有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

ドストエフスキー

ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの創作の問題』(平凡社)

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ドストエフスキーの創作の問題: 付:「より大胆に可能性を利用せよ」 (平凡社ライブラリー)

バフチンの問題意識

 何を思ったか急にバリバリの文芸評論に手を出した件。おかしいな、バフチンなんて縁がないと思ってたのに。雨で調子が狂ってたんだよね、きっと!
 文学部卒業なのにバフチン読んでない、というか縁がないとのたまう辺りどうかしてるけど。というか文学部卒業なのに「村上」という姓で春樹でも龍じゃなくて「村上陽一郎」を思い浮かべる辺り色んな意味で狂ってる。
 さて、そのミハイル・バフチンですが、ロシア・フォルマリズムを確立した人なんです。要するに内容なんてどうでもいいから、文体(フォルム*1)に注目するというもの。
ドストエフスキーの創作は、これまでは狭いイデオロギー的なアプローチと解明の対象であるドストエフスキー(より正確にはドストエフスキーの主人公たち)の宣言の中に直接表現されているイデオロギーのほうに関心が向けられてきた。(中略)とてつもなく複雑で新しい小説構成を規定しているイデオロギーのほうはいまだに解明されないままにある。
 「とてつもなく複雑で新しい小説構成」こそ『ドストエフスキーの創作の問題』で論じられてるポリフォニーです。

文芸評論の行き詰まり

 つまり、思想の分析は行き詰まりを見せていたのです。そこでバフチンたちは文体に注目したのです。「現代人の科学的意識は《蓋然性の世界》の複雑な諸条件のなかで自分を位置づけることを習い覚え、《不確定性》にもいささかも動ずることなく、それを算定する力を持っている。(中略)その計算体系の複雑さもとっくに慣れっこになっているはずなのに芸術的認識の領域にあっては依然として、あえて真実ではありえない粗雑素朴きわまりない確実さが要求されている」。この一文がバフチンの問題意識をさらに明確にしているかと思います。

弾圧

 ロシア・フォルマリズムはスターリン政権下で弾圧を受けるのですが*3、これは当然って言っちゃ当然なんですよね。だって、演説の内容よりも演説の語られ方が大事だって言ってるんですから! うがった見方をすればスターリン批判としても受け取れます。
 いや、不確定性云々言っている時点ですでにソビエト批判につながってくるのですから。というのも共産主義は必ず、共産主義社会が訪れるという思想で動いています。それを「蓋然性」、つまり起こる可能性が高いというふうにずらしてしまったのですから!
 スターリンを始め多くの共産主義の指導者は、自分が共産主義を導くんだという唯物史観で威厳を保っていました。しかし可能性で論じられては権威が失墜します。

ポリフォニー

 バフチンはドストエフスキーの文章をポリフォニーという角度から切り込んでいます。それではポリフォニーとは何でしょうか? バフチンはオットー・カウスを参照しながら、多次元的な対話と語っています。
 同等な権威をもったイデオロギー的立場が複数存在することや、素材が極度に非均質的であることが、ドストエフスキーの基本的特徴であることは、オットー・カウスもその著『ドストエフスキーとその運命』のなかで指摘している
 例えば『カラマーゾフの兄弟』では、無神論者のイワン・カラマーゾフ、敬虔なアレクセイ・カラマーゾフなど、大局的な思想をもった登場人物が登場します。しかも作中ではどちらか一方に肩入れすることなく同等に扱っている作品構成がドストエフスキー作品に特徴的だとバフチンやカウスは指摘しています。

プロレタリアートと資本家

 カウスは資本主義でのみポリフォニー小説は成立しうると考えているようです。「資本主義は、プロレタリアートと資本家への区分け以外にいかなる他の区分けも残さず、(中略)矛盾をはらんで生成していく統一体のなかで衝突させ、絡ませた」とあるように、ポリフォニーを資本家とプロレタリアートから生まれた、と解釈しているようです。
 この辺り、いかにもソ連もいうべきなのか、時代柄ともいうべきなのか、共産主義っぽさがカウスの説には漂ってくるのですが、バフチンは「もっとも説明すべき事実を明らかにしていない」と批判しています。「なじみのモノローグ的統一性を欠いた、こうした多次元的小説の構築上の特性」こそ明らかにするべきだとバフチンは語っているのです。

トルストイ、ゲーテとの比較

 バフチンはトルストイやゲーテとの比較を行なっています。バフチンによればゲーテは「なんらかの単一の発展をさまざまな段階ととらえ、現代の発展を過去の痕跡、現代の頂点あるいは未来の傾向を見てとろうとしている」とあります。
 これは例えば、『若きウェルテルの悩み』*4でウェルテルが最後、自殺してしまう現象を人妻との恋愛という過去の痕跡に見て取っています。一方、ドストエフスキーは物事を同時的にとらえ、相互関係を重要視しているといいます。
 一つ気になったのがバフチンはトルストイも同時性の中で捉えているわけではないと述べています。しかし『光あるうち光の中を歩め』*5を読むと、冒頭、「閑人たちの会話」は同じ権威を持ってる(つまり作者はどの登場人物にも肩入れしていない)点でポリフォニーとよく似てると思うんですけど。

他者の思考

 『カラマーゾフの兄弟』はイワン、アレクセイ、アリョーシャ、ドミトリーの四人が織りなす「多元的」で、「同時的」な四人の対話を浮き彫りにしていますが、登場人物が一人の場合、ポリフォニーはできないのでしょうか?

