夏が来る、いや来た。五月だというのに毎日暑い。こう暑くちゃ敵わないと、毎日半袖短パンで過ごしている。仕事に行くにも半袖短パンだ。私は世間にやんちゃ坊主をアピールしたいのではない。私は暑さにめっぽう弱く、炎天下で歩いているとすぐに熱中症のような状態になってしまう。そうなると高座にも影響が出る。高座前は少しでも快適な状態でいるべきだという考えから、普段から元気っ子でいるというわけだ。(でも季節としての夏は好き、皆が明るくて開放的な感じが大好きまじ愛してる)
で、そういう格好で電車に乗ると気づくことがあるんですが、五月に半袖短パンの大人って一人もいないですね(子供もあんまりいない)。ちょっと恥ずかしい。だから「なぜ皆は半袖短パンじゃないんだろう」という疑問は「5月だし大人は仕事をしてるんだから当たり前だ」という答えを生成AIばりにシャッと出すことで即解決され「なぜ自分だけ半袖短パンなのだろう」に切り替わった。
私が言いたいのは「僕って常識を無視できちゃう型破りな人間なのさ」ということではない。こんなことをぼんやり考えていたら、あることに気がついたのである。マジカルバナナ的にいえば、半袖短パンといったらなーつ!夏といえば8月!8月といえば夏休み!だ。8月といえば夏休み?ここで自分の中で物言いが入った。8月は夏休みか?子供じゃないんだから夏休みってことはないだろう。いや?夏休みだよな?あれ?なにこの感覚?
私は8月を夏休みとして捉えている。
どういうことか説明したい。8月は学生にとっての夏休みだ。当たり前だ学生は学校が休みなのだから。そして私は社会人なので休みではない。なのにも関わらず、感覚として8月を夏休みとして捉えているのである。これは「学生さんらはもう夏休みだなあ」という感覚ではない。私自身も学生と同じように夏休みヒャッホウになっているということだ。
今まで当たり前すぎてなんの疑問も持たなかったが、これはおかしいことである。私は連休をとっているわけでもないのに、大学を卒業して以来約20年間ずっと、8月を夏休みとして感じていた。テンションが上がってしてしまっていたのである。夏だから花火大会とかバーベキューに行くわけではない。むしろ混んでるから絶対行かない。ただ、心がウキウキしているのである。そして9月になると(ああ夏休みが終わってしまったなあガッカリ)と思う。
じゃあ8月のやってる落語会は休み感覚でやってるの?と言われればそうではない。もちろんいつもの高座として頑張っている。この、夏休みだというのに高座を頑張っているというところに2つ目のビツクリを見つけてしまった。
「私は日々、仕事をしているという感覚がない」
誤解しないでいただきたいが、私はきちんと仕事をするという感覚を知っている。それは学生時代にアルバイトをしていたときのものだ。あれは確かに仕事という感覚だった。いや待てよ、仕事というとちょっと違うかも。正確にいえばまさに「アルバイト」だ。なぜ「仕事」とは違うのかというと、アルバイトに対して、普通仕事をする上で持つであろう「大人として当たり前にやらねばならない」とか「社会との繋がりを持つためだ」という感覚がなかったから。アルバイトはお金を稼ぐためにやるという要素が大きく、大人としてとか社会と繋がりたいとかそういう動機でやるものじゃない。アルバイトはアルバイトでしかないのだ。じゃあ会社に就職したことがないからやっぱり仕事という感覚を知らない?いやいや噺家という職業が仕事だろう。と思ったが、あれ?なんか違う。そういう感覚ではない。仕事ではあるはずなのだが、世間一般でいう「仕事」が持っている意味とは違う。じゃあなんだ?私は心の中を見つめ、今までの様々な経験の中から、今やっている落語をはじめとした様々なこと(テレビ、ラジオ、物書きなど)に似た感覚を探した。そして一番近い感覚を見つけた。
