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有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

恋愛もの

篠田節子『インコは戻ってきたか』(集英社)

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インコは戻ってきたか (集英社文庫)

あらすじ

 トルコ、ギリシア、ロシアなどに囲まれたキプロス。女性誌の編集者、響子は「ハイクラスリゾートの観光地」として取材を進める手筈だった。しかし、実情は民族紛争や宗教対立が続く、デリケートな土地である。ピンチヒッターのカメラマン、檜山とともに死線を掻い潜り、いつしか二人の距離は縮まっていく……。

物語として

 純粋に物語としては面白かったです。最初に撮影が進むかどうか読者を、響子の目線で不安にさせて、紛争へ巻き込まれていく不穏な空気、それから檜山に本当の目的があるのではないか、と謎を提示。
 謎、緊迫感、恋愛とエンターテイメントの要素がたっぷり詰まっていました。それからキプロスの観光も。檜山を狂言回しにして無関心な響子をに教えるという形で読者にも説明がなされます。これは常套手段。もっとも僕は観光気分に浸りたいなら、観光ガイドブックを読めばいいと思っていますのでキプロスの紹介についてはあまり興味が湧きませんでした。
 タイトルの「インコは戻ってきたか」ですが、ギリシャ系の少年が飼っていたインコをうっかり離してしまいます。このインコはトルコ系の友人、イスメットに頼まれて預かっていたものです。つまり、物語全体からしてみたら、対立が続くトルコ系とギリシャ系の友情の証でもあるのです。
 僕たちはみんなキプロス人だって。ギリシャ人でもトルコ人でもない。この国には民族紛争も宗教戦争もない。この国で戦争させたい周りの国が、民族や宗教を利用して僕たちに戦争をさせてるんだって。
 現にギリシャ系の少年は響子たちに、こう言うのです。

キプロスの意味

 もちろんキプロスの騒乱は響子と檜山の距離を縮める吊り橋効果の意図もあるかもしれません。しかしキプロスでなければいけない理由が見つからないのです。強いて言えば下記の台詞が挙げられるでしょう。
 ここは絶好のショーウィンドーなんだ。世界の紛争地の。周りには、バルカン半島や、中東、中央アジア、それに北アフリカが控えている。周辺国に与える影響ははかり知れない。ここの紛争は単なるギリシャとトルコの代理戦争じゃない。イスラム教世界とキリスト教世界の戦争でもあるし、中東とヨーロッパの利害の対立点になる。
 しかし、唐突で、取ってつけたような、印象を受けました。なぜなら、ロシアとの関係には言及されていたものの、これらの対立構造は言及していなかかったのです。
 もう一つは、死の商人にせよ一般的な事実だけを述べるにとどまっているだけ。それなら池上彰を読めば充分です。よくいえば堅実なのですが、ともすると舞台にした理由を感じられなくなります。この唐突さを回避するにはキプロスという舞台に必然性を盛り込むこと。
 例えばトルコとギリシャの対立はトロイア戦争から延々と続いています。他には、詩人のバイロンが義勇軍として参加しました。しかしギリシアはやはりヨーロッパから見れば異国なのです。異国情緒を持ちながら、それでいてヨーロッパ人のアイデンティティを形成している場所、それがギリシア。
 もう一つの方向性として、この『インコは戻ってきたか』で響子や檜山の口を借りて、篠田節子の意見を述べることです。観光地化することで、紛争がなくなると心の底から思っているんだったら、堂々とこの意見を書けばいい。時代が違うので比べられないかもしれませんが、キプロス島の事情はそれこそ今やWikipediaのほうが詳しく載っています。
 ジャーナリストでは逆立ちしても書けないことを堂々と書けるのが、フィクションの特権です。話の筋としては面白いだけに勿体無いと思いました。

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エドナ・オブライエン『愛に傷ついて』(集英社)

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愛に傷ついて (1978年) (集英社文庫)

あらすじ

 性に関して奔放なパッツィ。それに対してトムは保守的な性格で暴力沙汰を起こしていた。そんな彼に嫌気が差し、パッツィは家出を計画している。
 一方、ガラス職人の同居人、ウィラは性に関してトラウマを持っていた。しかし、ウィラと黒人の青年オーロが出会うことで段々と変化が見られ始める。そしてこれはパッツィにも影響し……。
 アイルランドの女流作家が性の問題に対して一石を投じる。

Casualties of peace

 原題はCasualties of peaceで「平和の負傷者たち」、つまり平和が傷ついてけるという意味です。パッツィだけでなく、トム、ウィラもまた傷ついているのでCasualtiesと複数形と複数形になのでしょう。
 しかもこのCasualtiesからは「気ままに」というCasualも連想され、パッツィの自由奔放な性格を言い表しているとも言そうです。

赤裸々な性の告白

 さて、『愛に傷ついて』ですが、露骨な性描写が出てきます。例えば、「まるで骨折したところを手でさぐるようにして、彼女の爪先に手をあてていたが、身をかがめて、そこの匂いをかいだ。しかし、彼の舌が足の指のあいだに走ったとき、(中略)すぐに身をこわばらせ、それ以上彼に愛撫をつづけさせずあとずさりした」などがあります。ポルノ小説ではありません。アイルランドの現代文学です。
 間接的なものを含めたら、「馬きのこ」は男性器の隠喩だという注釈が書かれていますが、この他にも、「女を誤らせた男があたしを膝にすわらせて、スプーンでゆで卵を食べさせてくれたこと」という一文からは、男性器と子宮を連想しますよね。
 またspoonには、恋人がいちゃつくという意味もあります*1。
 露骨な性描写をしている理由として、中田耕治は既存の性意識への挑戦だと解説しています。女性が性について語ると眉を顰める時代が英国で続いてきました。アイルランドは英国の強い影響を受けており、エドナ・オブライエンはそのタブーに切り込んだと分析しているのです。
 日本でもこのような風潮が少なからずあり、山田詠美の官能的な表現もエドナ・オブライエンと同様に性の規範に切り込んでいます*2。このような点で二人の抱える問題意識は共通していると言えそうです。

