中世イスラムの政治思想 (1971年)

概要

 イスラム世界でコーランをもとに法律が作られるなど、宗教が政治に今でも強く反映されている。政教一致のイスラムにも政治思想はもちろんあった。古代ギリシャの影響を強く受けているが、具体的にどのようなものだったのだろうか。
 アル・ファーラビーなど五人の政治哲学者を軸に据えながら、その理論を紹介していく。

はじめに

 僕は今、同人関係の依頼を受けて、ある長編小説を書いているのですが、イスラム国家をモデルにしています。これを機にイスラム教、イスラム哲学も本格的に勉強しようと思い、図書館から借りて読んでいるのです。
 イスラム教は日本で馴染みがないかもしれませんが、西洋の社会では古くから馴染みがありました。古いところでは十二世紀はイスラムの哲学者のイブン=ルシュドの注釈を使って、アリストテレスを勉強していました*1。またハイデガーもイブン=スィーナー(アヴィケンナ)に言及しています*2。また、ゲーテはイランの詩人、ハーフェズに影響を受けて『西東詩集』を書きました*3。
 このように西洋とは馴染みが深く、研究も進んでいるのですが、残念ながら日本とは馴染みがありません。イブン・スィーナーなどビッグネームの一次文献さえあまり邦訳されていないのが現状。
 もちろん僕のようなニーズはないのでしょうけど、日本でもイスラム教徒が増えてきたので、理解するためにもイスラム哲学・イスラム文学の翻訳が望まれると思うんですがねぇ。
 なお、イブン・スィーナーは西洋世界でアヴィケンナ、あるいはアヴィセンナとして入っているが、ここでは原語を尊重しました。つまり、イブン・スィーナー、イブン・ルシュドなどと書いています。

イスラムの政治とは

 さて、国が変われば、政治形態も当然変わります。
 まず、ほとんどの西欧的な社会では憲法をもとに国家を運営しています。ここで西欧的というのは、地理的な問題ではありません。西欧の国家を規範とした社会を指しています。例えば日本では明治以降、ドイツやフランスに国費留学を果たしましたし、戦後もアメリカ指導の元憲法を整えました。憲法、政教分離が考えそのものが西洋の考えである以上は、西洋的であると言わざるを得ません*4。

信仰と宗教

 しかし例えば一部のイスラム国家ではコーランをもとに政教一致の政策が現代でも取られています。例えばサウジアラビア。当然、中世も宗教法(シャーリア)やマホメットの言行録、ハディースに基づいて政治が行なわれていました。その一方で、自然哲学の知識が難民からもたらされました。
 たとえばネストリウス派。彼らは古代ギリシア哲学の知識を持っていたため、図書館「知恵の館」に招かれます。この知恵の館ですが、単なる図書館ではなく研究施設でした*5。彼らがアリストテレス、プラトン、プロティノスなどをギリシャ語からアラビア語へ翻訳していきます。
 哲学だけではなくユークリッド、ピタゴラスなどの数学、論理学などの知識も入ります。その結果、推論能力が培われ、ムゥタズィラ派はコーランを合理的に解釈しようとしました。哲学用語で合理的と言ったときには、「効率的」ではありません。理性に合うという意味です。一方、信仰の問題は理性でありません。中世ではイスラムに限らず信仰と理性の問題が大きく関わっているのです。
アリストテレスの定式化によると人間はゾーオン・ポリティコン、ポリス的動物である。それゆえ、この問題は神により啓示された法と人間のつくった法という具体的な形をとることになった。
 ポリス的人間はアリストテレスの『政治学』に登場する言葉で、「人間はよりよく生きようとして共同体を作りながら、自分の完成を目指す」という意味です。社会的動物だと言い換えても構わないかもしれません。猿などもある意味で社会的動物ですが、よりよく生きるため、自分の成長などとは考えていないでしょう。人間が(アリストテレスのいう)社会的動物というとき、自分たちでルールを作るなどのより良く生きるための工夫が見られなければなりません。
 イスラム教の場合、コーランやハディースなどが天啓で、これらをもとに具体的な宗教法が作られます。

