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有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

詩歌

島崎藤村『藤村詩集』(新潮社)

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藤村詩集 (新潮文庫)

概要

 島崎藤村は「初恋」など多くの詩を残した。「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思ひけり」で始まる「初恋」は中学生の国語でも扱われており、覚えている人も多いのではないだろうか。
 「初恋」以外にも恋愛を抒情詩で恋愛を多く題材にしていた。『藤村詩集』では「若菜集」、「落梅集」などから収録している。

文語定型詩

 島崎藤村の詩はほとんどが文語定型詩です。百聞は一見にしかず。

文語

 島崎藤村「初恋」の第一連は下記の文章です。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
 「見えし」など言葉遣いが少し古めかしい*1ですね。このような形を文語と言います。明治は文章はこのように<書く>のが一般的でした。したがって「文語」と言います。ここで注意して欲しいのは、人々は「文語」で話していたわけではありません。江戸時代まで方言を使っていたため、地域が違うと意志の疎通が困難でした*2。そればかりではなく、武士、農民、貴族、それぞれ別の「言葉」で話していたのです。
 無理矢理にでも、言葉を統一しなければなりませんでした。そのような背景で「文語」は登場したのです。また色々な文体、表記法が登場しました。島崎藤村はそのような中で、今で言う文語体を選んだのです。
 一方、当時の「話し言葉」を口語と言い、広まるに連れ、これで詩を書こうとする運動も当然出てきます。萩原朔太郎が口語詩のパイオニア。

定型詩

 それとは全く別に定型詩、自由誌という分類もできます。定型詩は七、五、七、五、などのリズムよく作られているもので、自由詩はリズムに捕らわれずに作った作品のこと。音読すれば解りますが、初恋も「七・五/七・五/七・五」の調べで作られていますね。
 定型詩はリズムや押韻を意識して作られています。例えば「六人の処女」の一節に「七つの情(こころ)声を得て/根をこそきかめ歌神も」というフレーズが出てきますが、「か」行で韻を踏んでいます。
 これは音読が中心だったことの名残だったのではないかと思います。江戸時代までは文字は声に出して読んでいました。もちろん明治時代になったからと言って、黙読に切り替わるわけではありません。明治三十八年になってもなお、音読の習慣があったとされています*4。
 したがって、島崎藤村も音読を前提に詩を書いていたことは想像に難くありません。

散文詩

 さて、そのような時代で「炉端」が収録されているのは注目するべきことです。この詩は「散文にてつくれる即興詩」と注釈がついているのですが、散文詩を作ると散文と詩の境界が曖昧になり、詩とは何かを問う意味を持っています*4。
 しかし詩と散文が区別できないと気付いたとき、にこの問いかけは起こってくるもの。詩とは何かが五七調の韻律によって自明とされていると思っているうちはまだ発生しません。
 事実、本格的に散文詩を作り始めたのは、口語自由詩の開拓者、萩原朔太郎です*5。萩原朔太郎は「散文詩・詩的散文」*6という文章を残しており、散文詩を意識していたことが解ります。
 島崎藤村が「散文詩」という概念をどこまで意識していたかは解りませんが、手がかりとして挙げられるのは二葉亭四迷。西洋ではすでにツルゲーネフが散文詩を発表しているのですが、二葉亭四迷はツルゲーネフの翻訳を発表しています。問題は下記の二点。
(1)二葉亭四迷はツルゲーネフの「散文詩」を翻訳したという文献はあるか。
(2)二葉亭四迷と島崎藤村の交友関係。一応、同時代的には生きている。
 ちなみにフランスではボードレールが散文詩集『パリの憂鬱』を出版して、島崎藤村もフランスに留学しているのですが、島崎藤村が詩集を発表した時期とは合いません。

詩とは何か

 図らずも詩とは何かという問題を「炉端」は問うていますが、現代批評において詩は異化作用で説明されます。

異化

 異化作用とは言葉と認識を切り離す、もっといえば、その物を知らない人の気持ちや、その人なりの認識で書くということです。
 例えばエレベーターを「エレベーター」と表現してしまったら、人は「エレベーター」としてしか認識しません。しかし、エレベーターを「閉塞感が漂う狭い箱」と表現したら、表現者がどのようにエレベーターを見ているかが解りますよね。
 このことはエレベーターに閉塞感を抱いたことがない人にとって、新しい知覚をもたらすことになります。これが異化であり、批判はあれど、詩の本質だと考えられています。この表現に賛同者が増えて皆がエレベーターを「閉塞感が漂う狭い箱」と表現したら、それは常套句となり異化作用を失います。その結果、陳腐な言い回しになっていくのです。

恋愛

 現に島崎藤村は恋愛感情を様々なものに喩えて認知しています。 例えば「別離」は
「恋の花にも戯るる/嫉妬の蝶の身ぞつらき」と表現しているのですが「嫉妬」は否定的な意味で捉えがち。しかし蝶が戯れるポジティブな言葉に喩えることで花が蝶の周りを戯れているかのように、嫉妬すらも美しいものだというイメージを産み出しているのです。

枕詞

 常套句の最たる例が枕詞ではないでしょうか。「たらちねの」の後には「母」「親」「父」のいずれかしか続かない和歌の慣用表現。これは古くは万葉集に登場し、明治時代に入ってもなお続いています。
「たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか」万葉集3102
「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいて足乳根の母は死にたまふなり」斎藤茂吉『赤光』
 このように「たらちねの母」はある種の決り文句で用いられてるのです。
 しかし島崎藤村は「たらちねの深きめぐみ」と表現しており、「母」に続けませんでした。これは常套句からの脱出と言えましょう。「深きめぐみ」と「母」とが結びついていたと解釈しました。だからこそ「たらちねの」を使ったのだ、と。

*1 「見えし」は「見ゆ」に過去の助動詞「き」が連体形をとると「し」と変化する。
*2 滝浦真人「はじめに」(『日本語は親しさを伝えられるか』岩波書店)
*3 永嶺重敏『雑誌と読者の近代』(日本エディタースクール出版部)なお、黙読が珍しかったらしく観光案内にも登場している。
*4 Wikipedia「散文詩
*5 同上
*6 萩原朔太郎「散文詩・詩的散文」(青空文庫)




高村光太郎『高村光太郎詩集』(新潮社)

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高村光太郎詩集 (新潮文庫)

概要

 『智恵子抄』の「レモン哀歌」など、有名な詩を多く残した高村光太郎。彼は欧米に留学し、ボードレールやヴェルレーヌなどの詩を学んだ。帰国後、処女詩集「道程」を発表。
 また、父は有名な彫刻家の高村光雲で、その影響からか彫刻にも興味を持っている。その証拠にロダンを詠んだ詩や評伝も書いている。

詩の楽しみ方

 読んで楽しむ他に音読や朗読を通しても、詩は楽しめます。特に明治期には音読から黙読への過渡期でした。例えば明治期の詩人、島崎藤村は五・七調で詩を作っています。これは声に出して読むことを前提に作られたものだと言えるでしょう。
 高村光太郎の詩も、いくつか声を意識したと思われるような詩があります。例えば、「米久の晩餐」は店員や客の台詞がそのまま使われていて、「声」を意識していますし、「丸善工場の女工達」も「声」から始まっています。

さびしきみち

 また少なくとも僕は、ですけど、「さびしきみち」は声に出さなければ、全部ひらがななので、意味が取りにくかったです。どうして全部ひらがなで書いたのか、解釈してみました。まず思いつくのが、子供、あるいは知的障害者が書いていることにしたいケース。
 しかし、「さびしきみち」では文体が大人びているためこのケースには当てはまりません。そこでわざと読みにくくすることで、声に出して読んでもらおうとしたのではないか、と推察しました。また、これは声に出したときの感じを文字で表そうとしているとも解釈できます。声に出してしまうと、当然、文字を頭で思い描かなければなりません。例えば「はしがある」と声で言ったとき、「箸」か「橋」なのか、意味が即座に決定できないという問題があります。全部ひらがなにして、声が持つ意味の決定不可能性を表現したかったのだとも読めるのです。

