カテゴリ: 懐古

 以前書いた職場からの帰途ルートは、是政から自宅に至る二三のルートで、職場のあった溝口から是政までの道中ショットは省いている。少しずつ記憶から消失していくのを感じている。


0. 右折

1. 踏切。南武線横断。

2. 高津交叉点を左折。

3. ガストを右折して厚木街道に入る。

4. ガソリンスタンドを左に見る。

5. 厚木街道を左折して多摩川沿いの細い道に入る。


5. 川崎市立多磨病院  

6. 登戸駅

7. Y地路を右に

8.  登戸題2公園北側交差点を右に

9.  登戸新町を左折 

10. 稲城 多磨川原交差点を過ぎる。鶴川街道横断

11.  わずかに左折(信号あり)
12. コンビニ(薬局)
13. デニーズ(星野珈琲) 
〒206-0801東京都稲城市大丸525-4

閉店したデニーズの消息について書かれたサイト
デニーズ稲城店 
東京都稲城市大丸525-4
2009年8月27日閉店

14. 是政 

■理化学研究所
s11-和光陸橋-理化学研究所
s7-理化学研究所
■ガスト
理化学研究所のすぐ向こうにガストが見えていたが、入ったことはない。記憶の中のガストはもう少し小高い丘の上に建っていたはずだったが、写真を見ると平地の上に建っている。
s8-ガスト
s12-理化学研究所-自衛隊
s13-自衛隊-朝霞警察署
s14-朝霞警察署-榎ガード
■弁慶と貸工場
バイク店「弁慶」の先にある貸工場「セブン」は、今なお脳裡に焼き付いている。車運転中に、ここの一室を借りて住居にしてみようとする空想を何度もしたからだ。もう寿命も残り少ない朽ち果てた空きビルだった。数年後にはストリートビューからも消えるだろう。
 s9-弁慶
s10-貸し工場
■くら寿司
帰途に、ここのくら寿司に入ったことはない。ごく稀に休みの日に、自宅からこの店に行くことはあった。
s11-くら寿司
s15-榎ガード-ドンキ

■マツ屋
くら寿司近くのマツ屋には確か一度だけ入っている。こんな些細なことでも当時の身分にとっては大きな出来事だった。この近くに吉野屋もあるので、もしかすると、入ったのは吉野家の方かもしれない。
s12-マツ屋
s16-ドンキ-新座駅
s17-新座駅-葵インター
■新座駅
すぐ右手にある新座駅からの武蔵野線の高架を潜る。新座駅近辺の記憶は随分混乱している。普段電車で新座駅で降車することはなかったはずで、間違いなく車で走行していたと思われるのだが、特に用事もない新座駅に一体何をしにいったのか。新座駅から駅近くの十文字学園女子大学近辺を彷徨っていた記憶ははっきり残っているのだ。当時、ダイエットを兼ねたウォーキングに凝っていたことがあり、そのときに新座駅付近を散策していたようにも思い出されるが、どうもはっきり思い出せない。否、車で新座駅まで行くとなると、停車する場所がないので、これも記憶違いのようである。いくつかのショットが重なる。清瀬の横に長い公園や、東所沢病院や寺院や高い観音像。これらの単発ショットはストリートビューで見つけることができるかもしれない。
s13-新座駅
■CoCo壱番屋
ここも左手に見て何となく覚えている。店構えが派手なので記憶にとどまっていたのか。こうしたカレーの店は不味いので入ったことはない。
s14-CoCo壱番屋
■宇佐美ガソリンスタンド
何度もここで給油をしている。
s15-宇佐美
■葵インター
葵インター手前で左車線に入り、所沢方面に左折する。急カーブの細い道なので、毎回緊張した。一度間違えて真っすぐ進行し、そのまま関越自動車道に入って行ってしまったことがあったかもしれない。
s16-葵インター所沢へ
s18-葵インター-所沢インター
s19--所沢インターー亀ケ谷
s20-亀ケ谷-ラーメン屋
 ■所沢インター
■亀ケ谷
亀ケ谷交差点には安楽亭とマグドナルドがあった。どちらにも入っている。ここで直進せず左折して右手にあるコンビニで買い物をして帰ったことが何度かあった。
s17-亀ケ谷
■ラーメン屋
大通りから左折して細い道に入って行く角にある小さなラーメン屋。写真よりもう少し鄙びた印象があった。こんな大きな看板も実際にあったかどうか。
s18-ラーメン屋
s21-ラーメン屋-橋
 ■橋
s19-橋
 
■株式会社AXISビル
通勤のたびに必ず眼にするビルだったが、何の会社か今なお知らず。
s20-AXIS
s22-橋-アパート

 ■アパート
この写真はストリートビューの2010年時のもので、まだ我が愛車が写されている。病気で倒れる2年前の写真である。
s21-アパート

8月24日に新しいルータを取り付けてから随分ネット環境は改善されたとはいえ、まだGoogleのストリートビューを見る時の不具合までは解消されてはいない。これはどれだけ回線状況を良くしても、現況ソフトウェアレベルでは、避けられない問題なのか。静止写真の切り替えによって車の進行状況をシミュレートせざるを得ないのは仕方ないにしても、ある方向に進行しているはずが、マウス位置か何かの予期せぬ操作によって、突然これまで走行していた大通りから狭い路地に入ってしまったり、あるいは逆方向に進路を変えてしまったりすることがよくある。また、撮影時間帯が昼だったり夜だったりさまざまなので、同じ風景が突然前触れもなく昼から夜に切り替わったりすることも頻繁にある。あたかもマグリットの「光の帝国」に入り込んだりする気分になって、これはこれで面白いのかもしれないが、やはり実用上は不便この上ない。(ただし、この写真のスライドショー方式のストリートビューも、それほど遠くない時期に、動画方式のストリートビューに変わることだろう)。

