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有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

学術書-精神分析・心理学

河合隼雄、谷川俊太郎『魂にメスはいらない』(講談社)

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魂にメスはいらない ユング心理学講義 (講談社+α文庫)

概要

 ユング派の臨床心理士、河合隼雄と、現代詩の旗手、谷川俊太郎の二人が送る「たましい」についての対談。数学の教師からいかにして、臨床心理士に転身したのか。スイスではどのようなことを勉強したのか。夢分析、箱庭療法など「たましい」を見るための方法を語る。
 またユングは神話などを分析し、登場人物の性格に名前をつけた。その概念についても語る。

河合隼雄について

 戦時中、文系は戦争に駆り出されましたが、理数系は徴兵を免除されていました。この理由から河合隼雄は京大の数学科に入学したのですが、すぐ自分に向いてないことに気付いたのです。
 そのような背景から教育者を目指し始めますが、「数学の教師なんだけれども、やはり自分のやりたいことは、困っている子供の問題」でした。
 最初はユング心理学ではなく、ロールシャッハ・テストを行なっていました。しかし、日本で勉強していても解らないので、カルフォルニア大学へ留学します。その留学先で師事した人がユング派だったのです。

病とは何か

 血が出ているなど、身体の傷ならすぐに解るでしょう。しかし心の病は目に見えない分、難しい。例えばユングの報告した事例で、ローレライという名前でもないのに、「私はローレライです」と言う人がいます。

了解とは何か

 支離滅裂さでいつも、「お前の言うことわけがわからない」と言われ続けてきました。しかし、ユングはローレライの詩に注目します。ローレライの詩はIch weis nichts was soll es bedeutenという冒頭から始まります。
 なお、ローレライという詩人がいるように河合隼雄の表現だと誤解を招くかもしれません。ローレライは詩人ではなく、詩の登場人物です。ハイネの詩『歌の本』に出てくるのですが*1、「自分が何か言うとみんなローレライの詩を口ずさむ、だからおれはローレライに違いない」と患者をユングは分析したのです。
 このように考えていけば、わたしはローレライです、ということは比喩であり、了解できるとユングは考えました。身近な例に置き換えれば、「わたしは犬です」という発言があったとします。確かに、犬が話すことはありえません。したがって偽の命題となるのですが、比喩として考えれば意味が通ります。つまり「犬のような人間だ」という意味ですね。
 犬の例にせよ、ローレライの例にせよ、説明されれば納得が行くのではないでしょうか。相手の行動が理解可能なことを「了解」すると言います。了解不可能な言動を行なえば、異常と定義した場合、もちろん人によって了解可能かどうかは違ってきます。
 「正常」と「異常」ということは非常に曖昧で、われわれの了解する能力が増大すればするほどそれはどこまでゆくかわからないわけです。
 これは子供の行動でも同じこと。子供の言動は意味不明に見えても、何らかの心を映し出していると言えます。例えば子供をカウンセリングしている時は遊ぶこともあり、河合隼雄には短い刀を、自分には長い刀を渡した子供に対してこのように分析しています。
 〔学校の〕先生はいつも長い刀を持っていて、子供は短い刀を持たされているようなものなでしょう。いつも悪いのは生徒で、「あんた何ですか、これ」とか言われて、「あんたは落第」とぴしゃっと斬られる。先生に何か言おうにもこっちの刀は絶対に届かない。
 逆に了解する能力が小さくなればなるほど異常者のように見える人が増えていくでしょう。もちろん、現代の精神医学では本人が困っているかどうかで精神病の尺度が決まります。しかし、これも極めて曖昧。なぜなら周りの人間関係、社会環境に依存するからです。もし周りの人間が全員、行動を了解できるなら、「異常」にはなりえません。
 逆に了解不可能なら例え地域の文化でも「異常」とみなすようになるのです*2。

勝手に治るだけ

 さて、カウンセリングと言えば助言をする等のイメージがあるかもしれません。しかし、「できるだけ手も口も出さずみている」のが基本姿勢。自然治癒力に任せるのです。
 これは本当に『魂にメスはいらない』の随所に登場します。

自殺

それは徹底していて、自殺するかしないかの瀬戸際に立たされている場合も「生きるべきだ」とは言いません。
 「得なんじゃないかなあ」と言ってみるんですがね。それと変な言い方だけど、こうも言います。「あんたが生きていてくれているほうがぼくはうれしい」と。それは事実でしょう。だから、そういう自分の心の中にあるものを、なんとかできる限り、的確にうそのないよう伝えるよう努力します。そのときに、「生きるべきだ」というのはおかしな話でしょう。やっぱり死ぬほうが本当かもしれんと思っていることもあるんだから、そういうのも全部言います。
 そういう時に少しでも嘘をつくと、カウンセラーの信用がなくなり、下手をすると自殺をしてしまうこともあるそうです。
 自殺云々は極端な例にせよ、『「今度はあの先公、どこぞで待ち伏せて殴ったるわ」なんて言い出す中学生』には「ずっとその言い草を聞いている」だけです。

夢解釈

 精神分析のフロイトにせよ、弟子のユングにせよ、夢解釈を非常に重視しています。夢解釈と言うと非現実的に聞こえるかもしれませんが、実際には夢を題材にして雑談をしていきます。
 例えば河合隼雄はこんな例を挙げています。
 同級生のXがやって来て何かを渡してくれた。見ると新聞紙だった。そこで目が覚めるような夢だとします。そうすると、ぼくらはまず「Xというのはどういう人ですか?」と訊くんです。
 次にXはどうして新聞をくれたのか等について尋ねていきます。
 このように夢の登場人物たちを通して、人間関係を掘り下げていくのです。ちなみにこれは自分ひとりでもできます。

箱庭

 夢と並んでユング派では箱庭療法も多く用いられます。厳密にはユング自身の発案ではなく、小児の精神科医であるマーガレット・ローエンフェルトが発案、さらにドラ・カルフがユング心理学を基盤としてさらに発展させました*3。
 この利点は言語にできない点でも、箱庭に落とし込めば視覚的に表現できるということです。子供は言語運用能力が未発達のために子供の治療法として始まったのですが、河合隼雄が大人にも適用範囲を広げたのです。
 ところで、この箱庭療法でもカウンセラーが断定的な意見はくださず、ただどうしてこのような箱庭を作ったのか意見を訊くだけ。

意味のある偶然

 河合隼雄はユング研究所に在籍していた時、カラスの頭に宝石みたいなものが載っている夢を見ます。ユング心理学では昔話なども参考に、夢の意味を分析しています。それでいろいろな文献をあさっている中、試験問題にカラスが登場します。偶然の一致ですが、意味のある偶然だと言います。
 しかし、意味を見出している偶然と言ったほうが正確かもしれません。該当する記述があるかもしれないと思ったり、気晴らしだったりと動機は様々ですが、特に本で調べ物をする時には、目的以外の項目も一応、目を通しません? 目的以外のことも目を通しているから自然に頭に入ります。
 つまり蛇の夢でも「あのとき、ついでに調べたカラスが偶然テストに出た」となります。あるいはたまたま通学中にカラスを見ただけでも、そこに意味を見出すかもしれません。連想で思い出す以上は、明確な因果関係が無くてもその人なりの「意味」を見出しているのです。逆に言えば「意味のある偶然」以外のエピソード以外は捨て去るのでしょう。
 実際、僕はこの記事を書いている時に、たまたまサスペンスで箱庭療法を扱っていました。でもそれは「箱庭療法」以外の記憶を捨て去って、あえて物語らずにいるのです。言うまでもなく、サスペンスを見る以外のこともしていますし、サスペンスの中でも箱庭療法以外に色々な要素がありましたし、CMも含めると膨大な情報量と言えましょう。そして記憶しやすいように、キーワードで頭の中で整理しているのです。これが重大なことであればあるほど神秘性は高まっていきます。
 神秘体験に見えても、そこには論理的な説明の余地があります。身も蓋もありませんが、ある意味では希望を見出すこともできると言えましょう。つまり、人間はどのような場合にでも意味を見出し得るのだと。
 また一つのことを考えていると、全く関係なくとも、ふと目に入った光景で閃くことがあります。これは本当に天啓とも呼べる時も。そのような閃きも「意味のある偶然」と呼べるかもしれません。


*1 Wikipedia「ローレライ
*2 『「彼氏がそば湯を飲むのが信じられない!」 匿名ブログに見る関東と関西の食習慣の違い』(ニコニコニュース)
*3 Wikipedia「箱庭療法



土居健郎『漱石文学における甘えの研究』(角川書店)

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漱石文学における「甘え」の研究 (角川文庫)

概要

 「漱石文学における「甘え」の研究』は夏目漱石の精神分析ではありません。三四郎、坊ちゃん……。漱石の小説に出てくる登場人物の精神分析です。
 架空の人物を精神分析したところで、遊び以上の何の役にも立たないと思われるかもしれません。しかし、自我の問題、親子関係……。彼らは現代人の心を切り取っているのです。

甘え

 まず主著『甘えの構造』から先に読むべきなんでしょうが、いつもどおり変な順番です。

『坊っちゃん』

 土居健郎は『坊っちゃん』*1の清と坊ちゃんとの関係などを通して、甘えを考察していきます。
 清は坊っちゃんの家で下女として働いており、母親代わりです。実の母親は「兄ばかりひいきにして」おり、坊っちゃんは甘えることができませんでした。そんな坊っちゃんを不憫に思い、三円の小遣いを「貸す」と言って渡すなど、清は何かと世話を焼くのです。
 いつしか坊っちゃんと清にとって親近感が生まれます。松山の学校へ赴任するとき、清は「御墓の中で坊っちゃんが来るのを待っております」と述べるで「両者が一体であると互いに信じ込むことができる関係で」す。
 この清と坊っちゃんの関係は先輩の教師、山嵐と比較することでより鮮明になります。山嵐とは坊っちゃんがつけた渾名なのですが、坊っちゃんが学校で生徒と揉め事を起こしたときに、それが山嵐の煽動だと疑います。赴任の初日に山嵐からかき氷を奢られており、疑いを持つやいなや代金を返します。
 つまり清の好意には甘えられるが、彼女以外の好意には甘えられません。もちろん、これは当事者同士との関係性によるもの。
 返礼をしたらその時点で関係は済んでしまいます。逆にいえば返礼をするまで関係は継続することになります。坊っちゃんは理屈をつけて、清から借りた三円を返そうとしませんが、この裏には関係を終わらせたくないという心理が働いていたのではないでしょうか。
 また、大前提として、なにか好意を受けたら別の形で返さなければいけないといけません*2。
 したがって、贈り物を受け取ることは相手から精神的に拘束されることを意味するのです。「坊っちゃん」には偽善という言葉が度々出てくるのですが、純粋に贈与をしているように見えて、実は返礼を期待していることを言い表していると言えましょう。

