ドイツ表現主義の誕生

概要

 一九一二年、フランツ・マルクやカンディンスキーらによって雑誌、『青騎士』が創刊された。一九〇五年に結成された『橋』と並んで、ドイツ表現主義の代表的な雑誌である。このドイツ表現主義は近代の終焉、つまり道徳の崩壊とともに訪れた。
 そして初めは絵画だけだったが、『嵐』などの文学作品にも波及していく……。

はじめに

 僕は絵画についてあまり詳しくありません。『ドイツ表現主義の誕生』でも何人かの画家に触れられているのですが、その中で知っているのはカンディンスキーだけでした。文学もハインリヒ・マンを名前だけ知っている程度。
 そもそもドイツ表現主義を絵画のグループだと知らずに、カフカのつながりで読んだ辺りからも、いかに『ドイツ表現主義の誕生』の感想を書くのに適していないかがお解りになるでしょう。そこを加味してご笑覧いただければ幸いです。
 基本的に解りやすく解説してあったのですが、引用の際に翻訳者の名前だけで、具体的な署名、出版社名が掲載していないのが不親切です。翻訳者の名前と原著者の名前で調べれば解るのですが……。

前史

 最初に表現主義のコンセプトを確認しましょう。カンディンスキーらを招いてシュトゥルム展を開催した美術家のヴァンデンは表現主義について下記のように語っています。
 画家は自分の内奥の感覚でみたものを書くのだ。すなわち、自分の本質の表現である。画家にとってうつろうものはすべて比喩にすぎない。画家は生を演技する。外部からのあらゆる印象は内部からの表現となる。
 表現主義に於いて重要な美術史家、ヴォリンガーは「抽象衝動と感情移入」*1という論文で古代エジプト美術とバロック建築に言及しています。

エジプト

 今でも台風の影響等で自然の猛威を感じますが、エジプトに限らず古代の人々は現代人以上に意味が解らなかったことでしょう。同時に自然現象は古代人にとって最ま身近で具体的なものでした。特にエジプトではナイル川がたびたび氾濫しました。
 つまり自然は具体的かつ意味不明なものとして映っていたのです。自然現象が心の平穏を乱していたのです。この結果、心の平穏を取り戻すために古代エジプト美術が生まれたのではないかとヴォリンガーは指摘しました。自然は偶然性、可変性に充ちていますが、その中に永遠性を見つけ、保存しておきたい、という心理が古代エジプトの美術には現れているのだろうとヴォリンガーは推測しました。そしてこの心理を「抽象衝動」と名付けたのです。
 ピカソやブラックはキュビズムなどの抽象的な作品を描いていますが、表現の目的が根本的に違うと解ります。現実の物体は立体ですが、絵画は平面なので、立体ではなくなります。そこで様々な方向から描いて立体であることを示そうとしたのです。つまり、キュビズムでは現実の再現に主眼が置かれているのに対し、古代エジプトの絵画ではあくまでも不安の解消を重視しているのです。
 ちなみにカウンセラーの第一人者、河合隼雄は芸術活動は心を癒やす働きがあると『昔話の深層』で述べています*2。河合隼雄が分析しているのは、精神病患者が書いた物語ですが、芸術作品という点では美術作品にも適用できるでしょう。事実、谷川俊太郎の対談、『魂にメスはいらない』*3では箱庭療法に触れています*2。箱庭の中に人形などを配置して、一つの場面を作り、そこから患者の精神状態を読み解いていきます。これも造形芸術だと言えるでしょう。
 また、心の平安を維持するという類似点もありますが、河合隼雄はユング心理学を基盤としています。ユングは各地の神話を研究し、人類には普遍的なイメージがあると考えました。つまり、ユング心理学の立場に立てばエジプトとドイツでも普遍的なイメージがあるということになります。
 加えて、ヨーロッパ文化は間接的にエジプトの影響を受けています。ナポレオンがロゼッタストーンを持ち帰る以前から。プラトンはギリシャ神話だけでなく、エジプト神話にまで言及しています*4。

