~愛と誠~の着地点を考える
最終す巻で愛と誠は抱き合い、大団円を迎えた。
が、ここまでの無理やり、無理くり、ごり押し、のパワー・プレイのストーリー展開とラストの誠の死(ただ私は奇跡の生還を信じているが)に私は納得がいかないのである。
この漫画の展開を大雑把に紹介すると、
①名門・青葉台学園でのラグビー部主将城山&ボクシング部主将火野との学園内抗争+隣町の不良高校生集団と乱闘事件
↓
②悪の花園実業高校での影の大番長高原由紀&影の校長座生権太との抗争
↓
③悪の花園実業高校を舞台に緋桜団団長・砂土谷峻との抗争
↓
④日本の闇との抗争
↓
⑤大団円
この抗争好きな太賀誠の勝手気ままな行動に早乙女愛は振り回されるも、誠のいるとこいるとこ追いかけ回し、岩清水弘は愛のいるとこいるとこ追いかけ回すという・・・・。
まぁ、とにかく②以降は殺伐とし、絵も暗い(砂土谷峻には笑わせてもらったが)。暴力団も巻き込んだ荒唐無稽にも程がある展開である。
④になると暴力団はおろか政治家まで巻き込み、ロッキード事件を彷彿させる汚職行為が早乙女家を襲い、誠が真相を暴きに一人で乗り込むという、もう、どんだけ~とやす子ママのように、もしくはチョコレートプラネット松尾のように声を張るしかないのである。
となると、どの時点で愛と誠というドラマを終わらせるのがベストなのか。
私はそれだけを何十年と悩み、考えた。この長い年月を英会話スクールにでも充ててれば、唐突に外人から道を聞かれても、I can’t speak Englishで逃げなくても済んだかも知れないのである。
日本なんだから、日本語でしゃべれよ、と心の中で毒ずくこともなかったのである。
I beg your pardon?くらいは言って、正々堂々と、I don't Knowとぶちかましてやれたのである。
もしくはアロマ・テラピー2級の資格でも取って部屋内を芳香させ、患者に「ストレスですよ、結局」と何でもストレスで片付けるテラピストになれたかも知れないのである。もしくは、ってもういいよ、しつこいな。
まぁ、とにかく勝手に物語を創作してみよう。
①の隣町の不良高校生集団と乱闘事件で石攻撃を浴びて傷ついた愛を、誠がお姫様だっこして、目が覚めた愛とキスして、THE END。学園暴力漫画の終わり方として一番牧歌的で能天気でいい方法なのだが、この展開ではとんでもない弱点が潜んでいるのである。
とんでもない弱点とは、高原由紀が登場しないのである。あの魅惑の高原由紀がいない愛と誠など、
クリープを入れないコーヒー、
いやサモラーノがいないチリ代表、
いやプロスト不在の1992年F1、
いや、牛丼がない吉野屋、
嗚呼いい例えが浮かばないほど、高原由紀の存在は重要なのである。
となると③まで持ち越し、高原由紀を精神的に倒した誠と愛を狙う座生権太との金網デス・マッチ、死闘を制した誠は愛を抱きしめキスして、THE END。これでいいんじゃねえの。
だが、一人忘れてはいませんか、お客さん。
ある意味この漫画の裏主人公のことを!!
そう、無法の上の大無法、暴力の上をいく仁義無用の大暴力軍団、緋桜団団長・砂土谷峻の出る幕がないのである。砂土谷がいなければ岩清水の消火器攻撃がお蔵入りだ。ホセ・メンドーサのいない「あしたのジョー」があり得ないように、砂土谷峻のいない「愛と誠」などあり得ないのである(そうでもないか。ホセと砂土谷は比べる対象ではなかったな)。
ということは、誠vs砂土谷の一騎打ちで、砂土谷は親指をもぎ取られ、とばっちりのアリスはやけっぱちのアリスになって「私の負けね」とつぶやき去って行き、誠と愛はキスをして、THE END。
これでいいんじゃね?
