>

有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

哲学小ネタ

都市伝説の精神分析

このエントリーをはてなブックマークに追加

はじめに

 本稿は都市伝説を精神分析の手法を用い、読み解く。その狙いは都市伝説を多角的な視点から眺めることである。
 なお都市伝説の定義は、「都市化した社会の中でまことしやかに広まっているうわさ話」と定義されている*1。

事例検討1 トイレの花子さん


トイレという場

 トイレという場は都市伝説の舞台になりやすい。もっともポピュラーな都市伝説は下記であろう。
学校の校舎3階のトイレで、扉を3回ノックし、『花子さんいらっしゃいますか?』と尋ねる行為を一番手前の個室から奥まで3回ずつやると3番目の個室からかすかな声で「はい」と返事が返ってくる。そしてその扉を開けると、赤いスカートのおかっぱ頭の女の子がいてトイレに引きずりこまれる」というもの。(wikipedia 「トイレの花子さん」より)
 なぜトイレという場が怪談になるのだろう?
 多くの学校のトイレは薄暗い。また水回りであるため湿気が多い。加えて、便意・尿意を催すのは少なからず体調に異変がある時である。

閉鎖性

 ではなぜ個室なのだろうか。トイレの個室は狭く、独りになる。いわば閉鎖空間である。
 では駅のトイレ、公衆便所、公園のトイレなどでこのようなトイレの花子さんが流行らないのか。これらは物理的な閉鎖空間ではある。しかし、〈閉鎖的なイメージ〉はないのである。例えば駅のトイレの外に出れば、開放的な空間が待っている。
 しかし学校のトイレはそうではない。学校は毎日同じ教室で、同じクラスメート、同じ担任に顔を合わせる点で〈閉鎖的なイメージ〉がある。
 また便や尿は汚いものとして嫌悪される。なぜだろうか。哲学者、鷲田清一によれば自他の境界を崩すものを嫌悪するとされている*2。便は自分のものであると〈同時に〉自分のものではない。

鏡の向こう

 トイレには決まって鏡があるが、鏡という道具も都市伝説*3になりやすい。そっくり同じ光景が映し出されているという〈不気味さ〉は鏡の向こうを否が応にも想像させる。
 また自分の顔を見るには鏡を見るしかない。自分のイメージしている顔と鏡を通して見る〈現実の顔〉との違いが子どもにとって違和感があるのだろう。ちょうど我々が自分の声をテープレコーダーで聞いた時に感じる居心地の悪さのように。
 そしてこの居心地の悪さは直接的な面のみならず、心的イメージとしても現れてくる。筋肉のひきつり、顔から血の気が引く感覚、それらが目に見えるのだ。
 このような〈閉鎖空間〉で体調に異変がある時、子どもがトイレの花子さんのような想像をしてもおかしくはない。
 また、子どもにとって下水道は、鏡の向こうと同じく未知の領域である。未知の領域に足を踏み入れることは、非日常と危険、つまり退屈ではないが、安全でもないという両価性を伴っている。

手順の複雑さ

 この「トイレの花子さん」において際立っている点が手順の複雑さである。なぜこのように手順が複雑なのだろうか。〈異界〉は日常と離れているから〈異界〉なのであり、日常茶飯事だったらもはや〈異界〉とは呼べない。
 手順は霊を呼び出す〈儀式〉なのだ。そして、〈異界〉に迷い込む手段として挙げられるのが、偶然性や〈儀式〉の複雑さである。例えば、古代では霊的な力を得るには多くの修行を積まなければならなかった。これも〈異界〉へと通じる儀式の複雑さである。
 しかし、小学生は何年も修行を積むことはできない。そこで手順を複雑にすることで、より〈異界〉としての価値を高めているのである。

花子さんの人物像

 花子という名前は実に示唆的である。日本人の代表的な名前であり〈A子さん〉という匿名的な人物なのだから。誰でも〈私〉という意識は特別な存在だと思って生きているが、それは幻想にすぎない。そして、子どもながらに無意識のうちに感じているのである。
 学校の先生にとって恐らく、〈ただの生徒〉だし、クラスメイトにとっても単なる〈友達の一人〉である。普段はそれに目をそむけているが、ふとした瞬間に〈交換可能な私〉という思いが過ることがある。
 そしてその無意識の抵抗が、自分の葬式という白昼夢である。自分の葬式は一回きりである、という点で〈交換不可能な私〉に思いを馳せていると考えられる。ところが実際の死は私を〈交換可能〉な存在にするのである。それどころか、〈私の消滅〉という側面も持っているのである。
 私という存在は〈交換不可能〉かつ〈交換可能〉である。しかし、死は〈私の消滅〉によって〈交換可能〉な存在に決定付けてしまうのだ。たとえ息子が死んでも、母親は現実を生きなければいけないように。つまり、他者にとっては誰の死も〈交換可能〉である。そして墓参りを通して故人が〈交換不可能〉だったと思い出す。そもそも〈私〉が交換不可能なのは、〈私〉がいるからなのだ。
 花子という匿名的・記号的な名前には、〈交換不可能〉な私の剥奪を象徴しているのである。

