>

有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

学術書-サブカル

桜井哲夫『言葉を失った若者たち』(講談社)

このエントリーをはてなブックマークに追加
ことばを失った若者たち (講談社現代新書 (787))

概要

 マンガなどの登場人物に真剣な恋心を寄せたり、直接ではなくあえて電話でのコミュニケーションを選んだりと現代の若者はどこか奇妙だ。その奇妙さの原因はどこにあるのだろうか、60年代の社会現象を参考にしながら社会学者、櫻井哲夫が紐解く。

第一印象

 プロローグには「二次元的(平面的)なヒーローに恋焦がれてしまう、という若者たちの自閉状態を指している」という言葉があります。このような若者文化に批判的な社会評論の中には、「だから若者はダメなんだ」という善悪二元論に陥ってしまうものも少なくありません。時には科学的なデータの捏造*1、論理的なミスリードさえ行ないます*2。
 プロローグを読んだきり、低俗で無根拠な若者批判だという印象を持って放置していました。僕が反感を持った理由には
ナイフで手を切ってみたら、実際に血が出るのだろうか、と考えて実際に手を切ってしまう小学生の存在や公園に寝泊まりする老人の失業者たちを襲う小・中学生の存在と密接に結びついている。つまり、そこには痛みというものの実感が失われてしまっているのである。
ここまで読んで、積ん読。従って何々をすべきである、という論調だと思ってしまったのです。ちなみに、知識というのは経験と密接に結びついていると、僕は考えています。したがって、少なくとも前者は「ナイフで手を切ったことがない」あるいは転んでケガをしたことがないから、実際に手を切って試してみたくなる。
 これはナイフに限らず全てのことに当てはまること。僕はパソコンを日常的に使って仕事をしているのですが、USBメモリをいきなり取り外す人が非常に多い。僕はこれでUSBメモリのデータが読み取れなくなったことがあります*3。今までに二度も。
 ここでUSBメモリの取り外し方について正しい知識を広めたいわけでもなければ、同僚を批判したいわけでもありません。どんな危険なことでも痛い目に遭わなければ、学ばないということです。もう一つ例を挙げるならば、「高所平気症」の子供が急増しているそうです。高いところから落ちたことがないので、高さの感覚が麻痺してしまっているのです*3。
 もし痛みというものの実感が失われているのだとすれば、理由は簡単。当人が痛い目に遭ったことがないからです。
 人間、喉元過ぎれば熱さを忘れるといいますが、火傷をしたことのない人間に熱湯は危ない、と説くのと大差はありません。

若者文化とは何か

 高校生・大学生という「職業」が同世代の人口の過半数を超えているかが若者<文化>を考察する上で大事だといいます。過半数を超えないと社会層のイメージが定着しないのです。例えば一五歳から一八歳の人間が一○○万人いたら五○万人、高校生がいて初めて、高校生文化として認知されるといいます。
 社会的な認知というより、「文化」の定義の問題として僕は解釈しました。一人だけなら文化と言いません。十人なら文化というのか。百人ならどうか……と考えていくとどこかで線を引かなければなりません。そこで、過半数を超えたら「文化」とみなしていいのではないかということです。
 要するに、<青年文化>あるいは<若者文化>と今日呼ばれているものは、高校進学率がまず最初に五○パーセントをこえたアメリカ合衆国で<発見>され、続いて日本では五○年代から六○年代にかけて<発見>されたのである。
 しかし、ここで疑問が残ります。高校生の例だと解りにくいのですが、趣味も文化です。例えばライトノベルを文化と定義した時、中高生とは必ずしも一致しません。三○代になってもライトノベルを読む人もいる反面、中高生でもライトノベルを読まない人はいます。
 そして文化というからにはある一定の考えに乗っ取って行動している集団だと言えましょう。年齢層よりもむしろ、価値観、思考、そういったものこそ文化の中核を担っているのです。

無目的文化?

 疑問はまだあります。
この新たに<発見>された社会集団は特権を享受するエリートの予備軍ではありえない。少数の限られた人間のみが高等教育を受けた時代には天下国家を論ずるような立身出世主義の文化が花開いていたかもしれない。しかし、競争する相手が不特定多数となってしまった時、具体的な目標は失われる。
 反論に移る前に、桜井哲夫が援用している加藤秀俊の論を咀嚼してみましょう。加藤が念頭に置いているのは明治時代です。明治の大学は政治家の養成校。今でも東京大学法学部と言えば官僚たちを多く輩出していますね。そして立身出世や国家について論じ合い、彼らが日本を牽引するような人材になっていったのです。
 しかし現在、無目的文化になっている、と加藤秀俊は指摘しています。その理由として、「競争する相手が不特定多数となってしまった」ことを上げているのですが、僕は疑問を呈します。
疑問1.そもそも目標が違う
 幸いにも僕は具体的な夢を持って、大学へ進学したのですが、高校時代を見回してみると具体的なビジョンが描けていないまま──もっといえば働きたくないから進学するという選択肢を取っているクラスメイトがほとんどでした。
 明治時代の高校はと言えば、大学に進学するための基礎知識を学ぶ場所でした*4。これは高校生の進学率とも、高校生全体の意欲が低くなったこととも関係ありません。ただ高校の目的が変化した、というだけです。
疑問2. 大学進学率の向上と立身出世主義の崩壊は関係ない
 日本で大学進学率が過半数を超えても、今も「いい大学に入っていい会社に就職して」という価値観は残っています。
 つまり、みんな大学に進学するようになって、戦う相手が不特定多数になったからという理由になったから立身出世主義に興味を持たなくなったわけではありません。現代の若者の多くが出世に興味を持たなくなった理由は、立身出世して過労死する事例がニュースで報じられるようになったからだと思います*6。

大きな物語の喪失

 リオタールはポストモダンにおいて「大きな物語」、つまり共通目標が喪失してしまったと述べていますが*5、明治時代には富国強兵が国家レベルの大きな物語として設定されていました。しかし、代わりに台頭してきたのは何でしょうか。
 加藤はそれを山に登るために山に登る、パチンコをするためにパチンコをするといたた自己目的的な論理だ、とした。
 つまり無数の小さな価値観が現れる、とリオタールは予見しているのですが、ここで述べられている自己目的的な人たちはまさにそうです。
 さて、帰省にしろ、自己の見聞を広げるにせよ、湯治にせよ、従来、旅には何かの目的があったのですが、旅のために旅をする、という人が六○年代から増えます。もちろん、それまでもいなかったわけではありません。例えば、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を引いています。また谷崎潤一郎の「秘密」*7でも、変装をして街の雑踏に紛れる快楽を描いています。
 しかし六○年代には職を持たずに街を出歩く、フーテンが生まれることになります。「男はつらいよ」の寅次郎はテキ屋を営んでいますが、いつもぶらぶらと出歩き、自由気ままに暮らしています。
 また『COM』には「フーテン」という漫画が連載されています。このフーテンですが、映画や漫画が作られていることからも分かるように、商業主義と結びついていきます。教養はもちろん、文化など全てのものが商業主義と結びつくと、ボードリヤールは述べているのですが*8、まさにフーテン文化は松竹のドル箱となっていくのです。

現代の旅

 具体的にどこかへ行くというよりも、現代の旅は内面化されているように思います。平たく言えば「自分探し」。もちろん、自分探しそのものは太宰治が強烈に描いているのですが、あくまでも太宰が個人的に描いたものでした。
 今は違います。自己啓発セミナーが各地で開催されるなど自分探しの「旅」がちょっとしたブームになっています。そしてこれも商業主義と結びついています。


*1 森昭雄『ゲーム脳の恐怖』(日本放送出版協会)。
*2 樋口康彦『高所“平気”症の子供たちが急増中? 高層マンション暮らしで怖さ薄れ…転落事故も続々と(産経新聞[on-line]、2015年10月19日更新、2017年12月24日閲覧)
*4 文部科学省「学制百年史
*5 ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』(水声社)
*6 立身出世主義からの脱却は国木田独歩『武蔵野』でも見られる(リンク先は青空文庫)。
*7 谷崎潤一郎「秘密」(『潤一郎ラビリンス〈1〉初期短編集』中央公論)
*8 ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)



大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社)

このエントリーをはてなブックマークに追加
キャラクター小説の作り方

僕がこの本を読んだ理由

 僕は趣味で小説を書いているのですが、なんか昔から人物の作り込みが弱いんです。それを克服しなければいけないと思い、買いました。『キャラクター小説の作り方』という割には余りキャラクター作りについて触れられていないのが残念でしたが、参考になる部分はありました。
 ただキャラクター小説というよりは「私」小説の書き方というタイトルの方がしっくり来るんですが、このタイトルだと売れない、と判断したんでしょうか。文体こそ「ですます体」で書かれていて、読みにくいですが、それを除けば小説作法というよりは文芸批評です。ただし偏っていることは否めませんが。

僕の課題

 上に参考になる部分があったと書きました。それは例えばどういうところなんでしょう?