「部活」
ぶかつ。
そうですそうなんです。それがこたーえーだーbyウルフルズ。ってなにそれ。でも事実だ。だから怖がらずに書いてみよう。それによって何か発見があるかもしれない。
「私は落語を部活感覚でやってます」
めちゃくちゃ不真面目な気がする。でも一生懸命やっているからよし(部活を)。部活かい。
いや、私は真剣である。だから部活とは何かということから考えたい。部活とは、学校での「楽しく一生懸命やる勉強以外の活動」だ。だから大人である私にとって落語とは「楽しく一生懸命やるもの」である。なるほど。なんの発見もない、だからなんだという結論がすぐ出ました。
ただ、ここからが本題である。一見どうでもいい結論だが、私はこの結論を得たとき思ったことがあった。それこそ新たな発見だったのである。それは「意味や感覚が人によって違う言葉って結構あるんじゃないか?」というものだ。例えば「かわいい」という言葉。これは使う対象によって感じている感覚が変わる。赤ちゃんを見て使うかわいいとアイドルを見て使うかわいいとでは含んでいる意味や表している感覚が全然違う(違くない人もいるかもしれないがそれはちょっと置かせて下さい)。
だから、ありとあらゆる言葉にそういう可能性があるし、そうであれば普段使っている言葉の感覚は自分だけのものであるかもしれない。というか多分多かれ少なかれそうだと思う。例えば「お化け屋敷が怖いの「怖い」の意味は体が震えるほどおののく様です」と言って皆がウンウンと頷いたところで、「体が震える」「おののく」という言葉の感覚は完璧に説明できなく、そしてそれがすごいネガティブな感覚の人もいれば、多少ポジディブな感覚も入っている人もいるかもしれない。ネガティブとポジティブの意味だってなんだという問題もある。意味や感覚のすり合わせは究極的には不可能だ。
例え言葉の感覚が同じだとしたって、感情のグラデーションを表現するのには限界がある。なぜなら「私にとっての落語とは楽しく一生懸命やるものです」と説明したところで、そこで使われている「楽しい」や「一生懸命」の意味ってなんだという話になり、その「楽しい」や「一生懸命」を説明しようとしたところで、また別の言葉を使わないといけないという無限階段が待っているからである。
て考えたらめちゃくちゃ怖くないですか?私は怖い。怖すぎる。世界に独りぼっちでいるのような気がする。いや、気がするんじゃない。多分本当に独りぼっちなんだと思う。だから人は人と触れ合いたいんだろう。私は人と触れ合いたいと思う。なぜなら今新幹線でこの文章を書いているのだが、私はやはり半袖短パンである。そして車内が冷房で寒い。温まりたい。誰か温めてプリーズ。えっと「温めて」というのは体温の上昇を・・・
で、そういう格好で電車に乗ると気づくことがあるんですが、五月に半袖短パンの大人って一人もいないですね(子供もあんまりいない)。ちょっと恥ずかしい。だから「なぜ皆は半袖短パンじゃないんだろう」という疑問は「5月だし大人は仕事をしてるんだから当たり前だ」という答えを生成AIばりにシャッと出すことで即解決され「なぜ自分だけ半袖短パンなのだろう」に切り替わった。
私が言いたいのは「僕って常識を無視できちゃう型破りな人間なのさ」ということではない。こんなことをぼんやり考えていたら、あることに気がついたのである。マジカルバナナ的にいえば、半袖短パンといったらなーつ!夏といえば8月!8月といえば夏休み!だ。8月といえば夏休み?ここで自分の中で物言いが入った。8月は夏休みか?子供じゃないんだから夏休みってことはないだろう。いや?夏休みだよな?あれ?なにこの感覚?
