或る少女の死まで 他二篇 (岩波文庫)

あらすじ

 詩人、小説家として有名な室生犀星。すでに詩人としてデビューしていた彼は散文の可能性を模索し始める。その第一歩として書いたのが、自伝的小説の三作品だった。
 十三歳までを描く「幼年時代」。十七歳までを描く「性に目覚める頃」、上京後を描く「或る少女の死まで」。

自己療養

 第一印象は自己療養のために書いたんだろうな、という感想。自伝小説はともすれば、格好をつけたくなります。少なくともあえて醜い面をさらけ出そうとは思いません。しかし室生犀星は自分の醜い面を描いているのです。
学校へは行っていても、みんなが馬鹿のように見えた。「あいつは私のような仕事をしていない。信仰をしらない」とみんなとは特別な世界にもっと別様な空気を吸っているもののように思っていた。先生を尊敬する心には元よりなっていなかった。
 「先生を尊敬する心には元よりなっていな」い理由は、単に反抗心だけではありません。室生犀星の目から見て、理不尽な居残りなどがあったので、それも原因でしょう。また腹違いの姉と仲が良いのですが、「もう姉さんなんぞはいても居なくても、また愛して呉れなくてもいいとさえ思っていた」とあるように彼女へ拗ねて八つ当たりすることもありました。
 これも幼稚な側面であり、できれば人に知られたくないでしょう。もちろん当時の文学が自分の醜い面をさらけ出す風潮にあったことも要因の一つでしょう*1。しかし、それ以上に、室生犀星の孤独を癒やすために描いたのだと思います。

父と母

 室生犀星の家族関係は少し複雑で、産みの母と育ての母がいます。犀星自身は産みの母を慕っており、実家が近くにあることから、毎日、産みの母の家へ遊びに行きます。そして実の母も犀星に厳しく注意はするものの、最終的には菓子を与えていました。
 一方、「(前略)此家へ来たら此処の家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね」とあるように、育ての母は快く思っていません。つまり産みの母からも家という観点で拒絶され、育ての母からも心の面で打ち解けないでいます。そのようなもとで、義姉を母親のように慕うのは当然だと言えましょう。
 姉と一しょの布団に入って寝るのであった。姉はいろいろな話をした。医王山の話や堀武三郎などという、加賀藩の河師などの話をした。
 性的な場面は全くなく、まるで幼い子供が母親のストーリーテリングを聞いているかのようです。
 実家の父親は序盤に少しだけ語られますが、九歳のころ、死亡します。「総てがなくなっていた」「何も彼もなくなっていた」とあるように喪失感が襲います。つまり序盤から回想にかけて、父親は描かれていないのです。
 彼の家庭は〈父権不在〉で、子供の倫理的な禁止を与える権力者はいません。子供に倫理観を植え付ける父親*2の役割は教師によって行なわれているのです。寺の住職へ養子に行くのですが、子供に甘いので、母親のイメージを持ちました。

近代と前近代

 また明治時代は西洋から科学が流入し、国を挙げて近代化が進められています。しかし価値観は一斉に変わるはずもありません。前近代的な発想と近代的な発想が入り混じっていました。例えば寺へ養子に入った犀星はおみくじで縁談を決める人を見て下記のような感想を抱きます。
 私はいつもあの「おくじ」一本によって人間の運命が決定される馬鹿馬鹿しさと、それを信じずにはいられない母親のかたよった心を気の毒に思っていた。
 これは近代の考えですが、もう一方で犀星は占いをしてもらってもいます。
「東京へ送った書き物がのるか(中略)見てください」と。
 言うまでもなく占いの結果と文学賞の当落とは関係ありません。もちろん、犀星自身が不安だったのもあるでしょうが、明治時代が近代的な思考と前近代的な思考が入り混じっているのだと解釈しました。
 またふじ子と動物園に行ったとき、「巨大な動物との対照上、時代錯誤的な、文明と野蛮とでもいうような感じを起こさせるのである(強調は有沢による)」と感想を抱いています。この文明と野蛮も近代と前近代を表しているとも言えるのではないでしょうか?
 

*1 例えば田山花袋の「蒲団」などが挙げられる(田山花袋「蒲団」田山花袋『蒲団・一兵卒』岩波書店)。
*2 欧米の精神分析をそのまま日本に応用していいのかは疑問の余地が残る。


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