しゅ〜る之助の夢日記

京都で「坐禅とラン」で生き抜く!そんな暮らしの中で、思ったことや感じたこと、あるいは、自分が見た夢の解釈を通じて、自分の心の世界を綴ります・・・・。

臨済録「赤肉団上編」



ちょっと時間が経ち過ぎた感があるが、先月のT和尚主催の坐禅会の備忘録を残しておこうと思ふ・・・。

7月27日(水)この日の参加者は13人ほど・・・・。いつものメンバーに、今回は初顔で西宮から来られた男性が一人参加されていた・・・・。

少しお話をしたが、何故西宮からわざわざ、T和尚の坐禅会に参加されたのかは不明だったが、僕はいつもこの「何故坐禅に興味を持ったか」という事が非常に気に成る・・・・。それは、自分自身が「何故坐禅を続けるのか」その明確な理由がいまだに分からないからである・・・。

最近では、その理由を知りたいがために坐っているという一面もないではない・・・・。むしろそれが分かった時こそ、実は悟りを開いた時なのかも知れない・・・とさえ思っている。

さて、真夏の酷暑の中での二炷の坐禅のアトのT和尚の提唱は、今回から「臨済録」であった・・・・。

正式名は「鎮州臨済慧照禅師語録」。分かり易く言えば、臨済宗の祖「臨済義玄禅師」の語録である。

今回は「臨済録」の中でも特に有名な「臨済赤肉団上の話」であった・・・・。

例の「さあ看よ!さあ看よ!」のやつである・・・・・。

臨済禅師がある日の提唱で「赤肉団上(しゃくにくだんじょう:人の肉体の意味)に一無位の真人(多分仏性の事)が出たり入ったりしている」と言うと、一人の僧が「その無位の真人とは何者ですか」と質問した・・・・。

臨済禅師はその僧の胸倉をつかんで「さあ言え!さあ言え!」と迫った。その僧は「疑義(一体何のことやと意味不明状態になった、とでもいう意味か?)した。そこで臨済禅師は「これでは無位の真人も糞かきべら(価値のない例え:別解釈では乾燥したウンコそのものとも・・・)同然であると言い残して居間に帰って行った・・・・。

臨済宗でよく使われる「無位の真人」とは、この臨済録から来ているのだと思うのだが、非常に分かり易い話しだと思う。

「すべての人の中に仏性があって、それが常に現実の生活の中で、気づかぬままに、影響を与え続けけている。あるいは、仏性そのものがあなたを生きている」という意味なのであろうが、この話が有名なのは人の肉体の事を「赤肉団上」と表現したことと、いくら「無位の真人」があっても、それが自覚できないのであればその仏性も糞かきべらに等しいと表現したことだろう・・・。

「人の体」と表現するよりも「赤肉団上」と言った方が、より生々しさが増し、そのアトの無位の真人が、色も形もない霊的なものであることをより一層強烈に印象づけているような気がする。

むしろ興味深かったのは、この語録の後日談で、臨済禅師の弟子の「定上座」という僧と、三人の客僧との話しである。客僧の二人は、その無位の真人の話しを聞いて感服したのだが、一人の若い僧が「何故、臨済禅師は非無位の真人と言わなかったのか」と質問したのだそうだ。

それを聞いた定上座は、その若い僧の胸倉をつかんで「無位の真人と非無位真人」との間のどんな違いがあるのか、言ってみろ、と迫ったのだそうだ・・・・。

自分なりにこの逸話を解釈するに、そもそも仏性を説明するのに言葉を持って説明するのは不可能(言葉にした途端、モノの本質から遠ざかるから)なはずなのに、あえて、それを承知で、臨済禅師は「無位の真人」という言葉で説明した。

それに対して、若い僧が「何故非無位の真人と表現しなかったのか」と質問したことで、その僧自身が実は分別智(言葉によって説明しようとした)に堕したことになるのではないかろうか・・・・・。

それで、定上座は、臨済禅師の真意から掛けなはれた質問をしたその若い僧に、腹を立てたのかも・・・・。

さて、臨済録とは公案の有名なテキストのひとつである・・・。

この「赤肉団上編」が修行僧に公案として与えられる時、どのような形になるのか、T和尚に質問してみた・・・。

この時、T和尚は「無位の真人とは何か、という公案になります」、と明確な返答をされたのである・・・・。

怖い気もするが、一度ぐらいは接心でこの公案にまともにぶつかってみたい、という気がしないでもない・・・。




「呼吸」をしているのは誰?