私は8月を夏休みとして捉えている。
どういうことか説明したい。8月は学生にとっての夏休みだ。当たり前だ学生は学校が休みなのだから。そして私は社会人なので休みではない。なのにも関わらず、感覚として8月を夏休みとして捉えているのである。これは「学生さんらはもう夏休みだなあ」という感覚ではない。私自身も学生と同じように夏休みヒャッホウになっているということだ。
今まで当たり前すぎてなんの疑問も持たなかったが、これはおかしいことである。私は連休をとっているわけでもないのに、大学を卒業して以来約20年間ずっと、8月を夏休みとして感じていた。テンションが上がってしてしまっていたのである。夏だから花火大会とかバーベキューに行くわけではない。むしろ混んでるから絶対行かない。ただ、心がウキウキしているのである。そして9月になると(ああ夏休みが終わってしまったなあガッカリ)と思う。
じゃあ8月のやってる落語会は休み感覚でやってるの?と言われればそうではない。もちろんいつもの高座として頑張っている。この、夏休みだというのに高座を頑張っているというところに2つ目のビツクリを見つけてしまった。
「私は日々、仕事をしているという感覚がない」
誤解しないでいただきたいが、私はきちんと仕事をするという感覚を知っている。それは学生時代にアルバイトをしていたときのものだ。あれは確かに仕事という感覚だった。いや待てよ、仕事というとちょっと違うかも。正確にいえばまさに「アルバイト」だ。なぜ「仕事」とは違うのかというと、アルバイトに対して、普通仕事をする上で持つであろう「大人として当たり前にやらねばならない」とか「社会との繋がりを持つためだ」という感覚がなかったから。アルバイトはお金を稼ぐためにやるという要素が大きく、大人としてとか社会と繋がりたいとかそういう動機でやるものじゃない。アルバイトはアルバイトでしかないのだ。じゃあ会社に就職したことがないからやっぱり仕事という感覚を知らない?いやいや噺家という職業が仕事だろう。と思ったが、あれ?なんか違う。そういう感覚ではない。仕事ではあるはずなのだが、世間一般でいう「仕事」が持っている意味とは違う。じゃあなんだ?私は心の中を見つめ、今までの様々な経験の中から、今やっている落語をはじめとした様々なこと(テレビ、ラジオ、物書きなど)に似た感覚を探した。そして一番近い感覚を見つけた。
「部活」
ぶかつ。
そうですそうなんです。それがこたーえーだーbyウルフルズ。ってなにそれ。でも事実だ。だから怖がらずに書いてみよう。それによって何か発見があるかもしれない。
「私は落語を部活感覚でやってます」
めちゃくちゃ不真面目な気がする。でも一生懸命やっているからよし(部活を)。部活かい。
いや、私は真剣である。だから部活とは何かということから考えたい。部活とは、学校での「楽しく一生懸命やる勉強以外の活動」だ。だから大人である私にとって落語とは「楽しく一生懸命やるもの」である。なるほど。なんの発見もない、だからなんだという結論がすぐ出ました。
ただ、ここからが本題である。一見どうでもいい結論だが、私はこの結論を得たとき思ったことがあった。それこそ新たな発見だったのである。それは「意味や感覚が人によって違う言葉って結構あるんじゃないか?」というものだ。例えば「かわいい」という言葉。これは使う対象によって感じている感覚が変わる。赤ちゃんを見て使うかわいいとアイドルを見て使うかわいいとでは含んでいる意味や表している感覚が全然違う(違くない人もいるかもしれないがそれはちょっと置かせて下さい)。
だから、ありとあらゆる言葉にそういう可能性があるし、そうであれば普段使っている言葉の感覚は自分だけのものであるかもしれない。というか多分多かれ少なかれそうだと思う。例えば「お化け屋敷が怖いの「怖い」の意味は体が震えるほどおののく様です」と言って皆がウンウンと頷いたところで、「体が震える」「おののく」という言葉の感覚は完璧に説明できなく、そしてそれがすごいネガティブな感覚の人もいれば、多少ポジディブな感覚も入っている人もいるかもしれない。ネガティブとポジティブの意味だってなんだという問題もある。意味や感覚のすり合わせは究極的には不可能だ。
例え言葉の感覚が同じだとしたって、感情のグラデーションを表現するのには限界がある。なぜなら「私にとっての落語とは楽しく一生懸命やるものです」と説明したところで、そこで使われている「楽しい」や「一生懸命」の意味ってなんだという話になり、その「楽しい」や「一生懸命」を説明しようとしたところで、また別の言葉を使わないといけないという無限階段が待っているからである。
て考えたらめちゃくちゃ怖くないですか?私は怖い。怖すぎる。世界に独りぼっちでいるのような気がする。いや、気がするんじゃない。多分本当に独りぼっちなんだと思う。だから人は人と触れ合いたいんだろう。私は人と触れ合いたいと思う。なぜなら今新幹線でこの文章を書いているのだが、私はやはり半袖短パンである。そして車内が冷房で寒い。温まりたい。誰か温めてプリーズ。えっと「温めて」というのは体温の上昇を・・・