パターン

 キャラクターとはパターンの組み合わせだと大塚英志は指摘します。手塚治虫の画風について語った著作を題材に取り、身長やリアルさなどの項目に分けて「オリジナリティ」について言及した上で下記のように語っています。
 こういった手塚の、キャラクターとはパターンの組み合わせである、という考え方は「画風」という絵の水準に留まりません。キャラクターそのものの特性さえ、手塚はパターンの組み合わせだと考えていたように思います
 とした上で3つの水準があるとしています。
1.キャラクターの基本形を決定するパターン
2.髪型・服装・小道具などでキャラクターの性格付けを具体化するパターン
3.キャラクターを演技させるときのパターン
 例えば、富豪ならスーツで、ワインを飲んでいて、貧しい人ならユニクロの服で若葉やゴールデンバットを吸っていて、カップ酒を飲んでいる、という類の話です。このスーツ、ワインなどで表されるキャラクターの性格を記号といいます*1。でも大塚英志の方法論だと確かに「キャラクター」の特徴、同じ時刻、どんな職業で、何を持って行って、何を飲んでいたかは決まります。
 しかし、どのような生い立ちでそのような職業になっていったのかは大塚英志の方法では決まりません*2。僕が精神分析に強い関心を示しているせいかもしれませんが、どのような経緯でそのようなキャラクターになったのかを決めないと魅力あるキャラクターは生まれないと思います。自戒を込めて。

データベース

 大塚英志は「物語は組み合わせである」と述べています。これは大塚英志の代表作『物語消費論』*3に詳しく出てきますので、そちらを参照してください。
 それで、僕の最大の問題は、人物のデータベースが圧倒的に少なかったことにありました。人物のデータベースを増やすにはどうしたらいいのか、と考えた結果、二つの方法が浮かびました。
1.人と積極的に話すこと
2.自伝、あるいは評伝、あるいはルポルタージュを読むこと。
 この二つが圧倒的に不足していました。具体的な対策としては読書会やオフ会への参加などを検討しています。あるいは評伝やプライベートな資料を読むこと。

文芸評論としての問題

 田山花袋の「布団」を俎上に載せ、近代によって「私」が見直されたと指摘しています。これについて僕は異論があるのですが、問題点はそこではありません*4。大塚英志のオリジナルの考えであるかのように書かれていますが、柄谷行人『日本近代文学の起源』*5にあるのです。
 いくらデータベースを持ちだしたとしても、これは剽窃。

私小説批判

 もう一つの問題は私小説の呪縛をものすごく大雑把な枠組みとしてしか捉えていないことです。
 この〔ルパン三世のような小説を書きたかったという〕新井素子さんの試みは、実は日本文学市場画期的なことだったのです。誰もが現実のような小説を書くことが当たり前だと思っていたのに、彼女はアニメのような小説を書こうとしたのです。だから大袈裟に言ってしまえば、彼女は自然主義リアリズムという近代小説の約束事の外側にあっさりと足を踏み出した人だったのです。
 ともあれ、ひとまずこの大塚英志のテクストだけに目を向けてみましょう。この文章は後の江戸川乱歩について言及した一文とも矛盾します。
 かつて自分たちのジャンルは写生文的なリアリズムに基づかないと言い切ったのは、日本の探偵小説の祖とも言える江戸川乱歩ですが(後略)
 だとすれば、「近代小説の約束事の外側にあっさりと足を踏み出した人」は江戸川乱歩だということになります*5。
 また近代リアリズム小説の約束事を無視する試みは戦前にもすでに行なわれていました。泉鏡花がその代表例ですが、稲垣足穂、芥川龍之介の河童、そして漱石でさえも「夢十夜」「吾輩は猫である」など現実のような小説を乗り越える試みが行なわれてきました。
 もちろんこの小説は現実を描写するべきである、という考えは今でもあります。だからこそリアリティの問題が取り沙汰されるのでしょう。その意味では大塚英志の文章は嘘とはいえません。嘘とは言えないのですが、大雑把すぎて、誤解を招く可能性があります。


*1 この記号について論じたのがウンベルト・エーコである(wikipedia「ウンベルト・エーコ」)。しかし僕は記号というと「A⇒B」などの論理学を思い浮かべる。むしろ属性、あるいはプロパティといった方がしっくりとくるが、キャラの属性というとまた誤解を招きかねない。
*2 このキャラクターの記号化については、現代文学、例えば村上春樹などにおいて特徴的である。
*3 大塚英志『底本 物語消費論』(角川書店)
*4 例えばマルクス・アウレリウス『自省録』、アウグスティヌス『告白』など、自伝は近代以前でも見られる。
*5 この探偵小説の祖という言い方にも違和感を覚える。谷崎潤一郎の「途上」(谷崎潤一郎『犯罪小説集』集英社)、横溝正史の『恐ろしき四月馬鹿』(角川書店)などがあるからである



森谷正規『IT社会の虚妄』(文藝春秋)3

このエントリーをはてなブックマークに追加
IT革命の虚妄 (文春新書)

要約

 IT革命と呼ばれてかなり経ちます。IT革命は果たしてばら色の未来をもたらしてくれるというけど、本当にそうなのか? 結論はタイトルで示されているように懐疑的。
 論証は全体的にしっかりしてて、説得力のある文章でした。でも細部を見るとうーん、ちょっと説得力がないなぁと思うところもありました。
 世間に疎い僕はこういう類いの新書を読むことで、もっと世の中を知れたらなぁ、と思って読んでいます。こういった解説書に求めるものは広がり、つまり別の本だったり新聞記事、雑誌……、などへの言及です。そうすることで別の文献にも目が言って、より広く知ることができると思いますし。

 新書(こういったビジネス系の本に限らず)に関して思っているのが、十数冊読んで解った気になる人がいるんじゃないかっていうことです。僕はこの他にも哲学、数学の解説書(新書)も読んでいるのですが解った気にさせられてしまう。これが本当に恐いと思います。現に数学は自分で実際に証明してみると、そう簡単にはいかないことも。今日だって簡単な計算間違いで証明されるはずのことが証明できてませんでしたしw
 でも解答の式を見ていると何となく解ったような気になる。これが一番恐いですねー。

ニューエコノミーは18世紀にも!

 IT社会の特徴としてあげられていたのがニューエコノミーです。これはITでどんどん経済が成長していって、際限なく成長が続いてウハウハな状態を指します。もちろんこの森谷さんはそんなものは信じていません。信じていないのですが……、言わせてください。
 またやっちゃったよ、やっちまったよ、アメリカ人OTL(だけじゃないけど)。
 バブル経済の古くは1720年の「南海泡沫事件」*1に代表させられます。ちなみにバブルの語源はここからきているらしい。当時、あった言説の一つに「誰もそれが何であるかわからないが、とにかく莫大な富を生み出す企業を運営する会社」*2というものがあったらしいです。
 あるぇ? デジャビュかなー? ちなみにかのニュートンも被害者の一人で、最初の投機で7000ポンド儲けていますが、暴落して2万ポンドもの損失をこうむってます。
 この際に、「天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった」*3と言ったらしいですが、天体の動きも人々の狂いっぷりも昔も今も変わらないようだね、うん。イエイ☆ ちなみに日本では江戸時代です。
 というわけで株価が無限に増え続けるなんて経済学上ありえないのです。サブプライムローンの住宅バブルも、調べてみると何だかんだで株価が無限に増え続けると信じてたことが背景にあるようです。
 僕が興味あるのは歴史を紐解けば類似の事例はいくらでもみつかるのに、なぜまた同じ間違いをやらかすのかということです。ADHDとか高次脳機能障害を笑っちゃいられません。むしろ人類全体が注意欠陥障害なのです。
 僕が許せないのは古くからの概念をさも新しいできごとであるかのよに語ることです。
 皮肉はともかく、なぜこういうことが起こるかを考えてみます。その起源は恐らく旧約聖書の『ヨブ記』に見ることができます。あの話は辛いことを乗り越えれば誰かが救ってくれる、というもののように感じます。
 IT革命しかりバブルしかりメシア的なもの*4、つまり今とは違う自分になりたい、という欲求に感じます。

BtoBは十分の一というけれど

 まず企業間取り引きとよばれるBtoBは会社と会社の取り引きです。例えば車の部品工場なんてその典型でしょう。このブログの読者さんで個人的に車のネジとか注文したら、先方はきっと頭のネジを送ってよこすでしょう。
 これは前いた職場や今の職場がそれに当たります。前の職場は出版者でしたが、大学の出版物を主に扱っていました。なので、法人と法人の取り引きなのでBtoBです。
 一方、BtoCというのは例えばスーパーマーケットのように企業から個人に物−金が流れていく形態。
 聖書を印刷して本屋で販売して個人に流れる*5という例は聖書−本屋はBtoBですが、本屋−個人はBtoCです。
 ちなみに本書に述べられてはいませんが、CtoCというのは個人の間の取り引き。素朴な物々交換とかオークションをイメージしてもらえるとありがたいです。
 BtoCなんてのもありますが、BookOffや質屋みたいなもの。これは最終的にはCtoBになります。
 eコマースで話題になるのは、CtoC、BtoCなんです。例えばヤフオクなんかは仮想空間の提供料で儲けています。イメージはYAHOOという広場を提供してそのみかじめ料、じゃなかったショバ代を払うやり方だと思ってます。インターネットは広大な土地です。厳密に言えば有限なのですが、無限と考えていい。
 インターネットのBtoCはamazonが代表。始めは本屋さんからスタートしましたが今では、パソコンの器機、玩具などなどがあります。ついにはパソコンの器機がamazon.comの独自ブランドで売り出され、家電量販店の危機となっているとききました。
 それで、よく指摘されることなんですが、amazonで大きく変わったことはロングテールが注目されるようになった、ということです。例えば僕はご存じのように(?)フロイトが恋人、ラカンが愛人のような人間ですが、その辺の人にフロイトやラカンを知っているかどうか聞いて見たらいいでしょう。「フロイト……。ホテルの受付だっけ」という回答や「ラカン……ああ、コマーシャルでやってる? スズキの車ね」と言われること受け合いです。きっと、デリダは三菱の車と間違えられること請け合いです。
 フロントをフロイト、ラパンをラカンと見間違えあまつさえ、「精神分析ラカンちゃん〜、フロイトに還れとー」なんて替え歌を作ってしまうような危篤、じゃなかった奇特な人が買うような本は今まで店頭取り寄せだったのです。もしくは版元に電話して、とかね。
 でもそれがamazonのおかげでダイレクトに手に入るようになりました。これはすごいことだと思います。
 ただIT革命を論ずる上で実は十分の一しかない、というのは無意味なことだと思います。確かに経済全体の十分の一かもしれませんが、amazonや日本の古本屋なんかだとeコマースが十割ですし、逆に電力・ガス・水道はeコマースがなくても徴収できますので、これらを十把一絡げに経済全体の十分の一しかない! と言われても、ふーん、としか反応しようがないんですよねー。実際。
 ただこの本にも述べられているように新しいビジネスモデルが誕生したのも事実なんですよね。例えばSOHOだとか。