昨年に職場からの帰途ルートを必死に思い出して、Googleマップ+ストリートビューにそれを探していた。その職場は、つい2年前までここから上京して通っていた学校で、今なお未整理の帰途ルート(溝口〜是政)が残されているが、そことは別の職場でおよそ10年程前に行っていた早稲田の学校からの帰途の断片は、まだどうにか記憶に残っている。どちらにしても、死すまでに為すべき作業は回想と追憶しかない。これは芸術行為であれ、夢見の追憶であれ、現世の意識の通常の顕れであれ、すべてそうなのである。ストリートビューが突然クラッシュしたり、妙な道や風景に迷い込んだりするのと同じように、回想作業も辛いが、現在やるべきはそれ以外にないという気がする。遠のいて行く風景をつなぎとめるために、早稲田からの帰途ルートを数回に分けて思い出すとしよう。記憶にとどめているショットだけをピックアップする。

■馬場口と高戸橋交差点
交差点名の馬場口と高戸橋は覚えている。職場に近い方が馬場口で自宅に近い方が北寄りの高戸橋になる。ただし、帰途における二つの交差点のショットは全く記憶になく、もっぱら早朝だったか職場に行く時の高戸橋交差点を右折するときに風景ばかりが思い出される。なぜなら右折のための車線がいつも大変な渋滞で面倒な思いをしていたからだ。帰途においては、明治通りを高戸橋交差点で左折して新目白通りに入る。
s1-早稲田-山手線越え
■首都高速中央環状線を越える地下道
高田馬場駅と池袋駅を結ぶ山手線を越え、新目白通りに直交する首都高速中央環状線を地下道を潜って横断する。
s2-山手線-首都高中央環状
s0
■ 首都高中央環状-中野通りまで
s3-首都高中央環状-中野通り
■中野通り-環七
s4-中野通り-環七
●練馬駅前附近
地図で見ると右側には西武池袋戦の桜台駅や地下鉄大江戸線の練馬駅があったようだが、車で走っていると、もちろんそんなことは知る由もない。ただそれまでの単調な道周りが賑やかになって、いろとりどりの店が密集し始めているような様子を、無意識に感じていた。道路脇のビルをつなぐ連絡通路があったのをストリートビューであらためて思い出した。
s2
よく考えると、この「連絡道路」という空間も面白い。それはトンネルでもあり、道路でもあり、もちろん媒介項である。ただ、階段のような不安な雰囲気は齎さない。大体が外の風景がよく見えるガラス張りの壁を持ち、もっぱら明るい雰囲気を持っている。面白いことに、この「連絡道路」のまともな定義もネットで見つからない。Wikipediaにも記載がない。定義が曖昧な割りにはネット上の画像は多い。以下、二三拝借。
F0906-1
F0906-2
■環七-中村北デニーズ
s5-環七-中村北デニーズ
●中村北デニーズ
新目白通りがどこで目白通りに変わるのか地図で見てもはっきりしないが、ともかくいつの間にか目白通りに入って左手にあったデニーズ。確か一度入ったはず。
s1
■環八-谷原

s7-環八-谷原
●谷原交差点
目白通りから、ガストのある谷原交差点を右折して笹目通りに入る。やはり、交差点とか入ったことのあるレストラン等がないと、記憶にとどまることはない。どういうわけか、ここの谷原交差点近辺のストリートビューの写真がうまく捉えることができず、道路進行もうまくできない。
s3
■谷原-高松6
s8-谷原-高松6
■味の民芸
この店のことはすっかり忘れていた。しかし、多分昨年の段階で、ストリートビューを確認し、ここに一度以上は入っているなと思い出したことがあったのは確かなのだ。その後、さらに記憶から消失し、つい最近思い出すまでにずっと暗闇にはいりこんだままだった。今はようやく思い出すことができ、車を停めた裏の駐車場の様子まで甦っているものの、どうもまだボンヤリした霞の中に淀んでいる気がしてならぬ。
s4
s8-谷原-味の民芸
s9-味の民芸-和光陸橋
■和光陸橋
所沢に向かう254号線に入るために左折する場所。254号線を、笹目通りが高架で覆う形となっている。そのため、高架に上る笹目通りから左側車線に沿れ、交差点を左折して254号線に入って行く。角にガソリンスタンドがあり、前方に写真の緑のタンクが見えていたのは覚えている。
s6
s5

1. 溝口→登戸→是政
2. 諏訪町馬場口→高戸橋→(新目白通り)高田馬場→谷原
3. (新目白通り)谷原→和光陸橋→理化学研究所西門→葵インターの手前→所沢インター→の手前→亀ケ谷→

1年近く前に、「帰途ルート」「帰途1-a」と題して、職場からのいくつかの帰途ルートをストリートビューのスナップショットを交えて思い出すという面倒な記事を書いている。なぜあんなことをしていたのか。

同じ頃に、エッセー「部屋へ」のスキャニングとデジタルデータ化という、これも今考えると途方もなく面倒な作業も手がけている。ただし、「過去帳2011年」や「過去帳2012年」などの昔のノートのテキスト起こしや、さらに新しいノートの記述(現在帳)についてはは今年に入ってからの作業になるので(意外と最近であるという気はする)、4年前にはとてもこれらが今後できるとは考えられなかったことを思えば、昨年の作業と今年に入ってからの作業のどちらが大変かは簡単には決められない。

「帰途ルート」を始めとして、昔のドライブの思いでなどを詳しく綴っていたのは、今思うとやはりそれは単なる回想というよりは、消え行く記憶を必死になってつなぎ止めようとする足掻きに違いなかったのだ。職場からの帰途ルートで、いつかメモしておく必要があるのは、早稲田にある学校に行っていたときの行きと帰りのルートである。こちらは今でもどうにか、Googleマップやストリートビューを参照して当時の眼に焼き付いていた風景を思い出すことができる。それ以前の職場になると多分ほとんど追憶も不可能になっているのではないか。

数日前に嫌な体験をしている。今年に入ってどういうわけか文章を綴ることがスムーズにできなくなったことに加え、元々表現しにくい事項を書くことになるので、箇条書きにして必要なことだけを簡潔に書いて行く。

十数年前頃に渋谷の街を駅方面に向かって車で運行しているショットを思い出した。車のフロントガラスから見た風景なので、少なくとも免許を取って車に乗り出した1995年以降のことである。そして下図の渋谷警察署辺りにあった裁判所(?)の縦に長い看板のある場所を左折してどこかに向かっていたことを思い出した。だが一体、左折後にどこに向かっていったのかを少しも思い出すことができない——このような回想である。
16のコピー
まず、「十数年前の渋谷の街を駅方面に向かって車で運行しているショット、及び裁判所らしい看板、さらに看板のあるところを左折してどこかに向かっていった」ところまでは、はっきりと事実として思い出すことができた。
そして左折してどこかに向かっていたのか「思い出せない」というジレンマも、数日前まではっきりと抱いていた。