或る筆記通話

 声と文字の関係で言えば、「或る筆記通話」も注目すべきでしょう。下記のような詩です。
 おほかみのお──レントゲンのレ──はやぶさのは──まむしのま──駝鳥のだ──うしうまのう──ゴリラのご──河童のか──ヌルミのぬ──うしうまのう──ゴリラのご──くじらのく──とかげのと──きりんのき──はやぶさのは──獅子のし──ヌルミのぬ──とかげのと──きりんのき──をはり
 まず、この文章を普通の文章に直すと「おれはまだうごかぬうごくときはしぬとき」、つまり「俺はまだ動かぬ、動く時は死ぬ時」になります。この一連の過程は詩の登場人物の声を、そのまま口述筆記をしている人が文字に起こしている過程とそのまま重なります。
 それと同時に、状況もかなり推察できます。動くのは口だけ、しかも命に関わるような、寝たきりの重篤な病にかかっていることが最後まで読むと解ります。「動く時は死ぬ時」の一文は、寝たきりの病人が、「動く」とき、つまり病死して火葬場へ運ばれていくときを言っているのでしょう。
 加えて、病人とこの筆記者の間柄も推察できます。内容は遺産相続でもなければ、生理的欲求を訴えるものでもありません。事務手続きや看護的な視点からすると無用なもの。そしてこのような無用な文章を口述筆記しているのですから、親しい間柄だということになります。
 さらに、無意識もある程度は推察できます。「おほかみ」「はやぶさ」「まむし」などの動物が多く、生きたいという意志が連想している動物からも感じられました。

美術

 さて、高村光太郎は「アメリカ・イギリス・フランスへ美術留学をして」*1います。そのせいもあって、「失はれたるモナ・リザ」、ノートルダム大聖堂を歌った「雨にうたるるカテドラル」などでは建築物や絵画を詩に詠んでいます。
 『失われたるモナ・リザ』はもしモナ・リザが絵の中から立ち去ってしまったらどのように歩くのだろうか、という詩です。モナ・リザの絵をそのまま描写したら、ただの説明文でしょう。しかし、比喩なり発想なりで作者なりの視点・感覚を加えることで、独自性が生まれ、それが詩の核となっているのです。
 その点において、ノートルダム大聖堂から「よろこぶせむしのクワジモト」とユーゴーの『ノートルダムのせむし男』を連想する辺り、やや平凡。しかし、「薔薇色のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ」と雨粒を妖精のエルフに喩える辺り、独創的で詩情を感じます。
 さらに「あなたを見上げてゐるのはこのわたしです/(中略)わたくしの心はあなたを見て身ぶるひします」と無生物のノートルダム大聖堂に呼びかけ、あたかも人格があるように描いています。ここから高村光太郎がノートルダム大聖堂をどのような思いで見ていたか解ります。そしてこの畏敬の念はノートルダム大聖堂のみならず、美術品全般に及んでいることが「失はれたるモナ・リザ」「車中のロダン」などからも推察できましょう。

 この『高村光太郎詩集』では冬を題材にした詩が多く収録されている印象を持ちました。おおむね、厳しい冬というイメージで歌われているようです。

冬が来る

 例えば「冬が来る」以下の通り。
 冬が来る。
 寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る。

 ほら、又ろろろんと響いた
 連発銃の音

 (中略)
 不思議な生をつくづく考へれば
 ふと角兵衛が逆立ちをする

 私達の愛を愛といつてはしまふのは止さう。
 (中略)
 
 冬が来る、冬が来る
 魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の権化の冬が来る。
「透明な冬」とは冬場の澄んだ空気を表現しているとも取れましょうが、それに呼応して心も澄んでいると解釈しました。
 「不思議な生をつくづくと考へれば、ふと角兵衛が逆立ちをする」という状況から、正月の光景だと限定できます。角兵衛とは角兵衛獅子で、越後地方の獅子舞。江戸時代には江戸で舞われていたので、地域までは特定できませんが、由来を知っていれば、越後地方を連想するでしょう。
 連発銃の音から、誰かが狩りをしているのだろうと推察できます。獅子舞が踊っていて、かつ連発銃の音が聞こえるような場所に、詩の〈語り手〉は立っているのです。つまり山村でしょう。
 どうして「不思議な生を考へて」いるのでしょうか。連発銃を撃って、獲物を捕らえています。しかし、冬の、しかも正月に猟をしているのですから、遭難の危険性を考えると、娯楽ではありません。この人は生計を立てるために動物を殺しているのです。
 このことを考えると普段、動物が可哀想とか、無駄な殺生とか軽々しく口にできなくなります。「私達の愛を愛と言つてしまふのは止さう」という一文はそれを踏まえてのことでしょう。
 そして全てを包み込むかのような冬の光景で詩は締めくくられているのです。

冬の奴

 「冬の奴」と「冬が来た」は、冬を力強いだけでなく、忌み嫌われるものとして描いています。しかし、そればかりではなく「冬よ/僕に来い/僕に来い/冬は僕の力/冬は僕の餌食だ」などと、冬をエネルギーとして取り込もうとする姿勢も窺えます。ここで描かれている「冬」は季節的な意味合いだけではなく、人生の停滞期を象徴しているとも解釈できます。
 冬に呼びかけている点で「冬が来た」には冬を擬人化していると言えましょう。しかし、「冬の奴が(中略)嚏をすると」などと「冬の奴」で冬の擬人化はさらに深まっていきます。季節の擬人化は日本古来のアミニズム以外にも古代ギリシャで行なわれていました。

群衆

 高村光太郎はフランス留学でボードレールなどを学びました。そのボードレールも群衆を描いています。
 例えば「巴里の憂鬱」では、赤ん坊をあやそうと老婆が近づいたら、泣いてしまって寂しい思いをする詩が綴られています。「そこでその優しい老婆は、永遠の彼女の孤独の中に身を退け、そうしてとある片隅で涙を流した」*2。このように『巴里の憂鬱』では、孤独な人々が多く描かれているのですが*3、高村光太郎の描く群衆は孤独なものとして描いていません。
 むしろ「米久の晩餐」からは群衆を生き生きとしたもの、明るいものとして描いています。この違いはボードレールの精神状態にも依るのでしょうが、僕は家族主義か個人主義かの違いに依っているのだと推察しました。
 さらに言えば大正時代には成金が登場したことからも解るように、好景気。「米久の晩餐」でもこの空気が描かれているのかもしれません。

*1 伊藤信吉「解説」(高村光太郎『高村光太郎詩集』新潮社)
*2 ボードレール「老婆の絶望」(ボードレール『巴里の憂鬱』新潮社)
*3 この辺りはヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール 他五篇』岩波書店)参照。



ライナー・マリア・リルケ『リルケ詩集』(新潮社)

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リルケ詩集 (新潮文庫)

概要

 『ドゥイノの悲歌』『マルテの手記』などで有名なリルケ。20世紀の実存的不安を描き出し、ドイツ詩に大きな足跡を残した。キリスト教神学の救済と都市生活者の孤独とが融合している。
 本詩集は、初期の詩から、最晩年の詩を年代順に配列。特に墓へ刻まれた「薔薇よ おお 純粋な矛盾」という詩は有名である。