ITで教育は進むか

 これに関してデジタルアーカイブなどの例を持ち出し、教育が進むと述べています。また医療の面では遠隔医療を持ちだしています。
 しかしこれに関して言えば森谷さんみたいに楽観視はしていません。デジタルで伝わるものは今のところ音と画像だけです。心臓の鼓動や汗の臭い、手で触った感覚は伝わりません。
 実は触診でしか発見できない重大な病気もあります。また汗の臭いなどがヒントとなって発見される内分泌系の病気もあるかもしれません。不整脈なんかは心臓に手をあてて音を探るとともに、触覚も作用しています。
 僕もキモに銘じておく必要がありますが、知るというのは五感を総動員する作業なんです。ですが、デジタルは5分の2、半分以下にまで情報が損なわれてしまいます。
 リンゴの写真を見せて、これがリンゴだよ、と教えるより、「きて見て触って〜」が大原則です。僕の友達の中にはキーボードを実際に叩いてみて買う人がいますし、イラストレーターさんは実際に試し書きをしてみてから買うようです。
 僕はそういうこだわりはないのですが、五感を総動員する「知る」作業は完全にデジタル化はできません。完全にデジタル化するから、時速40キロで歩くという解答を出しても後輩は平気な顔をしていたのです*6。
 ちなみに「ターボ婆ちゃんかよ!」と突っ込んだら「ターボ婆ちゃんって何ですか」って聞き返されたときは情報格差だけじゃなく世代格差も感じました。

*1 wikipedia「バブル経済」参照
*2 wikipedia「南海泡沫事件」参照
*3 同文献参照
*4 ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』では新しい「亡霊」としてサイバースペースがあげられている。
*5 カール・マルクス『世界の大思想〈18〉資本論』(河出書房)の例による。
*6 ちなみに0のつけ間違いというケアレスミスなんかじゃなく、その後輩の頭は時速40kmのイメージが湧いていないことに問題がある。
続きを読む


正高信男『ケータイを持ったサル』(中央公論新社)1

このエントリーをはてなブックマークに追加
ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

要約

 動物学者による「ケータイを持った珍種のサル」の観察記録。統計学、論理学に通じており、非常に興味深い。また終始一貫した論理的思考に感銘を受けるばかりである。

終始一貫した論理と科学哲学

 一見すると、携帯電話、ルーズソックスなど若者の風俗、そしてその親への攻撃的な姿勢など論点がぼやけているようにも見えます。しかし彼のこういった主張は表面的なものにすぎません。
 むしろその奥に隠された〈団塊イデオロギー〉が重要となるのであり、その弁証法的な解決に乗り出さなければいけないのです。著者自身が明らかにしているように「安保闘争」に参加するなどする典型的な団塊の世代です。
 また自然科学に歴史修正主義を用いるなどして、斬新なアプローチが特徴です。それにはポパーにも勝る科学哲学に裏打ちされているのです。もっとも、これには先例がないわけではありません。例えば、ES細胞を発見した黄教授などが有名です。

大胆な統計処理

 またこの正高氏は凡人では考えられないような統計処理を行なっています。
 例えば、子どもへの愛情を示すのにお金をいくらかけているかということで測っています。「子育てに情熱を注ぐ程度が強ければ強いほど、出費をいとわないのではないか」と、このことは一見すると従来の統計処理に叶っているようです。
 しかし「平均年収は1000万円、両働きは殆ど無い核家族を調査対象」としています。このことから錬金術師の家庭かエスポワールの常連客を調査対象にしたのでしょう。われわれ庶民はつまるところ正高氏にとってはサルなのであり、こういった月収80万〜85万の父親のみが人間として認められているのです。
 この辺り、とても四枚のカード問題を出す人とは思えないのですが、章立てにも巧妙な意味が読み取れます。もしも四枚のカード問題を先に出したら、イデオロギーのために駆使した統計学の意味がなくなってしまうのです。
 また、彼は人を真っ二つにしても生かすことのできる外科の天才、まさにブラックジャックも真っ青なゴッドハンドの持ち主です。そのことが解るのは第四章の実験。逆算すると1.75人になります。この辺りも切ったら死ぬ人間はサルとして扱われ、四分割されても死なない動物が正高氏のいう人間なのです。
 なお、家庭の教育方針を示すデータはアメリカと日本しか出てきません。これを見た読者は恣意的な統計だと憤慨されるでしょう。現にパリオ・マッツァリーノの『反社会学講座』(筑摩書房)は社会学の手法として1.意図的な誤読2.欧米のみのデータ集計3.都合のいい部分の抽出を挙げています。
 これは社会学に皮肉を浴びせる本ですが、正高氏はそんな卑怯なまねはしていません。そうではなく正高氏はアメリカ人と日本人以外はまさにサル同然だということを意味しています。ウッキー!

サルの言葉が解る天才動物学者

 自然科学において重要なのは事実です。動物学も自然科学である以上は事実を重視します。さて、その上で次の一文を読んでみましょう。
 ニホンザルは仲間からが自分から空間的に離れていたときに、むしろ声を出し合うことがわかる。(中略)自分が声を出して応答があることで、彼らは仲間と一体であるという安心感を得ているらしい。
 このことを科学的に立証するためには、ニホンザルにインタビューするか、ニホンザルに電極をつけてα波などの脳波を調べるしかありません。しかし後者はそもそも器材や環境面で無理があります。
 したがってここではサル語でインタビューしたとしか考えられないのです。本書で正高氏はサルにも言葉があると述べていますので、サル語でインタビューをしても不思議じゃありません*2。ウッキー!
 このこととケータイでの無用なメールをする高校生を見てサル化していると結論づけています。
 とりわけ若者が携帯でメールをやりとりするのと、そっくりだと思う。そもそも携帯を使い出すと、常に身につけていないと不安な気分陥るらしい。さきほどまで会っていた相手と離れるや、ただちに「元気?」とかあえて伝える価値のない情報を更新している。しかし、そんなことは大昔からサルがやっていたことなのだ。ニホンザルも起きている間、誰かとつながっていないと落ち着かないようである。
 ニホンザルが誰かとつながっていないと落ち着かないのは、きっとお得意のサル語でアンケートで聞きとり調査を行なったんでしょう。
 ここで僕が強調したいのは、正高氏がいかに想像力豊かな研究者かということです。凡人の僕にはとてもとても、
A.サルは無意味なコミュニケーションをしている
B.若者も無意味なコミュニケーションをしている
故に若者はサルである、
という結論は導き出せません。正直、「その発想はなかった」。この点で正高氏は賞賛されるべきです。しかも学術書という体裁で出しています。この点において、歴史修正主義を応用した正高論理学はもっと注目されてもいいのでは?
 森昭男『ゲーム脳の恐怖』、竹内一郎『人は見た目が九割』など最近、きわめて統計学的に斬新なアプローチをした本が増えているという印象があります。
 また人間らしさが崩壊する前に読者の腹筋を崩壊させるという正高氏の企みがあります。この点においても注目すべきでしょう。

*1 世界で最も進んだ技術力を持つ北朝鮮の公的思想。あそこの国のプロレタリアートは人民の勘定に入っていない。これが平等な社会を実現する秘訣である。
*2 なお2012年中には正高氏によるサル語の文法書、サル語大辞典が発売される。これはニホンザルのみであるが、将来的にリスザルなどにも対応していきたいとする。

続きを読む


中島梓『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房)5

このエントリーをはてなブックマークに追加
コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)

要約

 「コミュニケーション不全症候群」とは現代特有の精神状況です。「自分だけはまったく批判の対象外、という絶対の確信にのっとってふるまっている」人たちのことです。つまり「自分の立場というものを絶対の(中略)ものと信じることが出来るからその上にたってこれほど力強く他の人間にひどいことがいえる」のです。
 そしてそのこのことはおタクの問題やダイエットの問題とも深く関わっている、と指摘します。

コミュニケーションとは?

 ともあれ、コミュニケーション不全症候群という問題を考えるに当たってコミュニケーションとは何なのかを考える講要があります。コミュニケーションに欠かせないのは「適切な〔他者との〕距離と自己評価を基盤にして成立する」と言います。
 そして「適応」という本書をつらぬく重要なテーマが登場します。状況が病的なときにはむしろ健全な適応のほうが不自然だと指摘しています。その端的な例として「第二次世界大戦中に、現代の我々から見ればきわめて健全な反戦思想を抱いていた個人が、「非国民」と呼ばれて犯罪者のようにあつかわれたのである」事実をあげています。
 これは僕にとって大きな視点を加えてくれました。今までこの問題を「善/悪」だと思っていたのです。もっと言えば善/悪は無条件的にではなく、コンテキストによって決定される、というものです*1。なんだ善という言葉が適応という言葉になっただけじゃん、と思うなかれ。善は周りが何と言おうと貫き通せるのに対し*2、適応は必ず周りの環境を前提とする考えです。
 中島は、「コミュニケーション不全症候群」を現代社会を行きぬくための知恵だと考えています。
 満員電車で人のことを考えてあとに引き下がっている人間はたぶんどんどん電車に乗遅れるであろう。また、狭い土地を取合う時に弱者である人間がひっこんでいるとしたら、その人間は自分の家族を守って自分の家を確保することも困難であるであろう。
 つまり、「種として生延びる」ために「適応のための不適応」を選んだのだと指摘しています。
 しかし、このコミュニケーション不全症も一時しのぎの手段に過ぎない、と中島は指摘しています。つまり一個人の疾患ではなく、概要にも書いたように、「現代にきわめて特徴的な精神状況」です。端的に言うと三つの特徴が述べられています。

1.他人のことが考えられない

 例えば、僕はこんな光景を目撃したことがあります。電車の地べたに座って大声でしゃべっている女子高校生。まるでその空間には彼女しかいないような振る舞いでした。これも他人のことが考えられない一つの例です。

2.自分の視野に入ってくる人間を人間としか認めない。


 1と同じですが、もう一つ例をあげるなら、僕は今晩キムチチゲを食べましたが、その中に入っているキムチは恐らく韓国で作られたものです。いや、どこで作られたかは本質的な話ではなく、大事なのは誰かがキムチを作っているということです。
 僕たちはキムチが韓国で作られていることを〈知って〉います。社会の時間や、TV番組で何回もとりあげられているでしょう。しかしその知識と実生活が結びついているか、というのはまた別の話です。キムチを食べるときに韓国人の顔を思い浮かべることができますか。
 もっと言うとこれは算数の教育とも大きく関わっているのです。例えば3%とするところを平気で30%と間違う子供は単なる計算ミスとかそんなレベルの話ではなく、もっと根本的な問題を抱えています。それは3%がどの程度の味なのかが解っていない、ということなのです*3。
 キムチの例にせよ、算数の例にせよ、頭の中でしか考えられていないことが問題です。

