概要
シェイドの九九九行に渡る詩、『青白い炎』*1。ロシア文学者で、彼の隣人でもあるキンケードはその詩に膨大な注釈を付ける。しかし、その注釈は『青白い炎』から脱線し、いつの間にか個人的な話になり……。キンケードは詩『青白い炎』は自分のことを書いていると思い込んで、解説する。注釈そのものもストーリーになっている、ナボコフ*2の実験小説。
注釈と本文の逆転
本来なら注釈は内容の理解を助けるための補足ですよね。でもナボコフは『青白い炎』で注釈をメインにしているのです。田中康夫*3の『なんとなく、クリスタル』*4やニコルソン・ベイカーの『中二階』*5も注釈が半分以上を占めています。しかしこの二つは、記号としての注釈です。例えばニコルソン・ベイカーの『中二階』にはストローに対して注が付され、ストローの歴史が語られています。しかし本来の生活において、ストローの歴史はどうでもいいものです。そういった瑣末なものに注を付すことで、意味のハンラン(反乱/氾濫)を皮肉っているとも取れます。つまり『中二階』は物語の本筋に食い込むような逆転の仕方ではありません。
語り手の問題
しかし小説『青白い炎』の膨大な注は、詩『青白い炎』のストーリーに影響を与えてくるのです。キンケードは詩『青白い炎』は自分のことを書いていると主張しています。それ以後、この著名な隣人〔有沢注:シェイド〕の姿を見かけることがますます多くなった。わたしが窓の外の一つからの眺めはわたしにいつもすばらしい楽しみを与えてくれる。この後、延々と一ページに渡り、シェイドの描写が続くのですが、ここで注意して欲しいのは「前置き」はキンケードが書いたものだということ。つまり貧乏ゆすりも「スリッパが(中略)滑り落ちる」様子も全てキンケードが詳細に観察した結果に他なりません。しかも「風変わりな隣人との友情に免じて」という一文からは、シェイドと特別な関係を持っているとキンケードが思い込んでいる様子が示唆されているのです。
つまり、キンケードの人物像については偏執的なファンと言っていいでしょう*6。この注釈は<信頼できない語り手>*7のキンケードが思い込みで書かれています。この<語り>の問題は『カメラ・オブスクーラ』でも扱われています。
『カメラ・オブスクーラ』で主人公、クレッチマーは最後の場面で盲目になります。そこで愛人、マグダが目の代わりになるのですが、彼女にも本命の愛人がいて彼を呼び寄せます。もちろんクレッチマーには内緒で。つまり『カメラ・オブスクーラ』において、クレッチマーはマグダの<語る>ことを疑いながらも信じざるを得ないのです。
そして『青白い炎』においても、それは同じこと。読者は詩『青白い炎』の解説を、キンケードを通してしか知りようがありません
読むことへの皮肉
そして、これは小説を読むことそのものへのナボコフ流の皮肉とも受け取れます。僕たち読者はキンケードを無邪気に笑うことはできません。詩『青白い炎』とキンケードによるその注釈という構図は、そっくりそのままテクスト*8と読者の関係に当てはまります。つまり、テクストを読む際には多かれ少なかれ、キンケードのような読み方をしてしまっているのです*9。
そしてこれは文芸評論のパロディとも受けてれるのです。
1.先も指摘した研究者による思い込み。
2.注釈や索引という論文の形式を借りて、この小説『青白い炎』が執筆されていること。
3.フロイト主義への批判。具体的には「<赤ずきんと狼>のドイツ語版における赤いビロードの小さな防止は月経の象徴になっている」とエーリッヒ・フロムなどを引用した上で「自分たちの教えていることを本気で信じているのだろうか」と述べています。
フロイト自身も文芸評論を行なっていますが*10、そればかりではなく、創作分野でも影響を与えています。例えばブルトンの「シュルレアリズム宣言」*11やジェイムズ・ジョイスなど*12、精神分析は文学評論に影響を与えています。
4.架空の作家と実在の作家の混在
研究書のパロディは真実と虚構の境界を曖昧にします。補足しておくなら、この小説はプーシキン『オネーギン』を英訳した直後に書いているので、自分自身をパロディ化してると言えるのです*13。
虚構と実在をぼかす、という手法はポストモダン文学の典型的な手法です。例えばイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』*14が挙げられます。『見えない都市』では「東方見聞録」のパロディを取りながらも、あくまで虚構性を強調しています。
一方、小説『青白い炎』は徹底的にぼかそうとする姿勢が伺えます。
*1 ちなみに貴志祐介は『青い炎』というホラー小説を書いていて、有沢翔治は『白い焔』というホラーゲームを発表している。
*2 僕は『ロリータ』を初めて読んで以来、ずっとナボコフは遠ざかってきた。しかし重要なロシア文学の作家だと知り、『カメラ・オブスクーラ』(ウラジミール・ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』光文社)、『絶望』(ウラジミール・ナボコフ『絶望』光文社)などを借り始めたのである。
*3 なお僕は長野県知事としてのイメージが強い。
*4 田中康夫『なんとなく、クリスタル』(新潮社)
*5 ニコルソン・ベイカー『中二階』(白水社)
*6 僕はここでスティーブン・キング『ミザリー』を思い出した(スティーブン・キング『ミザリー』文藝春秋)
*7 ウェィン・ブース『フィクションの修辞学』(書肆風の薔薇)
*8 ここでいうテクストとは文学作品のみならず新聞記事、科学論文なども含んでいる。
*9 テリー・イーグルトンは、あらゆるテクストはイデオロギーに支配されていると述べている(テリー・イーグルトン『文学とは何か』岩波書店)
*10 ジークムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社)
*11 アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言/溶ける魚』(岩波書店)
*12 ジェイムズ・ジョイス『ダブリンの市民』(岩波書店)。なおマイミクさんから『フィネガンズ・ウェイク』をおすすめされているが未読である。それどころかジョイスも『ダブリンの市民』で挫折。
意識の流れでまともに読んでいるのは、『ダロウェイ夫人』(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』角川書店)である。ちなみにこれも大学の講義の課題図書だった。プルーストに至っては巻数を見ただけで読む気が失せている。ウィリアム・フォークナーなら読めそうな気がする。
*13 なお、太宰治は自分自身をパロディ化する天才である。
*14 イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(河出書房新社)