春風亭昇々ブログ

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演じようとするから演じ方をどうすればいいかいう話が出てくるんですけど、演じた時点で違和感が出る。

違和感が出たらお客さんは笑わない。だから自然に語らないといけない。

だから明るい落語をしようとしたら明るい性格じゃないといけない。でもこれは見た目の問題じゃなくて、もっと根本の部分、精神が楽天的じゃないといけないということだと思う。楽天的というのは必須だと思う。

物事を斜に構えて見てるんだけど、根本的にどうでもいい精神、つまり楽天的でいる、これがバランスも取れているしいい状態だと思う。

その状態でふざけて語る、これできたら自分にとっていい落語だと思う。
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人間が、神様が作った存在だとしたら、人間=木とか草とか石とかと同じ存在ということになる。

もしそうなら、木が木に何か影響を与えられないように、人間が人間に影響を与えることはできない。

そう考えると、人が人を笑わそうと思うことはおこがましい。笑わそうというのは自分が人に影響を与えられると考えること、つまり神の立場にいると考えることと同じ。神様がいるとしたらそれはおこがましい。

笑わせるのではなく、一人一人人間がただ笑うということだけがある。使役ができるのは神だけで、自動詞のみが作られた存在にできることなんじゃないか。人に嫌なことを言われて嫌な気持ちにさせられたと思ってるのは自分だけで、本当は自分が勝手に嫌な気持ちになってるんじゃないか。同じように落語も結果笑わせてるように見えるだけで、本当はただ落語家が落語をやって、それを見てただお客さんが笑ってる、というシンプルなことなんじゃないか。

モネがどこかの金持ちのために絵を描いたんじゃないように、落語家もお客さんのためとか、ましてや仕事のためになんてやると歪みが出る気がするんですがどうでしょう。

ただこんなこと書いても、人間がもし作られたとしたら、どれだけ考えてもわかった気になってるだけで、本当のことは人間の脳じゃ分からない。作った存在を超えてものを考えることはできない気がする。だから、本当も何もないかもしれない。何もないのに人間のおこがましさが幻想を作って、自分の脳をあーだこーだ振り回してるだけかもしれない。だから考えないのがいいような気もする。でも考えて考えてから、考えないという結論に達したい。

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面倒くさがらず、日付じゃないタイトルをつけることにしました。
あとコメントないなぁと思ってたら、コメント受付OFFになってました(^_^;)
ONにしました。
本当になんでもいいんで書いてくれると嬉々として読ませていただきます。



落語というのは野球で例えると「バッター(落語家)が、高座というバッターボックスに立ち、いかにヒットを打つか?という競技である」というとわかりやすい。「お客さんにフルスイングを見せたいし、ポテンヒット打つくらいならホームランを狙いたい」なんていう比喩って分かりやすいしそれっぽい。でも最近になって、それがおそらく違うなと思うようになった。なぜか?

だって自分がバッターの場合、ピッチャーって誰?ってなる。お客さんは観客だからピッチャーじゃない。ピッチャーは誰や何を表しているのか?高座に向かってストレートだったり変化球を投げてくる存在って何だろう。説明できない。

だから落語家バッター論を疑ってみた。そして新たに考えた。新たな答えは何か?

ピッチャー。そしてキャッチャーはお客さん、細かく言えばお客さんの雰囲気、全体の空気感。落語とは「キャッチャーに向かって落語という球を投げる競技である」という、落語家ピッチャー論を唱える。ニュートン力学に代わるより詳細な説明が可能な相対性理論である、気がする。

もちろんストライクゾーンがお客さんのツボのことである。野球の場合、ストライクゾーンは審判が判定するけど、落語の場合は違う。落語の場合はキャッチャーつまりお客さんがストライクゾーンを決める。というか元々お客さん自身にストライクゾーンがあり、それは個々人によって異なり、流れ雰囲気や流行などでも変わる。それをマクラという球を投げ、読み、ストライクゾーンを見極め、そこに決め球を投げ、「すぱーん!いい球だねえ!」とキャッチャーに言わしめるのが落語家ピッチャーの仕事である。どストレートが好きなピッチャーにはコテンを、変化球好みにはシンサクを、みたいに。

そう考えると落語ピッチャーは球の得手不得手があったらいけない。いけない訳じゃないんだけど、少なくとも売れる落語家にはなれないと思う。
いろんな噺(球種)を持って、ケースバイケースで投げ分けなくていけない。自由自在が求められる。「俺は真ん中豪速球しか投げないんだ!」という落語ピッチャーは、そこがストライクゾーンのキャッチャーに対してはいいけど、そうじゃない場合に対応できない。(落語が日本人にとって音楽のような一般的なものなら、母数が多いので豪速球のみでやっていける。けどそうじゃない。)

芸風は投げ方だと思う。投げ方はどうでもいい。オーバースローだろうがアンダースローだろうがどうでもいい。そこは好きにやっていい部分だと思う。少しくらい好きにやっていい部分がないとやってて楽しくないしやってられない。投げ方によってピッチャーとキャッチャーの相性が出る。キャッチャー側に好き嫌いが生まれる。これはしょうがない。第一投げ方は余程のことがない限り変えられない。ただ投げ方の好き嫌いによって、キャッチャー側が球が取りにくくなるということはあると思う。「なんだよあの投げ方、ダセエな」的なことが心的に影響して球が取れなくなる。

でも難しいのは、是が非でもキャッチャーに自分が放った球を取らせ、ストライクと言わしめるというジャイアン的なやり方が確かにある。落語を芸術と捉え、この芸術が目に入らぬかという水戸光圀的見せ方。ここまで上がれるもんなら上がってこいやというやり方。情熱で投げ切る姿を見せるやり方。その姿で感動させるビックボスっぽいやり方。それも素晴らしいしかっこいい。他にもすごいやり方があるかもしれない。

つまり落語家ピッチャー論は、一般的な動きを説明できても全てを網羅する理論ではない。量子力学的な動きを説明できていない。全てを網羅する理論が待たれる。嘘です、待たれてはない。



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情熱がない高座なんて、と思ってやってるのですが、今日高座降りてきたあと前座さんがチオビタを渡された。まだ情熱が足りない。

田舎に越すにあたって軽車を購入しようと思っているのですが、買おうとしている車種があまりにも人気ないのか、街で2台しか見たことない。1台目は駅前のカーシェアリング駐車場に停めてあったもので、2台目は知り合いが乗っていたもの。今日、あれ3台目!と思ったら、2台目の知り合いの車だった。第三村人発見だと思ったら、第二村人だった的なことです。


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言葉を大事にして話す。例えば、自分の気持ち感じたことに目を向け、それをたくさんある日本語の中から出来るだけ最適なものを選んで伝える、っていうことってすごい難しい。それをするために最近楽屋に残って人とたくさん話すようにしている。

会話に間がないと疲れる。間がない落語も相当集中力がいるから脳が疲れて聴いてられない。ラジオも同じ気がする。間がある会話ができる人は落ち着いている人だなと感じる。そこに色気が出る気がする。普段から間をとるようにしないといけない。沈黙は金という言葉は、意味が違うかもしれないけど、間は金ということも言えると思う。間術師になりたい。

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