私の行きつけのそば屋に、いつもめちゃくちゃ怒っている店員さんがいる。私が今の家に引っ越したのをきっかけに通い始めた4年前もいたから、その前からいる。

そば屋は駅の改札内にある。腹が減っていると、仕事帰りにたまに寄るのだが、夕方以降であれば彼は大体いる。そして後輩にめちゃくちゃ小言を言っている。

内容はよくわからないが、テイストとしては「ねぇー毎回言ってるじゃんー」「だーかーらー、これはここに置いてこういう作業やっとかないとだめじゃんー」みたいな感じである。これが彼の独特な高音ボイスで発せられるので、非常に耳障りである。

それに加えてお客さんにも高圧的である。例えば「食券を出す前に席を取らないで下さーい」とか言うし、お客さんに「食券お願いします」と声をかけられると食い気味に「少々お待ち下さーい」と目も合わせずに答える始末である。そのせいで、彼が発する単なる「いらっしゃいませー」や「お待たせしましたー」などの声も煩わしくなってしまった。

私はここで、坦々つけ蕎麦を食べながら、電車の出発時刻まで将棋ウォーズをするのが楽しみなのだが、この高音小言のせいで、腹が減って力が出ないーのときでも、店の前を通り過ぎることが多くなってしまった。

そんなある日のことである。

私は夜の落語会を終え、22時過ぎに店の前を通りかかった。店内をチラ見するとやはり彼がいた。その日は高座で力が入りすぎたのか、かなり腹が減っていた。それに乗りたい電車の発車時刻まであと20分もあった。そこで私は久しぶりに店に入ることにした。
彼の小言は嫌だったが、そばを受け取るまでの我慢だ。カウンターを抜ければそこには楽しい坦々つけそばfeaturing将棋ウォーズが待っている。そう思って食券を買い、カウンターに渡そうとすると、何やら中の様子がおかしい。なんだか重苦しい雰囲気に包まれている。すると彼ではない別の女性の声が聞こえてきた。

「海鮮かき揚げまだ残ってたでしょうが!」

彼の声質を簡単に超えていく女性版の高音ボイスに、私はびっくりした。どうやら彼女はここの店長らしい。怒りの矛先は彼に向けられていた。彼はいつもの態度とはうって変わってしょんぼりとしていた。

「どうすんのこれ!もう閉店なのにこんなに余っちゃって!」

どうやら海鮮かき揚げはもう売り切れたと勘違いして、ずいぶん前に注文を止めてしまっていたらしい。この蕎麦屋は22時30分ラストオーダーの23時閉店だから、これから来るお客さんはほとんどいない。店には大量の海鮮かき揚げが残ってしまったということだろう。

私はなんだか彼が可哀想になってしまった。人間は普段よく見ているものに親しみを感じる性質があるらしいが、私もそれに倣って心のどこかで彼に親しみを感じていたのかもしれない、それとも前座修行で同じような辛さを味わったことがあるからかもしれない。どちらにしても誰かが誰かに怒られ続けている姿を見ていられなかった。

私は制限時間がカウントダウンされた将棋ウォーズの画面のままのスマホをテーブルに置き、カウンターへと向かった。そして

「あのー海鮮かき揚げって一つもらえます?」

と言おうとした。いや言った。言ったが、言い終わらなかった。言い終わる前に、彼が食い気味に

「少々お待ち下さーい」

と言った。

それはいつもの独特の高音ボイスであった。私は固まった。「そうですか、すみませんね助かります」の一言でも来ると思っていた。そんな予想は私の自己満の奢りであったが、とにかくそう予想していたから私は動揺した。

私は席に戻るタイミングを逃してしまった。「恥ずかし!」と思った。もう新しく来る客はいなかったからそこにいるのは私だけだった。私は放っておかれちゃっていた。

店長は相変わらずぷんすか怒っていた。今声をかければ「うるさい!」と言われかねなかったので、怖くて待つしかなかった。

食べ終わった客が次々に食器を返却口に置いて帰っていった。私も帰りたかった。でも帰れなかった。もう海鮮かき揚げをいただかないと帰れなくなっていた。

私はこの駅が最寄りであるかのように、そして時間などいくらでもあるかのように振る舞った。そしてすごく海鮮かき揚げを食べたい男のふりをした。そのあいだもカウンター内の小言は続いていた。今の彼らにとっては、接客することよりも大量の海鮮かき揚げをどうするのかの方がはるかに大問題だった。彼らにとって私は救世主でもなんでもなく、ただ海鮮かき揚げを食べたい人だった。

それでも電車の時間が近づいてきたので、私は勇気を出して「あのー海鮮かき揚げを」と言った。すると信じられない一言が返ってきました。

「海鮮かき揚げは売り切れましたー」

私は(なら仕方ないか)の顔をして席へと戻った。テーブルの上に置かれたスマホには「時間切れ負け」という文字が表示されていた。この時ばかりは情けは人のためならずということわざが、情けは人のためにならないからすべきでないという誤訳の方が正しいと思った。そしてなぜか本当に海鮮かき揚げが食べたくなっていた。食べなかったけど。