日蓮像
http://burari2161.fc2web.com/nitiren.htm

日蓮は法華経を第一とした。しかし、それ以前に空海は法華経を超える法理を示している。まず、以下を参照。

<十住心論の体系>

 空海の十住心論をおおきく4つに分けると、Ⅰ.仏教以前の世界観→Ⅱ.小乗仏教の世界観→Ⅲ.大乗仏教、各派の比較→Ⅳ.密教の絶対性へ「上級化」していく組み立てであることがわかる。実に大胆なランク論である。

Ⅰ 仏教以前の世界観
1 自然状態たる異生羝羊(いしょうていよう)は性悪説的なドクサはあるが本能的な人心の段階

【儒教の段階】
2 愚童持斎(ぐどうじさい)で儒教の倫理観は評価するが、処世訓的な狭さも感じる

【インド哲学、老荘思想の段階】
3 嬰童無畏(ようどうむい)インド哲学や老荘思想。ここではじめて宗教心が芽生える

Ⅱ 小乗仏教の世界観
【無我の目覚めの段階】
4 唯蘊無我(ゆいうんむが)<顕教><小乗> 声聞乗の境地で事物の本質は存在しないと気づく。「無我心」

【自利的悟りの段階】
5 抜業因種(ばつごういんしゅ)<顕教><小乗> ここで小乗の限界に。すなわち、縁覚乗の境地で自分自身の迷いはなくなるけれど、他者の救済にまではいかない。「自利的」

Ⅲ 大乗仏教、各派の比較
【大乗>小乗の階序性の立論】
6 他縁大乗(たえんだいじょう)<顕教><大乗> 「法相宗」の修行者 全衆生救済の大乗仏教の第一歩「利他的」

【三論宗>法相宗の階序性の立論】
7 覚心不生(かくしんふしょう)<顕教><大乗> 「三論宗の修行者」重要なのは「空の境地」(空海の「空」)

【天台宗>三論宗の階序性の立論】
8 一道無為(いちどうむい)<顕教><大乗> 天台法華の教え「生命観」

【華厳宗>天台宗の階序性の立論】
9 極無自性(ごくむじしょう) <顕教><大乗> 華厳宗の教え「価値観」重要なのは「海の境地」(空海の「海 」)

Ⅳ 密教の絶対性
【密教>顕教の階序性の立論】
10 秘密荘厳(ひみつしょうごん)<密教><大乗> 大日如来の教え 真言密教の境地「絶対観」

(参考) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-261.html

空海によれば、法華経の教えは10段階の8位にあるが、それは「天台法華」と位置づけられる。しかし、なぜ最澄の天台法華が、空海の「真言密教」の後塵を拝するのか、そこは実はよくわからなかった。この階序的な上位は、哲学的というよりも文字通り観念的な優越であるようにも考えられる。最澄を読み直さねば・・・と思いつつ、今日を迎えているが、日蓮は、実はここを衝いているようにも見える。

十住心論の体系からいえば、8と10の転換(交換)、あるいは順位変更である。見方をかえれば、7の「空の境地」と9の「海の境地」(すなわち空海)にはさまれた8「生命観」 をここから抜け出させて、さらに天台、真言ともに「密教」を否定する。残るキーワードは「生命観」の絶対化である。

さて、その法華経について日本で残されているもののうち、おそらく最古のコンメンタールを書いたのは、かの聖徳太子である。

<法華義疏との関係>

聖徳太子「法華義疏」のテクストたる法華経だが、聖徳太子が読んだであろうテクストは、『正法華経』(竺法護訳、2世紀)、『妙法蓮華経』(鳩摩羅什訳、5世紀)、『添品妙法蓮華経』(闍那崛多・達磨笈多共訳、7世紀)などが考えられるが、以下では『妙法蓮華経』(鳩摩羅什訳、5世紀)を見てみよう。

 その構成は、「前言」、「經文」の2部にわかれ、さらに

<卷一>序品第一、方便品第二、
<卷二>譬喩品第三、信解品第四、
<卷三>藥草喩品第五、授記品第六、化城喩品第七、
<卷四>五百弟子受記品第八、授學無學人記品第九、法師品第十、見寶塔品第十一、提婆達多品第十二、勸持品第十三、
<卷五>安樂行品第十四、從地湧出品第十五、如來壽量品第十六、分別功品第十七、
<卷六>隨喜功品第十八、法師功品第十九、常不輕菩薩品第二十、如來神力品第二十一、囑累品第二十二、藥王菩薩本事品第二十三、
<卷七>妙音菩薩品第二十四、觀世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙莊嚴王本事品第二十七、普賢菩薩勸發品第二十八の7巻28章に分かれている。

ここでは、大乗、小乗の見方をある意味で総合して「一乗」という考え方を説いていることが注目される。

 方便品第二(第2章)では、①相、②性、③体、④力、⑤作、⑥因、⑦縁、⑧果、⑨報、⑩本末究竟等(原文:止,舍利弗,不須復説。所以者何。佛所成就第一稀有難解之法,唯佛與佛、乃能究盡諸法實相。所謂諸法、如是相,如是性,如是體,如是力,如是作,如是因,如是縁,如是果,如是報,如是本末究竟等)が語られるが、これは「諸法実相」とよばれ、いわば宇宙や存在の根本を説いていることで、認識論や世界観論に通じるように思う。

 ものにとらわれないことが仏教の真髄であろうが、そこから「空」の思想がでてくる。しかし、この「空」を孤独に追究していくと、ともすればニヒリズムに陥るリスクがある。他者との関係性のなかで積極的に生き、その生き様のなかで「空」の境地を不断に目指していくことが必要である。

法師品第十(第10章)では、それを実践するものとして菩薩が出てくる。菩薩は、慈悲(いつくしみ)、忍辱(うらまない)、空性(とらわれない)心をもった存在で、仏(如来)の使徒して生きるが、その如来は如來壽量品第十六(第16章)で永遠無量であることが説かれる。

聖徳太子は在野の信者だが、法華経から現世のより良い生き方、日常の心のもちよう、他者との関係性、目指すべき宗教的な孤高性などを学んでいるように思う。

(参考) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-date-200802.html

日蓮は、空海の階序性を逆転して、法華経を第一とし、その本質的な理解では聖徳太子に回帰しているといえないだろうか? 今日はここまで。