政教一致

 一部のイスラム教国では政教分離がされていないと書きましたが、これは「精神的なものと、世俗的なものという二種の剣」がないことに大きく関わっています。確かにカリフと法王、国王とアミール、司祭とイマームというような対応関係は見られるのですが、「カリフはアミールに世俗的権威を委任し、アミールは実際の権力を行使はするが、カリフの精神的権威を認めてい」ます。つまり「理論的には、カリフとアミールの職務は〔委任されているだけで〕同一人物に統一されている」と解釈されているのです。
 もともとイスラムの共同体ウンマはマホメットの弟子たちから生まれました。アラビア語でウンマというとき、本来は宗教的共同体の意味であり、必ずしもイスラム教徒とは限りません。例えばユダヤ人の共同体もウンマと言いました。
 マホメットはこの「共同体」という言葉を宗教的、社会的、政治的意味で用い、イスラム教徒、ユダヤ人、異教徒等のそのすべての構成員メンバーに特権を与えると同時にある義務を課している。特権の中には相互の安全保障(ズィンマ)また、義務の中には共通の敵に対する共同の戦い(ジハード)がある。
 これはちょうど、鎌倉政権の御恩と奉公の関係に似ているかもしれません。御恩と言うと、戦いで略奪した土地を分け与えることだけを思い浮かべるかもしれませんが、新恩給与と言います。さらに言えば土地だけでなく、称号・役職なども含まれます。一方、鎌倉政権は既存の土地所有も保護しました*7。これを本領安堵といい、イスラームのズィンマと対応していると思うのです。
 しかしズィンマは非イスラム教徒に税金が高い仕組み。もちろん免税目的で改宗しようとしましたが、イスラム教徒は自分たちの収益が減るから改宗しないように説得していました*8。

イスラーム法学者たちとカリフ論

 さて、政治哲学者の前にイスラーム法学者たちを紹介していきます。現在でもシーア派とスンナ派と報道などで耳にするでしょうが、これは宗教指導者、イマームの決め方です。シーア派はカリフがイマームをマホメットの血筋から選び、スンナ派は学者の合意で決めます*9。ちなみに、この合意をイジュマーと言い、スンナ派では法律運用の根拠となっているのです。したがってアル・マーワルディーの注26の下記のくだりはシーア派の記述です。
 カリフの神権的性格はカリフが自分の後継者を指名すべきであることを要求する。というのはそのいかなる人間的権威も神によってその職務に定められた者を妨げることはできないと考えている。
 また若干の補足するなら、スンナ派の教義を確立させたのはアル=ガザーリーですが、西暦1058年〜1111年です。一方、アル・マーワルディーは西暦974年〜1058年。もちろん漸進的に教義を確立させていったので、アル・マーワルディーはその過程の哲学者です。現にガザーリーよりもはるか昔のウマイヤ朝もアッバース朝もスンナ派の王朝です。

アル・マーワルディー

 アル・マーワルディーの『政府の制度』はアミールとカリフの権威の範囲を定め、アミールたちに対してカリフの権威を主張するために書きました。彼の頃、アッバス朝は衰退しており、カリフ制度を立て直す目的があったのです*10。そのため「信条を正しく解釈できなければならないし、監禁、あるいは暴力で侵すべからざるものでなければならない」と強調するなど、イマームの条件を再度考察しました。これには歴代のカリフが相次いで不審死を遂げていることもあるのでしょう*11。
 アミールたちは実際の行政権を手に入れていたにもかかわらず、彼らは「アッバス朝カリフの精神的(中略)権威を認め(中略)かれとの条約を結」んでいます。反逆あるいは簒奪の汚名を蒙らないようにしなければならなかったのであり、「このような方法によってのみかれの統率者のもとで信徒共同体の統一が保たれ得たので」す。
 アル・マーワルディーは宗教的指導者、イマーム職の必要をコーランの上から立証していきます。したがって、「プラトン、アリストテレス、その新プラトン派の後継者や注釈者たちに影響された(中略)哲学者に対し反対するようになっていき」ます。もちろん中東とギリシャの対立もありますが、ムウタズィラ派にも反発しているので、理性と啓示だと考えるのが妥当でしょう。

