有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

ロシア

ウラジミール・ナボコフ『青白い炎』(筑摩書房)

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青白い炎 (ちくま文庫)

概要

 シェイドの九九九行に渡る詩、『青白い炎』*1。ロシア文学者で、彼の隣人でもあるキンケードはその詩に膨大な注釈を付ける。しかし、その注釈は『青白い炎』から脱線し、いつの間にか個人的な話になり……。キンケードは詩『青白い炎』は自分のことを書いていると思い込んで、解説する。
 注釈そのものもストーリーになっている、ナボコフ*2の実験小説。

注釈と本文の逆転

 本来なら注釈は内容の理解を助けるための補足ですよね。でもナボコフは『青白い炎』で注釈をメインにしているのです。
 田中康夫*3の『なんとなく、クリスタル』*4やニコルソン・ベイカーの『中二階』*5も注釈が半分以上を占めています。しかしこの二つは、記号としての注釈です。例えばニコルソン・ベイカーの『中二階』にはストローに対して注が付され、ストローの歴史が語られています。しかし本来の生活において、ストローの歴史はどうでもいいものです。そういった瑣末なものに注を付すことで、意味のハンラン(反乱/氾濫)を皮肉っているとも取れます。つまり『中二階』は物語の本筋に食い込むような逆転の仕方ではありません。

語り手の問題

 しかし小説『青白い炎』の膨大な注は、詩『青白い炎』のストーリーに影響を与えてくるのです。キンケードは詩『青白い炎』は自分のことを書いていると主張しています。
 それ以後、この著名な隣人〔有沢注:シェイド〕の姿を見かけることがますます多くなった。わたしが窓の外の一つからの眺めはわたしにいつもすばらしい楽しみを与えてくれる。
 この後、延々と一ページに渡り、シェイドの描写が続くのですが、ここで注意して欲しいのは「前置き」はキンケードが書いたものだということ。つまり貧乏ゆすりも「スリッパが(中略)滑り落ちる」様子も全てキンケードが詳細に観察した結果に他なりません。しかも「風変わりな隣人との友情に免じて」という一文からは、シェイドと特別な関係を持っているとキンケードが思い込んでいる様子が示唆されているのです。
 つまり、キンケードの人物像については偏執的なファンと言っていいでしょう*6。この注釈は<信頼できない語り手>*7のキンケードが思い込みで書かれています。この<語り>の問題は『カメラ・オブスクーラ』でも扱われています。
 『カメラ・オブスクーラ』で主人公、クレッチマーは最後の場面で盲目になります。そこで愛人、マグダが目の代わりになるのですが、彼女にも本命の愛人がいて彼を呼び寄せます。もちろんクレッチマーには内緒で。つまり『カメラ・オブスクーラ』において、クレッチマーはマグダの<語る>ことを疑いながらも信じざるを得ないのです。
 そして『青白い炎』においても、それは同じこと。読者は詩『青白い炎』の解説を、キンケードを通してしか知りようがありません

読むことへの皮肉

 そして、これは小説を読むことそのものへのナボコフ流の皮肉とも受け取れます。僕たち読者はキンケードを無邪気に笑うことはできません。詩『青白い炎』とキンケードによるその注釈という構図は、そっくりそのままテクスト*8と読者の関係に当てはまります。
 つまり、テクストを読む際には多かれ少なかれ、キンケードのような読み方をしてしまっているのです*9。
 そしてこれは文芸評論のパロディとも受けてれるのです。
1.先も指摘した研究者による思い込み。
2.注釈や索引という論文の形式を借りて、この小説『青白い炎』が執筆されていること。
3.フロイト主義への批判。具体的には「<赤ずきんと狼>のドイツ語版における赤いビロードの小さな防止は月経の象徴になっている」とエーリッヒ・フロムなどを引用した上で「自分たちの教えていることを本気で信じているのだろうか」と述べています。
 フロイト自身も文芸評論を行なっていますが*10、そればかりではなく、創作分野でも影響を与えています。例えばブルトンの「シュルレアリズム宣言」*11やジェイムズ・ジョイスなど*12、精神分析は文学評論に影響を与えています。
4.架空の作家と実在の作家の混在
 研究書のパロディは真実と虚構の境界を曖昧にします。補足しておくなら、この小説はプーシキン『オネーギン』を英訳した直後に書いているので、自分自身をパロディ化してると言えるのです*13。
 虚構と実在をぼかす、という手法はポストモダン文学の典型的な手法です。例えばイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』*14が挙げられます。『見えない都市』では「東方見聞録」のパロディを取りながらも、あくまで虚構性を強調しています。
 一方、小説『青白い炎』は徹底的にぼかそうとする姿勢が伺えます。