バロック

 さて、ヴォリンガーはバロック時代の芸術にも触れています。バロック様式は「彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴と」*5しており、例えばサン・ピエトロ大聖堂、セント・ポール大聖堂などが挙げられます*6。
 ヴォリンガーによれば、バロックは感覚を重視していると言います。早崎守俊はヴォリンガーを引用しながら「このバロック精神にみられた感覚主義的精神化という飛躍力はその後、数世紀のあいだに大きく後退し、外へ伸びる力を次第に喪失し、内面へと向かい、芸術作品は個人的感覚主義の表明していった」と解説しています。
 時系列を追ったものだと解釈すれば、確かに写実主義が台頭し、「大きく後退し」ました。しかし写実主義の絵画は写真の発明で廃れていきます。写真にまさる写実性はないのですから、絵画は方針転換を余儀なくされたのでしょう。
 その結果、生まれたのが印象派です。「写真に対して、主観というオルタナティブを自覚的に提出したのは、印象派が最初であった」*7。カミーユ・ピサロなどはまだ写実性に縛られていますが、ゴッホなどは原色をふんだんに使っています。もちろん、統合失調症患者の絵画は原色を多用する傾向にあるのですが*8、美術に於いてはその作風が個性的だと評価されたのです。
 印象主義はImpressionismと表現主義はExpressionism。原文を見れば対義語だと解ります。日本語でも鋳型を圧すことをプレスすると言いますが、Impressionismを分解すれば中へ押す考えとなり、風景などを心へ押し付けようと考えていることが解るでしょう。まるで鋳型を押すように風景を内面へ写し取っているのです。
 一方、Expressionismは外へ押す考えという意味。心の内を外へ押し出そうとしていることが解るでしょう。

絶対的な価値観の崩壊

 つまり表現主義を生み出したのはー匆馼坩足⊆娘村腟舛らの解放が挙げられると早崎守俊は指摘しています。
 それでは20世紀初頭に於ける社会不安とはどのようなものだったのでしょうか。それは一言で言えば「神の死」であり、絶対的な価値観の崩壊です。1882年、ニーチェはこの社会不安を感じ取り、『悦ばしき知識』で寓話的に語りました*9。この絶対的な価値観の崩壊を、近代の終焉と早崎守俊は呼んでいます。

絵画

 さて、近代の終焉と一口に言っても、ある事象を境に急変するのではありません。確かにニーチェの『悦ばしき知識』を近代の終焉ともみることができるでしょうが、理性を突き詰めたはずの科学が化学兵器を作り蛮行に手を貸してしまったという点で第一次世界大戦を近代の終焉と捉えることができます。ニーチェの個人的な印象か社会現象の違いかと捉えることもできるでしょうが緩やかに進行していくので、ある年を境に近代の終焉だと言うことはできないのです。
 しかし近代の終焉を先取りしていた画家としてムンクが挙げられています。『叫び』として知られていますが、絵の中の人物が叫んでいるのではありません。現に「一つの叫びが自然を貫いて通り抜けるのを感じた」とムンクは書いているのです。
 この叫びについて、早崎守俊は「ある人たちが感じとる予感、その予感への恐れ」、「たしかであったものがにわかになくなってしまったという予感」だと解釈しています。精神的に敏感な人はこのような時代の空気をいち早く感じ取るのでしょうか。
 現代に照らし合わせると鬱病患者の増加は個人的な問題ではなく、長時間労働などの社会のありようを問うています。

「橋」

 近代の終焉が徐々に進むと言っても、論評である以上、基点は必要となります。そしてこの基点をキルヒナーたちが芸術家集団「橋」を結成した一九○五年に置いています。この「橋」はキルヒナーの他にも重要な画家を排出しました。建築学科同士の大学生が創設したサークルです。
 この「橋」は一九一三年に解散。わずか八年という短命なサークルでしたが、建築学科は当然、現実に実現可能なデザインをしなければなりません。そのことに飽きて、自由な形を求めました。またこの頃はゴッホやゴーギャンなどの前衛的な作品が紹介されるようになっていました。後期印象派だけでなくアンリ・マティス、ルオーなどの野獣派などの画家も。
 ゴッホにしろマティスにしろ独自の色彩感覚を持っており、キルヒナーたちに影響を与えました。

青騎士

 さて、青騎士も表現主義を語る上で重要です。夢見がちな思春期の男子中高生が考えそうで微笑ましさすら覚える名前ですが、ドイツ語のder Blaue Reiterにはそのような含みは全くありません。derは定冠詞、Blaueは「青」、Reiterは「馬などに乗っている人」という意味になります。つまり英語のKnightsの意味ではありません。
 原文は確かに騎士の意味はありませんが、実際、カンディンスキーはしばしば中世の騎士を描いていました。またフランツ・マルクが青い馬の絵を描いていたことやマルクもカンディンスキーも青が好きだったことに由来しています。
 彼らは展覧会で形式にこだわらず幅広く絵を展示しました。ピカソやブラックなどがスタイルを確立しつつあったキュビズム、マティスなどの野獣派、「橋」のキルヒナー、イタリアの未来派……。前衛芸術であれば国境や民族を越え、紹介したのです。

