれていない最終章*4などとにかく読みにくい! 僕はとりわけ、空想と現実が混同する第15話が手こずりました*5

意識の流れ

 文学の技法には「意識の流れ」という手法があります。具体例を見たほうが早いと思いますので、ジョイスの『ユリシーズ』から引用します。
 スティーヴンは目を閉じて、深靴が海草や貝殻をぐしゃりと踏みつけているのを聞いた。どうやら通り抜けているらしい。そう、いちどきに一歩ずつ。ほんのわずかな時間をかけて、ほんのわずかな空間を通り抜けている。五歩、六歩。(中略)
 さあ目をあけろ。あけるさ。でもちょっと待った。あれから全部消えてなくなったのか? 目をあけても永遠に暗い不透明のなかにいるんじゃあ。
 スティーヴンが浜辺を散歩する場面ですが、〈語り手〉はスティーヴンの心に浮かんでくることを余すところなく、全て書こうとしています。『ユリシーズ』の〈物語内容の時間〉はたった一日。それにもにもかかわらず、テクストそのものは膨大な量になっている理由として、この手法を用いていることが挙げられます。
 この『意識の流れ』は、マルセル・プルースト、ヴァージニア・ウルフ、そしてウィリアム・フォークナーなどにも受け継がれていきます。しかし、僕はサスペンス小説にも意識の流れは使われているように思います。
 例えばウィリアム・アイリッシュの『黒いカーテン』*6には下記の心象描写が出てきます。
 いつまでこの状態をつづけなければならぬのか? と彼は自問した。おれはこれから何をしたらいいのか。いずれおれはなにかしないわけにいかぬ。おそかれ早かれ、なにか起こるのだ。といって、いま──おれはなにをしたらよいのだろうか?
 思っていることを(できるだけ)忠実に、時系列を追いながら書いていますよね。
ユリシーズ〈3〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

ジェイムズ・ジョイスの目論見

 さて、ジェイムズ・ジョイスはなぜ、このような文章を書いたのでしょうか。その謎を解く鍵は『フィネガンズ・ウェイク』にあると思うのです。『フィネガンズ・ウェイク』も前衛的で翻訳が極めて難しい小説。
 その特徴として英語のみならず世界中の言語が散りばめられているのです。日本語はkaminari(雷)という単語が出てきますが、この小説の意図は恐らく世界中の言葉を目録化しようとしたのだと、僕は考えています。『フィネガンズ・ウェイク』が言葉の目録なら、『ユリシーズ』は物語の、伝承の、あるいは文体の目録。
 その思いは、下記の文章からも伝わってきます。
 一つの都市全体の人口が死んで、また都市一つぶんの人口が生れて、それがまた死ぬ。また生れてきてまた死んで、家々、家の列、町並み、何マイルも続く舗道、積みあげられた煉瓦、石材。持主が変る。この持主、次の持主。家主は死なずというからな。一人の期限がすぎれば、次のがあとがまに坐る。(中略)積み重なって都市ができ、時代ごとにすりへって消える。
 今、例えば、トロイア戦争があったという確証は遺跡ですが、栄光は「すりへって」いるのです。ただ物語が語り継がれて、その栄華、人々の営みを伝えているのです。
 また文体模写を行なっているギボンは『ローマ帝国衰亡史』の著者。このことからも物語=歴史を残そうと、ありとあらゆる文体を駆使して描くことで、後世にまで語り伝えようという想いが伝わってくるのです。まるで百科事典を残すかのような。
 事実、翻訳者の一人である丸谷才一は百科事典になぞらえています*7。百科事典のような小説といえば、ボルヘスを思い浮かべるでしょうが、彼は『ユリシーズ』のスペイン語訳を出しています。

フィクションとは何か

 ジェイムズ・ジョイスは『ユリシーズ』を通して物語の百科事典のみならず、フィクションについても考えを巡らせているように思えます。その根拠は、水夫が法螺話をする場面で、さりげなく米西戦争と「嘘の多いテレグラフ」と出てきます。
ユリシーズ〈4〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ) 米西戦争のきっかけは、新聞記事の捏造ですし、テレグラフは事実を曲解して伝えたこともあります。「〔個人的に対談した〕ワートリー大佐はインタビューを恣意的に要約し、それを『デイリー・テレグラフ』に送りつけた」のです。
 オデュッセイは、叙事詩でありフィクション。これは言うまでもありませんが、現代の歴史もまたフィクションの上に成り立っている、とジョイスは伝えようとしていたのかもしれません。

*1 Wikipedia「ユリシーズ(曖昧さ回避)
*2 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ 第郡』(集英社)
*3 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ 第郡』(集英社)訳注。
*4 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ 第鹸』(集英社)。なおこの章は朝の食事を「朝の食じ」と表記するなど、ひらがなと漢字を使って書き分けている。
*5 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ 第郡』。この章は特に冒頭部分の「計画表」に掲げられた訳注が役立った。
*6 ウィリアム・アイリッシュ『黒いカーテン』(東京創元社)
*7 丸谷才一 「巨大な砂時計のくびれの箇所」 (ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ 第鹸』 集英社)


にほんブログ村 小説ブログ 小説読書感想へ