3.すべて人間関係に対する適応過剰、もしくは適応不能。対人知覚障害。

 対人知覚とは対人認知ともいい*4「他者の容貌・行動・うわさといった、断片的な目に見える手がかりに基づいて、その人の意図・態度・あるいはパーソナリティといった目に見えない内面を、主観的に推論する過程」*5です。そしてこれはアスペルガー症候群の患者がもっとも苦手とする部分です*6。大事なのは「現代にきわめて特徴的な精神状況」であるはずのコミュニケーション不全症候群の特徴をなぜ「アスペルガー」という病人に仕立て上げなければいけないか、です。このことはあとで重要な問題としてかかわってきます。
 もう一つ言うと他我理論もフッサールが大きく取り上げたのはつい最近のことです*7。他我は他人の自我はどうしてあると言えるのかという哲学のテーマで、対人知覚とも関わってきます。

友達百人できるかな

 さてコミュニケーションとは「適応」能力の高さということがなされていました。その顕著な例が、「友達百人できるかな」という価値感だと指摘しています。
「やや適応していないが一応適応している」個体を、あまり好意的な目で見なかったり(中略)することがよくあるので、その結果として、「友達百人」タイプのみが正常であって、それ以外のものは異常(中略)という構図が大変に出来上がりやすい。
 強者の論理をしいられる社会において、おタクはそこから逸脱した人間だといいます。そして「精神的にも、満員電車の中で自分の縄張を確保することができない」と言います。ドロップアウトしたくてもできないというのが根本的な問題です。
 それでもそういう弱者でも、生きなければいけない、というのが、現代の根本的原理である。問題はそこにある。現代社会は疎外を作りだしはするのだが、疎外されたままでも生きられる事は許さない。疎外された人間は、滅びるか、疎外から脱出するか、疎外の形を認めさせるほど特殊になるか、そのどれかしかゆるされない。
 これは例えばコミュニケーション力のない人に、自殺か、頑張ってコミュニケーション力を身につけるか、あるいは作家になれ、という三者択一を迫っているようなものです。
 しかし、これはどの文化圏で*8、そうなのかが重要なのであり、文化によってコミュニケーションの仕方が違ってきます。
 例えば物理学者にラジウム温泉の話をしてみたらよく解りますが、下手に「ラジウム温泉が身体に効いて肩こりが治った」とか言ったら失笑されます。物理学的にはなんの因果関係もないと推察されるからです。つまりこの「ラジウム温泉が身体に効いて肩こりが治った」というテキストはある文化においてはそれが正しいと認められていますが、ある文化においてはそれが間違ったコミュニケーションだとされているのです。
 つまり、僕は日本社会はいくつかの文化に分かれると思うのです。例えば会社で「正常」なコミュニケーションが取れててもサブカルチャーや科学コミュニケーションができない人はいくらもいます。
 どっちが正しいか間違っているかの話を問うのはナンセンスこの上ない。サッカーと野球、あるいはAKB48とモーニング娘。がどっちが可愛いかを競うのと同じ感覚です。

共同幻想

 さて、「オタクー。きもい。死ねばいいのに」とか「本当のこと」を言ったなら身も蓋もない真相が表面化してしまいます。そこで共同幻想を抱かせるため、「どんな人間でも生きる権利がある」という文言を建前として用意しているのです。
 だが本当に悲劇なのは「はじめから弱者としての生をうけてしまい、その後もひきつづき弱者であるようにレールをしかれてしまって、それでもなおかつどうしてもこの社会の共同幻想を維持するために生きていかなければいかない個体群」です。
 彼らはどうするか、強者としてふるまおうとします。宮崎勤のように。つまり宮崎勤は現実社会における弱者なのだ、という論旨です。「現実のなかに自分の居場所をみいだせなかった──その代償としてフィクション、メカニック、ゲームのなかに自分の場所を作りだした」おタクたちはまだ「逃げ場」があるだけ救いがあります。
 悲惨なのは女の子たちです。女の子はどこまで経ってもそのコミュニティから逃れることができず、作られた価値感の中で苦しむといいます。痩せてることは美しいことである、と。
 その結果、拒食症に陥ったり、その反動で過食症に陥ったりするといいます。だが「本当におそるべきなのは、ダイエット症候群という病気ではなく、そういう病気のかたちでしか適応できないようにつくりあげられた社会の共同幻想そのもので」す。
 彼女たちは「同時におそろしいくらい克明な「何をどれだけ食べたか」」に固執しています。これは『ネットとリアルのあいだ』において述べられているように過度なまでの「デジタル化」が進んでいると考えられています。
 しかもダイエットすれば「幸福への期待」が拡がります。
今にすばらしいことがおきる、(中略)あれほど自分はがんばったのだ。あれほど自分は社会からの──その聖なる使者たるダイエットの神の命令で忠実だったのだ。この忠誠がどうしてむくわれないはずがあるだろう。
 この禁欲した分だけ救われる、という考え自体はどこの宗教でも見られる考え方なのですが、二点が大きく異なっています。

1.ダイエット症候群

 あくまで、自分のもっと大きな漠然とした「幸せ」をつかむためにダイエットをしています。
 そういった意味ではダイエット症候群もメシアニズムですが、例えば仏教のメシアニズムは食べることを我慢することで、食べることにまつわる苦しみから脱しようとしています。つまりここでは「苦しみからの脱出」が大きな目標として掲げられているのです。しかしダイエットの目標は「モテたい」という別の欲望を満たすための手段にすぎません。

2.それが生きているうちに実現すること

 仏教はそもそも生きている苦しみ、死の恐怖、不安を乗り越えるためのものです。またマルクス主義もメシアニズムですが、自分は死んでもいつか共産主義の社会が実現するだろうという前提のもとで動いていました*9。
 しかし、ダイエットは自分が生きているうちに幸福が実現するだろう、という点で大きく違っています。

3.安定した地位

 また、ダイエットの成功者の話は自分の地位を安住させるためのものです。
自分の「勝者」であるという確認を、それこそ初対面の相手であれ、どんな時でもくりかえさずにはいられない。それだけがたぶん彼女のアイデンティティをささえている根拠であるのだからだ。
 このことは別に「やせ/肥満」という二項対立だけではなくあらゆる二項対立の問題でもおこりえます。西洋人/東洋人、健康/不健康、健常者/障害者、先生/生徒……。
 現代社会では病名を付けたがり、治療の対象としたがるのと全く同じ構図なんですよ。僕の知り合いには障害者がいますが、彼らを別に劣った存在などに思ったことはありません。劣っている人がいたとすれば、それはやたら卑下したりする人です。
 別にこれは身体・精神障害者に限った話ではなく、「成績悪いから」、あるいはもっと単純に「バカだから」とか「あの人は天才だから」「文系だから数学は解らない」……、そういう下らない理由でやりたい事を諦め、もっと悪いことに他人にもそれを押しつけるる「健常者」(僕から見たら彼らこそ障「害」者だ!)と全く同じなのです。
 しかし僕もそういった意味では障「害」者なのかもしれません。


*1 この辺はカントと大きく異なっている。カントは誰がどんな状況においても善は、同じ結果になるとした(カント「実践理性批判」『世界の大思想〈11〉実践理性批判/判断力批判/永遠の平和のために』河出書房)
*2 例えばレイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』の主人公、マーロウなど。彼は友人、テリー・レノックスとの約束を守るために、警察の尋問にもだんまりを通した。これは友人との約束を守るということがマーロウにとっての善である。
*3 3%の塩水は海水と同じであるから、かなり塩辛いといえる。金槌だった僕は海水を嫌と言うほど飲んでいるから、3%というと無条件に顔をしかめてしまう。30%は10倍であるから塩をそのままなめている思ってもらえればいい。というか沈殿しない? 感覚としてそんな気がする。
*4 心理学用語集「対人認知
*5 同上。
*6 wikipedia「アスペルガー症候群」の項目には「彼等が苦手なものは、「他人の情緒を理解すること」であり」という記述が見られる。
*7 他我や「間主観性」をあつかった、フッサール『デカルト的省察』は1931年に出版されている。
*8 というかどのクラスタで。
*9 デリダ『マルクスの亡霊たち』(藤原書店)

関係ありそうな文献
おかしな時代で「生きていく」ために……養老猛司『バカの壁』との関係が示唆されている。
・鷲田清一『自分・この不思議な存在』(講談社)……電車での化粧と『コミュニケーション不全症候群』と関係があるかも?
・東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社)……冒頭で本書の引用が出てくる。
・松木邦裕『対象関係論を学ぶ』(岩崎学術出版社)


続きを読む


東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社)4

このエントリーをはてなブックマークに追加
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

要約

 オタク文化を中心にライトノベル、美少女ゲームといった素材を分析して読み解いています。議論の土壌は大塚英志の『物語消費論』です。これは小説の消費者がその物語のキャラクターを使って新しい物語を作る、という理論。この大塚で俎上に上がってるのがビックリマンシールや都市伝説でした。
 しかし東はこれをライトノベル──ここでは具体的には桜坂の「All You Need Is Kill』や舞城王太郎の『九十九十九』──に当てはめて、メタ物語というポストモダン独特の文化を表わしていきます。
 メタ物語とは本書の重要な概念の一つです。本書のオタク文化についての東が述べている主張は、キャラクターや物語のデータベースの中から好きな組み合わせで新しい物語を作っているのである。そこが作家個人の体験を基盤においた自然主義文学との違いである、と。そしてそのデータベースをも含めた物語世界がメタ物語なのです。