アル・ガザーリー

 さて、先述したように、アル=ガザーリーは法学者として大学で教鞭をとっていましたが、健康上の理由から引退。スーフィズムに傾倒します。スーフィズムとは山などにこもって、苦行を積み、神と合一になる思想です。神秘主義とも訳されますが、日本の修験道と似ているのかもしれません。
 ガザーリーはギリシャ哲学(より厳密に言えばイブン・シーナー経由のギリシャ哲学)に反対し、『哲学者の矛盾』*12を書きました。しかしイブン・ルシュドが『矛盾の矛盾』を書いて、再反論します。残念ながら、多くの文献で紹介されている割に完訳がありません。
 さて、アル・マーワルディーの関係で言えば、アル・ガザーリーはイマームの資格であるイマーマ*13について考察しています。アル・ガザーリーもまたその根拠を理性ではなく宗教法に求めています。この目的はアッバース朝のカリフ、アル・ムスタズヒルの正統性を確立することにあり、イマーマの問題を政治学の領域から除去したがっていたのです。この時代、実際的な権力はセルジューク朝に握られており、息子のムスタルシドか対抗するために軍備を増強しています*14。
 アル・ガザーリーはアル・マーワルディーの理論を修正しながらイマームに必要な能力について述べています。
 聖戦を行なう能力は、武勇と勇気(ナジュダ・ワ・シャジャーア)を備えていることがその条件とされている。それは常にカリフの最も優れた義務の一つと考えられてきた。しかし、アル・ガザーリーは若いカリフと権力のあるセルジュク〔朝〕の君主に直面して、カリフに必要なナジュダを保証するセルジュク朝の君主たちの武力と権力(中略)を指摘することによってアル・ムスタズヒルにそれが欠けていることをごまかしている。かれはセルジュク朝の君主たちを(中略)カリフの忠実な召使として考えたがっている。
 カリフには武勇がなくても召使いに武勇があれば、カリフにも武勇があると論じているのですが、この議論に於いては詭弁です。召使いであるセルジューク朝の君主をカリフにするべきではないかと論じているのですから。
 彼は『宗教諸学の甦り』で無政府状態よりもクーデター政権のほうがましだと述べています。
 政府の機能はかれ〔カリフ〕に忠誠をつくす義務があるスルタンたちによって遂行される。政府は軍事力を背景としている者たちの手に握られている。かれ〔アル・ガザーリー〕の定義では軍事力の行使者が忠誠を誓うものである。カリフの権威がかように承認されているものである限り、野蛮な軍事力の上にきずかれたこのような政府が非合法と断定するならば他に選ぶ道は無秩序と無法状態であろう。
 このことからも解るように「カリフの承認が得られれば」という条件付きです。カリフが精神的な指導者であるからなのでしょうが、法律を遵守して生まれた暴君か、無法地帯を取るか問われた場合、前者に心がなびくのも頷けるでしょう。
 スルタンについても補足をします。最初はカリフを守るためにスルタンを配置したのですが、後代になって、スルタンが力を持ってくるようになります。特にオスマン・トルコ帝国ではスルタンを兼任するという自体にまでなりました。ちょうど、鎌倉時代に朝廷と征夷大将軍の権力が逆転したのと似たような構図が起きたのです。