事例検討2 口裂け女

 口裂け女は言うまでもない。
マスクをした若い女性が、学校帰りの子供に「わたし、きれい?」と訊ねてくる。「きれい」と答えると、「……これでも……?」と言いながらマスクを外す。するとその口は耳元まで大きく裂けていた、というもの。「きれいじゃない」と答えると鎌や鋏で斬り殺される、と続く
 この都市伝説は韓国及び、江戸時代にも伝えられている。このことから何らかの病気、たとえば口唇口蓋裂という先天性異常が流布したのではないかと推察する。この他、病気にまつわる都市伝説としては黄色い救急車などが挙げられる*4。

覆うということ

 もし口唇口蓋裂などの先天性異常の患者だとして、そこから都市伝説に発展するのは大きな要因が必要となる。例えば、片手がないなどの障害は都市伝説となりにくい。この二つの違いは隠しているか、隠していないかによるものだ。ラカンを持ち出すまでもなく、人間は覆われた部分を暴きたくなるものである。
 ところで病気を隠すことは、隠さなければいけないという事態に追い込まれているのである。つまりこのマスクは単に物理的に隠しているだけではなく、社会の目からも隠している。
 このことは社会から暗黙のうちに強要されている。つまり、正常に振る舞うことを社会から要請されているのである。
 したがってこの大きなマスクは口裂け女の内面も象徴している。人は誰しも仮面maskをしているが、〈正常〉という仮面maskをして生きているのである。
 またこれは口唇口蓋裂に限った話ではないが、「女はキレイでなければならない」という価値観のもと生きているように思う。劣等コンプレックスを抱えて、文字通り、仮面maskを心にしている人の象徴としても読むことができる。

外すということ

 さて、口裂け女は「「きれい」と答えると、「……これでも……?」と言いながらマスクを外す」。これが意味するものは「本当の醜い自分」であり、それをさらけ出してるにもかかわらず、「きれいじゃない」と答えている。
 見せ掛けの自己はキレイと言っておいて、本当の自分をさらけ出したら、「キレイじゃない」と否定される。それゆえに口裂け女が怒るのは当然といえよう。
 そう言った目で眺めてみると、口裂け女の対処法として彼女の醜さを認めて助かる話がジョークとしてしかないのが興味深い*5。
 まるで「本当の自分」を出したら、自分も傷つき、他人も傷付けることを示唆するかのようである。

結論

 都市伝説では死を扱ったり、くねくねなどの精神的な死を扱ったものが多い。社会が〈正常〉であり、〈私〉の死は初めから存在しないであるかのように振舞ってきた反動だと解釈できる。
 また、口裂け女ではマスクというモチーフからマスクを外した本当の自分よりもマスクを掛けた「見せかけの自分」の方が価値があるという逆転を読みといた。そして口裂け女が流行った年齢層を見てみると、小中学校であり、本当の自分、自分の価値という悩みが現れてくる年齢層とも一致するのである。

*1ジャン・ハロルド・ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』 新宿書房。なお擬似的な歴史という言葉が使われている。
*2 鷲田清一『自分・この不思議な存在』(講談社)
*3 ムラサキカガミなど。
*4 こちらについては「精神病院と都市伝説」(http://psychodoc.eek.jp/abare/peepoo/kyukyusha.html)に詳しい。
*5 盲目の男と口裂け女(http://blog.livedoor.jp/deal_with0603/archives/51886935.html)

 こちらもよろしく!


尾崎豊『15の夜』をラカンで読み解いてみた!

