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有沢翔治の読書日記

 同人小説家、有沢翔治のブログ。  いいものを書くためにはいいものを、幅広く。

【こんな小説を書いてます】

二人であることの問い

 双子の姉、亜衣の様子がおかしい。何かあったのではないかと真衣から萌は相談を受ける。やがて亜衣の部屋からバタフライナイフを買った痕跡が見つかり……。亜衣は何を考えているのか?

日本

泡坂妻夫『喜劇悲喜劇』(東京創元社)

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喜劇悲奇劇 (創元推理文庫)

あらすじ

 売れない奇術師の楓七郎は、ショーのために旅客船に乗り込む。女子大生の助手、森真と一緒に。右近丸ではマジックショーを行なうのだが、出演者の一人が音信不通になったのだ。そして、代役としてマジックを披露してほしいという。
 出演者の一人には七郎の元妻、岡津唄子の姿もあった。今はドクター瀬川と結婚しているのだが、七郎は瀬川に嫉妬心を抱いていた。出航前夜に団員が殺されているが、オーナーは死体を隠してまで、船を出そうとする。
 しかし、それは連続殺人の幕開けだった。しかも被害者は回文の芸名を持つものばかり。Okatu Utakoと書くと、岡津唄子も立派に回分になることに気付くのだが……。
 章名全部を回分にした上に、「台風とうとう吹いた」というこれまた回分で始まる本格ミステリー! ぬいぐるみに運んでいた死体の入れ替わり、舞台上演中という衆人環視下の殺人……、本格推理小説好きには溜まらない一作。

作り手として

 まず作り手として、敬意を表します。これだけの趣向を凝らしながら、ストーリーとして面白いミステリを書くなんて泡坂妻夫さんの苦労は並大抵のことではないと思います。二文字の単語で揃えるだけでも僕は一苦労なのに。
 作者の泡坂妻夫さんだけではなく、解説者の新保博久さんも回文をところどころに織り交ぜています。いやぁ二人ともすごいですね。

本格推理小説として

 僕は本格ミステリから読書歴は始まるのですが、海外作家が主です。G・K・チェスタートンはブラウン神父シリーズの中で数々の心理トリックを生み出したのですが、『喜劇悲喜劇』は彼の短編を思い起こさせます。

手品と推理小説

 そもそも手品と推理小説は相性がいいんです。近年では『TRICK』、古くはクレイトン・ロースン『帽子から飛び出した死』*1、チェスタートン「グラス氏の失踪」*2など枚挙にいとまがありません*3。
 例えば『TRICK』の探偵役、山田奈緒子は本職が売れないマジシャンです。
 この理由は言うまでもなく、手品と本格推理小説のシュチエーションが似ているからです。つまり
(1)「種も仕掛けもありません」といった上で不可能なことが実際に観客の前で起こる。
(2)本格推理小説──特にジョン・ディクスン・カーなんかがそうなんですが──密室殺人などの不可能犯罪が実際に起こって、その謎を解く。
 この二つは明らかに似ています。

クローズドサークルかと思いきや

 警察が入ってしまったら(1)幾つかのトリックは成立しません。(2)また外部犯の可能性や、もうすでに逃亡してしまったという可能性も出てきます。
 本格推理小説ではこれは不都合。そこでクローズドサークルを考えだしたのです。よく嵐の孤島で、雪の山荘で、などという紋切り型の状況下で殺人事件が好まれるのは、上記二つの理由が挙げられます。
 『喜劇悲喜劇』は最初こそクローズドサークルかと思いきや、途中から警察の科学捜査が入ります。外部犯の問題は乗客名簿などから解決しますが、警察の介入を防ぐ方法が面白い。
 科学捜査と事情聴取の二つに分けられますが、科学捜査は日が経っていますし、台風で証拠品は洗い流されています。つまり、登場人物たちが警察へ協力しない、合理的な理由を考え出さなければいけないのですが、これは芥子之助の言葉を引用するのが手っ取り早いでしょう。
 穴熊てのが昔ながらのやり方でしてね、賭場が開かれている間中、あたしがその中にいて、親方に合図するんです。ほら、賽の目を動かしたり、札を誰かさんに合図したり……ね。
 もともと地下で賭博を行おうとしていました。つまり乗客全員が違法行為をしているので、警察に協力しないのです。
 さらには──泡坂妻夫がどこまで意識していたのか解りませんが──これには共犯関係という意識が生まれます。

オリエンタリズム

 さて、この殺人の動機は馬琴一座がアメリカ巡業のときに、洞窟で怪しげな宗教儀式が行なわれていることに端を発しています。騙されて、資金繰りに困っていた馬琴一座は、彼らを麻薬漬けにして殺害。教団から像を奪ったのです
 ここで僕は像の描写に注目しました。
 新二の話ですと三○センチもある黄金の像で、女神が像を組み敷いている彫刻だと言います。確かな推定はできませんが、インドのパーラ王朝期の密教の特徴が見られるそうです。
 調べてみると、このパーラ王朝は実在の王朝でしたが*4、そんなことは関係ありません。重要なのはインドの秘宝がアメリカに、そして日本に渡っているということです。
 話の流れだけを考えると、インドでなくともキリスト教の聖遺物でも単に宝石でもなんでも構いません。しかし、泡坂妻夫はインドの密教にしました。インドの神秘的な空気と、奇術の空気が符合したというのもあったでしょう。
 しかしどうしてアメリカで? それは、インドの秘宝が西洋で見つかるということに特別な意味があるのです。帝国主義国は美術品を紹介、保全の名目で強奪していました*5。この背景についてエドワード・E・サイードは『オリエンタリズム』の中で帝国主義と美術研究が一体になってしまったという考えを表しています*6。
 これで『喜劇悲喜劇』でもインドの秘宝がなぜアメリカへ流出したかが、帝国主義と結びつけて解釈できます。 大日本帝国はインドへは侵略しませんでしたが、当初の計画ではオランダ領東インドを編入する予定でした*7
 『喜劇悲喜劇』ではアメリカに渡った後、インドの黄金像が馬琴たちの手で再度、流出しています。



1 クレイトン・ロースン『帽子から飛び出した死』(早川書房)
*2 G・K・チェスタートン『グラス氏の失踪』(G・K・チェスタートン『ブラウン神父の知恵』東京創元社)
*3 wikipedia「奇術」参照
*4 Wikipedia「パーラ朝」参照。
*5 Wikipedia「文化財返還問題」参照。
*6 具体例として、ナポレオンがロゼッタストーンを略奪したことが挙げられている(エドワード・E・サイード『オリエンタリズム』平凡社)
*7 Wikipedia「大東亜共栄圏」参照。


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又吉直樹『火花』(文藝春秋)

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火花

はじめに

 僕は『TEN』という文芸同人誌に加入していて、そこで知り合った川上一翁さんから読書会を行ないたいという申し出がありました。昨日はその読書会でした。
 TENの合評会で毎回、作者コメントがあるのですが「特に言うことはありません」と言っています。作品内の世界と作品外の世界は別々のものだという信念を持っています*1
 それで何でこういう話をしたかといえば、この『火花』という小説はお笑い芸人のピース又吉さんが書いているのです。確かに読書会で話題に出たように、マーケティング戦略としては作者が有名人だと成功しやすいかもしれません。
 ただし、一つのテクストと見た場合、読みを固定してしまいかねません。それどころか作者のテクスト外の発言でミスリードをさせられてしまうかもしれません*2。

あらすじ

 やや前置きが長くなってしまいましたが、あらすじはこんな感じです。
 花火大会のイベントで出演者として知り合った徳永と神谷。二人は意気投合して、飲みに行く。神谷は徳永に「俺の伝記を書け」というが……。最後まで売れないまま解散していく、哀れな二人を描いた作品。

第一印象

 リアリズム小説で正直、文芸的には余り新しいことをしていないんですよね。失礼ながら正直、ピース又吉のネームバリューが大きいのではないかと思いました。

表現の問題

 また「大地を震わす和太鼓の律動」など表現が大袈裟で余り僕好みの小説とはいえませんでした。うーん、もっと素直な書き方があると思うんだけどなぁ。
 また、似たようなことですが、「僕はブレンド珈琲を注文し」という一文も余り受け付けない。もっと言えばここをあえて漢字表記にする必然性が感じられません。「武蔵野珈琲店」に合わせたのでしょうけど、固有名詞と地の文は別だと思うんですよね。
 ……といって文句を言っていても始まらないので、読んだ時に思ったことを幾つか。

