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有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

新本格

栗本薫『伊集院大介の新冒険』(講談社)

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伊集院大介の新冒険 (講談社文庫)

あらすじ

 小学生の〈ぼく〉は新興住宅地に越してきて、伊集院大介と知り合う。
 そんな折、殺人事件が発生。しかも当日の朝にはその家で老婆がなくなったばかりだった。忽然と消えた母娘は何を知っているのか。無関心だった住人たちは事件を通して情報交換を始め……。

伊集院大介のキャラクター性

 小説を読む時、魅力の一つして挙げられるのが、恐らくキャラクタではないかと思います。この小説に出てくる伊集院大介は下記の通り描写されています。
 ひょろりとした、あまり目立ちそうもない眼鏡をかけたやせこけたお兄さんが立っていた。大学生くらいだろう。おでこが広く、目がとてもキレイなのが第一印象だった。
 しかし事件を解く動機が特徴的。悪を裁こうという正義感でもなければ、単なる好奇心でも、職業的な義務でもありません。強いて言えば、<犯人を>救うため、そして人間を救うため。例えば「奇妙な果実」では、「ただ僕は全ての人の人生を見ていたいだけなのですから」と述べていますし、「顔のない街」では下記の通り述べています。
 みんなに自分の顔を返してあげたいんだよ。町にも。世界にも。人間たちにも、ね。
 伊集院大介は人間の悩みを解決するような探偵です。

顔のない街

 「顔のない街」での伊集院大介の台詞や象徴的ですが、顔は個性、自分らしさを表しています。かもマッチ箱に例えることで危なっかしい印象すら与えます。

没個性

 顔のない街の主題は「没個性」、「無個性」。これは冒頭部から出てきます。「どれをみてもちっともどれが誰のうちなのかわからないようなずらっと同じ作りの建売りが並んでいる新しい町の一角にあった」「まったく同じ作りの建売りがマッチ箱のように並んでいる」というくだりからも解るように、それぞれの家が無個性、没個性的なのです。かろうじて個性が発揮できるのは、カーテンの色、犬小屋などの私的空間。
 世間話をすることで、内面を探り、他人をより深く差別化しています。しかし街の人同士は互いに交流がありません。つまり家ばかりでなく、住人たちも没個性的。
 したがって伊集院大介の空想は極論ながらも的を射ていると言えましょう。
名前は違っているけど、でもみんな結局のところは中みをそっととりかえたところで誰もわからないかもしれないんだよ(中略)家族のカードを集めて切り直してまたそれぞれのうちに配り直しても、もしかしたら何も気づかずにまた明日からみんな平気で暮しているんじゃないか
 そして伊集院大介は「寝ているあいだに別のうちに入れ替えられても顔さえ同じなら誰も気がつかないのかもしれない」と個人の人格にまで空想を拡張しています。

語り手

 つまり、本来なら固有であるはずの内面さえ交換可能だと言っています。ここにおいて一人称の、しかも稔の一人称視点で書かれているのか意味が見出せると思います。推理小説でに限らず、一人称視点で、しかも子供の一人称視点で書いた場合、〈信頼できない語り手〉が使われることがままあるのですが、「顔のない街」においてこれは当てはまりません。
 〈語り手〉は自由に物語を編集できるという点において、特権的な位置づけです。例えばこの物語が伊集院大介の視点で語られていたら全く別の物語になっていたに違いありません。つまり〈語り手〉は物語で交換不可能な人物*1。そして〈ぼく〉が交換不可能な存在だということは「君は他の子とまるで似てないのだから〔顔だけ変わっていたら気付く〕」と述べていることからも明らかです。

推理小説批判

 さて「事実より奇なり」「ごく平凡な殺人」は推理小説の批判をしています。例えば「事実より奇なり」では、「独創的な推理小説作家たちがあの手この手で考えて(中略)いるトリックだのアリバイなんてものはまるきり現実と関係のないファンタジーみたいなものだ」と述べていますし、「ごく平凡な殺人」でもホームズとポアロを引き合いに出しています。

小説より奇なり

 「小説より奇なり」と「ごく平凡な殺人」は批判の対象が違っているように感じました。「小説より奇なり」は読書態度を批判しています。空想で書いたはずの小説を、本当の出来事であるかのように誤解し、殺害したという結末。もちろんファンタジーなどあからさまに空想だと解りきっている場合はともかく、私小説などは作家の体験を綴っていると思われがちですよね。例えば太宰の『人間失格』*2。
 大げさに言えば、作品論とテクスト論の対比として読むこともできます。

ごく平凡な殺人

 一方、「ごく平凡な殺人」は推理小説の愛好家へ新たな道を示唆しているように感じました。もちろん、この『伊集院大介の新冒険』収録の短編小説を通して言えることなのですが、「ごく平凡な殺人」では新たな可能性の提示が明確になっています。
 前半部は、新聞を読んだだけで犯人が解るという卓越した能力を描写しています。
 新聞で殺人事件の記事を読んだだけで、(中略)たいていの殺人事件の真相、犯人や動機やそれにその事件の起こった前後の感じ、みたいなのがわかってしまうんだ。
 栗本薫がどこまで意識していたかは定かでありませんが、推理小説の金字塔、「モルグ街の殺人」*3でデュパンが新聞記事を読んだだけで犯人を言い当てる場面を思い起こさせます。
 また稔に過去の事件を話しますが、ホームズの「グロリア・スコット号事件」*4と同じ。
 このように推理小説の古典に間接的、直接的に言及しながらも、動機の解明に主眼を置いています。しかも喜劇的な動機で、犯人自体はありふれているもののかなり特殊な動機だと言えましょう。
 推理小説の型を活かしながらも、従来の作品を批判。動機にまだ開拓の余地があると明確に示しているのです。

*1 本来なら推理小説では探偵役も交換不可能な存在だったが、職業的な探偵の誕生以降、探偵は交換可能な人物として描かれるようになった。典型的な例としてハメット『血の収穫』などが上げられる(ダシール・ハメット『血の収穫』東京創元社)。
*2 太宰治「人間失格」(太宰治『人間失格、グッド・バイ他一篇』岩波書店)
*3 エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」(エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人・黒猫他五篇』岩波書店)
*4 コナン・ドイル「グロリア・スコット号事件」(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの思い出』新潮社)



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一色さゆり『神の値段』(宝島社)

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神の値段 (宝島社文庫)

あらすじ

 川田無名は現代美術を代表する画家でありながら、マスコミはおろか、画商の前にしかめったに姿を現さない。唯一、正体を知るのは画廊経営の永井唯子のみだった。しかし唯子は地下倉庫で何者かに絞殺されてしまう。アシスタントの「私」は犯人を追うが……。ミステリーとしてはともかく、美術品をめぐる小説としては面白かったです。