アイルランド問題

 さて、僕はトムとパッツィの関係をイギリスとアイルランドの問題を暗示しているのではないかと分析しました。
 アイルランドが独立しようとすると、イギリス連邦は武力で押さえつけようとします。その結果、1919年から1921年にかけてアイルランド独立戦争が起こりました。北アイルランドを巡っては、その後もイギリス連邦と対立します。この様子は「アイルランドの騒乱」としてウィラが雑談する場面でも描かれていますね。
 この背景を踏まえると、トムの家をイギリス連邦としても解釈することもできるのではないでしょうか。トムから離れ、べカムのもとに行こうとするパッツィはイギリス連邦から独立しようとするアイルランドを思い起こさせます。
 「そんなこと、いや、いや」彼女がいうと、彼はいきなり大声をあげて彼女をなぐりつけ、自分がどうなってしまうのかわからなくなるまで彼女をなぐりつけた。彼にそんな無体なことをされても当然だと彼女は思いつめていた。
 したがって、自由を求める下記の一文もまたアイルランドに置き換えて考えることができます。
自由、自由、自由。彼女は自分が鳥になっても「おんな」という領分にしがみつく。鳥になっても彼女がうたう歌はきっと哀歌なのだ。
 おんなという領分はアイルランドとイギリスを結びつけ、アイルランドが「しがみつ」いているものが当てはまります。例えば言語、宗教など。現にエドナ・オブライエンはアイルランド語でもゲール語でもなく、英語で『愛に傷ついて』を書いています。
 アイルランドが独立しようとすると、イギリス連邦は武力で押さえつけようとします。その結果、1919年から1921年にかけてアイルランド独立戦争が起こりました。北アイルランドを巡っては、その後もイギリス連邦と対立します。この様子は「アイルランドの騒乱」としてウィラが雑談する場面でも描かれていますね。
 
*1  「spoon」の項目(新英和中辞典、研究社)
*2 山田詠美『ベッドタイムアイズ』(新潮社)

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柴崎友香『寝ても覚めても』(河出書房)

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寝ても覚めても (河出文庫)

あらすじ

 泉谷朝子は麦という男性に一目惚れをするが、彼はしばらくして姿を消す。この三年後、麦に生き写しの男性と出逢った。麦に似ていたから惹かれていのか、たまたま麦に似ていたのか、好きだからそっくりに見えるのか?
 風変わりな恋愛小説。

第一印象

 まず文章があまり上手くありません。ほとんどの文章が過去形で終わっていて単調です*1。それから朝子の一人称視点で物語が進んでいくのですが、それが明かされるのは十二頁まで待たなければなりません。

どこまでが作者の狙いなのか

 普通の小説はもちろん、『寝ても覚めても』は〈語り手〉の性質が物語で重要な要素となっています。また会話が噛み合っていない部分がありました。
「麦が色んなところに住むのは、お母さんの影響?」
「楽しかった」
 上記の会話は恐らく、加筆、修正を柴崎友香が繰り返しているうちに、会話が成り立たなくなったのではないでしょうか。この会話より前までは噛み合っているので、少なくとも〈語り手〉の記憶違いではありません。
 この一方で意図的に文章を崩していると解釈できる場所もありました。例えば、麦が近くの公園にいると解った場面は下記のように描写されています。「記念撮影をしていてちょっとだけ待ってくださいすみませんありがとうございます」。ここは文法的に間違っているのは言うまでもありませんし、明らかに句点が抜けています。しかし、急いでいる心理を一人称視点で描くと、このような表現もありだとは思いました。

結末について

 結末は察しがよければすぐに気付くでしょう。少なくとも僕は亮平が出てきた時点で、薄々勘付きました。しかし真の問題は、ナボコフの『絶望』と基本的に同じどころか、この作品よりもストーリー上はつまらない点にあります。
 またこれは『寝ても覚めても』だけの問題ではありませんが、いくら似ているとはいえ二人を取り違えるでしょうか。恋愛は取り違えを説明するための要素としか思えませんでした。

同一性の問題

 さて、『寝ても覚めても』では同一性の問題が挙げられます。麦と亮平は〈わたし〉には同じに見えていましたが、客観的には違う存在です。同一性の問題に絞れば、何気ない描写や会話にもこの問題が垣間見えます。

類似と同一

 例えば、トートバッグを探す場面。「トートやと、来週これの素材違いが入るんやけど」と言われます。色違いならいざ知らず、素材が違えば外見上は何も変わらないように映るでしょう。
 また麦を追いかけているときに、「中国語らしい言葉を話す家族」が出てきました。これは言い換えれば中国語とよく似てるが、〈わたし〉が主観的に語っているため、判断できません。そしてこれは麦に於いても言えます。つまり、麦とよく似ているが、わたしが主観的に語っているため判断ができないのです。
 ここでコスプレの一団ともすれ違うのですが、コスプレは似てるけど明らかに違います。似ているに過ぎないという点は客観的に見た亮平と麦の関係に対応していますね。つまりこの場面では、類似性と同一性を示す二つの人物が描かれているのです。
 また、クローンのテレビ報道も同一性を意識させています。
 死んだペットのクローンを作る事業を始めたアメリカの会社のことを紹介していた。(中略)死んだ犬と同じ黒い犬を抱いたおばさんは喜んでいた。
 この他にも「消した写真と似た、だけど少しだけ違う公園の入口の写真」という描写からは、同一性と類似性が窺えます。

同一とは何か

 このように考えていくと、類似か同一か決めるのは客観的な事柄ではない、ということが解ります。むしろ文脈や主観といった要素が大きいのです。例えば「公園の入口の写真」という点では同じですが、角度、時刻などが違うはずですし、そもそもデータが違います。例えば、デジタル的に複製しても、全く同じとは言えません。〈人間にとっては同じでもコンピュータにとっては中では違います〉。
 またクローンの例で言えば、〈おばさんにとっては同じでも朝子にとっては違う〉と言えましょう。そしてこれは言葉を入れ替えれば朝子と麦の関係にも当てはまります。〈朝子にとっては同じでも周りから見れば麦と亮平は違うのです〉から。