*1 ちなみに貴志祐介は『青い炎』というホラー小説を書いていて、有沢翔治は『白い焔』というホラーゲームを発表している。
*2 僕は『ロリータ』を初めて読んで以来、ずっとナボコフは遠ざかってきた。しかし重要なロシア文学の作家だと知り、『カメラ・オブスクーラ』(ウラジミール・ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』光文社)、『絶望』(ウラジミール・ナボコフ『絶望』光文社)などを借り始めたのである。
*3 なお僕は長野県知事としてのイメージが強い。
*4 田中康夫『なんとなく、クリスタル』(新潮社)
*5 ニコルソン・ベイカー『中二階』(白水社)
*6 僕はここでスティーブン・キング『ミザリー』を思い出した(スティーブン・キング『ミザリー』文藝春秋)
*7 ウェィン・ブース『フィクションの修辞学』(書肆風の薔薇)
*8 ここでいうテクストとは文学作品のみならず新聞記事、科学論文なども含んでいる。
*9 テリー・イーグルトンは、あらゆるテクストはイデオロギーに支配されていると述べている(テリー・イーグルトン『文学とは何か』岩波書店)
*10 ジークムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社)
*11 アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言/溶ける魚』(岩波書店)
*12 ジェイムズ・ジョイス『ダブリンの市民』(岩波書店)。なおマイミクさんから『フィネガンズ・ウェイク』をおすすめされているが未読である。それどころかジョイスも『ダブリンの市民』で挫折。
 意識の流れでまともに読んでいるのは、『ダロウェイ夫人』(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』角川書店)である。ちなみにこれも大学の講義の課題図書だった。プルーストに至っては巻数を見ただけで読む気が失せている。ウィリアム・フォークナーなら読めそうな気がする。
*13 なお、太宰治は自分自身をパロディ化する天才である。
*14 イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(河出書房新社)



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ウラジミール・ナボコフ『絶望』(光文社)

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絶望 (光文社古典新訳文庫)

概要

 『ロリータ』で有名な──むしろロリータという言葉がひとり歩きしてる感じすらありますが、テクストというのはそういうものなのです。例えば太宰治は「人間失格」がひとり歩きして、暗いイメージとして語られてますが、「畜犬談」などのユーモアあふれる作品は無視されてしまってます──ウラジミール・ナボコフの初期の作品です。
 貝澤さんは『カメラ・オブスクーラ』に関連付けて、「見る/見られる」、「語ることの限界」というテーマで解説を書いていますが*1、僕はむしろナボコフの特徴というか面白さ──ああ、読者よ、僕の表現力の乏しさをお許し願いたい、ナボコフの企みを語るには僕では力不足なのだ──過剰にまで語られる──しかも、ただ語るだけではなく読者を意識して語る<語り手>、それこそ太宰が「人間失格」や「走れメロス」で試みたような──意識の仕方にあると思うのです。

あらすじ

 この作品の筋を語るのは難しい。と言っても、現代文学のように、──いやナボコフも現代文学だから安部公房の『箱男』みたいに、というべきでしょうか──ちなみに安部公房といえば高校時代に「赤い繭」を、大学時代に『壁』、『砂の女』を、数か月前に『カンガルーノート』と『燃えつきた地図』、『人間そっくり』を読んだのだが──、あるいはリョサの『緑の家』のように──ちなみに『緑の家』の書評は自慢できることですがグーグルの検索結果で上位に表示されます。法螺だと思うのなら検索してください──話が錯綜しているわけではありません。
 むしろ、話の筋としては古典ミステリにありがちな──余談ながらホームズが大好きで子供の頃から愛読しているのですが──双子トリックを用いてます。つまり死体が入れ替わる話であり、これはミステリとしてはもう陳腐化されています。
 自分そっくりだと語り手は信じている──おお、読者よ、「信じている」と今書きましたがここにナボコフの企みがあるのですが──浮浪者フェリックスを見つけ、自分の身代わりとなって死んで、保険金をだまし取ろうとします。そしてほとぼりが冷めた頃、奥さんのリーダと落ち合うという計画を立てるのです。
 話自体としてはこのように単純なのですが、それにも拘らず『絶望』というテクストは絶望的に筋を語るのを拒んでいるかのように思えます。ナボコフ──いや、 ナボコフの小説に登場する<語り手>の企みは先述したように、戦術的に自分を語っています。粗筋を語って結論を急ぐことはそのような饒舌な自分語りという彼らの企みを酌まずに『絶望』を読むことになります。