イブン・ジャマーア

 ガザーリーと同じ学派にイブン・ジャマーアがいますが、彼もまたイマームの必要性、イマームの義務などを論じています。
 コーランの詩句を引用し、イマーマの必要性を正統化しています。そして「礼拝、喜捨、神の意にかなうことを命令すること、神の意にそむくことを禁じること」ができるような国王が神の指示を取り付けられるというのです。
 またイマームの諸義務は
・宗教の擁護
・違反者をしりぞけること
・権利を侵害されたものに保証をしてあげること
・権利を確立すること
 などがあげられています。宗教を広い意味で倫理・道徳と考えれば、現代の政治にも少なからず当てはまると言えるでしょう。イブン・ジャマーアはイマーマの制度も神の恩寵の行為だと考えています。
 また「スルタンによる四十年の暴君は、その臣民を一時間見捨てるよりもましだ」と言い、これはアル・ガザーリーの暴君容認の原則を確立しています。さらには国事のすべてに精力を割けないと述べ、大臣職の制度を是認しています。
 イブン・ジャマーアはイマームについては宗教的な側面を強調していますが、「カリフの実際的政治的権力喪失の身代わりとして〔後継者、〕イマームの高貴な地位を認めるように主張し」たのではないかと述べているのです。

イブン・タイミーヤ

 さて、アル・ガザーリーにせよ、イブン・ジャマーアにせよ結局は妥協をせざるを得ませんでした。しかしイブン・タイミーヤは理想的な宗教法を唱え、行政改革を行なおうとします。
 イブン・タイミーヤは神の唯一性について強調しました。神の唯一性からも解るように、イスラム教は一元論ですが、カリフとアミール、二つの権力していることになり、これはイスラム教の原理原則から外れるのです。したがって、イブン・タイミーヤは政治と宗教の相互連結を強調していると言います。
 しかし「人事を治めることが宗教の最も重要な必要条件である」という引用箇所からは相互連結というよりも中央集権的な印象を受けました。

哲学者たち

 法哲学者の他に政治哲学者たちも政治理論の形成に影響を与えました。彼らはプラトンやアリストテレスなどのギリシャ哲学の影響を受けています。特にアル・ファーラビーとイブン・ルシュドはアリストテレスの注釈書を書いていますし、イブン・スィーナーもアリストテレスの理論でアラビアの医学理論を作り上げました。

アル・ファーラービー

 アル・ファーラービーは、アリストテレスとともに「第二の師」と呼ばれ、敬愛されています。彼は『聖プラトンとアリストテレス、二人の哲学者の理念の一致についての書』を書きましたが、このプラトンとは「新プラトン主義」であることに注目しなければなりません。つまり、理念(イデア)について両者は正反対の立場を取っているのですが、新プラトン主義の少なくともプロティノスとアリストテレス『形而上学』なら共通点が見出せます。
アリストテレス
 アリストテレスは、物事には全て原因がある以上、原因の原因の、そのまた原因……とたどっていけば、そもそもの原因があるはずだと『形而上学』で述べ、これを第一原因と呼んでいます。一方の新プラトン主義について、僕はプロティノス『美について』しか目を通していないのですが、下記の通り述べています。
かしこのもの、それは、始原であり、そこからじかにこの世界のすべてのものは生じ、今ある姿をとるのである。たしかに始原の原因を探求してはいけないというのは正しい忠告である。特に、目的と同一であるような、完全な始原の場合には、始めでもあり、終わりでもある、この始原は、実に、同時に宇宙全体なのであり、欠けるところがないものである。
 アリストテレスは純粋に理詰めで考えていますが、プロティノスは宗教色を帯びているように、僕は感じます。そして、これがイスラム教の一神論と融合していきました。
 またアリストテレスは「人間的善が政治の目的でなければならぬ」*15と『ニコマコス倫理学』でも政治について述べています。アル・ファーラビーは『幸福達成論』において、この議論を引きつぎ、「幸福はそれ自身の目的のために熱望される最高善であ」り、「政治学は、いかにして国家の市民としての人間が自分の生来の気質に一致して、人間の幸福に到達するかを教える」と述べています。
 後代の歴史哲学者、イブン・ハルドゥーンも生活必需品を自分だけでまかなうことができないため、国家を作る必要があったと述べています。
プラトン
 プラトンは『国家』*16において、哲人王という概念を持ち出しています。プラトンは賢い指導者が民衆を導いていくのが理想だと考え、その教育を受けた指導者が哲人王なのです。空想だけにとどまらず、実際にアカデメイアという私塾を設立。多くの政治家育成に取り組みました。どうしてプラトンがこのような政治思想に至ったかというと、衆愚政治で戦争を仕掛け、大敗を喫したのです。
 アル・ファーラービーも「〔イマームも国王の〕教育なしにはいかなる市民も完成と幸福とを達成することはできない」と、プラトンの哲人王を引き継ぎました。そして、アル・ファーラービーは思弁神学を必要な教養として挙げているのです。