ところがそれから数日経って、一体どうしたのか、上記の「十数年前の渋谷の街を駅方面に向かって車で運行しているショット、及び裁判所らしい看板、さらに看板のあるところを左折してどこかに向かっていった」記憶がすっかり消えてしまったのである。

この解答は次のどれかである。

●実際に、昔に渋谷の街を駅方面に向かって走り、縦に長い裁判所の看板の所を左折してどこかに向かっていたことがあった、しかし、左折後にどこに向かっていったのかをここ数日で忘れてしまい思い出せない。

●昔に渋谷の街を駅方面に向かって走ったり、縦に長い裁判所の看板の所を左折してどこかに向かう話し自体が架空の話しであり、夢であった。つまり、曰く言い難いが、

「昔に渋谷の街を駅方面に向かって走ったり、縦に長い裁判所の看板の所を左折してどこかに向かっていたことを忘れた」という夢を見た???。

もうひとつ気味の悪いことを書いておく。地図を見ると、駅に向かってY地路になって道が分かれている。このことはGoogleマップを見た時にもすぐに思い出して知っていた。ところがその数日後にもう一度地図を見ても(今現在見ても)、そのことがどうしても思い出せぬのだ。つまり、渋谷駅への道の記憶は、ずっと数十年もの間は鮮明にあったというのに、ここ数日の間に忽然と消えてしまったのだ。

新宿地下街、京王モールに「亜麻亜亭」という喫茶室があって、昔よく利用した。地下鉄か京王線の乗り場が近かったから使ったのか。遠い記憶では、東西線の入り口が近かったように覚えているが、地図を見る限り、東西線などは近くを走っていない。

京王モールの「亜麻亜亭」とは反対側の端に、珈琲が美味かった広い喫茶室があった。今の地図を見るともう残ってはいないようである。この喫茶店についてはある思い出(店そのものの思い出というよりは、店に脈絡なく絡み付いている一種の想念)がある。しかし、今はそれについて書いてみる気力はない。自分の生死に関わるテーマでもあり、今後も書くことはできないかもしれない。
57
56
42

学生時代に住んでいた浦安の風景。
あえてこの世果てる地として選んだ浦安には、二カ所住居を変えている。最初に住んだ猫実時代は、まだ浦安市ではなく、「千葉県東葛飾郡浦安町」だった。次の堀江時代に市に昇格したように憶えている。堀江のときに短期間やった警備員の派遣先が、海の近くにあった建設中の松下電気の倉庫だった。作っていたのは西武建設だった。

まだディズニーランドができる前の浦安で、もしかするとこの写真は、その後のランドが建つ予定の土地を捉えたものだったのかもしれない。 何もない広大な埋め立て地にぽつんと「?年後にオープンの東京ディズニーランド建設予定地」と書いてある立て看板が立っていて、「誰かのいたずらか」と思ったようにも憶えている(それとも後から当時はそう思ったと思い込んだのか)。
img012
img004
img015
 

x01
府中街道を北上する。このルートはあまり記憶になく、特に府中街道沿いには印象に残るショットや店が少ない。多分数回程度しか利用していない。

中央自動車道の高架を潜る。
y01
津田塾大学を右手に見て直進。
y02
ここで強く覚えている場所に遭遇する。突き当たりを左折して小川町という交差点をすぐに右折して直進するのである。しかし、ここは職場からの帰途で遭遇して覚えているのかどうかという疑問がある。しばらくここが帰途にあった場所であることに気づかず、今回マップで初めて知ったという事情もある。なぜか、昔に仕事をしたNTTの巨大な建物がすぐ近くにあった気がしてならなかった。だがそのNTTは確か三鷹にあったはずなので、ここ小川町近辺とは無関係のはずである。
y03a
y03b
y03c
小川町交差点右側には老舗の和菓子屋があったように覚えているが、今は消えてしまって大きな看板だけになっている。
y03d
y03e
y04
府中街道をずっと北上し、久米川町五丁目の先の角にGSのあるY字路を右に曲って志木街道に入る。このY字路も職場からの帰途で刻まれたというより、東村山のイトーヨーカドーなどに買い物に出かけ、その帰りに何度も眼にしたショットである気がする。
y05
志木街道を直進。
とんでん。帰途ではなく、自宅から出かけて確か一回だけ入ったことがある。深夜に近い時刻で何か不安で落ちつかず、妙に寒かった記憶がある。もしかすると、2011年3月の地震の時だったのかもしれない。灯油が少しも手に入らず、食料確保にも事欠いて、やむを得ず夜に車で行ったのかもしれない。何を食べたのかはむろん覚えていないが、あまり美味くなかった記憶あり。
y06
くら寿司。ここには帰途においても、自宅からも行ってたびたび入っている。
y07
郵便局を左折。
y08
自宅へ。
 y09

