SOLB220
「年下の男の子」(とししたのおとこのこ)は、1975年2月にリリースされたキャンディーズの5枚目のシングルである。
 年下の男の子
作詞:千家和也/作曲・編曲:穂口雄右

 ″ゼロ年代の音楽
<ビッチフォーク編>″
という本にキャンディーズについてのくだりがある。

田中…ホントにそうだと思う。同時に、俺ね、キャンディーズが好きだったんですよ。2年くらい前に研究したの、なんで俺、あんなに好きだったんだろうって。ライヴアルバムがあってさ。
野田…シュープリームスのカヴァーとかやってるやつでしょ、俺も好き。
田中…すごいのがMCで「こんばんは、キャンディーズです!」の後に「伊藤蘭です。蘭と呼んでください」と言うんだよ。このスタンスは明らかに奴隷でしょ。それを満面の笑顔で言って一万人の男がウォーッとなってる。この構造があまりにも凄まじくてさ。奴隷女性3人が何万という主人の前にかしずくという。満面の作り笑顔で「誇りだけは絶対に失わない」みたいなバイブスなの。
水越…それは辞めるね。
田中…解散直前にそれぞれに曲をつくったレコードがあって、そのなかに伊藤蘭がつくったポエトリー・リーディングがあるんだけど、それが遊女の話でさ。ある遊女がずっと働いているところに一人の漁師がきて「俺が月の夜にお前をさらってやるから一緒に逃げよう」という話なの。で、遊女はそれを待ってるんだけど、結局彼は来なかったというストーリー。それを解散のときにやってるのはどうしたって意識的でしょう。自分たちに求められてるものとそれに応えてる自分たちをわかってるよね。キャンディーズをやってた18から22の間に彼女たちの顔がどんどん変わってく。何も考えてない無邪気な顔の女の子があるとき「認められた」=this year's modelになったという輝く笑顔になって、その直後に真っ暗な顔になる。
水越…なんで暗い顔になるの?
田中…とにかく忙しくなる。あとはゴシップ的な話だけど、独立しようとして潰される。それで解散になるんだよね。その直後にキリッとした顔になるんだよ。この修羅場を最後までやり遂げるという。今考えれば、それとブロンディがリンクしてたんだと思う。売るけれども安くは売らないし、尊厳だけは譲らないという。



気になるのは、奴隷女性が何万という主人にかしずく~の部分。
芸能プロダクションやレコード会社はおろか、ファンでさえ、私達のご主人様…。
このような奴隷感覚に陥るのは何となく理解出来る。が、ファンの男達はキャンディーズを自分達の奴隷と思っていたのだろうか?

「奴隷とは、人間でありながら、所有の客体すなわち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利、自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全面支配に服し、労働を強制され、譲渡、売買の対象とされた~」
ウィキペディアより。


ファンの男達がキャンディーズの所有者なら、彼女達を自由に(性的にも)操る事が可能である。が男達は彼女達を夢想するのみ、タッチすることさえ出来ない(サイン会などを別として)。
ある意味彼らは、キャンディーズの奴隷であり、全国キャンディーズ連盟などは青春の全てをご主人様であるキャンディーズに注いでいた(大量のスペルマを放出し、大量のティッシュを消費したことだろう)。
 

おそらくキャンディーズはそのような熱狂的ファンに感謝すると同時に恐れも抱いていたのではないか?
ファナティックな群集というのは、恐ろしい。意味不明で、暴力的で狂気な行動に走ってしまうのである。社会心理学者はこれを群集心理(集団心理)と呼ぶ。過剰な集団心理はいじめや差別を助長する要素のひとつであり、社会に重大なひずみをつくる。サッカーや野球などに熱狂している集団を見ているとこのエネルギーを別なことに使えよ、と思う反面、その別なことをよくチョイスしろよと余計なことまでアドバイスしたくなるのである。