芸術の価値とは何か

 『神の値段』においてテーマの一つが芸術の価値です。例えば川田無名の作品には二千二百万以上の値段がついています。ここで僕はあえて価格とは言わず値段と言いました。

マルクス

 価格と値段について「私」の父親からこのように説明を受けているからです。
 価格というのは需要と供給のバランスに基づいた客観的なルールから設定される。一方で、値段というのは本来価格をつけられないものの価値を表すための、所詮比喩なんだ。
 このように私の父親は価格と値段を峻別しています。ほとんどの商品については「価格」が設定されますが、これは需要と供給に基いて設定されています。ところが、芸術作品は需要と供給を無視して設定される、と。
 このことと関わってくるくだりがもう一箇所。「マルクスによると、商品化するためにはなんだって交換価値をつければいい。奴隷制は人の商品化、売春は性の商品化です」(強調は有沢による)とあります。マルクスは「商品はいまや二重の実在として、すなわち現実的には使用価値として、観念的には交換価値として、たがいに対立しあっている」*1と書いています。
 使用価値とは、有用性があるかどうかです。例えばパンは絵画より使用価値があります。交換価値とは交換の過程での「値段」。例えば胡椒単体では使用価値がほとんどありませんが、昔は金と同等の値段がついていたといいます。しかしこの二つは必ずしも一致するかと言えばそうではないことが分かります。例えば酸素は非常に有用ですが、交換価値はゼロです。
 ところでマルクスは商品が流通の中で、価格がどう変化するのかを考察しています*2。
一クォーターの小麦が、(中略)現実に一オンスの金になるかは、ただ流通の中で立証できないことである。このことは、一クォーターの小麦が使用価値であることを立証するしかないか、それにふくまれる労働生産の量が、社会によって小麦一クォーターの生産のためにどうしても必要とされる労働時間の量であることを立証するかしないか、にかかっている
 したがって、非常に大雑把なものとなっています。例えばオークションで価格がどのように高騰するのかは考察していません。
 一つの供給に対し、需要が多いのですから価格は高騰するのは当たり前だと思われるかもしれません。使用価値が高いものならそれは言えるでしょう。例えば、遭難したボートならペットボトルの水の価値が高騰していくのと同じです。ここまではマルクス経済学の延長で説明できるのですが、芸術品は使用価値がありませんので、この例には当てはまらないように思います。

ベンヤミン

 ところで、哲学者のベンヤミンは『複製技術時代の芸術』において、アウラという概念を提示。昔は教会の壁画、あるいは貴族の肖像は一点しかありませんでした。だからこそ、人は崇高さを見出だしていたのだとベンヤミンは考えます。しかし、写真技術が発達するにつれ、崇高さは失われていきます。多木浩二はこれを「われわれが芸術文化にたいして抱く一種の共同幻想」*3と説明していますが、簡単に複製できてしまうと、芸術を見たときに感じる崇高さはなくなってしまうのだとベンヤミンは指摘しています。
 アンディ・ウォーホルはマリリン・モンローの顔写真を並べただけの作品を作っていますが、この崇高さがなくなってしまったことへの批判とも読めます。そして、崇高さが消失した結果、マネーゲームへと転化するのです

川田無名の不在

 さて、ミステリー小説として読むと、警察が川田無名の行方をどうして見つけられないのかと首を傾げた人も多いのではないかと思います。
 しかし、この崇高さに関して川田無名の不在についても一つの意味が読み解けます。川田無名は、「書き方、筆の持ち方」「正座してした方がいいのか、立つのか、腰をかがめるのか」にいたるまで、アトリエの職人たちにメールで指示を与えます。しかも「筆の動きを操っていると、その真意に気がつく」と言います。
 僕は神秘体験もしていなければ、数学・科学的な発見もしていないのですが、全く関係のないものが意外な結びつきを見せることがあります*4。科学がまだ自然哲学と呼ばれていた頃、神の意図を知る作業だと考えられていました。例えば、ニュートンは「『プリンキピア』一般注にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べてい」*5ますし、ライプニッツも神学の研究に打ち込んでいました*6。
 またアトリエの職人、師戸は「私」にこう説明します。
 複雑な画面になればなるほど、メールの内容も膨大になる。ファイルの数は限られているが、その組み合わせは無限なんだ
 組合せ数学はインドの記録が最も古く*7、医学書スシュルタ・サミタに現れます。このように単純な組合せから森羅万象が生まれるという世界観は頷けます*8。
 そして、川田無名が言語化される以前の森羅万象を表現しようとしていた、と「私」は解釈するのです。われわれが言語、あるいは自然法則を介してしか森羅万象を認知し得ないように、川田無名もまた絵画を通してしか認知できません。絵画の源泉にあるのは、おそらくそのような言語以前の感覚なのだと一色さゆりさんは主張しているのでしょう。だからこそ「アートの本質は、宗教的なもので」、「理解するものではなく、信じるもの」なのです。
 そもそも無名というペンネームも極めて暗示的です。字義通りに解釈すれば、名前がないということになります。名前がないものは認識しようがないのです。


*1 カール・マルクス『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 』岩波書店。
*4 このような例は枚挙に暇がないが、オイラーの公式を挙げればいいだろう。円周率、虚数、自然対数は全く異なった概念のはずなのに、ものすごくシンプルな数式で表せるのだから。
*5 Wikipedia「アイザック・ニュートン
*6 ライプニッツ『形而上学叙説』(岩波書店)
*7 Wikipedia「組合せ数学
*8 なお梵天の塔は後世の創作である(Wikipedia「ハノイの塔」)


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篠田真由美『琥珀の城の殺人』(講談社)

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琥珀の城の殺人 (講談社文庫)

あらすじ

 時は十八世紀のハンガリー、電気が発見されて間もないころ。プロシアとの戦いを勝利に導いたブリーセンエック伯爵が、琥珀の城の書庫で刺殺される。退役軍人とは言え、屈強な大男。しかも現場は完全な密室だった。鍵はベネチアの特注品で合鍵もないと言う。果たして事件の真相はいかに?