前回の暁天坐禅会の時、T和尚の法話で「釈迦の言葉」の中から「自己」についてお話をされたことは、先日の記事で紹介した・・・。

その時、T和尚は「釈迦は無我と言いましたが、無我とは、自分は無い、あるいは自分はいないという意味ではありません」という話をされたのであった・・・。

「自分はいない」は最近のスピ界では、O女史がしきりに言われている言葉で、阿部さんによって、随分有名になった言葉である。ただ「何も言ってないとの同じでは」という根強い反対意見も多く、実は僕もそう思っている一人である・・・・。

T和尚が言われたのは、それとは違う意味かも知れないが、T和尚は、切られた「自分の」爪や切られた「自分の」髪の毛が「自分のものかどうか」という話を引き合いに、そこから徐々に説き起こされたのであった・・・。

「そもそも、自分の体で自分の自由になるものがどれだけありますか?自分のものというなら、それは自分の自由意志でどうにでもなるものでしょう。心臓は自分の意志で止められますか?内臓諸器官は自分の自由意志で動かせますか?腕でさえ、間接とは逆方向には曲げられませんね」

では、「自分とは一体なんなんでしょう」・・・・。

「自分」というものの概念を問い直す、あるいは「これが自分です」と指し示せない「自分」とは何か・・・それを釈迦は「無我」と言い表したのです・・・という話をされたのであった・・・。

話しは飛ぶが、今朝の坐禅中にふと気づいた事があった・・・・。

以前、ある日の坐禅会で、T和尚は坐禅中に「呼吸に意識を載せなさい・・・。呼吸はあなたの意志とは関係なく、繰り返されます。呼吸を止めようと思っても、止められません。あなたに呼吸をさせているのは一体なんなのでしょう?」という意味の事を言われた・・・。

坐禅終了後、僕はT和尚に「あの言葉の意味がわかりません」と質問したのだが、その時、T和尚は明確にお答えにならかった・・・・。

そこから、僕の心の中に「俺に呼吸をさせているものは一体何?」という疑問が内臓の隅々にまで、沁み渡っていった・・・。

そして、今朝坐禅中にその事に気づいた・・・。

「それは命に他ならない」と・・・・。

つまり「自分に呼吸させているものは・・・命そのものなのではないか・・・」という事に思い至ったのであった。

東本願寺の有名なテーゼ「今 命が あなたを生きている(Now,Life is living you)」とは正にこの事であろう・・・・。

つまり、「命」が自分の中で、内臓諸器官を動かし、呼吸を繰り返し、生命維持活動を続けているのである。僕の意志とは無関係に・・・・。

この「命」は勿論「自我=シンキングマインド」の上位にあって(ある部分では重なりながら)、それは普遍的に宇宙と繋がっているのかも知れない・・・。

そこまでは、頭(理屈として)で分かる・・・。

では、その次に来る問いは必然的に「命とは何か」・・・・という事になる・・・。

それがひいては、T和尚が提唱された「指し示せない自分=無我」を問いただすことになるのだろうか・・・。

「自己とは何か」「無我とは何か」「命とは何か」それらの問いは、すべて一つのところで繋がっているのかも知れない・・・・。

今朝の坐禅中、僕はそんな事に気づいたのであった・・・・。でも、純粋に坐禅としては、全く思考に絡まれた最低の坐禅だったのかもな〜・・・。



My Dear Life


この記事は、先日FBに揚げたものであるが、このブログのテーマとも関連深い内容なので、載せておこうと思う・・・。

---------------------------------------------------------------------------------------------

ある朝、店で慌ただししく開店準備をしていたら、FMラジオから流れたのが・・・渡辺貞夫の「マイ ディア ライフ」だった。

思わず、僕はその場に立ち止まり、手を止めてその曲に、聞き入った・・・。

それは、あの時の事を思い出したからであった・・・・。

 