メタフィクション

 この小説はメタフィクションを取っていることは言うまでもありません。<ぼく>が完全犯罪の計画を立て、その経過を小説として出版した。そしてその小説が『絶望』というこのテクストだ、という手法もメタフィクションなのですが、その他にもメタフィクションが使われています。

そもそもメタフィクションとは

 そもそもメタフィクションとは、小説の枠組みを超えた小説です。モダニズム小説では、ブルトンなどに影響されたシュールレアリズム文学でもそうなんですが、作中人物は小説の中の世界しか認識できませんでした。つまり、読者──や作者、編集者──の存在、そして今、小説の中にいる登場人物だということ、そして今、作中人物の置かれている事件が小説として描かれていること──つまり小説の外の情報──などは意識していなかったのです。
 これは小説は我々と同じ世界観を共有するべきである。我々が例え小説の登場人物だとしても、それを意識できないのと同じように作中人物たちも振る舞わなければいけない、という自然主義の文学観に基づいています。
 しかしメタフィクションはそうではありません。例えば、ディクスン・カーの『三つの棺』*2では「われわれは推理小説の中にいる人物であり、そうでないふりをして読者たちをバカにするわけにはいかない。手のこんだ口実をつくり出して、推理小説の論議に引きずりこむのはやめて、書物の中の人物たちにできる、最も立派な研究を率直に誇ろうじゃないか」と語っています。つまり登場人物が作中人物だと意識した発言をしているのです。これが典型的なメタフィクションです。
 またシャーロック・ホームズは、『四つの署名』でワトソンの書いた小説を読み、感想を述べて──というか酷評しています。
「それ〔『緋色の研究』〕にはちょっと目を通したが」彼は言った。「(中略)それはあたかもユークリッドの第五定理に恋愛話や駆け落ちを導入するのとまったく同じ効果を生み出した」
 これは何でもないように思えますが──ささいなことほど重要なのだよ、ワトソン君!──よく考えてみれば作中人物である登場人物のホームズが実際にコナン・ドイルの書いた本なんて読めるはずがない。しかし作中世界でも現実世界と同様に『緋色の研究』──を始めとするホームズシリーズ──は実際に出版されていて、ホームズもそれを読んでいる、という設定なのです。この設定はエラリー・クイーンなどにも受け継がれています。
 つまり作中における〈このテクスト〉が、フィクションの世界の住人は現実世界で流布していると知っていて──ときにはそれに対して酷評したり、嘆いたり──するのですが、これも従来のモダニズム文学では登場人物は知りませんでした。
 いや、ドイルやクイーンもモダニズム文学なんですが、メタフィクションで逆にリアリティを生み出しているように感じました。モダニズム文学以前では逆にドン・キホーテなどメタフィクション*3──もちろんセルバンテスはメタフィクションということは意識しているはずがありませんが──の要素が見られる作品もあります。
 また自分が精子だったころから始め、脱線につぐ脱線を繰り返すという、トリストラム・シャンディなどもメタフィクションの要素もあります。というかトリストラム・シャンディが20世紀に書かれたと言われても全く不思議じゃないよ! 白紙のページで「ご自由に想像して下さい」とか真っ黒に塗られたページとか斬新すぎて理解できないよ。

ナボコフ『絶望』におけるメタフィクション

 さて、通常の小説は「外」を意識しない、つまり、読者も意識しなければ〈このテクスト〉が小説として書かれていることも意識していないと言いました。しかしナボコフは過剰なまでに読者を意識しているのです。
 この章はどんなふうはじめたものだろうか? 書き出しの候補をいくつかお見せしよう。(中略)
 この書き出しのきわだった特色は一目瞭然だろう。
 このように作中人物のゲルマンは読者を意識しているのです。他にも読者に呼びかける場面が何度か見られます。もっと言えば、誰かに読まれていることを過剰に意識しているのです。
 しかしこれは果たしてメタフィクションという特殊な状況においてのみ言えるのでしょうか? ミシェル・フーコーによれば常に誰かから見られていると意識しています*4。
<一望監視装置>は見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛けであって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが決して見るわけにはいかず、中央部の塔の中からは人は一切を見るが決して見られはしないのである。
 つまり誰かに見られているかもしれないという意識を植え付けることで、より合理的に支配できるようになったと指摘しています。
 ゲルマンは『絶望』で読者へ饒舌なほど自分を語っているのですが、我々だって誰かに見られているかもしれないと考えています。しかしこれは一般的な話ではないように、僕はこの記事を書いてて思えてきました。
 ナボコフはソビエト時代の作家なんです。しかも『絶望』が書かれた1932年はスターリンが支配していました。まさに誰かに見られている、という意識が生々しく感じられた時代だったのでしょう。