ミステリを書く難しさ

 僕もミステリを書いているのですが、いつも近代科学をどのように排除したらいいのかということを考えます。例えば似たような背格好の別人と入れ替わるトリックは、DNA鑑定を持ち出されたら成り立ちません。もちろん一卵性双生児という方法もありますが、これも双子と聞いたらまず入れ替わりを疑うようになります。
 その結果考え出されたのが、吹雪の山荘、素人探偵などという特異な状況下で起きる殺人。もう一つは、いっそのこと、『琥珀の城の殺人』のように時代設定そのものを変更してしまうか、です。しかし時代設定を変更するとなると、専門知識が必要となります。例えば、海外の名前はどうなっているのか、有名なところだとフランソワは男性、フランソワーズは女性です。しかもこれはフランス人の名前なのでハンガリーが舞台だと、国籍を書かなければいけません。ハンガリー人ならば、フランツとしなければ不自然になります。
 日本を舞台に置き換えると、動機の面で不自然になります。なぜなら江戸時代では人の行き来が制限されていて、侍医が逃亡できなくなってしまうからです。明治に置き換えたら今度は伯爵の権限が弱くなりすぎて、侍医はどうして逃亡しようとしたのかが上手く説明できません。

電気

 ミステリで多くのことを語るとネタバレになってしまうのですが、電気・磁気が非常に重要な役割を果たしています。冒頭の「読者へ」を読むだけで僕は電気の発見が事件に大きく関わっているのではないかと察しがつきました。ただ電気は電気でも静電気が事件と結びついているのでは、もっといえば、静電気を利用して密室を作ったのではないかと考えていたので、結果的に外れてしまいました。

電磁気が生命の根源をなしているという考え

 この話は電気が生命の根源をなしていると信じている、という前提があります。確かにメアリ・シェリーのフランケンシュタイン博士は電気を怪物に与えることで、人工生命に命を吹き込みます。舞台設定が同時代ということもあって、僕は『フランケンシュタイン』を真っ先に思い浮かべました*1。
 この電気が生命と深く関わっているという考えは荒唐無稽でしょうか。実は船木亨によれば、電気は全てにおいて人間と密接に関わっているのだと指摘します*2。
 電気を原動力とする諸機械ばかりでなく、コンピュータのように電気で知覚表彰を加工伝達する装置よって、遺伝子であれ脳の仕組であれ、あるいは原子力事故や機中環境の変化のシミュレーションであれ、電気は今日、人間の生と経験を捉えなおさせてくれている。
 そして、電気はわれわれ文明社会において生殺与奪の権利を握っているのです。どんなに屈強な伯爵でも電気なしでは生きられないように。


*1 メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』(東京創元社)
*2 船木亨『現代思想史入門』(筑摩書房)


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我孫子武丸『人形はこたつで推理する』(講談社)

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人形はこたつで推理する (講談社文庫)

あらすじ

 幼稚園教諭、妹尾睦月は腹話術師の朝永嘉夫を、クリスマス会に招待する。その直後に園内で飼っている兎が何者かに惨殺される。朝永嘉夫──が操っている人形、鞠小路鞠夫──は天才的な頭脳で事件を解き明かしていくのだった。
 他にも楽屋で起きた死体の謎を解く、「人形はテントで推理する」など4話収録。腹話術とその人形による異色のコンビが活躍! 新感覚のユーモアミステリ。

キャラクター

 人外の探偵は数多いんです。例えば、赤川次郎『三毛猫ホームズ』や、それに触発された『迷犬ルパン』、そしてアイザック・アシモフの『鋼鉄都市』はロボットが探偵訳を務めめています。

どこまでが現実なのか

 しかし、鞠小路鞠夫は少し状況が違うように思います。赤川次郎の『三毛猫ホームズ』ではあくまでも普通の猫(少なくとも物語の中の世界では)。『三毛猫ホームズの推理』*1では、
 ホームズは廊下の反対側へ向いて、顔だけ片山のほうに向けて、訴えるように鳴いた。
「何だい? あっちへ行けってのかい?」
「ニャオ」
 とありますが、ホームズが行くところ、鳴くところにたまたま事件の手がかりが落ちている、という建前なのです。ホームズが推理しているかと読者は受け取るのですが、それは飽くまでも作中の外から眺めた場合。
 作中人物の視点に立ってみればホームズは偶然、事件の証拠を見つけるただの猫にすぎません。
 この理由は推理小説の特徴と大きく関わっています。多かれ少なかれ、僕たちは推理小説を読む時に、犯人を推理しながら読むでしょう。つまり、推理する上での前提条件が必要です。例えば現実世界にも関わらず、犯人は魔女だった、などというラストは興ざめなのは言うまでもありません。
 そうならないようにするために、どこまでが現実の理屈が通用するのか、などという範囲が必要となってくるのです。これが推理小説で、非現実的な描写ができない大きな理由の一つです*2。

鞠小路鞠夫の難しさ

 さて、推理小説がいかに制約が多いかを書けば、鞠小路鞠夫の難しさがお解りいただけるのではないかと思います。我孫子武丸が苦労しているかどうかは別問題としても。
 つまり、現実世界を舞台にしながらも、その中で非現実を織り交ぜているのです。推理小説でこれを行なうと、読者は何を信じていいのか解らなくなります。もしかしたら他の人形も勝手に動き出すのではないかなどの疑心暗鬼に駆られてしまうのです。
 そこで、非常に限定的な状況でのみ人形が喋るということで回避しています。
1.喋る人形は鞠小路鞠夫だけである
2.睦月と朝永のいる部屋でのみ、鞠夫は喋る。
2.ほとんどの場合において*3、朝永の意志で鞠夫を制御できる。
 この三つの「約束事」があるからこそ、読者は安心して推理小説として、楽しめるのです。

推理小説として

 「人形はライブハウスで推理する」は鞠小路鞠夫も不平を言っていますが、推理小説としてはちょっと卑怯な感じが否めません。しかし、「人形はこたつで推理する」は、動機なども合理的に描かれていますし、朝永さんと睦月の恋愛模様だけでなく推理小説として楽しめました。
 「人形は劇場で推理する」が一番、面白かったです。鞠小路の優しさも魅力の一つなんですが、忠実にフロイトの理論に基いて、精神分析が行なわれています。
 「人形をなくした腹話術師」は鞠小路鞠夫が何者かに殺害されてしまいます。いや、器物破損罪ですが、朝永や睦月にとっては殺人(形)にも値する胸の内でしょうし、読者にとっても同じこと。ちなみに『人形はなぜ殺される』という副題が頭に浮かびました(笑)
 鞠小路鞠夫ばかりに頼っていては面白くありませんし、睦月と朝永の恋路も気になります。そういった推理以外の要素と、事件の本筋との結びつきとの必然性が薄く、強引な場合が多々あります。しかし、「人形をなくした腹話術師」はこれらの問題が上手に処理されています。
 平たく言えば、犯人が鞠小路鞠夫を殺さなければいけない必然性もあり、それによって魂が抜けたようになってしまう朝永、そして彼を乱暴にも立ち直らせる睦月……、一連の流れが無理なく結びついているのです。

*1 赤川次郎『三毛猫ホームズの推理』(角川書店)
*2 なお、作品内でルールを決めている作品もある。その代表作がアイザック・アシモフ『鋼鉄都市』(早川書房)である。
*3 この短編集において唯一の例外は「人形をなくした腹話術師」のみである。