詩とは何だろう

 詩とは何だろう、という問いは意外と難しいです。

詩は韻律である

 一般的には韻律が関わっていると思われがちですし、それは近代以前の詩なら概ね合っています。日本でも五七五の音に合わせて、多くの俳句が読まれていますね。
 また、リルケも韻律に気を配っているものもあります。例えば豹(Der Panther)は下記の原文です。
Sein Blick ist vom Vorubergehn der Stabe
so mud geworden, das er nichts mehr halt.
Ihm ist, als ob es tausend Stabe gabe
und hinter tausend Staben keine Welt.
 綴りでも解るように、「abe」「lt」で揃えられていますね*1。
 しかし韻律だけが詩ではありません。例えば墓碑銘の詩は「Rose,oh reiner Widerspruch, Lust, Niemandes Schlaf zu sein unter soviel Lidern.」と全く韻を踏んでいないと解ります。
 それでは詩的であるとは一体何なのでしょうか。答えは異化作用という概念にあります。そしてこの異化作用で、海外の詩が翻訳でもある程度楽しめるのです。

海外の詩について

 異化作用とは、概念を再認識させるための技法。例えば「エレベーター」をエレベーターという言葉で現したら日常ですが、「閉塞感に満ちた、時おり浮遊感で気持ち悪くなるような空間」と現したら、その人が「エレベーター」をどのように感じているかが描けますよね。異化作用とは、このように日常の言葉から離れ、その人なりの見方を現すことで概念を再認識させる方法のこと。そしてこの独自性は、翻訳でも失われません。
 墓碑銘の詩では
薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ
このようにおびただしい瞼の奥で なにびとの眠りでもないという
と薔薇は純粋な矛盾だと述べています。リルケにとって薔薇は矛盾だと感じたので、このような詩を残しているのですが、リルケがどうしてこのように感じたのか解釈しなければなりません。
 例えば、薔薇は毎年美しく咲き誇る点では生を象徴しています。しかし一方、リルケは薔薇の棘が原因で急性白血病になっています。つまり死を意味するものでもあると考えられます。生を象徴する薔薇が同時にリルケ個人としては死を意味するわけですから、矛盾です。また死は漠然としか捉えていませんが、病気にならなければ具体的に認識できない、という点でも。。
 よろこびよ、というのは、苦しみから解放される喜びですが*2、その一方でもちろん死にたくない、という気持ちもあるでしょう。「このようにおびただしい瞼の奥で、なにびとの眠りでもないという」ですが、自分の死は他の誰でもないという点で「なにびとの眠りではない」のです。
 しかし、科学的な考えでは自分の死と他人の死は同じ心停止に過ぎません。ここでも自我と近代医学的な見地との矛盾が発生します。

孤独と神学

 さて、この『リルケ詩集』は年代順に配列されており、リルケの関心がどのように移っていったのかが解るようになっています。最初はキリスト教を主題にして詩を作っていました。
 特徴的なものが、「あなたを探し求める人々はみな」。
あなたを探し求める人々はみな あなたを試みます
そしてあなたを見出した人々は あなたを結びつけるのです
(中略)
私のために奇蹟をなさらないで下さい
世代から世代へと
ますます明らかなものとなる
あなたの法則を正しいとなさって下さい
 「解説」*3によれば、汎神論的な世界観とあり、確かに「あなたを試みます」という一節は科学実験を通して、自然を発見するという点と結びつきます。
 しかし、聖書の一節には、「神を試してはならない」*4という一節があり、それは奇蹟と結びついています*5。
「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。
 僕はこの「ルカによる福音書」を念頭に置いていると解釈しました。奇蹟よりも法則性を重視するというのは逆に当時、それだけ社会秩序が乱れていたのでしょう。
 しかし初めは、神との関係を描いていたものが、やがて都市生活者を描くようになっていきます。
「孤独」
孤独は雨のようなものだ
夕ぐれに向って 大海からのぼる
遠い はるかな平野から
孤独は天へのぼって いつもそこにいる
そして天から初めて街のうえに降る。
 まず雨は雲の水蒸気が飽和点に達して、地上に落ちる物理現象です。そして、空へ蒸発し、再び雲を形成していきます。孤独も晴れのときは雲と同じように意識しません。つまり「孤独は天へのぼって いつもそこにいる」のです。
 しかし孤独を感じたときに「街のうえに降る」のです。職場、地域、家庭の人間関係が分断されているから街の人は孤独なのでしょう*6。つまり地域の人は職場でどのような人間かは知りません。同じようなことがそれぞれ、家庭、地域にも当てはまります。つまり、自分を完璧に知ってもらうということはできません。これが孤独の原因です*7。

「大都会は 真実ではない」

 都市生活者を描いた詩は『時禱集』にも収められています。
「大都会は 真実ではない」
大都会は 真実ではない それは欺く
昼を 夜を 動物や 子供を。
大都会は沈黙で偽り 騒音や
従順な事物でいつわるのだ

あなたを生成する者よ めぐって動いている
ひろびろとした真実の出来事は何ひとつ
大都会では起こりません あなたの風の息吹きは
裏町に落ちて 別の旋回をします
その風の騒めきは行きつ戻りつしながら
乱され いらだたされ 激昂しています

それは花壇や並木道にも吹いてくるのです
 当時の状況は詳しくありませんが、19世紀末頃にはすでにガス灯がありました。もちろん、今のLEDに比べたら全く明るくありませんが、それでも「昼を 夜を」欺いていると言えるのではないでしょうか。つまり自然の営みに反しているので、「真実ではない」のです。
 そのように考えれば、第二連の意味も自ずから明らかになります。「あなたを生成するものよ」は字面通りに受け取れば風ですが、僕はもっと広く自然そのものと解釈しました。「めぐって動いている」は字面通りに解釈すると、風の巡りになりますが、自然だと捉えれば四季の移ろいや、24時間のサイクルとも解釈できるのです。

 そのような観点で見れば、「豹」は動物園の豹に仮託して、自然を描いているとも言えましょう。
「豹」
  パリ 植動園にて

通りすぎる格子のために
疲れた豹の目は もう何も見えない
彼には無数の格子があるようで
その背後に世界はないかと思われる

このうえなく小さい輪をえがいてまわる
豹のしなやかな 剛い足なみの 忍びゆく歩みは
そこに痺れて大きな意志が立っている
一つの中心を取り巻く舞踊のようだ

(後略)
 もちろん、第一連から都会の檻に都市生活者が閉じ込められているとも解釈ができます。しかしながら、都市生活者を豹に喩えるかと疑問、もっと言えば、都市生活者と豹のイメージがどれだけ重なるか疑問です。第二連の内容と都市生活者のイメージは重なりませんよね。
 おまけにDer Pantherなので定冠詞が付いていて、豹ならどれでもいいという意味ではありません。特定の豹なのです。
 これも都市生活者とは大きく印象が異なります。都市生活者は群衆であり、任意の誰かです。つまりもし都市生活者に仮託したいのなら、不定冠詞を用い、「Ein Panther」としたはずです*8。
 一方、自然そのものの比喩だと解釈すれば、この二つの疑問は解消されるでしょう。自然は逞しく、豹のようだが人間に檻へ閉じ込められています。そもそも動植物園という場所が自然を閉じ込めているのです。
 また自然(法則)がすべてで、この背後には世界がないという感覚も頷けましょう。

*1 ちなみに翻訳文と原文をがあれば音は解らなくとも意味だけはGoogleで解る。例えば「Sein」は「彼の」、「Blick」は「光景」、「ist」は英語の「is」、「Vorubergehn」は「通り過ぎた」、「Stabe」は「竿」「棒」、つまり格子という意味になる。
*2 この苦しみについては「来るがいい 最後の苦痛よ」に描かれている。
*3 富士川英郎「解説」(リルケ『リルケ詩集』新潮社)
*4 「ルカによる福音書」
*5 同上。
*6 ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール 他五篇』岩波書店)
*7 近代以前の農村だと生活、職場、家庭が同一だった。
*8 あくまでもドイツ語と英語が同じ感覚で定冠詞、不定冠詞を使い分けているという前提に立っている。



パーシー・ビッシュ・シェリー『シェリー詩集』(新潮社)

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シェリー詩集 (新潮文庫)

