リルケ詩集 (新潮文庫)

概要

 『ドゥイノの悲歌』『マルテの手記』などで有名なリルケ。20世紀の実存的不安を描き出し、ドイツ詩に大きな足跡を残した。キリスト教神学の救済と都市生活者の孤独とが融合している。
 本詩集は、初期の詩から、最晩年の詩を年代順に配列。特に墓へ刻まれた「薔薇よ おお 純粋な矛盾」という詩は有名である。

詩とは何だろう

 詩とは何だろう、という問いは意外と難しいです。

詩は韻律である

 一般的には韻律が関わっていると思われがちですし、それは近代以前の詩なら概ね合っています。日本でも五七五の音に合わせて、多くの俳句が読まれていますね。
 また、リルケも韻律に気を配っているものもあります。例えば豹(Der Panther)は下記の原文です。
Sein Blick ist vom Vorubergehn der Stabe
so mud geworden, das er nichts mehr halt.
Ihm ist, als ob es tausend Stabe gabe
und hinter tausend Staben keine Welt.
 綴りでも解るように、「abe」「lt」で揃えられていますね*1。
 しかし韻律だけが詩ではありません。例えば墓碑銘の詩は「Rose,oh reiner Widerspruch, Lust, Niemandes Schlaf zu sein unter soviel Lidern.」と全く韻を踏んでいないと解ります。
 それでは詩的であるとは一体何なのでしょうか。答えは異化作用という概念にあります。そしてこの異化作用で、海外の詩が翻訳でもある程度楽しめるのです。

海外の詩について

 異化作用とは、概念を再認識させるための技法。例えば「エレベーター」をエレベーターという言葉で現したら日常ですが、「閉塞感に満ちた、時おり浮遊感で気持ち悪くなるような空間」と現したら、その人が「エレベーター」をどのように感じているかが描けますよね。異化作用とは、このように日常の言葉から離れ、その人なりの見方を現すことで概念を再認識させる方法のこと。そしてこの独自性は、翻訳でも失われません。
 墓碑銘の詩では
薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ
このようにおびただしい瞼の奥で なにびとの眠りでもないという
と薔薇は純粋な矛盾だと述べています。リルケにとって薔薇は矛盾だと感じたので、このような詩を残しているのですが、リルケがどうしてこのように感じたのか解釈しなければなりません。
 例えば、薔薇は毎年美しく咲き誇る点では生を象徴しています。しかし一方、リルケは薔薇の棘が原因で急性白血病になっています。つまり死を意味するものでもあると考えられます。生を象徴する薔薇が同時にリルケ個人としては死を意味するわけですから、矛盾です。また死は漠然としか捉えていませんが、病気にならなければ具体的に認識できない、という点でも。。
 よろこびよ、というのは、苦しみから解放される喜びですが*2、その一方でもちろん死にたくない、という気持ちもあるでしょう。「このようにおびただしい瞼の奥で、なにびとの眠りでもないという」ですが、自分の死は他の誰でもないという点で「なにびとの眠りではない」のです。
 しかし、科学的な考えでは自分の死と他人の死は同じ心停止に過ぎません。ここでも自我と近代医学的な見地との矛盾が発生します。

孤独と神学

 さて、この『リルケ詩集』は年代順に配列されており、リルケの関心がどのように移っていったのかが解るようになっています。最初はキリスト教を主題にして詩を作っていました。
 特徴的なものが、「あなたを探し求める人々はみな」。
あなたを探し求める人々はみな あなたを試みます
そしてあなたを見出した人々は あなたを結びつけるのです
(中略)
私のために奇蹟をなさらないで下さい
世代から世代へと
ますます明らかなものとなる
あなたの法則を正しいとなさって下さい
 「解説」*3によれば、汎神論的な世界観とあり、確かに「あなたを試みます」という一節は科学実験を通して、自然を発見するという点と結びつきます。
 しかし、聖書の一節には、「神を試してはならない」*4という一節があり、それは奇蹟と結びついています*5。
「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。
 僕はこの「ルカによる福音書」を念頭に置いていると解釈しました。奇蹟よりも法則性を重視するというのは逆に当時、それだけ社会秩序が乱れていたのでしょう。
 しかし初めは、神との関係を描いていたものが、やがて都市生活者を描くようになっていきます。
「孤独」
孤独は雨のようなものだ
夕ぐれに向って 大海からのぼる
遠い はるかな平野から
孤独は天へのぼって いつもそこにいる
そして天から初めて街のうえに降る。
 まず雨は雲の水蒸気が飽和点に達して、地上に落ちる物理現象です。そして、空へ蒸発し、再び雲を形成していきます。孤独も晴れのときは雲と同じように意識しません。つまり「孤独は天へのぼって いつもそこにいる」のです。
 しかし孤独を感じたときに「街のうえに降る」のです。職場、地域、家庭の人間関係が分断されているから街の人は孤独なのでしょう*6。つまり地域の人は職場でどのような人間かは知りません。同じようなことがそれぞれ、家庭、地域にも当てはまります。つまり、自分を完璧に知ってもらうということはできません。これが孤独の原因です*7。

