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有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

倒叙

ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『ロンドンの傘』(二見書房)

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刑事コロンボ―ロンドンの傘 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

あらすじ

 売れない役者のニック。彼は妻のリリアンを使って、劇場主のロジャー・ハヴィシャム卿に枕営業のようなことをしていた。もちろん、リリアンも快諾していた。『マクベス』開演直前にハビシャム卿の怒りが爆発。ハビシャム卿は二人を演劇界からの追放しようとする。ニックはかっとなって絞め殺してしまった。
 折しもロンドンにはコロンボ警部がスコットランドヤードを視察しようとしていた。原題である「DAGGER OF THE MIND」*1からも分かるように、マクベス尽くしの一作。

マクベスのオマージュ

 この小説の特徴は言うまでもなく、マクベスを下敷きにしています。全編に渡るマクベスの引用、前半には老婆が占いで大成功を予言。これもシェイクスピアのマクベスと同じ構成です。素材を上手く料理すると、こんなにも面白くなるのかと思いました。
 刑事コロンボは犯人との心理戦に焦点を当てているのですが、今回はニックとリリアンに焦点が当てられ、緊迫感が。舞台をどうしてもロンドンにせざるをなく、その結果、警察の描写が少なくなったせいかもしれません。タナーからの脅迫もあり、推理小説というよりは全体的にサスペンスを読んでいるようでした。
 また証拠の傘を回収しようと、蝋人形に忍び込むところも緊迫感がありました。
「これならナイフの刃が入りそうだ。こうしてひっぱっててくれ……」
 ニックは小型ナイフをとりだすと、隙間に差しこみ、落し金を刃先でこじ開けようとした。が、なかなか力が入らず、すぐに刃先がツルッと滑ってしまう。二度、三度と失敗を繰り返し、焦れば焦るほど刃先が滑る。
「落ち着いて、ニック。もっと奥へ差しこめないの? これじゃ何回やっても同じだわ」
 鍵を開けて中に入る描写ですが、こんなにも濃密に描写されています。基本的に読者が読む時間と作中人物の心理的な時間とは同じです。例えば単に「中に入った」と書くよりも行動描写を重ねたほうがより緊迫感が増します。

人物造形

 このほかにもニックが臆病な性格だということも影響してるのかもしれません。ニックの性格はもちろんシェイクスピアのマクベスによるところが大きいのですが、原作のマクベスも臆病者です。例えば、ダンカン王を殺害後、「眠りを殺し」たと表現されるように、眠れなくなります。
"Sleep no more!
Macbeth does murther sleep"(有沢訳:これ以上眠れない! マクベスは眠りを殺したのだ。)
  マクベス夫人もまた原作では野心家でありながら、臆病者だということが窺い知れます。マクベスは不眠症にかかりますが、マクベス夫人は夢遊病にかかってしまります。しかも自分の手に血がついているような錯覚に陥り、何度も手を洗うのです。例えば
「まだ血の臭いがする、アラビアの香料をみんな振りかけても、この小さな手に甘い香りを添えることは出来はしない。ああ! ああ! ああ!」
という台詞が出てきます*3
 また、「いくら大海の水をかけようとも、この血は洗い流せはしまい」という台詞が『ロンドンの傘』では引用されていますが、この時の台詞です。
 もし何の罪も感じないような冷酷な女だったら、マクベス夫人はこんな行動に出るでしょうか。しかし自分の野望を達成するために、マクベスを叱咤するのです。
 二人の性格はちょうどニックとリリアンにそのまま適応できるのは言うまでもありません。リリアンはニックを唆し、大女優をほしいままにするのです。

証拠

 この作品を推理小説として読むと、不満な点があります。コロンボはけっこう犯人を罠にはめることがありますが*2、今回は悪質。しかもリリアンは白を切れます。「どうしてこの真珠があの時の真珠だと言い切れるの?」といえば良いのです。
 もともと卑怯に思えて犯人を罠にはめる話は好きではないんですよ。その上、言い逃れができないのか、本当に犯人だと証明できているのかと考えてしまうので余計にあらが目立ったのかもしれません。この辺りは本当に好みですが。

*1 「A dagger of the mind, a false creation,」(有沢訳〔ダンカン王を暗殺した〕短剣を気にすると、誤った〔考え〕を作り出す)
*2 『指輪の爪あと』ではジャガイモをマフラーに詰めて、犯人に修理へ出すよう仕向けている(ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『指輪の爪あと』二見書房)。
*3 シェークスピア『マクベス』(新潮社)


  • ニコラス・ブレイク『野獣死すべし』(早川書房)

  • スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め』(紀伊国屋書店)
  • オースティン・フリーマン『ソーンダイク博士の事件簿(2)』(東京創元社)

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  • ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『探偵の条件』(二見書房)

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    新・刑事コロンボ 探偵の条件 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

