漱石文学における「甘え」の研究 (角川文庫)

概要

 「漱石文学における「甘え」の研究』は夏目漱石の精神分析ではありません。三四郎、坊ちゃん……。漱石の小説に出てくる登場人物の精神分析です。
 架空の人物を精神分析したところで、遊び以上の何の役にも立たないと思われるかもしれません。しかし、自我の問題、親子関係……。彼らは現代人の心を切り取っているのです。

甘え

 まず主著『甘えの構造』から先に読むべきなんでしょうが、いつもどおり変な順番です。

『坊っちゃん』

 土居健郎は『坊っちゃん』*1の清と坊ちゃんとの関係などを通して、甘えを考察していきます。
 清は坊っちゃんの家で下女として働いており、母親代わりです。実の母親は「兄ばかりひいきにして」おり、坊っちゃんは甘えることができませんでした。そんな坊っちゃんを不憫に思い、三円の小遣いを「貸す」と言って渡すなど、清は何かと世話を焼くのです。
 いつしか坊っちゃんと清にとって親近感が生まれます。松山の学校へ赴任するとき、清は「御墓の中で坊っちゃんが来るのを待っております」と述べるで「両者が一体であると互いに信じ込むことができる関係で」す。
 この清と坊っちゃんの関係は先輩の教師、山嵐と比較することでより鮮明になります。山嵐とは坊っちゃんがつけた渾名なのですが、坊っちゃんが学校で生徒と揉め事を起こしたときに、それが山嵐の煽動だと疑います。赴任の初日に山嵐からかき氷を奢られており、疑いを持つやいなや代金を返します。
 つまり清の好意には甘えられるが、彼女以外の好意には甘えられません。もちろん、これは当事者同士との関係性によるもの。
 返礼をしたらその時点で関係は済んでしまいます。逆にいえば返礼をするまで関係は継続することになります。坊っちゃんは理屈をつけて、清から借りた三円を返そうとしませんが、この裏には関係を終わらせたくないという心理が働いていたのではないでしょうか。
 また、大前提として、なにか好意を受けたら別の形で返さなければいけないといけません*2。
 したがって、贈り物を受け取ることは相手から精神的に拘束されることを意味するのです。「坊っちゃん」には偽善という言葉が度々出てくるのですが、純粋に贈与をしているように見えて、実は返礼を期待していることを言い表していると言えましょう。

『坑夫』

 そのような目で言えば、『坑夫』*3もまた、「長蔵さんにさえくっついていけば、どうにかしてくれるんだろうという依頼心」に捕らわれています。これは人間に愛想をつかしたつもりでも無意識で愛情を欲しがっている心理から現れます。これがたまたま、長蔵と出会うことで刺激されたのです。
 ところで、どうして人間不信になったかと言えば、主人公の青年はある少女に惚れます。「自分に対して丸くなったり四角くなったりする」と「自分も丸くなったり四角くなったりしなくちゃならない」ほどの影響を受けます。ところが、彼には親が決めたいいなづけがいました。もちろんまんざら嫌いではないのですが、意中の人と結ばれたいのは言うまでもありません。板挟みに苦しみ、家出を決意するのです。
 もちろん現代日本に於いて二人の女性とは結婚できません。しかし二者択一の状況なのに、二つとも手に入れようという心理は結婚に限らず、現代人特有の心理だと指摘します。
 昔の人だったらこの葛藤に直面した時直ちに二者選一を迫られたであろう。彼らは多くの場合、泣く泣く義理にしたがったのであり、稀に勇気を鼓して人情を押し通したこともあるかもしれない。これに反して、現代の人は二者選一を強いられることを原則として好まない。彼は二者選一ではなく、二者統一を試みようとする。あれかこれかではなく、あれもこれもというのが現代人の特色なのである。
 これには民主化が大きく関わっていると僕は考えています。つまり、自由な行動ができるということは選択の余地ができたということです。江戸以前では、身分制度に縛られ、行動が制約されていました。言ってみれば一本道だったわけです。このような状況では、あれかこれかどころか「これ」と決められていました。
 例えば江戸時代なら本人の意志にかかわらず結婚せざるを得ません。ところが、恋愛が自由になった途端に、結ばれる可能性が出てきます。
 『坑夫』に即して結婚の例を持ち出しましたが、職業選択、居住地域……全て自分で決められるようになりました。坑夫の例だと「相当の地位」が象徴的。つまり地位を継ぐことも、坑夫になることもできるのです。これも身分制度が撤廃されたことによる迷いだと言えましょう。

