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有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

コンピューター

森谷正規『IT社会の虚妄』(文藝春秋)3

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IT革命の虚妄 (文春新書)

要約

 IT革命と呼ばれてかなり経ちます。IT革命は果たしてばら色の未来をもたらしてくれるというけど、本当にそうなのか? 結論はタイトルで示されているように懐疑的。
 論証は全体的にしっかりしてて、説得力のある文章でした。でも細部を見るとうーん、ちょっと説得力がないなぁと思うところもありました。
 世間に疎い僕はこういう類いの新書を読むことで、もっと世の中を知れたらなぁ、と思って読んでいます。こういった解説書に求めるものは広がり、つまり別の本だったり新聞記事、雑誌……、などへの言及です。そうすることで別の文献にも目が言って、より広く知ることができると思いますし。

 新書(こういったビジネス系の本に限らず)に関して思っているのが、十数冊読んで解った気になる人がいるんじゃないかっていうことです。僕はこの他にも哲学、数学の解説書(新書)も読んでいるのですが解った気にさせられてしまう。これが本当に恐いと思います。現に数学は自分で実際に証明してみると、そう簡単にはいかないことも。今日だって簡単な計算間違いで証明されるはずのことが証明できてませんでしたしw
 でも解答の式を見ていると何となく解ったような気になる。これが一番恐いですねー。

ニューエコノミーは18世紀にも!

 IT社会の特徴としてあげられていたのがニューエコノミーです。これはITでどんどん経済が成長していって、際限なく成長が続いてウハウハな状態を指します。もちろんこの森谷さんはそんなものは信じていません。信じていないのですが……、言わせてください。
 またやっちゃったよ、やっちまったよ、アメリカ人OTL(だけじゃないけど)。
 バブル経済の古くは1720年の「南海泡沫事件」*1に代表させられます。ちなみにバブルの語源はここからきているらしい。当時、あった言説の一つに「誰もそれが何であるかわからないが、とにかく莫大な富を生み出す企業を運営する会社」*2というものがあったらしいです。
 あるぇ? デジャビュかなー? ちなみにかのニュートンも被害者の一人で、最初の投機で7000ポンド儲けていますが、暴落して2万ポンドもの損失をこうむってます。
 この際に、「天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった」*3と言ったらしいですが、天体の動きも人々の狂いっぷりも昔も今も変わらないようだね、うん。イエイ☆ ちなみに日本では江戸時代です。
 というわけで株価が無限に増え続けるなんて経済学上ありえないのです。サブプライムローンの住宅バブルも、調べてみると何だかんだで株価が無限に増え続けると信じてたことが背景にあるようです。
 僕が興味あるのは歴史を紐解けば類似の事例はいくらでもみつかるのに、なぜまた同じ間違いをやらかすのかということです。ADHDとか高次脳機能障害を笑っちゃいられません。むしろ人類全体が注意欠陥障害なのです。
 僕が許せないのは古くからの概念をさも新しいできごとであるかのよに語ることです。
 皮肉はともかく、なぜこういうことが起こるかを考えてみます。その起源は恐らく旧約聖書の『ヨブ記』に見ることができます。あの話は辛いことを乗り越えれば誰かが救ってくれる、というもののように感じます。
 IT革命しかりバブルしかりメシア的なもの*4、つまり今とは違う自分になりたい、という欲求に感じます。