このエントリーをはてなブックマークに追加
 とまぁ大袈裟なタイトルを付けてしまいましたが、話半分以下で、もしくは文学分析ってこんなようなことをするんだ、と思っていただければ幸いです。


 というわけで、「超高層ビル」は明らかにファルスの典型的な象徴であり、それを見上げているということはファルスを欲している。細々としたことを指摘するならタバコも大人の象徴であり、また形状からファルスの象徴でもある。
 大人たちとは《大文字の他者》であり、倫理観を押し付けるものとして教師、親、そして学校と同一視されている。ここでは校舎に背を向けているが、《大文字の他者》に「背を向けて」、つまり逆らっていることを象徴する場面だ。
 「盗んだバイクで走り出す」のは、もちろん犯罪になる。これも法という《大文字の他者》への反逆として解釈できる。一見、彼らは自由を欲しているかのように見えるし、また、「自由を求め続けた」などの記述からも解るように、自己省察できている。
 しかし「自由になれた気がした」とあるように錯覚であることを薄々自覚しているのではないか。そして恐らく最終的な欲望の対象は「あの娘」ではないか。ここで「サヨナラをつぶやき」とあり、「あの娘」から去っていることに注目する。
 恋愛も倫理観の一つである以上、《大文字の他者》が働くと考えられる。そして、これはあらゆる《大文字の他者》から逃げた歌詞であるので、恋愛の《大文字の他者》からも逃げなければいけない。
 対象aは自由ではなく小文字の他者からの理解ではないか、と推察できる。そして、それは「自分が何なのか解らないで震えている」ということからも明らかだ。
 鏡像段階論では、小文字の他者からの理解を通じて、自分が何なのか理解することを考えるとこう言い直すべきだろう。小文字の他者の理解が得られないからこそ、「自分が何なのか解らない」と。

 本当はもっといろいろな分析ができそうなんだけど^^;


悪乗りしてみたw

このエントリーをはてなブックマークに追加
 5月14日、虚構新聞が「橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」と誤報を流したことについて、有識者たちから非難された。これを受け、朝日新聞、毎日新聞など各新聞社も「この記事はフィクションかもしれません。内容は各自で検証を行なってください」と明記することを明らかにした。
 これについてフランスの文芸評論家ロラン・バルト氏(コレージュ・ド・フランス教授)は「読者がフィクションだと思えば全てフィクションになる。いっさいは、小説にある一登場人物によって語られたものとみなされるべきであろう」と語った。また作家の奈津川三郎は「ある種の真実は嘘でしか語れない」と語っている。


カントとニーチェ

このエントリーをはてなブックマークに追加



 ニーチェは『道徳の系譜』で、既存の「神様が言ったことは善である」という価値観から「自分がやりたいことをやっている人」を善とした。つまり善に根拠を求めなかった。(強いて言うならやりたいことをやっていることだけど、これはトートロジー)
 またカントも定言命法を唱え、「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」(『実践理性批判』より)としている。つまり、「〜したいのなら、〜しなさい」(これは仮言命法といってカントの中では本当の道徳ではない)、というものではなく無条件の倫理に従え、と言っている。例えば、お年寄りに席を譲るのは、周りからよく見られたいからとかいう理由はいらないという意味である。
 つまり「意志」が示す意味は違えど、似たようなことを言っている? ニーチェは欲求、カントは理性に従え、と言っているが、道徳に理由なんてないという点では同じ。道徳を神から切り離したのはニーチェだけど、カントも道徳を神から切り離そうとしているのか? でもカントとヘーゲルは理性を信仰に近いほど溺愛してるというイメージが……。
 まとまらない内容ですが、そんなことを思いました。


プレゼントとプレゼンス

このエントリーをはてなブックマークに追加
もちろん、語源的な裏付けなどないのですが。

1. This is presents for you.
 子供の頃に誰もが一回は経験したプレゼント交換あるじゃないですか? あの経験はまさにプレゼントだけじゃなく、プレゼンス(現前、存在、今、向かう……)だったなぁ、と。
 何を言ってるか解らないって声が聞こえてきそうなので説明します。その前に僕がどうやって他人にも僕と同じような自我(他我といいます)があるという考えに至っているかをお話します。
 僕が他我を実感したり、交換で成り立ってるんだ、と感じ始めたのはまさにプレゼントの交換を通してでした。そしてそれが段々と目に見えないもの、つまり具体的なモノがなくても他我を実感できるようになりました。今では「手伝ったもらったお礼として、今度手伝うか」という関係が成り立っています。
 これは当たり前のことだと思われるかもしれません。目に見えるモノのない状態で、ある種の交換が行なわれています。見えないモノのやり取りがそこで行なわれているのです。
 つまり、僕が初めて他我の〈存在〉に気が付いたのは、プレゼント交換でした。もちろん、これは実感する前からそこにありました。
 一方、他我の〈存在〉は突き詰めていくと、あるかどうかは解りません。自分はこの世に〈存在する〉ことは証明できても、他我があることは言えないのです。

