「妻の浮気を止めてくれませんか?」

男は探偵事務所の神沢にそう話した。

依頼人は事務所の営業開始の朝10時に電話で予約を入れると、11時前には事務所にやってきた。

(よほど切羽詰まっているんだな)

神沢は苦笑した。

男は添田修一48歳。教育関係の出版社で事務の仕事をしていた。風貌は白髪混じりで年齢より老けて見えた。

「奥様の浮気はいつ頃から?」

神沢は質問を始めた。

「今朝です。いや昨晩というか・・・」

(こりゃ随分急な話だな)

神沢はこういうタイプが苦手だった。嫉妬深く独善的で、いくら調査で浮気している様子はなかったと話しても納得しないからである。

「奥様に電話がかかってきたとか、メールをご覧になったとか」

「いえ、それが・・・」

男は言い出しかねていた。

「何でも話してください」

「私は予知夢を見るんです」

神沢は絶句した。

(これはいよいよやばいクライアントだぞ)

「添田さん、もう少し詳しく伺いたいのですが・・・」

「探偵さん!」

男は言葉を遮った。

「私はこれまで何度も予知夢を見ました。自分の見た夢が現実になるんです。信じてもらえなくても構いません。ただ時間がないんです。今夜妻は浮気するかもしれない。それを邪魔して止めてください。私は自分で行く勇気がないのです。お願いします」


結局神沢は男の依頼を受けた。そして妻が男と待ち合わせをするはずだというカフェに向かった

(やれやれ・・・)

神沢は溜息をついた。

(ここで現れるはずのない人間を張り込むのか)

神沢はポケットから男から預かった妻の写真を取り出した。

『添田茉莉子 29歳』女優かモデルと見間違うほどの美しい女だった。

(20近くも年の離れた美しい女を嫁に貰い、嫉妬で頭が変になったに違いない)

神沢は勝手に納得した。

こんな気楽で退屈な張り込みはなかった。どこに注視することもなく、ほどなくして彼はうとうとし始めた。


「探偵さん」

声を掛けられ神沢は目を覚ますと、目の前に女が立っていた。その現実を彼はすぐには受け入れられなかった。女は添田の妻、茉莉子であった。

(ばれたのか?いやそんなはずはないが)

「夫から私の浮気調査の依頼を受けた探偵事務所の神沢さんですね?」

「ああ、そうだが」

神沢は混乱して思わず身分を明かしてしまった。

「夫の予知夢は本当です。それと・・・」

茉莉子は大きな瞳で神沢を見据えた。

「私も予知夢を見るんです」

神沢はさらに混乱した。

「神沢さん」

茉莉子は顔を近づけてきた。香水の甘い匂いがした。

「私たちはお互い惹かれあうように結婚しました。夫はすぐに予知夢のことを話してくれましたが、私は黙っていました。昨夜私は夫が神沢さんの事務所に駆け込み、私の浮気調査を依頼する夢を見たんです」

茉莉子は思いつめた表情で続けた。

「夫の予知夢は完璧です。この意味が分りますか?」

「あなたは浮気をしているのですね?」

「神沢さん、私を助けてください」

「顧客の調査の対象であるあなたの依頼を受けることはできません」

神沢は引き上げようとした。

「待って。夫の予知夢どおり私はこれから浮気をする。あなたはそれを当然のように黙っている。そんなすべてが上手くいく方法があるんです」

神沢が振り返ると、茉莉子は思わせぶりな顔で見つめていた。潤んだ瞳、煽情的な口唇。神沢はすぐにその意味を理解した。


茉莉子は神沢と関係を持った後もそのままホテルにとどまっていた。

(後は名探偵さんが上手くやってくれるわ)

夫の前ではけっして吸わない煙草に火をつけた。

(神沢は夫と会い、私が何ら疑わしい行動は取らなかったと報告する。私は頃合いを見て家に帰ればいい)

夫の添田修一は予知夢など見ていなかった。もともとそんな能力は持っていないのだ。

茉莉子は25歳のとき中途入社をした。そこに今の夫、修一がいた。

ある日茉莉子は修一が自分に交際を申し込む夢を見た。茉莉子は不思議に思った。自分に言い寄る男はみな自信満々で自己顕示欲の塊のような連中だった。修一のようなうだつの上がらない40過ぎの独身男がなぜ自分に言い寄るつもりなのか解らなかった。