    あらすじ

     クライトン弁護士は、内縁の妻マーシーを別荘で絞殺した。そして、その罪を愛人のネッドに着せる。しかし私立探偵、サム・マーロウはその様子を盗撮していた。彼はクライトンに雇われていたが、高圧的なクライトンに耐えかねて密かに弱みを握ろうとしていたのである。
     コロンボはこの事件に挑むが、数々の壁に突き当たっていく。確たる物証がないのである。その上、犯行時刻の監視カメラには交通違反で……。監視カメラにはクライトンの姿が収められていた。

    はじめに

     既視感が否めなかったのですが、実はテレビで見てました。だからある意味、二度目です。

    刑事コロンボといえば

     故ピーター・フォークが主演していましたね。「うちのかみさんがね」で有名ですが、コロンボが相手を油断させるためにわざと架空の「かみさん」をでっち上げてると思われるかもしれません。
     しかし、「かみさんよ、安らかに」のラストでは*1、風邪を引いた「かみさん」に電話を掛けています。また『ロンドンの傘』*2では、空港で乗客に「すいません、奥さん。その旅行鞄を見せてもらえませんか? ひょっとしてあたしの……いや、うちのカミさんのじゃないかと……」と尋ね回っています。
     したがって、コロンボの奥さんは話の上で実在します。

    倒叙ミステリ

     さて、刑事コロンボは最初から犯人が分かっていますよね。日本なら、古畑任三郎が有名ですが、こういうものを倒叙ミステリと言います。倒叙ミステリを書こうと思って、参考文献として読みました。

    科学技術

     さて、今回は自動でシャッターを切るカメラが登場します。いわゆるオービスなのですが、物語はオービスが導入されて間もない時期という設定です。
    「こんなのは無茶だ。いきなりカメラでパチリなんて」
    「カメラが正しく動作していたという証拠はあるのか?(中略)」
     加えてこの物語では隠し撮りが重要な手がかりになっています。例えば、サム・マーロウはクライトンの別荘を盗聴します。
     ここで僕は監視社会などを論じるつもりはなく、公平性を問題にしています。オービスも津々浦々に行き渡っていますが、これは法律、特に刑事罰にも似てます。しかも法定速度を守らないと罰金を支払うというルールも(少なくとも)州の中はどこにいても適用されます。殺人が行われたら、どこでも同じように裁かれますよね*3。
     またクライトンは薬をシャンパンに入れるのですが、これもまた人間なら公平に効きます。しかも、「どこででも簡単に入手できる睡眠薬」を使っています。これは足が付きやすいという物語の都合もありますが、公平さいう点において、オービスや法律と類似性を持っていると解釈できます。
     クライトンは警察に圧力を掛けるのですが、結局はコロンボに捕まります。公平性の極地がオービスと影だと思うのです。この二つは物理現象に従う限り、人を選びません。
     つまり、この物語は公平性を示すものが散見されるのです。そういった文脈で見ると日本人の庭師もただのオリエンタリズムではなく、別の視点で捉えることができます。つまり、日本人も『探偵の条件』において、公平に証言しているのです。
     
    *1 新・刑事コロンボ「第53話 かみさんよ安らかに」参照。
    *2 ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『刑事コロンボ』(二見書房)



    ジョン・D・マクドナルド『夜の終り』(東京創元社)

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    夜の終り (創元推理文庫 151-1)

    あらすじ

     物語は最初、スタッセンはじめ4人が死刑を宣告されるところから始まります。群狼事件と報じられたこの事件ですが、動機が全く持って〈異常〉で道徳倫理、行為の必然性、その他もろもろが見えてこない。
     スタッセンの手記を通じて明かされますが、狂ってるとしか思えないのです。しかし、狂った中にも理性はあるもので、スタッセンは独自の行動様式を持っています。その行動様式をスタッセンの手記では語っています。

    分類上の難しさと面白さ

     一応、倒叙ミステリに分類いたしましたが、倒叙というのとはまた違うような。というのも倒叙というのは刑事コロンボや古畑任三郎のように犯人が最初に解っていて、探偵役との心理戦を描くものがほとんどです。
     また逮捕されるまでが犯人と探偵役との勝負なのですが、『夜の終り』では、すでに逮捕されてしまっています。強いて言うなら犯罪心理小説……なんですかね?
     さらに、紹介文にもあるように「ノン・フィクション・スタイルの迫力」と書かれています。僕はそのような感じを受けなかったのですが、犯罪者の手記、そして弁護士の手記など交えながら語るスタイルはノンフィクションの方法の一つだと思います*1。
     理屈として一つ上げられるのは、三人称視点はいつもフィクションなんです。というのも僕たちはいつも一人称視点でしかものを見れませんよね。しかし、この作品は前述の通り、手記で構成されていて、その点では一人称です。
     しかし全体を見渡してみると、事実上は複数の心の中を描いている点で三人称といっても差し支えないと思います。この作品の形式から、一人称視点と三人称視点を織り交ぜることにより、フィクションにもかかわらずあたかもノン・フィクションとして捕らえさせることができると解釈できます。
     そういった意味で対照的なのが、トルーマン・カポーティ『冷血』*2でしょうね。逆に『冷血』が小説が三人称にも関わらず単なるフィクションとして受け取られないのは、事件の舞台となったホルカム村の詳細な叙述などもそうですが、やはり〈現実〉の、つまりテキストの外部との関係性があります。
     『冷血』の場合だと、新聞などでみんな知っていたわけですし、今日でも裏表紙などに、「関係者にインタビューをして書かれた」と記されています。これによって、『冷血』はノンフィクション・ノベルだと言えます。しかし、もし、このことが嘘だったとしたら? もし実際には全く取材をして書かれたものではなかったとしたら?
     その意味でノンフィクションとフィクションは曖昧ですよ。
     ちなみに『冷血』の後、ノンフィクションノベルブームが起きました*3。しかし『夜の終り』が『冷血』を意識して書かれたものかというとそうではありません。なぜなら『冷血』の発表時期が1965年に対し、『夜の終り』が1960年だからです。