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有栖川有栖『白い兎が逃げる』(光文社)

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白い兎が逃げる (カッパ・ノベルス)

あらすじ

 ひったくりで逃げ込んだ梶山恒雄は逃げ込んだ先で、作家の黒須俊哉が出てくるのを見かける。しかし警察にとっては梶山はただのひったくりでなく、アリバイ証人でもあった。というのも兄、黒須克也が殺されて、俊哉が容疑者として浮上したのだが、折しも死亡推定時刻と、梶山が俊哉を見かけていた時刻が重なったのである。火村英生は彼のアリバイを崩せるのか(「不在の証明」)
 劇団員である清水玲奈はストーカー被害に悩まされていた。ストーカーの名前はハチヤ。そこで亀山は鳥取まで避難させる。しかも念には念を入れ、手の込んだ経路を使って。しかしハチヤは何者かに殺されてしまう。しかも死体は小学校で見つかった……。有栖川有栖による鉄道ミステリー。(白い兎が逃げる)計四編を集めた中編小説集。
 なお作中にも著者と同姓同名の人物が登場します。混乱を避けるために作中人物は有栖、著作者は有栖川有栖と書いています。

この本を読んだ目的

 僕の小説は台詞と台詞を結ぶ地の文のバリエーションが余りに少ないんす。例えば「二人でいることの問い」から例示しますと、
「ごめんなさい。これから勉強ですか?」
 わたしは教科書と資料をかき集めながら言う。
「あぁ……、別にいいの」
 そして積み重ねると、わたしは続けて尋ねた。
「それよりも何か用? ノートでもコピーしたいの?」
「いえ、大丈夫です。それよりも相談に乗って欲しくて……」
 真衣はそう言うと、笑った。どことなく影がある。わたしは教科書を脇に退けた。こんなものは前日までに終わらせればいい。
 それを見て真衣は安心した顔になった。わたしの向かいに座る。
 わたしは立ち上がって、ウォーターサーバーへと歩いた。コップに冷たい水を注ぐと、真衣に渡す。
 こんな風に、登場人物の行動を短く挟むだけで次の台詞に移ってしまうんです。あとは心象描写を一つ二つ挟むだけで。
 短篇だと上手に誤魔化しているのですが、長編だとこれが目立ってくる。理由は簡単。高校のころ戯曲を中心に読んでいたからです。そこでプロの作家はどうしているんだろう、と読みました。でも読んでいるうちに統一感があれば、無理して変えなくてもいいのかな、とも思えてきました。
 というのも有栖川有栖も結構、台詞と台詞の間が画一化されていたんです。
梶山の供述調書を読んでいた〔火村〕助教授は、顔を伏せたまま「そうですね」と答えた。
「黒須俊哉を始めとする殺人事件の関係者の梶山の間に何のつながりもなかったのならば、彼が虚偽の証言をする必要はありません。梶山が単に黒須俊哉の書く小説の愛読者だったならば、ね。
「接点はありません。彼のアパートに黒須俊哉の著書が多数あったことは確かです。けっこう人気作家やそうで。えーと、劇画調のタイトルでしたな。流れ星の何とか、というんでしたっけ?」
「流星シリーズです」
 私が答えた。流崎星児と名乗る刑事崩れの殺し屋をダーティ・ヒーローにしたシリーズで(中略)必ず何冊かは並んでいる。
「有栖川さんのお仲間ではないんですね」
「違いますね(中略)黒須さんの書いているのは(中略)アクション小説とでも分類するしかないですね」
 要するに、かなり通俗的なのだ。
この後、流崎シリーズの特徴が述べられていますが、有栖川有栖は台詞のあと、登場人物の行動に加え、(必要に応じて)その人物の説明が入っているのです。短編という制約もあるかもしれないと思って、『乱鴉の島』*1も見ましたが、おおむねこのパターンでした。
 本当は太宰治みたいに色々な文体で書きたいんですけど、そこまでの能力は僕にありません。

有栖川有栖の文体

 例えば火村を「助教授」と表現しています。だから僕にとって、有栖川有栖の文体は少し読みにくいんです。
 三人称と一人称の混在だけではなく、誰の行動かが分かりにくい。火村助教授はまだよくて、「白い兎が逃げる」では玲奈を兎に喩えています。喩えるだけならいいのですが、兎という表現と、玲奈という表現が混在しているんです。
 多分、エラリー・クイーンの影響を受けているからでしょうね。

内容について

 これは有栖川有栖の作品に共通していえることなのですが、読者に解かせるつもりは全くありません。さながらダイイングメッセージ講義とも言えるような短編、「比類のない神々しい瞬間」は、マニアックな知識を必要とします。
 このタイトルは二重の意味を含んでいます。つまり
1.エラリー・クイーンが『Xの悲劇』で「言い訳」ているように、ダイイングメッセージを残す側に訪れる瞬間
2.明石がダイイングメッセージの意味に気が付いた瞬間。
 「白い兎が逃げる」の「兎」が示す意味は清水玲奈でシンプル。しかし、兎小屋に放置されていたり、列車名が因幡の白兎に因んでいたり、幾重にも兎を連想させるものが出てきます。有栖も評しているように、「何匹もの兎が(中略)跳ねているよう」な短編です。

「地下室の手記」?

 対して「不在の証明」と「地下室の処刑」は表題、道具立てともにシンプル。「地下室の処刑」はドストエフスキイ「地下室の手記」を連想させるものの、意識して付けたとは感じられませんでした。「地下室の住人ときた。秋山駿かドストエフスキーか」とあるように「地下室の手記」の話が仄めかされていますが、作品とはあまり関係ありません。確かに過剰なまでの自意識、選民意識、という点では地下室の手記とも関わってきますが、ドストエフスキーを引き合いに出すまでもなく、それは近代文学の大きなテーマの一つ*2。
 それに有栖川有栖が意識しているのなら、どちらか一つにして、あらすじを加えるはずです。「比類のない神々しい瞬間」で『Xの悲劇』のあらすじを加えていたように。

再び文体について

 「不在の証明」と「地下室の処刑」は文体こそ似ていますが、雰囲気は対照的です。「不在の証明」では、有栖が黒須俊哉のミスを指摘したときの描写がコメディタッチに描かれています。
黒須俊哉はそれ〔作中のミス〕を告白するどころか、「そのアイディア、いただき!」とばかりに食いついてきた(中略)
 プロだよ、あんた。(強調は引用者による)
 最後の独白が漫才の「ツッコミ」めいていることが原因。有栖川有栖は大阪が舞台の作品を多く書いていて、有栖と火村も関西弁を話しています。
 しかし、「地下室の処刑」ではその喜劇的な空気が一切ありません。シャングリラ騎士団というカルト集団が絡んでいるのですが、
 坂口安吾でも読んで正しく堕ちる道を模索するべきだった。大石安奈に必要なのは宗教もどきのカルトではなく、おそらくは文学だったのだ。(中略)書店の棚には世界を呪う言葉を綴った文学作品が何百冊と並んでいる
とあるように、文学を慰みの道具として捉え、真面目な文学論を展開しているのです。