茉莉子は彼に興味を持ち身辺調査を依頼した。家は近所でも有名な資産家だったが、修一は子供の頃から体が弱く、それが理由でずっと独身でいるようだった。

茉莉子は彼との結婚を決意した。といっても特に手立ては必要なかった。放っておけば必ず向こうから告白してくるのだ。


一週間後、そのときは訪れた。

「あなたに一目惚れしてしまった。これまで健康に自信がなく独身でいたが、これを逃すと一生後悔するだろう。こんなおじさんで申し訳ないがあなたとつき合いたい」
修一は精一杯の言葉で思いを伝えてきた。

手練手管の茉莉子にとってあとは造作なかった。数ヵ月後、茉莉子はまんまと修一にプロポーズさせてしまった。


結婚後しばらくしたある朝のこと。修一が、よく思い出せないが昨夜面白い夢を見たと話してきた。

茉莉子は軽い気持ちで、その日自分の見た夢に強引に導いてやると、修一はそんな感じだったかもしれないと納得した。そして夢は当然のように現実となった。

修一は珍しく子供のようにはしゃいだ。結婚後も体調がすぐれずふさぎ込みがちだった夫を元気づけようと、茉莉子はその後も何度か修一の曖昧な夢の話を自分の“現実の夢”に引き込んでやった。そうするうちに修一は、自分は予知夢を見ると思うようになったのだ。

予知夢を見ると思い込んでいる夫と本当に見ている妻。面白い夫婦だと気楽に考えていた。今朝の出来事が起きるまでは・・・。


茉莉子はホテルで男にメールを打っていた。

「夫が倒れて介護をしなくちゃならないの。しばらくは連絡も取れないけど、大丈夫よね?」

結婚生活は茉莉子の理想とは裏腹に至極退屈なものだった。資産家といっても自由になるお金は多くなかったし、何より体の弱い修一が性的に淡白なのが不満だった。暇つぶしで働き始めた会社の若い社員と男女の仲になるのにさして時間はかからなかった。

茉莉子はメールを送り終えるとすぐに送信メールから削除した。


修一は結婚当初から若い体を持て余していた妻のことが心配でならなかった。そんな彼の心の深層が昨晩の夢を見させたのだ。

そして茉莉子も夢を見た。修一が自分の浮気調査を依頼する夢だった。

慌てた茉莉子は一計を案じた。外出した修一の後をつけると案の定そこは探偵事務所だった。そこで何時間も張り込み、ようやく神沢が現れると今度は彼を尾行した。そして自分が来ることになっているカフェに神沢が入店すると、しばらく間を置いてあえてのこのこ姿を見せたのだった。

(そろそろ良さそうね)

茉莉子は時間を確認すると、今度は修一に電話をかけた。

「遅くなってごめんなさい。学生時代の女友達にばったり会ってしまって。今から帰ります」

「いや構わないよ。気をつけて帰るんだよ」

夫の反応にさすがに緊張したが、電話の声はまるで憑き物が取れたかのような明るい声だった。

(ここまで計画通りよ)

神沢にはカフェで女友達らしき人物と会っていたと報告するように打ち合わせしておいたのだ。

自分が依頼した探偵の報告と妻からの電話の内容が一致していれば、夫の疑いが晴れないわけはなかった。

ひと月ほど前、茉莉子は衝撃的な夢を見た。夢の中で茉莉子は夫にバレンタインデーのチョコレートを渡していた。嬉しそうな顔で受け取る修一。すると突然修一が苦しそうな顔で呻き始めその場に倒れ込んだ。茉莉子は修一の名を何度も呼んだが、彼は身動きしなかった。

 

「いやぁ!」

茉莉子は悲鳴をあげて目を覚ました。恐ろしい夢だった。額に脂汗がにじんでいた。隣で寝ていた修一が大丈夫かと声をかけてきた。

214日に夫が死ぬ・・・)

その夜はまんじりともできなかった。夢の恐怖感は次第に薄れ、それとは別の高揚感が茉莉子の心を支配し始めた。


茉莉子は身支度を整えカフェを出た。ここで失敗するわけにはいかなかった。夫が死ねば遺産は自分のものになる。その前に浮気がばれて離婚されては元も子もない。

病弱な夫は遺言書を残しているかもしれなかった。少しの疑いも持たれてはならなかった。

(もうすぐバレンタインデーよ。あなたに素敵なプレゼントを用意するわ。毒の入っていない毒入りチョコレートよ)

茉莉子は夫の待つ家へ急いだ(完)