自我の問題

 さて、自由の問題と自我の問題は密接に関係しています。「三四郎」は自由を得て、自我が発達する課程を描き出しているのです。上京してきた三四郎が美禰子という近代的な女性と出会うなかで成長していく物語です。
 ここでも選択の自由に悩まされます。1つ目は郷里に帰る。2つ目は学問に打ち込む。3つ目は美禰子との恋愛にうつつをぬかす。「自分が何だか宙ぶらりんで落着くところを持たない存在」だと土居健郎は述べていますが、これは『坑夫』などにも共通して言えるのではないでしょうか。
 このような心境は漱石自身がイギリス留学を経験する中で悩んだことが大いに反映されています。というのも、漱石は講演の中で下記の通り語っているからです*4。
私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自分で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までを全く他人本位で、根のない萍のようにそこいらをでたらめに漂っていたからだめであったとようやく気が付いたのです。
 規模は違えど「根のない萍のように」漂っている様は三四郎の心境と重なり合うところがありますね
 青年期の悩みについて研究した精神分析家、エリクソンによれば、現在の自分と、自分の希望と、社会的な役割を統合し、一貫した自己同一性を青年期に作り上げるのだと言います。その意味において、「要するに国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして学問に見を置くことに越したことはない」と「色々考えた」結果の結論は青年期の悩みを忠実に再現していると言えましょう。

親子関係

 さて自我の問題は、親子関係とも密接に結びついています。例えば『明暗』では津田とお延の結婚生活が「何となく落着かないもの」ですが、土居健郎は親子関係を幼少期に親子関係が築けていなかったと分析しています。
 津田もお延も自分がそのようになりたいと思う同性の人物を周囲に持っていなかったということである。精神分析的洞察によれば、正常の発達の場合はいったん反撥を感じた同性の親と同一化することで初めて大人になるといわれている。してみれば津田とお延は現実世界に適応する大人とかつて同一化したことがなかったという点で、未だ社会における自分というものを弁えていなかったのであろう。
 つまり親に反撥しながらも最終的に憧れを抱くことで成長していくのですが、『明暗』の二人にはこのような経験がなかったのだと指摘しているのです。
 最終的に憧れを抱くかは個人差があるでしょうが、家族は最初の<他者>には違いありません。『三四郎』などでは家族関係が良好なのですが、『明暗』*5、『行人』*6では問題がある家族を描いているのです。

精神病

 さて、土居健郎は漱石の登場人物たちに精神病的な性格を見出しているのですが、とりわけ『行人』の一郎が特徴的。
 まず、土居健郎は精神病について下記の通り意見を述べています。
気ちがいは従来医学でいう意味での病気の一種に過ぎないのであって、それ以外の存在理由はないのであろうか。気ちがい自体に具わる論理というものはないのであろうか。
 『行人』は弟と妻が不倫をしているのではないかと疑い、一緒に旅行へ行ってくれないか、と当の弟へ頼む話。一見、おかしな論理で理解しがたいのですが、妻も自分自身も信じられなくなって、弟ならば信用できるという心理が窺えます。そしてこれは男同士の絆という点で同性愛的な心理です。女性が入り込めないほどに結びつきが強いので、同性愛的な心理と言います。
 同性愛的な結びつきは今日、ホモ・ソーシャル*7として整理されていますが、とりわけ『こころ』は顕著に見られます。上では〈語り手〉と先生の関係が、中では過去の先生とKが、それぞれ描かれているのですが、どちらの関係も先生の奥さんが入り込む余地のないまでに深い絆で結ばれているのです。
 そして、『こころ』の先生にせよ、『行人』の一郎にせよ、精神病患者として「了解」しようとしています。
 

*1 夏目漱石『坊っちゃん』(新潮社)、なお、青空文庫でも読むことができる。
*2 マルセル・モース「贈与論」『贈与論 他二篇』(岩波書店)
*3 夏目漱石『坑夫』(新潮社)なお、青空文庫でも読むことができる。
*4 夏目漱石『私の個人主義』(講談社)
*5 夏目漱石『明暗』(新潮社)なお、青空文庫でも読むことができる。
*6 夏目漱石『行人』(新潮社)なお、青空文庫でも読むことができる。
*7 イヴ・セジウィック『男同士の絆』(名古屋大学出版会)