概要

 パーシー・ビッシュ・シェリーはロマン主義の詩人である。感情を肯定し、自然を賛美するとともに、「イングランドの人びとへ」などの社会問題を扱った詩も多く残している。本書は時系列順に配列し、さらに文学と倫理の関係について論じた詩論、「詩の擁護」をも併録している。

ロマン主義

 さて、イギリス文学史によれば、ロマン主義は自然をキーワードだと言います。そもそもnatureは「生まれたまま」という意味です。<生まれつき>理性が備わっていると見るか、それとも<生まれつき>情動が備わっていると見るか、の違いにすぎません。

Nature

 また、18世紀のイギリスでは<Natural Gardens>が流行しました*1。中でも詩人の1720年代、アレクサンダー・ポープは自分の庭園を自然風にしています。また初期のロマン派の詩人、ワーズワースも重要な人物。
 彼にとって<自然>とは、もはや少年の目を喜ばせた緑の葉のそよぎとか、澄んだ小川のせせらぎとかいうような表面的な美にとどまっていなかった。それは宇宙と人間とに備わる「生まれながらに」備わる創造的な力でなくてはならない。
 例えば物理法則、もっと言えば神の法則を感じるような創造力だったのです*2。そしてワーズワースはこの自然観を体得するのに、想像力が必要不可欠だと考えました。

想像力

 さて、パーシー・ビッシュ・シェリーもこの流れを組んで、想像力の重要性を説いています。詩論『詩の擁護』で下記のように述べています。
詩は、ひろく言えば、「想像力」の表現であると定義できよう。しかも詩は起源を、人間と同じくしているのである。
 人間は外と内から奏でる楽器だとしています。つまり琴を風が奏でても、それが内面化し、記憶として呼び覚まされるうちに、メロディーとして調整されていくのです。風鈴も素晴らしいですし、もっと言えば、無音すらも音楽として解釈されるのです*3。
 さらにシェリーは太古に思いを馳せながら下記の通り述べています。
太古、人びとは踊り歌い、かつ自然の事物を模倣したが、このような行為において、他のあらゆる行為と同じく、ある種のリズムと秩序を守っていた。そして、(中略)、類似した秩序を舞踊の動きや、歌のメロディー、ことばの言い回し、あるいはつぎつぎと続く自然の事物を模倣するさいに、守ってきたからである。
 ここにおいてもnatureが「生まれながら」という意味で使われていることが解るでしょう。つまり一人の人間(a man)が<生まれたままに>ではなく、人間の存在(human being)が生まれたままに、という意味です。
 太古への思いはそのまま自然への畏敬につながります。例えば、「モン・ブラン」という詩はモン・ブランの雄大な自然を題材にしていますし、「ひばりによせて」では、ひばりの囀りを賛美しています。
 めざめても 眠っていても
   おまえは 死について
 わたしらが人間が夢みるよりも 真実な深いものを
   考えているにちがいない
さもなければ どうして こんな清澄なうた声が流れようか。
 人間よりも真実に近いと考えています。もちろん生態学的に自然のまま、という理由も考えられましょう。しかし、人間が持っている知恵は小手先で、小鳥の持っている知恵のほうが真実に近い、とも考えられるのです。

恋愛詩

 さて、「アジオーラ」という詩も小鳥が出てきます。これは恋人が「アッジオーラの声が聞こえる」と言うのを聞くのですが、〈語り手〉は男の名前だと勘違いしているんです。しかし小鳥*4のことだと解り、アジオーラが好きになったという内容。おそらくメアリーと書いているので、〈語り手〉はシェリー本人だと解釈するのが妥当だと思います。
 アジオーラは技巧的な詩ではありませんが、「しおれたすみれに」では第一連、第二連ですみれのことを描写しています。
わたしは泣く──が 涙はそれをよみがえらさない!
  わたしは溜息をつく──が それはもう わたしにささやかない
言葉もなく ただ耐えしのぶ 花のいのちは
  わたしの運命でもあろうか
 しかし、最後は自分の心を比喩的に言い表していると言えましょう。もちろん今となったら陳腐だと言えますが、昔の詩を鑑賞するときには時代を差し引かなければいけません。つまりパーシー・ビッシュ・シェリーが使った当初は目新しくても、彼に触発され色んな人が使っているうちに段々とありふれた表現になっていった……とも考えられるのです。

社会

 さてパーシー・ビッシュ・シェリーは<自然>の他にも、社会にも関心を抱いていました。例えば「イングランドの人びとに」などの詩は典型的でしょう。この詩のハイライトは第五連から第六連の下記の下りです。
君たちがまく種子を 刈りとるのは他のやつらだ
君たちが探し出す富を 手にするのは他のやつらだ
君たちが織る服を 着るのはほかのやつらだ
君たちが鍛える武器を 使うのはほかのやつらだ

種子をまけ──だが、暴君に刈らせるな
富を探し出せ──だが、ぺてん師の手にわたすな
服を織れ──だが、のらくろどもに着せるな。
武器を鍛えろ──自分たちを守るためなら
 労働者の富が地主や貴族に搾取されていました*5。したがって他の奴らというのは、地主や貴族のことです。
 ここにおいてもnature(生まれたまま)の概念が生きてくるように思います。シェリーはジャン・ジャック・ルソーに度々言及していますが、ルソーは『人間不平等起源論』*6において下記のように述べています。
 自然が法に服従させられた時期を指し示すこと、いかなる奇蹟の連鎖によって、強者が弱者に奉仕し、人民が現実の幸福と引き換えに想像上の安息を購うことに決心したのかを説明することである。
 おそらく、シェリーにとっては自然だけでなく、権利、感情もすべてnature(生まれたまま)と結びついていたのではないでしょうか。

*1 川崎寿彦『イギリス文学史』(成美堂)
*2 11世紀から14世紀までのスコラ哲学では、自然を観察することで神の意図を窺えると考えていた(Wikipedia「自然」)。
*3 Wikipedia「4分33秒
*4 「The Aziola」と付いているので、おそらく小鳥の種類だろう。しかしAziolaで検索しても出てこない。
*5 貧富の格差についてはシェリーの一世代後の作家、ディケンズも『オリヴァー・ツイスト』などで取り扱っている(チャールズ・ディケンズ『オリヴァー・ツイスト』新潮社)
*6 ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』(岩波書店)



高見順『詩集 死の淵より』(講談社)

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詩集死の淵より (講談社文庫)

概要

 明治に生まれ、世界大戦を生き抜いた作家、高見順。彼は晩年、食道がんにかかった。術前・術後を中心として病床に伏しているときにも、なお、詩作を続けている。病気と健康について、生と死について誠実に対峙する姿が読み取れる。
 食道がんになる前の作品や、一時は収録を見送った作品も収録。

死を見つめて

 高見順は食道がんの手術を終えて、詩集の冒頭で下記のように述べています。
 詩なら書ける──と言うと、詩はラクのようだが、ほんとは詩のほうが気力を要する。しかし、時間の持続がすくなくてすむのがありがたい。
 確かに文章が少ない分、集中しなければなりませんが、その分、短時間で校正できます。
 そして、これは単に気力の問題だけでなく、見つめたくないものを見つめる、という作業の精神的負担にも大きく関わっているのかもしれません。事実、現実逃避の詩ではなく、死にゆく自分を見つめているのです。

死者の爪

 それは冒頭の「死者の爪」という詩からも明らかです。
 つめたい煉瓦の上に/蔦がのびる/夜の底に/時間が重くつもり/死者の爪がのびる。
 病魔を「死者の爪」に喩えていますね。また、レンガと蔦の取り合わせは、旧館が長年使われていないことを示すときの典型的な道具立て。不気味さを第一行、第二行目で醸しています。そしてこの不気味さの正体は死者の爪だと最後に解るのです。
 そればかりではありません。音読してみると解るのですが、「つ」の韻で冷たい印象を与えるのです。「つつつ」「つーー」などとと連続して発音すれば解りますが、氷の上を滑る効果音、誰かが去っていく時の効果音として使えるように思います。例えば「つーっと氷の上を滑る」、「つつつ、と氷の上を滑る」「つつつ、と人が去ってゆく」など。
 つという音は物理的な温度ならず、人間的にも冷たいという印象があるのです。僕も理論的には解りますし、納得もしますが、感覚的なものではありません。どんな音がどんな印象を持つか感覚的に解れば、詩人としての素質があるのでしょう。

