木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

あらすじ

 詩人のグレゴリーは無政府主義者でテロを計画していた。法と秩序を重んじる詩人、ガブリエル・サイムに、本当は無政府状態でないのではないかと疑われる。疑いを晴らすため、グレゴリーはサイムを隠れ家へと連れて行った。そこでサイムは刑事だと知ることとなる。
 やがてテロの会議が始まり、〈木曜〉のコードネームを持っていた幹部に空席ができたと告げられた。グレゴリーに決まるかと思いきや、サイムが推薦される……。

チェスタートンについて

 チェスタートンはブラウン神父が活躍する推理小説を多く書いています。そしてブラウン神父の面白さは冴えない神父と鋭い推理力もさることながら、一見、逆説的な論理でも論理的な解決を提示しているところにあります。
 チェスタートンは『木曜の男』の二年後、1910年にブラウン神父を書くのですが、『木曜の男』ですでに逆説が活かされています。議長こと〈日曜〉はグレゴリーに下記のアドバイスをします。
それじゃ無政府主義者のまねをすりゃいいじゃないか。そうしたら誰も君を危険人物なんて思わない。
 『木曜の男』はブラウン神父シリーズに比べて、思想的な色合いが強いです。確かにあらすじこそ推理小説を装っていますが、序盤のグレゴリーとサイムの会話など多分にチェスタートンの思想を反映しているように感じました。
 例えば、サイムは最終的に下記の通り語ります。
「僕にはいっさいのことがわかった」と彼は叫んだ。「なぜ、地上のものはすべて、他のものと戦わなければならないのか。なぜ、世界にあるどんな小さなものも、世界全体と戦わなければならないのか。なぜ一匹の蝿も、一本のたんぽぽも宇宙全体を相手にして、戦わなければならないのか。それは僕があの恐ろしい七日の会議で、たったひとりだったのと同じ理由からなのだ。
 七日の会議とは無政府主義者の幹部会。サイムは〈秩序〉を守る刑事として無政府主義者の幹部会にたった一人で立ち向かうのですが、このように社会の秩序が一人一人の苦闘でようやく手に入れたものだと解るのです。
 もちろんチェスタートンの言っていることはかなり壮大で、神学論争をも仄めかしているのですが、そうでなくとも歴史の積み重ね、歴史の長い営みで社会的な秩序を勝ち得たことは中学・高校と世界史を学んでいるなら解るのではないでしょうか。
 確かにウォルムズ教授の正体が解った辺りから結末が読めてしまいますが、チェスタートンにとってどうでも良かったのではないでしょうか。現に物語そのものの面白さは損なわれていません。そう、夢オチだという以外は!

秩序と無秩序

 さて、秩序と無秩序をもう少し詳しく見ていきましょう。世界は無秩序のように見えて、実は秩序だっていると解釈しました。そしてこれは心の構造とも一致します。
 どういうことか? この物語は夢だったのですが、夢は脈絡がないように見えても、独自の秩序で成立していると精神分析では考えます。そして夢こそ無意識の現れなのです。
 ふたりはテーブルごと床下に落ちていった。(中略)
 グレゴリーが先に立って、その低い地下道をサイムに案内していくと、(後略)
とあるように地下へ落ちるのですが、地下は日が当たらず、なおかつ、地上に比べて広大な空間が広がっていることから無意識の象徴として用いられるのです。
 また冒頭部でグレゴリーが無秩序を擁護しているのに対し、サイムは無秩序を秩序・規則を擁護しています。
僕は汽車が駅に入ってくるたびに、それが何か敵の包囲網を突破してきて、人間が無秩序に対してまたしても勝利を博したような気がしてならないんだ。
  これは、理性と無意識の戦いと似ています。理性と秩序、無意識と無秩序はそれぞれ関連付けられているのですが、思い出したくない出来事は理性に「検閲」*1されます。このようにして自我を守るとフロイトは考えました。
 そして刑事という職業も、犯罪者を逮捕することで、社会に不都合な人を隠していると言えましょう。特に〈日曜〉たち、無政府主義者は社会を脅かす存在として描かれており、その点で自我を不快な記憶から守る理性の役割と似ているのです。

*1 コトバンク「検閲


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