怪傑日蓮 (昭和29年)
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 あまり仏教に興味がないと、「南無阿弥陀仏」と声にするか「南無妙法蓮華経」と唱えることとの違いはよくわからない。「南無」を一種の呼びかけとすると、前者は「阿弥陀仏」と如来にお声をかけていることになる。西方浄土を司る阿弥陀仏に極楽浄土にどうぞお導きいただきたい、と言っていることになる。一方、「南無」+「法蓮華経」は、法華経に帰依します、法華経を一所懸命唱えます、との意味かと思う。

 そう考えると、この2つは似て非なるものである。法然の「南無阿弥陀仏」と念仏を声にだしなさい、というのは、わかりやすい。庶民にも受け入れられやすいだろう。しかし、日蓮は、これは間違いであると言い、そのかわりに「南無妙法蓮華経」と唱えなさいと言い切る。では、法華経とは何か?を信者は知らなくてはならない。学ばなければならない。それが、妙法蓮華經如來壽量品第十六(法華経)から出ていて、いかに有難い教えかを体得しなければならない。

 日蓮宗には「折伏」という言葉があり、他の宗教との論争を恐れない。他宗を論破することは己の正当性を堂々と披露する得がたい場である。日蓮はもとより、法華経の教理を徹底的にマスターした日蓮の弟子たちは、この論争に強かった。しかも、迫害をうければ、それも仏の意に沿うもの、との解釈のもと、ますます強く自らの主張を申すという行動様式をもっていた。筋金入りということだろう。

 日蓮によれば、、「南無阿弥陀仏」と念仏を声にだすだけでは、ひたすら他者への依存を強め、自己を矮小化することによる盲目的ニヒリズムに陥る可能性があるということだろう。一方、「南無妙法蓮華経」という教理(というよりも崇高無比の宗教)を信じれば、それは救済の道に通じる。物象(阿弥陀仏)よりも観念(妙法蓮華経)の優位性を問うたとも言えるかも知れない。

 論争では、浄土教と法華経との優位性を議論することになるが、そのバックボーンは「日蓮4」で述べた天台宗や真言宗における階序性でも援用できる。

 しかし、他者への攻撃能力の高さは、それが自派内での正当性論争に転化されれば、激しい内ゲバにもなりえる両刃の剣である。日蓮その人には実は寛容の精神があふれていたとの指摘もあるが、後世の門人の分派と内紛は(日蓮宗にもちろん限らないけれど)、今日まで凄まじいものではある。