BtoBは十分の一というけれど

 まず企業間取り引きとよばれるBtoBは会社と会社の取り引きです。例えば車の部品工場なんてその典型でしょう。このブログの読者さんで個人的に車のネジとか注文したら、先方はきっと頭のネジを送ってよこすでしょう。
 これは前いた職場や今の職場がそれに当たります。前の職場は出版者でしたが、大学の出版物を主に扱っていました。なので、法人と法人の取り引きなのでBtoBです。
 一方、BtoCというのは例えばスーパーマーケットのように企業から個人に物−金が流れていく形態。
 聖書を印刷して本屋で販売して個人に流れる*5という例は聖書−本屋はBtoBですが、本屋−個人はBtoCです。
 ちなみに本書に述べられてはいませんが、CtoCというのは個人の間の取り引き。素朴な物々交換とかオークションをイメージしてもらえるとありがたいです。
 BtoCなんてのもありますが、BookOffや質屋みたいなもの。これは最終的にはCtoBになります。
 eコマースで話題になるのは、CtoC、BtoCなんです。例えばヤフオクなんかは仮想空間の提供料で儲けています。イメージはYAHOOという広場を提供してそのみかじめ料、じゃなかったショバ代を払うやり方だと思ってます。インターネットは広大な土地です。厳密に言えば有限なのですが、無限と考えていい。
 インターネットのBtoCはamazonが代表。始めは本屋さんからスタートしましたが今では、パソコンの器機、玩具などなどがあります。ついにはパソコンの器機がamazon.comの独自ブランドで売り出され、家電量販店の危機となっているとききました。
 それで、よく指摘されることなんですが、amazonで大きく変わったことはロングテールが注目されるようになった、ということです。例えば僕はご存じのように(?)フロイトが恋人、ラカンが愛人のような人間ですが、その辺の人にフロイトやラカンを知っているかどうか聞いて見たらいいでしょう。「フロイト……。ホテルの受付だっけ」という回答や「ラカン……ああ、コマーシャルでやってる? スズキの車ね」と言われること受け合いです。きっと、デリダは三菱の車と間違えられること請け合いです。
 フロントをフロイト、ラパンをラカンと見間違えあまつさえ、「精神分析ラカンちゃん〜、フロイトに還れとー」なんて替え歌を作ってしまうような危篤、じゃなかった奇特な人が買うような本は今まで店頭取り寄せだったのです。もしくは版元に電話して、とかね。
 でもそれがamazonのおかげでダイレクトに手に入るようになりました。これはすごいことだと思います。
 ただIT革命を論ずる上で実は十分の一しかない、というのは無意味なことだと思います。確かに経済全体の十分の一かもしれませんが、amazonや日本の古本屋なんかだとeコマースが十割ですし、逆に電力・ガス・水道はeコマースがなくても徴収できますので、これらを十把一絡げに経済全体の十分の一しかない! と言われても、ふーん、としか反応しようがないんですよねー。実際。
 ただこの本にも述べられているように新しいビジネスモデルが誕生したのも事実なんですよね。例えばSOHOだとか。

ITで教育は進むか

 これに関してデジタルアーカイブなどの例を持ち出し、教育が進むと述べています。また医療の面では遠隔医療を持ちだしています。
 しかしこれに関して言えば森谷さんみたいに楽観視はしていません。デジタルで伝わるものは今のところ音と画像だけです。心臓の鼓動や汗の臭い、手で触った感覚は伝わりません。
 実は触診でしか発見できない重大な病気もあります。また汗の臭いなどがヒントとなって発見される内分泌系の病気もあるかもしれません。不整脈なんかは心臓に手をあてて音を探るとともに、触覚も作用しています。
 僕もキモに銘じておく必要がありますが、知るというのは五感を総動員する作業なんです。ですが、デジタルは5分の2、半分以下にまで情報が損なわれてしまいます。
 リンゴの写真を見せて、これがリンゴだよ、と教えるより、「きて見て触って〜」が大原則です。僕の友達の中にはキーボードを実際に叩いてみて買う人がいますし、イラストレーターさんは実際に試し書きをしてみてから買うようです。
 僕はそういうこだわりはないのですが、五感を総動員する「知る」作業は完全にデジタル化はできません。完全にデジタル化するから、時速40キロで歩くという解答を出しても後輩は平気な顔をしていたのです*6。
 ちなみに「ターボ婆ちゃんかよ!」と突っ込んだら「ターボ婆ちゃんって何ですか」って聞き返されたときは情報格差だけじゃなく世代格差も感じました。

*1 wikipedia「バブル経済」参照
*2 wikipedia「南海泡沫事件」参照
*3 同文献参照
*4 ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』では新しい「亡霊」としてサイバースペースがあげられている。
*5 カール・マルクス『世界の大思想〈18〉資本論』(河出書房)の例による。
*6 ちなみに0のつけ間違いというケアレスミスなんかじゃなく、その後輩の頭は時速40kmのイメージが湧いていないことに問題がある。
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西垣通『ネットとリアルのあいだ』(筑摩書房)5

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ネットとリアルのあいだ―生きるための情報学 (ちくまプリマー新書)

要約

 ネトゲ廃人、秋葉原事件……。ネットとリアルの二元論は本当に九〇年代〜〇〇年代にかけてのみのテーマだろうか。一見するとインターネットが普及し初めた九〇年代以降における特有の問題のようにも見ます。
 しかし、著者の西垣氏は西洋哲学・思想の流れから考えると当然の結果である、と断定しています。その理由は近代文明が余りにも言葉に、文字に頼りすぎてるからだ、と指摘。そしてその上で、二十一世紀の新たなアイデンティティを模索していきます。
 この本の特徴は安っぽいネットゲーム批判ではなく、そもそも〈リアル〉とは何であるかを徹底的に考えたことが特徴的だといえましょう。