いや、私は悪の花園実業高校シリーズに今ひとつ乗れないのである。
では、隣町の不良高校生集団と乱闘事件を制し、ラスボスの花園実業高校と抗争を繰り広げるというのはどうか。もちろんじらしてじらして大番長の高原由紀が登場し、由紀のバックには砂土谷峻が控えるという。権太はこの際隣町の不良高校生集団の白痴ボスということで。
何だよ、何十年と悩んで考えてこの程度かよ、と自分を激しく責めたい感じである。
また機会があったら「愛と誠」の記事をUPしたいと思うのである。
嗚呼いい例えが浮かばないほど、高原由紀の存在は重要なのである。
となると③まで持ち越し、高原由紀を精神的に倒した誠と愛を狙う座生権太との金網デス・マッチ、死闘を制した誠は愛を抱きしめキスして、THE END。これでいいんじゃねえの。
だが、一人忘れてはいませんか、お客さん。
ある意味この漫画の裏主人公のことを!!
そう、無法の上の大無法、暴力の上をいく仁義無用の大暴力軍団、緋桜団団長・砂土谷峻の出る幕がないのである。砂土谷がいなければ岩清水の消火器攻撃がお蔵入りだ。ホセ・メンドーサのいない「あしたのジョー」があり得ないように、砂土谷峻のいない「愛と誠」などあり得ないのである(そうでもないか。ホセと砂土谷は比べる対象ではなかったな)。
ということは、誠vs砂土谷の一騎打ちで、砂土谷は親指をもぎ取られ、とばっちりのアリスはやけっぱちのアリスになって「私の負けね」とつぶやき去って行き、誠と愛はキスをして、THE END。
これでいいんじゃね?
いや、私は悪の花園実業高校シリーズに今ひとつ乗れないのである。
では、隣町の不良高校生集団と乱闘事件を制し、ラスボスの花園実業高校と抗争を繰り広げるというのはどうか。もちろんじらしてじらして大番長の高原由紀が登場し、由紀のバックには砂土谷峻が控えるという。権太はこの際隣町の不良高校生集団の白痴ボスということで。
何だよ、何十年と悩んで考えてこの程度かよ、と自分を激しく責めたい感じである。
また機会があったら「愛と誠」の記事をUPしたいと思うのである。
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コメント
コメント一覧 (35)
まずは「愛と誠」新作記事UPありがとうございます。
「愛と誠」原作の着地点ですか…
誠が砂土谷を倒し愛を抱いて去っていく…あそこがラストで良くなくね?
というのがショットガン説のようですが、清水弘説ではこうです。
砂土谷を倒した後、愛と誠の2人に敵はもういないか?
いいえ、いるいる。ある意味、いちばん身近なところにいてずーっと2人の行く手に影響していた愛の両親・早乙女夫妻というセンセイ君主が!
このセンセイ、いや専制君主の絶対的権威をぶち壊さない限り、愛と誠の2人の春は永遠に訪れない。
原作終盤の早乙女財閥事件は、連載当時のロッキード事件という世相に安易に乗っかっただけ、のように見えるかもしれないが、ぼくは、2人の最後の敵の早乙女夫妻が事件でボロボロになって、逆に2人に窮地を救われて改心するという、ストーリー上きわめて重要な展開を実にうまく盛り込んだなと、原作者梶原の手腕を高く評価しています。
猟銃自殺しようとする父や、マヌケな人質から逃げ帰った母に対する愛の痛烈な叱咤…あのシーン今でもシビレます。
では、清水的には着地点をどうしようか?
ラストのラスト、誠が早乙女事件の黒幕の政府高官をゴルフ場に追い詰めた時、目ざわりにも再登場した砂土谷に刺されるのではなく、逆にナイフを奪い返して砂土谷を刺殺する。
腰ヌケ高官を残して誠はその場から逃走し、愛の待つ逗子の浜辺で愛とキスしてジ・エンド。
単純なハッピーラストにしたくない梶原の顔を立てて、このあと誠には刑務所暮らしが待っている、という風にしたら、誠の死を認めたくないショットガンさん的にも納得なのでは?