ここ2週程の間に何度か危機があった。少しずつ再開してみる。

帰途1-aストリートビューから
a01
ここを左折し、本格的な帰途に入っていくという覚悟を決める。しかし、ここ10年の間に随分道路工事が行なわれ、様子が変わってしまった。曲がり角に交番があった気がする。
右側が線路で駅が近いのは何となく感じながら走行していた。左側にはずっと続くうら寂しい塀の存在を感じていた。塀の向こう側が多摩川競艇場だったのは後ほど知る。
b01-多摩川競艇場
最初の大通りを右折。上を走る中央自動車道は記憶にない。
b02-最初の大通りを右折
 大通りを左折。
b02b-通りを左折
a02
トンネルをくぐって京王線を横断する。この線路が通っている道の段差が激しく、いつも徐行しなければならなかった。すぐ左側には多摩霊園駅があったらしい。後ほど地図で初めて知ることになった。
b03-京王線を横断
退屈な道程において、妙に印象に刻まれたいくつかのショットのうちのひとつ。写真館(スタジオ)と小さな映画館。があったはずで、以前ストリートビューで確認しているのに、今は見つからない。
一度入ってみようかと思ったこともあったパスタ屋「マンマパスタ」府中店。店舗が古めかしく、あまり美味しそうでもなかった。
b03b-マンマパスタ府中店
a03
a04
さえき・若松町食品館を左に見る。この辺りにかかると再び寂しい雰囲気の風景が続く。道も細くなって、Y字路を左折。
b05-Y字路を左折
b04-若松町食品館
サンクス府中浅間町店を右手に見てから、浅間町二丁目を右折。ここから広い道路新小金井街道に入る。
b06a-浅間町二丁目を右折
b06b-浅間町二丁目を右折
a05
a06
a07
「小金井大勝軒」というトンカツやを左に眺めて、中央線が通っている宮井トンネルをくぐる。そしてここからが小さな中華料理屋が乱立する一帯へと突入することになる。
b07-小金井大勝軒
宮井トンネル
b09-宮井トンネル
ラーメン二郎新小金井道店
b08-ラーメン二郎
a08
ここの「天神町一丁目」交差点は強く記憶に残っているショットだ。帰途を二つの区域に分けるなら、後半にさしかかるターニングポイントとしての交差点である。ただし、しばらくはここで右折して「花小金井」まで走っていたのが、2005年程に、新小金井街道がさらに直進方向に開通し、右折はしなくなった。

右手の「プリモピアット」は個人が経営している小洒落た小さなレストランだった。「テナント募集中」の看板が見えるので、いずれこの店もなくなるだろう。
b10-プリモピアット
天神町一丁目交差点。右側にマグドナルド。以前は別の店だった気もする。
b11-天神町一丁目
a09
a10
押出橋でY字路に交差している別の道と合流する。
b12-押出橋
a11
左側にはいつも夜の光で彩られる豪奢なレストランが見えていて、このような場所に入る機会はもうないだろうと思っていた。ところがあらためて地図を見ると、そのレストランとはジョナサンだった。昼間に見るともっと違って見えたのだろう。
b13-ジョナサン
記憶の中では、最後に走った時もまだ工事中で、地図には交差点の名称も記載されていない。ここを左折して細い小金井街道に入る。
b14-交差点左折
右側に西武新宿線の清瀬駅を見て踏切を渡る。小さな駅だったが、踏切にはいつも駅員が立っていたような気もする。
b15-清瀬駅
 自宅に向うべくここを右折して、さらに細い道に入る。
b16
b18
b17

●ルート1(a)
是政橋北
小柳町東右折<→>
小柳町四東左折<←>
<多磨霊園駅>
若松町四丁目
<ミヤマコーポ左折←>
浅間町二丁目右折<→>
小金井南中西
<(小金井大勝軒)宮井トンネル>
学芸大グランド入口
天神町一丁目(直進)<マグドナルド>→新小金井街道
押出橋(Y字路合流)
<ジョナサン>
<アオキ左折←> 
<清瀬駅>
郵便局前
東所沢


●ルート1(b)
是政橋北
小柳町東右折<→>
小柳町四東左折<←>
<多磨霊園駅>
若松町四丁目
浅間町二丁目
右折<→>
小金井南中西
学芸大グランド入口
天神町一丁目右折<→>
<マグドナルド>
花小金井左折<←>
郵便局前
東所沢


●ルート2(a)
<府中本町駅>
<北府中駅>
北府中駅
<西国分寺駅>
恋ケ窪
津田塾大学前
たかの街道
小川町右折<→>
<マグドナルド>
天神町一丁目
花小金井
東所沢

●ルート2(b)
<府中本町駅>
<北府中駅>
北府中駅
<西国分寺駅>
恋ケ窪
津田塾大学前
たかの街道
小川町(直進)
八坂
東村山駅東口<GSY字路>
<くら寿司>
郵便局前左折<←>
東所沢

1. 原宿にあった真理アンヌのカレー店。

2. 東京駅から上野方面(?)に向う曲り角(カーブ?)

3. 大手町のT字路(右折してどこかに)

4. 九段会館。

5. 東所沢の散歩道。 東所沢病院。

6. 所沢、金山町の交差点。

子供の時に夢中になった江戸川乱歩の少年探偵シリーズ。ずっと集めていたポプラ社の全集は、アマゾン等で今でも購入できるのは知っていたが、のめり込むきっかけとなったのは、竹雄祖父が宣ちゃんのために購入した「灰色の巨人」と「虎の牙」二冊だった。どこの出版社から出たシリーズだったかは、当時は子供だったからもちろん意識していない。ただ、今でもその大半を思い起こすことができるほど、挿絵が大変リアルだったので、ずっと長い間深く印象に残っていた。
ところがその図版を、ついにネットで偶然見つけることができた。光文社から昭和32年に出版されたものらしいので想像以上に新しい本だった。挿絵は中村猛男とある。

「灰色の巨人」
a0285326_18323972
a0285326_18323264
a0285326_18322650
 「虎の牙」
caesar028-img600x450-1387809836afsf4l40817
caesar028-img600x450-13878098370vyfis40817
法田から持ち帰って、確か病床にあった自分に母が与えた「少年探偵」本は、この「灰色の巨人」と「虎の牙」だけである。もしかすると、いつの間にか我が家から消えて、多分従兄弟の方に行ってしまったこの二冊が巡り巡って、ネット上に浮かんだのかもしれない、と今ふと考えている。 
少年探偵ものは、数年前に揃えた同じ光文社の江戸川乱歩全集(文庫版)に全部収められているので、今さら購入はできないが、もしかするとこの「灰色の巨人」古本には、竹雄直筆の虎のイラストが、扉あたりの頁に描かれているかもしれない。ただ、上記のカバーの絵には見覚えがないので(家にあったのはカバーなしだった)、多分違うだろう。

今日は岡崎花火大会の日。母のエッセーにも花火の話しがいくつかあり、内容が重複しているため遺稿集への収録を見合わせたものもあった。次に引用するのは『あじくりげ』79年7月号に掲載された「花火のこと」。あらためて気づいたことだが、遺稿集に載せた「花火の思い出」(中日新聞)には書かれていない新婚当時住んでいた岡崎の羽根大地における花火について書かれている。岡崎では居住地を三度替えている。松阪から移り住んだ最初の羽根大地、それから六名町の県営アパート、最後の六供町の持ち家の三カ所である。初めてテキストに起こす。