ラノベの読み方

 本書での中心テーマである、ライトノベルの読み方は作者の意図とは関係なしに読まれることを前提として、話が進んでいくのです。
 作者の言葉を借りれば環境分析です。まず従来の文学論について東は「自然主義的な読解は作家がある主題を表現するためにある物語を制作し、そしてその効果は作品内で完結していると考える」としています。しかし、これは作品論的な読みです。このような読みしかできないのなら戦後の日本文学のほとんどが成立しえません*1
 確かに明治では「自然主義」の、つまり東が言うようにテクストは作者の悩みそを映し出す鏡である、と言う文学観が主流でした*2。それは西洋絵画の写実主義の影響なんですよ。
 だから東はライトノベルは読み方を「環境分析」に変えるべきと主張しています。しかしむしろ戦後の純文学においても通用する広い読み方で、別にライトノベル特有の読み方ではないはずです。
 もし仮にライトノベルを「作家のテーマとは関係なしに読まれるもの」だとしたら次のような反論が成り立ちえます。それは電撃文庫から出ている『キノの旅II』において、
「僕は……戦争に行きたくない……」
 小さな声で〔子供は〕言った。キノが両親に向かって、
「戦争に行かすかどうかもふくめて、もう少し三人で考えてみたらどうですか?」
 すると両親が、同時にキノに向いた。憮然とした表情でキノを睨みつけ、
「あなたねえ、他人の教育方針に首を突っ込まないでもらえます」
「そうですわ。これは私達の問題です。私達は子供の将来を真剣に考えているんです」(時雨沢恵一『キノの旅II』「過保護」角川書店)
 「戦争」の比喩で表わされることがらは読者の読みに委ねられる。しかし子供への過保護が余計に子供を不幸にする、という共通認識でもあり「作者の意図」であることは確かなように僕には思えます。つまり作者のテーマを読み解く「自然主義」のアプローチというが初期のライトノベルにおいては確保されていたのです*3。
 ここで彼の参照している大塚の論理も危うくなってきます。彼は、
 ライトノベル以外の小説をすべて、現実を「写生」するものだと捉えている。ミステリやSFは非現実的な事件を描くがそれはあくまでも現実の写生を前提としたうえで、そこに違和感をもちこむ手法だというのが、彼の考えだ。それに対して、ライトノベルは、アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を「写生」する点に特徴がある。
 とありますが、明らかに前出の『キノの旅』は大塚や東の言う「現実の写生」に近くはないでしょうか?

ポストモダンとポストモダニズム

 本書ではポストモダニズムとポストモダンを明晰に区別してますが、ライトノベルはポストモダン的であって、必ずしもポストモダニズムを信仰しているとは限らないといいます。「オタクはポストモダン(という現象)が生み出した集団だと言えるが、それは必ずしもポストモダン(という思潮)を信じていることを意味しない」と東浩紀は言います。
 そもそもポストモダンと一口に言ってもその思想内容はさまざまですが、本書で扱っているのはリオタールを軸として展開されます。
ポストモダンにおいても、近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな物語」を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。
 つまり、ライトノベルならライトノベルを一つの「文化」として許容することで純文学との差異を発見しましょう、というのが本書のもくろみです。

ライトノベルの特徴

 さて僕は「ラノベ」と「ライトノベル」を明確に区別している。ライトノベルなどのサブカルチャーに長年親しんだ僕にしてみたら、先にあげたキノの旅や西尾維新の『化物語』と『ふるめたるぱにっく』や『まじかるあんてぃーく』と一緒にするのは大いに抵抗を覚えます。
 何の根拠もなしに、単なる印象を承知で言えば、スレイヤーズを一つの基軸として大きく変化したように思えます。それは東が分析しているような感情がむき出しの文章でも文体の稚拙さといった形式的な問題ではありませんし、東が語るような誰に向けてのメッセージか解らない、宛て先不在であるがゆえに乱反射しているようなあてさきでもありません。
 感情むき出しの宛て先不在のメッセージは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』などにも見られる傾向です。
もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。
 この君(you)が精神科医なのか友だちなのか、はたまた架空の相手なのかはっきりしていないまま、ホールデンの自分語りは進むんですけど、この君=読者だという読み解きも可能ですよね。その場合は東浩紀のライトノベル固有の特徴の一つとされている宛て先の乱反射はラノベ(もしくはライトノベル)以外でも起きていることになります。
 ラノベ(ライトノベルではなく「自然主義的な読解」が成り立たないラノベ)の問題意識は前述したポストモダンに生きていながらポストモダニストでない彼らの姿勢にあると思うんですよ。例えばラノベ作家の中で彼が基盤としているデリダやボードリヤールを読んだことがなくとも東浩紀や斉藤環の名前を知っている人がいるだろうか?
 しかしそれを差し引いてもなお、☆4つをつけるのはライトノベルを本格的に分析の対象にした試みだからです。ライトノベル研究の文献は非常にすくなく、彼が『ゲーム的リアリズムの誕生』を書く上で大いに参照した大塚やラカンに依拠している斉藤環を除いては本格的な研究成果はまだまだ本格的な研究はなされてないように思います。もしかしたら僕の探し方が悪いのかもしれません。何か適切な文献があったらご教授下さい。

ボーカロイド

 さて東が本書で述べられているいった背景を考慮に言れれば、オタク文化で初音ミクが受けるのは当たり前と言えると思います。東が議論の土台としている大塚は別の著作『「おたく」の精神史』でビックリマンシールやサンリオのキャラクター、あるいは都市伝説を分析しています。いわく、キャラクターが先にあって、消費の過程で物語が付加されていく、と。
 また大塚はアイドル、岡田有希子の自死も俎上に挙げて80年代を論じています。見られる自分のみが肥大化し、内面との区別がつかなくなった。というよりは内面がなくなったことを理由としてあげています。
 ボーカロイドは「ヤマハが開発した歌詞とメロディーを入力するだけで歌声を合成する技術、およびそれを応用したアプリケーションソフトウェア」*4で、当然、内面がありません。初音ミクというキャラクターのみがいて、そこにユーザーが「物語」を作りあげていくという構図になっています。したがって、大塚や東が指摘するようにキャラクターが存在し、物語はそのキャラクターが流布し、1.消費されていく過程で作られていく2.内面のないアイドルという二つの条件を満たしている、と思われます。

ミステリーもデータベース化されている

 さて僕が東や大塚の「データベース消費論」を無視できないのは、ミステリーもデータベース化されてしまっている、という点にあります。確かに、本書でもデータベースの例として清流院涼水の『コズミック』やら舞城『九十九十九』があがってます。また僕のミステリー仲間は、本書を参照しながら新本格全体がデータベース化しているという考えを発表しています*5。
 しかし僕はもう、コナン・ドイルの段階でポーやルコックといった既出の探偵が出てきて、データベース化は始まっていたと思うのです。そしてそのデータベースを完成させたのがディクスン・カー『三つの棺』の「密室講義」だと思うのです*6。
 そしてそれが行き詰まって東の言うところの「自然主義文学」に立脚しようとしたのが、レイモンド・チャンドラーなどのハードボイルドなのです。しかし、やがてハードボイルドも酒、セックス、麻薬などといった具合に記号化され、データベース化していきます。
 それをまた引き戻したのがロス・マクドナルドなんです。こういうわけで、自身のミステリという分野もデータベース化してますので、他人事のように思えないんですよ。大げさに言えばミステリをもう一度、自分の悩みに引き寄せて書く方法を模索中なんですよ。
 ここで一つ、瑣末ながら疑問が残ります。メタミステリを「推理小説そのものの形式を作中で利用したミステリ」と説明しています。そして一例として「作家自身が犯人だった」というものを挙げています。しかしこの定義ではメタミステリを十分に定義したとはいえません。もちろん東のここで述べられている論自体に支障はきたしませんが、これでは叙述トリックも内包されてしまいます。そして叙述トリックの起源は20世紀初頭にまで遡ります。また、谷崎潤一郎もある犯罪小説の中で叙述トリックを使用しています。
 ではメタミステリとは一体なんなんでしょう。その前にメタフィクションの説明をしなければいけません。それは小説の世界の外にまた世界があることを登場人物たちが自覚し、行動するフィクションのことです。メタミステリは謎解きの証拠に小説の外部の情報(例えば自分が小説の中の登場人物であること)を使うミステリのことです。

疑問点

 しかし、ここで疑問が残る。本格探偵小説がデータベースである点は笠井が『探偵小説序論』の中で述べている。しかし、東の主張だとデータベース消費はポストモダン以降に、つまり一九七〇年代に起こった潮流だとしています。
 またミステリー史においてコナン・ドイルが果たした役割はポオが発明した推理小説という分野の普及という面もあります。しかし、数々のパロディ及び二次創作の土壌になっています。しかもその初期の頃から、モーリス・ルブランが自身の作品『ルパン対ホームズ』でコナン・ドイルが生み出したホームズを転用しています。結局、これはドイル自身からのクレームで「ホーロック・ショルメス」としたのですが、事実上の二次創作、つまり本書の定義する「キャラクター小説」の条件の一つ「転用」を満たしています。
 つまり探偵小説では最初期のころから既にポストモダン特有の現象とされている「キャラクター小説」に片足を突っ込んでいるような作品群が現れていたんです

*1 「文学と現実の関係が「透明」だと信じられてきた」のなら安部公房の『砂の女』などのシュールレアリズム批評は成り立ちませんし、村上春樹の『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などがあれほどまでに絶賛されることはなかった、と思います。
*2 東が引いている田山花袋はその代表とも言える作家です。私を語ることで内なる「私」を見つける、という前提が「私小説」の前提としてあります。
*3  ここで確認しておきたいのが、そもそも『キノの旅』はライトノベルなのだろうかという点です。東の定義する「文学から少し距離を保った位置にあり」、「マンガ的なイラストが添えられていて」、「中高生を読者層に想定している」などの要件は全て満たしていますし、世間一般では恐らくライトノベルとして読まれているので、ライトノベルと扱って間違いないと思います。
*4 VOCALIDより引用。
*5 すみません。前は公開されていたのですが、今は公開していないみたいですね
*6 はからずもこの著作においてギデオン・フェル博士は自身が探偵小説の中の人物だと意識しています。なので東がオタク文化の特徴として指摘しているメタフィクションの構図は満たしています。