『坑夫』

 そのような目で言えば、『坑夫』*3もまた、「長蔵さんにさえくっついていけば、どうにかしてくれるんだろうという依頼心」に捕らわれています。これは人間に愛想をつかしたつもりでも無意識で愛情を欲しがっている心理から現れます。これがたまたま、長蔵と出会うことで刺激されたのです。
 ところで、どうして人間不信になったかと言えば、主人公の青年はある少女に惚れます。「自分に対して丸くなったり四角くなったりする」と「自分も丸くなったり四角くなったりしなくちゃならない」ほどの影響を受けます。ところが、彼には親が決めたいいなづけがいました。もちろんまんざら嫌いではないのですが、意中の人と結ばれたいのは言うまでもありません。板挟みに苦しみ、家出を決意するのです。
 もちろん現代日本に於いて二人の女性とは結婚できません。しかし二者択一の状況なのに、二つとも手に入れようという心理は結婚に限らず、現代人特有の心理だと指摘します。
 昔の人だったらこの葛藤に直面した時直ちに二者選一を迫られたであろう。彼らは多くの場合、泣く泣く義理にしたがったのであり、稀に勇気を鼓して人情を押し通したこともあるかもしれない。これに反して、現代の人は二者選一を強いられることを原則として好まない。彼は二者選一ではなく、二者統一を試みようとする。あれかこれかではなく、あれもこれもというのが現代人の特色なのである。
 これには民主化が大きく関わっていると僕は考えています。つまり、自由な行動ができるということは選択の余地ができたということです。江戸以前では、身分制度に縛られ、行動が制約されていました。言ってみれば一本道だったわけです。このような状況では、あれかこれかどころか「これ」と決められていました。
 例えば江戸時代なら本人の意志にかかわらず結婚せざるを得ません。ところが、恋愛が自由になった途端に、結ばれる可能性が出てきます。
 『坑夫』に即して結婚の例を持ち出しましたが、職業選択、居住地域……全て自分で決められるようになりました。坑夫の例だと「相当の地位」が象徴的。つまり地位を継ぐことも、坑夫になることもできるのです。これも身分制度が撤廃されたことによる迷いだと言えましょう。

自我の問題

 さて、自由の問題と自我の問題は密接に関係しています。「三四郎」は自由を得て、自我が発達する課程を描き出しているのです。上京してきた三四郎が美禰子という近代的な女性と出会うなかで成長していく物語です。
 ここでも選択の自由に悩まされます。1つ目は郷里に帰る。2つ目は学問に打ち込む。3つ目は美禰子との恋愛にうつつをぬかす。「自分が何だか宙ぶらりんで落着くところを持たない存在」だと土居健郎は述べていますが、これは『坑夫』などにも共通して言えるのではないでしょうか。
 このような心境は漱石自身がイギリス留学を経験する中で悩んだことが大いに反映されています。というのも、漱石は講演の中で下記の通り語っているからです*4。
私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自分で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までを全く他人本位で、根のない萍のようにそこいらをでたらめに漂っていたからだめであったとようやく気が付いたのです。
 規模は違えど「根のない萍のように」漂っている様は三四郎の心境と重なり合うところがありますね
 青年期の悩みについて研究した精神分析家、エリクソンによれば、現在の自分と、自分の希望と、社会的な役割を統合し、一貫した自己同一性を青年期に作り上げるのだと言います。その意味において、「要するに国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして学問に見を置くことに越したことはない」と「色々考えた」結果の結論は青年期の悩みを忠実に再現していると言えましょう。

親子関係

 さて自我の問題は、親子関係とも密接に結びついています。例えば『明暗』では津田とお延の結婚生活が「何となく落着かないもの」ですが、土居健郎は親子関係を幼少期に親子関係が築けていなかったと分析しています。
 津田もお延も自分がそのようになりたいと思う同性の人物を周囲に持っていなかったということである。精神分析的洞察によれば、正常の発達の場合はいったん反撥を感じた同性の親と同一化することで初めて大人になるといわれている。してみれば津田とお延は現実世界に適応する大人とかつて同一化したことがなかったという点で、未だ社会における自分というものを弁えていなかったのであろう。
 つまり親に反撥しながらも最終的に憧れを抱くことで成長していくのですが、『明暗』の二人にはこのような経験がなかったのだと指摘しているのです。
 最終的に憧れを抱くかは個人差があるでしょうが、家族は最初の<他者>には違いありません。『三四郎』などでは家族関係が良好なのですが、『明暗』*5、『行人』*6では問題がある家族を描いているのです。

精神病

 さて、土居健郎は漱石の登場人物たちに精神病的な性格を見出しているのですが、とりわけ『行人』の一郎が特徴的。
 まず、土居健郎は精神病について下記の通り意見を述べています。
気ちがいは従来医学でいう意味での病気の一種に過ぎないのであって、それ以外の存在理由はないのであろうか。気ちがい自体に具わる論理というものはないのであろうか。
 『行人』は弟と妻が不倫をしているのではないかと疑い、一緒に旅行へ行ってくれないか、と当の弟へ頼む話。一見、おかしな論理で理解しがたいのですが、妻も自分自身も信じられなくなって、弟ならば信用できるという心理が窺えます。そしてこれは男同士の絆という点で同性愛的な心理です。女性が入り込めないほどに結びつきが強いので、同性愛的な心理と言います。
 同性愛的な結びつきは今日、ホモ・ソーシャル*7として整理されていますが、とりわけ『こころ』は顕著に見られます。上では〈語り手〉と先生の関係が、中では過去の先生とKが、それぞれ描かれているのですが、どちらの関係も先生の奥さんが入り込む余地のないまでに深い絆で結ばれているのです。
 そして、『こころ』の先生にせよ、『行人』の一郎にせよ、精神病患者として「了解」しようとしています。
 

*1 夏目漱石『坊っちゃん』(新潮社)、なお、青空文庫でも読むことができる。
*2 マルセル・モース「贈与論」『贈与論 他二篇』(岩波書店)
*3 夏目漱石『坑夫』(新潮社)なお、青空文庫でも読むことができる。
*4 夏目漱石『私の個人主義』(講談社)
*5 夏目漱石『明暗』(新潮社)なお、青空文庫でも読むことができる。
*6 夏目漱石『行人』(新潮社)なお、青空文庫でも読むことができる。
*7 イヴ・セジウィック『男同士の絆』(名古屋大学出版会)



平井富雄『精神科の診察室』(中央公論)

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 平井富雄『精神科の診察室』を読みました。

概要

 精神科の診察室には様々な人が訪れる。例えば、家庭の悩みで仕事が手に付かなくなった人、劣等感から勉強して大学院に進んだはいいが、創造性がないと批判され、それを気にしている人、父権主義の家庭に居心地の悪さを感じ、引きこもりになってしまった人。
 初版は三十年前にもかかわらず今の世に通じるところがあるだろう。

短編小説のような味わい

 臨床心理士のさきがけ、河合隼雄も心の病について、いろいろ著作を書いているのですが、人間ドラマは全く受けません。確かに小説をよく引き合いに出していますが、分析心理学の理論的な解説に重点を置いているような気がします。
 チェーホフにしろ、モーパッサンにしろ、優れた短編小説作家は人間の心を描いています。当然ながら平井富雄『精神科の診察室』もこの点を描いており、一つ一つが短編小説の素材となりそうだと思いました。

拡がっていく負の感情

 例えば「年齢の重みは疲労の重み」という文章では患者Y、息子、娘の思いのすれ違いから病気が悪化していきます。発端はYの奥さんの病気。命に別状はありませんでしたが、Yはショックを受けます。奥さんの通院日にのみ家事を行ないます。しかし奥さんが病気でショックを受けているとは子供に見せませんでした。
 これは家庭におけるひとつ危機である、しかし、長男はそれを感じながらも、受験の重荷を放棄するわけにはいけなかった。しだいに床に横になっていることの多い母親を見るにつけ、彼は弱気になっていく自分を意識するのがたまらないときもある。
 イライラが昂じて、ときに父のウィスキーに手を出す夜あった。息子の悩みはY氏の感ずるところとなっていく。(中略)
 こういう中で、家庭の女では娘である。それも高校二年生となれば、家事の手伝いくらいはできるのが普通だろう。彼女は自分なりにそうしたらしい。
 しかし(中略)前に比べ、家庭が暗いと感じ始めた。いきおい帰宅が遅くなる。それが母親の心配を強めたようだ。
 一方、父親には、「十分やっている」と主張する娘の言葉は屁理屈に思えるのだった。
 この家庭内の不和は職場にも無意識のうちに持ち込まれます。長い引用になりましたが、もう少し、肉付けしたら立派な短編小説になるでしょう。少なくともこの話だけでも、人間関係の変化、心理の変化などの物語の核は持っています。
 このYさんに限っていえば押し隠そうとしていることで余計に悪化していると言えるのではないかと思いました。ショックを押し隠していくうちに、その空気が家庭に伝染、家庭内不和を同僚に話さないことで、仕事にも影響。ここで家庭内不和を仕事に持ち込んだことを責めているわけではありません。負の感情を押し隠していると、家族など小さなコミュニティから、会社などへ広がっていくののでしょう。
 このような例は他にも、「ここまできたら、もう遅い」のS氏などにも当てはまります。S氏は出世を境に家庭を放ったらかしがちになりました。その日を境に息子が登校拒否に陥ります。登校拒否はエスカレート。次第に暴力へ。
 先生、この頃、息子が私〔有沢注:S氏〕にも暴力を振るうのです。(中略)あんなにおとなしかった息子が……
ここまで来たら仕事どころではありません。Sさん自身も「不眠、頭痛、食欲不振など」を訴えるようになりました。
 「仕事に忙殺されていたためと、すべてを奥さんに任せていたツケが回ってきたわけである」という風に息子の欲求不満が段々と蓄積されていったのです。この欲求不満がSさんのところに巡ってきたのでしょう。