    狂った中の理性

     スタッセンは殺人を犯した理由を弁護士の会話の中でこう語っています。
     「もし相手が価値のある人物なら、大きな損失だろうということですよ。でも相手が(中略)何ともならない人物だとしたらどうして罪悪感(中略)を感じます?」
     倫理観が全く欠如しているわけではなく、むしろスタッセンの倫理観が社会から見て逸脱しているんですね。つまり、スタッセンは「すすんで道をきりひらいてゆく人間、病みただれたこの社会に抵抗する人間、われわれがはまり込んでいるこの大きな罠から、進んで人類を救い出そうとする人間」などを価値ある人間として認めています。
     この問題は実に難しい。スタッセンのように殺人という形でなくても、我々は例えば会社に多く貢献してくれている人物は給料を多くしていますし、心の中では意識的にせよ無意識的にせよ、スタッセンのような「価値ある人物」を尊敬します。
     つまりスタッセンは僕たちをデフォルメした姿なのです。後にスタッセンが自己分析するように、愛情に飢えていたのかもしれませんが、それは全くの部外者がやってはいけない。またそのことをスタッセンは二度に渡り、拒絶しています。
     一度目は精神分析の観点から。
     新聞記事の中でもうひとつ腹がたったのは(中略)なまっかじりの精神分析を試みようとしている点だ。〈先天性精神障害〉のレッテルを貼るのがお気に入りの結論らしい。どうやらこいつは、世間を安心させたいらしい。性格異常──規範からの逸脱者──というレッテルを俺に貼り付ければ、明らかに、罪は文明社会にあり、ということにはならないからである。こ
     このあと、「なまっかじり」の精神分析が好きそうな、幼少期のエピソード、父親との関係を書いて精神分析を挑発しています。挑発と書いた理由は、精神分析をしたくても、精神分析をしたら、上の言説に回収されてしまうからです。
     精神分析を勉強した身の弁護に立てば、マスコミに登場する精神分析などは大概、「なんちゃって」です。精神分析は対話の繰り返しなので、本人に何回も会わないと、そして信頼関係を作らないと精神分析はできません*4。彼らが言えることはあくまでもよく似た犯罪を犯した他人のことであり、その人のことではありません。
     二つ目は、
     火星人社会学者がここを観察し、誤った、だがもっともらしい結論に到達することを想像してみるのも一興だ。(中略)そしてこのおれも〔いけにえと同じく〕なにかでたらめで不合理な方法で(中略)この死刑という疑わしい名誉に浴するために選び出されたものと思わざるをえない。
     二つの箇所は少し間が開いていますが、こうして並べてみると〈先天性精神障害〉というレッテルは社会を安心させるためのいけにえだと解釈することができます。
     そう考えるとオウウェン弁護士の
     われわれは、真の目的は快楽の追求にあリとし、授業は面白くすべきだ、と主張した。そして集団訓練を説き、努力より保護を、挑戦よりは安全を、と説いた。(中略)自分たちがは自分たっぷりにそっくり返って、彼が急速におとなになることを期待したのだ。一人前になったからだには、子供じみた(中略)感情しか宿っておらぬことに気づいて、なぜわれわれは慄然するのであろうか?
     という内的独白も意味を帯びてくるようになると思うのです。

    *1 むしろ僕は19世紀初頭の文学作品を思い出す。例えばブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』は手紙、日記などを並べた小説である。
    *2 トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮社)
    *3 wikipedia「冷血
    *4 対話のない精神分析が至難を極めることはフロイト自身『シュレーバー症例論』の中で述べている。

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    ジャン=ジャック・フィシュテル『私家版』(東京創元社)

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    私家版 (創元推理文庫)