イブン・スィーナー

 イブン・スィーナーの本業は医師であり、本格的な政治学に関する著作を残していません。彼の問題意識は「幸福と完成にあり、その最高の段階は神、真理についての観想にあり、さらに神との神秘的な交わりにあ」りました。スーフィズムについての著作も残しており、スーフィーたちは神との合一を目的にしている以上/17、「神との神秘的な交わり」という記述はそのことを指していると推察できます。
 しかし医師としての経験もあったのかもしれません。つまり、当時、人間は神の被造物だと考えられていたので、人体を通して神の技術を知っていたと考えていたのでしょう。さながら精密機械を通して、機械工の技術を知るのと同じように。また、当時は薬草が処方されており*18、これも自然のものですし、今よりも自然治癒力に頼らざるを得ませんでした。その上、医者として奇跡的な生還の話を聞いてきたに違いありません。もちろん、神が前提の時代背景もあるのでしょうが、医者だからこそ〈ある種の神〉を信じていたのでしょう。
 イブン・スィーナーが政治的な著作を残していないとは言え、プラトンの『国家』に関心を示していたことは、イブン・ルシュドの『国家』の注釈書から伺えます。
 またプラトン後期の著作『法律』に言及した後、法律論を展開しています。「法をごまかしやずるい策略という意味ではなく、むしろスンナ〔慣行〕、すなわち(中略)啓示という意味にとっている」。この慣行とは部族社会からではなく、マホメット時代からのものです。
 次にイブン・スィーナーは「貧困におち入ったり、自らの生計をたてて行けなくなった者たちのために、病人や虚弱者の治療まで配慮している」、「自分自身の非行の結果からではないのに、市民としての義務を果たせなくなった人々を殺すというのはいとも恥ずべきこと(カビーフ)であるといっている)とあるように公共の福祉を論じています。
 イスラム教徒がマホメットの啓示に基づいていることは周知の事実ですが、この時代に貧富の格差が拡大していたと中村廣治郎は指摘しています*19。相互扶助も失われつつあり、マホメットはその価値観を復活させようとしたのだとも。イスラム教徒の倫理的基準とローゼンタールは述べていますが、ここに行き着くのでしょう。
 イブン・スィーナーは「法律にとって一番必要なものを国家における世俗的生活を取り締まるものとして強調して」います。

