屍人荘の殺人 (創元推理文庫)

あらすじ

 ミステリ愛好会はたった二人の部員しかいない。エキセントリックな部長、明智恭介と葉村譲である。
 そんな二人へ映像研究会の「合宿」へ参加して欲しいと剣崎比留子から依頼される。脅迫状のような不審な手紙が届いたというのだ。毎年、短編映画を撮るのだが、実はガールズハントの舞台となっており、自殺者まで出していた。
 しかし、三人を待ち受けていたのは前代未聞の殺人だった……。

はじめに

 最初にどんな作品が好きなのかを書いておくことは、『屍人荘の殺人』の感想を書くに当たって害にはならないでしょう。

古典文学が好き

 最近のエンターテイメント作家はつまらない、というわけではなく突き詰めていけば相対的な好みの問題。現に三浦しをんなども読みますし。
 強いて言えば下記の理由が挙げられます。
仝電喫験悗覆蕾鬚蕕覆とも文学者の解説書を手がかりに、読解できる。しかし、現代作家だと解説書が少ない。
∩郎遒謀たり参考にしても、著作権が切れていれば問題にならない。むしろ教養だと解釈されることも多い
図書館での予約しても競合する可能性が低い。
な験愡砲撚礎佑あるからこそ読み継がれている。
タ靴靴ず酩覆聾電喫験悗両紊棒り立っている。
 とりわけイ砲弔い討録簍小説というジャンルの特殊性に関わっていると言えるでしょう。『屍人荘の殺人』において様々な推理小説への言及がなされています。「ヴァン・ダインや都筑道夫の説明を位置から説明する羽目になった」、「国名シリーズはクイーン、館シリーズは綾辻行人、では花そうシリーズは?」などの台詞からも分かるように、この精神は『屍人荘の殺人』でも発揮されています。
 恐らくこれには下記の理由があるのではないでしょうか。
/簍小説黎明期に於いて、ドイルがガボリオとポーに言及していること*1。
読者との知恵比べであること。つまり、既存の作品を踏まえながら読み、書いているという意識の現れ。

『屍人荘の殺人』を読むきっかけ

 さて、古典が好きなのにどのような経緯で『屍人荘の殺人』を読むに至ったのでしょうか。実はツイッターや読書メーターなどで名前と噂だけは聞いていました。
 興味を持ちつつも上記の理由から中々手が出なかったのです。しかし読書メーターの新年会の交換本で当たりました。加えて、会社の昼休みでは軽めの本を選んでおり、『屍人荘の殺人』を読むことにしたのです。

第一印象

 面白い。

推理小説として

 推理小説ではゾンビという特異な設定を持ち出すとなると、どのような設定で発動するのかを包み隠さず公開しなければなりません。しかし、同時にこれは解かれる危険性が増えることになります。この匙加減を間違うと、後出しの誹りを受けたり、犯人の察しが簡単についてしまうでしょう。
 そしてなぜ二回殺したのかというホワイダニット以外は伏線が張られているのです*2。語り手が情報を隠している点は賛否両論あるでしょうが、このような作例はすでに一般化しており、(僕含め)気が付かない読者が「負け」なのです。

ホラーとして

 途中からゾンビが出てくることもあり、ホラーの要素もあります。しかし、恐怖感どころか緊迫感も伝わってきません。いちゃついてる場合か! 呑気にタバコを吸ってる場合か!
 もっとも、鮎川哲也賞が本格推理小説の賞だと考えると、今村昌弘自身、特異な状況下を使って犯罪を行なうことに力点を置きたかったのかもしれません。

文体について

 緊迫感がない理由は登場人物の行動もありますが、文体の影響もあります。ライトノベルのような会話主体の文体でマンガ的。よく言えば読みやすいのですが、重厚感をそこないます。西尾維新あたりからこのような文体が増えてきたような気がします。古典文学云々とも繋がってきますが突き詰めれば、好みの問題。
 また〈語り手〉が今時の大学生だと考えれば、合っていなくもありません。しかし、
ミス研の部員たちが読んでいたのは、最近流行りの、キャラクターの個性を全面に出し、恋愛や青春小説の要素をふんだんに盛り込んだライトミステリと呼ばれる作品群だ。いや、あれはあれでちゃんとミステリに分類されるのだろう。(中略)だが古典作品や本格推理と呼ばれる作品を愛するものとしてはそれを知らずして研究会と名乗ってほしくないのが本音だった。
 とあるようにライトミステリを批判的に捉えており、またヴァン・ダインや都筑道夫などを愛読していることを踏まえると、〈語り手〉の人物像と文体の間に乖離が見られます。
 加えて、震災に触れている箇所があるため、にこの点でも文体の乖離が気になりました。