    あらすじ

     イギリス人の大人気作家であるエドワード・ラムはゴングール賞を受賞するなど華々しい経歴の持ち主だった。しかし、そのほとんどは出版社社長兼売れない作家の「わたし」が手を加えてきた。しかも学生時代から続けてきた同人誌「オリエント文学」時代からずっと。
     エドワードは「オリエント文学」へは女性目的で入会していた。そんな「オリエント文学」時代、「わたし」はヤスミナという少数民族の娘にひかれるようになる。しかし彼女は殺されて、第二次大戦下の混乱や戸籍にも載っていない少数民族ということもあり事件は闇に葬られる。
     きっと儀式の生贄にされてきたんだ。仕方のないこと……「わたし」も長い間そう割り切ってきた。しかしエドワードの新作原稿を見たとき、「わたし」は確信する。彼がヤスミナを殺したんだと。
     そしてエドワードを破滅させようとするが……

    フランスらしいミステリー

     えー、フランス文学はリア充向けです。というのも必ず色恋沙汰が絡むのですから。例えば、ボアロー&ナルスジャックの『悪魔のような女』、カトリーヌ・アルレーの『わらの女』などなど。
     そもそも、フランス随一の怪盗であるルパンが『カリオストロ伯爵夫人』において、クラリスと結婚しても二度、三度と結婚する話が小説になったりするなど、その女と男の関心の高さが窺えます*2。
     さて『私家版』でも過去の恋人の復讐に燃える「わたし」、女たらしのエドワード・ラムと女性問題には事欠きません。

    ジャック・デリダ(1)パルマコン

     恥ずかしながら1960年以降のミステリはほとんど読んでいないのですが、僕は間違いなくこの作品はデリダの影響を受けてると思います。
     こう書くと「なんでもかんでもポストモダンに結むすびつけている」と、からかわれそうですが、かなりデリダの影響を受けてる、と思ってます。まず時代からハッキリさせておきます。ジャン=ジャック・フィシュテルが『私家版』を書いたのが1993年、ジャック・デリダが『声と現象』において脱構築を試みているのが1967年です。確認のために読み直してみたら、こんな記述を見つけました。
    超越的ロゴスの問題、つまり現象学は伝統的に言語の中でその還元の操作の結果を産み出し、提示するものであるが、その伝承された言語の問題を提起したことは一度もなかった。前置きをつけられ、引用符にはさまれ、修正され、刷新されたにもかかわらず(後略)。
     この後、引用については『責任有限会社』(1988年)『精神について』(1987年)などでサールやハイデガー相手に……少しのイヤミを込めて、論じられるてーまでありますが、伊達や酔狂でジャック・デリダを引用しているのではありません。むしろこの『私家版』を論ずるに当たってなくてはならない要素の一つだと思っています。

    毒と薬の両義性

     デリダは「昔、古代ギリシャの人々は毒も薬も同じパルマコンという単語で現わしていたんだよ」と語ります。それだけならトリビア程度ですが、デリダはここからさらに「つまり昔の人はある草を与えた時点では、毒か薬か分からなかった」と結論づけます。これはキバヤシも驚きの発想に見えますが、もし区別がついていたなら違う言葉で表わされていたはずだというのがその理屈です。
     この発想は、ジャン=ジャック・フィシュテル『私家版』においてもくり返し見られるテーマです。例えば細かいところだと懲罰と憎悪はインド・ヨーロッパ語族では同じ単語だったと述べています。 
    わたしの記憶の奇妙な始動装置が働いて、大学時代のある記憶が蘇ってきた。それは〈カッド〉という語のインド・ヨーロッパ語族における語源についての記憶だった。この語は〈憎悪〉を意味すると同時に〈懲罰〉をも意味している。
     まさにこの発想はデリダが毒/薬の二項対立において言及したのと同じである。
     つまり、憎悪の感情は〈懲罰〉にも単に〈憎悪〉にもなりうるが、その時点では解らない、ということです。実際、この『私家版』という小説を読んでて僕が感じたのは憎悪と懲罰が張りついたような、「わたし」の感情でした。
     また、過去の無名作家、アーウィン・ブラウンの作品をエドワードが盗作したのでは、という疑いを向けるという作戦です。この作戦でエドワードの本棚に隠しておいた私家版が発見されないかもしれないという点を評して「わたし」が時限爆弾のようだと評しているのも興味深いです。
     時期はもちろんのこと、成功するかも解らない、そして下手をすれば自分の身も滅ぼしかねない。
     しかも翻案権を勝手に侵害されたことになるのですから、いつ遺族から裁判の申し立てがあってもおかしくありません。この計画はまさにデリダの言うパルマコンを思わせます。

    ジャック・デリダ(2)翻訳と盗作

     さて、デリダは1987年の著作『精神について』で、ハイデガーの〈精神geiste〉という単語がフランスで〈精神esprit〉に変わっていく過程を痛烈に批判しました。
    〔ハイデガーの〕講演のプログラムが悪魔的に見えるとすれば、それは、そこに偶然的なものが何もないにもかかわら、そのプログラムが最悪のものを、すなわち同時に二つの悪を資本に組み入れているからだ――ナチズムへの支持と、いぜんとして形而上学的な身振りと。この曖昧さは引用符の狡智、ひとが決して適切な尺度を手にすることのない引用符の狡智(常にそれは多すぎるか少なすぎるかだ)の背後で、Geistによって取り憑かれていることにも由来する。
     このデリダの文章からは翻訳、引用という作業は意味を多かれ少なかれ変えてしまう、ということが読みとれます。
     これは、『私家版』の細部にわたるエピソード、例えば、「オリエント文学」でエドワード・ラムが既存の小説を剽窃したというエピソードとも一致します。
     そしてそれを「わたし」が手直しして出版したというエピソードとかとも一致します。
     さらには翻訳と盗作の間に位置する翻案というキーワードも出てきます。