俺はもう愛と誠は、暫くいいやという気分なんで。
長すぎるコメント書いちゃって失礼しました。
「もういいや」なんて言わず、「愛と誠」も含めてこれからも自由に書いてくださいよ。
ぼくこそ、もうこちらのブログにはお邪魔しませんから。
自分としては誠が愛の身代わりになって高原由紀にムチ打たれる場面がかっこよすぎたのであの後ハッピーエンドで
終わってもよかったかなと。高原由紀は死ななくてもよいですが、自殺を図って死んだと思っていたら生きていたって
いうのはその当時子どもでしたがテンション下がりましたね。ここで終わると砂土谷さんと緋桜団は登場しないことになります。
砂土谷さんと緋桜団は怖かったですが大人になって読み返してみるとしょーもないことしかやってないんですよね(笑)
こちらのブログは最高に面白かったです。お疲れ様でした。
とりあえず、愛と誠はしばらくいいやという気分です。
新しい記事を楽しみにしてます。
今日は金曜日だし残業せずに帰って懐漫でも読もうかなという気分です。
まあ仕方ないんですけどね(笑)。
私は、中学から高校にかけてリアルタイムで少年マガジンの「愛と誠」を体験した者です。
私的には…
①「青葉台学園編」は大好きです。
②「花園での高原&蔵王との抗争編」もかなり好きです。
③「緋桜団:砂土谷との抗争編」あたりから暴力色が過剰となり、主人公が何度危機に見舞われても、その都度超人的な活躍で危機を打破する描写に辟易としてしまい段々飽きてしまいました。
④「日本の闇との抗争編」これはもう最悪。
ただ、最終回の「誠がナイフで刺され、(おそらく)愛の胸の中で絶命するシーン」は個人的には最高です。
もちろん主人公の二人には幸せになって欲しい気持ちは山々ですが、
太賀誠というタイプの人物像から「ハッピーエンドを迎えた後の、平々凡々な幸せな日常生活シーン」をどうしても想像できない。
やっぱりあの「最高に美しい抱擁の後、太賀が死ぬ」というラストシーンは、私的には外せません。
そこで、私が考えた着地点です。
③「緋桜団:砂土谷との抗争編(間延びした部分をコンパクトにまとめる)」の後、愛は両親の厳命により逗子市の高校へ転校。岩清水も追って転校。
緋桜団の残党が太賀の引っ越し先を見つけ出し、「近々団長が出所するから逃げるな。もし逃げたら逗子の高校に通う愛の命はない」と太賀に告げる。
その後、太賀は居酒屋で泥酔し踏切で自殺を試みる母親を助ける。
そして、砂土谷との最終決闘場所へ。
ただ、太賀は愛のことを深く愛しはじめ、母親との確執にもケリがついたため、砂土谷と戦う意志はない。ただただ愛に危害を及ぼさないためだけの理由で決闘場所に赴いた。
砂土谷は全く無抵抗な太賀をムチ打ち、ナイフで刺す。最終話は全く同じ。
「日本の闇との抗争編」これはもう最悪~本当に最悪でした。最悪過ぎるかもしれません。
嗚呼、やはり誠は砂土谷に刺されて死ぬのですね。号泣です。
刺されてもいいのですが、絶命したのか、生き延びたのか、曖昧にして終わりにしてほしかったですね、私的には。砂土谷の取調べシーンで、警察が致死量越えている出血とかなんとか言っちゃって、あの台詞というより取調べシーンは無駄の最果てなのであります。私は甘ちゃんなので主人公が死ぬのはどうも・・・・。
確かに、ご指摘のとおり「死ぬか、生き延びるか」曖昧なままの終わりならアリだと思います。
砂土谷の取調べシーンを削除して、最終的に読み手の判断にゆだねる終わり方でも十分格調高い終焉だと思います。
ただ、著者がなぜ「取調べ室シーン」を描いたのか?
理由のひとつめは「太賀の死を読者に印象付けたかった」。
ふたつめの理由は「あそこまで冷酷非情だった砂土谷という人間が、最後の土壇場で人間らしい後悔の情を示す…という点を表現したかった」のだと思います。
そういう観点から、折衷案として、警察官の「内臓貫通、出血多量」というコメントのみを省略するバージョンはいかがでしょうか?
