バフチンの問題意識
何を思ったか急にバリバリの文芸評論に手を出した件。おかしいな、バフチンなんて縁がないと思ってたのに。雨で調子が狂ってたんだよね、きっと!文学部卒業なのにバフチン読んでない、というか縁がないとのたまう辺りどうかしてるけど。というか文学部卒業なのに「村上」という姓で春樹でも龍じゃなくて「村上陽一郎」を思い浮かべる辺り色んな意味で狂ってる。
さて、そのミハイル・バフチンですが、ロシア・フォルマリズムを確立した人なんです。要するに内容なんてどうでもいいから、文体(フォルム*1)に注目するというもの。
ドストエフスキーの創作は、これまでは狭いイデオロギー的なアプローチと解明の対象であるドストエフスキー(より正確にはドストエフスキーの主人公たち)の宣言の中に直接表現されているイデオロギーのほうに関心が向けられてきた。(中略)とてつもなく複雑で新しい小説構成を規定しているイデオロギーのほうはいまだに解明されないままにある。「とてつもなく複雑で新しい小説構成」こそ『ドストエフスキーの創作の問題』で論じられてるポリフォニーです。
文芸評論の行き詰まり
つまり、思想の分析は行き詰まりを見せていたのです。そこでバフチンたちは文体に注目したのです。「現代人の科学的意識は《蓋然性の世界》の複雑な諸条件のなかで自分を位置づけることを習い覚え、《不確定性》にもいささかも動ずることなく、それを算定する力を持っている。(中略)その計算体系の複雑さもとっくに慣れっこになっているはずなのに芸術的認識の領域にあっては依然として、あえて真実ではありえない粗雑素朴きわまりない確実さが要求されている」。この一文がバフチンの問題意識をさらに明確にしているかと思います。弾圧
ロシア・フォルマリズムはスターリン政権下で弾圧を受けるのですが*3、これは当然って言っちゃ当然なんですよね。だって、演説の内容よりも演説の語られ方が大事だって言ってるんですから! うがった見方をすればスターリン批判としても受け取れます。いや、不確定性云々言っている時点ですでにソビエト批判につながってくるのですから。というのも共産主義は必ず、共産主義社会が訪れるという思想で動いています。それを「蓋然性」、つまり起こる可能性が高いというふうにずらしてしまったのですから!
スターリンを始め多くの共産主義の指導者は、自分が共産主義を導くんだという唯物史観で威厳を保っていました。しかし可能性で論じられては権威が失墜します。
ポリフォニー
バフチンはドストエフスキーの文章をポリフォニーという角度から切り込んでいます。それではポリフォニーとは何でしょうか? バフチンはオットー・カウスを参照しながら、多次元的な対話と語っています。同等な権威をもったイデオロギー的立場が複数存在することや、素材が極度に非均質的であることが、ドストエフスキーの基本的特徴であることは、オットー・カウスもその著『ドストエフスキーとその運命』のなかで指摘している例えば『カラマーゾフの兄弟』では、無神論者のイワン・カラマーゾフ、敬虔なアレクセイ・カラマーゾフなど、大局的な思想をもった登場人物が登場します。しかも作中ではどちらか一方に肩入れすることなく同等に扱っている作品構成がドストエフスキー作品に特徴的だとバフチンやカウスは指摘しています。
プロレタリアートと資本家
カウスは資本主義でのみポリフォニー小説は成立しうると考えているようです。「資本主義は、プロレタリアートと資本家への区分け以外にいかなる他の区分けも残さず、(中略)矛盾をはらんで生成していく統一体のなかで衝突させ、絡ませた」とあるように、ポリフォニーを資本家とプロレタリアートから生まれた、と解釈しているようです。この辺り、いかにもソ連もいうべきなのか、時代柄ともいうべきなのか、共産主義っぽさがカウスの説には漂ってくるのですが、バフチンは「もっとも説明すべき事実を明らかにしていない」と批判しています。「なじみのモノローグ的統一性を欠いた、こうした多次元的小説の構築上の特性」こそ明らかにするべきだとバフチンは語っているのです。
トルストイ、ゲーテとの比較
バフチンはトルストイやゲーテとの比較を行なっています。バフチンによればゲーテは「なんらかの単一の発展をさまざまな段階ととらえ、現代の発展を過去の痕跡、現代の頂点あるいは未来の傾向を見てとろうとしている」とあります。これは例えば、『若きウェルテルの悩み』*4でウェルテルが最後、自殺してしまう現象を人妻との恋愛という過去の痕跡に見て取っています。一方、ドストエフスキーは物事を同時的にとらえ、相互関係を重要視しているといいます。
一つ気になったのがバフチンはトルストイも同時性の中で捉えているわけではないと述べています。しかし『光あるうち光の中を歩め』*5を読むと、冒頭、「閑人たちの会話」は同じ権威を持ってる(つまり作者はどの登場人物にも肩入れしていない)点でポリフォニーとよく似てると思うんですけど。
他者の思考
『カラマーゾフの兄弟』はイワン、アレクセイ、アリョーシャ、ドミトリーの四人が織りなす「多元的」で、「同時的」な四人の対話を浮き彫りにしていますが、登場人物が一人の場合、ポリフォニーはできないのでしょうか?地下室の手記
バフチンは『地下室の手記』*6を例示もポリフォニーになっていると語ります。「そうとも、八十まで、だって生き抜いてやる。いや、ちょっと待ってくれ。ひと息つかせてくれたまえ……(強調は有沢による)」とありますが、この最後の行は誰に向かって話しかけているんでしょうか? 『地下室の手記』では語り手が延々と地下室に閉じこもった理由を書き連ねています。なら誰も読者を想定していないはずですよね。なのに、「第三パラグラフの終わりには、もはや他者の反応のきわめて特徴的な先取りが存在している」とあるように、過剰にまで読者を気にしている文章だとバフチンは指摘しています。
こんなことを言うと、諸君、何かこうぼくが諸君に向って悔悟している、いや、許しでも乞うているようにとられるかもしれない……、いや、きっとそう取られているだろう。もっともはっきり断言しておくが、たとえそうとられたとしてもぼくにはどうでもいいことなのだが……この『地下室の手記』のくだりをフロイトの意識の流れでも、読者を意識したメタフィクションとしてでもなく、バフチンはポリフォニーとして読んでいるのです。
<自意識>
言い換えれば、『カラマーゾフの兄弟』でのイワンたちの対話と、『地下室の手記』の分裂し、他人を気にしている<ぼく>の自意識は似ているとバフチンは指摘しているのです。『地下室の手記』は<ぼく>の肥大化した自意識を扱う物語はいうまでもありません。<ぼく>の意識は一つだと思われがちです。しかし、ポリフォニーをバフチンの定義する通り、同等の権威やイデオロギーの対話とすれば、<ぼく>の自意識そのものがたえざる対話を繰り返している、といえるのではないかと僕は思います。
*1 フォルム(form)はフォームのフランス語読みで「形式」を意味する。
*2 ジグムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」(ジグムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』光文社)
*3 Wikipedia「ロシア・フォルマリズム」
*4 ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(新潮社)
*5 トルストイ『光あるうち光の中を歩め』(新潮社)
*5 ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮社)
- ジグムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社)
- フョードル・ドストエフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(岩波書店)
- レフ・トルストイ『光あるうち光の中を歩め』(新潮社)