時間をめぐって

 そのような目で見れば、具体的な事物だけではなく、時間も当てはまります。
学校みたいに区切りや終わりが決まってなくて、一日ずつ過ぎていくしかないと思ったら怖い気がした。
 区切りが決まっていれば、明確に時間の差異を意識できます。例えば算数の時間、国語の時間というふうに。
 しかし一日単位で過ぎていけば、時間の区切りはあまり意味を持たなくなります。例えば夏休み期間中は曜日の感覚がはっきりしなくなると思います。社会人になれば曜日は平日か祝日かしか意味をなさなくなり、定年退職をすればそれすらも意味をなさなくなります。
 その一方で、時間は生命にとって老化を左右する重要な要素です。その感覚の喪失に危機感を抱いているのでしょう。人間にとって時間は違っても大自然にとってはただ単に巡っているだけ。同じ時間それを示しているのが、一気に黄葉する場面だと解釈することができます。
 朝子の一人称で語られている以上、描写は朝子の時間感覚に沿っています。したがって朝子の時間感覚もまた大自然の時間だと言えましょう。


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藤田宜永『ぬくもり』(文芸春秋)

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ぬくもり (文春文庫)

あらすじ

 真佐雄はプロ野球選手になって二十七年ぶりに故郷へ凱旋していた。そこで高校時代に記憶が引き戻される。高校時代、真佐雄は従兄の晋一が原因で、一家離散する。暴力団の組長を殺したのだ。晋一の恋人、美沙子に伝言を伝えるため真佐雄は温泉宿へと向かった。しかし晋一の姿は温泉宿にはなく、美沙子と真佐雄は一夜をともにする……。表題作の「ぬくもり」など、大人の恋愛小説五編。

文体について

 三人称視点の文体で、淡々と物語は進行していきます。例えば心理描写。実際に登場人物の年齢が大人だということもありますが、この文体が客観的に恋愛感情を捉え、大人の雰囲気を作っています。
 例えば美沙子が服を脱ぐシーンは高校生の真佐雄にとってみたら気分は最高潮でしょう。それでも、下記の描写で留まっています。
 彼女は真佐雄を見つめたまま、浴衣の紐を解いた。真ん中から浴衣が割れ、白い乳房が現れた。膝を軽く曲げた美沙子は、浴衣の中でパンティを下ろしたかと思うと、さっと背筋を伸ばし、勢いよく浴衣を脱ぎ捨てた。
 普段の態度からは想像できない、厳かな立ち姿だった。
 この描写からは直接は書かれていなくとも、美沙子の心境が読み取れます。つまり晋一よりも真佐雄と寝たい、という決意が「勢いよく浴衣を脱ぎ捨てる」という行為で現されているのです。
 そして、「厳かな立ち姿」と書くことで美沙子の描写を通して、真佐雄の心境をも描写しています。美沙子が鏡を見ている描写がありませんので、真佐雄が「厳かな立ち姿」だと判断しているのでしょう。その後も「見惚れていた」などと書くことで、執拗に描写をせずとも、真佐雄の心中を推察できるようになっています。

小道具について

 さらに小道具の言葉選びに気を付けています。例えば温泉宿のシーン。「スタンドの弱い光」という言葉が出てきますが、温泉宿だということを考え合わせると電気スタンドでしょう。
 しかし、次のシーンは「古いグラウンド」。思い出から引き戻されているのですが、グラウンドとスタンドの言葉を近くに置いて、この「スタンド」は応援席をもひょっとしたら指しているのではないかと解釈できます。
 この解釈は
1.スタンドの弱い光:ナイターの照明はかなり強い
2.言葉の配置が遠い:もし効果的な演出を狙うのであれば、直前に持ってくるはずである。
 という観点から無理があるかもしれません。しかし、同じ言葉で違うものを指すというテクニックがあるのだと創作の上で勉強にはなります。

謎について

 「命日の恋」は、謎とその解決という構造を持っています。娘、宏美の命日に写真家の吉田修一郎は毎年、事故現場へ行って花を手向けます。しかし誰かが供え物をしてくれていたのです。
 誰かが供えてくれたのだろうか。宏美の同級生かもしれない。宏美の通っていた女子大は、裕福な家庭のお嬢さんたちの集まる学校だった。父兄が軽井沢に別荘を持っていても不思議ではない。
 しかし、心優しい人物の正体は分からぬまま、一年がすぎた。
 修一郎の「推理」を含むこの段落は、「謎」を提示しています。そして宏美と直接の面識はないと知ると、その動機に焦点が絞られていくのです。
 そして、物語の結末でその謎とともに修一郎が無自覚な罪が明らかとなっていきます。もちろんこれは推理小説ではありませんので、きちっと伏線は張られていません。しかし、因果関係が明らかになっていく様子は推理小説の要素を持っています。
 これは藤田宜永が推理小説作家でデビューしていることが絡んでいるのかもしれません。そのように考えていけば「ぬくもり」で晋一が暴力団の組長を殺害した、という設定もハードボイルドの探偵小説からの着想と言えましょう。

*1 Wikipedia「藤田宜永

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ノーラ・エフロン[脚本]『ユー・ガット・メール』(ワーナー・ホーム・ビデオ)

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ユー・ガット・メール [DVD]

あらすじ

 個人経営の「Shop Around the Corner(街角の小さな本屋さん)」のキャスリーン・ケリーはメル友がいた。NY152というハンドルネームだけで本名も住所も知らない。
 彼は大型書店のFOX BOOKSの御曹司、ジョー・フォックスだった。やがて、FOX BOOKSの出店により、キャスリーンの店は廃業に追い込まれていった。
 商売敵とは知らずに、メールを通じて、互いに惹かれ合っていく……。