エディプス・コンプレックス

 さて子は父に反発心を抱くものですが、フロイトによれば、これは母親の愛情を独占したいからだと言います。しかし、それは叶いません。父親は権威の象徴であり、「母親の愛を独占するな」という禁止事項を与えているのです。その命令を破り、母親の愛を独占したら、懲罰を恐れることになります。
 これがエディプス・コンプレックスの概略なのですが*1、「ここまできたら、もう遅い」の症例はエディプス・コンプレックスよりもむしろ父親の愛に飢えていたのでしょう。海外特有の、更に言えばフロイト家特有の心理状態を当てはめたとも言えるかもしれません。
 その一方で、エディプス・コンプレックスを思わせるような症例もあります。例えば「父親即会社への甘え」は権威的に振る舞う父親が出てきます。一方で「母と息子が、相手と自分の区別がつかないほどの共生関係」とあるように母親の愛を独占していました。
 また、『オイディプス王』は近親相姦の懲罰が神から下ったというギリシャ悲劇をもとに、フロイトはエディプス・コンプレックスを提唱しました。「知ってしまった父の近親関係」では、患者のI氏が父親の日記を見つけます。そしてその日記には伯母と父が近親相姦をしたと記されていたのです。
 この日からI氏は抑うつ症状に苛まれることになります。
「ひょっとすると兄貴もおれも〔近親相姦の結果、できた子供なのではないか〕という疑惑があたかもエントロピーの数式のように浮かんでくる。昔ならったエントロピーからハイゼンベルグに至る不確定原理のもととなる数々の公式が、グルグル回ってやまないのである。
 突飛だと思えるかもしれませんが、不確定というキーワードを軸にすればどうしてこのような妄想が出てきたのか想像できましょう。つまりI氏は今まで父親の妻から生まれたと信じて止まなかったわけです。その意味では確定的な世界に生きていたと言えましょう。しかし、父親の日記を見たら「もしかしたら」という不確定な世界に足を踏み入れました。この不確定という言葉から統計力学を連想したのでしょう。
 隅の黒ずんだ赤煉瓦の高く厚い塀、不気味な深い蔦を這わせた暗い木立ち、そして厳重で高い鉄扉のある大きな門などがありありと浮かんできた。
 これはI氏の心象風景と呼べるのかもしれません。

現代性

 このように見ていくと、文体は古臭いですが、現代性が感じられます。人間の心を扱っている以上、当然かと思うかもしれません。しかし、多忙さがもたらす弊害については現代にこそ、顧みられるべきでしょう。
 多忙さが家庭内不和の原因となる以外にも、睡眠時無呼吸のことも紹介されています。精神的なストレスが睡眠時無呼吸と関係して、突然死を誘発している、と平井富雄さんは指摘しています。現代の知見はどうなのか解りませんが、最後の一節は睡眠時無呼吸症候群とは別の疾病でも大事となるでしょう。
 栄養に注意するのも大事だが、「睡眠をけずってまで無理をするな」、と私の講演を結んだけれど(中略)「それができればなあ」と慨嘆していた。
 「「突然死」に襲われる前に」では睡眠不足が突然死を招いた具体的な事例が載っています。
 〔残業時間は三百時間を突破して、〕四月上旬のある日、Kは会議中、突然机にうつぶし、顔色を蒼白にし、かすかなうめき声を上げた。皆が気付いたとき、彼の心臓は完全に止まっていた。
 この初版は1989年、つまり約三十年前。それにもかかわらずこのような現状は全く変わっていません。

*1 ジークムント・フロイト『〈世界の名著〉精神分析入門』(中央公論)



岸見一郎『アドラー心理学入門』(ワニブックス)

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アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

概要

『嫌われる勇気』でアドラー心理学が一世を風靡しました。ブームが終わった今でも、根強い人気があるようで、図書館では予約が殺到していました。そこで同じ岸見一郎さんのアドラー心理学入門を借りてきました。

個人心理学(individual psychology)

 アルフレッド・アドラーは個人心理学を立ち上げました。それまでフロイトやユングは個人を意識と無意識に分割して考えていたのですが、アドラーは個人を分割不可能な存在と名付けました。その考えはindividualという名前にも現れています。

individualの意味

 individualは「分割不可能な」という意味です。individualのinは否定を現します。例えばinformal(非公式の)はformalの否定形、incorrect(正しくない)はcorrectの否定形となっていますよね。
 次にdivideですが、分けるという意味。例えば「My mother divided the cake into four pieces」は「お母さんがケーキを四つに分けた」という意味になります。
 最後のualですが、名詞に続ける時に必要なもので、日本語で言えば「な」に当たります。例えばcasual fashionはfashionが名詞だからcasualになっているのです。

個人は分割不可能なもの

 このindividualという言葉にこそアルフレッド・アドラーの考えがよく出ています。アドラーもフロイトのもとで精神分析を学びます。精神分析といえばオカルトめいた響きがあるかもしれませんが、カウンセリングの技法。今でこそ精神科は投薬治療がメインなのですが、初期の精神科医はカウンセリングで治療していたのです。
 フロイトはすでに触れたように、個人を意識と無意識に分割して考えました。これはフロイトの臨床経験が大きな役割を果たしています。ある女性が水をどうしても飲めない、としてフロイトのところを受診します。フロイトがカウンセリングを進めていくうちに、家庭教師が犬にコップで水を与えていた場面を思い出します。犬が大嫌いだった彼女は、コップを見るたびにその記憶が沸き起こって、いつしか水が飲めなくなっていたのです。しかし、その出来事を思い出すや否や、コップで水が飲めるようになりました。
 このような極端な例でなくても、他人に指摘されてようやく思い出す記憶があります。これは単に忘れていたからではなく、不愉快な記憶だから思い出したくない、とフロイトは考えます。

アドラーはこう考える

 ところが個人は分割不可能なものだと、アドラーは考えます。
 アドラーが自分の創始した心理学の体系を「個人心理学」と呼んだのは、最初に見たように、人間を分割できない全体と捉え、人間は統一されたものである、と考えるからです。そこでアドラーは、たとえば、人間を精神と身体、感情と理性、意識と無意識にわけるというようなあらゆる形の二元論に反対します
 それではアドラーは神経症についてどのように考えているのでしょうか。「面目を失いたくないから、当面の課題から逃げている」のだと。トラウマのせいにして、可哀想な自分を演出したいだけなのではないかと。
 全面的にとは言わないまでもアドラーよりもフロイトに賛成していますが、その理由を見る前にアドラーの考えを見ていくことにします。

行動には目的がある

 すべての行動に目的がある、とアドラーは考えます。「面目を失いたくはないがため、ある出来事を自分が課題に直面できないことの原因とするのです」と岸見一郎は解説しています。
 アドラーの思想に通底しているのは目的ではないでしょうか。例えば、アドラーは児童相談所で食べ物を中々飲み込まない子供について、相談をうけます。「飲み込むまでは次のものを食べてはいけない」というルールを家庭内で作るのですが、中々守りません。そこでアドラーは子供にこう言います。
「口に出すものをテーブルの上に吐き出すのだ。そうしたら皆困ってしまって、君のことしか話さなくなるよ」
 つまりアドラーはこの子供が母親の注意を引く目的で困らせようとしている、と見抜いていたのです。
 また別のカウンセリングの事例では、子供のイタズラに手を焼く先生が相談に訪れます。授業中に黒板消しを先生に投げつけるのです。「校長は何度も彼を家に帰らせた。それにもかかわらず投げるのを止めない」と。しかしアドラーはだからこそ、黒板消しを投げるのを止めなかったと説明するのです。注目を集めたいから、黒板消しを投げたのだと。
 アドラーは少年と実際に面談するのですが、少年が小柄であることに気付きます。カウンセリングを受けた後、こう述べています。
 自分を実際よりも大きく見せようとしているのです。僕は実際よりも大きくなければならない。皆にも自分にもそのことを証明しなければならない。権威に反抗しなければならない。先生に黒板消しを投げたりして
 つまり、背の小ささに劣等感コンプレックスを抱いていたので、教師へ黒板消しを投げたのです。
 多分、フロイトならこの事例を父親と教師を同一視して、父親への反抗心が教師へ向いたのだと解釈するところでしょう。
 このカウンセリング事例からも解るように、アドラーは目的を重視しています。そして最終的に人生の目的を意識させることで、患者を治療していくのです。この辺りはヴィクトール・フランクルの考えに近いものがあります。

アドラー心理学の限界

 しかし、それでもなお、僕はアドラー心理学に部分的にしか賛同できません。言ってしまえば、アドラー心理学は付け焼刃的な印象を拭えないのです。このことは重大な弊害をもたらしかねません。
 その前に、素人の僕でも危険だと思う事例があります。それは、中々飲み込まない子供の事例。これは、そもそも正常に嚥下ができるにもかかわらず、飲み込まない、という前提があります。つまり、まずは器質的な<原因>を疑って掛かるべきです。喉の筋肉、唾液分泌量……。そういった器官が正常だと解って、始めてアドラーの診断が下せるのです。
 例えば肉の繊維が噛み切れなくて、中々飲み込めないのだとしたら、それは子供の咀嚼力を上げるなどの対応が必要です。さらに重要なのは母親は医学に対して素人。母親が「口の中にものを入れたまま中々飲み込まない」という観察を鵜呑みにできません。

目的論では解決できない問題がある

 人間関係は目的論で解決できるかもしれません。しかし、目的論では解決できない問題もあります。一つは機械の話。こればかりは動けばいい、という思いだけで設計すると大変なことになりかねません。
 例えば、エクセルでは=”1”+”1”、=1+1、=”1”+1を同じように計算します。しかし、もし指導する立場にあったら=1+1と書かせます。どうしてか。ある日、突然、=”1”+”1”は文字列同士の演算と見なされ、#VALUEが出るかもしれないからです。
 それに=”1”+”1”と=1+1とを区別しない言語は珍しい。言語によっては計算結果が全く違い、”1”+”1”を”11”と定義しています。このルールに従えば"あ”+”あ”は”ああ”と返ってきます。つまりプログラムを組む上では文字なのか数字なのかを意識していなければいけないのですが、”1”+1と書いたら数字か文字かを意識できていないことになるからです。
 そしてこのことはVBAでマクロを作らせたときに、重大な問題を引き起こしかねません。