三階の窓

 「三階の窓」という詩は「カラス」が視覚的に死を連想させますね。「真黒な鳥はびくともしない/不吉な鳥はふえる一方だ」などの文章からは、言及されているように、不吉さが描かれています。そして三階に住むという「従軍カメラマン」も死のイメージが付きまといますね。
「死は(中略)はじまりなのだ/なにかがはじまるのである」という一文からは、本人の死後、預かりしらぬところで起こることがあるだろうというある種の期待が窺えます。例えば、高見順の「死の淵より」に触発されて詩を作るかもしれませんし、感想文をブログに書くかもしれません。しかしそれは高見順の預かり知らぬことですので「なにか」と漠然としか表現できないのだと思いました。
 死に対する肯定的な見方は、「不思議なサーカス」でも「自殺の楽しみが残されている/どういうふうに自殺したらいいか/あれこれ考える楽しみ」と書かれています。

「青春の健在」「電車の窓の外は」

 しかし、手術直前の詩「青春の健在」「電車の窓の外は」では、生への執着心がなく潔さすら感じます。
私は病院へガンの手術を受けに行くのだ
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
見知らぬ君たちだが
君たちが元気なのがとてもうれしい
 ほとんどの人は自分がいずれ死ぬと解っていながら、目を反らしています。しかしガンなど、自分の生命が有限だと自覚したとき、生の尊さを自覚するのかもしれません。
 そのような目で見ると「電車の窓の外は」の冒頭、「電車の窓の外は/光りにみち/喜びにみち/いきいきといきづいている」という一文は実際の風景であるとともに心象風景であるとも言えましょう。このように生を諦めているかのように表面上は読み取れます。しかしら「いき」という言葉は「息」「生き」などにもつながり、生きたいという潜在意識が現れていたのかもしれません。
 その証拠に、あとから「死の恐怖が心に迫ってきた」とあります。

「小石」

 僕が一番好きな詩は、「小石」。高見順は稚拙と評していますが、闘病生活の心境をわずか五行で書き表しているのです。
 蹴らないでくれ/眠らせてほしい/もうここで/ただひたすら/眠らせてくれ
 もちろん形式上は石の独白という体裁を取っていますが、これが疲れ切った高見順の心を表しているのでしょう。
 しかも小石に自己投影をしていることから卑下していると推測できます。


ヨハン・ヴォルガンフ・ゲーテ『ゲーテ詩集』(新潮社)

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ゲーテ詩集 (新潮文庫)

概要

 『若きウェルテルの悩み』、『ファウスト』などで知られるゲーテ。彼は小説家ばかりではなく、優れた詩人でもあった。いくつかの作曲家がゲーテの詩に音楽をつけていることからも明らかであろう。
 この詩集はゲーテの詩を年代順に配列したものである。

音楽との関わり合い

 ゲーテと音楽はとりわけ深い関係にあります。『野ばら』にはゲーテの詩に、シューベルトとウェルナーがそれぞれ音楽をつけています。歌の場合、とりわけ難しいのが意味と音数の兼ね合いですが、近藤朔風の翻訳は「わらべは見たり、野なかの薔薇」という具合に見事に両立しています。
 ちなみに僕はウェルナーのほうがゆったりとしていて好きです。シューベルトの音楽は跳ねるようなリズムは子供の溌剌さを現していると言えるかもしれません。
 さて、『魔王』も馴染み深い曲。中学校で一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。「お父さん、お父さん」という繰り返し出てくるので印象に残っています。ちなみに恥ずかしながら、『魔王』はモーツァルトだと勘違いしておりました。どうやら『魔笛』と混同していたようです。

詩とは何だろう

 詩とはそもそも何でしょうか。適当に段落分けをすれば詩になるわけではありません。そもそも段落分けは脚韻を見やすくするためにあります。
 たとえば、『魔王』の原詩は、下記の通りです*1。
Wer reitet so spat durch Nacht und Wind?
Es ist der Vater mit seinem Kind;
Er hat den Knaben wohl in dem Arm,
Er fast ihn sicher, er halt ihn warm.
 見手の通りWindとKind、Armとwarmで音が揃っていますね。翻訳もこれに合わせて段落分けをしているので、中途半端に改行しているように見えるのです。しかし、音韻などは翻訳にすると、失われてしまいます。
 それでは訳詞だけを読んでいても無意味なのでしょうか。そのように考える研究者もいますが、僕はそう思いません。そのように考えていては楽しみが失せてしまいます。

詩とは異化である

 詩は異化作用であると、現代の文芸批評では考えられています。異化作用とは何かというと、日常化の風景に溶け込んでしまったものを再認し、日常を再発見するための技法です。

「野ばら

 例えば「野ばら」の一部を、高橋健二は次のように訳しています。
小バラは言った「私は刺します、
いつもわたしを忘れぬように。
めったに折られぬ私です」
(中略)
けれども手折ったわらべ
野に咲く小バラ。
小バラは防ぎしたけれど、
泣き声、ため息、かいもなく、
折られてしまった、是非もなく、
小バラよ、小バラ、赤い小バラ
子供の視点に立てば話しているように感じることもあるでしょう。この詩は「童」の視点だから「小バラは言った」などという表現が成り立つのではないかという解釈も当然成り立ちます。
 しかし、もしかしたら花は話すかもしれない、花が話したら面白いのに、と想像するだけで、日常の再発見につながります。
 また『魔王』でも同じことが言えます。診療を終えたのでしょう。父親が病気の子供を馬に乗せて、屋敷に戻るところを描いているのですが、子供は魔王の影に怯えます。「父上よ、父上よ、聞きたまわずや?/魔王のささやき誘うを」。しかし「枯葉に風のさわげるなり」と父親は一蹴します。最終の連までは高熱や恐怖から幻覚を見てるのかと思いますが、最後の連で「からくも屋敷に着きけるが、/腕の中のいとし子は死にてありき」と締めくくられています。
 どこまでも現実的に解釈するなら、病死でしょう。しかし、もしかしたら魔王が連れ去ったのかもしれない、という解釈の余地も残しつつ、この物語詩は終わります。これも野ばらと同じで、魔王が現実の世界に登場することはありません。しかし、魔王がもしかしたらいるかもしれない、と思わせることで、日常を違った角度から眺められるのです。そして擬人化等の比喩が、これを可能にしています。「魔王」では病魔、死そのものを魔王に喩えているという解釈が成り立ち、現実的な解釈とも齟齬は生じません。しかし日常生活とまったく切り離すと、絵空事になります。その結果、空疎な作品になりかねません。

「野ばら」の構成

 さて、色を軸にもう少し野ばらの構成を見てみましょう。第一連には「あかい小バラ」と出てきて、これが何回もリフレインしています。
 次に「私は刺します」という一文。これは言うまでもなくバラの棘ですが、血の赤を連想させます。最後に「手折ったわらべ」と書いてありますが、この一文からの連想は童の血だけでありません。小バラを擬人化していることで、もしかしたら小バラも血を流しているかもしれないと思わせるのです。もちろん小バラは「泣き声」を上げており、血は痛みの象徴とも解釈できます。
 他にも草原の緑とバラの赤が補色となっており、際立っていることも指摘できるでしょう。

超自然的なものへの畏敬

 「魔王」では特に超自然的なものへの畏敬が窺えます。これはほぼ生涯にわたって書き続けた詩劇「ファウスト」や自然科学の論文も書いていることからも解るように*2、自然はゲーテの関心だったと解ります。