花火のこと

 また、花火の季節がやってきた。
 ぱぁ、と大空にはぜて、しばらくして、どんと遠くで鳴る。そして、空にひきこまれるように、消える。
 あの華やかさこそ花火の醍醐味、という人もあれば、最後の消えてゆく瞬間が好き、という人もある。中には昼間音だけを聞いているのがいいという人もいる。
 岡崎へ始めてきたとき—もう二十四年も前のことだが—何もないけれど、この街は花火がきれいだよ、とそうおしえられた。
住んだ所は花火の上がる菅生川から六キロも離れた街のはずれだったから、殆んど見えなかったけれど、祭りの日屋根裏部屋へ上ると、窓から小さなものがかすかに見えた。音は聞こえない。「みえた、みえた」私はひとりではしゃいだ。
 二年めに引越した。申込んであった県営アパートが、運よく当ったのである。菅生川は一つ通りを隔ててすぐそこだった。今迄よりも余分な部屋が一つ出来て、夏休みになると花火をめあてに主人の妹と私の妹がやってきた。あの頃は写真をよく撮ったらしく、妹たちと私とが花火を背景にして写っている。その頃はまだ子供がなかった。
 息子が出来て、その子が花火をみて嬉しそうに手をあげるようになったのは、それから二年後である。夫の父母と私の父母とが変りばんこに来てくれた。私たちの部屋は一番高い四階にあったから、花火は窓からもよく見えたのであるが、それでも私たちはわざわざ屋上に上って薄べりに陣どった。
 川の向う側に打上げ花火の筒が据えられであるのだろう、そこから多い時には殆ど五秒ごとに上る。空に高く青や赤の花火がはぜ、見ている顔に覆いかぶさるように拡がって消える。息をつく暇もなく次から次へと打出されるのもあれば、ときどき忘れたようにぽんと上がる。それも妙である。
夕食には毎年川に近い「うなぎ屋」でうなぎを買ってきた。そのころの私の家にとってはかなりのごちそうだつたのだろう。屋上の花火見物、うなぎを焼く匂い、アパートのむんむんする暑さ、幼い子が屋上と自分の部屋との間を行ったりきたりする、何でもないことに大声をあげて—。こんな夏の宵の様子が昨日のことのように頭に浮んでくる。
 それから又二年たって、私たちは今度は街はずれに家を立てて移った。小さい家だが高い丘の上に立っていて、頗る見晴しはよかった。「ここは岡崎でもたぶん二番目に高い土地でしょう」と地主はいった。「花火がきっとよく見えますよ」その頃子供は二人になっていたが、家をたてて何よりも喜んだのはその子供たちだった。石垣を積み上げた小さな丘、周りには何もない。雑草と雑木の空地である。名もしらぬ小鳥たちが朝早くから囀っていた。夜になると昼間の快い疲れでぐっすりと眠る子供らの夢のあいだに、ふくろうが含み声で啼いた。そして、花火があった。花火は南の空いっぱいに拡がった。自分の家から見る花火は何度見でもあきなかった。しかもアパートの時には見えなかった仕掛け花火まで、ここでは見えたのである。大空で鳴る尺玉花火の響宴が一とき終ると今度は川の仕掛け花火があたりの空を華やぐように乱玉を打ちあげる。最初には大声をあげていた子供たちも、しまいには黙って燃える南の空をみつめている。
 やがて我家での花火の観客も変った。子供たちも成長し、妹たちもいつか結婚した。時々子供づれでやってくるが、人は年々変りこそすれ、九時頃まで庭に出て蚊取線香をたきながら空をたのしむこの我家の風習は今も同じである。もっとも例のうなぎは手作りのちらし寿司に変った。それにすいか。ビール。それから五年程前から矢作川の上流にすんでいる友人の父親が、花火見物かたがた鮎をもってきてくれる。友人が「すそわけですけど」といつももってきてくれるのである。かちかちに凍っているのを溶かして、庭の炉で焼く。
 私はごちそうを作ったり、妹たちの相談ごとを聞いてやったり、花火をゆっくりみている暇もない。「わぁ」 という姪たちの歓声を遠くに、台所の小さい窓をみながら、美しい花火を身体の奥の方で感じている。
『あじくりげ』79年07月号 
あじくりげ7907-c
あじくりげ7907-d

次は、遺稿集に載せた「花火の思い出」。こちらは松阪時代の思い出から始まり、岡崎県営アパート、六供の家へと続く。書かれたのは1979年と1980年だから、期間的にそれほど間隙はない。