人間関係でもまた原因が重要となる場面がある

 例えば、プログラマ同士で雑談する時は、自明のことでも必要ならわざわざ言います。そして自明のことでも逐一確認をします。また、隣の人でもメールで会話します。
 外部からの人間は奇妙に思われるかもしれません。しかし別に仲が悪いのではなく、ちゃんとログに残ってコピーができるというメリットがあります。情報伝達をしたいだけなら、話したほうが早いでしょう。ちゃんとそこには理由があるのです。
 そしてこの理由が解らないと、なかなかプログラマという人種は理解されないでしょう。
 これはプログラマという特殊な職業を理解するために必要なのでしょうか。例えばイヌイットの人はアザラシの生肉を食べます。これはビタミンを植物から取れないという原因があり、その結果として生肉から摂取しようとしているのです。
 したがって野蛮だと非難することはできません。もちろん野蛮だと非難することで優位に経とうとしているのだとアドラー心理学では解釈されるのですが、人間の行動には必ず原因があります。他者の行動を理解するためには、その原因を探っていく必要があるのだと僕は考えます。
 プログラムをデバッグするときのように丹念に、相手の論理を一つずつ追いながら。

アドラー心理学は無意味なのか

 アドラー心理学が無意味なのかと言えば、そうではありません。目的を理解しなければ、生きる意味を見失ってしまうからです。
 場合場合によって目的論か、原因論なのかを使い分けなければいけないと僕は思います。

日本でなぜアドラー心理学が流行ったのか

 同じ著者の「嫌われる勇気」はベストセラーになりました。それだけ人間関係に悩んでいる人が増えているのだと思います。

憧れ

 嫌われてもいいから自分の意志を貫く、という姿勢は中々できるものではありません。それゆえにある種の憧れとして、アドラー心理学が流行っているのではと思います。
 この憧れはテレビドラマにも現れています。「相棒」も「ドクターX」もいわば自分の正義を貫く人。相棒の「暴発」では神戸尊を敵に回してでも自分の正義を貫きますが、現実で叶わないからこそ、杉下右京や大門未知子に熱を上げるのではと思います。あるいは、半沢直樹の倍返しが流行した背景も。

人生論が好き

 加えて日本人の多くは歴史的に見て、人生論が好きです。哲学と人生論を混同してる人すらいるのではないでしょうか。例えばサルトルも意識とは何かを考えた「存在と無」、戯曲などは顧みられず、社会参加をすれば人生は変わると受け取られ方をしているふしがあります。
 自己啓発セミナーが流行し、アドラー心理学の解説書を「自己啓発の源流」としている辺り、人生論や自己啓発の関心の高さが窺えます。別に自己啓発を否定する気はありませんし、重要なことだと思います。ただしそれは本だけ買っても意味がありません。嫌われる勇気を実行しなければ意味がないのです。
 口で言うのは簡単だけど、実行できたら苦労しないって……。難しい本を理解できたら苦労しないって……。そういう人は自分のプライドを保ちたいから、実行しないだけだ、とアドラー心理学ならいうと思うんですけどねぇ。

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鈴木晶『フロイト以後』(講談社)

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フロイト以後 (講談社現代新書)

概要

 フロイトは精神科の医学史のみならず、現代思想にも大きな影響を表した。特にジャック・ラカンなどのフランス現代思想、そしてラカンに影響を受けた、哲学者ジジェク……。ジジェクの研究家、鈴木晶がフロイト前夜と以降を思想史、哲学史の枠組みとして描き出す。

フロイト以前

 心の理論はそれこそアリストテレスにまで遡りますが、フロイトとの関係ではデカルトが重要です。彼は理性で情念もコントロールできると考え*1、これは長年の間支持されてきました。一方で悪魔憑きなどの現象も科学でどうにかならないか、と議論されてきました。

シャルコー

 シャルコーはフロイトの少し前の世代。ヒステリー研究などで知られますが、今で言うヒステリーとはかなり意味が違います。(もちろん当時の)脳神経に異常がないのに、ボーっとしたり、物忘れが酷くなったり、手足が震えたりという症状。
 今で言う解離性障害の症状ですが、シャルコー以前は子宮が原因だと考えられていました*2。現に子宮のマッサージで治療していました*3。それで一定数の効果が上がっていたのですから、子宮に原因があるという考えを抱いても不思議ではありません。
 しかし19世紀後半、シャルコーは催眠療法を開発して、サルペトリエール病院で公開講義を行います。この講義には医学関係者だけではなく、作家なども詰めかけました。性的な要素が強く、公衆の面前で女性が絶頂する、というようなこともあったようです。
 医学生のフロイトもこの講義を聴講していたのですが、彼は禁欲的なパリ生活を送っていました。そんな医学生にとっては意味で貴重な経験になったのでしょう。精神分析入門でも「見る」ことの重要性に触れています。ここで催眠療法についても少し解説をするなら、いわゆる夢うつつな状態、入眠直前のまどろみです。

メスメル

 催眠療法の起源は、メスメルまで遡ります。メスメルは動物磁気という理論を提唱。動物磁力のバランスが崩れることで体調不良を起こすと考えました。彼の治療法は水と磁石の入った桶を患者の前に置くだけ。
 これで実際、治療できていたのですが、これはプラシーボ効果によるものではないか、と指摘しています。このメスメルの治療法ですが、科学主義が原因で多くの知識人を魅了します。例えば作家のホフマンの小説には動物磁気の影響が強く現われているとエレベンガーは考えています、
 ピュイゼギュール侯爵もまた、メスメルの動物磁気に強く影響されています。呼吸器疾患の農民青年を磁化させようと、メスメルの治療法を試します。その結果、夢遊病の症状が現れるようになったのです。
 このような背景のもと、催眠療法は誕生したのです

フロイトの思想

 さてシャルコーの影響から、フロイトは初めこそ催眠療法を試しますが、次第に自由連想法という方針に変えていきます。自由連想法は、患者をリラックスさせて連想する単語を言っていくというもの。どんなにつまらないことでも恥ずかしいことでも。
 それはアンナ・Oという女性を治療していたときのことです。彼女はフロイトの患者ではなく、共同研究者、ブロイアーの患者だったのですが、どんなに暑くても水が飲めないという症状に苦しんでいました*4。
 実は家庭教師がコップで子犬に水を与えているのを目撃していたのですが、そのことをブロイアーに話した途端に、水が飲めるようになったのです。ブロイアーから話を聞いて、フロイトはこう考えます。
 自分では意識していない領域があるのだと。今でこそ無意識という言葉は日常会話で使われますが、当時は画期的なことだったのです。

意識、前意識、無意識

 さらにフロイトは意識、前意識、無意識に分類し、前意識は記憶が曖昧な領域。普段は思い出せませんが、思い出そうとすれば思い出せる領域を指します。何を思い出すか、何を思い出さないかはふるいにかけされ選択しています。黒歴史は思い出しませんよね。
 この取捨選択能力を検閲といい、夢は検閲にかけられる前の記憶だというのがフロイトの考えです。つまり夢を分析すれば、何に悩んでいるか解ると考えたのです。
 こういうとフロイトは珍説を唱えた、というふうに取られそうなのですが、視点を変えれば案外、まともなことを言っていると僕は思います。つまりカウンセラーは話題の取っ掛かりが必要ですよね。何の話題なら身構えずに話を聞くことができるか、と考えた場合に一つの選択肢が「昨晩、どんな夢を見ましたか?」だと思います。
 もちろんフロイト自身の理論体系からはかなり離れてしまうのですが。

欲動

 フロイトは欲動という概念を提唱します。性欲と混同されがちですが、鈴木晶さんによればこの二つは違うと述べています。性欲と言えばもちろん、男性器で感じる快楽のことですが、欲動は自己保存に絡んでいます。例えば乳児が母親の乳房を吸うのは、性的快楽のためではなく栄養摂取のためです。そしてその名残がタバコなどといった唇で咥えたいという欲求と絡んでくるのです。
 排泄もその一つ。人間は排泄をしなければ、体調を崩します。それゆえ肛門の刺激が快楽に結びつくのです。そして排泄、栄養補給などといったことが欲動の一つです。もちろんこのような自己保存の欲動は成長するにつれ、抽象化していきます。
 「自我」の保存もその一つ。そして、この欲動の源泉をエスとフロイトは名付けたのです。エスはドイツ語の非人称代名詞で英語で言うitに当たります。

フロイト以後

 フロイトの死後、精神分析医だけでなくフランス現代思想にも影響を及ぼします。マルクス主義やソシュール言語学との融合があります。

精神分析

 フロイト以降の精神分析で浮かぶのはユング。ユングについては河合隼雄が分かりやすく解説していますが、特徴的なのが集合的無意識。統合失調症の患者を治療しているときのこと。患者の妄想が妄想が古代ミトラ教の経典と類似してることに驚きます*5。そこから何らかの共通した無意識があるのではないか、という結論に持っていきます。
 僕は精神分析に共感するのですが、そんな僕でも偶然ではないかと思うのです。精神分析の功績よりも神話や民話の研究、そしてオカルティズムの研究が面白いです。
 マルクス主義との結合で言えばフロムとマルクーゼなどが挙げられます。心理学と経済学とは全く違う領域のように思うかもしませんが、二人の思想には似ているところがあります。それは人間を変えようという点だと、ライヒは指摘します。
 僕はこの他にもう一点あると思います。それは、目に見えるもののの下に全く別の機構があって、互いに影響しあっているという点。身体と心は互いに影響し合っていますし、法律的・政治的の下には生産・経済という全く別の機構が働き、互いに影響し合っているのです。