1990年代前後のある夏だったと思う。その頃は夏になると、まだ野外でのジャズフェスがけっこうあちこちで開催されていたのだ・・・。

広島県の中央部に「白竜湖」というダム湖があって、その当時、そのダムの公園広場では、毎年「白竜湖ジャズフェスティバル」というコンサートが開催されていた・・・。

その日のトリは「渡辺貞夫クインテット」だったと思うのだが、彼のステージはトリに相応しく誰もが予想した通り、盛り上がっていた・・・。

時刻にして夜の10時を過ぎていたと思うのだが、「カルフォルニアシャワー」だったかの曲を演奏し終えて、ナベサダは、今まで持っていたアルトを、ソプラノに持ち替えた・・・。

雰囲気的には、ちょっと慌てた雰囲気で、僕は何があったのか違和感を感じたほどだった・・・。そして、彼はバックのメンバーに指示を出し始めた・・・。勿論内容は聞こえなかったが、メンバーからも、いくつか質問が返されたようだった・・・。

そしてスタンバって、いよいよ曲を演奏し始めようとした時、彼は斜め上の空をちらっと見上げた・・・。僕は思わず、その彼の視線を追った・・・。

そこあったものは・・・・夜空に冴え渡る満月だった・・・。

その日は、夕方に夕立があって、澄んだ大気のダム湖からは、涼しい風が吹き渡っていた・・・・。

演奏が始まった・・・・。

渡辺貞夫は、演奏が始まっても、ず〜っとその月を見ていた・・・。つまり斜め上を観ながらソプラノを吹いていたのだ・・・。

僕はその時のシーンがしばらく忘れられなかった・・・。

あの時、ナベサダは、夜空に冴えわたる月を見て、何かを感じて、演奏予定の曲を変更し、ソプラノに持ち替えたのだ・・・。

実に無駄な力の抜けた演奏で、その夜空に響くソプラノの音は、のびやかに澄み渡り、心に沁みたのを、はっきり記憶している・・・。

ひょっとして、彼はその時、ジャズの神様に出会ったのではないか・・・と、僕は思ったのだが、それは考え過ぎというものだろう・・・。

しかし、その時まだ30台半ばだった僕には、それ以上の事はなにも分からなかったが、あの時のナベサダは多分60歳前だろう・・・。そして今、僕はその時の彼と同じ年代になった・・・。

その僕が今思うのは・・・。

彼があの時、白竜湖の夜空に浮かぶ月を眺めながら、マイディアライフを選曲したのは・・・彼のそれまでの人生に対する喜びと感謝・・・そして深い祈りだったのではないか、と思うのだ・・・。

成功は手に入れたが、苦悩の連続の中で、あがき苦しんだであろう人生の果てに訪れた、精神の安定と安息、そしてその人生に対する深い感謝と、その感謝を回向する祈り・・・。

それらの思いが、ふとあの時彼の中で「マイディアライフ」という曲になったのではないだろうか・・・。

極言するなら、あの時、まさに月を見て、彼は「悟り」を開いたのではないだろうか・・・。

そこまで思い至った時、僕は自嘲的に「まさか・・」と呟いて、開店準備を再開したのだった・・・。



T和尚主催暁天坐禅会ー法話編



先週の土曜日(7月9日)に行われた、T和尚坐禅会の法話偏である・・・。

坐禅二炷のアト、今回はT和尚の周りに集まって和尚のお話しを聞くスタイルではなく、各自の単に留まったまま、各自の自由な姿勢で、和尚の話しを聞くスタイルだった・・・・。

この日参加したお坊さんの一人は、最後まで正座を保ったまま、じっと話しを聞いていた・・・さすがである。

僕は、半跏趺坐に結手の姿勢が一番楽なので、その姿勢のまま、目を閉じて、和尚の法話に集中した・・・。

いつもなら筆記具を片手に、メモを取りながら話しを聞くのだが、今回はとにかく、聞くことだけに集中した・・・・。

この暁天坐禅会(午前7時開始)での法話は「釈迦の言葉」というテーマが、和尚から予め、知らされており、和尚はこんな話から始められたのであった・・・。

「ある法要の場で、そこにお手伝いに来ていた婦人から、こんな話をお聴きしたことがあります・・・。」

「どこの宗派のお坊さんも、うちの開山さん(宗祖)はこんな話を残されている・・・というお話を聞くのですが、お釈迦様はこんな話をされた、と言うのを聞いたことがない。お釈迦様は仏教の始祖なのに・・・・」

「言われてみればその通りで、釈迦は仏教の開祖であり、今の日本の仏教各宗派は、仏教である限り、お釈迦様と繋がっているはずです・・・。ところが、お釈迦様については、それ程語られることはない。であるならば、一度仏教の開祖であるお釈迦様のお言葉を、辿ってみるのも、あながち無駄ではないでしょう・・・」