第一印象

 懐かしい! 懐かしすぎる! 「ピーピーガーガー」という音は多分、僕よりも5年くらい若かったら知らないんだろうな……。

インターネット黎明期

 インターネット黎明期は電話線でつないでました。常時接続しようものなら、すさまじい電話代が請求される上に、使用中は電話がつながらなくなるという……。最後になっても写真を交換しませんし、キャスリーンからも要求しません。
 現代なら、犬を飼ってるという文面とともにブリンクリーの写真も送るでしょう。写真を突然送りつけると、メールの閲覧に時間がかかってしまうのです。
 このような状況ですから、メールのチェックも1日1回くらいが精一杯。したがって、文面を練りに練らなきゃいけませんでした。それは『ユー・ガット・メール』でも描かれていますね。
 それからサイバーセックスも懐かしい。日本ではチャットセックス、チャットH、チャHなどとも呼ばれていますが、文字の会話だけでセックスを楽しみます*1。

現在だったら

 現在だったらキャスリーンに軍配が上がるだろうと、考えていました。キャスリーンとジョーのラブロマンスそっちのけです。
・炎上
 キャスリーンの恋人、フランクが新聞に投書しただけで、あれだけの抗議デモが起こるのです。今なら炎上必死。
・NY152の身元がすぐに露呈
 今はSNSの発言からすぐに身元が特定されます。犬の写真を送ろうものなら、自宅の窓からの景色で住所が割り出され……。
・スレッドで思い出を語る住人たち
 多分、閉店が決まったら、掲示板で思い出を語る人も出てくるのではないでしょうか。
・FOX BOOKSの再就職。児童書コーナーのフロアマネージャーとして活躍。
 これは『ユー・ガット・メール』のその後を勝手に想像しただけです。ほらアマゾンが台頭するだろうし、その場合、生き残るにはキャスリーンのように詳しい書店員が必要だし。

メルヘンハウス

 この「街角の小さな本屋さん」はメルヘンハウスとすごく重なりました。メルヘンハウスは名古屋で45年以上続いた児童書専門店の老舗です。また、絵本の朗読会なども開催していたのですがが、経営難により閉店しました。
 原因はオンライン書店の一般化です。実店舗ではないものの大型書店が原因*2。

文明批判

 『ユー・ガット・メール』ではインターネットが重要な要素として登場します。もちろん冒頭でフランクがインターネットに批判的な意見を唱えていることも文明批判なのですが、『ユー・ガット・メール』ではキャスリーンに肩入れするように描かれています。
 そして、閉店後、このようなメールを送っています。
 some foolish persons will probability think it's a tribute to the city.The way it keeps changing on you.(愚かな人は街の発展だと言うかも。次から次へと変貌するのが大都会なのだと)
 このtributeの意味は「貢ぐ」という意味。つまり、直訳すると「何人かの愚かな人たちは、町へ貢いでいると考えるかもしれないでしょう(有沢訳)」になります。
 では「何を」貢いでいるのでしょうか? 僕は人情だと思います。現にキャスリーンの商売は、朗読会を開くなど地元密着で個人的なもの。地元のつながりを大資本で引き剥がしているのです。

*1 18禁小説を書きたければ、いい練習になる。
*2 日本初の児童書専門店が閉店 名古屋「メルヘンハウス」(2018年3月31日、朝日新聞デジタル)





ノーマン・ジュイソン『オンリー・ユー』( ソニー・ピクチャーズ)

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オンリー・ユー [DVD]

あらすじ

 フェイスは11歳の頃の占いを信じている。運命の赤い糸で結ばれた男性の名前はデイモン・ブラッドリー。小学校教師となったフェイスは結婚することに。しかし結婚式まであと数日になったある日、婚約者の友人から電話がかかってきた。結婚を祝う内容だったが、名前を聞いてびっくり。デイモン・ブラッドリーと名乗ったのである。

第一印象

 フェイスの個性的なキャラクターなど悪くはないけど、ご都合主義。ケートは夫のラリーと関係、また、義姉だということを考えればフェイスに協力するのも(まだ)納得ができます。しかしホテルのフロントがあっさり協力したり、あろうことか飛行機を止めてまで追いかけるのはどうなんでしょう。
 そこで不自然さをとその解決法について考えました。
1.ドウェインとの婚約を破棄する理由が弱い。
 いい大人が婚約直前でたかだか昔の占いで破棄するでしょうか。これは「あなたには神経科のお医者さんが必要よ」とケイトも言っていますが、これだけでは弱い。
 これはドウェインに理解しがたく、我慢できない欠点を設ければ解決できます。とことん面白おかしくするのなら、手料理に醤油を掛けて「東洋の魔法のソース、君のも掛けておいた」と言うなどがあげられます。
 また冒頭のプラトンにならうなら女装癖、少年しか愛せないなど*1の性癖を問題にしてもいいかもしれません。
 さらに念を押すため長年忘れていたというほうが自然です。家出のために、昔の品を整理していたら「デイモン・ブラッドリー」と書かれた紙が出てきた、というふうに。
2.協力しすぎ
 これはケイトの作り話次第でどうにでも動かせます。例えば、「婚約者が失踪して探してるの、名前はデイモン・ブラッドリー」といえば、強力は得られやすくなるでしょうし、ウェディングドレス姿でも不自然ではなくなります。
 さらにローマの休日を意識したいのなら、「オードリー・ヘップバーンとどっちが演技が上手い?」と囁くことも。
3.種明かしが唐突
 明らかに取って付けたような種明かし。推理小説好きだからかもしれませんが、もうちょっと上手く処理できなかったのかな、と思ってしまいます。
 どの程度、仄めかしたいかにもよりますが、一番あからさまなものはライリーがこそこそと話している描写。しかしここはもっと弱めに伏線を張りたいところです。そこで占い師は儲けを毎日、ノートへ記録していることにします。時間ごとでも構いません。
 例えば来店時間と受け取った金額、
  10/20 18:00 $2
  10/20 18:15 $4
  10/20 18:30 $11
 最後の$11という数字を伏線になっています。占い料は2ドルなので必ず偶数になるはず。つまり$11という金額はこの数字は明らかに通常の占いでは出てこないのです。……ということは誰かが金を掴ませた、という推察が成り立ちますよね。
 視聴者がそこまで注意して見るかはともかく、これなら取ってつけたような感じは拭えると思います。