現代思想へ

 しかし、治療技術としての精神分析は投薬治療に置き換わり、下火です。代わりに、思想としての精神分析が挙げられます。フランスの精神科医、ジャック・ラカンはこの側面に大きく影響を与えました。ラカンはフロイトに帰れというスローガンを掲げてはいるのですが、フロイトとかなり違っています。
 例えば言語学の応用。彼は現実界、象徴界、想像界に分けて考えています*6。コトバは現実をすべて捉えられませんが、コトバを用いないと現実は語れないのです。
 彼は病院でフロイトの読解セミナーを開いたのですが、ジャン・イポリットといった哲学者なども聴講していました。
 聴講生以外でも影響はいたるところにあります。例えばドゥルーズはアンチ・オイディプスでフロイトの考え方を批判しています。その批判の意図は国家・教師・上司などの権威に対する反発を全て父親の投影などと単純化してしまうこと。
 またフーコーは狂気について考察。狂気は社会から逸脱した存在と言うだけでなく、狂気を犯罪者と一緒に隔離することで、狂気と罪とが結びつくようになってしまったと指摘しています。フロイトが現れるまで、狂人の側は監獄(精神病院)に閉じ込められてしまったのです。
 
 

*1 ルネ・デカルト『情念論』(岩波書店)
*2 Wikipedia『ヒステリー
*3 同上
*4 ブロイアー、フロイト『ヒステリー研究(上)』(筑摩書房)
*5 ユング『元型論』(紀伊国屋書店)。なお僕は河合隼雄経由でユングを解釈している。
*6 Wikipedia「現実界・象徴界・想像界



ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)

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それでも人生にイエスと言う

生きる意味について

 人生に意味はあるのでしょうか。この問いこそ、哲学の実存主義に関わる大きなテーマであり、現代でも悩む人が多いのではないでしょうか。例えば、尾崎豊の「17歳の地図」でも「何のために生さてるのか解らなくなるよ」というフレーズが出てきます。
 フランクルの『それでも人生にイエスと言う』は生きる意味についての示唆を与えてくれます。しかし生きる意味についての明確な答えは提示されていません。それどころか読者一人一人が自分で考えるように求めているのです。

フランクルについて

 僕は基本的にどんな人が言ったかよりも書いてある内容を重視します。もし真実なら誰が言っても変わらないと考えているからです。また過度に内容と作者を結びつけすぎると偏見や固定観念から正しく読み解けない場合もあります。しかし『それでも人生にイエスと言う』は著者の生涯と思想内容が密接に関わって、著者の経歴を紹介しなければいけません。
 ユダヤ人精神科医、フランクルはナチスドイツによりテレージエンシュタット強制収容所へ収容されます*1。この収容所はユダヤ人の中でも比較的緩やかなほうだったのですが*2、のちにアウシュビッツ強制収容所へと移送されます。アウシュビッツは絶滅収容所の一種で、ユダヤ人を殺すために作られた収容所です。
 もちろん一般労働者として。強制収容所はもちろん衣食住が保障されていないどころか、労働力にならないと判断したらガス室で殺されてしまいます。
 そんな極限状態でも囚人たちの中には生き抜いた人もいるのです。フランクルも生存者の一人で、三回に渡る講演録をまとめたものです。

思想的背景

 ナチスと関わった哲学者と共通しているのは皮肉です。ニーチェは妹が勝手に編纂して、ナチスに献上しただけなのでまだ救いがありますが……。

ニーチェ

 『それでも人生にイエスと言う』というタイトルは冒頭に掲げられている歌かと思いきや、ニーチェが出典とのこと。フランクルがニーチェを読んでいたことは、『それでも人生にイエスと言う』で言及している点から見ても間違いないようです。
 ニーチェもまた、「神は死んだ」という言葉で端的に言い表されているように既存の価値観は形骸化したものと捉えました*3。そして既存の価値観に縛られず、自分の価値観で行動するようになるだろうと予見したのです。
 価値観を人生の意味と読み替えれば、フランクルの思想に酷似しますよね。

ハイデガー

 さらに皮肉なことですが*4、ハイデガーの思想とも似た部分があります。フランクルは下記のように述べています。
 私たちは死ぬ存在です(中略)。こうした事実だけのおかげで、そもそも、何かをやってみようと思ったり、(中略)。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。
 ハイデガーもまた自分が死ぬという自覚を持てば、生を直視できると考えました。人間(ダス・マン)は自分の死をぼんやりとしか見ていません。日常の些事に埋没させ、死と真剣に向き合おうとしない人。そんな人たちのことをダス・マンといい、頽廃しているとしてハイデガーは非難したのです*5。

生きる意味について

 僕たちは普段、生きる意味はあるのか、という設問を立てがちです。しかし、フランクルはその問いそのものが間違っているのだと指摘します。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければいけない存在なのです。
 つまり、我々は人生や世界に意味を問うのではなく、意味を積極的に見出し、答えなければならないのだといいます。フランクルたちは強制収容所で明日、「選別」されガス室に送られるかもしれない状況でした。こんな状況なら自殺を考えるのも自然で、実際、多くのユダヤ人が高圧電流の流れる鉄条網に飛び込んで自殺しようとしたそうです。
 しかしフランクルは科学者と商人の自殺を思いとどまらせることに成功しています。収容所から出られたら何をしたいですか、という問いかけによって。科学者は研究を続けたい、商人は娘に会いたいという希望が湧いて出たのです*6。
 人生に対する見方を一八○度変える、とフランクルは述べています。あるいは天動説と地動説になぞらえてコペルニクス的転回とも。この主張は一見「何のために生きてるんだろう」という問いではなく、人生の意味を進んで考える存在だというものです。

体験価値

 ところでフランクルは何に意味を見出すかを三つに分類しています。その一つが体験価値。素晴らしい音楽を、『それでも人生にイエスと言う』では例示しています。他にも『夜と霧』*7ではアウシュビッツで一日の仕事を終えて、夕日の美しさに感動するというエピソードが取り上げられています。
 ある夕べ、(中略)突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見過ごさせまいという。ただそれだけのために。
 この夕日、この音楽、この絵画を聞くために生まれてきたのだ、という体験は生きる糧となります。
 別に芸術や自然を鑑賞するだけが体験価値ではありません。恋愛や親孝行など、愛を経験することも立派な体験価値なのです。

創造価値

 何か芸術作品を創り出す意欲が生きる糧となるケース。解説によれば、フランクルはゲーテの『ファウスト』を引き合いに出して、説明している本があるそうです*8。
 つい先日、歴史秘話ヒストリアで葛飾北斎の一生が取り上げられていました*9。六十歳で脳梗塞を患うなど、苦難に満ちた人生でした。しかし北斎はバイタリティに溢れ、八十四歳で江戸から絵の依頼を受けに小布施まで行っています。

態度価値

 しかしアウシュビッツ強制収容では、創造価値はもちろん体験価値も極めて限定的でした。自由に音楽も聞けなければ、絵を見ることもできません。
 そんなときでも生きる希望を捨てなかったのは、態度価値です。フランクルは態度価値について下記の通りに語っています。
 自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実にどう適用し、その事実に対してどうふるまうか(中略)に生きる意味を見出すことができるのです。
 例えば交通事故で半身不随になっても、生きる目標がはっきりしていれば絶望しないのです。現にフランクルは壊死で片脚をなくした法律家を引き合いに出しています。
 でもフランクルの実例は時代柄、おおげさであまり実感が湧かないかもしれません。そんな時は、小さな目標を掲げてみて下さい。もちろん目標は高いに越したことはないのですが、太宰治の「葉」という小説にこんなくだりがあります。
死のうと思っていた。 今年の正月、よそから着物一反もらった。 お年玉としてである。着物の布地は麻であった。 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。 夏まで生きていようと思った。
 この程度でいいのだと僕は思っています。

何かを生み出すこと

 フランクルは「人生はそれ自体意味があるわけですから、どんな状況でも人生にイエスと言う意味があ」るのだ主張します。クリエーターは、どんなにネガティブなことでも貪欲に吸収します。実体験で得た感情こそが生の体験であり、創作に一番使いやすいのは言うまでもありません。しかしここで一つの逆説が発生します。つまり多くの場合、創作のために体験しようとするのではなく(もちろんそういう場合もありますが)、体験をもとに考えてきたことを創作として打ち出すのです。私小説やエッセイに限らず、フィクションについても。
 ところで誰もが自分の物語を作りたいと、僕は思っています。作るという意味ですが、実際に書かなくても、内面に留めておいても構いません。その根拠となっているのがナラティブセラピー*10です。
 フランクルはフロイトの意見に反発していますし、確かに快感原則では上手く行かないように見えます。しかし自分の物語を作ることは快感をもたらします*11。
 ところで僕は創作活動を、しかも物語を書いているのでよく分かるのですが、まずどんな結末にするかを考えます。もっともこれは僕が推理小説という特殊な分野を書いていることも影響しているのかもしれませんが。
 結末が見えないと、必ず途中で創作意欲を失います。人生という物語の結末をどう描くか、ということにも関わってくるかと僕は思いました。

*1 Wikipedia「ヴィクトール・フランクル
*2 Wikipedia「テレージエンシュタット
*3 フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』(筑摩書房)
*4 ハイデガーはナチスドイツへ積極的に加担した(Wikipedia「マルティン・ハイデガー」)。
*5 Wikipedia「ダス・マン
*6 ヴィクトール・フランクル『夜と霧』(みすず書房)
*7 同文献
*8 山田邦夫「解説 フランクルの実存思想」(ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う>』春秋社)
*9 NHK『歴史秘話ヒストリア』(2017年9月17日20時放送)
*10 Wikipedia「ナラティブ・セラピー
*11 「Twitterで「自分語り」をしたくなる理由──脳が喜びを感じるから」(ITmedia 2012年05月10日付 2017年9月17日閲覧)


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島崎敏樹『生きるとは何か』(岩波書店)

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生きるとは何か (岩波新書 青版 881)

はじめに

 森有正『生きることと考えること』に続いて人生論。疲れてるんじゃないかって思われそうですが、なんてことはない図書館の本が予定より早く読み終えたから、たまたま本棚にあった本を読んだだけです。新書は入門書や、下手するとエッセイ・随筆という内容が多いんです。
 したがって軽いものだと2時間くらいで読了できてしまうんです。僕にとってはいい暇つぶしの材料です。教養の獲得、語彙力の上昇、そんな思いは全くありません。
 僕はこんな風に意識が低いんですね。なので『生きるとは何か』について感想を書いていいのか迷ってしまうんです……。