イブン・バーッジャ

 イスラム統治下のスペインの人です。西欧ではアヴェンパケの名前で入っていますが、彼もまた幸福とは何かについて考えました。しかし、アル・ファーラービー、イブン・スィーナーとも違いイブン・バーッジャは幸福を国家に求めていません。
 もちろん、イブン・バーッジャもギリシャ哲学を読んではいました。現に国家が不要とまでは言っていません。しかし、プラトンとアリストテレスなどを踏まえつつ、最終的にギリシャ哲学から離れていったのです。
 プラトンが「正義とは何か。最善の統治とは何か、そしてわれわれはいかにしてそれを成就するのであるか」と問うているのに対し、イブン・バーッジャはただ「形而上学者はいかに最もよくその目標に到達することができるか」とだけ問うのである。〔イブン・バーッジャの著作である〕『タドフィール』においては当然、「隠遁せる哲学者」つまりムタワッヒドだけが強調されている。
 そもそもこの『タドフィール』の正式名称は『タドフィール・アル・ムタワッヒド』で「隠遁の〈形而上学者〉の掟」と訳されるのです。
 プラトンではすでに見たように、教養人が指導者となるべきだと考えていましたが、イブン・バージャは隠遁生活を送ることで幸せになれると考えたのです。また『知性と人間の結合』で「人間の究極の目的とは、瞑想と凡そ神秘的な方法の中に能動知性が人間知性と結合すること」*20だと述べているようにスーフィズムの影響が見られると推察したのですが、特に書かれていません。

イブン・ルシュド

 さて、イスラム統治下のスペインが生んだ哲学者として、イブン・ルシュドが挙げられます。イブン・ルシュドは極端な合理主義、つまり理性主義で、哲学が「宗教」に優先していると考えました。この時代、まだ学問の細分化が行なわれておらず、今日の物理学も自然哲学として哲学に含まれていましたし、すでに見たように法律学も哲学に含まれていました。
イブン・ルシュドにとっての宗教と哲学
 しかしイブン・ルシュドも宗教を否定したわけではありません。宗教も哲学は目的も意図も同じだと述べたのです。哲学と宗教が本質的に同じだと考えるなら、その差異はどこにあるのでしょうか。イブン・ルシュドは対象者だと考えています。
 大衆は律法の隠喩や比喩、すなわち詩的、修辞学的言説のような明白なもしくは文字通りの意味を受け取らねばならない。しかし律法は哲学者の真理と異ならない真理、しかも理性的に把握できるかできないかにかかわらず、よりすぐれた真理全体を含んでいるからである。なぜならば律法は決して誤ることのない神の英知から発したものであって、人間の誤り多い理性から生まれたものではないとからである。
 ここでイスラムの律法はコーランとハーディスに基づいていることを忘れてはなりません。特にコーランは豊富な比喩に彩られた修辞的な文章です。当然ながらどの詩句を、どこまで比喩として解釈していいか迷うでしょう。イブン・ルシュドが「ある種の言説は文字通りの意義において受け取らねばならない」として、「義務として負わされている慣例的な信条と遵守とを除外している」のです。
 義務を比喩だと受け取れば、際限なく怠けることも、また際限なく厳しくすることもできてしまうからなのでしょう。彼の本職は裁判官でしたので、そこは譲れない一線だったのかもれません。イブン・バーッジャの主張に反対している理由もここから了解できます。
宗教法と哲人王
 プラトンの哲人王が全知であれば国家運用は最適なのですが、現実にはそう行きません。プラトンはこのような場合、貴族制が適していると言います。王侯貴族たちがそれぞれの能力・知識を出し合いながら国家運用をしていくのです。
 プラトンを援用しながらイブン・ルシュドは「こうした国家の王侯は(中略)最初の〈立法者〉が制定した法律には精通しており、そしてただ一度きりの法的決定?や一度限りの訴訟に対して、最初の立法者が詳述しえなかったことを法律から演繹するといったようなすぐれた推測〈の力〉を所有しているということがときには生ずるのである」と述べています。
 イスラム法に限らず、西洋的な法体系でも裁判は常に個別の事例です。当然、時代遅れの法律なども出てくるでしょう。その場合、イスラム法の法的根拠、コーランとハディースに精通していれば独自判断、すなわちイジュティハードを下すことができると、イブン・ルシュドは主張しているのです。このイジュティハードについても裁判官の立場を反映していると言えるでしょう。
 アル・ファーラービーから受け継いだプラトン哲学はカリフの在り方だけでなく、イスラム法理論がこうして結びついたのです。そして結果、 法と正義に関心が寄せられるようになりました。