「あそこまで冷酷非情だった砂土谷という人間が、最後の土壇場で人間らしい後悔の情を示す…という点を表現したかった」私にとって砂土谷はマヌケ野郎としか思えません(笑)。そして太賀誠を愛してしまった片目の男。それだけに「おまえ、最後に何やってくれてんだよ」という、愛とのこれからに水差し過ぎだろ、この野郎という(笑)。
一点目は、「登場人物の相関関係」です。
私的には、「太賀=飛雄馬」、「権太=左門」、「由紀=京子」、「砂土谷=オズマ」に共通点を感じます。
不細工の権太(=左門)は絶世の美女由紀(=京子)に夢中。
ところが由紀(=京子)は太賀(=飛雄馬)に恋心を抱いている。
だが、太賀(=飛雄馬)は別の女性を愛している。
そんな三角関係の中、権太(=左門)の純粋で献身的な愛に、最終的に由紀(=京子)は心を開き二人は結ばれる。
砂土谷(=オズマ)は人間らしい心を持たないコンピュータのような冷血な男で、太賀(=飛雄馬)にとって最強のライバルだった。
太賀(=飛雄馬)と砂土谷(=オズマ)は何度も戦い、勝ったり負けたりを繰り返すが、最後の最後に砂土谷(=オズマ)に人間らしい感情が芽生える。
二点目は、「物語の序盤は非常に面白いが、進行とともに暗く理屈っぽくなっていく点」です。
ふたつの作品に対して「あしたのジョー」は最後まで面白い。
両者の決定的な違いは「影の共同原作者(=ちばてつや)」という存在の有無ではないかと思います。
Shotgun Blueさんは「なぜ、ながやす巧は原作に口出ししなかったのか」と仰いましたが、
もしかすると口出しできなかったのかも。
ながやす巧は「作画」の天才ではあっても「ストーリーテラー」の才能はゼロだったかも。
あるいは、梶原一騎がちばてつやとの苦い経験に懲りて、執筆を始める段階で
「原作者の原稿に一切手口出ししない」という契約を結んだのかも。
いずれにせよ、あれだけの名作が最後にあそこまで悲惨な状態に堕ちたことは返す返すも残念です。
いずれにせよ、梶原一騎は権太、左門、マンモス西と不細工キャラを必ず登場させていますが自分を投影しているのかもしれません。この3人が結局人生ハッピーに過ごしているのは梶原一騎の希望なのだろうか。男は顔じゃない、誠実かどうかだ。なんつってです。
太賀(=飛雄馬)と愛(=美奈)は激しく深く愛し合うのだが、二人が永遠に結ばれることはなかった。相手方の死により……。
さて、話は変わりますが、私的には、「砂土谷との闘争編」は「派手なエロチック&グロテスクなシーン」ばかりが目につき、ストーリーの深みがなく、面白くなかった。
私は「権太との屋上の決闘」の直後に「誠がナイフで刺されて大団円」でも十分満足なのですが、
ただ、それではあまりにも唐突すぎます。
いったい太賀誠は「誰」にナイフで刺されるのか?
そのためには、やはり「憎っくき最強&最悪のラスボス」の登場は必要不可欠なんです。
という意味で、「砂土谷との闘争編」は欠かせません。
ただ、この際、無駄な描写は大胆にカットしたい。
例えば、「緋桜団が暴走族からバイクを強奪するシーン」、「緋桜団が早乙女宅に強行突入するものの、肝心の愛を強奪できずに諦めるシーン」は不必要。
さらには「岩清水の消火剤噴霧」~「芝浦ふ頭での人質交換」まで大幅にカット。
ということで、私的案は…、
「緋桜団が学校を丸ごとジャック。~誠が砂土谷にムチ打たれる。~パトカーがサイレン鳴らして到着。~緋桜団逃げる。~与平は愛に『しばらく通学は控えなさい。わしは渡米する』と言い残し渡米。~誠が学校を爆弾で制圧。~岩清水、下校途上で緋桜団に拉致、拷問を受ける。~その後は原作どおり」とコンパクトにまとめたい。
そして「ロッキード事件」のグタグタを経由せずに「大団円」。
こういう流れでも物語としてのつじつまは合うのではないでしょうか?
ただ、それではShotgun Blueさんお気に入りの「砂土谷の二度に渡る愉快・痛快な泡踊り」が全面カットという結末になってしまいます(汗)。
さすがに…、この案は却下でしょうか?