*1 貝澤哉「解説」(ウラジミール・ナボコフ『絶望』光文社)。なお、これは『カメラ・オブスクーラ』(光文社)の解説でも触れられている。
*2 ディクスン・カー『三つの棺』(早川書房)
*3 セルバンテス『ドン・キホーテ』の後編では、前編がすでに流布してパロディが生まれていると書かれている。そしてこれは現実世界でも同じであった。ところが作中人物のドン・キホーテは読者のいる現実世界を知ることができないはずである。『ドン・キホーテ』がメタフィクションと呼ばれる所以はここにある。
*4 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社)


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高野史緒『ミステリとしての『カラマーゾフの兄弟』(東洋書店)

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ミステリとしての『カラマーゾフの兄弟』―スメルジャコフは犯人か? (ユーラシアブックレット)

概要

 ミステリとして「カラマーゾフの兄弟」を読解した時にど果たしてスメルジャコフは犯人なのだろうか。江戸川乱歩賞の受賞作家が「カラマーゾフの兄」の謎を解く。
 純文学の名作をエンタメ作品として読むのは、文学ファンから怒られそうです。しかし乱歩はドストエフスキーの愛読者で、またスリル作家としてドストエフスキーを読んでいました。
 また『罪と罰』を下敷きに「心理試験」を描いたのは有名な話です。

透明な批評

 僕は推理作家の高野史緒がミステリとして読んだ時、ここが優れているなどと、創作法(ドラマツルギー)の観点から語ったものを期待して読んだのですが……透明な批評でした。
 透明な批評とはテクストがあくまでも現実に起こったものと仮定して分析する、という方法なのですが、僕はあまり好きじゃないんですよね。どうも遊んでいるように思えてしまって。それよりももっと大事な点があるだろうと思ってしまうんですよね。
 もちろん、読解の糸口としてはありだと思います。小説を楽しむ一つの方法として、あるいは本格的にテクストを議論する土台として。例えばピエール・バイヤールは『アクロイドを殺したのはだれか』*1は透明な批評を用いて、精神分析、さらには推理小説というジャンルの限界まで示してくれています。
 ところがこの本は「カラマーゾフの兄弟」というテクストから余り広がらない感じがしました。確かに伝記的な記述、精神分析的な記述はあるのですが。その原因の一つを考えてみたんですが、おそらく参考文献、読書案内が示されていないことがあげられると思います。
 できれば伝記的記述はこの本が望ましい、などというブックガイドがあった方がいいのではと思いました。

ケアレスミス?

 さて、高野史緒さんは序文で「畢竟の大作において(中略)ケアレスミスをしたと切って捨てるより、はるかに実りの多い読解が得られるのではないだろうか」と言っています。僕もこの考えには賛成……なのですが、その論で読み進めていってるのに、時刻を間違えた理由をドストエフスキーのケアレスミスだと言っているのです。ケアレスミスと結論付けること事態を悪いとは言いませんが、それ以上、議論の広がりを見せない書き方が問題なのです。
 例えばケアレスミスにしてもどうしてケアレスミスを犯したのか、八時半という数字はどこから出てきたのか、どうしたらこのケアレスミスを防げたのかなど、いくつも論点を作れたと思うんですよね。
 また63ページという短い論考の割に、第一部は伝記的研究、第二部は透明な批評などと論点が少しずつずれていません? これは議論の幅を持たせるため、高野さんがわざといろいろな論点を持たせたのかもしれませんが。
 透明な批評でスメルジャコフ犯人説を覆したいのなら、他のテクストやドストエフスキーの伝記的研究を参考せずに、もうちょっと丁寧に「カラマーゾフの兄弟」というテクストについて記述してもよかった気が……。ちなみに第一部ですが、フロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」*2に依るところが大きいのではと思いました。僕は作家の生涯と結びつける研究はあまり好きではないのですが。
 ちなみに本格的な論考としては江川卓の『謎解き「カラマーゾフの兄弟」』などが挙げられます。

*1 ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』(筑摩書房)。ちなみに『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?』という本もあるが、こちらは未読。
*2 フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社)



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ウラジミール・ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』(光文社)

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カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)

あらすじ

 美術評論家のクレッチマーは、若い愛人、マグダにうつつを抜かす。一方、マグダは別の愛人、ホーンとひそかによりを戻していた。
 マグダは言葉巧みに……というかクレッチマーが「盲目」なんですけど……クレッチマーを幽閉し、ホーンと財産を奪おうとする。それに気が付いて、クレッチマーはマグダに復讐しようと拳銃を取り出す。果たして結末は?