地下室の手記

 バフチンは『地下室の手記』*6を例示もポリフォニーになっていると語ります。「そうとも、八十まで、だって生き抜いてやる。いや、ちょっと待ってくれ。ひと息つかせてくれたまえ……(強調は有沢による)」とありますが、この最後の行は誰に向かって話しかけているんでしょうか? 『地下室の手記』では語り手が延々と地下室に閉じこもった理由を書き連ねています。
 なら誰も読者を想定していないはずですよね。なのに、「第三パラグラフの終わりには、もはや他者の反応のきわめて特徴的な先取りが存在している」とあるように、過剰にまで読者を気にしている文章だとバフチンは指摘しています。
 こんなことを言うと、諸君、何かこうぼくが諸君に向って悔悟している、いや、許しでも乞うているようにとられるかもしれない……、いや、きっとそう取られているだろう。もっともはっきり断言しておくが、たとえそうとられたとしてもぼくにはどうでもいいことなのだが……
この『地下室の手記』のくだりをフロイトの意識の流れでも、読者を意識したメタフィクションとしてでもなく、バフチンはポリフォニーとして読んでいるのです。

<自意識>

 言い換えれば、『カラマーゾフの兄弟』でのイワンたちの対話と、『地下室の手記』の分裂し、他人を気にしている<ぼく>の自意識は似ているとバフチンは指摘しているのです。『地下室の手記』は<ぼく>の肥大化した自意識を扱う物語はいうまでもありません。
 <ぼく>の意識は一つだと思われがちです。しかし、ポリフォニーをバフチンの定義する通り、同等の権威やイデオロギーの対話とすれば、<ぼく>の自意識そのものがたえざる対話を繰り返している、といえるのではないかと僕は思います。

*1 フォルム(form)はフォームのフランス語読みで「形式」を意味する。
*2 ジグムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」(ジグムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』光文社)
*3 Wikipedia「ロシア・フォルマリズム
*4 ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(新潮社)
*5 トルストイ『光あるうち光の中を歩め』(新潮社)
*5 ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮社)


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フョードル・ドストエフスキー『虐げられた人びと』(新潮社)3