身体とことばのあいだ

 西垣氏は「身体的自己」と「言語的自己」という自分に分けています。身体的自己とは例えば恐怖を感じたから心臓がバクバクする、とか気持ちに結び付いたものです。自転車が載れたり箸を使えたりするのもこの「身体的自己」です。いわゆる身体で覚える、というものです。
 一方、「言語的自己」とは判断・推論を下したりする理性的なものです。このように書くといかにも数式とかプログラムを組んだり、あるいは本を読んだり、人の行動を解釈したりする知的な部分のように思えるかもしれません。しかし「ことば」で記述できるもの、すべてが言語的自己によるものなのです。例えば「雨が降ってるから傘を持っていく」という日常の判断も「ことば」で記述できるから「言語的自己」、ということになります。
 そして、〈リアルさ〉を感じないのはこの言語的自己が一人歩きしてるからです。
 西垣氏は面白いこれに関して仮説を引いています。ギリシャ神話は社会的秩序の混乱を神々のお告げで解決していたのに対し、メソポタミアでは法令や文書で解決していた。「〔自我〕意識はおよそ三千年前、つまり紀元前一〇〇〇年頃に、中東地域を中心に発生した。それは人間だけがもつものだ」という仮説をジュリアン・シモンズという人類学者は立てたのです。僕はそこまで大胆に言い切れないのですが、少なくとも、神々の「お告げ」という声が効力を失い、代わりに文字がその効力を現わした、ということはいえると思います*1。
 少なくとも文学史であえば、自分がテーマになってきたのはルネサンス以降のことです*2。
 瑣末な点はさておいて、ジュリアン・ジェインズの人間観は
 人間とは意識をもち、みずから合理時に意思決定をおこなって行動する存在だ、というのが近代の基本的な人間観である。だが、〔ジェインズの〕二分心仮説はこれを粉砕してしまう。新たに出現するのは、意思決定のストレスに耐え切れず、神々の声に自動人形のようにしたがおうとする「人間のありのままの姿」である。
 というものです。確かにサルトルやボーヴォワールなどの「行動する哲学者」たちは「自分たちが動かなきゃ社会はよくならない」という信念のもとに行動しました。
 しかしその一方でヒトラーやスターリン、そして占いや擬似科学*3などにはまる人は自分で考えることを放棄しているように思います。それは神々の声とは別に「考えない」=「他人に責任を転嫁できる」という理由が挙げられるかと思います。
 そしてIT社会は人々が性急に、神々の姿(つまり何々さえやっておけば安心)を見出した結果だと言うのです。昨今の恋愛マニュアル、仕事のマニュアル化などもマニュアルに従ってさえいれば安心だという神々の声を聞いた結果なのでしょう。
 近代人はこの「言語的自己」が肥大化して、それにより「身体的自己」の喪失が加速しているというのです。西垣氏によれば、この「ことば」重視の動きは十九世紀から二〇世紀にかけて加速していったといいます。その代表的なものが、論理主義です。
 言葉の意味はゆらぐので、誤りやすい。ものごとを純粋な記号であらわし、推論ルールを形式的・機械的に適用していけば思考の厳密性はたかまるはずだ──こういう論理主義の発想はなかなか説得力がある。初めはおもに数学基礎論の分野が対象となり、ついで哲学の分野にも論理主義をひろめる努力がなされた。
 この流れは分析哲学といい、「言語分析を特徴とする」*4哲学の一派です*5。彼らの中には集合論のラッセルや『算術の基本法則』の著者、フレーゲといった数学と哲学のあいだを行き来する哲学者たちでした。
 この概念を数式で現わしたらいいんじゃね? という発想はノイマンやチューリングといったコンピューター科学者の手により受けつがれていくのです。つまり彼らの目的は思考する機械を作ることだったのです。なぜなら前述したように西洋思想において人間の条件は、「感情がある」ことより「考えること」だったのですから。