「人間性の限界」

 この主題は、「いかなる人間も/神々と/力を競うべからず。/もし人、高く伸び上がりて、/頭もて星に触れなば、/おぼつかなき足は/踏みしむることなく/雲と風に/もてあそばる」とあるように「人間性の限界」にも見て取れます。
 ここで神々と表現されていますが、複数になっているので、キリスト教の神ではありません。確かに第一連では「聖なる父」と「幼な児のごとき/恐れ」とあり、父と子からはキリスト教の神を連想します。
 しかし、「雷鳴とどろく雲の中より/恵みのいなづまを/大地にまきたまえば」からは、雷と雨が関係づけられており、ゲルマン神話の神、トールであると示唆されています。トールは雷、天候、農耕も司っており*3、人間が制御できない存在。
 そして神々(=自然)を「永遠の大河」に喩え、人間を「波にもたげられては、/また飲みこまれ、/沈みはてゆく」卑小な存在だと書いているのです。

「神性」

 では人間は自然の猛威に打ちひしがれるしかないのでしょうか。その答えは「神性」という詩に描かれています。「人間性の問題」は神々(=自然)と人間との違いが描かれていましたが、「神性」では動物と人間との違いが描かれています。「人間は気高くあれ、情けぶかくやさしくあれ!」と。
 そして、「太陽は/善をも悪をも照らし、/罪人にもこの上ない善人にも、/同様に光り輝く」ように、自然は誰彼構わず恵みを与えます。一方で「人間だけが、善人に報い、/癒し救うことができ(中略)また全ての惑いさまよえる者を/結びつけ、役立たせる」ことができるのです。

*1 Germanstories「Erlkonig/ The Erl King
*2 ゲーテ『ゲーテ 形態学論集 植物篇』(筑摩書房)など、
*3 Wikipedia「トール



シャルル・ボードレール『ボードレール詩集』(新潮社)

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ボードレール詩集 (新潮文庫)

概要

 象徴派詩人の代表、ボードレール。写実主義、そしてのちの自然主義文学とは全く異なる手法で、表現の道を切り開いていった。
 幻想的な光景を描いている点ではロマン派に似ているが、ただ幻想的に描いているのではない。あくまでも現実世界を比喩的に象徴化させているのである。

ボードレールが好きだと言う割に

 好きな詩人を三人挙げるなら、ボードレール、ポオ、萩原朔太郎。このように書けば、僕が重苦しい詩や寂しげな詩が好きだと解ると思います。
 中でもボードレールは群を抜いて好きで……と言えば、ボードレールの全詩集を読んでるかと思うでしょう。しかしよく考えたら、『巴里の憂鬱』しか読んでいないと気が付きました。『悪の華』は鈴木信太郎の旧字体訳で挫折。
 あとはアンソロジーやヴァルター・ベンヤミンの批評で読んでいるだけ。ボードレール全詩集を読もうと思いつつ、特にボードレールの詩は体力を使うので躊躇しています。

象徴主義とは何か

 さて、ボードレールは象徴主義の嚆矢ですが、具体的にその作風を見ていきます。

人間と海

 例えば、「人間と海」の第一連は下記の文章です。
自由な人間よ、常に君は海を愛する筈だよ!
海は君の鏡だもの、逆巻き返す怒濤のうちに、
君が眺めるもの、あれは君の魂だもの。
君が心とて、海に劣らず塩辛い淵だもの。

自分自身の絵姿の中へ、君は好んで身をひたす。
眼で、腕で、君はそれを抱き寄せる。
君が思いは時に、自分の乱れ心を
暴れ狂う海の嘆きで紛らせる。

君も海も同じほど、陰険で隠し立てする。
人間よ、君の心の深間を究めたものが一人でもあったか?
海よ、誰一人として、君が秘める財宝の限りは知らぬではないか。
それほどに君らは各自の秘密が大事なのだ!
 この文章で、海は人間の心を示していることが解るでしょう。具体的には「海は君の鏡」「君が眺めるもの、あれは君の魂だもの」「君が心とて、海に劣らず塩辛い淵」などの言葉から。
 さらに
「君が思いは時に、自分の乱れ心を/暴れ狂う海の嘆きで紛らせる」第二連
「君も海も同じほど、陰険で隠し立てする」第三連
 とあり、海と人間の心が密接に結びついています。人の心は目に見えませんが、海なら目に見えますよね。
 このように、目に見えないものを、具体的なものに置き換える方法を寓喩といい、その際に使われるものが象徴です。この場合は「海は人間の心の象徴である」と使います。

「盲人たち」

 他にも、「盲人たち」では無関心さの象徴として盲人を出しています。
見るがよい、魂よ、彼らは実際醜悪だ!
マネキン人形に似て、妙に変てこで、
夢遊病者のように、不気味で、奇天烈で、
つぶれた目玉を、当てもない方角へじっと向けている。
 第三連まではこのように盲人の描写が続いており、象徴かどうかは解りません。しかし、第四連では下記の内容になっており、これが「人間と海」とは趣が異なっています。。おお、都会よ!
お前が、僕らの周囲で歌い、笑い、さんざめき、
怖ろしいほど、快楽に心を奪われている、そのひまに、
見るがよい、僕もまたとぼとぼ行くよ! 彼ら以上の、ほほけ面して、
生意気に《盲人ども、天に何をかさがすやら?》なぞ、口たたき。 盲人は享楽主義の象徴として描かれています。ここで注意して欲しいのは象徴するものと象徴されるものの間には必然的な結びつきがないということ。例えば盲人は享楽主義ではありませんが、この詩では「快楽に心を奪われている」という一文で結びついています。
 快楽に心奪われていると周囲も将来も見えなくなります。この刹那的な様子を盲人に置き換えて表現しているのです。刹那主義は目に見えませんが、盲人の描写をすれば、読者がイメージしやすくなるでしょう。
 そしてボードレール(たち)はその名の通り、象徴を多用したのです。もちろん寓喩自身は珍しいものではありません。イソップ童話にも見られますが*1、それまでの寓喩表現は型にはまっていました*2。本来、関係がないものが約束事として結びついているからには、これを守らなければ寓喩だと理解されないからです。
 ところがボードレールは文脈の力で独自の寓喩表現を作ったのです。

寓意とマンガ

 この寓意はもともと絵画に由来することもあって、マンガ・アニメ・映画などと相性がいい。何せ目に見えない(あるいは直接的な描写を避けなければいけない)ことがらを具体的なものに置き換えて表現できるのですから、寓喩以外の方法は思い浮かばないくらい。(この辺は僕が映像作品を余り見ていないせいもあるでしょうけど)
 例えば、幽遊白書(アニメ版)では飛影が邪王炎殺黒龍波という必殺技を出して、腕を痛める場面があります。そしてこの時、崖で飛影が腕を抑えながら苦しそうな顔をするのですが、直後のカットで激しい波しぶきが映ります。この場面も寓喩として解釈できるでしょう。つまり飛影の心中や、これからの波乱を波しぶきで表現しているのです。
 もう一つは、性描写など直接的に表現しにくいときが挙げられます。よく夜の建物の概観を写し、次のカットでは朝の概観に切り替わる手法がよく見られます。チュンチュンなどと小鳥のさえずりが入ることから、俗に「朝チュン」などとも呼ばれますね。
 もちろんこの技法でも表現可能なのですが、画一的になる、あるいは性に対して漫画家が特別な意味を見出してるのに表現できない、という欠点があります。そこで寓意が役に立つます。例えば「ショートカットの恋人」*3は「耳」という器官で性交渉を表現しています。
 象徴、寓喩などは今や、空気のように使われているのかもしれません。。