2. You are present in the world really? Surely, I feel your presence...
 昔、天才てれびくんという子供向け番組でこんな場面がありました。世界の不思議を解いていく中で、主人公たちが実は偽の記憶を植え付けられていると解る。実は学校の友達もみんな幻だということを報される。 
 映画『マトリックス』にも似たような場面がありますが、本当に他人は幻ではないと証明できるでしょうか。
 つまりここで、二つのことがいえると思います。
・僕は他我の存在を実感して、ありありと感じている
・他我は〈ある〉とは言えない。
 〈あるかないかも解らない〉他我を実感しているという奇妙な事態が起こりえています。その割と初めの経験がプレゼント交換だったのです。

3. The present, I am playing.this piano.
 ところでpresenceの言葉には、現前、存在の他に今、という意味があります。例えば、present addressは住所である。存在は常に今しかないことだと解釈できます。
 例えば、同じパソコンを使っていても厳密に同じものだとは言えません。汚れやフラグメントの具合などを含めると毎秒ごとに変化しているのです。
 だから、昔あったものは思い出せたとしてもそれは〈今〉、目の前にはありません。また一時間後には落としてお釈迦になっている可能性を考えると、未来にも存在するなどとは言えないことが解ります。
 つまり〈ある〉と言えるのは〈今、この瞬間〉なのです。

4. Talk in my present!
 もう一つ、「面と向かって」という意味もあります。これは〈立ち現れる〉、〈実感する〉などという意味と似ていますが、「面と向かう」という言葉をもっと考えて見ると〈存在〉する、ということはいつも誰かに「面と向かって」いることが解リます。
 つまり何かが〈ある〉ということは、その何かと面と向かっているのです。例えば、ティッシュに目をやったらティッシュだって面と向かって僕を見返しているでしょう。

5. How many “presents” are the world!? 
 そしてこの何かというのは具体的なモノでなくとも〈プレゼント〉なのです。そして世界はたくさんの〈プレゼント〉で成り立っているのだと思います。


詩の概念を打ち壊すような詩

このエントリーをはてなブックマークに追加
詩って
こんなふうに なんとなく
行間や空白を開けて書いたら詩になると思ってませんか?

 たまたまピックアップテーマで「心に響いた詩を教えてください」というものがあったので書きつけてみます。その前に詩ってなんぞやっていう話からしたいと思います。詩人の茨城のり子さんは『詩の世界』という本の中で、なんとなく行間や改行をしただけでは、詩にはならないという趣旨のことを言っています。
 実際、リルケの『マルテの手記』なんかはマルテが街の中を散歩して感じたことを詩的に綴ったものですし、サルトルの『嘔吐』やカフカは……いや、やめましょう。文豪たちの作品を羅列して、解説してもそれは無意味なことです。詩の一部を語ったことにしかなりませんから。
 また詩は意外な比喩の結びつきだと語られることが多いと思います。例えば、ロートレアモンの詩の一節「手術台のミシンとこうもり傘の出会いのように美しい」なんて言われると詩の世界を感じます。つまり詩とは一見、無関係だと思われるものを結びつける作業だというふうに専門教育では教わっているかと思います。実際大学で文学部のようなところだったのですが、文学史の文脈において比喩をもってかたられることが多い。
 「血を吸った蛭のような唇」、「異化」、「●」など……、げろげろ、この解釈はある意味では正しい。いや、9割方正しい。それは、「血を吸った蛭」と「唇」がどのように結びつくかということについて読者の想像をかきたてるものだからです。
 しかし比喩やレトリックだけで詩を語るのは、余りに表面的な話に陥りかねません。それこそ機械でランダムに作った文章を「詩」として提出すればいいわけですから。「AはBのようにCだ」をできるだけ関係のない、つまり数学的に言えば隣接しあう語の相関係数が0に近い語を置くだけで「詩」になってしまうということになります。
 犬のように黄色い(うーん、いまいちだが、黄色を狂った象徴と捉えれば……)、インド人のように驚く(使い古された言い回しだな、うん)というふうにそれこそ機械生成のように詩と呼ばれるものが作られてしまうのです。
 というわけで、僕が詩的だと思うのは自然現象の全てであり、例えば夕焼け空はなぜ赤いか、月はなぜ地球の回りを周っているか、素数の一般項、フェルマーの最終定理……。これらは数学や物理で扱われる主題ですが、それに思いを馳せることが詩なのです。