「砂土谷の二度に渡る愉快・痛快な泡踊り」全面カットでも構いません。とにかく砂土谷登場から、与平だの政治家だのヤクザだのスペクタクルが過ぎ(梶原一騎の悪い癖が全面展開してしまった)、冷徹非道が売りの砂土谷がまぬけだったというところしか救いがなかっただけですから。
ただ、「いったい太賀誠は「誰」にナイフで刺されるのか?」私的には刺されなくていいのです。早乙女愛のなりふり構わぬ想いが誠に刺さっただけで充分です。なんつって。
そうですよね。Shotgun Blueさんは、「誠がナイフに刺されての大団円」自体に否定的ですものね。
私的には、この大団円以外のハッピーエンドという条件で考えれば、
「砂土谷との死闘を終え、気を失った愛を抱きかかえ校門を出ていく誠の後ろ姿」でジ・エンドがベストだと考えます。
こんな最終話を見せられたら、中坊だった頃の私なら悶々とその続きを空想したでしょう。
(以下、中坊の妄想)
校門を出、2、3歩歩いたところで愛が目を覚ます。
愛:「あ、誠さん、大丈夫よ、おろして。」
(並行して歩きながら…)愛:「誠さん、傷の手当てをしなくちゃ。病院へ…」
誠:「ふん、こんなのかすり傷よ。それより、愛お嬢さんこそ、もう家に帰りな。ご両親が心配されるぞ」
愛:「だめよ。今日は絶対に帰らない」
愛:(心の声)『お母様のためにボロボロに傷ついた誠さんの心を、今晩は私が全身全霊を傾けて癒してあげなければ…』
(歩いているうちに新宿の繁華街に)
愛:「とにかく、傷の手当てをしなくちゃ。ここに入りましょ」
と誠の腕をつかんでラブホの中に……。
梶原一騎が描く主人公像はみな、ストイックで女性に対して潔癖なタイプが多いです。
私は誠も飛雄馬もジョーも実は童貞ではないかと思うのですが、このシチュエーションになれば、さすがの誠でも行きつくところは合体しかありませんね。
おそらくこんな最終回を読んだ中坊の夜のオカズは妄想の続き以外になかったことでしょう。
少年誌は本当の男の欲望を封印せざるを得ない、まぁ仕方がないですが。
このページの№5にて「さいとうたかし」さんがおっしゃるとおり、
私も「誠がスケバングループからムチ打ちリンチを受け、由紀が自殺するまで」の部分が最高に好きです。
「青葉台学園編からここまでの部分が、この物語の最も輝いていた時期ではないか……」と思うのです。
その後、「実は由紀は生きていた」という流れに違和感を感じ始め、回を追うにつれ徐々に感動も薄れ、惰性で毎週本屋でマガジンを立ち読みする…という日々が続いていました。
まだ当時の私は未熟な中坊だったため、「愛が学校を休んでわざわざ蓼科までスキーに行った意図」とか、「花園の講堂で愛が証言した後、誠が『これは俺の三日月キズより高くつくゼ』と言った意味」とか、「屋上で愛が『今の誠さんと少年時代の誠さんのイメージがピッタリ一致した』と感じた意図」…等々を全く理解もせずに読み流していました。
その後、「蔵王与平による息子への説教」~「権太の改心」~「由紀による誠の心理解説」まで読み進むに至り、
目からウロコが落ちるように強い感銘を受けました。
「しばらくのあいだ低空飛行が続いた物語展開は、実はこのクライマックス部分のためにあったんだ!」と納得しました。
私は「『砂土谷との抗争編』は無駄な描写を省いてコンパクトにすべき」と考えますが、
「高原&蔵王との抗争編」に関しては、「無駄部分は存在しない。一見『中だるみ』と思われる部分もクライマックスに向けた重要な伏線である」と評価します。
ジジイになった今でも、夜しみじみと焼酎を飲みながらこのクライマックス部分を読み返すと、涙腺が緩みます。お恥ずかしながら……。
Shotgun Blueさんは、この「高原&蔵王との抗争編」をどのように評価されますか?