未来派

 さて、未来派は機械と人間とが一体になっていくという未来像を提示しています。「人間を機械の中に溶解させ、機械文明の進展とともに運動し、成長する物体」だと考えました。
 一見すると素晴らしく聞こえますが、人間を物体としか見做していない点、ファシズムを先取りしていた点などを踏まえると決して褒められたものではありません。ファシズムは後から見ているから間違っているのだと弁明できるかもしれませんが、思考することを人間と物体の境と考えた場合、人間を物体とみなす点は矛盾しています。
 未来派も「人間を物体」と考えていること自体が独自の考えを持っているということになり、物体だと考えきれていないことになります。もちろん、<現状は>考えを持っているが、<いずれ>思考を放棄すると反論もできるでしょう。
 いずれにせよ人間を機械と見做しましたが、この考え自体は古いものではありません。ド・ラ・メトリが、18世紀に唱えています*11。しかし自動車などの発明で機械的な世界観が現実味をおびてきたのでしょう。このような世界観はチャップリンのモダンタイムズにもつながってきますが、運動を重視した作品を多く残しました。
 また早崎守俊は紹介していませんが、マルセル・デュシャンも未来派に触発されて「階段を降りる裸体」という絵を描いています。後の「自転車の車輪」という作品につながってくるのですが、これはスツールに自転車の車輪を逆さに取り付けただけ。もはや自転車でも椅子でもありませんが、一体何かと聞かれると、少し考えた後「……オブジェ?」と答えるでしょう。そう、これはオブジェなのです! ちなみに便器を横に倒してサインしただけの「オブジェ」を作っています。タイトルは「泉」。
 泉では芸術作品と既製品の境目を曖昧にしてきました。しかし「自転車の車輪」や「階段を下りる裸体」は運動する物体というコンセプトに基づいて作られているのです。

文学

 さて、ドイツ表現主義は文学にも影響を与えました。例えばシュトラムは未来派に影響されて、動詞だけの詩を作りました。この詩は韻律を味わうために原文が載っているのですが、ドイツ語が解らないので韻律が楽しめませんでした。

即物的な死

 先述したように不安を表現することが表現主義の特徴なのですが、これは第一次大戦中の詩でも同じこと。例えばゴットフリート・ベンの詩『循環』は人の死が即物的に描かれています。
知った人もなく死んだ
娼婦のたったひとつの臼歯には金が充填されていた
ほかはひそかに言い合わしたように
抜け落ちていた。
たったひとつの歯を死体処理の雑夫役は抜き取って
質に入れ、ダンスに行った(後略)
 これは一見写実的に見えますが、雑夫役にとって死体はただの物、もっと言えば、資源なのです。この点、芥川龍之介の「羅生門」*12で老婆が死体から髪を抜く場面と共通していると言えましょう。しかし「丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である」と書いてあることから解るように「羅生門」の老婆は生活のためです。
「現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往いんだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 自己弁護とは言え、生活苦から冒涜的な行為をせざるを得ない老婆にも、また死者にも同情の余地があります。
 一方、死体処理の雑夫は遊ぶために死体から金歯を抜いているのです。死体をもてあそぶことがどうして禁忌なのかと問われれば返答に急せざるを得ませんが、少なくとも死者への冒涜でしょう。そしてこれは『循環』というタイトルが示すように、この死体処理の雑夫役もまた、同じ目に遭うと示唆されているのです。

実存主義

 もう一つ、短編小説『脳』に注目しました。この短編小説はレンネという医師がある日、唐突にショックを覚えます。
 それはひどいショックであった。医長が旅立てば、もしわたしがいなくてもその代りにだれかが医長代理として来るだろう。そしてこのおなじ時間にベッドから起きて、パンを口に運ぶにちがいない。ぼんやりと考えながら食べるだろう。すると朝食だけがひとの口のまわりを活躍しているってわけだ。
 全文を読んだわけではないのですが、早崎守俊の解説を読む限りでは物と人の転倒が窺えます。つまり「彼はたしかに存在しているはずなのだが生きては」おらず、「生きているのはむしろ朝食のほう」なのです。マルクスを持ち出すまでもなく、多くの資本主義では商品が主役なのであり*13、労働者は疎外されていきます。
 レンネは「自分はなんのためにあるのだろう」と問いかけているのであり、これはまさに実存主義の主題です*14。

*1 ヴォリンゲル『抽象と感情移入』(岩波書店)
*2 河合隼雄『昔話の深層』(講談社)
*3 河合隼雄、谷川俊太郎『魂にメスはいらない』(講談社)
*4 プラトン『パイドロス』(岩波書店)
*5 Wikipedia「バロック建築
*6 同上
*7 Wikipedia「印象派
*8 例えばルイス・ウェインなどが挙げられる(【美術解説】ルイス・ウェイン「統合失調者になった猫画家」Artpedia)
*9 フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』(筑摩書房)。なお『ツァラトゥストラはかく語りき』にも出てくるが、『悦ばしき知識』のほうが早い。
*10 Wikipedia「青騎士
*11 ド・ラ・メトリ『人間機械論』(岩波書店)
*12 芥川龍之介「羅生門」(青空文庫)
*13 カール・マルクス『〈世界の大思想18〉資本論1』(河出書房)
*14 『脳』とサルトルの『嘔吐』は構成に類似が見られる(サルトル『嘔吐』人文書院)。