    ユングのシャドウ

     さて「わたし」の人生は影のような人生だったと述べています。まさにユングのシャドウを思い出させます。自分にはなくて、無意識に欲しがっている相手の性格を投影することです。
     「わたし」にはエドワード・ラムの世渡りの上手さ、放蕩さ、そういう部分はありません。なので引かれているのでしょう。しかし、いつまでも彼は影の人生ではなく、多くの影を題材にした小説*4のように「わたし」はエドワード・ラムに反旗を翻します。面白いと思うのは記憶喪失を利用すること。影は無意識に直結した、つまり「覚えていない部分」に直結しているからです。


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    ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『歌う死体』(二見書房)3

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    刑事コロンボ―歌う死体 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクショク)

    あらすじ

     伝説の歌手、ブラーデンが十年の歳月を経て、新曲を出すという。それを取材しにニュースキャスターのシルヴィアが彼のアパートまで訪問した。しかし新曲の楽譜を見せられた彼女は唖然とする。そこには何も書かれていない五線譜。そのことを指摘すると急に怒り出し、シルヴィアに襲いかかったのだ。揉み合っている隙に殺してしまう。
     正当防衛だが、クリーンなイメージを売り物にしているシルヴィアにとって、それは致命的なことだった。投身自殺を擬装することになったのだが……。

    勘違いなど

     その1 タイトルを入れるときに間違って『歌う白骨』と入れかけて、『歌う死体』と入れ直しました。『歌う白骨』はオースティン・フリーマンのこれまた倒叙でしたね。しかも元祖、倒叙です。どうやったら間違えるんだろう(笑)
     その2 途中までシルヴィアを音楽評論家だと思ってました。だって講演会がある、とかアニーが言って、しかも有名人だというから、てっきり……、一応、肩書きには目を通したんですけどねぇ。漫然としか見れていなかったんでしょうかね。っていうかこれ致命的じゃんw

    物語の進め方

     さすがTVドラマのノベライズだけあって、物語の進め方は上手い! 謎につつまれたブラーデンの人物紹介と、物語進行、そしてシルヴィアの性格を同時にこなしてますからね。「とても四十度の熱をおしての本番とは思えんな」という高熱をおしてでも出る責任感の強さや「うちの秘蔵っ子だからな。ほっといてもスポンサーがふるいついてくる」という社内の地位……。
     そして、物語の主役(被害者)になるアンドリュー・ブラーデンの紹介……。
    ヤク中で廃人同然、ですか? そう、そういう噂も流れてる。しかし、二十五歳の若さで引退して以来、実際にブラーデンと会った人間は業界内にも一人としていないのです。
     そして放送が終わりくだんのブラーデンから電話がかかってくる……。話があるからきてくれ、と。
     指定された住所に行ってみると、「新曲がある」という。しかしその楽譜には何も描かれていなかったんです。おまけに新曲は確かにある、といって口ずさみもした。が、それはとても歌とはいえないような無気味なメロディです。ここでひょっとしたら狂ってるんじゃないのかって疑問を持ちます。

    映像化できなかった理由


    1.未消化の謎があるように思える

     なぜ、白紙の五線譜を見せたのかが僕の中では解せない謎の一つ。
     その1 映画『シャイニング』よろしく、狂ってしまったのか。『シャイニング』にはスランプ中の小説家のジャックが一心不乱にタイプライターに向かってるの場面があるんです。奥さんのウェンディがそれ覗きこむと、「All Work and No Play Makes Jack a Dull Boy(仕事づけで遊ばないとジャック*1はダメな子になる)」という額縁に掛けたいようなありがたすぎて涙が出そうな*2言葉が延々と数十ページに渡って書かれているのです。
     その2 ジョン・ケージの4分33秒*3よろしく何も演奏しないという音楽だったのではないか。
     その3 あぶり出し。さり気なく触れられていますがエディーが告白の手段として音楽をプレゼントする際、歌詞にメッセージを入れて送った、と言っているので、それを使ったのかなぁ、と。
    などのさまざまな想像の余地がありますが、最後にマーシャに宛てた手紙を読むと、歌は確かにありますので、2番は否定されます。うーん、というと残る可能性は1か3になるけど……。

    2.音楽が非常に難しい。

     あるサウンドノベルの制作に携わらせて頂いているのですが、そこで思ったのが、想像以上に演出が難しい、ということです。この場合、「デビューと同時に伝説化したバンドで、ティーン・エイジャーのあいだでは神様のように崇められていた」カリスマ的なロックンローラーが殺されてますから、曲もカリスマ性のあるものが求められます。
     原作者が求めるような音楽が得られなかったんじゃなかったのかなぁ、と思ったり。