それでもなぜ権太を白痴設定にしたのか、なぜあんな大男に設定したのか、やや理解に苦しむところがあります。由紀のバックは砂土谷でいいのではないか?だが由紀が誠を愛してしまったため、砂土谷VS誠&由紀でいいのでは?とか支離滅裂な妄想に走ってしまいます。つまり「高原&蔵王との抗争編」は75点くらいという感想なのです。私は青葉台学園編が一番好きなのですが、それだと由紀が登場しないぞ、とか、嗚呼罪作りな漫画です、愛と誠は。
「一体、こいつは突然現れて何者なんだ?」と思われたことでしょうが、こんな私にお付き合いいただき感謝です。
もしもこの世に「完全無欠な名作」があるとするならば、「愛と誠」はその対極に位置する「不完全極まりない異形の超名作」だ……と思います。
実は、私もRolling Stonesの大ファンなのですが……、
Stonesは非常に質が高く、梶原作品に例えるなら「あしたのジョー」。
そんな感じで「愛と誠」をミュージシャンに例えるなら、私的にはBob Dylanです。
Dylanという男はいとも簡単に「不朽の名曲」を産み出すかと思えば、自らのキャリアに泥を塗るような「クソ作品」を平気で発表する。
さて、本題の「愛と誠」に戻ります。
おそらく、大多数の読者が「砂土谷登場以降は面白くない。その後のリクルート部分は最低最悪!」という感想を抱いたのでは…と思います。
ただ、問題は「大団円…最終話部分」をどう評価するか?
この部分は、評価が180度分かれるのではないでしょうか?
「終わりあるものの美しさを逗子に沈む夕陽と対比させて見事に描ききった」と絶賛する意見と、
「お~い梶原ぁ。なんでここで誠を殺しちまうんだよ~!」と絶叫する意見。
おそらく両者は未来永劫、平行線を辿ることでしょう。
Shotgun Blueさん。色々と意見交換させていただきましたが、とりあえず筆を置きます。
また何か頭に浮かんだ暁には書き込みたいと思いますので、その節は懲りずにお付き合いくださいませ。
どうぞ、またコメント下さい。レスポンスは遅れてしまいますが。
「筆を置く」と言いつつ…、「頭に浮かんだこと」があったので再び書き込みます。
>大人になって読み返すと砂土谷自身はマヌケで面白いというひねくれた発見をしたわけです。
そうですよねぇ。確かにマヌケで面白いです。ただ……、
本来「愛と誠」とはシリアスなテーマを扱った劇画なので、
原作者の梶原氏は、決して読者の“ウケ”を狙ってこのような「ズッコケキャラ」を描いたわけではないと思うのです。
おそらくは、「他人に厳しく自分に甘い」という極悪非道なキャラを強調しようとして、
図らずも読者の笑いを誘導してしまったのではないか…と推測します。
もしこの作品を作り直せるなら、私的には砂谷土を「男組の神竜剛次」「北斗の拳のラオウ」のように誇り高き男に描きたいものです。
もう一点。「不完全極まりない異形の超名作」……。
この言葉を読み返して、ふと太賀誠がキズを負って現れた由紀に言ったセリフ(KC版7巻P151)を思い出しました。
「同じひとつの顔の中に美しさと醜さが同居してるなんざ、極めて芸術的じゃないの。エッ?」
梶原さん。同じひとつの「作品」の中に「美しさ(=序盤)」と「醜さ(=終盤)」が同居してるなんざ、極めて芸術的じゃないの。エッ? まさか…そこを狙ったわけじゃ…。
PS、上で私が書いたレス中、「リクルート」は「ロッキード」の誤りでした。
が故に梶原やながやすが全く意図しない方向、私のような「ギャグ漫画として読む」という輩を生み出してしまったのかも知れません。
~同じひとつの「作品」の中に「美しさ(=序盤)」と「醜さ(=終盤)」が同居してるなんざ、極めて芸術的じゃないの。エッ? まさか…そこを狙ったわけじゃ~
梶原一騎は文学者になれなかった男です。光と影を自覚、もしくは無自覚に染み付いているのでしょう。彼の作品は栄光と悲哀、つまり美と醜が常に同居しているのでしょう。なんつって。
否定派の方々にとって、「大団円(最終話部分)」はどのくらい点数が低いのかが気になるところです。
ちなみに、私的に点数を付けたら次のようになります。
1.青葉台編 95点
2.高原&蔵王との抗争編 85点
3.砂土谷との抗争編 15点
4.グァム島編 20点
5.ロッキード編 0点
6.最終話(オリジナル通り) 100点
7.最終話(除:取調室) 100点
Shotgun Blueさんの採点はどうでしょうか?