内容

 著者の島崎敏樹さんは精神科医。wikipediaを見てみると有名な人らしく、現代文の教科書などにも載るほどだと*1か。知りませんでした。
 『生きるとは何か』では生き甲斐、居場所を中心に据えています。こういった人生論は生き甲斐・居場所の重要性を熱く語って、自己満足になることが多いんです。たとえ暇つぶしでもそういった本は読みたくありませんが、『生きるとは何か』は面白く読めました。
 例えば下記のくだり。
生れおちたときの私たちは白紙であって、この上にどんなことばが書きこまれたかによって私たちはひとりひとり別の人間になる、それは疑うことはできない。それでは白紙である以上はだれも等質で平等なであろうか。おなじ白紙とはいっても紙質はさまざまあるではないか。
 この文章はジョン・ロックを始めとする、タブラ・ラサ*2、つまり人間は白紙の状態で生まれてくるのだという考えを念頭に置いています。この島崎敏樹さんの文章は白紙の比喩を踏まえつつ、反論していることです。
 その根拠は、一卵性双生児の兄弟でも片一方が殺人犯、片一方が聖職者になったという事例。語り口もそうなのですが、多くの臨床例、文献を引用して、人間の心は不思議だと思わせてくれます。

甲斐

 さて、島崎敏樹さんは生き甲斐に注目しています。そもそも「甲斐」とは「なにかをするにあたってあらかじめ期待した予測どおりにことが運んだかどうかできまる評価」だといいます。つまり、未来を予想し、ちゃんと物事が進んでいるかをチェックすることだと解釈しているのです。
 広辞苑で調べてみたら、「1 行動の結果として現れるしるし。努力した効果、2 期待できるだけの値うち」という意味が載っていました*3。
 生き甲斐とは居場所があるということです。実際、昇進、昇給が勤め甲斐の一位に来るのは男子だけであって女子社員で同じアンケートを行なうと居心地の良さが一位に来るそうです。もっとも、これは時代柄もあるので、今は変わっているのかもしれませんが。
 この居場所という考えこそ『生きるとは何か』の中で繰り返し述べられています。そして会社への「行き甲斐」につながってくるとも。

居場所

 さて、島崎敏樹さんは臨床例を紹介します。息子のために完璧な嫁さんを探してきたがために、自分の居場所を失ってしまった。彼女は嫁に難癖をつけはじめて、嫁を追い出してしまいます。島崎敏樹さんは「居場所」という意味で「居がい」を使って、次のように開設しています。
息子と二人で一緒に生きている暮しの地盤が〔嫁に〕うばわれて、どっしりと坐っていられる「居がい」をなくしてしまったせいである。
 自分の地位が脅かされるので、必死になって取り戻そうとするんです。これは実世界のみならず、ドッペルゲンガーや影という形で文学作品に多く見受けられます。

 河合隼雄によれば、影は自分と正反対の性格でありながらも、見たくない自分の側面です*4。例えば典型例なのがアンデルセンの『影法師』。学者が影にそそのかされて王女と結婚するのですが、影が本体の地位を乗っ取ってしまった、というあらすじらしいです。
 『影法師』に限らず影はいつの間にか本体を乗っ取る存在として描かれることが多いと河合隼雄は指摘しています。そして荒唐無稽な御伽噺の世界ではなく「実際、自分の無意識に動かされて行動し、後になってから後悔しても、自らの破滅を防ぎきれないようなことが起こり得る」*5と書いています。
 先の中年婦人がどこまで意識していたかは解りませんが、嫁は「影」だったのではないでしょうか。中年婦人にとっては居場所が回復できて幸せだったのかもしれませんが、家庭を破滅させています。そういった意味において「自らの破滅を防ぎきれない」という河合隼雄の記述とも合致しますし。

 さて島崎敏樹さんは旅についても居場所という観点で考察しています。「旅に出る朝の気の重さを経験しないひとはない」としています。僕はそう感じないんですが、森有正はパリ留学のときに気が重かったと述懐しています*6。
 しかし中には放浪の旅をしている人もいます。
全く別の特質をもった旅がひとつある。漂流、放浪、流浪がそれであって、果のないこの旅をかさねる人では生きる土台が露出してさらされ、安定性、不動性を失ってしまっているので、その正体をつきとめるために別扱いをする必要がある
 「男はつらいよ」の車寅次郎は放浪の旅に見えますが、家があります。本当の放浪の旅は、帰る家すらもありません。したがって彼らには居場所がないのです。もちろん、ジル・ドゥルーズのように新たな世界像として提示するか*7、それとも島崎敏樹さんのように否定的な意味としてとらえるかは別にしても。

死に場所

 さて、島崎敏樹さんは居場所の重要性を訴えてきたのですが、その姿勢は死の床でも変わりません。不思議なことに人間は年老いると、幼児に逆戻りしていきます。僕の祖母は認知症でしたが、本当に時間の感覚が麻痺していくようでした。
 確か西丸四方だったかと思いますが、「人は、死の恐怖から逃れるために認知症になるのである」ということを読んで、説得力を感じた覚えがあります。
 田舎の農夫が死期を悟ったときに、家族を呼び寄せ晩餐会を開いたというエピソードが示すように、最後の最後まで居場所を求めるのです。そしてそれは「人体」として扱われるよりも一人の「人間」として扱うという意味でもあるのです。

 
*1 wikipedia「島崎敏樹(精神科医)
*2 wikipedia「タブラ・ラーサ」より
*3 広辞苑「甲斐」の項目
*4 河合隼雄『影の現象学』(講談社)
*5 同上
*6 森有正『生きることと考えること』(講談社)
*7 ジル・ドゥルーズ『アンチ・オイディプス』(河出書房)。なおドゥルーズは既存の枠組みに囚われない新たな世界観として、肯定的な意味で使っているように思う。



ジャック・ラカン『二人であることの病い』(講談社)

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二人であることの病い パラノイアと言語 (講談社学術文庫)

比較的まともなラカン

 毀誉褒貶はありますが、ラカンは独特な語り口が特徴の一つ。例えば、『精神分析の倫理』では、倫理の話がいつまでも出てきません。むしろわざとそういう語り口をしているフシも見受けられます。
 さてもう一つ特徴的なのは、ラカンによって書かれたものだという点。ラカンはサンタンヌ病院での講演がメインで、書かれたものは『エクリ』がメインです。いや、僕は何回か挑戦してますけど、難しくて毎回挫折……。推理小説好きとしてはせめて『盗まれた手紙』の分析だけでも読みたいんですけどねぇ。
 さて、そのラカンによる、そしてラカンの文体になる前のラカンです。よく引用される「症例エメ」、そしてスキャンダラスな「パパン姉妹の犯罪」など犯罪者の精神分析や、患者の手記から精神分析をしています。それらを総括する形で「家族複合の病理」が収録されています。 また後のラカンで大切な概念となってくる「鏡像段階」が現れてきます。

書かれたものの精神分析

 フロイトはパラノイア患者、『シュレーバーの回想録』*1を分析しています。その論文『シュレーバー症例』*2の中で書かれたものの精神分析は、反応が返ってこないので難しいと言っています*3。「<吹きこまれた>手記」は患者の残した手記をラカンが精神分析をするという点で、『シュレーバー症例論』と似ています。
 エメも詩を「読む」ことで彼女の心を探るというアプローチです。実際、エメに話すことができたのかこの論文からは読み解けませんでした。少なくとも「その病院で彼女を約一年半観察した」と記されているだけで話したとは記されていません。

エメを読む

 犯行の経緯はおおまかにまとめると下記の通り:
 エメが女優のZに近づいて「あなたは確かにZ夫人ですか」と聞きます。ファンの一人だと思ったZは、返事をするだけに留めようとします。
 しかし、答えを聞いた途端、その女性はナイフを取り出して襲いかかろうとします。ナイフを掴んで、Z夫人はケガをしてしまいます。その女性はその場に居合わせた人に取り押さえられます。
 彼女は警官の取り調べに対してこう答えています。
・女優はエメを軽蔑したり、脅したりする。
・このような状況でアカデミー会員で有名な文学者P.B.と結びついて私生活を暴露している。
・エメが女優を襲ったのは釈明を求めたかったからである。

有沢の(特殊な)読み方

 さて僕は推理小説を趣味で書いています。読み方の一つとして、犯行の章だけを読んで僕なりの結末を思い浮かべるという方法を取っていました。
 例えばありきたりなのが、「実は本当にエメの言い分が正しかった」、フレンチミステリ風に仕上げたいなら「P.B.とエメは結託して女優を殺そうとしていた」などです。また悪霊の仕業などホラー仕立てにすることもできます。なので余り適切な読者ではないのかもしれません。
 ともあれ少し真面目に読んでみます。彼女はパラノイア性精神病と診断され、「殺人未遂」とされています。しかし、ここで「殺人未遂」と言っても、日本とフランスの法体系が一致するとは限りません。もしかしたら、日本だと傷害罪になる可能性もあります。そしてついでに言えば刑法三九条の「心神耗弱者について」の規定により罪が軽くなるかもしれません。ですがこれが一九三○年代のフランスにも当てはまるかと言ったら違うでしょう。
 加えて、この殺人未遂という言葉が果たして、罪状として使われているのか、単に「殺し損ねた」という意味程度なのかは原文を読まないことには多分、解りません。

いくつかのキーワードをもとに

 この本について、いつかのキーワードをもとにまとめてみたいと思います。

超自我と自我理想

 自罰パラノイアと自我理想は深く絡んでいるとラカンは指摘しています。
 われわれが自罰パラノイア(paranoia d’auto-punition)という名で取り出したある精神病は、たしかに、自我の初関係からだけではなく、超自我および自我理想の諸関係から構成されるそのような人格の存在を締め出すどころか、超自我はもっとも極端な処罰作用をそこへ及ぼし、また自我理想はそこでは反復される投射に好都合な、両義的客観化のなかで確認される。
 超自我とは自我の持つ道徳的な側面であり、欲望をコントロールしています。例えば、空腹時でも弁当を食べないのは超自我の働きによるものです。本能と理性と言ってもいいかもしれませんが、理性という言い方は「考える力」という意味でも使われるので、注意が必要。例えば、早弁したら変な時間に空腹になる、と考えての行動なら理性と考えられますが、無条件にルール違反だから、というのは理性の働きとは言いがたい気がします。精神分析では同じ超自我として扱われるのですが。
 自我理想と理想自我は違います。両方とも「こうありたい」という理想像には変わらないのですが、理想自我というのは同人のように同じ共同体で作られる、理想的な自我。つまり、文章が解りやすく構成も上手く、思想性に富み、というように皆さんそれに向かって進んでいくわけです。
 自我理想というのはそれに比べて具体的なイメージ。第二のドストエフスキーになってやるんだ、とか、ノーベル文学賞を取るんだというような。もちろんこの二つのイメージはどちらか一方に分かれるわけじゃなくて、曖昧に心の中で渦巻いているわけです。
 この二つの働きは「これで妥協しよう」と怠惰に流されそうになる自分をコントロールする、という意味で超自我に属します。
 エメの場合は自我理想を女優Zに投射していたとラカンは分析しています。