地の文も大阪弁にしたらどうだろう

 サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』*3は全文口語体で、しかも若者言葉で書かれています*4。
 なのでいっそのことこの小説も大阪弁にしたら面白いんじゃないかな、と思いました。

舞台裏を

 この小説は言うまでもなく漫才コンビの話で、舞台しか僕たちは見れません。つまり本来であれば舞台に立っている徳永・神谷が主人公になるはずです。でも、それじゃ面白くないでしょ。
 それなら、舞台裏のみに焦点を絞って書いてみるのも一つの手ではと思いました。つまり舞台をあえて書かないんです*5。物語の前半・中盤部分まで舞台で演じている二人が書かれていないため、そういう企みの小説かとも思いました。しかし最後の最後で舞台が書かれているので、そういう企みの小説ではないんだな、と。
 だったら普通のリアリズム小説ではないかと思ったのですが……。

読書会を終えて

 現代の日本文学は余り読まないんですが、その面からは良かったのかなと。普段知らない作品を読むことは、創作の幅を広げると思ってますから。そう言った意味でこの小説に出会えたことは良かったのかな、と。
 往々にして、問題意識のあり方によって作品の価値ががらりと変わりますし。

メタフィクション

 さて徳永は神谷に「伝記を書け」と言っているのですが、読書会でも話題に出たように『火花』というテクストそのものが神谷の伝記になっているのです。これは小説の作中人物が──程度の差はあれ──作品そのものに言及するという点でメタフィクションです。
 太宰治の『人間失格』は、読まれることを過剰に意識した小説です。郡継夫は「『人間失格』論―大庭葉蔵の罰と罪―」*1において、下記のように分析しています。
 〔太宰は『人間失格』で〕主人公に「大庭葉蔵」という読者に馴染みの名をつけた。それで、大庭葉蔵は太宰治と重なって読者にうけとられることになる。そうした仕かけをした上で、『人間失格』に「はしがき」と「あとがき」をつけて、これを典型的な額縁小説とし、「手記」の書き手と作家太宰治とを二重に分離したのである。
 事実、太宰の俗天使などもこの「分離」を意識しているように僕には思えます。
 長々と太宰について語ってしまいましたが、『人間失格』は大庭葉蔵の手記──誰かに読んでもらうことを前提とした──を通して、「道化を演じている」*7のです。又吉直樹『火花』の<僕>また道化を演じているのではないでしょうか。もちろん二重の意味で。一つ目は作中人物の漫才師として、二つ目は物語の<語り手>として。
 もちろん又吉直樹や徳永がどこまで意識していたかは全く別の話です。読者の役割はテクストから読み取れることを最大限に解釈することなのですから。

*1 作者の言いたいことを述べよという設問が現代国語にある。しかし僕にとってはナンセンスな問いかけである。多くの小説世界において「作者」など存在しないのだから。
*2 例えばマンガしか読んだことのないと語る作家がいたとして、それは本当に信じていいのだろうか?
*3 サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(白水社)
*4 Wikipedia「ライ麦畑でつかまえて
*5 本来なら中心となるはずのものについてあえて書かないのは、現代文学ではよく用いられる。ジャン=フィリップ・トゥーサンの『カメラ』が典型的。この小説の主人公はカメラで闇雲にシャッターを切るが、現像に出すと映っていない。しかし映っていない事こそ主人公に取っては重要なのである。
*6 郡継夫「『人間失格』論―大庭葉蔵の罰と罪―』(『現代文学史研究』第1集)[on-line]
*7 太宰治「人間失格」の大庭葉蔵は戦略的に道化を演じている、と手気の中で語っている。


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我孫子武丸『殺戮にいたる病』(講談社)

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殺戮にいたる病 (講談社ノベルス)

あらすじ

 蒲生稔は次々と女の子を口説いてはラブホテルに連れ込み扼殺していった。その後、死姦していったが、どんどん手口はエスカレートしていった。乳房をえぐり、子宮を取り出しそれでセックスを行なう。
 そしてそれを追う老刑事と被害者の妹、かおる。ラスト一行でプロローグがガラリと変わる……。

サイコホラーの参考文献として

 サイコホラーとしては割と有名らしく、前々から興味があったんです。でも僕は叙述トリックとして先に『殺戮にいたる病』を知りました。
 我孫子武丸の作品については前に『0の殺人』を読んだことがあったのですが……。あれ、我孫子武丸ってこんなに文章が下手だったっけ、という印象を受けました。加えて人物造型も薄っぺらく、中途半端に生い立ちとか語られているせいで、余計にリアリティがありません。
 おまけに嬉々として精神異常者について論じ立てる竹田教授にも興ざめ。あんただろ精神異常者。
 どうせなら羊たちの沈黙のレクター博士みたいに、稔を徹底した怪物として描いて欲しかった……。

なぜ死に執着を持ったのか

 蒲生稔が反抗を繰り返す理由を見てみましょう。

過剰な死の隠蔽がもたらすもの

 竹田教授は現代人の過剰な死の隠蔽によってもたらされたものだと分析しています。もちろん作中で明示されている以上、我孫子武丸がそのように解釈してほしいという意図が伝わってきます。
 墓場に興味を持つ子供。虫を殺す子供。死を扱ったジョーク。およそ死に関するものに興味を抱かない子供はいない。(中略)しかし現在のように墓地は街中から消え去ってマンションとなり虫がいないから昆虫採集もできず、アパートではペットを買(原文ママ)うことも許されないという状況になると子供達は『死』というものから隔離される。一方マスメディアの中では『死』が溢れている。
 このように生々しい死、死そのものを好奇心の対象として見つめることは子供の発達にとって大きな役割を担うと我孫子武丸は考えているようです。
 これは我孫子武丸の空想ではありません。河合隼雄は『子どもと学校』*1の中で以下のカウンセリング事例を紹介しています。友達の玩具のピストルを盗んだと言う子供。母親が子供をつれて河合隼雄のもとにカウンセリングにきます。
 母親から話を聞いてみると、平和の心を学ばせるため、ピストルの玩具を買ってあげなかったというのです。河合隼雄は「「平和」を知るためには武器を使っての遊びが必要」*2だと結論を下しています。

セックスとは殺人の寓意である

 次に「セックスとは殺人の寓意である」という稔の独白を見てみましょう。
 この独白は『殺戮にいたる病』の中で重要です。
 今ようやく分かった。セックスとは殺人の寓意にすぎない。殺される性はすなわち殺される性であった。男は愛するがゆえに女の身体を愛撫し、舐め、噛み、時には乱暴に痛めつけ、そして内蔵深くにおのれの槍を突き立てる──。
 これはどういうことでしょうか。例えばセックスで快楽に歪む顔と首を絞めて苦痛に歪む顔、どちらも写真などの一コマだけ見ると同じに見えます。そして普段見せない「顔」を見ると我々は興奮するといいます。そしてバタイユの『エロティシズム』*3によれば、エロスとは聖なる存在を犯すことで自分が聖なる存在になった錯覚になるといいます。
 聖なる存在を犯し、自分が聖なる存在になった錯覚になるというのはどういうことでしょうか。それ聖なるものは絶対に超えられないはずです。だからこそ聖なるものとして崇めているわけですから。しかし犯して、壊すということはそれを超えているような錯覚になるのです。でももとが聖なるものである以上は絶対に越えられないのです。

バタイユに触れて

 バタイユの論をもう少し追っていくことにしましょう。

性の二面性

 『殺戮にいたる病』の流れで行くと、「女は下等な生物だから」と江藤佐智子を見下しつつも結果的に愛しています。もし心底から女性を下等な生物だと思っていたら、この後、セックスはしないでしょう。たとえば虫を殺して、寂しいとは思いませんよね
 つまり稔は下等な生物だと思いながらも、その実、神秘性を抱いていたのです*4。そしてその根源、最初の経験は言うまでもなく母親です。ラストで稔は死んだ実母を犯しているのですが、フロイトを持ち出すまでもなく息子にとって最初の女性は母親です。稔は乳房を切り取りますが、乳房は女性の象徴以前に母親の象徴だから切り取って持ち帰ったのでしょう。