ロリータの起源

 さて、よく言われることですが、若い女性に世間知らずの中年男性が熱を上げて破滅するというのはナボコフのロリータと似ています。そして谷崎潤一郎『痴人の愛』とも。

男/女

 さて『痴人の愛』*1は譲治がナオミを支配するつもりがいつの間にか支配されているという構図を持つ作品なのですが、この『カメラ・オブスキューラ』にも当てはまります。
 理想はともかく現実の実態として、男=支配者、女=被支配者です。であるからこそ、様々なフェミニズム運動が起こっているのです。
 『カメラ・オブスクーラ』において、この支配、非支配の関係は男女にとどまった話ではありません。大人=支配、子供=被支配という関係もまた、クレッチマーとマグダの関係で特徴的だといえるのです。クレッチマーの支配欲を上手く使って、マグダは彼を支配しています。
 例えば手紙の一件、奥さんが中身を開けると知ってるはずなのに、マグダはクレッチマー宛に手紙を出します。
 「家内はぼくの手紙を全部読むんだよ、きみだって知ってるじゃないか……」(中略)
「やめさせればよかったのに」
 これは素朴な解釈をすれば、不倫相手が勢いに任せてラブレターを出したとも解釈できます。しかし、奥さんが読むと踏んで、手紙を出したのかもしれません。クレッチマーを奥さんから引き離すために。
 その場合、マグダはクレッチマーを手紙を通じて自分に有利な条件に誘導していることになるのです。

語りの問題

 さて、語り手は自由に、恣意的に物語を編集できます。大事なところをカットしたり、表現を変えて意図的に誤解しやすくしたり、過剰に語って印象付けたりすることも自由自在にできるのです。もしくは、嘘をついたりとか。
 最近の推理小説で一人称の語り手が出てきたら真っ先に僕は叙述トリックを疑いますが、この『カメラ・オブスキューラ』では語りの問題を意識的に扱っていると言われます。解説*2によると
 小説を読むということは言葉でできているので、すべての情報は当然ながら伝聞でしか入ってこない。映画やアニメや絵画なら、私たちは主人公の顔や家具の色を視覚的に即座に見ることができる。ところが小説の読者は何ひとつ直接見ることはできない。小説にか書かれた「描写」の言葉をとおして、場面や人物を間接的に「想像」することしかできないのである。
 これは確かに合っています。ミステリにおいて叙述トリックが成立するのも小説という独自の〈語り〉によってのみ支えられている部分があります。

創作の問題

 果たして小説特有の問題と言えるのでしょうか。つまり漫画、アニメではこの問題は解決されるのでしょうか。あらゆる物語には〈語り手〉が存在します。小説に限らず、漫画、アニメ、映画全てにおいて。もし〈語り手〉と映像、もしくはコマを作為的にごまかしていたら? 全く関係ないナレーションを流していたら?確かに色を視覚的に見ることができるのですが、もし自覚していない色盲の人が〈語って〉いたら?
 また〈語り〉の自由さを悪用しすぎると「うみねこのなく頃に」みたいな後出しジャンケンがいくらでもできてしまって、信用されません。ある程度の説得力を持たせるためにも物語で起きていることについて、全くのデタラメを書いては読者に信用されなくなるのです。
 創作ミステリでは〈正確な語り〉は幻想だというナボコフの問題意識がより深刻になってくると思います。何が正確な〈語り〉で何が不確かな〈語り〉かという区別が作者の評価と直結しているのですから。

現実の問題

 翻って現実の問題に目を向けてみす。僕たちは誰かの〈語り〉を通してのみ世界を把握できます。例えば、子供がお母さんに幼稚園の出来事を報告している場合、子供の〈語り〉を通してのみその出来事を把握します。
 まるでクレッチマーはマグダの語りによって世界を認識しているのですが、それと同じです。