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虐げられた人びと (新潮文庫) ドストエフスキーらしからぬ爽やかなハッピーエンドです。ドストエフスキーは理性を持った狂人を描くのに長けている作家という印象。例えば「罪と罰」のラスコーリニコフは憎まれている金持ちのユダヤ人なら殺してもいいと本気で思い実行に移します。また「カラマーゾフの兄弟」のドミトリー・カラマーゾフは長男で借金したり、親父の浮気相手、グルーシェンカを寝取ったりと欲望に忠実すぎて狂ってます。また『地下室の手記』の「ぼく」に至っては自分を等身大で見れない引きこもりを描いています。
 さて、そんな愉快な人たちで暗い話を描くのが得意なドストエフスキーですけど、『虐げられた人びと』はドストエフスキーらしくありません。イワン・ペドローヴィッチは確かに愉快ですけど、前述した作品に比べたら狂ってません。単に優柔不断なだけです(笑)それもストーリーを運ぶ上では仕方のないこと。
 話の大まかな筋は次の通り。小説家のイワン・ペドローヴィッチが酒場にぶらりと入ると犬を連れた顔色の悪い老人が入ってきます。そしてそこで倒れて死ぬんですが、謎の住所を口走ります。イワンがその住所に行ってみると、小さな子供、エレーナが虐待されていたのです。不憫に思ったイワンはエレーナを引き取ることにしました。そこで元カノのナターシャに出会います。
 ナターシャは貴族の娘でしたが、今は没落してしまったとのことです。しかもその理由はワルコフスキー公爵にいちゃもんをつけられ100万ルーブル(訳ではルーブリとなっていますがこっちの方が好きなので勝手に変更)と土地を巻き上げられたとのこと。ナターシャの親父はワルコフスキー公爵に決闘を仕掛けようとします。ナターシャはイワンに止めさせます。イワンは断り切れずに、仲裁を引き受けます。
 しかし調べていくうちに意外な事実が解ります……、と言う内容。
 最初のエレーナと出会う場面までは暗くてじめじめした、僕の思い描くドストエフスキーらしい出だしなんですよ。でもナターシャとの思い出を回想している場面では甘酸っぱいメロドラマです。しかも無駄に長くありません?え?お祖父さんはどこに行ったの?みたいなね(笑)結末へ一直線に向かう小説もつまりませんがあまり関係の薄そうな話をだらだらやられても困ります。お祖父さんをほのめかす話をどこかに挿むなどするとよかったんじゃないでしょうか。
 しかしエレーナがワルコフスキーの隠し子という意外性は見事でしたね。あれならワルコフスキーがイワンの家やイワンに接触を試みた理由も説明がつきます。
 「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」と並んで推理小説っぽい作品となっています。「罪と罰」の出だしも非常によく似ています。あれも酒場にぶらりと入った大学生、ラスコーリニコフが小役人が酔っぱらって車に轢かれてその家を訪ねると言う話です。それで行ってみると娘であるソーニャに淡い恋心を抱く、と言う話。こうして見ると出だしのシチュエーションは非常によく似ていませんか?
 ドストエフスキーの共通点はもう一つ。最下層の人々を描いていると言うことにもあると思います。『罪と罰』のソーニャ、『虐げられた人びと』のエレーナ、『貧しき人びと』のワルワーラとマカール……。みんな最下層を描いています。そう言えば「白痴」はムイシュキン公爵を中心とした上流階級を描いてますのでこの法則には当てはまらないかも?
 またサルトルと並んでドストエフスキーは実存主義文学の先駆者と言われています。実存主義とは<今、ここにいる私>を考えるんですよね。つまり他者の死と自己の死は等価なんだろうか?例えば冒頭の酒場では老人の愛犬アゾルカが死にます。また老人も死にます。ラストではエレーナも死にます。しかしイワンにとって、それらは単なる現象にすぎないんですよね。他者の死は自分の死じゃもちろんありません。そして他者の死を経験することで自己の死を理解したように錯覚する……。これが実存主義の大きなテーマだと思います。要するに他人の死を通じてしか、自分の死はイメージできない。そしてあくまでそれはイメージでしかない、というわけです。
 また気持ちの移り変わりも実存主義のテーマなんですよね。<私>の気持ちは将来どう変化していくんだろう?とかも<私>を考えていることになりますからね。キルケゴールが『不安の概念』この辺りをやっています。利己的な愛、親子愛のような見返りを求めない愛、人類愛の三段階に変化していく。そして、利己的な愛は不安になるが、徐々に愛情が進化(?)していくにつれ、不安は収まる、というもの。
 さてこれを『虐げられた人びと』に当てはめてみましょう。エレーナはイワンに恋をしますが、最後病に冒されて死ぬときになって、「ナターシャと結婚して」といいます。つまり利己的な愛から人類愛に二階級特進をしたという訳です(笑)ではなぜ二階級特進をしたのでしょう?それは死という大きな出来事を目の前にして悟りを開いたような境地になったんだと思います。イワンに取ってみれば、エレーナの死は単なる一個の現象にすぎませんが、エレーナにしてみれば自己が消滅するわけですからこの後どうなるか不安で溜まらないと思います。イワンとナターシャはどうなるんだろう?とかね。
 よくも悪くもドストエフスキーらしくない作品なので3つ(笑)


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 コメント一覧 (10)