花火の思い出

 夏、といえば、この土地ではやはり、花火である。
  夏祭りが近づくと、長雨のあがった川原のまぶしい草の間で、新しいさじき作りの仕事が始まる。電車の駅に張り出してある花火大会のポスターが、急に大きく鮮明に見えてくる。私は小さい姪たちに電話をかける。「今度の花火、来てくれる?」姪たちはこの日の私の大事なお客さんなのだ。
  その日、あらかたの掃除をすませ、ごちそうを用意して客たちを早くから待ちながら、大人はもう遠くなったいくつかの夏の夜をふと走馬燈のように思い出していた。
  私がちいさいころ澄んでいた松阪の櫛田川では、川開きに毎年花火祭りが行われていた。
  川開きというから七月の初めことであったろう。その日になると私は祖母やおばたちといっしょに二階の手すりに座ぶとんを持って陣とりにゆく。陣とるといっても、川べりの私の家と花火の上る両群橋とは五キロも離れていたから、打ち上げの小さいのがかすかにポンと、それも忘れたころに上るだけである。
  けれどもそれは、私たちの夏の大きな楽しみであった。スイカやラムネ水などがふんだんに出るのも魅力だった。現場の熱気や祭りのもっているはなやかなふん囲気はなかったけれど、遠い花火にはそれなりに趣があって、私の小さい夏をやさしくいろどっている。
  花火の思い出は岡崎に来てからより豊富になる。運よく抽選で当たった県営住宅は、花火が打ち上げられる菅生川のすぐそばだった。それも四階であったから、遊びにきた友達から「花火のために家を借りたんじゃない?」とからかわれたりした。窓からでも十分に見えたのに、祭りの夕方には私たちはわざわざ屋上にのぼった。七時になると打ち上げが始まる。花火はちょうど真上に上った。
  くらい夜空の高みに光は大きく開き、あたり一面をおおうように広がった。今まで私の脳裏に刻みこまれていた田舎のそれとはけた違いに大きく、豪華である。長男はまだ一歳にならなかったが、「ハナビ、ハナビ」と舌たらずの声で叫びながら、その巨(おお)きさを示してくれるように、何度も両手を上に大きく開いてみせた。
  何年かたって、私たちはこの辺の高台に小さな家を建て、移り住んだ。まわりには何もない。ガスもなく水道もなく、ただ風の吹く林と草っ原である。三日程したころ、朝早く大きな音で目を覚ました。今しがた家が地震にあったような感じであった。子供が泣き出した。急いで庭に出てみると東隣の地所に人が立っていたような形跡がある。煙がぼうと出ている。私たちは不安になった。
  しばらくたつうちに事の次第がわかってきた。私の家から少し離れた町なかで五日おきに朝市が立つのだが、爆音はその市を知らせるための花火だったのである。近くに私たちは住みついたからだろうか、この煙火の打ち上げはその後一ヶ月位で中止になってしまったけれど、花火は美しい光をみせるだけのもの、とばかり思っていた私は、今も生きているのろしをまのあたりみて、はからずも古い生活の知恵に出あった気がしたのだった。
  あのころからもう二十一年になる。その間この高台の家に、いろいろな人たちが夏の夜の空を楽しみにきてくれた。主人や私の父母や兄妹はもちろん、家を建ててくれた大工さん、花火の御礼にと小さなお皿を下さった陶工夫妻、たくさんの同僚やお友達……。近ごろとみに忘れっぽくなった私だが、それでもこの宵のお客はふしぎに覚えているものである。私の心の中で、お客たちはいつも昔のままの姿だけれども。
  姪たちはもう来るころだろうか。私はまた表へ出てみる。
  日はまだ照っているのに、戸外は熱っぽい祭りの宵を、もうどこかにきざしはじめている。

『中日新聞』80年7月26日
花火の思い出800726(中日)
エッセー中にある「妹や小さな姪たち」が写っている1983年8月6日撮影のフォト。
img02
img11
img06
 

昔、相模原にある職業能力開発総合大学校に通っていたことがあった。いつ頃からいつまで行っていたかすぐには思い出せない。多分2000年を挟んで7、8年だったのことだったように思う。5月の発作後、何の脈絡もなく突然しばらく忘れていた昔のことを思い出すことが多く、この職業能力開発総合大学校の風景も、さっき急に脳裡に浮かんだ断片の一つである。ネットで調べてみたら、相模原のキャンパスは2013年に廃校となったという。まだ2年前のことだから、病気になった2012年には廃校が決定されていたとしても、まだ残存していてGoogleMapやストリートビューで当時の風景を偲ぶことはできたのに、今はそれすらできなくなってしまったようである。広いキャンパスなのに学生数は少なく、東京郊外でポツンと建っているのが今思うと妙に印象的な学校だった。下はWikiから。

職業能力開発総合大学校(しょくぎょうのうりょくかいはつそうごうだいがっこう、英語: Polytechnic University)は、東京都小平市小川西町二丁目32番1号に本部を置く日本の省庁大学校である。1961年(昭和36年)に設置された。大学校の略称は職業大(しょくぎょうだい)。
長期課程(学士(工学)を取得できる課程)および研究課程(修士(工学)を取得できる課程)は2011年(平成23年)度入学生の卒業および修了をもって廃止される[1]。2012年(平成24年)度より総合課程(学士(生産技術)[1]を取得できる課程として2012年2月に認可[2])が小平キャンパスに開設され、相模原キャンパスは2013年3月末で廃止された[1]。 

ネットで見つけた下の写真は、なくなった相模原キャンパスの正門の写真だろう。 
132127527309813224379_DSC01293
下のGoogleMapからは、どうしても当時の橋本駅からの道程を記憶通りに辿ることができない。一度所沢から車で行ったら朝の渋滞に引っ掛かり大幅に遅刻したことがあって、貰った回数チケットで駅からタクシーで行ったことが多かった。「二本松小学校入口」で左折して学校の正門まで行ったにが確かなのに、その正門のあったはずの場所が、地図でも航空写真でもストリートビューでも見つけることができないのだ。広大なキャンパス跡地は売却しただろうから、正門前の様子も変わってしまったのだろうけど。
57
37
25


信じがたいほどの幻覚体験を得たのは、先月11日のことだからもう一ヶ月になる。それ以降、たびたび遭遇する不可解な出来事が、幻覚なのか誰にでもある単なる思い違いなのか、にわかに判別できなくなっており、何日か前の次のエピソードもその一つだった。浪人時代に行ってたすいどーばた美術学院の場所を例によってGooglMap+ストリートビューで調べていたら、昔に確実にあったはずの場所とは異なる所に学院が建っているのである。上京直後に住んだ西荻窪は学校のある目白から遠かったため、夏頃に今度は学校のすぐ近くに居を構えるという失策をやってのけた。学校からそれこそ歩いて1分足らずという所に住処を構えると、数少ない友人たちのそれでも溜まり場と化してしまうという事実を、当時は全く予測できていなかった。しかしその分、学校からアパートまでの区画は、後々までずと明瞭に記憶に刻まれ、アパートから数十メートルの僅かの距離にある学校の場所を忘れるはずがなかった。当時の日記帳によると最初に住んだ西荻窪のアパートの住所は、

〒167 杉並区西荻北4-28-8 和根崎留治方

とあり、二度目の学院近くの住所は、

豊島区目白4-20-12 吉田荘 5号室

とある。このアパートの住所を検索すると、記憶と寸分違わない場所に赤いピンアイコンが表示された。
49
42
もちろんストリートビューの写真で見る街並はすっかり変わってしまっている。ところが、その場所の道路を挟んで向かい側にあったはずの学院が見当たらず、地図によれば西武池袋の線路を挟んだ北側に存在しているのである。すぐには信じがたく、学院のHPの沿革などを調べてみたが、移転等の記載は次の情報しかなかった。