1.青葉台編 80点
マイナス20は、城山潰しにヤクザを使ったことで、ある種誠の美学と矛盾しているため。
2.高原&蔵王との抗争編 75点
いちいち与平や由紀の親がでてくるため。
3.砂土谷との抗争編 5点 砂土谷キャラに200点
4.グァム島編 愛のプロポーションが素晴らしいので90点
5.ロッキード編 0点
6.最終話(オリジナル通り)0点
7.最終話(除:取調室)90点
総合点数は限りなく100点に近い60点。クロスロードさんの言うとおり、不完全なねじまがった普及の名作なので。
「除:取調室」の90点と「オリジナル通り」の0点との「月とスッポン」ほどの点差は、ひとえに「誠の生存確率に対する期待度の違い」なのですよね?
Shotgun Blueさんの誠に対する熱い思いが、この点差からひしひしと感じられます。
意外だったのは、「除:取調室」が90点だったこと。な、な、なんと「青葉台編」を上回って歴代最高得点じゃないですか…。
さて、「最終話」に関する考察を2点書きます。
一点目。「あしたのジョー」の執筆中、梶原氏とスタッフとで「試合後の力石をどう扱うか」について激論が交わされた…という逸話を、ずっと昔、読んだことがあります。
喫茶店で「殺すべきだ」、「いや殺すべきじゃない」とヒソヒソ話ししていたら、ウエイトレスに「ヤバい人達だ」と勘違いされたとかいう笑い話のようなエピソードです。
「愛と誠」のエンディングに関しても、原作者以下は相当頭を悩ましたこととは思いますが、ただ、物語の中盤の時点でマガジン紙上のインタビューにて梶原氏本人が「この物語はハッピーエンドでは終わらせない」と断言したことを記憶しています。
梶原氏の構想では、かなり早い段階で最終シーンは決まっていたのだと思います。
二点目。ナイフで刺され瀕死の誠は逗子海岸に行きます。
携帯もないあの時代、なぜ、都合よくそこに愛がいたのか?
いかにフィクションとは、いえあまりにも都合が良すぎると思いませんか?
ただ、ふたりが逗子で再会できたのは実は必然的だったのでは……、と推理してみました。
長文になりましたので、推理内容は次回。
「ナイフで刺され瀕死の誠は逗子海岸に行きます。携帯もないあの時代、なぜ、都合よくそこに愛がいたのか?」~確かに。嗚呼、そこ気づかなかったです。
私は、3つの描写を基に、ある仮説を組み立てました。
第一に、物語の終盤で、早乙女家が引っ越すシーンが出てきます。
どこに引っ越したかは描写がありませんが、少なくとも、最終話時点で愛はあの豪邸には住んでいないことは確実です。
第二に、愛の母が実家に帰る際、母の実家は逗子だと明記されています。さらに、母は散歩中、逗子海岸で拉致されていますので、彼女の実家は逗子海岸から徒歩数分の距離にあることは明白であり、この情報は誠も知っています。
ここからは根拠なき妄想なのですが、私は早乙女一家は母の実家(またはその近く)に引っ越したと考えます。
第三に、国税局の家宅捜索が終わった後の応接間で、誠を交えて色んな会話が交わされています。
本編には記述はありませんが、父親から「国税局から『屋敷を差し押さえる』と言われた。近々引っ越しせざるをえない。妻の実家(の近く)に引っ越そうと思う」旨の会話がなされたことは容易に推測できます。
だから、瀕死の誠は、今、愛が逗子海岸の付近にいることを知っていた…というわけです。
ちなみに、地図で見ると逗子海岸は海に向かって西側に面しています。
私は逗子には一度も行ったことはないのですが、きっと素晴らしいサンセットビューポイントなのでしょう。
そして、陸地から海岸に向かって立ったとき、誠は右側から歩いてきます。つまり北(東京方面)から歩いてきたわけです。
南(三浦半島の突端方面)から歩いてくるよりはリアリティがあるなと感心しました。
「だからそれがどうした?」と言われても困ります。独り言として聞き流してください(汗)。
(1年以上読んでないので再読しようかな)。