*1 有栖川有栖『乱鴉の島』(新潮社)
*2 例えば中島敦「山月記」(中島敦『李陵・弟子・山月記』旺文社)など例示すれば枚挙に暇がない。


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我孫子武丸『殺戮にいたる病』(講談社)

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ブログネタ
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殺戮にいたる病 (講談社ノベルス)

あらすじ

 蒲生稔は次々と女の子を口説いてはラブホテルに連れ込み扼殺していった。その後、死姦していったが、どんどん手口はエスカレートしていった。乳房をえぐり、子宮を取り出しそれでセックスを行なう。
 そしてそれを追う老刑事と被害者の妹、かおる。ラスト一行でプロローグがガラリと変わる……。

サイコホラーの参考文献として

 サイコホラーとしては割と有名らしく、前々から興味があったんです。でも僕は叙述トリックとして先に『殺戮にいたる病』を知りました。
 我孫子武丸の作品については前に『0の殺人』を読んだことがあったのですが……。あれ、我孫子武丸ってこんなに文章が下手だったっけ、という印象を受けました。加えて人物造型も薄っぺらく、中途半端に生い立ちとか語られているせいで、余計にリアリティがありません。
 おまけに嬉々として精神異常者について論じ立てる竹田教授にも興ざめ。あんただろ精神異常者。
 どうせなら羊たちの沈黙のレクター博士みたいに、稔を徹底した怪物として描いて欲しかった……。

なぜ死に執着を持ったのか

 蒲生稔が反抗を繰り返す理由を見てみましょう。

過剰な死の隠蔽がもたらすもの

 竹田教授は現代人の過剰な死の隠蔽によってもたらされたものだと分析しています。もちろん作中で明示されている以上、我孫子武丸がそのように解釈してほしいという意図が伝わってきます。
 墓場に興味を持つ子供。虫を殺す子供。死を扱ったジョーク。およそ死に関するものに興味を抱かない子供はいない。(中略)しかし現在のように墓地は街中から消え去ってマンションとなり虫がいないから昆虫採集もできず、アパートではペットを買(原文ママ)うことも許されないという状況になると子供達は『死』というものから隔離される。一方マスメディアの中では『死』が溢れている。
 このように生々しい死、死そのものを好奇心の対象として見つめることは子供の発達にとって大きな役割を担うと我孫子武丸は考えているようです。
 これは我孫子武丸の空想ではありません。河合隼雄は『子どもと学校』*1の中で以下のカウンセリング事例を紹介しています。友達の玩具のピストルを盗んだと言う子供。母親が子供をつれて河合隼雄のもとにカウンセリングにきます。
 母親から話を聞いてみると、平和の心を学ばせるため、ピストルの玩具を買ってあげなかったというのです。河合隼雄は「「平和」を知るためには武器を使っての遊びが必要」*2だと結論を下しています。

セックスとは殺人の寓意である

 次に「セックスとは殺人の寓意である」という稔の独白を見てみましょう。
 この独白は『殺戮にいたる病』の中で重要です。
 今ようやく分かった。セックスとは殺人の寓意にすぎない。殺される性はすなわち殺される性であった。男は愛するがゆえに女の身体を愛撫し、舐め、噛み、時には乱暴に痛めつけ、そして内蔵深くにおのれの槍を突き立てる──。
 これはどういうことでしょうか。例えばセックスで快楽に歪む顔と首を絞めて苦痛に歪む顔、どちらも写真などの一コマだけ見ると同じに見えます。そして普段見せない「顔」を見ると我々は興奮するといいます。そしてバタイユの『エロティシズム』*3によれば、エロスとは聖なる存在を犯すことで自分が聖なる存在になった錯覚になるといいます。
 聖なる存在を犯し、自分が聖なる存在になった錯覚になるというのはどういうことでしょうか。それ聖なるものは絶対に超えられないはずです。だからこそ聖なるものとして崇めているわけですから。しかし犯して、壊すということはそれを超えているような錯覚になるのです。でももとが聖なるものである以上は絶対に越えられないのです。

バタイユに触れて

 バタイユの論をもう少し追っていくことにしましょう。

性の二面性

 『殺戮にいたる病』の流れで行くと、「女は下等な生物だから」と江藤佐智子を見下しつつも結果的に愛しています。もし心底から女性を下等な生物だと思っていたら、この後、セックスはしないでしょう。たとえば虫を殺して、寂しいとは思いませんよね
 つまり稔は下等な生物だと思いながらも、その実、神秘性を抱いていたのです*4。そしてその根源、最初の経験は言うまでもなく母親です。ラストで稔は死んだ実母を犯しているのですが、フロイトを持ち出すまでもなく息子にとって最初の女性は母親です。稔は乳房を切り取りますが、乳房は女性の象徴以前に母親の象徴だから切り取って持ち帰ったのでしょう。

エディプス・コンプレックス

 なお我孫子武丸はフロイトをあからさまに意識しているくだりが見受けられます。
 性について無知だったころから、稔は母の裸を盗み見るたび下腹部が高まるのを覚えていた。(中略)そしてその〔六歳くらいの〕時から母と一緒に風呂に入るのを禁じられた。
 そして彼は父親の死を願うようになります。この一文では母親との入浴を禁じられていますが、入浴父親は掟を与え、行動を規制する存在として描かれています*5。そして父親と同様、法律もまた行動を規制します。
 殺人をしてはいけないという倫理観は刑法で規定されているからにすぎない、と僕は思っています。そしてこの<父親>への挑戦だとも受け取れるのです。

*1 河合隼雄『子どもと学校』(岩波書店)
*2 上掲書
*3 ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(筑摩書房)
*4 上掲書。
*5 wikipedia「エディプス・コンプレックス


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舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮社)

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阿修羅ガール (新潮文庫)

あらすじ

 興味のない男子、佐野とセックスをしてしまった<私>。膝蹴りを食らわして脱出したのはいいが、翌日、同級生からトイレに呼び出され、暴行を受けそうになる。すんでのところで反撃して、どうして呼び出したのかを問いただすと佐野が誘拐されたらしい。そうこうしているうちに、中学生の集団リンチがネット上で呼びかけられたり、隣人が自殺する。
 同級生で密かに思いを寄せる陽二と真相究明に乗り出すが……。

