「興福寺東金堂の日光、月光菩薩」の画像検索結果

 今日は連休で時間があるので、興福寺東金堂の日光、月光菩薩(上にかかげた写真)について少しく考えてみたい。この仏さまは、興福寺宝物館に展示されている、かの優品、昭和12(1937)年に東金堂で発見された旧山田寺仏頭の脇侍であったとされる。しかし、有名な「本尊」に対して、この「脇侍」はあまりに口の端にあがらない。何故なのだろうか?

 この2仏を高く評価しているのは太田古朴・淡屋俊吉両氏の『日本の仏像 意味と鑑賞の仕方』三学出版1978年である。ここでは、東洋のビーナスと記載され、美しい写真(永野太造撮影)がかかげられている。

 だが一般には、この2仏についてはあまり語られない、むしろ興福寺の名だたる持仏のなかでも、今日までほとんど無視に近い扱いであったとも思われる。以下、それを公刊書籍で追ってみよう。

 こうした時にぼくがまず手にとるのは久野健編『仏像事典』東京堂出版1975年だが、ここには掲載がない。ほかにも2,3の事典の類をみても同様。では次に、興福寺自身が発刊しているものを見てみよう。

 小林剛『興福寺』興福寺1967年(初版)、小西正文・入江泰吉『興福寺』保育社カラーブックス1970年の2冊をみるが、ともにさしたる記載がない。小西本の参考文献ついては、小林本と『奈良市史』とあるので、分厚い『市史』もみるが得るところなし。やっと最近の同寺刊『興福寺』2007年にて、白黒の古い小さな写真とともに以下の内容が確認できる。

重文 銅像日光・月光菩薩立像 白鳳時代
像高 日光菩薩300.3㎜ 月光菩薩298.0㎜
「・・・銅像仏頭とともに、飛鳥山田寺から運ばれてきた。仏頭とは造像技法、表現方法に違いがみられ、この像は7世紀末の造像になる」(p.89)

 この出典はおそらく『原色日本の美術3 奈良寺院と天平彫刻』小学館1967年所収の、毛利久の論文(pp.200-201)であろう。しかし、どうみても白鳳時代という時代設定には違和感をいだく。

 最近刊の金子啓明『もっと知りたい興福寺の仏たち』(2009年 東京美術)の記載は以下のとおり。但し写真の掲載は実に小さい。

「・・・現在の両脇侍はこの如来とともに山田寺から運んだ像であるが、応永の火災でも一部に損傷をうけたものの無事であった。仏頭よりは少し遅れて奈良時代に制作されたものらしい。いずれも銅の鋳造で白鳳から天平の古様で作られている。少し変わっているのは両像とも宝冠に化仏を表していることである。通常、化仏のある菩薩は観音で、三尊の場合は阿弥陀如来の左脇時となる。薬師如来の脇時は日光、月光菩薩で化仏をつけることはない。謎は解けていない」(p.39)

 たとえば類似作として、薬師寺薬師三尊や聖観音の完成度は圧巻である。しかし、興福寺のこの2像は大振りなブロンズ像であることは共通するが、薬師寺像にくらべて、同じく黒色ながら光沢は足りず、造作も平板で受ける視覚的インパクトは弱い。白鳳期というよりももっと時代が下るのではないだろうか?

 いつものように、素人らしく大胆に推論すれば、旧山田寺仏頭の脇侍であったということは一応、与件としておくとしても、造像時期ははるかに後世ではないか。但し、その造像様式は仏頭に近いものに合わせたのではないだろうかとも思う。
 ぼくは、様式史に過度に縛られて、モノの順序を折り目正しく決めていく考え方にはついていけず、力のある仏所、工房は復古調であれ、今風であれ技術的には、難なくこなせたのではないかという考え方を取りたい。蛇足だが、これは法隆寺釈迦三尊像と薬師如来像についても同様である。