概要
イーグルトンはイギリスの文芸評論家。『シェイクスピア』は現代の文芸批評がどのような切り口で行われているかを知る上で、入門書となる。ソシュール言語学、精神分析、マルクス経済学を手がかりに『ヴェニスの商人』などのテクストを分析していく。そればかりではない。『ヴェニスの商人』で繰り広げられる論争は、文学作品だけでなく現代社会を読み解く上で大切な手がかりとなる。
言語
イーグルトンが参照しているのは、ソシュール言語学です。事物と名前の関係について述べていてるのですが1、例えば海というと事物とウミという音は何の関係性もありません。もし単一言語から派生したなど*2関係性があれば、似たような発音になるはずです。ウミという音、あるいは海という文字をシニフィエといい、海という概念をシニフィアンと言います。
マクベス
さて、一般的な名詞については以上ですが、固有名詞についてはどうでしょう? マクベスという固有名詞については。上記の理屈に照らせば、マクベスという名前(シニフィエ)とマクベスの人格(シニフィアン)には必然性はありません。マクベスにとって、自分の手をたえずすりぬけるアイデンティティの追求はやむことがない。そしてシニフィエをしっかりつなぎ止めておこうとするこの不毛な終わりなきいとなみのなかで(中略)自分の役割と自分自身とを一致させられなくなったのである。そしてシニフィアンとシニフィエの間には関係性がないことは「キレイは汚く、汚いはキレイ」というセリフにも見ることができる、と指摘しています。
三人の魔女
三人の魔女が予言を与えますが、この魔女についてもイーグルトンは考察しています。魔女は森に住んでいるのですが、城からもそう遠くないところにあり、権力の外部/内部の際で生きています。したがって内部の権力闘争も一歩引いて見られ、「男性権力の中枢にあるうつろな響きや怒りを暴きたてる」のです。キレイは汚い、汚いはキレイというセリフは流血で政権を乗っ取っても勝てば官軍、ということだとマクベスは解釈してクーデターをおこします。
しかし魔女の言葉は正確に階級が秩序付けられた社会ではなくマクベス個人として開放することでした。そしてマクベスが恐れていたのはこういう価値観だったのです。軍人であるマクベスは階級秩序を重んじています。したがって、そのルールの中で武勲を上げ出世するという選択肢はあるにせよ、クーデターを起こすのは軍人としてのルールに背くこと。
魔女はマクベス自身の価値観を破壊し、「自由」を手に入れるようにそそのかしたのです。
法のパラドックス
テリー・イーグルトンは『ヴェニスの商人』読解を通して、読むことのパラドックスを指摘しています。ポーシャは証文の揚げ足を取ったように見えて、実はテクストに忠実な解釈を施したのだと。ただあまりに忠実すぎるために、現実的ではなくなったのだと肉一ポンドを要求するシャイロックに、肉一ポンド以外は要求していないので、血を流さずに肉一ポンドを切り取るように命じます。
彼女の読解はテクストそのものを取り囲む状況から隔離して考えれば正しいのである。ただ彼女の解釈はあまりに(中略)文字通りのものであるため、(中略)はなはだしい歪曲の産物となってしまうのだ。確かに肉一ポンド以外は要求していないからには、ある意味においてポーシャの言い分は正しい。しかし現実的ではありません。
さて、僕はシャイロックの弁護人になった気持ちで、ポーシャに再反論します。要求は持ってかえる、という意味なので、肉を一ポンド持ってかえればいいのではないかと。
原作においてもイーグルトンの解釈においても「要求」の定義が明確になっていません。
一方で、厳密に定義しすぎると個別のケースで柔軟に対応できなくなります。
メタファの氾濫
メタファが氾濫すると、いつしか本来の意味から離れて、意味のない言葉になってしまいます。テリー・イーグルトンはこのことを『十二夜』から分析しています。言葉が物質的コンテクストから切り離されて自己増殖を遂げ、現実の中につなぎとめられないメタファーの錯綜した連鎖を紡ぎだすことである。十二夜を持ち出すまでもなく比喩を比喩で返せば言葉遊びにしかなりません。本来言葉は、事物と結びついているはずなのに、です。このように「現実から乖離」させる効果があるのです。
しかし、テリー・イーグルトンは指摘していませんが、メタファは本来無関係のものを特徴だけで強力に結びつける効果があります。例えばあだ名がその例で、「あいつはバイキンだ」と言うと、いつしか本当にバイキンのイメージが定着してしまうのです。
貨幣
さて、イーグルトンはマルクス経済学に影響を受けています。またマルクス自身も「資本論」*3で『アテネのタイモン』を引用しながら下記の二点を指摘しています。(1)それは目に見える神である──あらゆる人間的・自然的属性を変容させ、そこから正反対のものをつくりあげる。事象を普遍的に撹乱し、歪曲する。それによって不可能なものが、むすびあされ固定される。(1)について、本来缶コーヒーとチロルチョコ10個は全く別のもののはず。しかし、それが100円という単位で統一化されてしまうのです。
(2)それは娼婦である。国民と国家をとりもつ売春周旋屋である。
また商品を買うために働いているのですが、労働は普通、代替可能です。つまり資本主義では商品のみが主役で人間はそれを生産するために働くという転倒が置きている、とマルクスは指摘しています。
(2)について缶コーヒーが<欲しい>、という気持ちも、車が欲しいという気持ちも物欲の面では変わりません。このつなぎ目として国民と国家をつなぎとめているのです。
余剰
『アテネのタイモン』だけではなく、シェイクスピアは余剰や過剰性をテーマにすることが多い、とイーグルトンは指摘します。アテネのタイモンでは次々と過剰に友人へ金を貸し与え、踏み倒される、という話です。過剰であるがゆえに価値を失う、という点はこの点は『リチャード二世』『リア王』の分析でも同じことが言えます。
*1 フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』(岩波書店)、なお、思想の解説書は丸山圭三郎『ソシュールの思想』が参考になる。
*2 当時の言語学研究は一つの言語から派生したものだと考えられてきた(ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』)。
*3 カール・マルクス『世界の大思想〈18〉 資本論1』(河出書房)