1957 / 4    東京都文京区水道端(現水道)に高澤節が「すいどーばた洋画会」を創立
1964 / 7    現在地にアトリエ(現1号館)を新設し、移転

現在地は、〒171-0021東京都豊島区西池袋4-2-15

であり、57年に学院設立以降は64年にこの西池袋に移転したという記載しかなく、それ以降に別の場所(目白)に移転したという情報はないのである。つまり沿革によれば、64年に現在地の池袋に移転したのみで、その先に引っ越した事実については一切触れられていないのだ。
しばらくはまたこれも幻覚なのかと愕然としたものだった。翌日にもう一度マップを見てみようと思いながらその勇気もなかったほどで、結局、当時の学院関係者がいなくなった後に沿革の原稿もHP制作会社に提出されたのだろう、つまりやはり池袋と目白間の僅かな距離ながら移転はあったのだろうと思うしかなかった。

そしてようやくこの謎が氷解した。たまたま自死した学校の先輩である小松良和氏の遺作展の情報を覗いていたときに偶然ヒットした学院の発行していた「SAS NEWS」という新聞の創刊号の画像データに、69年当時の学校の住所が次のように記されていた。

豊島区目白4-21-6

要するに、69年当時に学院の存在した場所は、2015年現在の「西池袋4-2-15」ではなく、やはり「目白4-21-6」であり、住んでいたアパートのすぐ近くで間違いなかったのだった。
31
こんなつまらないことでも、後遺症に悩まされる現況においては僅かな救いとなる。
なお、上記の小松良和氏は、若くして自死を選んだ何人かの知り合いのうちの一人である。付き合いがあったわけではなく、師匠でもなかったが、いい人程早世するという諺はこの人のためにあるのではないかと思わせる程に(小松氏は36歳)、純粋で真摯で、本当にいい人だったという印象を残してくれた人だった。
下は、 「SAS NEWS」創刊号の画像データ。
sas-vol1-omote-500x709

以前、飼っていた雑種犬チロのことについて書いた。 暦象59号(67年9月)に載った「私の犬が死んだとき」を国会図書館まで複写しに行っている。そのチロの唯一の写真が見つかった。子供のときに貰った16mmフィルムのカメラで撮った写真のネガである。GT-X970はさすがに16mmネガを装着するフィルムフォルダーまでは用意しておらず、変則的な方法でスキャンした画像。
チロ

わたしの犬が死んだとき

いつだった?
けれどわたしたちは答えられなかった
どこかにちぎれた時間があったら
はんぱなテエプのように土手の上で
ひらひらしてたら
きっと それだ
なぜならかれは少しづつ死んだので
ゆっくりと とても少しづつ死んだので
時間はきっと困ったのだ
どこまでいったものやら 細い暗い曲った路地のなかを?
いちばんあとまでついてきたみすぼらしいのが
動けないかれのそばで
よごれた溝のふちに じっと
蹲みこむようにして

溝には魚の骨や
名のない草の根や
泥のついた淋しい唄が
ながれていて

かれが目をつぶったように
時間も目をつぶったのだ ながれながら
かれが忘れたように
忘れたのだ いつかながれるのを
げれどいつ? ときかれたら
何と答えよう 昨日だったと?
おとといだったと 六月八日あの晩
さいごの苦しい歯と歯がかみちぎった 藁の一本だったと?

気弱で みすぼらしかった
でもとてもやさしかった時間よ おまえのことを
その湿ってちぎれたところ
だまったままの声
雑草をひきぬくときの音のように
そのながいぎざぎざ


「蹲みこむ」は何と読むのか。「蹲る」は「うずくまる」であるから、「蹲みこむ」を「うずみこむ」とは読まないはずだし、第一「うずみこむ」という言葉自体があるまい。詩を読むと、あらためてこんな初歩的なことに躓く。

武蔵高校に続き、横浜のフェリス女学院にもメールに画像を添付して問い合わせしてみた(泰子叔母の推測では、吉祥寺時代には、竹雄はすでに美術教師をやめていたのではないかという)。以前から横浜のミッション系の学校に行っていたという情報を得ていたのだ。そして学校側からは、写真の制服が違う(開校以降、一貫してセーラー服らしい)という理由から、我が校の写真ではないという返答をもらう。

ところが、その後に来た泰子叔母からの連絡により、あっけなく学校名が判明した。叔母が昨年法田から持ち帰ったというほぼ同じ写真が貼ってあるアルバムには、写真横にキャプションがふってあり、横浜成美学院(現横浜英和女学院)という学校だという。吉祥寺に移る前に竹雄一家は大森に住んでいた。母節子の二度目の小学校は伊藤尋常小学校であり、大森時代にはそこに通っている。地図で見ると、横浜英和女学院に最寄りの駅は地下鉄蒔田駅になるが、当時はまだ地下鉄の走っていない時代なので、多分京急井土ヶ谷駅がもっとも学校に近い駅になり、大森から約30分の距離にある。
pic_facillity25

大きな地図で見る

浄水場の下まで歩いてみる。昨年暮れ以降、体軀の麻痺がひどくなる一方だが、この日は暖かく、どうにか往復できた。
特に必須要件でもなかったが、竹雄の教諭在籍年を知るべく、武蔵高校に問い合わせしてみたら、英語の先生と名乗る方が丁寧に応対して下さった。当時の専任の名簿には載っていなく、非常勤講師ではないかという返答だった。集合写真には前列に坐っているので、それも考えにくく、そうすると、昨日のフォトは別の学校かもしれない。横浜の学校に行っていたこともあると聞いているし。
 

泰子叔母から、武蔵野市が平成21年に出版した「武蔵野市戦争体験記録集」に載せた、自身の筆になるエッセーのコピーが送られてきた。実際に空襲の体験を受けないと書けないような臨場感に溢れ、しかもどこか母の詩を思わせる懐かしさも感じさせる名エッセーだったので、一部引用させていただく。

「幼い日の記憶――吉祥寺で体験したこと」

(前略)