そもそも中村元著の「ブッダの言葉」は、以前一度読んだことがあるのだが、さっぱり意味が分からなかった、という経緯もある・・・。それに輪をかけて、仏教文献学の素養もないので、「ブッダの言葉(スッタニパーダ)」と「ダンマパダ(法句教)」の関連性さえ何も分からないのだ・・・。

したがって、危うい記憶だけを頼りに、T和尚のお話しの内容を再現するのは、かなり無理があるのは承知している。よって、できれば、すべては僕の妄想上の架空の物語、という位置づけで読んでいただけると少し気が軽くなる・・・。

そうでないと、僕は内容について、まるで責任が持てないので、「架空の存在Tオショウ」という人の話を聞き書きしてるだけ、と思っていただきたいのだ・・・。

さて、今回のお話しは、多分「ダンマパダ(中村元著 ≪真理のことば 感興のことば≫ 岩波文庫)」の中の第十二章「自己」(32P)だと思われる。

「もしひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。」
「先ず、自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ」
「自己は自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自分をよくととのえたならば、得難き主を得る」

和尚が今回読まれたのは、この部分だったと記憶しているが、まさに「自分を正しくととのえよ」というのは、前回の坐禅会での和尚のお話しの中にあった「アートマン(真我)」の事ではないか・・・。

仏教の真髄である、「無我」に至るには、発菩提心(発心)=瞑想的自我の養成が必要なのではないか、と僕は書いたのだが、あの時和尚は「自己の確立」という言葉を用いられた・・・。

今回の法話で、釈迦の言葉として「自己」を取り上げられたのは、この発菩提心によって、「自己をととのえよ」という趣旨のお話しではなかったのか。

具体的実践としては「八正道」であり「調身 調息 調心」であろう・・・。つまり、「坐禅の実践によって、自己を正しくととのえよ」という趣旨の法話だったと思われる・・・・。

ちょっと長くなりそうなので、続きは次回の記事で・・・・。



T和尚主催第二回暁天坐禅会・・・そのイチ



今朝は、T和尚主催の第2回暁天坐禅会だった・・・・。

梅雨空の雨の中、電車から降りてお寺の玄関を開けたら、T和尚が玄関の拭き掃除をしておられた・・・。

本来なら、坐禅会の前に、作務のお手伝いをするのも坐禅修行の一環だと思うのだが、他の人の事もあるので、こういう事はなかなか言い出しがたいものがある・・・。

そう言えば、最近気になっていることがひとつあって、この1年間、T和尚のご厚意に甘えるばかりで、全くの無料で坐禅会に参加させてもらってきた・・・。毎回、お寺の門を潜ったすぐにある、地蔵堂にお賽銭をお布施するぐらいの事で、それ以外は、全くのタダである・・・。

今後、T和尚は月3回の坐禅会を行うと宣言して下さったのだが、せめてお茶などの経費相当分ぐらいの負担は必要なのかもしれない・・・・。これも他の参加者との事もあり、なかなか言い出しにくい案件ではある・・・。

さて、今回は月3回の坐禅会のうち、土曜日7時開始の暁天坐禅会であるが、参加者は9名で、うちお坊さんが2名・・・。一人は以前からの参加者で臨済宗大徳寺派の僧侶の「カンさん」で、もうヒト方は真言宗のお坊さんで「カトウさん」という僧侶の方だった・・・。

いつものように、経行を挟んで30分1炷の坐禅を2炷坐った・・・。

しとしと降り続く雨の音が、一層静寂感を増すような雰囲気の中、いつものように「思考」だらけの坐禅ではあったが、この坐禅会で坐ると、不思議と禅定感が深まる・・・。ぼ〜っとした感覚の中に漂っていると、ふと意識が「融解」していくような感じになる・・・・。

それがとても気持ちよいのだが、かと言って思考が全く消えているわけでもない・・・・。

「シンキング・マインド」とはよく言ったもので、「自我」は常に、あれやこれやと思考を引きずり出してくる・・・・。

「アップデートする仏教」の著者の一人、鎌倉一法庵の山下良道禅師は、ある対談の中で「自我(エゴ)は自分の利益すら求めない」と言い放っていた・・・。

未来の事を、勝手な妄想であれやこれやと心配し、不安を取り込み、過去の嫌な体験を思い出しては、追体験を繰り返すそれが、エゴの本性であり、時にそれが過激に暴走すると、苦しみを生み、生き難さを生じる・・・・。