引用されている詩人たち

 さて、この映画では冒頭の『オンリー・ユー』などを始め、哲学者や詩人の名前が出てきます。例えば冒頭で、プラトンの『饗宴』が引用されています。『饗宴』では*2、
人間の性には三種あった、すなわち男女の両性だけでなく、さらに第三のものが、男女の両性を結合させるものが、在ったのである(中略)また神々はかかる冒涜を見逃しておくわけにはいかなかった。(中略)それで人は誰でも不断に自分の片割れなる割符を索める
 と書かれています。
 また、フェイスはキーツかシェリーの詩を読んでくるようにと宿題を与えていますが、両方ともロマン派の詩人。恋愛と鳥をテーマにして詩を作っています。キーツは「ナイチンゲールへのオード」*3を、シェリーは「アッズィオーラ」*4という詩を。
 「アッズィオーラ」という詩は、恋愛を歌った詩。恋人がアッズィオーラという名を口にするので、誰かと尋ねると鳥の名だと聞き安心するという内容です。
「アッズィオーラって誰だい?」
舞い上がる気持ちがした、人間ではないと知って。
恐れ憎むべき僕自身に下手に似たものではないんだ!
  そしてメアリは僕の魂の有様を見抜き、
笑って言った──「不安にならないで
  小さな柔毛のふくろうよ」
 そして浮気の誤解という点ではケートの状況と重なります。
 もちろん「アッズィオーラ」も「ナイチンゲールへのオード」も直接、引用はされていません。したがって、ノーマン・ジュイソンがどこまで意識していたのかは解らないのですが、リルケの詩を二人で口ずさむ場面もあります。そして、「離れていた二人に昨夜同じ鳥の鳴き声が響いた」とあるようにこの詩も鳥をテーマに詠まれているのです*5。

ローマという場所

 恋愛のことを指し、ローマ熱(Roman Fever)という言葉があるそうですが*6、フェイスの行動は熱に浮かれたようです。
 異国の地を登場させる場合、異なった価値観に触れ、成長して帰るという話が結構あります。しかし、『オンリー・ユー』ではそのようなことはありません。
 恋愛の聖地として登場させているようです。しかし、西洋文化に疎いので、ローマに恋愛の聖地というイメージがあるかは解りません。

*1 プラトンの『饗宴』では少年への性愛をテーマにしている(プラトン『饗宴』、岩波書店)
*2 同書
*3 ジョン・キーツ『対訳 キーツ詩集』(岩波書店)
*4 パーシー・ビッシュ・シェリー『対訳 シェリー詩集』(岩波書店)
*5 原典は未確認である。
*6 イーディス・ウォートン「ローマ熱」より(大津栄一郎『20世紀アメリカ短篇選〈上〉』(岩波書店)。もちろん、恋愛を指してローマ熱というのはイーディス・ウォートンの創作かもしれない。



ウィリアム・シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』(白水社)

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じゃじゃ馬ならし (白水Uブックス (7))

あらすじ

 錠前屋のスライは泥酔しているところを、いたずら好きの領主にからかわれる。この領主はスライを担ぎ上げて、貴族だと信じ込ませようとしたのだった。スライは退屈しのぎにある芝居を見る。この演目が『じゃじゃ馬ならし』。
 この演目は気が強いじゃじゃ馬娘、キャタリーナを巡る恋愛劇である。バデュアの街随一の富豪、バプティスタは気が強いキャタリーナの結婚を心配していた。一方、妹のビアンカはおしとやかで求婚者が二人もいた。
 バプティスタはキャタリーナが結婚するまで、ビアンカの結婚を認めないつもりだった。ビアンカと早く結婚したい二人は……?

第一印象

 僕はこの作品があまり好きにはなれませんでした。キャタリーナの夫、ペトルーキオは食べさせない、眠らせないなどの方法でキャタリーナを従順にしていきます。この『じゃじゃ馬ならし』が喜劇的な作品なので、コミカルに描いていますが、もはや虐待。
 結婚の価値観に関する時代錯誤は仕方ないにせよ、他に理由は:

中途半端

 『じゃじゃ馬ならし』はストーリーに注目すると中途半端なんです。理由は感嘆。序幕のスライが後半になっても出てこないからです。シェイクスピアが劇中劇だと忘れていたのか、それとも、何かしらの意図があってそのような構成にしたのかは定かではありませんが、これだと劇中劇の必然性を感じません。
 ベタな方法ですがせめて最後でスライを登場させれば、印象がガラリと変わります。

キャタリーナの内面

 さて、『じゃじゃ馬ならし』ですが、キャタリーナの内面描写が全くされていません。妹のビアンカを椅子に縛った上殴りつけるなどかなり乱暴なことをしています。しかし、最後には下記の台詞が語られます。
夫は私たちの主人、私たちの命、私たちの保護者、私たちの君主なのよ、だって私たちのためを思い、私たちが安楽に暮らしていけるよう、身を粉にして、海に陸に働き続けているのだから
 実際は更に長く続くのですが、とても同一人物とは思えません。現にキャタリーナの気が強く、結婚もできなかったんですから。
 人物造形が途中で変わってもいいんですが、性格を変えるなら、強い出来事がないと説得力も現実性もなくなります。当時の結婚観では一般的だったと解説に載っていますが*1、社会の考え方よりもキャタリーナの行動規範としてやはり違和を覚えざるを得ません。その点『ヴェニスの商人』*2のポーシャなどは詭弁を使って立ち向かい、女性像としては正反対。