続きを読む


斎藤環『文脈病』(青土社)4

このエントリーをはてなブックマークに追加
文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

要約

 東浩紀と並ぶ二大巨頭のサブカルチュア研究家です。東はジャック・デリダやボードリヤールを軸に分析していますが*1、斎藤環は精神科医ラカン、ドゥルーズ及びガタリや、人類学者、ベイトソンなどを軸にマンガ・アニメ、アウトサイダー芸術などを分析しています。
 そしてその中心となるキーワードは文脈と「顔」についてです。斎藤環は研修医時代に「顔」について驚くべき体験をしている、と言います。それは患者の顔を一瞥しただけで分裂病、オルガニッケルなどの患者を見分けてしまう「Shot Diagnosis」と呼ばれる診断法が行なわれていた、というんですよ。
 斎藤環が個別の顔とは何か、という問いにこだわる原体験なのです。あくまでもここでは「顔の固有性」を検討するためにマンガを分析しているにすぎない、と本人は言っています。
 斎藤のこの本は「顔はコンテクストである」という命題を立てて進んでいます。

顔の二重性

 さて顔でまず思い起こされるのがレヴィナスが『全体性と無限』において書かれた「顔」です。ここでも斎藤は最初に「言うまでもなく、エマニュエル・レヴィナスによる、他者性と倫理をめぐる思想が前提とされなければならない」と言及しています。
顔の現前は、いずれ把握され現象へと還元される所与、を超えている。顔は、所与を超えて私に呼びかけ、繰り延べることのできない切迫性を伴って、私に応答(reponse)を要求する。(レヴィナス『全体性と無限』岩波書店より)
 レヴィナスは倫理規範として誰かの顔があり、そこに他者を見出しているのです。
 レヴィナスの論を補足するとこうなるだろう。僕もあまり精読はしていないので、偉そうなことは言えないのだが、例えば母親や父親の顔を思い浮かべて犯罪を思いとどまるようなことである。ここで母親・父親の実例を挙げたのは偶然ではない。母親や父親こそが子供にとって最初の他者だからである*2。
 もう一つの顔の機能として「固有名」としての顔があります。例えばミステリでよく出てくるパターンに「顔のない死体」というものがありますが*3、あれは死体の身元探し、つまり斎藤の言葉を借りれば「固有名探し」から始めなければいけないのです。
 つまりレヴィナスの「顔」は倫理規範としての顔と識別するための顔の両方を持ち合わせているのです。レヴィナスは「顔の公現は、全面的に言語である」と述べているのですが、ここで、斎藤はドゥールズを参照しています。
 顔は身体としての頭部とは全く異なる。顔はむしろ頭部を「脱領土化」したものだ。つまり身体としての「頭部」という分節を、いったん無効化するものだ。(中略)頭部から顔への脱領土化は、有機体の地層から、意味性または主体性の地層への、絶対的な移行である。(中略)穴のあいたこの表面上への意味性と主体化からなる新しい記号系が設置される。顔はしたがって、意味性の中心にある身体のようなものであり、またシニフィアンの身体でもある。
 ドゥルーズの言う「脱領土化」とはその影響や約束ごと(コード)が及ばないようにするという意味です。しかも身体という約束(ここでは有機体としての身体)は「意味としての身体」になるのです。例えば悲しみ、怒りはほとんど「顔」によって表わされますよね。シニフィアンとはソシュールが提示した用語で意味されるものです。例えば(^^という顔文字自体をシニフィエ、顔文字が表わす微笑みという内容をシニフィアンとしたのです。
 僕は「顔」の持つ機能について斎藤とはまた別の意味で興味を持っていますのでメモとして残しておきます。

宮崎アニメにおける時間軸「今ここ」の分析

 まず斎藤は宮崎のアニメ論を分析する。よくあるパターンなのがサザエさんやドラえもん、そしてコナンなどがいつまで経っても小学生だ、という点です。金田一なんかは夏休みネタを三回はやっている記憶があります*4。基本的にアニメは時間軸がないのです。斎藤はこれをイマジネール(想像的)なものだからと分析しています。
 きわめて多くの漫画と、その影響下にあるアニメに共通する志向性ある。「無時間性」への志向である。それは神話的な無時間というよりは、もっと個人の想像力に根ざした、イマジネール(想像的)なものの本質であるような無時間性である。そう、イマジネールなものとは、ほんらい無時間的なものなのだ。その空間の中で、死者が決して年をとらないように。こうした無時間性は、おそらくイマジネールなものの起源とも言うべき、ナルシシズムに根差している。
 つまり、斎藤は年をとらないのも、時間の引き伸ばしが容易なのも、あくまでマンガ及びアニメが想像上の産物だから、と言っているのです。
 これはたとえば僕たちがとりとめのない空想をして、我に返ると5分が経っている経験とよく似ています。
 宮崎〔駿〕は、時間と空間が主人公の情念と迫力表現のために著しく歪曲・誇張される「アニメ」独特の表現を、講談『寛永三馬術』で、曲垣平九郎が石段を馬で馳せ登るくだりの表現になぞらえた。梶原一騎に代表される、特権的時間の無限引き延ばしという劇画的手法もまた、講談的な時間である。
 そしてそれはフロイトのいう「口唇期的な欲望、すなわち一次ナルシシズム」なしには成立しえないのです。中井久夫は精神的な時間(カイロス時間)と物理的な時間(クロノス時間)とに区別していますが、アニメは「クロノス時間を抑圧している」といいます*5。
 またアニメでは声優も年をとらない、といいます。「少年役を演ずる声優は、何年経とうと声優役で行ける」とあります。声優が死んだときはよく似た声の人がそれを継承する。これもアニメの無時間性を補強する、といいます。
 女性声優が少年の声をあてることに*6ついて、「「少年の表象」からあらゆる成長の痕跡を消し去る」効果がある、と述べています。これについては補足しなければいけませんが、子供は第二次性徴を迎える15才くらいまでは声の高さは女の子と同じなんです。逆にいって男らしい声になるのは、15才くらいからであって、そういう意味で成長の痕跡を消し去ることができる、と述べているのです。
 ここでアニメが時間軸を無視しているということに触れましたが、宮崎アニメはその無時間性を排除している、と言っているんです。例えば
 宮崎は「止め絵」をほとんど用いない。「キメのポーズ」、「背景処理」、「効果音」で迫力を強調しない。物語を叙述する時間は、可能な限り均質に流れるが、それはクロノス時間の遵守によってではなく。カイロス時間の健全さを回復するための技法が駆使されることになる。したがって、「アニメ」的な特権的瞬間の引き延ばしは決してなされない。この均質性はまた、極端なクローズアップの禁欲にもつながるだろう。この結果、キャラクターの重要性は画面やデザインからではなく、あくまでもその「運動性」を通じて表現されることとなる。
 しかし『もののけ姫』でサンのクローズアップなどはどう説明するんでしょう?

稲中卓球部における体臭妄想

 意外なことにアニメの王道、宮崎駿の他に、『行け! 稲中卓球部』というギャグマンガの分析もしています。中学生の多くはこのとき、自分から悪臭が出ているのではないかと気になるらしいんですよ。
 思春期妄想症でもっとも多いものは自己臭妄想(自分の体からいやな臭いが出るため、人から避けられるという思い込み)である。ちにみに「稲中」の田辺という男は、殺人的な体臭を発するにもかかわらず、それをまったく自覚していない。これはまさしく、自己臭妄想の正確な反転形である。
 ほかに斎藤は望月峯太郎の『座敷女』や大島弓子の『バナナプレッドのプディング』などを分析して、妄想と無意識の関係に言及しています。
 ここでは言及されてはいませんが「寄生獣」なども未知の生命体=第二次性徴の比喩と考えることもできます。中学生になると腕力も強くなり、それがミギーという妄想化したキャラクターに現れてるのでは?

エヴァンゲリオンにおける境界例、そして結論に

 東浩紀の『郵便的不安たち』と並んで、エヴァンゲリオン論の鉄板なのが本書収録論文で境界例事例の観点からエヴァンゲリオンを論じた「エヴァンゲリオン 空虚からの同一化」である。
 医者でもなく、簡単に調べただけなんですが、境界例事例というのは「人との距離が上手く取れなく、あるときはくっついたり、かと思えば離れたりして周りの人を振り回す病気」らしい。また斎藤の説明によると「孤独に耐えられず、他人とのかかわりを求めるあまり、はた迷惑な行動に走」り、「そのつもりがないのに周囲を挑発せずにはいられない」とあります。エヴァンゲリオンのアスカがそれにあたります。
 しかし、ここでは自分探しをする人にとっての挑発的な一文から始まる。なぜなら境界例の人は(僕が想像するに)絶えず自分探しをしているものだと思うからです。
主人公・碇シンジの「自分探し」は結局、それが想像的に──つまり疑似的に──解消されるか、あるいは探す行為そのものを放棄する以外には終わりようがない、ということが、とてもリアルに示されている。だからあの二話は、あそこに、あのように置かれるしかなかったように見える。
 僕の読みだと、あれはシンジの心の中の様子で使徒は「現実」、そしてアスカは発達して近づいたり離れたりを繰り返す無気味な異性なのですが、そのあたりのことはなんとも書いていないですねー。文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ
 さて、マンガやアニメをここまで精神分析的に緻密に読み解いた人は斎藤環が始めてなのではないですかね。僕が興味があるのはラカンを使った方法論そのものより、個々の読み方です。例えばエヴァンゲリオンにおける境界例、宮崎アニメにおける時間軸などです。
 そしてそれらを小説などに生かすことで、また違った味わいが出ると信じています。

*1 東浩紀の言葉を借りれば「エミュレート」している(『リアルのゆくえ』)
*2 しかし僕個人のことを語るならば「顔」よりも「声」が非常に大きいウェイトを占めている。原因はさておいてレヴィナスよりもデリダや賛同するのはこのせいがあるのかもしれない。
*3 いろいろありすぎて困るところだが代表的なのはエラリイ・クイーン『エジプト十字架の秘密』である
*4 『オペラ座館殺人事件』、『墓場島殺人事件』、『ブラッディ・プールの殺人』(短編)などなど。
*5 しかしアニメだけではなく、小説一般にも当てはまることである。例えば「六ヵ月が経った」という一文で、時間を一気に流すこともできれば、空想や思い出で時間を引き延ばすこともできる。逆にアニメは、時間が限られている分、クロノス時間の影響を受けやすいのでは?
*6 例えば江戸川コナンの声優は高山みなみである。