自罰パラノイア

 「女優Zのようになりたい」と考えていたエメはもちろん女優にはなれません。恋愛小説を書いていたようですが、それでも文学者にはなれませんでした。それでエメの心理としては「理想像そのもの」を破壊することで、自罰感情を満足させようとしたのです*4。ラカンは「アイドルに近づきたいというファンのあこがれには慣れている」と犯行の章でまとめているのですが、アイドルという言葉は実に示唆に富んでいます。というのもアイドルには、偶像視という意味があるのですから。
 もっとも、被害者としてはいい迷惑ですが。

二人妄想

 さて、重要な概念としてあげられるのが、二人妄想です。例えば、父親を殺したパパン姉妹の間には妄想が共有されていました。
 二人〔の人間が持つ類似した種類〕の妄想は身近な親族、つまり父親と息子、母親と娘、兄弟あるいは姉妹のあいだで選択的に生じる
 これは多分、感応精神病(フォリ・ア・ドゥ;二人狂い;:Folie a deux)という診断名に近いものだと思います。
 エメの場合だと二人妄想は母親と幼いエメ、そしてエメと息子に現れます。ラカンは家族を引き合いに出していますが、これは家族のみならず、親友や恋人同士でも起こりうることかと思います。

鏡像段階

 ラカンで重要となってくる鏡像段階ですが、この論文ですでに言葉が出てきます。ラカンによれば子供は、鏡を見るまで自分の身体を寸断された身体としてしか認識できないといいます。しかし鏡を見ることで自分の身体は統一的なまとまりを持って意識されるようになるのです。
 自我もそれと同じこと。個々の体験がバラバラに記憶されて、統一性にかけた状態ではうまく自分を認識できません。そこで、統一した自我を作るために「鏡」を見る……のですが、この鏡に当たるものは他者なのです。あなたはこういう子だよ、あなたはこういう人だよ、という他人からの評価で始めて自分を統一的な自我として意識できるのです、が、ここでアイデンティティをめぐる逆説が置きてしまうとラカンは指摘しています。つまり、他者に自分のアイデンティティを決めてもらうという逆説が。
 しかし、記憶、感覚などを統合する「悟性」*5が働いていて自我をつくり上げるのだと思います。……症例エメでスピノザから引用していましたが、あの引用はいらないだろう。

*1 ダニエル・シュレーバー『シュレーバー症例論』(中央公論社)
*3 でもその割にはゲーテの自伝を分析したり、ドストエフスキイの小説で父親殺しをどう描いているか、と言う観点でも書かれたものを分析している(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社)
*4 新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社)
*5 カント『純粋理性批判』参照。ちなみに僕は経験を統合する悟性までは納得できるが、それをもとに推論し、普遍的な理解にまで高める理性が人間に備わっているかというと首を傾げざるを得ない。ましてやそれが普遍的な道徳観と結びつくとは考えにくい。



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ミケル・ボルク=ヤコブセン『ラカンの思想』(法政大学出版局)

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ラカンの思想―現代フランス思想入門 (叢書・ウニベルシタス)

概要

 精神科医で自罰パラノイア、精神分裂病などの多くの講演(セミネール)を行なったジャック・ラカン。彼は聴講していた多くの哲学者に影響を与えた。ヘーゲル研究家、ジャン・イポリットなど。また現代思想の旗手、ジャック・デリダなども『エクリチュールと差異』という論文を書き、ラカンの「手紙」という概念について反論を試みている。
 本作では、コジェーヴの講義などがラカンの思想形成にどう影響していったのかを探る。

現代フランス思想入門

 現代フランス思想というサブタイトルですし、ミケル・ボルク=ヤコブセンも「専門知識も持たずフランス現代思想の論争を余り知らない一般人向けである」と書かれていて、図書館から借りてきたのですが、これは一般向けではないでしょう、と。

アレクサンドル・コジェーヴ

 さて、ジャック・ラカンはコジェーヴの講義を聴講しています*1。コジェーヴは寡作ながらも、ヘーゲル解釈に関してフランス現代思想に多大な影響を与えました。ジャック・ラカンのみならず、ジョルジュ・バタイユ、ロジェ・カイヨワ、メルロ=ポンティ、アンドレ・ブルトンなどがいました。

自罰パラノイアについて

 エメというパラノイア患者が女優Zに切りかかるという事件についての論考で、ラカンは精神科医としてのキャリアをスタートさせます。エメは文学者になろうと、原稿を出版者に持ち込みます。しかし次々と不採用。女優Zが出版社と結託して、出版を阻止しようと言う妄想を抱くようになります。
 このようにして女優Zに切りかかるのですが、この傷害事件の後、彼女の妄想は劇的に改善していきます*2。

ラカンの分析

 これは「エメ自ら自身がそうありたいと思っていた人物であ」り、ラカンは下記のように語っています。
その迫害者は有名で、(中略)贅沢な暮らしをしている女性の典型である。そうした生活や計略をまた彼女がそのせいにしている堕落を激しく非難しているとすれば、強調せねばならないのは、患者の態度のアンビヴァレンスである。なぜなら、後に見るように、小説家になって贅沢な生活をし世間に影響を及ぼしたいと、彼女もまた望んでいるからである
 一言でいえば嫉妬なのですが、エメの嫉妬を分析すると、「自分自身がそうありたいと思うもの」です。つまり、自分がそうありたいと思っている人物を傷つけているので、ある種の自罰感情ともいえるのです*2。これをラカンは自罰パラノイアと名づけました。
 ラカンはフロイトの精神分析を下敷きにしていますので、この分析もフロイトを引きついでいます。フロイトは『ナルシシズム入門』*3において、「自我理想」という概念を現していますが、ラカンはこれを社会的理想と解しているのです。

自我理想

 フロイトは『ナルシシズム入門』で自分がその「自我理想」と一緒になりたいという、「エロティック」な感情を見出しているのですが、ラカンは──より厳密に言えばミケル・ボルク=ヤコブソンのラカン解釈によれば──社会性をともなった気持ちです。

ヘーゲルの「フロイト的」解釈

 冒頭にも書きましたが、ラカンはコジェーヴの講義に参加していました。そこではヘーゲルの『精神現象学』について勉強していましたが、ラカンはそのことを精神分析の延長線として解釈したのです。

ヘーゲルの考える欲望

 ヘーゲルは欲望という概念を「精神現象学」*4において用いています。ヘーゲルは動物的欲望と、人間的欲望に分けて考えました。動物は物を食べたら、対象は消えてなくなり欲望は消滅します。これに対し人間的欲望は自己意識と言って自分に向かうものもあります。当然のことながら、愛されたいという欲望は「愛さている自分が欲しい」という欲望です。

対象a

 のちにラカンは対象aという概念を展開するのですが、これ「小文字の他者」とも呼ばれ、「失われた対象」です。例えば、ラカンが例示しているものの一つに、乳房が挙げられます。例えば母親は赤ん坊におっぱいを与えますが、いつも授乳しているわけにもいきませんし、いつかは乳離れしなくてはいけません。
 このように居心地がいい状態から、居心地の悪い状態に移行していくのですが、居心地がいい状態は当然、自分に全ての関心が向いている状態です。乳房だけじゃなく愛情という抽象的、象徴的なものも例外ではありません。

コジェーヴとの関係

 この対象aという考えは、幼児期の精神分析研究家、ドナルド・ウィニコットの考えを下敷きに作られています。しかし、コジェーヴの影響もあるのでは、と思いました。現に、ミケル・ボルク=ヤコブセンはこう指摘しています。
 欲望の対象は想像的なものではないのと同様に、現実的なもの(reel)でもない(中略)。それは決定的に失われたものとしでしかあり得ない。このことはラカンがコジェーヴを基盤にして捉え直す欲望のていぎそのものからも帰結することだ。
 もちろん「動物的欲望」で言えば赤ちゃんはおっぱいを吸えば満足するのですが、「人間的欲望」で言えば赤ちゃんは自分に乳房、つまり愛情を与えて欲しい、声を掛けて欲しい……。そういったものが対象aを形成していくのです。

自我について

 リビドーは性欲と混同されることが多いですが、名誉、お金などの女性を引きつけるもの全てを言います。より厳密に言えば、リビドーが変換されて名誉欲、金銭欲になってくるのです。このようにいうと様々な型がリビドーと関係づけられていると思われるかもしれません。
 しかしラカンは全て自己意識に向いているという立場で考えています。したがって弁証法的発展である、と述べています。ラカンには鏡像段階という概念もあります。「他人は自分の鏡」とはよく言ったもので、この概念は内面は自分から見られるものではなく、他人を通じてのみ自分を見ることができるのです。
 一方、ヘーゲルは反省という概念を通して、体と心の関係について考えようとしました。経験を反省することは誰でもあるのですが、「自分でもよく解らない」ことをしてしまったということがあると思います。この感覚は反省によって生み出されている、とヘーゲルは考えているのです。
 「反省」という言葉自体、まずもって、鏡、つまりそ、その出発点に光を差し戻しあるいは向きを返る(re-frecture)この魅惑的な表面について言われるべきではないのか。
 ラカンは下敷きとしてヘーゲルの「反省」という概念を使っているのではないかと、ミケル・ボルク=ヤコブセンは指摘しています。

ハイデガーの現存在

 しかしコジェーヴの考えている自己意識とは自己に関する意識ではなくハイデガーの現存在ではないかと指摘しています。ヘーゲルは自己意識を「自己に関する意識」という意味で用いているのですが、「コジェーヴがここで「自己意識」と読んでいるもの(中略)とは実際には、自己(un soi)に関する意識とは別のものであ」り、「ハイデガーの現存在の「自己性」に遠くない脱立」だと述べています
 現存在というとこ難しくなりますが、要するに<今、ある>ということです。そもそも現存在のもとのda-sein自体、ドイツ語では日常会話で使われている言葉です。現存在を考えようと思った動機として、序文に普段、何気なく使っているが、どういう意味なのか改めて検討することにしたと書いてあります*5。
 ハイデガーに共感を示すかのように、後のラカンはハイデガーに言及するようになるのです。