    • 10. noen
    • 2007年07月04日 05:31
    • 青空文庫に収録されてるんですね〜堕ちて行く主人公がドストエフスキーを連想させました。ドストエフスキーは集団で堕ちて行くから怖い。猫好きに捧げるショートストーリーズ(多分そんな名前)という短編集の中に彼の名が無かったのには納得しました。
    • 9. 有沢翔治
    • 2007年07月03日 20:24
    • いやぁ……大学時代にやっていた書評ブログを移転したから勤めに入って読んだ量は大したことないですよー。それにまだ研修中ですからね。残業も<まだ>ないですし。
      >ボルヘス
      いいですよね。一時期、南米作家にこっていまして、その影響で読んでいました。
      僕からもお勧めのをば。ポーの黒猫はお勧めですよー
    • 8. noen
    • 2007年07月03日 10:12
    • あ、現代の海外物読むならボルヘスを勧めます。幻想文学?で不思議な世界です。彼の書く物語はどれも昔の名著を載せています。そこから探っていくのも面白いですよ。
    • 7. noen
    • 2007年07月03日 10:05
    • ちょ・・有沢様と同い年ですか!!しかも勤めながらのこれだけの読書量をこなすなんて凄すぎです。
    • 6. チトセ
    • 2007年06月28日 23:06
    • ご丁寧にお返事ありがとうございます。
      なるほど、ギリシア神話、聖書、シェークスピアですか。
      今度読んでみますね。
      お言葉に甘えて、また機会がありましたら、アドバイスをいただきに参らせてもらいますね。
    • 5. 有沢翔治
    • 2007年06月27日 23:53
    • (おおすぎて書けないと言われたから二回に分けて投稿します)
      次に手近な文学史の新書を買うという方法があります。できれば索引が付いているものがお勧めです。しかしこれをやると自分の読み(読みの多様性)が失なわれることがデメリットです。
      第三の方法として全くのフィーリングで買うというやり方があります。自分の第六感を信じて突き進む、というある意味ではチャレンジャーな方法です。しかしこれは全く「読み」にこだわらずに読めるという利点があるんです。
      これら3つの方法を使って上手く使って素晴らしい小説との出会いを期待しております。また何かありましたらいつでもどうぞ
    • 4. 有沢翔治
    • 2007年06月27日 23:50
    • おすすめの本ですか……。うーん……まず外国物を読む場合はシェークスピア、ギリシャ神話、聖書です。向こうの文化を理解する上でかかせない要素の一つですからね。
      同じような読み方としましては引用元をさぐってみてはいかがでしょうか?○×の小説には○○の作品が引用されているな。よし次は○○を読んでみよう。というふうな読み方ですね。僕はこの読み方をしてきました。
    • 3. チトセ
    • 2007年06月27日 02:46
    • さっそくのお返事ありがとうございます。
      僕が言うのもなんですが、23歳だなんてお若いですね。
      ますます尊敬しちゃいます。
      私事で恐縮なんですが、僕は19でやっと本らしきもの、つまり活字を、読み始めたんです。読書の素晴らしさと高尚さ―高尚というのは僕がそう思うだけなんですが、それを知ったときは自らの読書経験の少なさと盲目を恥じ、後悔しました。それで慌てて有名な小説を読み始めました。主に古典文学ですね。僕は現代文学はあまり読まないんです。
      しかし、僕はまだ読書歴2年にも満たないので、古典を読んでいても理解できないところが多いんです。
      長くなりましたが、そういうわけで、よろしければ読書経験豊富な有沢さんに読書の指針についていろいろとアドバイスを頂きたいんです。厚かましいお願いですが、よろしくお願いします。
    • 2. 有沢翔治
    • 2007年06月27日 02:12
    • こんばんは。
      23歳で、地方の印刷所で手書き原稿の入力や誤変換をのチェックを行っております。(自己紹介の所、変えなきゃな……)
      僕がチトセさんと時年齢(大学2年のころは)赤川次郎などの軽い小説などを中心に読んでいました。次第に飽いてくるんですよね。彼の小説^^;
      で、有名どころの小説をかたはしから読んで……という流れです。
      休みが2か月近くもあったんで

      僕もドストエフスキーは好きですが有名どころが未読でして……
      またのお越しを心よりお願いします
    • 1. チトセ
    • 2007年06月27日 00:29
    • はじめまして。チトセと申します。
      ドストエフスキーは僕も好きです。
      でもまだ「虐げられた人々」読んでないので、
      ぜひ読んでみようという気になりました。

      ところで初対面で不躾な質問を許していただきたいんですが、有沢さんはおいくつなんでしょうか?僕は沢山本をよんでいらっしゃる有沢さんを羨んでいるのと同時に尊敬しているんです。だからちょっと気になっちゃって。たぶん僕(20)よりはお年だと思うんですけど、僕も有沢さんくらいの歳になったとき、沢山本を読んでいたらいいな、と感慨深く思ったわけです。それでは、失礼します。

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フォードル・ドストエフスキイ『地下室の手記』(新潮社)

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地下室の手記 (新潮文庫) ドストエフスキイと言えば「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」が有名・・・なんですが、あれは恐ろしくテンポが悪い。ドストエフスキイを始めて読む方は「白夜」か本書をお勧めします。
 第一部は主人公の官吏が思うことばかりで冗漫でしたが、第二部の24歳から現在に至るまでの経緯が軽快で、テンポよく読めました。何が原因かって、そりゃこの官吏の個性的な(痛々しい)人格のなせるわざでしょう。プライドばかりが高くって自称「僕(=官吏)は異常なまでに知能が秀でている」男のイタイお話でつ(w)知り合って間もない女性に、2〜3ページに渡って延々と講釈したり・・・。頼むからあなたのような引きこもりは一生、浮上してこないで下さいorz
 ドストエフスキイは知識ばかりが人間の才能じゃない、と言いたかったのでは?確かにこの官吏はゴーゴリなどの引用やフランス語を交えた文章を書いてはいますが、僕だったら恐らくアントンたちと同じ反応を示すでしょうね。そしてある意味では僕たち、ヲタを誇張した表現で一個のことに固執しててはいけないという耳の痛い話をされたような気がします。
 とはいえ、面白かったのは事実です。ではでは

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