芝居

 この『じゃじゃ馬ならし』は「演技」が頻繁に登場します。そして『じゃじゃ馬ならし』で使われた技法が後の作品にも使われるのです。

変装

 さて、シェイクスピア作品では登場人物がよく変装しています。例えば、『ヴェニスの商人』のポーシャは弁護士に扮しています。『じゃじゃ馬ならし』ではこの変装が幾度となく登場するのですが、興味深いのは小姓が女性に扮してスライに近づくところ。
 小姓 わが夫にしてわが殿、(中略)わらわはあなた様の従順なる妻にございまする。
 男性が妻の役を演じているわけですから、同性愛すら仄めかしかねません。

劇中劇

 『じゃじゃ馬ならし』そのものが劇中劇だと言いましたが、『ハムレット』では劇中劇が重要な役割を担います*3。
 クローディアスに謀殺されたとハムレットは亡父の霊から告げられるのですが、この劇中劇で真相を確信するのです。また『夏の夜の夢』*4の後半部でも劇中劇は用いられていて、シェイクスピアはこの技法が好きだったことが解ります。
 しかし『ハムレット』の観客に演劇を見ていることを自覚させる、という効果は薄いように思います。『じゃじゃ馬ならし』は、
 従者1 殿、うつらうつらされておいでのようですが、この芝居がお気に召さぬのでは?
 スライ いやいや、お気に召したぞ。実に立派な芝居だ。まだあるのかね。
 小姓 わが殿、今はじまったばかりでございまする。
 このような台詞が第一幕第二場で登場するなど、この台詞自体、観客の見ている演劇の構成に言及しているます。そして『じゃじゃ馬ならし』の構成に言及しているのは、ここだけではありません。キャタリーナは「あなた、私たちもついて行きましょう、どうなるか最後までみとどけに」*5というのですが、この部分は演劇そのものの言及とも解釈できるのです。
 これはどのような効果があるのでしょう? 劇を意図的に中断させることで、自分は演劇を見ているのだと再認識させる効果があります。もしかしたら自分も演劇の役者なのかもしれないと思う人もいるでしょう。実際、シェイクスピアは戯曲で人生を舞台に喩えています*5。
 例えば、『テンペスト』*6では、下記のような台詞が出てきます。
もう余興は終わった。いま演じた役者たちは
さきほども言ったように、みんな妖精であって、
大地のなかに、淡い大地のなかに、溶けていった。
だが、大地に礎をもたぬいまの幻の世界と同様に、
雲に接する摩天楼も、豪奢を誇る宮殿も、
荘厳極まりない大寺院も、巨大な地球そのものも、結局は
溶け去って今消え失せた幻影と同様に、あとには
一片の浮き雲も残しはしない。われわれ人間は
夢と同じもので織りなされている。
 これは諸行無常とも解釈できるのですが、演劇が終わるようにすべての物事には終わりがある。人の一生はもちろん、人間の栄華そのものも例外ではないのだという考えを演劇に喩えているのです。

*1 前川正子「解説」(ウィリアム・シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』白水社)
*2 ウィリアム・シェイクスピア『ヴェニスの商人』(白水社)
*3 ウィリアム・シェイクスピア『
ハムレット』(新潮社)
*4 ウィリアム・シェイクスピア『夏の夜の夢』(白水社)
*5 原文は「Husband, let's follow, to see the end of this ado」となっており、観客全員の呼びかけとはなっていない(The Complete Works of William Shakespeare”The Taming of the Shrew”)。
*6 ウィリアム・シェイクスピア『テンペスト』(白水社)



ウィリアム・シェイクスピア『ヴェローナの二紳士』(白水社)

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ヴェローナの二紳士 (白水Uブックス (8))

あらすじ

 ヴェローナのヴァレンタインとプローテュースは友人同士だった。物語はこの二人の恋愛模様を巡る喜劇である。プローテュースはジュリアに片思いをしていて、当のジュリアもプローテュースが好きに惚れていた。しかし、ヴァレンタインが恋人、シルヴィアを紹介すると、たちまち熱を上げてしまう。そしてシルヴィアを手に入れようと、ヴァレンタインを父親へ密告し……。

喜劇性

 典型的なラブコメですが、どうして喜劇として読めるのでしょう?

言葉遊び

 シェイクスピアはよく言葉遊びをするのですが、この『ヴェローナの二紳士』でもそれは健在。ヴァレンタインの小姓、スピードにラブレターを運ばせるのですが、その際、スピードはこういうのです。「はこんだ手紙はラブレター。はこんだあたしはくタブレター」と。
 他にも「うめぇー、というわけにはいきませんが、メエーとだけ鳴いておきましょう」、禁錮と金庫の掛詞などの駄洒落が喜劇的な印象を受けるのです。原文を参照してみると、この部分は「Such another proof will make me cry 'baa.'」*1であり、言葉遊びにはなっていません。しかしcryをスピードが泣くという意味と喩えられた羊に置き換えて鳴くという意味にも解釈可能です。
 この直後には、スピードが
Ay sir: I, a lost mutton, gave your letter to her,
a laced mutton, and she, a laced mutton, gave me, a
lost mutton, nothing for my labour.
 小田島訳だと「迷える羊のあたしが迷わせる羊のあの人にお手紙を渡しましたが迷える羊のあたしにお駄賃一つわたしてくれませんでした」となっています。ここは羊に対応する言葉として、マトンが用いられているばかりでなく、lost、 letter、 laced、 labourとlの音で押印されていることが解ります。僕だったらどう訳するだろうかと考えてみましたが「羊肉」、「用箋を彼女に渡して戻ったら、用なしとばかりに追い払いましたよ」という断片的な言葉は思い浮かぶものの、言葉遊びを活かしつつ翻訳するのは至難の業でした。