 昭和二十年一月九日、警戒警報のサイレンが鳴って私は走って学校から家に戻った。お昼頃だったろうか。間もなく、間隔の短い急を知らせる空襲警報が、冷たい空気を劈くように鳴りだし、母と妹と三人で庭の片隅に掘られた防空壕に入った。この日たまたま父は秩父に住む親戚の家に出向いていた。この頃学校でも集団疎開の話が出ていて、それへの参加を決める前に私を預かってもらうことを頼みに出かけたのである。姉は前年入学した武蔵野高等女学校に行っていてまだ帰ってきていなかった。
 防空壕は父が知り合いの人に作ってもらった簡単なもので、家族五人がやっと入れるくらいの大きさ、頭上に廃材の戸を渡して土で覆ってあった。赤ん坊であった妹を抱いた母と私は向かい合って座った。飛行機の低空飛行の音のあと、大きな独楽がくるくるまわるような鋭い音が数秒間続いたと思った途端、一瞬のうちに壕は真っ暗になった。恐ろしい静寂が訪れ、私は闇の中で遠くに女の人の叫び声を聞いた。朦朧とする頭の中には、大きなメリーゴーラウンドが見え、ベティーさんの大きな顔が回っていた。
 気がついたときは道の上に寝かされていた。家の近くなのに、何処か知らない地であるようにも感じた。夕闇が迫っていた。
誰かがコートを身体に掛けてくれていた。何人かの顔が上から見下ろしていた。学校から帰ってきた姉やその友人たちがいたようだったが記憶は朧気である。男の人が「土をたくさん吐いたよ、でももう大丈夫。」と話してくれた。後で聞くと、生き埋めになって四十分ほどで助け出された、とのことだった。土の中で聞いた女の人の声はすぐ近くにいた母の声だったこともあとでわかった。私たちを掘り出してくれたのは近所の人たちだった。

(中略)

 数日後、地域の新聞に私の被災の記事が出た。防空壕に、素焼きで作られ布の洋服を着せたお人形を抱いて入ったことを、取材に来た記者に話したのだろう。人形の顔と私の顔の間に空気が入る隙間ができ、辛うじて息ができて助かった、という内容だった。救われたのは私で人形ではないのに、何故か見出しは「救われたお人形」だった。父は切り抜きをスクラップブックに納め、私は何度も見せてもらったが、今は父も母も故人となってその在りかはわからない。人形はそれから私たち一家が移り住んだ父の実家の縁側で、数ヶ月して何の前触れもなく突然割れた。やっぱり身代りになったんだよ、と誰もが言った。

(後略)

「父は切り抜きをスクラップブックに納め、私は何度も見せてもらったが、今は父も母も故人となってその在りかはわからない。」とある。ところが、この切り抜きが、現存する祖父のもっとも古いスクラップブックに貼ってあったのを偶然発見して喫驚した。他の森林伐採の記事等の間にひっそりと並んでいたので、これまで全く気づかなかった。
救われたお人形
最初、この新聞記事は、終戦後二年程して出たものだろうと勘違いしていたが、叔母の文中にあるように、これは空襲の数日後に地域の新聞に出た記事である。いかなる新聞か、また正確な日付がいつなのかまでは分からない。いかめしい旧字が戦争中の新聞であることを、生々しく物語っている。意外だったのは、竹雄が武蔵野高等女学校の教諭をやっていたという事実であり、あらためて見返してみると、先日法田から持ち帰った数冊のアルバムには、多くの女子学生と記念撮影に収まる竹雄の姿がある。これは、母も一時在籍した武蔵野高等女学校の卒業写真などだったのだ。下は、いずれ全部スキャンせねばならない写真の一部から。前列(左から三人目)に坐っているということは、想像とは違い、竹雄が当時はきちんとした要職に就いていたことを物語っている。上記空襲(正しくはその次の二度目の空襲)により、一家は松阪に疎開することになる。もし、戦争がなければ、竹雄や母どうなっていただろう。多分自分の存在もこの世になかっただろう。
武蔵野高等女学校(抄)
 

昔のネガスキャンを行なっていると、思いがけぬ拾い物に遭遇することがある。何度か採り上げた岡崎浄水塔の1953年の姿。今と全く変わっていない。
岡崎浄水場1953
岡崎のどの辺りだろうか。同じく1953年。
岡崎市内1954
下は現在の浄水塔。
57af7916c99921c75cfa6b66d656bc87

 

60年前の岡崎の写真。どの辺りだろうか。
 img009
img010

昨日は、市役所までリハビリを兼ねて高額医療保険受給の申請をしに出かける。昨年は20分で行けたところ、30分を要した(帰りは35分かかる)。途中でピカデリー劇場の跡地を確認してくる。ネット上の情報に頼ると、多分次の道に面したマンションの建っているところにピカデリーは在った。旧建物の二階に映画館があったようである。「ひまわり」や「明日に向って撃て」を、ほぼ日本公開当時にここで観ている。
 ピカデリー劇場跡地


大きな地図で見る

1. 大きな地図帳(篠島)をスキャナーでスキャン。

2. スキャン画面。その地図画像は大きくは見せず、アイコン表示のままサーバーにアップ。FTPソフトの画面。

3. ブラウザのアドレスバーにURL。ブラウザ内に広がる地図。独自ストリートビュー。

4. 篠島地図の小さな写真をクリック。スキャン画面。たびたびスキャナーの現実映像挿入。

5. 1957年の篠島旅行の写真拡大表示。

6. 写真の中に自分が入り込む

7. 帰宅?

img002
 

いつか住むことになるかもしれない、またついの住処になるかもしれない松坂法田町の「川の家」。もっとも近い鉄道の駅は多気駅であり、子供の頃、離れの和室で寝ながら、多気駅から発車する機関車の汽笛をうら寂しい想いで聞いていた。1972年の正月に、一人で堤防を歩いて鉄橋の近くまで行って撮ったD51の写真が残っている。この駅にはいくつか思い出がある。いつか記す。
 1972年正月法田11972年正月法田5
1972年正月法田3
1972年正月法田7
下は現在の多気駅

No08-1956人形モンタージュ
No09-1956年9月下旬
No10-19561004名古屋植物園 
No06-1956年9月上旬
No00-1955年4月5月羽根大池結婚生活
No00-1955年
No00-1955新婚旅行A
No00-1955新婚旅行B
No00-1955新婚旅行C
No00-1955新婚旅行D
No00-1955新婚旅行E
No00-1956剣岳B
 

↑このページのトップヘ