近代性

 さて、ボードレールに話を戻しましょう。

実証性の時代

 上述の「海と人間」において、実証主義の反発とも取れるくだりが出てきます。第三連の「それほどに君らは各自の秘密が大事なのだ!」という一文です。寓喩を使って、人間の心を描いているとすでに指摘しましたが、このくだりからは内面の秘密を頑なに守牢とする姿勢が読み取れましょう。
 ボードレール(1821年-1867年)はフロイト(1856年–1939年)の少し前。フロイトから本格的に無意識の解明が始まるのですが、彼が全て行ったわけではありません。シャルコー(1825年-1893年)が催眠実験を行っていたのです*4。催眠と聞くと日本では怪しげな印象がありますが、まどろんでいる状態*5。ゆめうつつに本心をうっかり口走ったという経験はあるのではないでしょうか。
 この催眠状態では意識による「検閲」があまり働かなくなるため、本心が出やすくなるとシャルコーの研究で明らかになりつつあったのです。
 しかもこの時代、患者の人権は確立されていません。シャルコーの講義は一般公開され、4000人から5000人もの「聴講生」がいたと言います*6。聴講生と言えば聞こえはいいですが、観客気分です。
 そのような内面さえも科学の名のもとにつまびらかになっていった時代が、ボードレール以降の時代だでした。現に伊藤整の『小説の認識』でも実証性と象徴主義の関係が述べられています*7。

都市生活者

 さてボードレールは都市生活者の孤独な生活を取り上げました。「盲人たち」もそうですが、『巴里の憂鬱』収録の「婆さんの絶望」でもよく描かれています。
 あるお婆さんが赤ん坊の笑顔を見て、あやそうとしたら、泣かれてしまい落ち込んだという一コマ。このお婆さんは「可愛がってやろうとする赤ン坊までもわたくしはあべこべに、怖がらせてしまうのです!」と嘆きます。見ずしらずの人に抱かれたら普通は泣く、という意見もあるでしょう。しかし、無邪気な筈の赤ん坊からさえも疎まれる、孤独な存在として描かれていると解釈しました。赤ん坊と老婆は本来、正反対。しかし「彼女同様か弱くて、歯もなく、頭に髪のないところまでが彼女そっくりそのままなのだった」という類似点をボードレールは見出します。詩とは本来、関係のないものをイメージの力で結びつけるもの。これが詩的な結びつきの源泉となっているのです。

*1 Wikipedia「寓喩
*2 聖書では寓喩が多く登場し、それを利用して絵画を書いていた(Wikipedia「図像学」)
*3 ビュー「ショートカットの恋人」(note)
*4 Wikipedia「ジャン=マルタン・シャルコー
*5 Wikipedia「催眠
*6 Wikipedia「ジャン=マルタン・シャルコー
*7 伊藤整「芸による認識」(伊藤整『小説の認識』岩波書店)。なお、マラルメ、ランボー、イエーツを取り上げているが、ボードレールは取り上げていない。



ジャン・コクトー『コクトー詩集』(新潮社)

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コクトー詩集 (新潮文庫)

概要

 『恐るべき子供たち』で有名なジャン・コクトー。彼は詩人として二十歳で才覚を現し、フランスの詩に大きな足跡を残した。この詩集は『寄港地』『用語集』『オペラ』などから代表作を収録。
 風景を切り取ったもの、短いながらも物語性があるものなど作風は多岐に渡る。フランス文学の研究者で、自身も詩人である堀内大學の翻訳。

外国の詩に対する姿勢

 よく詩は原文で読まないと理解できない。母語話者でないと理解できないという意見があります。確かに音韻やリズムなどは翻訳で消えます。だからと言って外国の詩を読まないのは損だというのが僕の立場。
 外国の文化を理解するのに有益ですし、非常に局所的ですが、創作をするに当たっては翻訳の詩でも充分、参考になります。

比喩

 詩とは何なのか。これに関しては色々な見方ができますが、異化作用で説明できます。異化作用とはシクロフスキーが提唱した概念で、「物を日常と違ったように見る」ことが文学の大事な要素だと言います*1。

暗喩

 『コクトー詩集』の「耳」を例に取りながら、異化作用を説明しましょう。「私の耳は貝の耳/海のひびきをなつかしむ」とたった二行ですが、一行目では隠喩が使われています。本来耳と貝は全く別のもの。それを隠喩で結びつけているのですが、比喩だと言うことを直接、言っていません。言い切ってしまうと解りにくくなりますが、その分、謎々のような面白さを醸し出すこともできます。
 この「耳」ですと、耳の形は貝に似ていますね*2。第一行目で形のことだを思わせておきながら、二行目でコクトーの真意を提示しています。形ばかりでなく海の波音も懐かしく思う……、その点も貝のようだ、と明らかになります。
 余談ながら、これは「耳は貝海のひびきをなつかしみ」と五七五でも訳せますね。これなら日本人にとっても、海の音が耳の奥から聞こえてくるようですし、もしかしたら少年が浜辺で拾って貝殻を耳に当てているのではないかと書いてなくても想像を書き立ててくれるでしょう。
 「帆船」は隠喩の連続が巧みな詩です。
胸をはだけた帆船よ
君らの肌着がのぞかせる。
恋にふくれた乳房をば
ひる日なかにどっかりと
港の中に腰据えた
黒奴美人の大女
 エロチックですが、船を女性に喩えるのは割と海外では一般的。帆を「肌着」、そこからの連想ではためかせる様子を「恋にふくれた乳房」に喩えています。そして最後には本当に黒人の美人が出てくる、という連想の流れを取っているのです。「腰据えた」というイメージは帆船が停泊している光景と、「黒奴美人の大女」が坐っている様子とも重なります。
 しかも、帆は白のイメージで再生され、港は海の青で、黒人の肌は褐色という色の取り合わせも鮮やか。

寓喩

 比喩と似ていますが、抽象的なものを具体的なものに置き換えるのも詩の大きな役割です。平和と鳩、公平性と天秤、戦争と剣の関係が解りやすいでしょう*3。これは、平和という目に見えないものを、鳩という目に見えるものに置き換えて表現しているのです。このような技法を寓意と言います。
 「スペインがるたをしながら眠る人たち」という詩は一見するとスペインのトランプに熱中する光景を描いただけです。
 スペインがるたは危険な遊び。
 ときに男の子たちがそれを遊ぶ。
 自分たちの影にひたり、
 テーブルに頬をつけ、青い顔をして

 テーブルにくっついて、汗びっしょりになって
 夏、スペインがるたで遊ぶ。
 これら恐ろしい天使たちは、
 嬉しい片腕で泳ぐ。
(中略)

 スペインがるたは一つの神秘。
 足に地のつかない睡眠者がする
 これはあそび、それさえあるに
 スペインがるたで狡をすると死ぬ。
 よく子供は危険な遊びに挑戦したがります。へ例えばわざと車の前に飛び出すなど*4、危険な運試しだと解釈しました。スリルだと抽象的な概念ですが、スペインがるただと具体的なイメージが湧きます。そして、このような危険な遊び、トランプには子供の遊び、運が大きく左右しているという共通点がありますね。
 このような点で見ていけば、影も恐怖心の象徴、片腕で泳ぐ天使も危険な遊びの結果と読み取れるでしょう。天使は子供の純真さの比喩を喩えているのか、子供の死を喩えているのか、二通りの解釈ができますが、僕は前者だと解釈しました。

価値

 さて上の2つは大きく言えば、比喩に分類されます。しかし、注目すべきは比喩だけでありません。価値の転倒もまた描かれているのです。とりわけ「帆船」でも見られましたが、黒人と白人の転倒が際立っているように思いました。
 普通ヨーロッパの価値観で考えると、黒人は差別の対象として描かれがち。しかし、「歯の光る黒奴は/外見は黒く、内側はばら色だ。/僕は内側が黒く、外側がばら色だ。/逆にしてくれ」などからも解るように黒人をあこがれの対象として見ていることが解ります。