ヒトと機械のあいだ

 考えることが人間の条件で、考えることで「人間らしい」つまり自由な生活を得られるのでしょうか。西垣氏はそんなことをしてもますます、社会のメガマシン化に拍車がかかるだけだ、といいます。よくあるたとえ話に、作業ラインの全工程を機械化すればよくない? というものがありますが、それをメンテナンスする人がいります。しかも彼らは精密機械を扱うので少しのミスでも作業ラインが止まったりするかもしれません。つまり整備士たちも社会という機械の一員として動かざるを得ないのです。
 そもそも機械とヒトとの明確な違いは、臨機応変に対応できるということにあります。例えば体調とか気分に応じて食べ物を変える、とか。交通渋滞があったら迂回するだとか、考える幅(フレーム)を臨機応変に変えることができるのです。また逆のことも言えます。つまり、一時間後に地震が起こる可能性は全くのゼロではありませんが、我々は知らず知らずにそれを除外して生きているのです。
 ところが機械でこれをプログラミングしようとすると、めちゃめちゃ難しくなってしまう。機械は必要な情報を選び取ることができないからです。
 また文脈に応じて意味を理解できることも人間の条件の一つです。ロボットは単に論理法則にしたがって返事を返してるに過ぎません。

ポストモダンと未来のあいだ

 そもそも(コンピューター)科学者が信仰している客観的で論理的な世界などあるんでしょうか。人によって情報の価値の価値が違うのは当たり前です。例えば、沖縄の天気。名古屋在住の僕にとってみればなんの情報も持ちませんが、沖縄でスキューバダイビングをしている人にとっては価値のある情報でしょう。
 またこれは生物の間でも言えます。たとえば、ダニにとって価値のある情報は酪酸の匂いですが、人間にとっては何の価値も持ちません。つまり情報の価値なんて、人によって様々なんです。
 実は図らずもポストモダンへの一つの回答になっているのです。それは「間」や「違い」の重要性を説いたドゥルーズが好みそうなタイトルだからでも、認識はそれぞれ違うんだ、と説いた現象学でもありません。
 本書にも述べられているように、ポストモダンの大きな課題の一つに、理性中心からいかに抜け出すかどいう問題があります。しかし、この問題はまさに自己言及のパラドクスに陥っています。理性中心主義への批判を理性で説いてるのですから。
 実はこの問題を最初に持ちだしたのはニーチェです。ニーチェは『悲劇の誕生』で、秩序を重んじるアポロ的な芸術よりも情動を重んじるディオニソス的なものを重視しています。そして「ディオニソス(中略)は、人間はそのもっている一切の象徴的能力を最高度に発揮するようにかきたてられる」とディオニソス的な芸術を讃美しています。
 ここで最初の問いに戻ってみましょう。何が「私のリアル」を崩す原因か? それは行きすぎた客観的な数値です。
教育の場に、数値的な成果主義を導入するのは危険すぎる。生徒や学生たちのまだ柔らかい「私のリアル」をつきくずす恐れがあるからだ。順位付けし、選別するのでなく、ひとりひとりの数値比較できない「私(自己)」をのばしていくのが本来の教育ではないのか。
 一つ補足しとくと加藤容疑者の母親は常軌を逸した、教育ママだったそうです*6。
 つまり、零点しか取れない子は他にあやとりや射撃の才能があるにもかかわらず自分はダメ人間だと思い込み、逆にお金のあるやつはコネとかを自慢してもいい、と思ってるわけですね! 
 もしくは自分の足をひたしたワインを部下に飲ませたり、血を抜く麻雀をやらせたり……。販売部数を稼げれば質の悪い本を売っても構わない、と思ってる出版社とかね!
 だからこのブログは、PVを気にしないでやってます!(別タブでアクセス統計を出しながら)


*1 この当たり、デリダが好きそうなテーマだけど。
*2 山内志朗『ライプニッツ』(日本放送出版協会) ではデューラー、ペトラルカなどの例を引いて、近代的自我が問題となったのはルネサンス以降だと指摘している。なお前掲書には挙げていないが、内面の葛藤を扱った小説の嚆矢であるセルバンテスもルネサンスである(Wikipedia「ドン・キホーテ」)。それ以前はもっぱら神をテーマに扱ってきた。
*3 例えばゲーム脳など。
*4 wikipedia「分析哲学
*5 なお、推論についての研究はそれこそアリストテレスに起源を持つ。言語哲学の流れとして忘れがちなのがロックやライプニッツである。
*6 秋葉原事件加藤智大被告の母親の養育

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有沢翔治について

同人で文章を書いています。リンクにポインタを当てると、あらすじが表示されます。

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・ある家族の肖像(有償依頼)2017年コミティア

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