『エアーマンが倒せない』に乗せて

このエントリーをはてなブックマークに追加
気がついたらいつも自己ばかり主張〜
そして痛烈な非難ー。
あきらめずに歴史で対抗するけど、すぐに答えにつまるよ。
実存主義があればすぐに反論できるけど
何回書いても何回書いても構造主義が倒せないよ
理性中心から何回やっても抜けれない!
マルクス主義を唱えてみても『野生の思考』で叩かれた。

自由唱えてみても西洋思考は意味がない!
だから僕は革命だけは最後まで取っておく




気がついたら同じページを読んでる。
そしていつもねむりに落ちるよ。
あきらめずに何度も辞典を引くけどすでに堂々巡り〜。
フロイトさえ読めば、半分解るというけど、
何回読んでも何回読んでも言語の部分書いてないよ。
『エクリ』の翻訳何回読んでもわからない
『入門』読んでもいずれは「言語」やってくる
原書にも挑戦したけど、仏文科じゃなきゃ意味がない!
だから僕は勝つためにジジェクだけは最後まで取っておく〜

(解らないよ……)




正しい記術のクイズ番組

このエントリーをはてなブックマークに追加
以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。以下は日本語です。……

続きを読む


矛盾する論理体系

このエントリーをはてなブックマークに追加
最終目標:自分を矛盾なく説明する論理体系を組み立てること
ー分は段取りが悪い。
 例:ノート、鉛筆と消しゴムをペンとセットで持ってこない
⊆分は論理的な人間をしている
 例:電ミスでの「論理の有沢、トリックの○○」という呼称
    他者評価であり、真実とは一致しない
   エクセルのif関数の理解と応用
    これはすぐに頭に浮かんだことから論理性はある
 ´△脇韻弦渋い鮖っている(?)
 ○→×→△→■という順番で行えるようにするのが段取りであり、これは△諒が複雑である。

△糧疹據単に意固地なだけなのか?
 例:中々、納得しない
 A.みんながこうやってるから〜
  理由:「みんな」の定義の恣意性
         (つまり話者にとって恣意的な「みんな」を使っている)
 B.「なんでこうなるんですか?」「そういうものなの」
  理由:答えになっていない
 C.感情論を持ち出す(「恥ずかしいと思わないの?」など)
  理由:話者にとっては恥ずかしいことかもしれないが、僕にとっては何ともないことである
   例:「トイレから出てきて手を洗わなかった」とする
     「恥ずかしいと思いなさい」→
      「いや、それはあなただけでしょ?」
      「みんな手を洗ってるよ」
      「手を洗ってない人もいます」
       ……平行線
     「汚いでしょ? (できれば具体的な数値、菌の名前を提示)」
      「そうですね。今度から手を洗います」
  D.他人(権力者)を引き合いに出す
  E.○○さんもこう言ってたよ
   →だから?
 反証:そのくせ麻薬合法論者、ホモセクシャルなどにもOKではないのかと思う。
結論:意固地ではなく、単に説得方法に問題がある(まぁ、普通はそうだけど)
故に△糧疹擇枠歡蠅気譴拭

の検証
 関数や小説で執り行われる論理は言語である
 段取りは行動によって執り行われている
  データ:言語のIQは120
      動作のIQは60
   これが関係しているのか?
反証:我々は言語の檻の中で生きているのであり、言語から外には出れない
    (ラカン、ウィトゲンシュタインなど)
 例:四角い円は言葉上は存在するが実際は存在しない。(ムーアのパラドックス)
 反証:言語化できないものもある。

今のところは、動作性IQ、言語性IQの違いのように思われる。
追記:
 結論:上のことで言えるのは客観的なデータを提示すること
 理由:主観的、感情的な意見は脆く、論理体系を成すにはあまりにも不安定である

なぜ論理体系を構築するのか。
 理由:同じ論理体系をもつ人間は存在しない。
    そしてその差異こそがアイデンティティなのである。
   なぜアイデンティティにこだわるのか
    時々「私が死んでも代わりはいるもの」という不安感が波のように押し寄せてきて、それに打ち勝つため。


あるブログにはこう書かれていた

このエントリーをはてなブックマークに追加
 「ブログの言うことは信憑性が薄いので信用してはいけない」


記事検索
最新コメント
有沢翔治について

同人で文章を書いています。

  ゲーム

・ある家族の肖像(有償依頼)2017年コミティア

白い焔

怪奇探索少年隊

天地争像伝奇

ましろいろ

こころのかけら

  戯曲

『めぐる季節の中で』企業依頼

ハシを直す(有償依頼)

視線を感じて

 メール:holmes_jijo@hotmail.com

 twitter:@shoji_arisawa

※詳しい自己紹介はこちらで。