愛が逗子海岸の付近にいることを知っていたとしても、その時間帯に愛たちが待っていることをどうしてわかったんでしょうか。死へのタイムリミットが近づいていた誠は神憑り的な勘が働いたのでしょうか。
本編に記述がないのでなんとも言えませんが、逗子海岸の可能性だって十分あると思います。
あるいは、誠は意識がもうろうとする中で、「早乙女愛に対して初めて『愛』の告白をした思い出の海岸」に向かい、たまたま偶然愛と再会した可能性だってあると思います。
>愛が逗子海岸の付近にいることを知っていたとしても、その時間帯に愛たちが待っていることをどうしてわかったんでしょうか。
>死へのタイムリミットが近づいていた誠は神憑り的な勘が働いたのでしょうか。
「誠は、『愛の現住所が逗子海岸付近である』と知っていた」という前提で考えてみましょう。
もしかすると、愛はたまたま旅行中かもしれない、あるいは、買い物の際中かもしれない。今、どこにいるか、正確な状況は誠にはわからない。
でも、もしShotgun Blueさんが誠の立場(腰をナイフで刺され、必死の思いで最愛の女性の元に行きたいという立場)に立ったら、どこを目指しますか?
私だったら、間違いなく逗子海岸を目指します。
誠の限られた情報量の中で、最も愛と出会える可能性が高い場所は逗子海岸だからです。
たまたま偶然そこに愛がいたのは、「これはフィクションだったから」と割り切って読んでいます。
さて次は、「オリジナル最終回で誠は本当に死んだのか?」を考えてみようと思います。
長文なので、一旦切ります。
私は「死んだ」と考えます。Shotgun Blueさんは「それでも生きている」と主張されます。
実は、かく言う私も「その考えは決して荒唐無稽ではない」と思います。
最終話の中で、とても興味深いコメントがふたつあります。
ひとつは、取調室の刑事による「内臓貫通、出血多量。被害者は今頃、死んでいる」という発言。これは医学的見地に基づいた非常に説得力のある情報です。
もうひとつは、由紀の「誠君は不死身だから、きっと大丈夫」という発言。これは何の根拠もない能天気な妄想発言です。
現実世界で、このふたつの発言を天秤にかけて比べれば、前者の方が圧倒的に「説得力」と「信ぴょう性」が高いわけです。
ただ「愛と誠」は、「実話」ではなく「フィクション」なんです。
常識では到底考えられないことですが、普通の人間なら間違いなく死んでしまうような状況でも、あの太賀誠なら生き延びる可能性は十分あり得る。
現に、刑事が「今頃は死んでいる」と言ったその瞬間、誠はまだ生きているんです!
この一点からも、誠の驚異的な生命力は医学の常識を軽く凌駕しているんです。
私は思うのですが、著者(梶原氏)は、二人の登場人物の真逆なセリフを通して、我々読者に「誠のその後」を暗示的に語りかけたのではないでしょうか?
常識(刑事発言)を信じるか、奇跡(由紀発言)を信じるか……、それは各読者次第であり、「それぞれの読者がイメージした結末が、そのまんま真実なんだよ」と梶原氏は結末を読者に託したのではないかと思うのです。
つまり、誠の生存確率は「0:100」でも「1:99」でもなく、「50:50」なのです。
したがって、Shotgun Blueさんの主張は全くおかしくない。これからも堂々と持論を主張し続けてください。
今のところ断片的にでも見つけたのは、梶原一騎とは縁もゆかりもない、サッカー漫画『キャプテン翼』の2次創作小説集の中にありました。
何やら事情があって愛お嬢さん、いや愛奥さんは長女と2人でパリの片隅にて暮らしている模様。
表向きは東欧の雑貨店ル・エストを営みながら、復興したらしい早乙女財閥へ多大な影響力を持っているらしく、つかみどころのない気品のある食わせ者とでもいうような淑女となっています。娘さんもその友達も、まさかこの母親がこんな激しい戦いの人生をおくっていたとは夢にも思わないでしょうな。
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