「大都会は 真実ではない」

 都市生活者を描いた詩は『時禱集』にも収められています。
「大都会は 真実ではない」
大都会は 真実ではない それは欺く
昼を 夜を 動物や 子供を。
大都会は沈黙で偽り 騒音や
従順な事物でいつわるのだ

あなたを生成する者よ めぐって動いている
ひろびろとした真実の出来事は何ひとつ
大都会では起こりません あなたの風の息吹きは
裏町に落ちて 別の旋回をします
その風の騒めきは行きつ戻りつしながら
乱され いらだたされ 激昂しています

それは花壇や並木道にも吹いてくるのです
 当時の状況は詳しくありませんが、19世紀末頃にはすでにガス灯がありました。もちろん、今のLEDに比べたら全く明るくありませんが、それでも「昼を 夜を」欺いていると言えるのではないでしょうか。つまり自然の営みに反しているので、「真実ではない」のです。
 そのように考えれば、第二連の意味も自ずから明らかになります。「あなたを生成するものよ」は字面通りに受け取れば風ですが、僕はもっと広く自然そのものと解釈しました。「めぐって動いている」は字面通りに解釈すると、風の巡りになりますが、自然だと捉えれば四季の移ろいや、24時間のサイクルとも解釈できるのです。

 そのような観点で見れば、「豹」は動物園の豹に仮託して、自然を描いているとも言えましょう。
「豹」
  パリ 植動園にて

通りすぎる格子のために
疲れた豹の目は もう何も見えない
彼には無数の格子があるようで
その背後に世界はないかと思われる

このうえなく小さい輪をえがいてまわる
豹のしなやかな 剛い足なみの 忍びゆく歩みは
そこに痺れて大きな意志が立っている
一つの中心を取り巻く舞踊のようだ

(後略)
 もちろん、第一連から都会の檻に都市生活者が閉じ込められているとも解釈ができます。しかしながら、都市生活者を豹に喩えるかと疑問、もっと言えば、都市生活者と豹のイメージがどれだけ重なるか疑問です。第二連の内容と都市生活者のイメージは重なりませんよね。
 おまけにDer Pantherなので定冠詞が付いていて、豹ならどれでもいいという意味ではありません。特定の豹なのです。
 これも都市生活者とは大きく印象が異なります。都市生活者は群衆であり、任意の誰かです。つまりもし都市生活者に仮託したいのなら、不定冠詞を用い、「Ein Panther」としたはずです*8。
 一方、自然そのものの比喩だと解釈すれば、この二つの疑問は解消されるでしょう。自然は逞しく、豹のようだが人間に檻へ閉じ込められています。そもそも動植物園という場所が自然を閉じ込めているのです。
 また自然(法則)がすべてで、この背後には世界がないという感覚も頷けましょう。

*1 ちなみに翻訳文と原文をがあれば音は解らなくとも意味だけはGoogleで解る。例えば「Sein」は「彼の」、「Blick」は「光景」、「ist」は英語の「is」、「Vorubergehn」は「通り過ぎた」、「Stabe」は「竿」「棒」、つまり格子という意味になる。
*2 この苦しみについては「来るがいい 最後の苦痛よ」に描かれている。
*3 富士川英郎「解説」(リルケ『リルケ詩集』新潮社)
*4 「ルカによる福音書」
*5 同上。
*6 ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール 他五篇』岩波書店)
*7 近代以前の農村だと生活、職場、家庭が同一だった。
*8 あくまでもドイツ語と英語が同じ感覚で定冠詞、不定冠詞を使い分けているという前提に立っている。