*1 なお、この講演に使われた教科書は翻訳されている(アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル「精神現象学」読解入門』(国文社)
*2 ジャック・ラカン『二人であることの病い』(講談社)、新宮一成『ラカンの精神分析』。
*3 ジグムント・フロイト『エロス論集』(ちくま書房)
*4 ヘーゲル『世界の大思想12 精神現象学』(河出書房)
*5 ハイデガー『存在と時間(一)』(岩波書店)




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小此木啓吾『日本人の阿闍世コンプレックス』(中央公論)

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日本人の阿闍世コンプレックス (中公文庫 M 167-2)

小此木啓吾

 まずは全体の話から。小此木啓吾は日本人の精神分析家です。河合隼雄がユングを日本に広めたのなら、小此木啓吾はフロイトを日本に広めました。実際、彼の師匠である小沢平作は実際にフロイトへ「罪悪感の二種」という論文を提出していますので、フロイトの孫弟子に当たります。
 さて、古沢は「罪悪感の二種」で日本人のアイデンティティ、すなわち初めは父から処罰を受ける<から>悪いことはしてはいけない──これはフロイトにも見られることなのですが──から本当に悪いことをしてしまったという罪悪感に変わると指摘しています。なお、これはカントの仮言命法、定言命法などとつながってくるのですが、フロイトはこの論文に対してあまり好評価は下していません。
 日本人の小沢と欧米人のフロイトでは基本的なところで考えが食い違っていたんでしょうね。

母への恨み

 仏教では古くから生老病死というように、この世は苦難に満ち溢れていて、生きることそのものが苦しみであるという世界観です*1。例えば愛する人と別れたり(愛別離苦)、嫌いな人と話さなきゃいけなくなったり(怨憎会苦)、感情に振り回されたり(五蘊盛苦)、欲しがっているものが手に入らなかったり(求不得苦)といった苦しみです*2。
 つまり、「どうして生まれてきたんだろう」は問いは好奇心というよりむしろ、肉迫した生そのものへの悩みなのです。そしてこの悩みは「どうして産んだんだろう?」という母への恨みになると古澤−小此木は指摘しています。幼児期は母と子は一体であるため、母親を独占しています。土居健郎は一体感を母へ求めることを甘え、と言っています*3。

成長するに連れ……

 ところが成長するに連れ、あるいは乳房から離れたその瞬間から*3、それが幻想であると解るのです。
 母への一体感が幻想であったという幻滅とともに、はげしい怨みがわく。自分が生きるため、夫への愛のためには子どもさえも棄てたり殺しかねない母。それが母の正体だったのか。
 これはインド神話*5に出てくる阿闍世王(あじゃせ)を下敷きにしているのですが、阿闍世王は仙人の生まれ変わりです。しかしそれは母親、韋提希(いだいけ)が子供欲しさの余り、殺した仙人でした。
 仙人は生前、韋提希にこう告げていました。「私が死んだら、お主の身体に入って生まれ変わろうぞ」。しかし、夫との愛が薄れていくことに不安を感じ、韋提希は仙人を殺します。その呪いで阿闍世は重い病気になってしまうのです。
 つまり、阿闍世は母親の身勝手な行動で自分に呪いを受けることとなる。しかし漢訳*6では
爾時王舍大城有一太子。名阿闍世。隨順調達惡友之教。收執父王頻婆娑羅。幽閉置於七重室内。制諸群臣一不得
 拙訳:そのとき、王舎大城〔というところ〕に一人の王子がいた。名を阿闍世といった。悪友にそそのかされ、父親である頻婆娑羅〔王〕を幽閉し、七つの鍵を掛け、家臣たちの誰も近づけなかった。
 となっており、父親にも攻撃性が向いています。なお漢文はあまり得意ではないので、誤訳などがあるかもしれません。

母系社会

 ともあれ、このようなことをしているにもかかわらず、阿闍世の母親、韋提希は献身に阿闍世を看病しています。そして阿闍世は心から悔い、母親と和解するのです。
 「わが国社会のこの種の心的な社会構造は、実はその合理主義的意識の深層において(中略)阿闍世コンプレックスのゆるし合いを基本的な規則原理としている」とあるように、このような母子の許し合いこそ日本文化の根本にあると小此木は古澤の文献を援用して、指摘しています。
 例えば中年婦人がハイジャック犯のその後の人生を心配しています。小此木はこの心理と韋提希を重ねているのです。母親の役割は「許す」ことにあると小此木含め多くの心理学者は考えています*7。母系社会の日本で母親の存在は大きいです。
 それは近代においても同じこと。例えば、母親の口から語られる父親像は、相当に日本では強い影響を持っています。
 「パパにきいてみて、もしいいとおっしゃったら……」「パパに言いつけて叱ってもらいます」「さあ、パパはなんとおっしゃるかしら……」。そして、母親は、夫の帰宅後、二人きりで、ある時は子どもたちの代弁者として(中略)またある時は、懸命に子どもたちの悪行を説明する。
 これは父親そのものよりもむしろ母親から語られる父親のイメージ(あくまでもイメージ)で全く違ってくるのです。
 「父親欠損の母子家庭を〔小此木啓吾が〕研究してみて印象的だったのは、父親がないという現実は同じでも、(中略)決定的なのは母親が父親のことをどう伝えているかである」とあるように場合によっては父親が不在でもこのような父親のイメージを作ることが、重要だと言います。この辺は凡庸な育児論に陥ってしまって、どうも好きになれなかった箇所ではあるのですが。
 でも僕の経験から見てもなんだかんだで父親像の影響は大きいです。ちなみにこれって肉親じゃなくても、父親としての役割、たとえば兄とか特定の先輩、会社の社長、上司などでも代用が聞くと思います。根拠は日本的マゾヒズムにあります。

日本的マゾヒズム

 社畜という言葉がありますが、これは日本的マゾヒズムと強く結びついてるといえるでしょう。阿闍世コンプレックスに代表されるような母親との一体感など、日本人は一体感を重視しています。
 そしてこの一体感には負の側面があります。それが日本的マゾヒズムです。冒頭で古沢の論文を引いて、二種類の罪悪感──処罰の恐怖心/本当の懺悔する気持ち──があると言いました。そして日本人は懺悔する気持ちを感じやすく、あらゆる局面でそれを背負い込むのです。
 自分はこれだけ親に迷惑を掛けてきたんだ、孝行しなくちゃという発想ならまだ健全なのですが、これを学校、会社に持ち込むと、自分は新人のときに迷惑をかけてきたのだ、恩返しをしなきゃいけない、という心の働きがあるといいます。
 どうして日本人はこのような心理になるのでしょう? 二つ原因があると僕は思っています。

1)儒教の影響:

 儒教は親子間の倫理を国家の倫理まで拡張して説いています。その根底にあるのは忠と孝にです。主君に対して忠誠を尽くし、いたわらなければいけない。そのかわりに領地を法的根拠で守る。これは鎌倉から叫ばれてきたことなのですが「私」という概念が入り込む余地はありません。
 私を主張しようものならKYとして白い目で見られます。これが鎌倉から、現代へと続く流れです。鎌倉時代以降、武士は何かあったら鎌倉に駆けつけ、その代わり所領地を保証する……。この構図は鎌倉が会社に、所領地が給料に変わっただけなのです。

2)昔話の影響:

歴史的背景で少しは納得して頂いたかもしれません。しかし学校で儒教のことを教えてもらわなかったという反論もあるでしょう。つまり歴史とわたしは完全に分断されて、何の関係もない、と。
 しかし昔話を見てみると儒教的な作品が見てとれるのです。典型的なのは桃太郎。桃太郎は父と母の恩返しのために鬼退治に行くのですが、桃太郎の父母は村落共同体のために彼を鬼退治に行かせます。
 また出会った動物たちはきび団子を与えられ、桃太郎の鬼征伐隊へ帰属していきます。つまり桃太郎というテクストは本人の意志たちの意志とは関係なく負い目、つまり自発的罪悪感を感じさせられ、最終的に村落共同体に帰属することとなるのです。
 日本におけるもっともすぐれた指導者、管理者、教師はこの種の自発的罪悪感を部下や学生に起こさせ、彼らが自分から上司や先生の思惑通りに動き、気がねから逸脱行動ができなくなってしまうような無言の支配力を獲得した人物のことである。
 その上、自分のこうむった被害については愚痴も不平も言わず、周りは自然と罪悪感を抱くのです。
 これはちょうど社畜を作り出す土壌と似てると思うんですけどね……。日本人は団結力が強く、それで高度経済成長を成し遂げたことも事実です。しかしその反面、「公私混同」どころか公私一体となってしまうのです。

*1 西洋の「不条理」についての共通点も見られる。例えばカフカの『変身』では突然、毒虫になったザムザを家族総出で追い出そうとする。しかし西洋の不条理はあくまでも理屈に合わないことであり、一貫した論理整合性をもたないことである。
*2 仏教哲学の問題意識はこれら四苦八苦をいかに受け入れるかである。
*3 土居健郎『甘えの構造』(弘文堂)。なお、甘えというとネガティブな文脈で捉えがちだが、『甘えの構造』は決して日本文化の特徴として「甘え」を分析している
*4 ジャック・ラカンによると、乳児が乳房から離れたその瞬間から万能感が消え、言葉の世界(泣き声、笑い声など)へと放り込まれるのである(斎藤環『生き延びるためのラカン』およびWikipedia「現実界・象徴界・想像界」)。
*5 仏教はインド神話を母胎としていて、後に数々の仏典に引用されることとなる。例えば親鸞の『教行信証』など。
*6 中村元、紀野一義、早島鏡正[訳]「観無量寿経」(中村元、紀野一義、早島鏡正[訳]『浄土三部経』岩波書店)。なお、漢文読解の練習のため、訳文を見ずに独自で翻訳を試みた。
*7 ユング『元型論』(紀伊國屋書店)など。



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