続きを読む


東浩紀[他]『コンテンツの思想』(青土社)2

このエントリーをはてなブックマークに追加
コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

要約

 ポストモダン批評の第一人者、東浩紀が『ほしのこえ』の新海誠、『攻殻機動隊』の神山健治、マンガ研究家の『夏目房之介』などと対談しています。
 例えば深海誠だと従来のアニメ制作技術との相違点と可能性。従来はまずアニメーションがあり、それからアフレコという作業が行われます。大学時代に絵コンテを見たことがあるのですが、それは本当に秒きざみなんです。でも新海さんいわく、彼のアニメーション制作法だといくらずれても編集が可能らしいんです。
 神山健治だとヴァーチャル世界の中の現実世界、とかそういう観点で論じています。

なれあい

 ☆二つと割と僕の中での評価は低め。というのもなんかなれ合いというか批評家としての社会的役割が感じられないんですよね。東氏は『リアルのゆくえ』でブログやネットの影響で批評家の役割は終わった、と述べていますし、『コンテンツの思想』でも、「観客に批評を許さない構造になっているんですよ。そこには気持ちいいかよくないか、という生理的判断しかない。(中略)そしていまや、あらゆる文化産物がそういう方向に行っている。作品は身体的な快楽と直結していて、「これ、俺用にカスタマイズされていない作品だから駄目だわ」となっちゃうと、それ以上なにも言えなくなってしまう」とあります。
 確かにあらゆるものが相対化された価値観(例えばフーコーだったらホモセクシュアルを認めましょう。デリダだったら、二項対立の図式なんて曖昧ですよ……。リオタールなら、国家という縛りはいずれなくなり小さいコミュニティ同士が林立する世の中になる)をポストモダンの定義とするなら、そういうこともいえるかもしれません。しかし僕はそういう「あれっていいよねー」「うん、いいよね」じゃいけないと思うんですよ。
 それって結局は重なり合うところしか見ていないわけじゃない? そうじゃない。僕の(というか多分、一般の)価値観として見たら、違う読み方を提示してもらいたいんですよ*1。
 否定、とまではいかないけどさ、違いを見つけ/見つめなきゃ、本当に危なくなるんじゃないのか、と思ってますけどね。少なくとも僕が現代思想に惹かれる一つの理由として、他者を認められるという利点があるかと思うんです。だからプチナショナリズムとサヨクの人たちだって自分の考えが「絶対的」ではない、という意識さえ本当にもてれば、理解しあえると思うんですよ。
 そうじゃないと本当に韓国とも解り合えなくて、お互い憎み合うだけになってしまいます。東は
 嫌韓みたいな現象になるとやばいでしょう。相手は人なんだから、「ちょっと韓国ってウザい」でまとめられても困る。
 と言います。そして神山は「そういう現象って、やっぱり他人が意識の中に存在してないからだと思うんです」と述べて、
 それは作品を作っている他人というのが存在していなくて、しかしだれかには不満をぶつけたいということがあると思うんですよ。しかも、自分が返り血を絶対に浴びないことが大前提で。
 ネットはよく人が見えない空間だから虚構だという話が出ます。しかし、少なくとも僕は両方現実だという感覚なんですよ。この感覚を語るのは非常に難しいんですけど、ある意味ではブログを書いている方が素直な自分になれますし。それは虚構だから素直になれるという逆説ではありません。繰り返しますが僕はパソコンの画面の向こうに人がいると感じているならそれは現実の世界だと考えます。
 だからこそ東の指摘するようにネットは悪口でつながっているんだと思います。ぶっちゃけ、悪口を言うのは相手がいるから成立しえることじゃないですか。twitterやなんかも誰かが見てくれているかも、という意識があるからこそ呟けるんだと思いますよ。本当に誰にも見て欲しくないことについては僕はプレーンテクストで思い切りぶちまけます(笑)。

何のために評論をやるのか

 東の将来の批評像は「マイノリティ」を癒すことはできない。そもそも東は自分の趣味を権威づけする作業しか行なってない。ボードリヤールとか使ってね。それはある時期までは正しかった。オタクやインターネットが世間一般で、危ない人だって思われてた80年代〜90年代までは。でも、『電車男』、オタクのイメージが(よくも悪くも)上がりました。
 一昔前の知識人なら間違いなく「自分を乗り越えていくために哲学をやっている」というでしょうね。それはそれでありです。もしくはもう少し前の人ならば、社会を変えるために、哲学を勉強すると答えるでしょう。
 しかし……これは『リアルのゆくえ』で大塚が提示した疑問と重なるんですけども、「じゃあなんで本を出版しているの? 読者はなんのために1200円も出してこの本(あるいは『リアルのゆくえ』でもいいですけど)を買ったの? もしくは読んだ1日は何だったの?」ということになりません?
 東浩紀の評論のゴール地点が見えてこないんですよねー。『動物化するポストモダン』や『郵便的不安たち』、あるいは処女作のデリダ論『存在論的、郵便的』とかは僕は東浩紀の力作だと思うんだけど、どうですか?

*1 このブログのモチベーションの理由に、僕とは違う読みを提示してくれる誰かがいるから、続けている、というのがある。

続きを読む


大塚英志、東浩紀『リアルのゆくえ』(講談社)2

このエントリーをはてなブックマークに追加
リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書) 

要約

 サブカルチャー論(ゲーム、2ちゃんねる、ラノベなどのオタク文化)批評を代表する二人の対談。二人の考えの違いがよく現れています。批評の公共性、知識人の責任などを論点に議論を交わす。

すべてがサブカルチュアになる


 東浩紀は一世代前の批評家、大塚英志に「一種のエミュレート」として語る。
デリダ論でもそうだったんだけど、背景となる知識や大前提がなくても、ある題材が与えられれば、その内部で整合的に話がつながるように読み方を捏造するというか、そういう感覚がある。
 確かに彼の『動物化するポストモダン』を読むと、ボードリヤールなどの概念を「エミュレート」してきているような感覚である。つまりその本の中で完結してしまっているのです。
 しかしこれは果たして東浩紀だけの問題なんでしょうか。笠井潔も小森健太朗も、あるいは西田幾多郎もエミュレートしている感じがするんですよね。それこそコピーこそがオリジナルになっているという逆説を大塚が『「オタク」の精神史』で指摘しています。
 抽象論ばかりでもいけませんので、例えば仏教やキリスト教などを考えてみます。あるいは明治維新があんなに早くできたのは、東の指摘するエミュレートの才能が日本人にあったからだと思うんですよね。
 ただゼロアカ道場とか見てると、みんな自分の説をヘーゲルだとかで権威づけ──東の言葉を借りればエミュレーションしてるしてるだけの印象があります。これはすごい危険なことだと思うんですよ。言葉だけが浮遊してて自分でも何がなんだか解らない上にシロウトさんは東浩紀の、あるいはそこに登場する哲学者の権威、知名度でしか判断できない状態になってしまうと思うので。
 「僕の一〇才下の世代はずたずたになってしまう」と述べていますが、変に補強したせいで、まるでソーカルが指摘したのと全く同じ状況が起きてるわけです。一回、特にサブカルチュアなんかは作り手がサブカルチュア以外のものを読まなきゃいけない。僕の実感としてはサブカルチュアとハイカルチュアの区別なんかは等価とかは思いながらも、心のどこかではクラシック音楽や純文学をハイカルチュア、マンガやゲームなどはサブカルチュアという意識が働いています。
 その証拠として、それこそデリダではありませんが、言葉が分かれていること自体、もうサブカルチュア/ハイカルチュアのすみ分けがなされているような気がします。そりゃまあ僕だって基本的には赤川次郎もドストエフスキーも同じノリで語ってますけど。それは観点の違いによるものであってハイカルチュア/サブカルチュアの構造が未だに強く残ってるような気がします。

覇気がない東と苛立つ大塚

 なんか覇気がないんですよね。東に。『動物化するポストモダン』やエヴァ論の古典となった『郵便的不安たち』なんかは「エミュレート」してやろうという覇気は感じられました。またデリダの「つまづきの石」を探る試みである『郵便論的、存在論的』は難解でしたが、おもしろく読めました。
 しかし自分でなんとか新分野を開拓しようという意志が感じられないというか、自分の新しいテーマが見つからない、という印象を受けました。いや、案外早く新分野が開拓できたから、もうその必要はなくなったという印象を受けます。

責任

 社会的責任とデリダ的責任に分けてみようと思います。社会的責任は損害賠償なり謝罪なりの話。デリダ的責任というのは、道義的責任とはまた違うんです。一つの行動を起こしたのなら、それに関わった全ての人々の言葉。よく、僕なんかでもそうなんですけど、無自覚に人を傷つけてしまいます。冗談半分で言ったのに相手を傷つけてしまうことは学生時代はありましたし、今でもあるかもしれません。
 例えば悪意なく「貧乏臭いことしやがって」*1と言ったとします。それで数日後、それを根に持った彼が何か軽いイタズラを仕掛けたとします。この場合、社会的責任はありません。そして道義的責任もおそらくはお互い様ということになります。しかしデリダ的責任は間違いなく「貧乏臭いこと……」と言った方にあります。これが発端でイタズラが発生したのですからね。
 なんでこんなことを言うかと言えば、責任についてお互いの認識が食い違っているような気がするのです。しかも東浩紀は責任をどう果たしていくのかと詰め寄られたら……まぁ仕方ないのかもしれませんが社会的な責任を連想してますよね。デリダ的な責任ではなく。あんた、デリダで博士号もらってるんだから、責任についてもっと自覚的にならなきゃいけないよ、と思うんですけどねぇ。