エディプス・コンプレックス

 なお我孫子武丸はフロイトをあからさまに意識しているくだりが見受けられます。
 性について無知だったころから、稔は母の裸を盗み見るたび下腹部が高まるのを覚えていた。(中略)そしてその〔六歳くらいの〕時から母と一緒に風呂に入るのを禁じられた。
 そして彼は父親の死を願うようになります。この一文では母親との入浴を禁じられていますが、入浴父親は掟を与え、行動を規制する存在として描かれています*5。そして父親と同様、法律もまた行動を規制します。
 殺人をしてはいけないという倫理観は刑法で規定されているからにすぎない、と僕は思っています。そしてこの<父親>への挑戦だとも受け取れるのです。

*1 河合隼雄『子どもと学校』(岩波書店)
*2 上掲書
*3 ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(筑摩書房)
*4 上掲書。
*5 wikipedia「エディプス・コンプレックス


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小林秀雄『モオツァルト』(角川書店)

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モオツァルト (角川文庫)

概要

 文芸評論家として有名な小林秀雄。彼はまた音楽愛好家でもあった。
 この文庫ではモーツァルトの手紙についてのエッセイを中心に、小林秀雄が音楽について考察した文章を載せている。表題こそ「モオツァルト」となっているもののモーツァルトだけでなく、ワーグナーとニーチェ、ベートーヴェンとゲーテ、古典主義と近代精神などが論じられています。

小林秀雄の文章

 現代における文芸評論を確立した小林秀雄ですが、僕は文章が余り好きにはなれません。なんかキザったらしい文章なんですよね。 
 たとえば「明確な形もなく意味もない音の組合せの上に建てられた音楽という建築」とか評論家というより比喩という点で詩的*1なんです。もっともこれは小林秀雄が小説家を目指していたせいもあるかもしれません。「おふえりあ遺文」*2では小林秀雄が小説家を目指していたと窺い知ることができます。
 それに何か論理的じゃないんですよね*3。論理構造というか話の流れが不明瞭。だから僕としては、こと『モオツァルト』に関しては、専門外だということもあって余り頭に入ってません。
 例えば「もう二十年も昔のことを、どういう風に思い出したらよいのか解らないのであるが、僕の乱脈な放埒時代のある冬の夜、大阪の道頓堀川をうろついていた時、突然、このト長調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」という文章は本筋とは関係ありません。以降しばらく本筋とは関係ない小林の思い出が入ってくるのです。このようにモーツァルトそのものというよりも、モーツァルトの周りをぐるぐる回っている印象しかありませんでした。
 でも、これも一つの感想なので、記録として残しておくことにします。

評論の方法

 小林秀雄はモーツァルトやワーグナーなどの下記のようなスタンスを音楽家に対して取っています。ウィゼワのスタンスを引き継いで、「音楽家の正体をつかむためには、なににおいてもまず耳を信ずることであって、その伝記的事実のごときは、邪魔にこそなれ、助けにはならぬ」と。
 僕も基本的にはウィゼワ=小林の読み方に賛成します。作品はそれ自体として独立したものであるべきだという信念を、僕は持っているのです*4。しかしこの後、小林は父親宛への手紙を引用しています。「作曲のどんな種類でもどんな様式でも考えられるし、まねできる」。もし小林秀雄がウィゼワの読解を踏襲するなら、ここで手紙など引用せずに、その頃作った音楽から小林が感じたものを率直に書いた方がいい。

現代批判

 小林秀雄はモーツァルトを「音楽家中の最大のリアリストと呼びたい」と言っています。しかし、近代の文学史におけるリアリズム小説とは全く違う文脈で使っています。むしろエミール・ゾラから始まるリアリズム小説に対しては懐疑的だと言えましょう。
 近代のいわゆるリアリスト小説家たちが、人生から文学のうちに、どれだけの人間を本当に救助しえたであろうか。彼らの自負する人間観察技術が果たして人間の着物を脱がせることに成功したか。この技術は、むしろそれに似合わしい新しい衣装を、人間のために案出してやることに終わらなかったか
 素直な心、裸の心を覆い隠すものの例えとして衣装という比喩を用いているのですが、こと心理学用語・精神医学用語は自分を覆い隠すのです。
 例えば自己分析をするときにトラウマやコンプレックスなどというと、何だかもうそれで解決したような気になってしまいます。しかし現実は何一つとして解決していないのです。小林秀雄のいう「新しい衣装」というのは、まさにこういった言い訳の道具としての言葉です。
 現に、解説では「人間解放にともなって到来した精神の危機」*5であるという一文があります。現にポール・ヴァレリイを引いてますし。
 ちなみに僕は文学が他人を救うなんて考えていません。自分は救えるかもしれませんが、他人を救えるかどうかなんて解りません。僕はそもそも他人の心なんてあるのかないのかも解らないという考えです。あったとしてそれは直に証明はできませんよね。もしかしたら無意識のうちに演じているのかもしれませんし*7。

小林秀雄のいうリアリズム

 小林秀雄のいうリアリティとは一体何なのでしょうか。それは肉声です。言葉はそれを覆い隠す手段して用いられているのです。
 何だか現代思想*6を思わせますが、恐らくは玉音放送が念頭があったのではないでしょうか?

*1 詩に対する一つの考えとして異化作用がある。これは比喩で結びついた意外な二つの文章である( wikipedia「異化」)
*2 小林秀雄「おふえりあ遺文」(小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』新潮社)
*3 クリプキとかウィトゲンシュタインとかの方がずっと読みやすいのは論理構造がはっきりしてるからだと思う。
*4 ベートーベンの音楽は難聴とは関係なしに語られるべきであるし、芥川龍之介の小説は精神分裂病と関係なく語られるべきである。たとえそれが『河童』と言った精神分裂病と結び付けられやすい作品でも、である(後藤聡子「文学にみる障害者像 芥川龍之介著『河童』」障害保健福祉情報システム『ノーマライゼーション 障害者の福祉』2007年1月号」をも参照)
*5 吉田凞生「解説」(小林秀雄『モオツァルト』角川書店)
*6 特に声と言葉についてはジャック・デリダを連想した。全く関係ないが。
*7 別に演じているというのは僕に対してだけでない。その人自身に対して演じているのかもしれない。



東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(角川書店)

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ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫)

あらすじ

 悪事を働いた三人が逃げ込んだのは、潰れた一軒の雑貨店。そのナミヤ雑貨店の店主は悩み事の相談にも乗っていて、牛乳箱には相談の手紙が多く寄せられていた。そして今も手紙が届いている。
 行きがかり上、三人は手紙に返信を書くのだが、どうも過去から手紙が届いているようだと気が付く。しかも三十年前から。
 五つの物語が収録されているのですが、それぞれの人間関係が微妙に絡み合い……。

人情というよりも

 確かに人情話なのですが、僕がそれ以上に興味を持ったのは文学的な技法です。オムニバス形式の短篇集で、それぞれ一見するとある短編が別の短編に影響を与えるという技法が用いられています。例えばミュージシャンを志す若者がなかなか芽が出ないので魚屋でも継ごうかと相談する「夜更けにハーモニカを」。彼は慰安演奏に行くのですが、その児童養護施設で育った子供が悩み相談を出している、とうい風に。
 もっともこの技法そのものはさほど新しいものではありません*1。児童養護施設を中心に、時間も場所も超えた展開する物という物語もバルガス=リョサ『緑の家』*2で試みられています。
 ここで僕は純文学と大衆文学、エンタメ小説の違いについて考えてみました。純文学の多くは技法の探求であるのに対し、大衆小説は普及の場であるように感じました*3。
 例えば、エドガー・アラン・ポーはゴシック小説と数学的な美を融合させて探偵小説という新しい分野を開拓しました。コナン・ドイルは目新しいことは余りしていませんが、彼がいなかったら探偵小説というジャンルはここまで普及していなかったでしょう。
 もっとも安部公房や筒井康隆のように一人が純文学も大衆小説も書く作家はいますが。

悩み相談

 まず言っておきます。僕は精神分析の読みが大好きです。何でここで表明したかというと、どうしても読みが偏ってしまうからなんですね。そして読みの偏りをあらかじめ宣言しておいて、できるだけこのブログの読者には公平な判断ができるようにしようというものです。