変装

 シェイクスピアには変装がよく出てきます。中には、普通なら見破られるはずなのに、なぜか見破られないものもあります*3。中には物語の上で必然性が感じられないもの*3もあるのですが、この『ヴェローナの二紳士』は笑いを誘うための要素です。
 プローテュースは父親の命令でヴェローナから離れるのですが、ジュリアは男装して後を追います。この時、プローテュースは旅先で男装したジュリアを雇い入れるのですが、本人とは気付きません。
 恋人を陥れたプロテュースを、シルヴィアは許せません。つまり言い寄られても迷惑なだけです。一方のジュリアはプロテュースにぞっこん惚れているので、シルヴィアのことを諦めて欲しいと思っているわけです。
 シルヴィア おまえが近寄ることで、私はこの上なくふしあわせになるのです。
 ジュリア (傍白)私もだわ。あなたがあの人に近寄ることによって。
 この台詞は二人の本音を端的に言い表しているのですが、僕はこの台詞に喜劇性を見出しました。その理由は偶然、恋敵であるはずのシルヴィアと心の中で意気投合している点にあります。
 またシルヴィアに好意を寄せているシューリオへ内心で辛辣な台詞を吐いています。
 シューリオ じゃあ〔シルヴィアは僕のことが〕好きなんだな。恋や平和の話をするときは?
 ジュリア もっと好きでしょう(中略)話をしないときは。
 この台詞などからジュリアは気が強い印象を受けました。哀しげな心境というよりもシルヴィアが嫌っていると解り、内心で安堵したのかもしれません。

物語の工夫

 さてシェイクスピアと言えば、真面目な文学だと思われるかもしれません。しかし当時の大衆娯楽。物語を解りやすくするための工夫が随所に見られます。まず、ジュリアの正確については、「なんて憎たらしい手なの、愛の言葉を引き裂いたりして。/まるで忌まわしい蜜蜂だわ、甘い蜜をもらいながら、/それを恵んでくれた蜜蜂を刺し殺してしまうなんて」という台詞から、素直になれない正確だということが描かれています。
 また全体の物語についても早々に暗示されています。「恋の春は変わりやすい四月の空に似ている、/いま、燦々と美しく輝く太陽を見せているかと思うと、/たちまち一片の雲が現れてすべてを掻き消してしまう」。要点を端的に言い表しているばかりではありません。この二つの台詞は比喩で修辞的に表現されています。印象に残りやすいのです。

*1 The Complete Works of William Shakespeare“Two Gentlemen of Verona
*2 例えば、『シンベリン』や『ペリクリーズ 』。
*3 例えば『ペリクリーズ 』などは女性剣士として旅をすればいい。



ウィリアム・シェイクスピア『恋の骨折り損』(白水社)

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恋の骨折り損 (白水Uブックス (9))

あらすじ

 ファーディナンドはナヴァール王国を学問の国にしようと、学問に専念する。その際、ロンガヴィル、デュメール、そしてピローンの三人の貴族と禁欲的な生活を送るという誓約を交わした。三年間、女性と一切会わないという誓約を。
 しかし、フランス王女が領土の交渉に侍女たちとともに訪れ、四人は彼女たちに恋心を抱くのだった。

理性より感情

 テンポよく進むからでしょうが、シェイクスピアは理性よりも感情を重んじています。学問を志しているということから、ファーディナンドたちは理性を象徴しているのですが、感情と相反するものとして描いていません。
 むしろ学問において、「諸君は学問に励むと誓約した。だがそうすることによって/諸君ほ肝心の生きた教科書を捨ててしまったのだ。/それでは観察し、思索をめぐらすこともできまい」と必要なものだという考えを述べているのです。

学問とは何か

 学問にどのような姿勢で臨むべきなのかという問いかけではありません。ファーディナンドが勉強していた学問とは何だったのかという問いかけです。それは文学、もっと言えば詩作。

ビローンについて

 ビローンは王女の侍女、ロザラインに大袈裟な美辞麗句を並べ立ててからかわれるのですが、その時に、下記の台詞を述べるのです。
 勘弁してくれよ、もう。
 まだ詩を作るという古い病癖が残っているのだ。
 学問が詩作だと解ると、学問において恋愛が重視されている理由も納得できるのではないでしょうか。「女の目こそ、あらゆる学問の論拠(中略)なのだ」と述べているように詩を作るときには感情の昂ぶりが原点となります。だからこそタイトルの由来になっている下記の台詞が生きてくるのです。
 鉛のように思い思索にのみふけっていたとすれば、
 美の先生〔である女性〕たちの魅惑的な目が教えてくれるままに
 鈍重な他の学問は脳の中にじっととどまっている
 したがってそれを行動に移して表現する手だてもない、
 労多くて益少し、骨折り損というほかない。
 当時はペトラルカの影響で女性への愛情を表現する詩が人気でしたし*2、シェイクスピアも恋愛を詩に詠んでいました*2。
 このビローンもペトラルカの影響を受けた一人だったのかもしれません。話の流れからすると詩である必然性はありませんが、シェイクスピア個人の生い立ちが絡んでいるのだと推察できます。

シェイクスピア自身について

 日本では劇作家のイメージが強いシェイクスピア。しかし、劇場が閉鎖された時代には貴族のために、詩を書いて生計を立てていました*3。シェイクスピアは詩人を志していて*4、ソネット111番には「あの女神がよい環境を恵んでくれなかったからで、
ぼくは卑しい仕事について、大衆と付き合うようになった」*5とその胸中が詠まれています。
 「大衆と付き合うようになった」「卑しい仕事」とは劇作家のことでしょう。事実、当時は、詩が文学の王道だという価値観がありました*6。
 このファーディナンドたちが、学問の中でも特に詩を勉強しようとしたのも、シェイクスピアの悔しさがあってのことなのかもしれませんね。つまり、シェイクスピアが叶えられない願望をフィクションで叶えようとした。多かれ少なかれ、創作に携わっていると、誰でも書いてしまいます。

変装するということ

 変装する場面がシェイクスピアの演劇ではよく出てきます。例えば『シンベリン』*7では男装した娘に気が付かないという強引な展開ですが、『恋の骨折り損』ではあっさりと気付いてしまいます。アーマードーがギリシャ神話の猛将、ヘクターだと名乗って乱入してくるのですが、「ヘクターにしては足が太すぎます」とすぐに変装を見破られます。つまりアーマードーは虚勢を張っていたのですね。
 これに関して、原題との関係が指摘できます。「Love's Labour's Lost」。Lで頭韻を踏んでいて、技巧的な付け方です。しかし、シェイクスピア自身もある種の虚勢を張っていたことに気付いたのではないでしょうか? 