ゾンビは何の比喩か

 この『屍人荘の殺人』を違った角度で読むと、色々なことが解釈できます。論点の一つ目はゾンビ。もちろん細菌によって、人間がゾンビ化することなどありえないのですが、このゾンビを比喩だと捉えることで新しい解釈が生まれます。そして重本の口からは「人々はゾンビに自分の自我やエゴを投影するんだよ」と述べているように、解釈へのヒントを提示しています。
 そして、例として、下記の解釈が提示されます。
人の愛情そのものが、ゾンビと同じだ。見ろよあいつらを。自分が病気にかかってるなんて気づいちゃいない。恋愛感情も同じさ。全世界の人間がそれに感染していて、楽しそうに踊ってる。俺だけがゾンビになりきれないんだよ。俺は素面のまま、あいつらの真似をしようとしている。表情を真似て、行動を真似て、皆と同じですよって顔で肉を貪り合って、そのうち耐えきれずに隣にいるゾンビを打ちのめして逃げ出すんだ。
 またこの立浪の台詞の少し前では〈語り手〉の葉村が下記のように回想しています。
中学の時に、震災に遭ったんです。そのときもこんなふうに建物の上から、現実感のない景色を見下ろしていました。もう全部駄目かなって思いながら。あの感覚と似ていますよ。なんていうか、恐怖はあるんです。それに皆を助けなきゃって。でも慌てようにも騒ごうにも、圧倒的な力の前ではどうしようもない。
 上記の台詞などで震災の記憶が度々語られます。これについて直接的な固有名の言及はないものの、東日本大震災を念頭に置いていたと解釈できるでしょう。発表年も根拠の一つですが、津波から逃れたことが決定的です。
 そのような目で見れば、重本の科学批判には別の意味を帯びてきます。
今の医学や生物学を見ていればわかるだろ。人工生殖や遺伝子操作、クローン動物の作成……人は倫理を犯しつつある。その過程でゾンビのような副産物が生み出されても不思議じゃないさ。学者は技術自体に問題はないと言うだろう。正しく規制すれば問題はないと。けれどその扱いを託すのに人間ほど当てにならない生き物はいないんじゃないか。自惚れの代償がこれだと、僕は思っている。
 特に東日本大震災では原発の放射能汚染が取り沙汰され、科学をいかに制御するかが課題になりました。細菌についての言及ですが放射能や原子力発電に置き換えれば東日本大震災の問題になるでしょう。

偏見の拡散

 ゾンビは知性が低く、皆一様に同じ動きをすることが特徴です。僕はこれらの特徴から、デマに踊らされる人々を現していると解釈しました。またこの解釈に従えば感染は偏見の拡散とも捉えることができます。
 そして集団で他人を食い散らかすこと。これは他人を犠牲にすることにつながります。具体的には放射能などへの偏見で自殺などに追い込んだ人を比喩的に現しているのだと解釈しました。偏見や差別をしている人たちはその自覚がありません。知らず知らずに感染して、他人を「食べて」いるのです。

登場人物が無個性な理由

 『屍人荘の殺人』では登場人物たちが無個性です。強いて言えば、剣崎、葉村、立浪、犯人の内面が辛うじて描かれているだけ。明智は行動こそエキセントリックですが、内面の描写がありません。つまり記号的で、交換可能な登場人物なのです。古典推理小説ではこのような人物造形が非常に多く見られ、批判されてきました*3。
 これを単に作者の力量不足、あるいは無自覚な継承と解釈していいのでしょうか。一旦、作者の今村昌弘と切り離して考えることが重要です。そうすればデビュー作だから力量不足だろうという考えに取り憑かれないで済むでしょう。

〈語り手〉との関係

 〈語り手〉の葉村は上述の引用からも解るように被災時の現実感喪失と重ねています。全編が葉村の一人称視点で語られるため、〈語り手〉が現実感を喪失していることの現れだとも解釈できるでしょう。
 この解釈で重要なのは終始、震災の記憶が葉村の心に影を落としていることです。もちろん本格推理小説の特性上、葉村が死者の荷物を漁っていたことはあえて語られなかったということもできるでしょう。しかし、記憶の抑圧ともみなせます。
 この解釈では、妹から入学祝いに贈られた腕時計がなくなるのも実に象徴的です。時間を現すことから一般的に時間の象徴ですが、震災の時刻と入学の時間、二つの時間を葉村は時計から連想していたことは想像に難くないでしょう。
 そのような時計の紛失は、心の時計が止まること、もっと一般的な言い方をすれば震災の傷から立ち直れないことを示しているとも考えられます。

大量死

 また震災の死者は数字としてしか報じられません。例えば東日本大震災は1万5786人のうち、90%が水死だった等。まるで内面のない無個性・無機質な数字。
 この小説においても最終感染者数が報告されています。
 五千人以上の犠牲者が出た。だが五千人に過ぎないともいえる。俺の経験したあの大地震に比べればその数は少ない。
 精々、被災者が震災時にどう行動したかが取り沙汰されるだけ。そう、『屍人荘の殺人』と同じく、報道に於いては無個性・無機質な登場人物に変わっているのです。
 大量死の経験が本格推理小説の土壌になったと笠井潔は述べており、第二次世界大戦を挙げているます。数字でしか現れない大量死に抗い、フィクションの世界で固有の死を扱うことで人間一人一人の死を復権させたと笠井は述べました*4。21世紀日本の大量死といえば東日本大震災に他なりません。そして、犯人の物語、犯人の内面をあばいている以上、笠井の指摘は『屍人荘の殺人』でも生きてくるのです。

*1 コナン・ドイル『緋色の研究』(新潮社)
*2 もしかしたら伏線を見落としている可能性もある。
*3 例えばレイモンド・チャンドラーや松本清張など
*4 笠井潔『探偵小説と二○世紀精神』(東京創元社)


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