「夜更けにハーモニカを」──エディプス・コンプレックス

 この物語の主人公「魚屋アーティスト」こと克郎は父親に内緒で学校を退学し、音楽の道を志すフリーターです。そして評論家からは「でも、残念ながらその〔上手い素人の〕レベルです。既存の曲をイメージさせる。つまり新味がない」と辛辣に言われ、バイト先のマスターからは「〔祖母の葬儀を機に〕御両親とゆっくり話し合ってくるといい。これからのこととかさ」と言われます。
 実の父親である健夫には
 大学をやめたのなら、さっさと帰って実家を継げ、と両親はいうのだった。克郎は首を立てには振らなかった。そんなことをしたら一生後悔する、志を果たすまでは東京にいるといって譲らなかった
とあるように反発しています。
 しかし評論家たちに反発することもなく、唯々諾々と帰省してしまうのです。帰省した途端、健夫にどうして帰ってきたのかと聞かれます。なにか残してから帰ってこい、とも。
 以上があらすじなのですが、ここで三人の〈父親〉*4が登場します。一人目は言うまでもなく健夫、二人目は評論家、三人目はマスターです。フロイトらによれば悩みは〈父親〉の禁止と欲望で起こるとされています。そして何らかの形で父親を克服しなければ、悩みは解決されないと。
 今回のケースで言えば音楽を手に入れたい欲望は評論家という権威(つまり〈父親〉)によって「禁止」されます。しかしそれに反発しなければ、望むものは手に入りません。この時生まれる葛藤をエディプス・コンプレックスと名づけました*5。
 また地の文では健夫、ではなく「父親」と書いてあります。固有名詞よりも「父親」という役割を重視して書いていることが窺えます。
 それと「親父」という単語から回想に入っていきますが、これはフロイトの自由連想法と似ています。自由連想法とはフロイトが患者を治療する際に用いた方法で、言葉の断片から連想されるイメージを自由に語ってもらいます。そして患者の心の動きを推測しようというものです。
 補足しておくと、ビートルズを聞いて昔に浸る「ビートルズで黙祷を」でも同じことが言えると思います。

「シビックで朝まで」──阿闍世コンプレックス

 「シビックで朝まで」は妻子持ちの子供を妊娠してしまった、という悩みですが、後にその子供から手紙が届きます。
 友人の前で、私は母に対する怒りを口にしました。なぜ産んだんだろう。産まなければよかったのに。そうすれば苦労することもなかった。無理心中だってやらずにすんだ。
 とあるように、一時は出自にまつわる秘密を知ってしまい、母親を呪ったが、今は感謝しているとのことでした。
 日本の精神分析医、小此木啓吾はフロイトのエディプス・コンプレックスに対し、阿闍世コンプレックスを提唱しました。エディプス・コンプレックスが男子が〈父親〉に対して抱く葛藤であるのに対し、阿闍世コンプレックスは娘が母親に対して抱く葛藤だと言われています。「母親は子供の出生に対して恐怖を持ち、子供はそれに対する怨みを持つとされ」*6るのが特徴。小此木啓吾の阿闍世コンプレックスに僕はあまり詳しくありませんが、そういう印象を持ちました。

手紙は必ず宛先に届く

 さて『ナミヤ雑貨店の奇蹟』でキーアイテムとなるのは手紙です。ジャック・ラカンは『エクリ』の中で「手紙は必ず宛先に届く」と述べています。これは本当の手紙ではなく、相手に宛てたメッセージでも実は書いている/しゃべっているうちに考えがまとまり、悩みは解決していくという意味です*7。
 始めはモヤモヤとしていた気持ちが、だんだんと日記を書いていたり、誰かと話しているうちに考えがまとまるという経験は誰でもあると思います。精神分析の場はたぶんこういう場なのでしょう。
 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』でも手紙を書いているうちに、相談者の考えが変わっていく様子が窺えます。
 例えば「夜更けにハーモニカを」で克郎は「考えてみれば、夢を追うことに意地になっていたような気がします」「自分がどうするべきかは、とっくの昔にわかっていたのだと思います」などと心境が手紙を書いているうちに変化していきます。

読む姿勢

 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』は手紙を読んで、相談者の心中を本気で推察するという内容です。そしてこれは僕たちが小説を読むときの理想の姿勢とは言えないでしょうか。つまり一つのテクスト(作品)について本気で考える浪屋は理想の読者像だと言えましょう。
 それに対しいい加減な読者は「黙祷はビートルズで」で挙げられている浩介。彼は父の事業が傾き、一家離散の憂き目に合います。そんなときにビートルズの解散を扱ったドキュメンタリー映画を見て、演奏に熱意の欠片もないように感じます。
 しかし、大人になって同じ映像がバーで流れた時、また違った印象を抱くのです。これは浩介の心理状態によるものだと作中で仄めかされていますし、そうだということは読書経験からも解ります。
 言葉を受け取るということは本来、中立の立場で聞くことが難しい。そしてその方法の試みとして浪屋を出したと解釈できるのです

*1 ジェイムズ・ジョイス『ダブリンの市民』(岩波書店)
*2 バルガス=リョサ『緑の家』(岩波書店)
*3 ポール・オースター『シティ・オヴ・グラス』(新潮社)など
*4 フロイト心理学の用語。権威で対象者の行動を規制を与える人物である。肉親にかぎらず、上司、先輩などが挙げられる。
*5 フロイト『世界の名著〈47〉精神分析入門』(中央公論社)
*6 Wikipedia「阿闍世コンプレックス」参照。
*7 なおラカンは難渋な比喩を多用する。僕の解釈は斎藤環およびスラヴォイ・ジジェクを元にしている。


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今邑彩『双頭の蛇』(角川書店)

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双頭の蛇 (角川ホラー文庫) 本当に感想文を書くのは久しぶりですね。同人活動が忙しくすっかりご無沙汰しておりました。決してプルーストとかに挑戦してたわけではございません。

あらすじ

 興信所の伊達が信州の日ノ本村で失踪した。村長の車で長野駅まで送り届けたというが、底なし沼付近で彼のライターが見つかる。
 一方で議員の息子、武の身体が喧嘩の末に入院することとなった。母親は蛇の鱗のようなアザを見つける。日ノ本村ではこの「お印」が現れると神格化されている。しかしもう一人、この「お印」が現れた女性がいた。武の従姉である。
 そして日ノ本村ではこのお印にまつわる七年に一度の祭りが始まろうとしていた。この祭りと伊達との関係は?

素朴な感想

 まずは素朴な感想から。ホラー文庫という割に全く怖くありませんでした。確かに村人の狂気などは怖かったのですが……。うーん。もし今邑さんがこの作品をホラーとして書かれたのなら、余り評価しません。
 推理小説として書かれた場合*1、ある程度は評価するのですが、こちらも分量の割に何かが足らないような気がします。確かに面白かったからこそ、何が足らないんだろう、と考えてしまうんですよね。

シリーズ物らしいですが

 僕は、ついつい前作の内容を読まないと訳が分からない小説を書いてしまいます。こういった『前提条件』がないと解らない小説は不親切だと感じます。最近は見直す際にその「不親切さ」をチェックするようにしていますが……。たまたま手にした作品がシリーズ第二作目だとしたら、読者は消化不良に陥ってしまうからです。
 『双頭の蛇』は『翼ある蛇』『邪神』などと同様のシリーズですが、これらを読まなくても内容が分かるようになっています。
 先ほど上げた前提条件は何もシリーズ内に限った話ではありません。科学的知識がないと理解できないSF小説や歴史的知識がないと全く解らない小説。これもまた「不親切」だと言えると思います。要するに作品はそれ自体で独立した一つの物語でないと「不親切」なんです。

もう一つの「不親切さ」

 この『双頭の蛇』は古事記、とくに大和武尊のエピソードを下敷きにしていますが、ホームページの原稿という形で挿入されてます。
 「太母神の神殿」という〔有沢注:ホームページの〕タイトルも、(中略)全体の構成も以前と変わっていないようだったが、コラムのコーナーに、新しい項目が増えたことを示す「new」というマークが付いていた。
 時計を見ると、もう午前一時をすぎていた。少し迷ったが、それほど長いようでもなかったので、蛍子はそれを読んでみることにした。
 このように古事記のエピソードが挿入されます。どの程度語るかは本当に個人の好みの問題ですが、僕はやや過剰な印象を受けました。
 僕は大学の講義場面で「語って」しまうのですが、こういう方法もあるんだと勉強になりました。