*1 柴田稔彦[編]『シェイクスピア詩集』(岩波書店)
*2 Wikipedia「ソネット
*3 柴田稔彦「前書き」(柴田稔彦[編]『シェイクスピア詩集』岩波書店)
*4 柴田稔彦「ソネット111番訳注」(柴田稔彦[編]『シェイクスピア詩集』岩波書店)
*5 ウィリアム・シェイクスピア「ソネット111番」(柴田稔彦[編]『シェイクスピア詩集』岩波書店)
*6 柴田稔彦「ソネット111番訳注」(柴田稔彦[編]『シェイクスピア詩集』岩波書店)
*7 ウィリアム・シェイクスピア『シンベリン(白水社)



ウィリアム・シェイクスピア『から騒ぎ』(白水社)

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から騒ぎ (白水Uブックス (17))

あらすじ

 シシリア島での話。アラゴンの領主、ドン・ペドロがレオナートの屋敷を訪問するところからに舞台は幕を開ける。アラゴンの武将、クローディオはレオナートの娘、ヒーローに一目惚れをする。しかし、クローディオの友人、ベネディックに相談すると、手厳しい意見とともに結婚を止めるように勧められる。それもそのはず、ベネディックは大の女嫌いだったのだ。レオナートの姪、ベアトリスも男嫌いで、男性を酷評する。
 クローディオが奥手で打ち明けられないと知ると、ドン・ペドロが一肌脱ぐことに。仮面舞踏会を企画し、クローディオになりすましたうえで、ドン・ペドロが代わりに告白しようとするものだった……。

タイトルについて

 タイトルはMuch Ado About Nothing。Adoは「騒ぐ」という意味なので、「何もないことについての大騒ぎ」、もっとこなれた訳なら「何もないのに大騒ぎ」という意味になります。つまりは「から騒ぎ」という意味。
 誰についての言及なのか解釈が分かれるところでしょうが、僕はベアトリクス(とベネディック)について述べられたものだと思いました。恋愛について大した理由もないのに、付き合わないと宣言し、それにレオナートたちが振り回される……。まさにMuch Ado About Nothing

シェイクスピアも数を読んでると……

 確かにシェイクスピアは面白い。今回もベネディックやベアトリクスの性格、ヒーローとクローディオの恋路……。でも数を読んでいると、パターンが読めてきてしまうんです。

予想が当たった場所

 現に今回の『から騒ぎ』もヒーローとクローディオの恋路が邪魔されるんだろう、と予想が。ここまではシェイクスピアを読んでいるか関係がないと思われるかもしれません。恋路がすんなり行くと演劇として面白くありませんから。
 しかし、誤解の末、どんな結末を迎えるかというところまで読み取れてしまいました。この辺りは『 冬物語 』が何となく思い出されたからです。
 もちろん信じるか信じないかは読者次第ですが。またサブプロットのベネディックが女嫌いをどうやって克服するかについても、ある程度読めてしまいました。

予想が外れた場所

 ただもちろん予想が外れた場所も。1つ目は動機。ドン・ペドロの弟、ドン・ジョンが誤解させます。僕はイタズラ心から誤解させるのだと予想したのですが、実はドン・ペドロの面子を潰そうという悪意から策略を働くのです。
 2つ目はベアトリクスが男嫌いになった理由。ベネディックは妻の不貞から女嫌いになったという過去が台詞を通して描かれているのですが、ベアトリクスは単に男嫌いが格好いいと思い込んでるだけだったようです。
 高慢で人を見下す女だと、そんなに非難されているとは。
 軽蔑とはもうお別れだわ! 乙女の自尊心もさようなら。
 そのような陰口を叩かれて、立派な人生を送れるはずがない。
 この後、「ベネディック、愛してください」とあるように深い理由がないと明かされます。もっとも、これは当時の演劇観も大きく反映しているのですが。
 というのも当時の戯曲を読んでいると、過去を語るのは台詞のみで、回想シーンという概念はないんです。例えばハムレットで叔父に毒を盛られたと語られるのは、先王の亡霊の台詞を通してです*1。現代なら回想シーンを使ったほうが迫力が出るにも関わらず、です。多分、観客が時間軸を混乱するのを避けるためではないでしょうか。

部外者による混乱

 混乱のもとを正せばドン・ペドロ一行がシシリア島を訪れたこと。しかもドン・ペドロはシシリア島の人間ではなくアラゴン王国からの客人です
 つまり混乱の原因は部外者によるものです。部外者はその共同体の秩序、価値観を知らないものであり、新しい秩序、価値観をもたらします。その結果、物語に変化が起こるのです。
 ここでどうしてアラゴン王国の来訪者という設定がどのような意味を持ってくるのか考えてみたいと思います。アラゴン王国は今のスペインなのですが、イスラム教徒とキリスト教徒の奪い合いが繰り広げられていました*2。その結果、キリスト教徒の教会にもイスラムの様式が反映されるなど、両方の文化が混ざりあったのです*3。
 当時の観客にどれほどの知識があったか解りませんが、アラゴン王国の人間を登場させることで、レオナート邸の人間たちにも新しい文化をもたらしてくれることを仄めかしている、と解釈できるのです。女嫌いのベネディックや辛辣なベアトリクスが恋愛に目覚めたのも全く違う価値観の人間だからこそだったのかもしれません。
 『から騒ぎ』はラブコメなのですが、人間一人、あるいは家庭環境を文化として捉えれば立派な異文化交流です。

*1 ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』(白水社)
*2 Wikipedia「アラゴン王国
*3 Wikipedia「ムデハル様式




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