不安や課題や後悔はエゴの大好物なのだ・・・・。

「我々のエゴというのは、もっとねじまがっています。我々のエゴは自分の利益すら求めません。エゴはそれ自体が、ネガティブなエネルギーでできているので、その存続のために、より多くのネガティブものを求めて行きます。

エゴは自分が幸せになることは望んでいません。もっと破滅的です。その実例は世の中に簡単にみつかりますよ。「自分が苦しくなることばかりして、この人わざと苦しんでるんじゃないの?」という例は、みなさまのまわりにいくらでもあるはずです。」

自身の体験からしても、将来について何も課題のない状況になると、却って不安になることがある・・・・。自我というものは常に不安や課題を抱えてないと、退屈するのかも知れない・・・。


あたかも自分から不安や課題を創りだして、ほっと安心する・・・という不思議な心理状態が、実際にあるものだ。


話しがそれたが、この日も僕の「瞑想的自我」は、何度も「思考から離れよう」と警告を発してくれ、その度にはっとして、呼吸に意識を戻したのであった・・・・。


坐禅会のT和尚の法話の内容については、別記事で更新します・・・・。



「彼岸」に至る一里塚・・・。



先月のT和尚主催の暁天坐禅会での事である・・・。

坐禅2炷が終わったアトの茶礼で、僕は「思考に絡み採られている自分に気づいたら、思考から離れる事は可能ですが、それ以前に、思考に没入している自分に気づけなければ、それさえできませんよね」と、その場で話しをしたのだ・・・。

すると、T和尚が「そうですね。思考だらけの坐禅が続いても、諦めずに坐禅を続ける。その事がとても重要です。仏道の修行にとっても、自己をしっかり確立することはとても大切な事です」みたいな意味の事を言われたのだ。

まるで、その時のT和尚は、ご自身の見性以前の修行時代を回顧しているかのような口調だった・・・。自分に言い聞かせているかのような、しみじみとした口調だったと思うのだ。

その後、僕は、T和尚のこの時の言葉がとても気になった・・・・。

そもそも仏教は「無我」であることを目標とし、あるいは理想としているから、「無我」と「自己の確立」とは、相反する概念だと思ったからだ・・・・。

しかし、よくよく考えると、この「気づき」なしには、坐禅は成り立たないのも事実である。

思考に捕らわれ「あ〜でもない」「こ〜でもない」とひたすら思考に埋没する自分に、ふと「あ、思考に捕らわれている」と「気づき」、思考から離れる・・・・ないしは思考を手放す・・・この繰り返しである。

また、この繰り返しがあってこそ、坐禅修行は前に進んでいくのだろうと思う・・・。

かって、ユング派の心理学者「ウォルター=オダージンク」の名著「瞑想とユング心理学」の中で、しきりに使われていた「瞑想的自我」というのは、実はこの「気づき」続ける自我の事を言っているのではないか、とふと思ったのだ・・・。

あるいは仏教では「発菩提心(ほつぼだいしん)」という言葉があるが、「自己の確立=瞑想的自我=気づく自分」とはこのことではないのか、と思ったのである。

T和尚が、ぽつっとおっしゃった「諦めずに、求道し続ける自分」とはこの「発菩提心」の事なのだろう・・・・。

幸い、最近の僕は、毎朝の坐禅の中で、この「気づき」が頻繁に起こっている・・・。思考に捕らわれると、即座にこの「気づき」が発動し、「思考から離れよう」「今ここ、に戻ろう」と心を改める事が出来ている・・・・。

オダージングの言う「瞑想的自我」が確立されつつあるのかも知れな・・・・。

「無我」の境涯が理想ではあるが、その過程においては「自己の確立」=「発菩提心」が必要なのだろう。それがないと、何も始まらないのだろう・・・多分。

やがて、望み通り「彼岸」に至れば、その時こそ、真の意味で「自我」も「自己」も消え、「無我」の境涯が訪れるのであろう・・・。

それまでは、この「瞑想的自我」「発菩提心」と共に、ひたすら坐る日々に邁進していこうと思うのである・・・・。



「僕は坊さん」に観る坊さん像



boku-ha-bousan

伊藤淳史主演のこの作品、なかなか面白かった・・・。

原作は四国八十八か所の57番札所「永福寺」の白川密住職のエッセイを映像化したもので、非常にリアリティのある、現在の仏教寺院の置かれている諸状況や、僧侶自身の有り様を淡々と表現した良作である。