登場が唐突な場面も

 さて、『双頭の蛇』は何の前触れもなく重要な人物が登場している箇所があり少し困惑してしまいます。
 〔有沢注:娘の〕日美香の寝顔は、聖二の心の奥底に今なお棲み続けているもう一人の女の声を呼び覚ましていた。(中略)
 実母、緋佐子の……。
 この緋佐子はここで初登場するんですね。「二歳の頃に別れた」エピソードも。そしてこのエピソードが物語にとって重要なものとなってくるのです。あくまでも失踪したという形をとっていますが、この村には人身御供の習慣が残っており、その秘密を守るために伊達は殺されたという結末を考えれば、緋佐子は人身御供として蛇の口に投げ込まれたのではないかと推察できます。
 従ってこれは聖二の性格形成を知るエピソード以上の意味を持ってるのです。

マジックリアリズム

 さて、『双頭の蛇』から僕が読み取ったことは、純文学とエンターテイメント小説の融合です。具体的に言うなら、南米を中心に発展していったマジックリアリズムとミステリ小説です。
 マジックリアリズムは神話を信じる人を登場させ、西欧中心主義への批判をしようという試み*3です。『双頭の蛇』でも日ノ本村の住人は神話を本気で信じています。そこがマジックリアリズムとの類似点だと言えます。具体的にはカルペンティエールの『失われた足跡』*4を思い起こしました。
 『失われた足跡』は、幻の楽器を求めて入ったジャングルの村民が魔術を現実のものとして信仰しているという筋です。『双頭の蛇』もまた、行方不明者を求めて入った村が魔術を進行するという筋書きです。
 しかし『双頭の蛇』は行方不明者、しかも探偵という点で違っています。探偵は真実を明らかにする役割を果たしており、彼を追うことは間接的に真実を追うこととなっているのです。これは象徴的な話に留まらず、物語の展開上でもそうなっています。

近代/前近代

 『双頭の蛇』ではインターネットやフロッピーディスクといった近代的なツールが出てきます。これは単に物語の構成上は精々、蛍子のキャラクターを物語るツールに過ぎません。しかし神話の世界、日ノ本村を際立たせている小道具として登場しています。
 というのも近代的な道具と神話の世界を並べることで、より神話の世界が際立ったものとなるからです。そして最初のコントラストが、ホームページのアクセスなのではないでしょうか。
 また古文書の冒頭には、「天と地を支配する二匹の双頭の蛇が現れ、これが交わるとき、大いなる螺旋の力が起こり」〔強調は有沢による〕とあるのですが、この螺旋とはDNAを象徴しているのでは、という解釈もできます。話です。河合隼雄によれば、社会を形成する上で欠かせない要素が神話です。話そのものは残らなくても、神話は何らかの形で受け継がれていくものです。
 これは少しずつ変化をしながら受け継がれていくDNAと似ています。また武と日美香は子供を残すことが示唆されているのですが、これも子孫=DNAを残すという意味にも取れます。
  
*1 今邑彩のデビュー作は『卍の殺人』(今邑彩『卍の殺人』東京創元社)である。これは鮎川哲也賞であり、本格推理小説の新人賞である。
*2 かと言って小松左京の日本沈没(小松左京『日本沈没(全二巻)』光文社)や司馬遼太郎(司馬遼太郎『豊臣家の人々』中央公論)のように過剰な情報提供も僕はあまり好きではない。
*3 寺尾隆吉『魔術的リアリズム』(水声社)
*4 カルペンティエール『失われた足跡』(岩波書店)


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宇治谷孟[現代語訳]『日本書紀』(講談社)

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日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)

概要

 『古事記』と並ぶ日本神話……。なのですが、『古事記』は天照、伊邪那岐、伊邪那美などの神々の世界がメインです。一方の『日本書記』は、大化の改新に至る経緯、聖徳太子の政策などが細かく記されていて、どちらかというと人間の世界がメインでした。というか現代語訳のみ読んで書き下し文は読まないつもりだったのに、全部現代語訳だったよ!
 特に本文庫の下巻に入って以降は、人間の世界しか描かれていません。僕は日本神話を参考に何か幻想的な話を書こうと思っていたのですが、その点で言ったら下巻はあまり参考になりませんでした^^;

具体的な違い

 『古事記』は大和政権の民に、天皇の正統性を根拠付けるものでした。一方、日本書紀の原典は漢文体*1であり、中国の体裁を取って書かれています*2。つまり中国に向けて書かれていたと推察できるのです。
 日本国のアイデンティティ確立のためであり、日本国の正当性を中国に示す狙いがあったのです。現にこの頃、白村江の戦いなど、唐や新羅と戦っています。そのためか当時の列強国として認められる必要がありました。当時の列強国の条件は自国の歴史書を漢文で残していることだったのです。

天地開闢

 さて天地開闢の物語はギリシャ神話に似ています。
 昔、天と地がまだ分かれず、陰陽の別もまだ生じかったとき、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった。
 例えば水に砂粒を混ぜると、やがて砂は大地に水は蒸発し、天に登っていきます。もちろん水の蒸発のメカニズムなんて古代人は知るはずもないのですが、想像することはできます。つまり、龜に泥水を入れておけば泥だけが残ります。開いているのは上だけ。ということは水が天にのぼったと考えても不思議ではないでしょう。
 ということは龜に入った泥水の観察から「澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞っ」たという発想に至っても不思議ではないのです*3
 さて、僕がこの描写で思い浮かんだのは、ギリシャ神話です。ギリシャ神話も混沌とした状態から神々が生まれます。また経験科学*4や古典科学*5の観察以外では中国の道教を思い起こさせます。
 正反対の印象があるのは、旧約聖書創世記です。あれはユダヤの神、エホバが一から世界を作ったことになってるので。

男性社会?

 よく言われることですが、蛭子が不具の子として生まれた理由は「女性が先にことばをかけたから」だと天つ神は教えます。古事記にはこのような記述はなく、ただ不具の子が生まれたとだけ記されているのです。これは男性による統治だということをアピールする狙いがあったと言われています。
 また、複数の文献を参考にしていることも『古事記』との違いです。これは中国の形式をそのまま踏襲したと言われています*6。
 その一方で素戔男尊は「常に荒々しい」と書いている割に、「泣きわめくことがあった」た述べています。現に「私は母について根の国に行きたいと思ってただ泣くのです」と述べています。つまり、男性社会のイメージは素戔男尊に限って言えば保たれていないのです。素戔男尊が完全な脇役なら気にしませんが、天照大御神の引きこもり八岐之大蛇などで重要な役割を担うのです。
 この八岐之大蛇ですが、当時の敵対政権だったと僕は考えています。つまり大和政権に楯突いた部族をヘビに例えたのです。八岐之大蛇のくだりに当時の価値観をにじませる記述がありました。
素戔男尊が言われるのに「もしそうなら、あなたは私に娘をくれないか」と。「仰せ通りに差上げます」という。
 言うまでもなく、男尊女卑であり女性の意志など全く無関係です。そして興味深いのは、レヴィ=ストロースによると、結婚とは部族同士の一般「交換」であるというのです*7。つまり、彼によると結婚は部族間同士で資源のみならず、あらゆるものを交換できるシステム──それが結婚の原形だったと指摘しているのです。
 これを素戔男尊と奇稲田姫の関係に当てはめてみますと、脚摩乳は大和政権に奇稲田姫を差し出すことで、同盟関係──事実上は臣従になったと考えられます*8。

人の世

 さて下巻以降は人間界の話になりますが、僕にはあまり面白くありませんでした。なんか映えないんですよね。どうせなら構成を入れ替えて、人間界を先に描いて、神々の世界を描くとか、もしくはバルガス=リョサのように交互に描くとかの手法を試したら面白かったんじゃないのかな。
 そんなことは勅命なのでできませんけど!