    3.コロンボの出番が非常に地味すぎる

     いや、別に007みたいに派手に登場すればいいってもんじゃないですけど(笑)。あまりにも今回は登場が地味すぎて……。いや、別に古畑の「黒田青年の憂鬱」(三谷幸喜『古畑任三郎 殺人事件ファイル』フジテレビ出版所収)のように最後の一場面でチラッと登場するっていう方法も僕はありだと思います。それが一般受けするかはまた別として。

    どーでもいいけど

     あれ、サーシャってロシアではおにゃのこの名前じゃなかったっけ?
     フェイトには運命って意味があるんですね!


    *1 ここではJackを普通にジャックと訳しているが、任意の男、つまりmen程度の意味なのかもしれない。
    *2 ちなみにこの涙は他の意味がある。
    *3 何も演奏しないという素敵な音楽。ちなみにJASRACがこれを保護したら際限なく収益が得られる。


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    キース・オースリー『ホームズ対フロイト』(光文社)3

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    ホームズ対フロイト (光文社文庫) シャーロック・ホームズのパロディは数知れず。例えばニコラス・メイヤー『シャーロック・ホームズの素敵な冒険』、エラリイ・クイーン『恐怖の研究』などなどがあります……がそれらは微妙orz例えばヴィクトリア朝にはないはずの腕時計が出てきたり(ちなみに腕時計の普及は第一次大戦以降)すると萎えるんですよねぇOTLこいつヴィクトリア朝のこと何も知らないだろ、みたいにね。だからホームズパロディってそう言った意味じゃかなり難しいんですよね。通常の推理小説に比べてホームズの知識まで要求されますから。
     しかし著者はフロイト研究者ということもあって、ホームズの生きた時代の時代考証はばっちりです。推理小説としての評価は……まぁこんなもんかな?確かに本格推理小説のようなロジックはないもののコロンボのような犯人が先に解ってそれを探偵役が追いつめていく、という倒叙推理小説と見ればいいんじゃないでしょうか?またエミリー・ヴィンセントの日記ということもあってホームズやフロイトに追いつめられていく、という面じゃサスペンスとして見ることもできます。僕だったらサラを犯人にして、エミリーの記憶を操作したという落ちを用意しますけどね。あるいはサラをかばうために……とかクリスティっぽい落ちを用意しますね。
     また上手いと思ったのはフロイトとホームズの絡ませ方です。エミリー事件の聞き込みの一環として処理してます。また事前準備(?)としてワトソンがホームズの鬱病の心配して、フロイトの論文を読んでいます。ワトソンが横車を回すケースは本編じゃ『技師の親指』『海軍条約文書事件』、あと『疲れたキャプテンの事件』だけですから珍しいんですよね。横車の回し方が下手な僕は勉強になりました。
     でもやっぱり<ホームズ・パロディ>ということを固執している感じ。マイクロフトは果たして出す必要があったんでしょうか?まあ、アイリーン・アドラーやジェームズ・モリアーティを出さなかった分、ましでしょうが(笑)
     では。