舞城王太郎の文体

 普通、小説というと「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」「山路を登りながら、こう考えた」、あるいは「夜は若く、彼も若かった」などの文体を思い浮かべる人が多いと思います。少なくとも「僕、今日、学校行ってね、友だちと遊んだんだ。そしたらね」という口語体はイメージしないでしょう。
 それでは舞城王太郎『阿修羅ガール』の冒頭をご覧ください。
 減るもんじゃねーだろと言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
 返せ。
 とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうもんじゃなくて取り戻すもんだし、そもそも別に好きじゃない相手とやるのはどんなふうであっても間違いなんだろう。佐野なんて私にとっては何でもない奴だったのに。
 言っておきますけど、長い心象描写で途中から小説の書き方に戻る……ということはありませんからね。ほとんど全てこんな文体で物語は進みます*1。
 ちなみに書いてみれば分かりますが、この文体で書き続けてしかも一定の意味が通るようにするのはかなり文章力が必要です。口語体は助詞を省くからです。例えば例文「僕、今日、学校行ってね、友だちと遊んだんだ。そしたらね」という文章は助詞を省略しないと、「僕は今日、学校に(へ)行って友だちと遊んだ。その時……」という文章になります。
 この『阿修羅ガール』は三島由紀夫賞を受賞したのですが、選考委員の中でも賛否両論。宮本輝なんかは下品で不潔な文章」「支離滅裂な大きなエネルギーを持て余していて、まだ人に見せる段階じゃない」「お子様相手」とこき下ろしましたし*2、「現代の女子高生の言葉遣いを効果的に使っている」*3と筒井康隆は絶賛しています。僕もこの意見には賛成です。ま、筒井康隆は面白がるでしょうねぇ。
 ちなみに僕は「企みとしては面白いけど、僕の肌には文体として合わない」です*4。

口語体は意外と難しい

 助詞を省くと文節の区切れ目が分かりにくくなり、その結果として意味が取りにくくなります。上の文章は苦肉の策として読点で誤魔化しているのですが、ブツ切りになってしまって読みにくい。西村京太郎の文章みたい。また他にも読点による強調が使えなくなるというデメリットがあります。
 A:「僕が、行くよ」と彼は言った。
 B:「僕が、行くよ」と、彼は、言った。
 Aは原を括っている印象がありますが、Bだとかえって読みにくい。それは読点が多すぎて強調したい箇所が紛れてしまっているのです。
でも上で引用した舞城王太郎の文章は口語で書かれているのに、ちゃんと意味が通ります。それはどうしてでしょう? 主述、修飾語・被修飾語が近くに置かれているからなのではないでしょうか。あるいは逆もどりしなくてすむ。
 例えば、「学校が近くにあって」「近くにあった学校で」。意味としては同じですが、「近くにあった学校で」と書かれた場合、読者は一瞬ですが「近くにあった」という単語を「学校で」を読むときに思い出さなければいけません。短い文章は無意識のうちに行なわれているので、さほど苦にはならないのですが……。
 主述、修飾・被修飾の関係は矢印を書いてみれば解りますが、「グループが違う佐野明彦」は矢印が逆向きです。しかしここの文章においてはさほど重要じゃありません。なぜなら「佐野明彦」が「男」だろうが「ヤツ」だろうが「彼」だろうが、意味を把握する上で支障はないからです。つまりこの文章で大事なのは「グループが違う」ことです。
 ところが「近くにあった学校で」という文章をさっき僕が例示したのですが、この文章では「学校」という場所を問題にしてます。そしてその補足的な説明として「近くにあった」ということを言っているのです。

シュールレアリズム

 さて、舞城王太郎はシュールレアリズムの系譜に属します。シュールレアリズムとは夢の中などの非現実的を描く作風のことです。『阿修羅ガール』は途中まで現実的なことが描かれているようにも見えます。もともとこれはフロイトが患者を診断するときに、「どんな夢を見ました?」という風に夢を重視していたことが挙げられます*5。そしてこれをアンドレ・ブルトンが文学技法として取り入れたのです*6。
 しかし第二部で完全に場面は転換。舞城王太郎の十八番、シュールレアリズムが繰り広げられています。童話風の文章なのですが、「ヌッラに言われてインチはフォークをもう少し前に押し付けます。フォークの先っちょは、ヌッラのお腹の中にギュウッとめり込みました」とあります。フォークを押し付けただけではめり込みませんし「フォークの爪あとが四つ赤い点になって並」ぶということはありません。
 さて、シュールレアリズムを語る上で外せないのが意識の流れです。これは頭に浮かんだことをそのまま書く、という手法です。 ここでもまたフロイトが登場します。フロイトを始めとする精神分析では自由連想法を使って、患者の考えていることの流れを分析しているのです。
 しかし、本当に思っていることをそのまま思っている順番に話してしまえば支離滅裂になってしまいます*7。つまり舞城王太郎は思っていることをそのまま書いている、と見せかけておいて、実は一字一句まで細心の注意を払っているのです。

新本格

 さて、冒頭では佐野の行方を追う、一見するとミステリの内容です。しかし舞城王太郎の関心は事件の謎そのものより人間の心に向いていると思います。それも人間の内なる暴力性や矛盾している心に。
 例えば中学生を片っ端から襲う、アルマゲドンと呼ばれる事件が起こります。アイコは陽二が無事か確認するつもりで電話をします。しかし「そしたら私も犯されてマワされて酷い目に遭うんだから」た途中から助けに来てと訴え始めます。そしてその後、こう述べています。
 何を言ってんだか。アイコ、そろそろそれくらいでやめときな!もう訳判んないよ。だいたいあんた、陽二が家で平和にしてるかどうか確かめるために電話したんじゃないの?それなのに危険な調布に呼び寄せてどうするんだって。何馬鹿なわがまま言ってんのさ。
 このようにアイコは自分の心の矛盾に気が付きながらも口をついて出る言葉はみんな理性と食い違ってしまうのです。この経験は、よくあることなのではないでしょうか。
 『好き好き大好き超愛してる。』『みんな元気。』なんかは全くの意味不明で、ナンセンスでした。しかし『阿修羅ガール』はタイトルの意味も森とのつながりも後でちゃんと回収されます。よく言えば「解りやすい」のですが……。

*1 海外で全文口語体を使って書かれた小説に『ライ麦畑でつかまえて』がある(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』白水社)
*2 wikipedia「阿修羅ガール
*3 同上
*4 もっともこれは僕がジョイスなどの「意識の流れ」の手法が余り好きではないからなのかも?
*5 フロイト『夢と夢解釈』(講談社)
*6 アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」(アンドレ・ブルトン『溶ける魚・シュルレアリスム宣言』岩波書店)
*7 アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」は本当に思いつくままに書いた詩である(上掲書)

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P・D・ジェイムズ『女の顔を覆え』(早川書房)

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女の顔を覆え

 何で画像がない? まぁP.D.ジェイムズなんか余り知られていない作家なんだろうけどさ……。『女には向かない職業』とかが有名ですよね? 某アニメの影響でw

あらすじ

 古き良き田舎の屋敷、マクシー家。そこでメイドのサリーが絞殺死体となって発見される。彼女の飲んだココアには睡眠薬が入っていた。
 殺される夜、マクシー家の跡取り息子、スティーヴンと婚約解消を一方的にしていたと解る。それが事件の引き金になったのか?