反正天皇

 『古事記』では反正天皇の権謀術数が描かれてて、僕は好きなんですけど、『日本書紀』ではカットされてました。策略を巡らせて敵を撃つなんて、卑怯だと判断したのでしょうか。事実確認ができなかったのでしょうか。
 どちらにせよ反正天皇が好きな僕にとっては寂しかったです(笑)この天皇はこういう政策を行ない、この時の事件としてこういうことがありました、という事実の羅列でした。全体の印象として当時の全国紙を読んでいるような感じでした。ちなみに風土記は地方紙ですね。

大化の改新

 さて、『古事記』と『日本書紀』の大きな違いは大化の改新が描かれているかどうかです。『古事記』では推古天皇で終わっているのですが、『日本書紀』ではさらに大化の改新まで描かれています。
 仏教を導入するか、神道のままで行くのか、中大兄皇子・中臣鎌足と蘇我入鹿が対立するこの事件。結局、中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺するのですが、顛末が(もちろん天皇の都合がいいように編集され)描かれているのです。
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫) もちろん十七条憲法の憲法の全文、冠位十二階も載っています。このことによって地方豪族から天皇中心の中央集権国家になるのです。中臣鎌足はその後、天皇から藤原姓をもらうのですが、その子孫が藤原道長。つまり皮肉にも中央集権化を図ろうとしたにもかかわらず、その孫が摂関政治を始めてしまうのです。

*1 宇治谷孟「まえがき」(宇治谷孟『日本書紀(上)』講談社)
*2 石井進、笠原一男 [他]『詳説日本史』(山川出版社)
*3 なお、これは科学的知見として不備がある。下から染み出したかもしれないからだ。もちろん、下から染み出していないことは方法は当時の技術で確認できる。水の入った龜を空中に吊るしておいて、真下の地面が濡れていなければ水が垂れていないといえる。
*4 経験科学とは「経験に基づく科学」である。もちろんあらゆる科学は突き詰めれば経験の積み重ねであるが、ここでは数式などの概念操作によらない科学を指す。例えば東洋医学などは経験科学である。
*5 経験科学と似ているが、古典科学は時代的な区分である。一方、経験科学とはそのアプローチの仕方を問題としている。
*6 河合隼雄『神話と日本人の心』(岩波書店)
*7 クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造親族の基本構造』(青弓社)
*8 この奇稲田姫に限った話ではなく、『日本書紀』の随所に「正面衝突を避ける」構図が出てくる(河合隼雄『日本神話と心の構造』岩波書店)



武田祐吉[訳注]中村啓信[補訂]『古事記』(角川書店)

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新訂古事記―付 現代語訳 (1977年) (角川文庫)

概要

 いまさら言わなくても解るんじゃない? と思うほどメジャーな著作。ええ、日本書紀と並ぶ日本神話の原典です。
 でも内容はどれだけの人が知ってるか、と聞かれると、恐らくある年代より上は非常に多く、僕たちの年代は名前だけ日本史で習っても内容までは知らない人がほとんどなのでは? 前々から興味はありましたが、日本神話を題材にしたアクションRPGのシナリオを今、頼まれていまして資料として読みました。
 あと日本風のマジックリアリズムを書きたいな、と思ってたのもあります。もう一つは日本に限らず神話の世界って発想力が豊かなので、創作のヒントになればと思いました。いくつか気になったことを書きます。

成立背景

 第40代天皇の天武天皇のころ、天皇家についての記録が不統一になってきました。これでは指示が上手く伝わらないと考えて、正式な記録を作ろうと考えたのです。日本書紀は対外、特に中国向けに天皇の正統性をアピールする狙いがありました。
 また風土記を編纂させ、各地の状況を正式な文書で伝えさせました。正式な、という意味は漢文で書いたという意味です。また各部署の詳細なデータを社長に伝えたのです。しかも英語で。
 例えて言うなら、会社が統廃合を繰り返した結果、部署によって会社の設立理念と沿革が微妙に食い違ってきたようなものだと思います。
 これだとそもそもの根幹が違ってきてしまいますので、社内コミュニケーションが上手くいくはずがありません。
 諸家のもたる帝紀と本辞と既に誠実に違ひ、多くの虚偽を加ふといへり。いまの時に当たりてその失を改めずはいまだに幾年を経ずして、その旨滅びなむとす。
 (武田訳:諸家で持ち伝えている帝紀と本辞とが、すでに真実と違い、偽りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかったらその趣旨がなくなってしまうだろう)
 だから正式な文書を調べて、公式の記録を作ったのです。素朴な神話、伝承の類ではなく、国内向けの政治的な意図があったのです。
 第43代天皇、元明天皇の頃にようやく公式の記録が書かれます。元明天皇がいかに素晴らしいか夏の禹王や殷の湯王などとも比較して述べられていますが、これは大人の事情と受け取りました。
 元明天皇が強いリーダーシップを発揮しなければ、風土記、そして古事記などの公文書は作れません。

エピソード

 さていくつか気になったエピソードをご紹介いたします。

国産み

 何と言っても日本神話のハイライトの一つ。最初からクライマックスです。国産みの神話はエロいです。伊邪那美(イザナミ)伊邪那岐(イザナギ)*1が「私にはくぼんだところがあります」「私には出っ張ったところがあります。入れてみて国を作りませんか?」という書かれています。
 人類最初(というか神様)があんなことやこんなことをして、作られたのです。ちなみに最初に生まれたのが水蛭子(ヒルコ)でしたが、これは不具の子だったため葦の舟に乗せられて流されてしまいました。
 伊邪那岐の命伊邪那岐の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂へる国を修理め固め成せ」と、天の沼矛賜ひて言依さしたまひき。かれ二柱の神(中略)塩ころをころをに画き慣して……。
とあるように「りっぱな矛」を神様からもらって、その矛で「下の世界をかき回され」「矛から海水が滴る」場面があるのですが、これは性行為を象徴してるような気がしませんか?*2
 この時の塩から淡路島ができるのですが、これも子供の数には入れません。河合隼雄は商人の神恵比寿と同一視されていることに注目し、この水蛭子に焦点を当てて分析をしています。つまりかつては士農工商の最下層だった商人(水蛭子)が一回流されたことでいずれは復権するという論理です*3

黄泉の国

 さて、伊邪那美は火の神、火之迦具土(ホノカグツチ)を産んだ後、あそこが焼けただれて死にます。
 そして、伊邪那岐は伊邪那美を取り戻そうと黄泉の国まで行くのですが、この手の話は神話の世界ではおなじみです。例えばギリシャ神話のオルフェウス、ギルガメッシュ叙事詩として知られるバビロニア神話のイシュタルなんかも黄泉の国を探検します*4。恐らく土葬文化と関わっているんでしょう
 それよりも興味深かったのは、「桃の子三つとりて持ち撃ちひたましかば」とあるように伊邪那岐は桃という小道具を使って黄泉の国から逃げます。そしてこの桃が退魔の役割を果たすのは中国から来ているのではないでしょうか?
 というのも中国では「桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなる」*5桃を神聖な果物、仙人の食べ物なんです。この頃は既に仏教も中国を通じて伝わっていたので、その影響があるかもしれません*6。実際、百済や新羅の話など朝鮮半島が渡来してきた、などの話が収録されています。また文字について書かれているのですが、これは明らかに中国を意識しています。

神武天皇

 さて、『古事記』に出てくる最初の天皇は神武天皇ですが、この神武天皇はフィクションである可能性が極めて高いようです。もっとも僕にとってみれば、素材が面白ければフィクションか実在かなんてどうでもいいんですが。
 神武天皇は八岐之大蛇の伝説として知られます。東方にいた大蛇を退治したという伝説ですが、これもは大和政権に敵対する部族を制圧・平定していく物語を化け物退治として合理化したものです。ついでにいえば土蜘蛛なんかも。
 ここで初めて人間の天皇が登場します。建国神話ではありがちなのですが、神武天皇も英雄として描かれています*7。

だまし討

 結構、古事記だとだまし討をしてるんです。僕は権謀術数が好きなので、割と楽しかったです。例えば第18代反正天皇は、弟に「これやるからちょっと殺してこい」と兄を殺させます。そして酒宴に招き、酒を飲んでるところを後ろから襲います。
 源頼光が酒に酔わせて酒天童子を撃ちますが、その原型かもしれませんね。


*1 伊邪那岐の読みについては本居宣長が日本古語に濁点がなかったので「いざなき」だとと指摘している。しこれはあくまでも文字の問題である。実際、発音体系がどうなっていたかまでは少なくとも本居宣長の主張では言い切れない。
*2 実にフロイト先生に毒されてるなぁ。
*3 河合隼雄『日本神話と心の構造』(岩波書店)
*4 もちろんダンテの『神曲』も地獄巡りをするが、神話の世界よりも後代であるのでここでは含まない。
*5 Wikipedia「モモ」より引用。
*6 神話は古来よりそのままの形で伝わっていると思いがちだが実は違う。古い話に新しい話が付け加わる形で形成されているのである。(寺尾隆吉『魔術的リアリズム』水声社)、
*7 例えばインカのマンコ・カパックなど(ハロルド・オズボーン『ペルー・インカの神話』青土社)



小此木啓吾『日本人の阿闍世コンプレックス』(中央公論)

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日本人の阿闍世コンプレックス (中公文庫 M 167-2)