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    東野圭吾『赤い指』(講談社)2

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    赤い指 内容としては息子が行った(かもしれない)殺人事件を家族総出で隠蔽する話です。
     んー、確かに認知症や親子問題をテーマにした深い作品……みたいに見えますが、良くも悪くもそれだけなんですよね(苦笑)何か深いように見えて底が浅く感じられます。悪い意味でハリウッド映画みたいな印象でした。ほらハリウッド映画って家族問題しか扱っていなくて、しかもそれは肯定されますよね、無条件に。小説や芸術の意義って今まで常識だと思われてきた価値観に石をポーンって放り投げてやることだと思います。例えば自分の意思で行動してるように見えて誰かに動かされてるんじゃないか?とか。この問題なら本当に少年<だけ>が悪いのか?に絞られてくると思います。確かに殺した直巳の行為は正当化されるものじゃありませんけどね。
     あと、あと家族が馬鹿すぎだろ。読んでて、わざわざ証拠残しに行かなくとも^^;と思いましたね〜。自宅の庭に埋めれば澄む話じゃないか。なぜ公園まで捨てに行くのかが理解に苦しむところです。隣人に見られても「生ゴミを埋めるため」と言えばいいんじゃないでしょうか?
     また自宅の庭に死体が転がってる=息子を疑う時点で三重子は母親としてだめぽ。だって誰か変質者がやってきて、庭に捨ててないってどうして言い切れるんでしょう?父親も同様です。両親の心理としては普通、息子を疑うよりは変質者説を採ると思うんですけどね。その辺がリアリティに欠けるかな、と^^;
     更に言うなら、息子を、と言うか息子を取り巻くディジタル化された環境を一方的に悪として描いている節があるのが気に食いません。確かにイジメ問題で引きこもりがちになった直巳は一種のディジタル依存症にかかっていると言えます。しかし、ゲームとチャットの世界は全く別物なんですよ。なぜならゲームは完全にPCを相手にしてるのに対し、チャットやBBSというのはかなり高尚なことを頭でやってると思うんですよね。
     だって画面の前には人間がいるのに、返ってくるのは文字列だけです。オフラインのコミュニケーションに比べてかなり情報量が少ない。またHNを変えても空気読めないとまたはじき出されてしまいます。
     また年齢の並列化がおきます。これは勝手に名付けた名前なんですけど、例えば平均年齢22歳のところに15歳が飛び込むと最初は「若いな^^;」とか15歳としてみてくれますけれども、うち解けるに従って22歳の行動規範に照らし合わせてみるようになります。つまり対等な立場として見てくれるようになるんですよね。例えば話に入れない人をいかに救い出すか、とかね。ちなみに僕は15歳にチャットデビュー。そのときのメンバーが大学生、社会人とかでしたから色んな意味で勉強になりました。
     そんな僕の経験から言うと直巳の性格じゃチャットで知り合った七歳の女の子と会うのは無理かなぁ、と思うんですけど。だって自分の思い通りにならないとすぐ誰かに責任転嫁する、我慢ができない……。チャットの世界でも嫌われる要因ですよ^^;チャットも一種の社会なんですからね。
     最後に。こういった社会問題をえぐった作品は誰かが書いてくれますって。横山秀夫の『半落ち』とかさ。それよりも東野圭吾らしい、バリバリの本格とか『超・殺人事件』みたいにブラックユーモアが欲しいですね。
     最後のどんでん返しを含めても六〇点がいいところ。東野圭吾にしては物足りない感じがします。確かにホームズの流れを組んだ加賀の推理や、お祖母ちゃんの演技、そして赤い指の意味などは面白かった……んですけど、割と早い段階にヒントを出してしまったためにミステリ読み慣れた人なら勘付いてしまったんじゃないんでしょうか? そもそもタイトルがヒントになってますからね^^;僕なら刺殺にして、直巳の指を赤くしてそれに気付いた母親が全てを悟る+祖母のマニキュアって風にしますけどね^^;直巳の指のことだと思ってたら、実は祖母の指だってことでサプライズもありますし。
     ラストのメールで伯父と将棋を打っていたのは、直巳のインターネットを裏返しにした使い方でこうやって使えばいいんじゃない?という提示を投げかけてくれます。しかしそもそも病院ってケータイ使っていいのか?看護婦さんが。
     まあ、それはともかく、僕はインターネットが一概に悪いとは言い難いと言う前提なのでこの対比はナンセンスでしょう^^;
     初心者向けのミステリでした。では

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    東野圭吾『容疑者Xの献身』(文藝春秋)3

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    容疑者Xの献身 あの有名な作品ですよ。やっと図書館から借りることができました。犯人視点から描いているという倒叙という形式を取っている……と思いきやラストでどんでん返しを食らいました。このどんでん返しはフェアだと思ってます。まさかあそこに伏線が隠されてるなんて。一応趣味でミステリを書いていますが、僕でもああすると思っただけに余計に悔しいですね(笑)
     純愛要素が混ざっているというamazonレビュアーが多くいらっしゃいますが、僕はそうは思えません。やっぱり石神は歪んだ愛情を持ってると思います。だって普通、手伝うか?うーん、僕には理解できない^^;恋愛と推理小説のコラボは結構昔からやられてきました。それこそドイルの「ボヘミアの醜聞」等から。もちろん進展はないわけじゃありませんが……。それと何か恋愛要素と湯上・石神の友情、殺人事件が乖離していませんか?
     とは言え、推理小説としては傑作と言わないまでも秀作だと思います。が、『白夜行』と比較するとやはり人間として薄っぺらい感じがします。(まぁ、『ゲームの名は誘拐』よりはマシですけど)。
     皆さんが言うようにサスペンス要素は満足の行くものでした。僕も二日間で読んでしまいましたよ。でも何かよくも悪くも本格ミステリを型にはめたような作品なんですよねぇ。探偵役が大学の先生ってのも結構、ありがちなパターンですし。どうせなら『女王様と私』みたいな個性的な探偵役を生み出そうよ。あと確かにロジックは素敵ですし、解けていく快感を覚えましたが、それ以上の快感は得られませんでした。
     推理小説と恋愛要素と探偵役としてのある種の宿命……、それらを盛り込もうとした努力の後は見られるけど、良くも悪くも東野圭吾じゃなくても書けるような気がします。
     確かに素直に面白いとは感じましたが、ミステリ専門誌「このミステリがすごい」や「本格ミステリ」そして直木賞受賞作まで至る作品かって聞かれると首を傾げざるを得ません。前者二つは解ります(特に雑誌『本格ミステリ』は)しかし直木賞となると……? 人気作家だから何か賞でもやっとけって感じなんじゃねー?と変に詮索してしまうのは僕だけでしょうか?
     ということで賞の受賞や他の東野圭吾作品とのレベル(といってもそんなに読んではいませんが)を比べると厳しく星3つ。