アッ・ダッワーニー

 信仰と理性をどう調和させていくかを、イブン・ルシュドは考えたのですが、「啓示への態度と手がかりにおいて、哲学者と伝統主義者の間には常に以前とした区別があるに違いない」と述べています。
 哲学者の対立概念として伝統主義者が挙げられていますが、哲学はもともとイスラムの学問ではなくギリシャの学問でした。これに対し、伝統主義者はイスラムの伝統的な学問、つまりコーランをどのように解釈したらいいのか考える人々を、ここでは指しています。このような対立はイスラム教だけでなくキリスト教でも起こっていました。
 例えばトマス・アクィナスはキリスト教世界で信仰と理性をどのように調和させたらいいのかを考えました。キリスト教の教義にアリストテレス哲学を組み込み、十七世紀の科学革命の遠因を作ったのです*21。
 そしてこのような役割をアッ・ダッワーニーは折衷主義的に担いました。アッ・ダッワーニーの業績を、ローゼンタールは下記のように述べています。
 かれの著『アフラーク・エ・ジャラーリー』〔ジャラールの倫理学〕は(中略)独創的思想家の著作ではなく、ナスィール・アッディーン・トゥースィーによって提出された「実践哲学」の(中略)折衷的な通俗化にすぎないのである。しかし、それはトゥースィーの『アフラーク・エ・ナスィリー』(中略)の単なる「複製」と言ったものではない。アッ・ダッワーニーの貢献している点は、トゥースィーの厳密な哲学的論文を巧みにイスラム教徒の教義へ適用していることにある。
 ここでトゥースィー自身は少なくともコーランとハディースを勉強していたことは取り上げなければいけません*22。つまり『アフラーク・エ・ナスィリー』も多かれ少なかれ、イスラム化されている可能性が高いのです。
 そのことはトゥースィーはアリストテレスを語る際にもイスラム教の用語を使っている点からも、解るでしょう。
 もちろん、アル・ファーラービーでもプラトンの哲人王とカリフ(やその後継者、イマーム)を同等に扱っていますが、「アッ・ダッワーニーは「伝統主義的評価のために自ら、そのもろもろの典拠において見出したものを再び修正した」のです。

*1 ラテン・アヴェロエス主義と呼ばれる(山本芳久『トマス・アクィナス』岩波書店)
*2 ハイデガー『存在と時間 上』(筑摩書房)
*3 Wikipedia「ハーフェズ
*4 ローゼンタール『中世イスラムの政治思想』で扱っているのは十六世紀初頭までであり、このころはまだ西欧社会でも政教分離が唱えられていなかった。ガリレオ・ガリレイは一六一六年に異端審問に問われていることからも解るだろう。
*5 Wikipedia「知恵の館
*7 Wikipedia「御恩
*8 W. B. ワット『イスラーム・スペイン史』(岩波書店)
*9 中村廣治郎『イスラム』(東京大学出版会)
*10 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「マーワルディー」より。
*11 Wikipedia「正統カリフ
*12 ガザーリー『哲学者の自己矛盾』(平凡社)
*13 Wikipedia「イマーム
*14 Wikipedia「ムスタルシド
*15 アリストテレス「ニコマコス倫理学」(アリストテレス『世界の大思想〈2〉ニコマコス倫理学/デ・アニマ(霊魂について)/詩学』河出書房)
*16 プラトン「国家」(プラトン『世界の大思想〈1〉国家/ソクラテスの弁明/クリトン』河出書房)
*17 井筒俊彦『イスラーム思想史』(中央公論)
*18 アヴィセンナ『アヴィセンナ「医学の歌」』(草風館)
*19 中村廣治郎『イスラム』(東京大学出版会)
*20 Wikipedia「イブン・バーッジャ
*21 Wikipedia「トマス・アクィナス
*22 Wikipedia「ナスィールッディーン・トゥースィー