小此木啓吾

 まずは全体の話から。小此木啓吾は日本人の精神分析家です。河合隼雄がユングを日本に広めたのなら、小此木啓吾はフロイトを日本に広めました。実際、彼の師匠である小沢平作は実際にフロイトへ「罪悪感の二種」という論文を提出していますので、フロイトの孫弟子に当たります。
 さて、古沢は「罪悪感の二種」で日本人のアイデンティティ、すなわち初めは父から処罰を受ける<から>悪いことはしてはいけない──これはフロイトにも見られることなのですが──から本当に悪いことをしてしまったという罪悪感に変わると指摘しています。なお、これはカントの仮言命法、定言命法などとつながってくるのですが、フロイトはこの論文に対してあまり好評価は下していません。
 日本人の小沢と欧米人のフロイトでは基本的なところで考えが食い違っていたんでしょうね。

母への恨み

 仏教では古くから生老病死というように、この世は苦難に満ち溢れていて、生きることそのものが苦しみであるという世界観です*1。例えば愛する人と別れたり(愛別離苦)、嫌いな人と話さなきゃいけなくなったり(怨憎会苦)、感情に振り回されたり(五蘊盛苦)、欲しがっているものが手に入らなかったり(求不得苦)といった苦しみです*2。
 つまり、「どうして生まれてきたんだろう」は問いは好奇心というよりむしろ、肉迫した生そのものへの悩みなのです。そしてこの悩みは「どうして産んだんだろう?」という母への恨みになると古澤−小此木は指摘しています。幼児期は母と子は一体であるため、母親を独占しています。土居健郎は一体感を母へ求めることを甘え、と言っています*3。

成長するに連れ……

 ところが成長するに連れ、あるいは乳房から離れたその瞬間から*3、それが幻想であると解るのです。
 母への一体感が幻想であったという幻滅とともに、はげしい怨みがわく。自分が生きるため、夫への愛のためには子どもさえも棄てたり殺しかねない母。それが母の正体だったのか。
 これはインド神話*5に出てくる阿闍世王(あじゃせ)を下敷きにしているのですが、阿闍世王は仙人の生まれ変わりです。しかしそれは母親、韋提希(いだいけ)が子供欲しさの余り、殺した仙人でした。
 仙人は生前、韋提希にこう告げていました。「私が死んだら、お主の身体に入って生まれ変わろうぞ」。しかし、夫との愛が薄れていくことに不安を感じ、韋提希は仙人を殺します。その呪いで阿闍世は重い病気になってしまうのです。
 つまり、阿闍世は母親の身勝手な行動で自分に呪いを受けることとなる。しかし漢訳*6では
爾時王舍大城有一太子。名阿闍世。隨順調達惡友之教。收執父王頻婆娑羅。幽閉置於七重室内。制諸群臣一不得
 拙訳:そのとき、王舎大城〔というところ〕に一人の王子がいた。名を阿闍世といった。悪友にそそのかされ、父親である頻婆娑羅〔王〕を幽閉し、七つの鍵を掛け、家臣たちの誰も近づけなかった。
 となっており、父親にも攻撃性が向いています。なお漢文はあまり得意ではないので、誤訳などがあるかもしれません。

母系社会

 ともあれ、このようなことをしているにもかかわらず、阿闍世の母親、韋提希は献身に阿闍世を看病しています。そして阿闍世は心から悔い、母親と和解するのです。
 「わが国社会のこの種の心的な社会構造は、実はその合理主義的意識の深層において(中略)阿闍世コンプレックスのゆるし合いを基本的な規則原理としている」とあるように、このような母子の許し合いこそ日本文化の根本にあると小此木は古澤の文献を援用して、指摘しています。
 例えば中年婦人がハイジャック犯のその後の人生を心配しています。小此木はこの心理と韋提希を重ねているのです。母親の役割は「許す」ことにあると小此木含め多くの心理学者は考えています*7。母系社会の日本で母親の存在は大きいです。
 それは近代においても同じこと。例えば、母親の口から語られる父親像は、相当に日本では強い影響を持っています。
 「パパにきいてみて、もしいいとおっしゃったら……」「パパに言いつけて叱ってもらいます」「さあ、パパはなんとおっしゃるかしら……」。そして、母親は、夫の帰宅後、二人きりで、ある時は子どもたちの代弁者として(中略)またある時は、懸命に子どもたちの悪行を説明する。
 これは父親そのものよりもむしろ母親から語られる父親のイメージ(あくまでもイメージ)で全く違ってくるのです。
 「父親欠損の母子家庭を〔小此木啓吾が〕研究してみて印象的だったのは、父親がないという現実は同じでも、(中略)決定的なのは母親が父親のことをどう伝えているかである」とあるように場合によっては父親が不在でもこのような父親のイメージを作ることが、重要だと言います。この辺は凡庸な育児論に陥ってしまって、どうも好きになれなかった箇所ではあるのですが。
 でも僕の経験から見てもなんだかんだで父親像の影響は大きいです。ちなみにこれって肉親じゃなくても、父親としての役割、たとえば兄とか特定の先輩、会社の社長、上司などでも代用が聞くと思います。根拠は日本的マゾヒズムにあります。

日本的マゾヒズム

 社畜という言葉がありますが、これは日本的マゾヒズムと強く結びついてるといえるでしょう。阿闍世コンプレックスに代表されるような母親との一体感など、日本人は一体感を重視しています。
 そしてこの一体感には負の側面があります。それが日本的マゾヒズムです。冒頭で古沢の論文を引いて、二種類の罪悪感──処罰の恐怖心/本当の懺悔する気持ち──があると言いました。そして日本人は懺悔する気持ちを感じやすく、あらゆる局面でそれを背負い込むのです。
 自分はこれだけ親に迷惑を掛けてきたんだ、孝行しなくちゃという発想ならまだ健全なのですが、これを学校、会社に持ち込むと、自分は新人のときに迷惑をかけてきたのだ、恩返しをしなきゃいけない、という心の働きがあるといいます。
 どうして日本人はこのような心理になるのでしょう? 二つ原因があると僕は思っています。

1)儒教の影響:

 儒教は親子間の倫理を国家の倫理まで拡張して説いています。その根底にあるのは忠と孝にです。主君に対して忠誠を尽くし、いたわらなければいけない。そのかわりに領地を法的根拠で守る。これは鎌倉から叫ばれてきたことなのですが「私」という概念が入り込む余地はありません。
 私を主張しようものならKYとして白い目で見られます。これが鎌倉から、現代へと続く流れです。鎌倉時代以降、武士は何かあったら鎌倉に駆けつけ、その代わり所領地を保証する……。この構図は鎌倉が会社に、所領地が給料に変わっただけなのです。

2)昔話の影響:

歴史的背景で少しは納得して頂いたかもしれません。しかし学校で儒教のことを教えてもらわなかったという反論もあるでしょう。つまり歴史とわたしは完全に分断されて、何の関係もない、と。
 しかし昔話を見てみると儒教的な作品が見てとれるのです。典型的なのは桃太郎。桃太郎は父と母の恩返しのために鬼退治に行くのですが、桃太郎の父母は村落共同体のために彼を鬼退治に行かせます。
 また出会った動物たちはきび団子を与えられ、桃太郎の鬼征伐隊へ帰属していきます。つまり桃太郎というテクストは本人の意志たちの意志とは関係なく負い目、つまり自発的罪悪感を感じさせられ、最終的に村落共同体に帰属することとなるのです。
 日本におけるもっともすぐれた指導者、管理者、教師はこの種の自発的罪悪感を部下や学生に起こさせ、彼らが自分から上司や先生の思惑通りに動き、気がねから逸脱行動ができなくなってしまうような無言の支配力を獲得した人物のことである。
 その上、自分のこうむった被害については愚痴も不平も言わず、周りは自然と罪悪感を抱くのです。
 これはちょうど社畜を作り出す土壌と似てると思うんですけどね……。日本人は団結力が強く、それで高度経済成長を成し遂げたことも事実です。しかしその反面、「公私混同」どころか公私一体となってしまうのです。