主体と客体

 さて、解説でもあるようにクレッチマーは美術評論家で、「見る」ことを商売にしてます。貝澤さんも「『カメラ・オブスクーラ』は(中略)「見る」ことと「見えない」ことを巡って書かれている小説だ」とこの問題に言及しています。
 しかし僕の論点は「見る」「見られる」の関係です。美術評論家で絵画を見ているクレッチマーが事故で盲目になります。僕はこのときのクレッチマーが「見えない」だけでなく、マグダの愛人、ホーンによって見られる立場に置かれるという読みをしました。
 その頃、(中略)リビングではクレッチマーとホーンが向かい合わせになって座っていた。ホーンはわざと家に残っていたのだが、それというのもこのなんとも滑稽きわまりない共同生活の最後の日々をこころゆくまで堪能したいと願っていたからだ。
 つまり、クレッチマーは見る立場から見られるへと変化するのです。例えば、「ホーンは(中略)盲人〔クレッチマー〕(中略)を観察して」います。また物語序盤でも「盲人にペンキをわざと注意しない」というホーンの行動が出ています。一見ホーンの意地悪さを示すこの行動も見る/見られるという点から読めば、ホーンは見る立場に徹しているのです。
 作中作として登場する小説はまさに読まれるという点で客体です。クレッチマーはこの小説(の朗読)を鑑賞するということで、「見る」立場です。
 ところでナボコフは饒舌で円城塔に似てる点があるって友達が言ってたことがあるんだけどそうかなぁ。
 
*1 谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮社)
*2 貝澤哉「解説」(ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』光文社)


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ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの創作の問題』(平凡社)

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ドストエフスキーの創作の問題: 付:「より大胆に可能性を利用せよ」 (平凡社ライブラリー)

バフチンの問題意識

 何を思ったか急にバリバリの文芸評論に手を出した件。おかしいな、バフチンなんて縁がないと思ってたのに。雨で調子が狂ってたんだよね、きっと!
 文学部卒業なのにバフチン読んでない、というか縁がないとのたまう辺りどうかしてるけど。というか文学部卒業なのに「村上」という姓で春樹でも龍じゃなくて「村上陽一郎」を思い浮かべる辺り色んな意味で狂ってる。
 さて、そのミハイル・バフチンですが、ロシア・フォルマリズムを確立した人なんです。要するに内容なんてどうでもいいから、文体(フォルム*1)に注目するというもの。
ドストエフスキーの創作は、これまでは狭いイデオロギー的なアプローチと解明の対象であるドストエフスキー(より正確にはドストエフスキーの主人公たち)の宣言の中に直接表現されているイデオロギーのほうに関心が向けられてきた。(中略)とてつもなく複雑で新しい小説構成を規定しているイデオロギーのほうはいまだに解明されないままにある。
 「とてつもなく複雑で新しい小説構成」こそ『ドストエフスキーの創作の問題』で論じられてるポリフォニーです。

文芸評論の行き詰まり

 つまり、思想の分析は行き詰まりを見せていたのです。そこでバフチンたちは文体に注目したのです。「現代人の科学的意識は《蓋然性の世界》の複雑な諸条件のなかで自分を位置づけることを習い覚え、《不確定性》にもいささかも動ずることなく、それを算定する力を持っている。(中略)その計算体系の複雑さもとっくに慣れっこになっているはずなのに芸術的認識の領域にあっては依然として、あえて真実ではありえない粗雑素朴きわまりない確実さが要求されている」。この一文がバフチンの問題意識をさらに明確にしているかと思います。

弾圧

 ロシア・フォルマリズムはスターリン政権下で弾圧を受けるのですが*3、これは当然って言っちゃ当然なんですよね。だって、演説の内容よりも演説の語られ方が大事だって言ってるんですから! うがった見方をすればスターリン批判としても受け取れます。
 いや、不確定性云々言っている時点ですでにソビエト批判につながってくるのですから。というのも共産主義は必ず、共産主義社会が訪れるという思想で動いています。それを「蓋然性」、つまり起こる可能性が高いというふうにずらしてしまったのですから!
 スターリンを始め多くの共産主義の指導者は、自分が共産主義を導くんだという唯物史観で威厳を保っていました。しかし可能性で論じられては権威が失墜します。

ポリフォニー

 バフチンはドストエフスキーの文章をポリフォニーという角度から切り込んでいます。それではポリフォニーとは何でしょうか? バフチンはオットー・カウスを参照しながら、多次元的な対話と語っています。
 同等な権威をもったイデオロギー的立場が複数存在することや、素材が極度に非均質的であることが、ドストエフスキーの基本的特徴であることは、オットー・カウスもその著『ドストエフスキーとその運命』のなかで指摘している
 例えば『カラマーゾフの兄弟』では、無神論者のイワン・カラマーゾフ、敬虔なアレクセイ・カラマーゾフなど、大局的な思想をもった登場人物が登場します。しかも作中ではどちらか一方に肩入れすることなく同等に扱っている作品構成がドストエフスキー作品に特徴的だとバフチンやカウスは指摘しています。