プロットよりも人間関係

 推理小説はプロットが命だとよく言われます。確かにプロットが破綻してたら何の意味もない。しかしP.D.ジェイムズの問題意識は人間関係、そして人間そのものに関する興味なのです。
 それは代表作、『女には向かない職業』*1のコーデリアとバーニーの関係や、『皮膚の下の頭蓋骨』*2のクラリッサをめぐる人間関係にも現れています。
 処女作『女の顔を覆え』では、早くもその問題意識が現れていて、マクシー家の人間関係を中心に話が進んでいきます。従って、十代の頃に初めて読んだのですが、退屈な小説でした(笑)。
 二十代前半の時に読んだ時の感想が、「あ、この人は人間関係を描こうとしてるんだろうな」と。ちょうどロス・マクドナルドが大好きな頃でした。今も好きですが。
 三十代手前で読んで思うのが、「面白い! 人間関係ってこういうものだよねー」というものでした。そして僕の創作上の問題意識とも大きく関わってくるのです。それは推理小説があまりに娯楽的になりすぎている、というものです。

重厚な小説

 さて、探偵役はシャーロック・ホームズしかり、エラリイ・クイーンしかり、天才的な頭脳を持った人というイメージがあります。しかし『女の顔を覆え』に出てくるアダム・ダルグリッシュ警部はごくごく普通の一般人です。
 繰り返しますが、P.D.ジェイムズはロジック、トリックのようなものには興味がありません。したがって天才的な探偵は余分な要素なのです。この小説の主人公はあくまでも死んだサリーにあるのであり、探偵ではないのです。

メイドが死ぬ

 この物語の被害者はメイドです。ヴァン・ダインなど従来の推理小説では、本当に脇役で名前すら与えられない存在でした。田舎の屋敷は当主を頂点とする家父長制であり、この小説でいうと、サイモン・マクシーを頂点としているのです。そして、従来の小説では『グリーン家殺人事件』*3のように家の者、一族の者が殺されていたのです。
 しかし、『女の顔を覆え』はメイドが殺されています。この特異性に意味を見出すなら、主従の主客転倒になります。つまり、本来は当主サイモンの都合で動くのですが、サリーが死んで犯人が捕まる日まではサリーの都合で動くのです。思えば婚約もサリーが一方的に解消していますが、この時のサリーの気持ちも証言次第で宙ぶらりんになっています。
「いまはもう、私たち、彼女が本心から振る舞っていたのかどうか永久に知り得ないと思うのですが」
 探偵は本来、推理小説で全知の存在であるはずです。したがってこの問いにも探偵は明快な問いを用意しなければなりません。この『女の顔を覆え』については犯人が解き明かされるばかりで、アダム・ダルグリッシュはこの問いに最後まで答えていません。つまり、全知の探偵ですら一メイドの心の中が解らない、という転倒が起きているのです。
 解説*4ではカントリー・ハウスは秩序の象徴だと述べられています。そしてこの小説は前述のとおり、主客転倒が起きているのです。

犯人の告白

 さて、探偵ですら被害者の心中が解らないとさっき書きました。しかし探偵にも心中が解らないのは被害者だけではありません。犯人の心中も書かれていないのですが、これはわずか二文の文章で的確に表現されています。
「彼女〔有澤注:サリー〕は一瞬私をあざ笑いました。次の瞬間、彼女は私の手の中で死んでいました」
 若島正は「心底震撼させた」「人間の底知れない深淵」などと評していますが、確かにこの二つの行間には何も書かれていません。
 しかし、だからこそ読者はこの時の殺人者の気持ちを想像するのです。

*1 P.D.ジェイムズ『女には向かない職業』(早川書房)
*2 P.D.ジェイムズ『皮膚の下の頭蓋骨』(早川書房)
*3 ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』(東京創元社)では娘二人を始め、一家のもの全員が殺されている。
*4 若島正「カントリー・ハウス再訪」(P.D.ジェイムズ『女の顔を覆え
女の顔を覆え』早川書房)



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道尾秀介『シャドウ』(東京創元社)

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シャドウ (創元推理文庫)

あらすじ

 凰介の母親は死に父の洋一郎と二人で暮らすこととなった。それを機に親友である亜紀の母親が自殺。夫、徹は大学病院に勤めており、屋上から投身自殺を図ったのだ。亜紀も車にぶつかり自殺未遂を図る──。
 徹は恵の不貞を疑っていて、その当てつけとして自殺したのだった。しかし凰介が洋一郎の部屋でパソコンを使っていると、〈ゴミ箱フォルダ〉から恵の遺書が見つかり……。

この本を読んだ理由

 友達から「有沢さん好みの小説がある」と薦められたのですが、かなり面白かったです。ミステリーは実を言うと視点の問題がすごく大事なんです。一人称視点なら、叙述トリックかもしれない、と疑えますが、三人称視点で叙述トリックを仕掛けるとなると非常に限られてきます。折原一もびっくりです。
 またフロイトの精神分析が下敷きになっていて、精神分析が大好きな僕にとってはかなり好みの小説でした。

後期クイーン問題

 この小説は法月綸太郎が意識していた後期クイーン問題*1を扱っています。後期クイーン問題とは端的に言って、「探偵」が提示する解決がどこまで信用できるかというものです。
 エラリイ・クイーンは後期、例えば『十日間の不思議』*2においてそれが顕著なのですが、果たしてどこまで自分の推理が信用できるのか、という問題に直面します。
 さて、これは推理小説の中だけに留まれば、フィクションの中での話で済まされます。しかし道尾秀介は『シャドウ』において精神医学の現場にまで持ち込みます。果たして統合失調症の知識を持った患者が、精神科医を意図的に誤診させることができるのか? という問題を突きつけます。
 またこの問題は実際に起きていて、うつ病を装い、傷病手当を詐取する事例が報告されています*3。また臨床で使われているDSMの批判点として「手引きを読んで症状を偽られる詐病との区別がつかないと言う意味では科学的な根拠は無いと批判が存在する」*4。