*1 西洋の「不条理」についての共通点も見られる。例えばカフカの『変身』では突然、毒虫になったザムザを家族総出で追い出そうとする。しかし西洋の不条理はあくまでも理屈に合わないことであり、一貫した論理整合性をもたないことである。
*2 仏教哲学の問題意識はこれら四苦八苦をいかに受け入れるかである。
*3 土居健郎『甘えの構造』(弘文堂)。なお、甘えというとネガティブな文脈で捉えがちだが、『甘えの構造』は決して日本文化の特徴として「甘え」を分析している
*4 ジャック・ラカンによると、乳児が乳房から離れたその瞬間から万能感が消え、言葉の世界(泣き声、笑い声など)へと放り込まれるのである(斎藤環『生き延びるためのラカン』およびWikipedia「現実界・象徴界・想像界」)。
*5 仏教はインド神話を母胎としていて、後に数々の仏典に引用されることとなる。例えば親鸞の『教行信証』など。
*6 中村元、紀野一義、早島鏡正[訳]「観無量寿経」(中村元、紀野一義、早島鏡正[訳]『浄土三部経』岩波書店)。なお、漢文読解の練習のため、訳文を見ずに独自で翻訳を試みた。
*7 ユング『元型論』(紀伊國屋書店)など。



河合隼雄『神話と日本人の心』(岩波書店)

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神話と日本人の心

概要

 日本神話の読解を通じ、あるいは他国の神話と比較することで、日本人の国民性、アイデンティティに迫ります。河合隼雄はユング派の精神分析家ですが、日本神話の読解は処女論文からテーマにし続けてきました*1。
 神話を語ることの重要性や、神話の読解を通じて日本人の課題を明らかにしていきます。

神話を語る河合隼雄

 河合隼雄は好きな心理学者の一人で、僕も『コンプレックス』、『影の現象学』は好きです。しかし、神話を語る河合隼雄は余りピンと来ないんですよ。
 この辺りは僕の背景がフロイトよりのせいもあるかもしれません。……でもフロイトの『トーテムとタブー』と『モーゼと一神教』は違和感を覚えましたが^^;

神話を語る意味

 さて、神話を語る意味はどこにあるのでしょう。人間は「物語」なしには生きていけない、として常に自己物語を欲しています。
 「物語」はいろいろな面で「つなぐ」はたらきをもっている。一本の木は科学的に見る限り、細かい事実は明らかになるにしても、あくまでも一本の木である。(中略)ところが、その木は「おじいさんが還暦の記念に植えた木ですよ」という「物語」によって、俄然そこに親しみが湧いてくる。
 フロイトやブロイアー*2の談話療法はまさに、自己物語の修復なのです。近年ではナラティブセラピーとして注目されています*3。
 さて、この「物語」を語ることについて、個人のレベルだと人生の経験談になりますが、国家の物語だと歴史になります。日本でいうなら日本史です。しかし、科学的なアプローチだと先に引用したようにつながりが希薄になってしまいます。そこで共通の「物語」によってつなぎとめているのが神話なのです。
 神話の喪失は現代人の孤独感と深く関わってると、カウンセリングの経験から河合隼雄は指摘しています。例えば援助交際などの問題は居場所の喪失です。「〔援助交際に走る〕彼女たちの根本問題は「居場所」がない」のです。ここで僕が思い出したのは『漂流少女』*4というルポルタージュです。
 街で援助交際をしている少女へのインタビューなのですが、口をそろえて言うのが、「居場所がない」ということです。古代人は「神話」に居場所を見出していたと河合隼雄は指摘しているのです*5。

世界の起源

 <私>とは何者なのかという問いかけがあります。私のいる世界はいつどうして起きたのだろう、という問いかけは神話の時代にこそ生き生きと語られています。
 世界中のほとんどの神話は、「世界の始まり」についての神話をもっている。それは(中略)人間が素朴にもつ疑問に答えるものとして、当然だと言えるだろう。しかし、(中略)ある時点よりことが始まったと言うのなら、「その前は?」と疑問に思うのは当然と言えるだろう。
 例えば創世記は「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあるように混沌とした世界が語られます。
 また、ギリシャ神話では神が天地そのものなのです。例えばカオスという神の口に世界は入っていて、そこから大地の女神(ガイア)などが生まれます。
 では日本神話の場合は、というと、『日本書紀』にははじめに混沌とした状態の記述があります。そしてそれは一般論(つまりどこの国の神話でもそうだよね)に過ぎず、日本の始まりは途中から語られます。
 この記述はかなり異例なものだと河合隼雄は指摘しています。『日本書紀』は外国──主に中国にむけて書かれたものであり、しかもこれは「淮南子」の冒頭と類似していることなどから中国を意識していたと思われます。そして重要なことは他国から枠組みを借りて物語を語ることは『日本書紀』のみならず「現代における日本人にまで継承されている」のです。
 例えば河合隼雄は例示していませんが、明治時代、大量に海外の学問が入ってきてもすんなり受け入れられたのも、戦後アメリカの影響をすんなり受け入れられたのもこの他国の「神話」を借りて自国の文化を語ることができるという特徴によります。またクリスマス、お盆、お正月を何の違和感もなく取り込み、日本流にアレンジをしています。「神話」は思考の枠組み*6ですので、この国民性の指摘は神話からも伺えます。

中空理論

 さて、日本神話の特徴は中空理論だと河合隼雄は、その処女論文『神話と日本人の心』より指摘しています*7。
 それぞれが、そこにはたらく対立するペアのタイプの調和をはかっていると言える。すべての神々がこの中空を巡って動き、時にはお互いに戦いさえする。最も大切なことは、いかに均衡をとることができるかなのである。
 さてこのバランスを取るという発想ですが、最も特徴的に現れているのは国譲りだといいます。
 神話はたいがい支配階級の正統性を主張するもので、『日本書紀』も天皇の正統性を中国に示す狙いがあったことは知られています。しかし、建国神話はたいがい武力衝突のすえに国家権力を勝ち取る話がほとんど。日本のように、話し合いで解決する建国神話は世界でも類を見ないといいます。
 神話はもちろん歴史的事象と関係を持つだろう。しかし、神話の意図はそれを記述することではない(中略)。戦いによらない「和」を強調する思想があるため、高天原系と出雲系との間に和議があったことは、高天原に葦原中国が「国譲り」をしたことが大いに強調されることとなる。
 この辺りの前提条件が僕と河合隼雄とでは違ってくるのでなんとも言えないのですが、河合隼雄は史実より<大きな物語>を作って、日本の国民を束ねようとする狙いが神話にはあると考えています。僕は史実を寓意的に語って、あくまでも天皇の支配を正統化する狙いがあったと考えています。
 結局は同じことなのですが、河合隼雄の考えは市民、国民に中心が置かれているのに対し僕はあくまでも支配者に重きを置いているのです。もっともこの立場の違いは、カウンセラーと小説読みという立場の違いを表しているのですが。
 ともあれ、この後の記述でも武力は何としてでも回避して、均衡を保とうとしています。

ヒルコ

 ヒルコは蛭子とも恵比寿とも書きますが、もともとは伊邪那岐と伊邪那美が最初の子作りで失敗した子供なんですね。その後、葦の舟に乗せられて流されます。この辺り、横溝正史の『真珠郎』*8と比較したら面白い結果になりそうですが、先行研究は見当たりませんね。
 ,もともとヒルコが商業神と結びついたのは鎌倉時代以降なのですが、江戸時代の国学者、平田篤胤は積極的に論じています。
 さて、江戸時代はもちろん武士(軍人)が政権のトップであり、商人は地位としては下だとされていました。そして恵比寿は商人の神であり、ある種の反乱・復讐の象徴だと河合隼雄は分析しています。


*1 河合隼雄『日本神話と心の構造』(岩波書店)
*2 フロイト、ブロイアー『ヒステリー研究(下)』(筑摩書房)
*3 Wikipedia「ナラティブセラピー
*4 橘ジュン『漂流少女』(太郎次郎社エディタス)
*5 国・民族といった大きな物語が崩壊して、小さな物語が乱立するだろうとリオタールは述べている(ジャン=フランソワ・リオタール『ポストモダンの条件』水声社)。河合隼雄の指摘は大きな物語が終焉して、ポストモダンを生きる僕たちの内面を捉えているのである。
*6 レヴィ=ストロース以来、神話とは単なる伝承にとどまらず思考の枠組みという文脈で用いられる。例えばボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)では神話という言葉をまさに消費社会における考え方として使っている。
*7 河合隼雄「日本神話における隠された神々」(河合隼雄『日本神話と心の構造』(岩波書店)より引用。
*8 横溝正史『真珠郎』(角川書店)。実際、この二つの話には障害児が川に流されて戻ってくるなどの共通点が多い。



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