制作スタッフが「三丁目の夕日」のスタッフであることから、ほのぼのとした作風であることに対して好き嫌いはあるだろうが、僕はこういう雰囲気の作品は決して嫌いではない・・・。

高野山大学を卒業して、地元に帰省した主人公は、ある日突然、祖父である住職の死亡で、寺を継ぐことになる・・・。古くからの檀信徒や幼馴染の友人たちとの交流を通して、新米僧侶として成長していく姿を描いていく・・・。

地方の寺が、檀信徒にとって、お悔やみ事の時にしか用のない存在であることに安住する状況は、「葬式仏教」という揶揄の対象になって長い年月が経った・・・。

勿論、寺側も、若い僧侶を中心に、その事に対しての抵抗や改革を模索してきたのは分かるが、今も状況はそれほど変わっていない・・・。

そんな日本の宗教事情の中で、閉塞された状況を少しでも打破しようと、抗う若き僧侶である主人公であるが、それほど肩に力が入ってなく、自分の心に素直に生きようとする姿には、非常に共感を覚えるものである・・・。

そんな日常の中、自分の幼馴染の女性が、子供出産で、意識が戻らない様態に陥り、その結果、ご主人から離縁される・・・。

その時、彼は寺の仏壇の前で、涙を流しながら「お大師様、僕に一体何ができるのでしょうか」とつぶやくシーンは、僧侶でありながら、自らの無力感に打ちひしがれる「坊さん」の裸の姿は観てて、とても痛々しい・・・・。

しかし、本山の威光を背に、えらそうな言動をする、悟りすました坊さんよりも、こういう生々しい人間として、衆生と同じ平場に立って、共に苦悩してくれる「坊さん」こそ、本来我々が求める坊さんの姿ではないのか・・・。

高尚な言説で、衆生に「お説教」をする「高僧」もあってよいのだが、僕らと一緒に泣いてくれる「お坊さん」もまたよいものだ・・・。

そんなことを思わせてくれる、なかなかよい作品だった・・・。

しかし、同じ坊さんを扱った作品としては、玄侑宗久原作の「アブラクサスの祭り」の方が、僕は好きである。

「うつ病の坊さん」「安定剤が手放せない禅僧」・・・・こういう設定の方が、非常に厳しく迫ってくる問題意識があると思うのだ。

「僕は坊さん」の主人公は「幼馴染の不幸(他人の不幸)に涙する」の対して、「アブラクサスの祭り」の禅僧は「自分の内面の苦悩にのたうちまわりながら、悟りを開く」つまり自分の問題に必死なのだ・・・・。

この違いは、真言宗と臨済衆の宗旨をそのまま表現しているようで興味深い・・・・。

久々に「アブラクサスの祭り」が観たくなった・・・。




連想と想念

最近、坐禅していて気づいたのは、坐禅中に湧いてくる「雑念」というものには、実は二種類あるのではないか、ということだ・・・。

よくT和尚は「雑草とい名の草がないように、雑念という念はありません。いろんな思いが浮かんできても邪魔にしないで、放っておきなさい」という事を言われる・・・。

僕はず〜っとこの意味が分からななかった・・・。浮かんでくる念を放っておいたら、際限なく想念が沸き起こってくるし、それでは坐禅にはならないのでは・・・と思うからだ。つまり、それでは、坐禅ではなく、ぼ〜っと何かを考えているのと同じではないか・・・と、思ったのだ。

しかし、ある時、ふと気づいた・・・・。実は雑念というものには2種類あって、「次から次と浮かんでくる連想」と「単なる想念」は実は性質が違うのでは・・・・と思ったのであった。

自我というものは、「過去の出来事(反省や後悔など)と、まだ起こっていない未来(不安や心配など)との間を行き来するだけで、「今ここ」にとどまることができないというのなら、それは「連想」の中に埋没している、ということではないのだろうか・・・・。

昨日あの人はあんなことを俺に言ったが、全く不愉快だ。もし明日、同じことを言ったら、その時はきちんと言い返してやろう。でも、彼のいう事も一理あるのかも知れないな〜・・・・」