精神分析

 さて、『シャドウ』はフロイトを始めとする精神分析に大きく影響を受けています。そもそも『シャドウ』自体がユングの提示した精神分析の概念であり、英語のサブタイトルWho's the shadow?(誰がシャドウなのか?)からもそれが伺えます。
 以下、ネタバレを含みますので、ご注意下さい。

田地の二面性

 そもそも田地医師の二面性が発端となっているのですが、これもシャドウと言えます。つまり、亜紀を強姦しようとした田地医師は田地医師の「シャドウ」なのです。「田地先生、病院ではあんなすごい先生だったのに、じつは悪い人だったんだもんね」という凰介の台詞がそれを表しています。
 河合隼雄によると、シャドウが本体に取って代わる小説は多く、そのほとんどはシャドウが本体を滅ぼすとされています*5。このプロット全体を「精神病」として見るなら、そもそもの発端からして「シャドウ」が本体を滅ぼすという指摘ができます。

 さて、このフロイトのエディプス・コンプレックスによると、息子は父親を憎み、殺害するとされています。もちろんこれは心の中で、ですが。フロイトの規定する父親は血縁関係のある父親ではなく、権威をもって〈否〉という禁止を与える役割のことです。例えば、権威主義的に振る舞う教師、医師がその典型例ですが、これらは父親としての一面を担っているのです。
 さて、そういった面で見てみると田地と洋一郎の間には、精神分析の文脈で言う父親と息子の関係が成立していることになります。田地は洋一郎の大学時代の恩師であり、また医師と患者の関係でもあります。

母の死と自立

 加茂家には母親がおらず、誰かが母親として振る舞うしかありません。凰介が母親として振舞っているのですが、家事を率先して行なっているばかりではありません。
 精神分析において母の役割は全てを受け入れてくれる存在なのです*6。凰介が「いつか、一緒に考えよう」と言った時、凰介が洋一郎の〈母親〉としての機能を担ったのです。そしてこれは河合隼雄が指摘するように*7、母の死によって凰介の自立が促されたのです。


*1 法月綸太郎「初期クイーン論」(『現代思想』1995年2月号)
*2 エラリイ・クイーン『十日間の不思議』(早川書房)。
*3 「うつ病詐欺」摘発 医師騙すマニュアルあった!(2009/1/28)J-CASTニュースより
*4 wikipedia「精神障害の診断と統計の手引き」、問題点の項参照。
*5 河合隼雄『影の現象学』(講談社)
*6 河合隼雄『こころの処方箋』(新潮社)ではこれを「甘い目」、「厳しい目」と表現している。
*7  河合隼雄『影の現象学』(講談社」



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佐藤友哉『クリスマス・テロル』(講談社)

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クリスマス・テロル invisible×inventor (講談社ノベルス)

経緯

 文芸同人誌を発行しているのですが、知人から「有沢さんの小説ってワンパターンだよね」と言われました。はい、そこは素直に認めます。
 というわけで若い力をもらおうと佐藤友哉の『クリスマス・テロル』を読みました。

あらすじ

 家出をした冬子は貨物船に乗り込み、とある島に行き着く。熊谷直人の家で居候することになった冬子は隣の家を監視し、ただその様子をパソコンに書くだけの仕事を頼まれる、というどこかで聞いたことのある話。

オースターをモデルにするのはいいんだけど

 この作品がポール・オースターの諸作品をモデルにしているのは一目瞭然です。
「そこでだ。お前にも出来る仕事を与えてやろうと思う」(中略)
熊谷の瞳が厳しくなった気がした。「監視だ」
 一方、オースターの『幽霊たち』に出てくる描写も「他人が書いたものを見張るだけなんて、要するに何もしないに等しい」と酷似しています。似るのは別に構わないんだけど似せる意図が感じられません。
 ポール・オースターでは僕の解釈だと『幽霊たち』*1で問題になっているテーマは、近代人の見る/見られるという概念の希薄さです。そして、佐藤友哉はさらに一歩進めて、意識にも上っていない、すなわち見えていないのではないかと言っているように感じます。
 中島梓は『コミュニケーション不全症候群』*2で下記のように論じています。
 混んだ建物の中で降りようとする。するとその前に立っている人間たちがあたかも「人の壁」であるかのように無表情である。あなたは必死に「降ります」「通して下さい」と叫ぶのだが、人々の壁は、まるであなたが実力行使で突破するまでまるで存在しないかのように無表情である……。
 しかし中島梓によればこれは人が多すぎる都市部特有の現象だといいます*3。
 したがって「農協、農協のマーケット、消防署、学校、飲み屋、食堂。ゲームセンターやマックは見当たらない」小学生全体の数が六十数人では起こりえないことなのです。
 ここで僕が問題にしているのはリアリティ云々などと言った問題ではありません。中島梓は都市社会において人間関係が希薄化してると指摘。本質的に人口密度が高すぎることによってもたらされる弊害を分析しています。一方、佐藤友哉の『クリスマス・テロル』はその逆を行っているのです。

 幾ら平日の午前中だからってこれは少なすぎる。冬子は田舎に対する恐怖に似た感情を認識しながら、とりあえず散策を開始した。
 つまり都市生活者の批判を行っているとは考えにくいのです。
 また、物語的な展開で行くと思い込みが激しいタイプかという質問をされた時に、「もしかして……これって……」というイヤな予感がしました。そしてページをめくってみると案の定、というオチでがっかりしました。某新本格作家と全く同じオチです。
 いや、同じオチが悪いとは言いません。悪いとは言いませんが、原形を留めないようにしようぜ……。オースターの件もそうだったんだけどさ。
 批判的に展開するんならともかく、ほとんどそのままじゃないの、これ。

終章

 終章は確かに面白かった。むしろこの本の狙いは終章の特異な語り口、というのか、後書きに代えた終章と言ってもいいくらい。
 しかし、後書きの色が出すぎてしまった感じが否めない。これは後書きの文体だよね。星新一には後書きを模した小説、その名も「あとがき」があるのだから*4、さほど驚きもしませんでした。
 また超個人的な理由、私怨を晴らすために書かれた小説なら筒井康隆の『大いなる助走』の方が面白い。『大いなる助走』の方がはるかにテロであり、またテロル(恐怖政治)なんだぜ。
 『クリスマス・テロル』はごくごく少数の事情を知っている人しか楽しめません。しかし、『大いなる助走』は直木賞の名前さえ知ってれば楽しめます。いわば『大いなる助走』は文壇批判になっているのです。
 ひるがえって『クリスマス・テロル』は本当に超個人的な私怨のみで書かれている感じがします。

*1 ポール・オースター『幽霊たち』(新潮社)
*2 中島梓『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房)
*3 同書。


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