議論は平行線

 さて、この二人の責任論や公民論は平行線をたどります。やっぱりこのあたりが大げさに言えばモダニスト大塚とポストモダニスト東の考え方の根本的な差異です。つまり大塚は、国を動かすのは国民であるというスタンスの元に話が展開していきます。リオタールの指摘した「大きな物語」を信じているのです。統一的な価値観と言っていいかもしれません。
 しかし、ポストモダニズム(フランス現代思想)はそれが崩壊して、「小さな物語」が林立しているのです。だから繰り返すように「技術論的な側面」を追及し、いかに再分配のシステムを構築していくかが鍵になるだろうと予見しているのです。じゃあ批評の意味ないよね? と挑発する大塚に「ええ、ありませんよ」と開き直るあずまん。そしてこう言います。批評はもう公的なものではなく私的なものになってしまったと。そしてそれは情報があふれる社会の中では仕方のないことである、と。
 大塚によればそれを先導していくのが知識人や批評家ではないのか、と言います。ここがポストモダンの東と知識人の「神話」を信じている大塚の違いだと思うんですよね。

*1 たぶん男同士ならこの程度のことは日常会話でしょう。

続きを読む


大塚英志『「おたく」の精神史」(講談社)5

このエントリーをはてなブックマークに追加
「おたく」の精神史 一九八〇年代論

要約

 八〇年代の現象をエヴァンゲリオンやセーラームーンなどのアニメやエロ本、ビックリマンシール、都市伝説と言った、いわゆるサブカルチャーとオウム真理教、宮崎勤などの犯罪から読み解いたマンガ家、大塚英志のエッセイ。
 この本はアニメ・まんが批評の鉄板でもある。

分裂する物語

 ビックリマンシール、というのが僕(よりもちょっと上)の世代で流行ってました。兄が熱を上げていたので覚えています。ガンプラ*1もガンダムカードも同時期でした。あぁ、そういえばたまごっちとかガングロだとかも流行ってましたねぇ。またちょうどポケベルからケータイへの移行期でした。リアルタイムで八〇年代を体験していた僕にとっては懐かしい話でした。
 大塚はビックリマンカードの裏についている小さな思わせぶりなエピソードと商業戦略を分析しています。
「ビックリマンシール」はその裏面に「ウワサ」と称して微細な断片が意味ありげに語られている。受け手はいまだ見たことのない物語について意味ありげな蘊蓄を与えられるのである。一つ一つでは意味不明な情報の断片がしかしいくつか集まることでおぼろげな輪郭を結ぶ。そこで作用するのが都市伝説的な想像力であることはいうまでもない。八〇年代的な言い方をしてしまえば、子供たちは「ビックリマンシール」を介してその向こうに「異界」を見てしまう仕掛けとなっていたのである

 民俗学者の野村純一を参照しながら「ビックリマンシール」を初めとする八〇年代のキャラクターの特徴を分析しています。「断片的な挿話が受け手の間を流布していく過程で物語として完成していく」民俗学用語で言う「世間話」だと。
 そしてその代表的なのがエヴァンゲリオンです。細部を執拗なまでに語っています。その執拗さは例えば、キルケゴールの著作などを引き合いに出したり、フロイトのエディプスコンプレックスについて思わせぶりなものを提示したりしていることからも明らかです*2。
 つまり「物語」の消失、というか分裂が八〇年代に起こっているのです。これは東浩紀が『動物化するポストモダン』の中で述べていることなのですが、「原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて、自分で勝手に感情移入を強めていくという別のタイプの消費行動が台頭してきた」としています。
 つまり「オタク」を理解する上で大事なのは、物語よりもキャラクターの容姿であったりするのです。ここで、内面と外面を大きく切り離された人物像が描かれます。この著しく切り離された内面こそが大塚が八〇年代を語る上で大きなテーマになっているのです。

分裂する性表現

 性表現において重要なのは「犯す主体」の不在、つまり男性が描かれていない、もしくは極めて匿名的な存在として描かれていることにあります。代わりに犯しているのは触手だったりします。
 これは先程のエヴァンゲリオンなどともつながってくるのですが、主体/客体という図式が崩れてしまっているんです。あるいは(主体)/客体ともいうべきでしょうか。いずれにせよ本来、犯すという行為では主体が積極的に働きかけなきゃ「犯されえない」にもかかわらず、徹底して傍観者に徹してしまっている。
 もう一つ重要なのは、男性の性幻想を実現する場だったポルノにおいて、女性の自意識を実現する場にとって変わっている、ということです。
 末井〔ポルノ雑誌編集者〕は「エロ本というものは、女に対する一方的な幻想で作られてきたものだとも記す。荒木〔ポルノのカメラマン〕は「大股開き」や、あるいは極めて類型的なポルノグラフィー的設定をモデルに与え、一見、男の「一方的な性幻想」をなぞっているかに見える。しかし、荒木が撮るのはそういった類型的なポルノグラフィーを演じるモデルたちの過剰な自意識である。
 つまり、「わたしの身体キレイでしょ? 見て見て?」という「得体の知れない自意識」であるのだと大塚は分析しています。「八〇年代という時代の特異さは男たちが作り、消費していく自己表出の場として強引に読みかえられていった点にある」と大塚はまとめています。
 これと関係があるのが、実はタレントとか芸能人なのです。彼らは見て欲しいという願望から自らを露呈していますが、露呈する「自己」は虚構のもの、見られるために化粧をした自己なのです。

分裂し、肥大化する自分

 ネット上の創作仲間が新興宗教を題材にした社会派ミステリーを書きたがっているので参考になりそうな場所を抜粋しておきます。大塚は他者の視線の不在がオウム真理教の背景にある、と分析しています。
 先に記したような「自己表現」をしすぎると「自分」が肥大化してとうとう他者が消滅していきます。
それ〔=自分を「記号」として認知して欲しいという思い〕は「私」と「身体」の日常からの極端な分離と、過度の虚構の中に身を置くことで初めてなされる自己実現という点で、〔AV女優の〕黒木香がアダルトビデオに見出したものと同一なのである。そこでは、(中略)いかにして「わたくし」を吐き出すかに関心がある。ピンクハウスと黒木の「わたくし」、そしてオウムに共通なのは他者の視線の不在である。
 つまり過剰な「自分語り」、結果招いたものがオウム真理教だと大塚は語っています。「自分語り」というのは多分、「僕は 絵が 上手だ!!!! 超進化中!!!!」みたいな他者なき自分みたいなものでしょうか。自己満足にひたっている自分。
 これと関係するでしょうか。恐らくは、一連のブログの炎上事件などは「書き手と読み手のギャップから生じる」から生じるのだと思うんです。僕思うんですけど、ブログ世代って器用だなぁ、と。つまり「本当の自分」−「仮面」という構造の間にもう一つ、「本当だけど本当じゃない自分」が挟まれるのですから。
 こんな言い方がまどろっこしいのなら、ブログの記事は誰に向けて書かれてるんですか? 僕のこの記事は基本的にこの本に興味のある人、というコンセプトの元に書いてます。

僕の雑感

 僕はこれでも掲示板やチャットの時代から参加してきたが、それはちょうど情報を得るツールからコミュニケーションツールへの過渡期のように思う。しかもコミュニケーションツールとして活用しているのも二世代ある。オフライン世界の人間関係をオンラインに持ち込むのは一九九五年から現れ始めただろうか。
 僕たちのこれまでの価値観は自分のHPの掲示板でない限り、みんなの掲示板なんだから、誰でも分かちあえるような話題提供がいわれなくても当たり前だった。しかし、今の「ブログ世代」のチャットを見ていると何だか、壁みたいなものを感じる。
 それとともに様変わりしてきたのはオフ会の様式である。かつては掲示板で日程などを決めて、この日に集まりませんか、とオープンにするのが一般的だったが、「ブログ世代」はメールで密かに連絡をとりあって(3〜5人程度らしい)集まるとのことである。
 なんだか勿体ない感じがするのは僕だけだろうか?
 っとこんな話をしたいんじゃなかった。先日、オフ会で知り合った人同士が結婚する。この二人と僕ともオフ会を通じて知り合った。またオンラインで知り合った人のうち何人かは僕の人生の中で大きな比重を占めている。斎藤環なんかはオンライン(虚構世界)とオフライン(現実世界)は彼らにとって等価であると言っているらしいが、僕はオフラインを現実世界と言い切るのは違和を感じる。画面の向こうに僕と同じ人間がいる、と想定している時点でそれは現実世界なのです。
 だってオフラインだって網膜の向こうには同じ人間を想定しているわけだから、区別する必要性を感じないんだよねー。そりゃ便宜上は区別するけどさぁ。頭の中じゃ区別してないのよ。
 また逆のパターンもありえる。つまりオフラインで知り合ったはずの高校時代の同級生がいつの間にかもっぱらオンラインになってしまっている、というパターンです。だから僕の交友関係を説明するとき面倒になるんだよねぇ。

ホームズの物語との相違点

 さて、ここにおいて、ホームズの物語との相違点を述べようと思います。というのもホームズの一連の物語は大塚や東が指摘する図式、つまりキャラクターの再生産ときわめてよく似ているからです。
 コナン・ドイルを「正典」とし、語られざる事件を「補填」するという図式は東の指摘するキャラクターの再生産という点と一見すると酷似しているかのように思えます。確かにキャラクターの再生産という点だけ取り出して見てみると同じだと言ってもいいかもしれません。
 しかしあれは大塚の指摘する「おたく」的な物語としてではなく*3、正典/贋作の区別する必要があるのです。大塚の定義によれば、再生産されていく中で形成していくことがあげられ、その根底には、物語の消失があげられるというからです。

*1 BB戦士とSDガンダム世代。BB戦士の方が小振りで壊れやすい。ちなみに銃にバネがし込んで合って引き金を引くと飛ぶようになっている。しかしこの弾丸は小さくてなくしやすいので……、(以下略)
*2 シンジとゲンドウの関係はエディプス・コンプレックスの典型例である。
*3 ホームズの人生というマクロな視野で言ったら確かに当てはまるが、それは拡大解釈のきらいがあるので取り扱わない。そんなこと言ったらあらゆる文学作品は「おたく」的な生産をしていることになる。


続きを読む


記事検索
最新コメント
有沢翔治について

同人で文章を書いています。

  ゲーム

・ある家族の肖像(有償依頼)2017年コミティア

白い焔

怪奇探索少年隊

天地争像伝奇

ましろいろ

こころのかけら

  戯曲

『めぐる季節の中で』企業依頼

ハシを直す(有償依頼)

視線を感じて

 メール:holmes_jijo@hotmail.com

 twitter:@shoji_arisawa

※詳しい自己紹介はこちらで。