 ″年下の男の子 ″でポップスターになったキャンディーズは順調にヒットを飛ばすが、その奴隷感覚が切実になり、突然、周囲に知らせずに<解散宣言>する。命懸けの奴隷の反乱である。が、プロダクションは解散の半年延長を条件に認めてしまう。これはプロダクションが彼女達を奴隷と思っていなかった証明ではないか?
ただし、プロダクション側はキャンディーズの商品価値を冷静に見抜いていたと思う。
と同時にキャンディーズ(おそらく、リーダー伊藤蘭の頭脳)も人気絶頂期に解散という戦略を練っていたのだと思う。
芸能プロダクションとは人気があるうちに儲けるだけ儲ける…伊藤蘭はそうやって犠牲になった芸能人、落日の芸能人を多く見て来た。自分達も時間の問題と判断したのである。
これはある種、プロダクション側とキャンディーズの利害が一致したようなものだ。
でなければ勝手な<解散宣言>にプロダクション側が理解を示すだろうか?(もしかしたら契約がザルだったのかも知れない=裁判になったら負ける)

 キャンディーズが解散を決意したのは、自由を奪われる芸能システムへの抵抗という側面が大きいと思うが、もうひとつ勝手に仮説をたてると、ミュージシャンとしての才能に限界を感じたのではないか?
キャンディーズのコンサートのセットリストには洋楽の和訳無しのカヴァーが多い。当然彼女達は原曲を聴いて学習する。
その繰り返しの際に、自分達の歌唱力、声域、コーラス…逆立ちしても本物にはかなわないと感じたはずだ。
日本というマーケットのみ通用するキャンディーズに耐えられなくなったのではないか?
あくまでもオレのひとりよがりの推測だが…。


仮にキャンディーズがそう感じていても、オレは洋楽が本物でキャンディーズが偽物という感覚は全否定したい。


歌謡曲というのは、過剰なアレンジ、過剰なメロディー展開、過剰な歌詞、洋楽のいい部分と演歌をごった煮したような音楽だ。
が、キャンディーズは ″年下の男の子 ″以来、歌謡曲臭さは適度に抑制が効いていて、良質なバンドサウンドになっている。アルバムをじっくり聴けばよくわかるはずだ。

今、聴いても新鮮なポップミュージックである。
というより現在の無味無臭のJ-POP(全てではない)に比べれば遥かに際立っている。
70年代歌謡曲の多くは今の時代単なるノスタルジアにしかならないが、キャンディーズはノスタルジア&オールドニューという趣がある。
それは、シュープリームスや60年代イギリスのガールズグループが今聴いても錆びない輝きを保っているのとイコールである。
一瞬で消費されるポップミュージックが不変のポップミュージックと化しているのだ、キャンディーズは…。
 


田中好子の死により、万が一にもあったかも知れないキャンディーズ再結成の可能性が永遠に失われてしまった。


キャンディーズは普通の女の子に戻れたのだろうか…。


といつになく真面目過ぎる文章じゃね?オレはキャンディーズと山口百恵にはマジになってしまうのである。
文字通りキャンディーズの年下の男の子だった半ズボンのオレにとって、彼女達は憧れのお姉さんだったのである。ある種、隣のお姉さんであり、中年になって若い女をお姉ちゃんと呼んでしまうのとは180度違うのであり、嗚呼、オレはあの時包茎だった、立派に皮かむりだった、と涙に咽ぶのである。今となっては心にどす黒い闇を抱え激安な大人になり、皮もむけたのだが、人としての皮は一向にむけず、とりあえずビールを呑むのだ。という訳であの頃はドリフを毎週見ていたのである。キャンディーズがどんぐり返ししたりして身体のラインが強調されたりしたら鼻血もんだったのである。ちなみに最初はミキちゃんのファンだったが結局蘭ちゃんが好きになるのである。 今でも蘭ちゃんがたまにTVに出ると甘酸っぱい気持ちになるのである。
キャンディーズ
 
GOLDEN☆BEST キャンディーズ コンプリート・シングルコレクション
キャンディーズ
ソニー・ミュージックダイレクト
2011-06-08