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    岡嶋二人『99%の誘拐』(講談社)4

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    99%の誘拐 (講談社文庫) 岡島二人の作品は初挑戦!BOOK OFFにて100円で購入。実は前にも話しましたっけ?誘拐事案のミステリ(というかシナリオ)を書いてまして、それで参考文献として購入いたしました。基本的に僕は執筆も研究も紙一重だと思っています。理想図としては研究の次のステップとして執筆があります。まあ、この辺の創作の考え方は人それぞれですし、僕の小説のお師匠さんなんかは、「研究?んなもん書きたいことを書きゃいいじゃん」という考えですけどねぇ。
     さて本書は完全にコンピューター制御された状況での誘拐……、こう書くと何かSFミステリみたいですが、舞台は昭和40年代。つまり懐かしい(?)パソコン黎明期です。いやぁ、親父がパソコン関係の仕事に携わってますから、3.5インチFDも知っていますし、パソコン通信も小学生のころからやっていました。そういう時代背景を見て、幼少期を思い出しました。
     さて、これは使うはずのコンピューターが犯人の手によって組まれたプログラムによって、使われる側に回ってしまったという点で面白い作品だと思います。確かに金融機関も、お店の会計もみんなコンピューターにやらせてしまう時代です。そういった時代を考えてみると、一件、喜劇(少なくても兼助誘拐において誰も被害者が出ていないという時点で喜劇と解釈できます)を思わせるような構成も納得できます。
     そう考えれば、結局は慎吾の手の中で動いていたというシュチュエーションはアスカ=神であり、慎吾もアスカがなければ計画を実行しえなかったわけですから、結局はアスカに「利用」されているわけです。ただ一つ謎なのは慎吾がなぜこのような大それたことをおかしたかということでしょうね。そこまでの描写を濃密に描いた方がいいかも。あと僕だったら、親父がリガードを潰すために仕組んだ罠だということにしますけど(笑)でもそれじゃあ、クイーンの某有名作品の焼き増しになっちまうかOTL
     では


    オースティン・フリーマン『ソーンダイク博士の事件簿(2)』(東京創元社)4

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    ソーンダイク博士の事件簿 (2) (創元推理文庫 (175-2) シャーロック・ホームズのライヴァルたち) オースチン・フリーマンと言うのは殺人の様子を最初に描いて、それから探偵役が登場する形、いわゆる「倒叙」と呼ばれる形の考案者としてこっちの業界じゃ、かなりの有名人。解らない方は刑事コロンボや古畑任三郎を想像してください。っていうか「パーシヴァル・ブランドの替玉」「消えた金融業者」は頭の中で古畑のメロディーがエンドレス再生してましたからね(笑)
     さて、「パーシヴァル・ブランドの替玉」は捜査官がやるべきことを普通に行っただけの話・・・なんですが、最近の科学捜査ドラマのようにDNA鑑定やらが一切ない。(まぁ、ホームズとほぼ同じ時代ですから当たり前なんですが)飽くまでも読者と対等なフィールドの上で地道に活動しているんですね。ホームズのように濃いキャラ(要はあひゃってる)じゃありませんが、それでも地道に活動してて好感が持てます。
     「消えた金融業者」は借金の取立てにきた金貸しを殺してしまった、という話です。これまた替玉ネタで、地道な科学的調査で解き明かしていきます。ふと思ったんだけど・・・これって殺人罪になるのかな?過失致死罪になるんじゃないのか、と思います。
     「フィリス・アネズリーの受難」は「倒叙」の型を取らない一作。映画のトリックを生かしたところに新し物好きのフリーマンらしいところですし、カラクリを上手い具合に説明してます。しかしながら「倒叙」を売り物としているソーンダイクものでこれをやるのはちょっと疑問です。創元社も「倒叙」は1巻、非倒叙は2巻に分けたらどうでしょうね。
     「青い甲虫」は宝捜しものの一作です。古代エジプト文字が刻まれた甲虫が盗み出された話。モーリス・ルブランならこのネタで恐らく長編を書き上げるでしょう(笑)しかし冒険物じゃありませんから、そこまでする必要はないでしょう。ソーンダイクもので冒険なんてやられたら萎えてしまいます。
     「焼死体の謎」は巻き込み型と呼ばれる形式で探偵役が事件の渦中にいるような形式を言います。つまりクライアントというワンクッションを置かず、直接事件に関わる形なんですね。今回の場合でいうと散歩をしていると、火事が発生してそこからソーンダイクが事件に巻き込まれていく、という形。今やほとんどのミステリは巻き込み型だと思います。
     ジョン・ディクソン・カーばりのトリックこそ余りありませんが、地道な調査を重ねると言う点ではクロフツタイプの主人公と言えるかもしれません。しかし鉱物学やエジプト考古学などにも造詣が深いところを見ると、ホームズタイプの要素も色濃いですね。
     では。
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