プロレタリアートと資本家

 カウスは資本主義でのみポリフォニー小説は成立しうると考えているようです。「資本主義は、プロレタリアートと資本家への区分け以外にいかなる他の区分けも残さず、(中略)矛盾をはらんで生成していく統一体のなかで衝突させ、絡ませた」とあるように、ポリフォニーを資本家とプロレタリアートから生まれた、と解釈しているようです。
 この辺り、いかにもソ連もいうべきなのか、時代柄ともいうべきなのか、共産主義っぽさがカウスの説には漂ってくるのですが、バフチンは「もっとも説明すべき事実を明らかにしていない」と批判しています。「なじみのモノローグ的統一性を欠いた、こうした多次元的小説の構築上の特性」こそ明らかにするべきだとバフチンは語っているのです。

トルストイ、ゲーテとの比較

 バフチンはトルストイやゲーテとの比較を行なっています。バフチンによればゲーテは「なんらかの単一の発展をさまざまな段階ととらえ、現代の発展を過去の痕跡、現代の頂点あるいは未来の傾向を見てとろうとしている」とあります。
 これは例えば、『若きウェルテルの悩み』*4でウェルテルが最後、自殺してしまう現象を人妻との恋愛という過去の痕跡に見て取っています。一方、ドストエフスキーは物事を同時的にとらえ、相互関係を重要視しているといいます。
 一つ気になったのがバフチンはトルストイも同時性の中で捉えているわけではないと述べています。しかし『光あるうち光の中を歩め』*5を読むと、冒頭、「閑人たちの会話」は同じ権威を持ってる(つまり作者はどの登場人物にも肩入れしていない)点でポリフォニーとよく似てると思うんですけど。

他者の思考

 『カラマーゾフの兄弟』はイワン、アレクセイ、アリョーシャ、ドミトリーの四人が織りなす「多元的」で、「同時的」な四人の対話を浮き彫りにしていますが、登場人物が一人の場合、ポリフォニーはできないのでしょうか?

地下室の手記

 バフチンは『地下室の手記』*6を例示もポリフォニーになっていると語ります。「そうとも、八十まで、だって生き抜いてやる。いや、ちょっと待ってくれ。ひと息つかせてくれたまえ……(強調は有沢による)」とありますが、この最後の行は誰に向かって話しかけているんでしょうか? 『地下室の手記』では語り手が延々と地下室に閉じこもった理由を書き連ねています。
 なら誰も読者を想定していないはずですよね。なのに、「第三パラグラフの終わりには、もはや他者の反応のきわめて特徴的な先取りが存在している」とあるように、過剰にまで読者を気にしている文章だとバフチンは指摘しています。
 こんなことを言うと、諸君、何かこうぼくが諸君に向って悔悟している、いや、許しでも乞うているようにとられるかもしれない……、いや、きっとそう取られているだろう。もっともはっきり断言しておくが、たとえそうとられたとしてもぼくにはどうでもいいことなのだが……
この『地下室の手記』のくだりをフロイトの意識の流れでも、読者を意識したメタフィクションとしてでもなく、バフチンはポリフォニーとして読んでいるのです。

<自意識>

 言い換えれば、『カラマーゾフの兄弟』でのイワンたちの対話と、『地下室の手記』の分裂し、他人を気にしている<ぼく>の自意識は似ているとバフチンは指摘しているのです。『地下室の手記』は<ぼく>の肥大化した自意識を扱う物語はいうまでもありません。
 <ぼく>の意識は一つだと思われがちです。しかし、ポリフォニーをバフチンの定義する通り、同等の権威やイデオロギーの対話とすれば、<ぼく>の自意識そのものがたえざる対話を繰り返している、といえるのではないかと僕は思います。

*1 フォルム(form)はフォームのフランス語読みで「形式」を意味する。
*2 ジグムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」(ジグムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』光文社)
*3 Wikipedia「ロシア・フォルマリズム
*4 ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(新潮社)
*5 トルストイ『光あるうち光の中を歩め』(新潮社)
*5 ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮社)


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アントン・チェーホフ『チェーホフ一幕物全集』(岩波書店)

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チェーホフ一幕物全集―白鳥の歌・路上他7篇 (岩波文庫 赤 623-0)