*1 Wikipedia「異化作用
*2 科学的な事象は詩にならないと思われがちだが、そのようなことは全くない。例えば、カフェオレで牛乳とコーヒーが入り交じる様子から原子運動を想像すれば立派な詩になる。
*3 Wikipedia「アレゴリー
*4 「小学生の間に「車の前に飛び出す」遊びが流行 危険な度胸試しに怒りの声」(しらべぇ、2017年05月27日)



アレクサンドル・プーシキン『本邦初訳 プーシキン詩集』(青磁社)

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本邦初訳 プーシキン詩集

概要

 プーシキンはロシア文学の開拓者で、『オネーギン』、『大尉の娘』、『スペードの女王』などの小説を残した。フランス文学の影響を受け、特に『オネーギン』はその傾向が強い。
 一方で詩人でもあり、一八〇にも及ぶ詩を書いている。本作は、このうち、日本で未訳の詩を訳したものである。

フランスの影響

 『オネーギン』はフランス文学の影響が強いのですが、その理由がこの詩集からは垣間見えます。ナポレオンや自由をテーマにした詩が多いのです。プーシキンが誕生した1799年に、ナポレオンがクーデターを起こしています。

エルバ島のナポレオン

 例えば、「エルバ島のナポレオン」という詩では、ナポレオンのエルバ島脱出を題材にしています。この「エルバ島のナポレオン」では「夕焼は深い海の上で燃え尽きようとし/陰鬱なエルバ島の上には静寂が広がっていた」という暗い描写から始まります数が、舟で脱出するから夕焼にしたのではありません。
 日没、つまり栄華の終わりという意味も含んでいるのです。後世の人間からは、ナポレオンの終焉だと解釈するかもしれません。この後、ナポレオンはワーテルローの戦いに破れ、百日天下となります。しかしプーシキン自身はむしろヨーロッパ諸国の王政が終わることを望んでいたのでしょう。同時代のプーシキンはナポレオンの敗北を予見できるはずもなく、熱狂ぶりが詩から伝わってきます。
闘いの火蓋が切って落とされる! フランスの鷲の後に従って
勝利が手の中の剣とともに 飛び立って行く
渓谷は 血の流れに沸き立ち、
わたしは砲撃で 諸国の王冠を灰燼に投げ棄て
ヨーロッパの強力な盾を 粉砕してやる!
  またナポレオンについての詩は他にも見られます。例えば「司令官」という詩はナポレオン配下の武将、ダウ*1の肖像画に言及しています。

「司令官」

 その上で、「おお 不運な指揮官! きみの運命は過酷だった」とあるようにダウはワーテルロー以降、ルイ18世に忠誠を誓わなかったことで、翻弄されます*2。
 どうしてナポレオンはここまで人気があったのでしょうか。絶対王制を打ち砕いただけではありません。初めて民主主義の選挙で選ばれた皇帝だったからです。
 このことから考えると、社会の破壊者ではなく、むしろ、旧体制から解き放つ英雄として映ったのでしょう。現に「陽気な酒盛」という詩では「ぼくの崇拝する自由」という一文が見られます。
 また新時代への期待は「少年」という詩からも読み取れます。
 白海の浜辺で一人の漁師が網を広げていた
  少年が手伝っていた 少年よ 漁師を置き去りにするがよい
 べつの網が べつの仕事が おまえを待ち受けている。
  おまえは知性を捕らえるだろう ツァーリたちを助ける人となるだろう。
 この詩からは漁民の少年が教育を受けて、政治に関わっていく、という期待が込められています。しかしそのまま述べてたのでは印象に残らない。そこで知性を「魚」に見立てているのです。


*1 Wikipedia「ルイ=ニコラ・ダヴー
*2 同上



ジョージ・バイロン『対訳 バイロン詩集』(岩波書店)

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対訳 バイロン詩集―イギリス詩人選〈8〉 (岩波文庫)

概要

 ロマン派の詩人、バイロン。彼は物語詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』において一躍有名になる。また『マンフレッド』はニーチェが影響を受けるなど、後世に大きな影響を与えた。晩年は、オスマン・トルコの占領下にあったギリシャの独立戦争へ、義勇兵として参加。ギリシャの地で若くして死ぬことになる。
 本書はそんなバイロンの詩を、物語詩のハイライトを中心に紹介している。

詩とは何か

 詩とは何でしょうか。韻を踏んでリズミカルに表現すること、もっといえば朗読を前提とする文学でしょうか。

押韻

 確かに多くの詩は韻を踏んでいます。このアンソロジーに収められているバイロンの詩も例外ではありません。例えば、『貴公子ハロルドの巡礼』において、スペインの闘牛を下記の通りに表現しています。
Foil'd, bleeding, breathless, furious, to the last
Full in the centre stands the bull at bay..,
Mid wounds, and clinging darts and lancers brast.
And foes disabled in the brutal fray..
 見てわかるように 「ay」、「st」の音で韻を踏んでいます。
 加えて訳注では「途切れ途切れの文法構造は、息たえだえの牛のさまを表している」と解釈していますが、僕はf,d,b,th,sの音でも牛の息を表していると解釈しました。

比喩表現

 しかし、詩とは韻を踏む文学形式である、という考えは近代になって変わっていきます。ホイットマンが韻を踏まずに詩を書いたのです*1。僕はホイットマンの詩が余り好きじゃありませんが、自由詩を確立させたのは揺るぎない事実です。
 では現代になって詩とはどういったものとして考えられたのでしょうか? それは比喩表現、もっといえば、日常のものを違ったものとして見る方法です。普段は思いつきもしなかったけど、よく考えてみれば似てる、と*2。
 例えば『貴公子ハロルドの巡礼』だと、ハロルドがライン川の古城に佇み、「丁度一つの孤高の精神のようにして」と述べています。でもそびえ立つ古城の風格から、バイロンは孤高さを感じたのでしょう。精神と廃墟は本来、全く別のものですが、その人独特の感性で結びついた表現技法が詩なのです。そして多かれ少なかれ価値観、世界観を反映しています。
 そしてこの結びつきですが、文章はもちろん、詩全体に及ぶことが往々にしてあります。例えば闘牛の場面ですが、流血という繋がりをもって
1.復讐「幼児より、血に育まれた彼らの心臓は、復讐に、人の苦しみに、喜びを見出す」
2.戦争「全人民が一軍となって敵と相対すべき」
 なお、「一軍となる」の原文はphalanxというローマの重装歩兵を示す単語が使われています。もちろん、実際に戦争をしているわけではありませんが。
3.内紛「同胞に対して奸計を巡らしていることか/些細な怒りで血を流さねば気が/すまぬとは」
 というイメージも呼び起こします。闘牛と内紛は本来なら全く別のものですが、流れる血のイメージが重なり、あたかも共通の結びつきがあるように感じませんか?

古代ギリシャの憧憬

 バイロンは古代ギリシャに憧れて、オスマン・トルコからの支配から解放させる義勇兵として参加します。その決意は『一八二四年』からも感じられます。
 もっとも、このキーツも「古代ギリシャの壺のオード」*3などの詩を書いていて、バイロンだけがギリシャに憧れていたわけではありませんが、『コリントスの包囲』などからもそれは窺うことができます。
 キーツなどはギリシャのみでしたが、バイロンはギリシャというよりも東洋世界へ興味を持っていたのでは思います。例えば『マンフレッド』*4という物語詩では、ペルシャの神が出てきます。また『海賊』の舞台ですが、地中海、つまりギリシャだけでなくトルコも舞台になるのです。
 パーシー・シェリー、ワーズワース……ロマン派は自然を題材にしていることが多いです。バイロンももちろん自然を題材にした詩を描いているのですが、『マンフレッド』とギリシャ独立戦争の印象が強く、東洋を題材にした詩を書いているというイメージしかありません。

*1 wikipedia「ウォルト・ホイットマン
*2 wikipedia「異化
*3 『対訳 キーツ詩集』(岩波書店)
*4 ジョージ・バイロン『マンフレッド』(岩波書店)



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