
あらすじ
小学生の〈ぼく〉は新興住宅地に越してきて、伊集院大介と知り合う。そんな折、殺人事件が発生。しかも当日の朝にはその家で老婆がなくなったばかりだった。忽然と消えた母娘は何を知っているのか。無関心だった住人たちは事件を通して情報交換を始め……。
伊集院大介のキャラクター性
小説を読む時、魅力の一つして挙げられるのが、恐らくキャラクタではないかと思います。この小説に出てくる伊集院大介は下記の通り描写されています。ひょろりとした、あまり目立ちそうもない眼鏡をかけたやせこけたお兄さんが立っていた。大学生くらいだろう。おでこが広く、目がとてもキレイなのが第一印象だった。しかし事件を解く動機が特徴的。悪を裁こうという正義感でもなければ、単なる好奇心でも、職業的な義務でもありません。強いて言えば、<犯人を>救うため、そして人間を救うため。例えば「奇妙な果実」では、「ただ僕は全ての人の人生を見ていたいだけなのですから」と述べていますし、「顔のない街」では下記の通り述べています。
みんなに自分の顔を返してあげたいんだよ。町にも。世界にも。人間たちにも、ね。伊集院大介は人間の悩みを解決するような探偵です。
顔のない街
「顔のない街」での伊集院大介の台詞や象徴的ですが、顔は個性、自分らしさを表しています。かもマッチ箱に例えることで危なっかしい印象すら与えます。没個性
顔のない街の主題は「没個性」、「無個性」。これは冒頭部から出てきます。「どれをみてもちっともどれが誰のうちなのかわからないようなずらっと同じ作りの建売りが並んでいる新しい町の一角にあった」「まったく同じ作りの建売りがマッチ箱のように並んでいる」というくだりからも解るように、それぞれの家が無個性、没個性的なのです。かろうじて個性が発揮できるのは、カーテンの色、犬小屋などの私的空間。世間話をすることで、内面を探り、他人をより深く差別化しています。しかし街の人同士は互いに交流がありません。つまり家ばかりでなく、住人たちも没個性的。
したがって伊集院大介の空想は極論ながらも的を射ていると言えましょう。
名前は違っているけど、でもみんな結局のところは中みをそっととりかえたところで誰もわからないかもしれないんだよ(中略)家族のカードを集めて切り直してまたそれぞれのうちに配り直しても、もしかしたら何も気づかずにまた明日からみんな平気で暮しているんじゃないかそして伊集院大介は「寝ているあいだに別のうちに入れ替えられても顔さえ同じなら誰も気がつかないのかもしれない」と個人の人格にまで空想を拡張しています。
語り手
つまり、本来なら固有であるはずの内面さえ交換可能だと言っています。ここにおいて一人称の、しかも稔の一人称視点で書かれているのか意味が見出せると思います。推理小説でに限らず、一人称視点で、しかも子供の一人称視点で書いた場合、〈信頼できない語り手〉が使われることがままあるのですが、「顔のない街」においてこれは当てはまりません。〈語り手〉は自由に物語を編集できるという点において、特権的な位置づけです。例えばこの物語が伊集院大介の視点で語られていたら全く別の物語になっていたに違いありません。つまり〈語り手〉は物語で交換不可能な人物*1。そして〈ぼく〉が交換不可能な存在だということは「君は他の子とまるで似てないのだから〔顔だけ変わっていたら気付く〕」と述べていることからも明らかです。
推理小説批判
さて「事実より奇なり」「ごく平凡な殺人」は推理小説の批判をしています。例えば「事実より奇なり」では、「独創的な推理小説作家たちがあの手この手で考えて(中略)いるトリックだのアリバイなんてものはまるきり現実と関係のないファンタジーみたいなものだ」と述べていますし、「ごく平凡な殺人」でもホームズとポアロを引き合いに出しています。小説より奇なり
「小説より奇なり」と「ごく平凡な殺人」は批判の対象が違っているように感じました。「小説より奇なり」は読書態度を批判しています。空想で書いたはずの小説を、本当の出来事であるかのように誤解し、殺害したという結末。もちろんファンタジーなどあからさまに空想だと解りきっている場合はともかく、私小説などは作家の体験を綴っていると思われがちですよね。例えば太宰の『人間失格』*2。大げさに言えば、作品論とテクスト論の対比として読むこともできます。
ごく平凡な殺人
一方、「ごく平凡な殺人」は推理小説の愛好家へ新たな道を示唆しているように感じました。もちろん、この『伊集院大介の新冒険』収録の短編小説を通して言えることなのですが、「ごく平凡な殺人」では新たな可能性の提示が明確になっています。前半部は、新聞を読んだだけで犯人が解るという卓越した能力を描写しています。
新聞で殺人事件の記事を読んだだけで、(中略)たいていの殺人事件の真相、犯人や動機やそれにその事件の起こった前後の感じ、みたいなのがわかってしまうんだ。栗本薫がどこまで意識していたかは定かでありませんが、推理小説の金字塔、「モルグ街の殺人」*3でデュパンが新聞記事を読んだだけで犯人を言い当てる場面を思い起こさせます。
また稔に過去の事件を話しますが、ホームズの「グロリア・スコット号事件」*4と同じ。
このように推理小説の古典に間接的、直接的に言及しながらも、動機の解明に主眼を置いています。しかも喜劇的な動機で、犯人自体はありふれているもののかなり特殊な動機だと言えましょう。
推理小説の型を活かしながらも、従来の作品を批判。動機にまだ開拓の余地があると明確に示しているのです。
*1 本来なら推理小説では探偵役も交換不可能な存在だったが、職業的な探偵の誕生以降、探偵は交換可能な人物として描かれるようになった。典型的な例としてハメット『血の収穫』などが上げられる(ダシール・ハメット『血の収穫』東京創元社)。
*2 太宰治「人間失格」(太宰治『人間失格、グッド・バイ他一篇』岩波書店)
*3 エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」(エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人・黒猫他五篇』岩波書店)
*4 コナン・ドイル「グロリア・スコット号事件」(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの思い出』新潮社)