要約

 チェーホフの一幕劇を集めたものです。が、旧字体で書かれているため読みにーい! ……1939年発行ですものね。1.路上、2.白鳥の歌、3.煙草の害について、4.熊、5.結婚申込、6.タチヤナ・レーピナ、7.余儀なく悲劇役者、8.結婚披露、9.記念祭の計9編です。訳が改訂されることを期待しながら、レビューします。

路上

 ゴーリキーの『どん底』のような作品。ロシア文学ってなぜか暗い作品が多いんですよねー。舞台はチーホンが営む酒場。「雷鳴が聞え、戸口から稲妻の光が見える」嵐の深夜、店の主人、ホーチンや客たちが交わす会話がメインです。
 ただ、チェーホフの暖かい眼差しが注がれる場面も。メーリックが「お前はなんだって、あの人〔金を払わず、飲んだくれているボルツォフ〕を追いださねえんだい?(中略)ああ、今時の人間は慈悲も情もありゃしねえ。優しさとか親切とか言うもなあ、これっから先もありやしねえんだ……むごたらしい世の中(後略)」という台詞に対し、サップは「そういうことを悪くいうもんでないよ」といいます。
 この辺は後に登場するおちぶれた地主のクジマーに対する伏線として機能しています。『ワーニャ叔父さん』『桜の園』でもそうだったんですが、チェーホフにはおちぶれた地主を描いている作品が多い気がします。ゴーリキーが働いても働いても最底辺の人を描き(ワーキングプアの問題はすでにこのころからあった。言葉を変えてさも現代社会特有の問題かのように報じる人々!)、ドストエフスキーは『貧しき人々』で借金の取り立てに悩まされる人を描いています。『罪と罰』などでも借金取り、アリョーナや売春を余儀なくさせられたソーニャを登場させるなど借金や貧困の問題が登場します。
 さてチェーホフの「路上」などで描く貧困は時代の波にもまれ、アレクサンドル二世によって行なわれた地政改革の真っ只中だったと思います。しかしこのナロードニキとよばれる地政改革では結局、貧困はなくならず、地主がおちぶれていっただけでした(代わりに工場経営者がのしあがりましたがw)路上はこういった貧困問題を生……じゃない暖かい目で見守った作品なのかもしれませんね。結局は地主だっておちぶれるんだという寂しさみたいなものを感じました。
 太宰治が『斜陽』で描いたものもおちぶれていく地主を描いた作品だと思います。

熊──ツンデレ未亡人

 さてチェーホフの「熊」に目を向けてみましょう。
 あらすじは「おまえの旦那に1200ルーブルの金を貸した。返してくれ」→「今はそんな気分にはなれない。明後日まで待って」→「気分とかそういう問題じゃねぇ! こっちは今、必要なんだ!」→「だから明日だって言ってるでしょ。こうなったら決闘よ!」
 ……「あるぇ? 拳銃の使い方わかんなぁい。ねえ、教えて」→「仕方ないなぁ。こうやるんだよ」(手と手が触れる。目と目が合う。ニヤニヤ)→で、めでたしめでたし。
 というバカっぽい一幕劇ですたww。
 この未亡人、エレーナはいい感じにツンデレ、ドジッ娘、良家という見事三拍子揃っているのですが、一つ問題があります。多分60から70。夫に先立たれてるってことは多分そのくらいでしょう。てっぱんでいい年をしたツンデレは醜いことが解ってから、エレーナはどうも田中初音のイメージが……^^;
 うーん、良家の娘で「お前の父親に……」なら萌えるんだけど、この設定じゃ萌えなかった。
 ちなみに文学で一番萌えたのは、バタイユ『目玉の話』に出てくるシモーヌ。あれは萌えたw

煙草の害について

 別に副流煙がどうこうとかいう問題じゃありません。
 この演劇で特筆するべき点は、一人芝居ということです。一人芝居と二人芝居とでは僕の経験から言って難しさはぐんと跳ね上がります。試しに戯曲メインで活動している創作友達に聞いてみても「一人芝居の脚本は難しい」との答えが帰ってきました。
 なんといっても状況を自然な形で語らせなければいけないのが僕にとって一番難しい。あまり今いる状況を説明させすぎるとつまらなくなるし、逆に自然な流れで行くと今度は読者をほったらかしになる。それでチェーホフが考えたのが講演のスタイルをとることでした。
 サルトルという哲学者は恭しき娼婦という一人芝居を書いています。あ、ごめん、哲学者じゃなくて新興宗教の教祖だね。
 ともあれ現代舞台芸術の流れの一つである一人芝居がここにあります。もっとも意味への挑戦というテーマを追究するためにはペケット、ハイナー・ミュラーなどの誕生を待たなければなりませんが……。

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