と言うようなことを延々と連想し続けるのは、やはり自我の餌食になっているということであろう・・・。

坐って、自分の呼吸を観察していても、「連想」ではなく「想念」は次から次と湧いてくるものだ・・・・。「寒いな〜」とか「足が少ししびれてきたな〜」とか「今ここ」にある自分を観察して浮かんでくる「想念」というものは、常にあるのだ・・・・。

全くの「無念無想」が非現実的(僕のような禅定レベルでは)であるからには、坐禅中はいつもこの「想念」が湧いているものだ・・・・。

しかし、この場合の「想念」は「連想」とは違って、今の自分に対する観察的思惟であって、過去と未来を行き来する自我から発する「思い」とは、少し意味合いが違うのではないだろうか・・・・。

「今ここなんてありえない。今、思ったことは、すでに0.0001秒前の過去であり、厳密な意味での「今この瞬間」というものは存在しない」という議論もあるが、それはそれとして、少なくとも「連想」とは意味合いが違うと思うのである。

もし、そういうコトであるのなら、T和尚の「邪魔にせず、放っておきなさい」というのは「単なる想念」つまり、今ここにある自分の思惟ではないのか・・・。この「今ここ思惟」は単純な思惟であり、ただただ自分の中を淡々と流れていくものである。

こういう思念は「ただ眺めること」が可能であり、禅定に入る邪魔になるものではない・・・。

であるならT和尚のおっしゃる「邪魔にせず、放っておきない」が可能である。

だが連想となると、話は別だろう・・・・。

連想は次々に妄想を呼び起こし、放っておいたら永遠に続く・・・・。

それでは深い禅定には入れないし、坐禅にはならないだろう・・・・。

であるならば、そこで重要なのは、「回帰力」である・・・。

自我による連想の迷路に絡み取られた自己が、「今ここ」に回帰する力・・・である。

連想に陥る度に「今ここに回帰する」その訓練こそ、今の自分に最も重要な課題である・・・。

ただただ暁天の静けさの中に座っている・・・。



「光と影」の自己実現・・・拙ブログ再開に寄せて



長い間、更新が途絶えていたが、いつもこのブログサイトの事は気に成っていた・・・。

記事にはできなかったが、書きたいことはたくさんあったし、いろんな気づきもあった・・・。

最近、仕事をしていて思うのだが、今の仕事はバイトだし、ストレスのない定年退職後の楽な仕事なのであるが、やはり、人生の晩年を迎えた今、少しでも価値のある事績を残したいと思うのである・・・。

残念ながら、これまで仕事上で人に誇るほどの事を成し遂げたわけでもないし、今後もそれは叶わないと思う。

かと言って、今のバイト仕事を馬鹿にしているわけでもなく、バイトであろうとも仕事である限り、可能な限りの努力は尽くして、自分に満足に行くような成果を上げたいと思っている。

しかし、それとはまた違う意味で、少しでも、自分の体験や考えた事が、後世の人たちに少しでも参考になるような何か、を残したいという気持ちもあるのだ・・・・。

僕に出来ることは大したことではないが、せめてこんな男が一人いたらしい・・・という形跡でも残せれば、それで満足である・・・・。

では、その為にすべきことは何か・・・・。

若い頃から器用な体質なので、これまでいろんなことにトライした・・・。

楽器もやったし、小説も書いたし、心理学の本もむさぼるように読んだし、京都検定にも挑戦した・・・・。そして、この年齢になって、やはり思うのは、僕には文章を書くことだけが残ったような気がするのだ。それも小説ではなく、ブログである。

小説は書いてて面白いのだが、やはり自分の能力のなさを痛切に感じるし、その事で、だんだん意欲も衰えていった・・・。

それに反して、全く制限も規制もないブログの記事・・・つまり日記はいくら書いても飽きないし、究極のところ単なる記録であるから、書けば書くだけ、記録は残っていく・・・・。

メインのブログはヤフーで運営しているが、何度も書いたように、あのブログが僕の内面の「光」の側面なら、このブログは僕の内面の「影」の側面である・・・。

何度もこのブログの更新が止まって「もう止めよう」と、その度に思っても、やめられなかったのは、やはり、「光と影のバランス」を僕の心のどこかで求めている、からだと思うのだ・・・。

光だけを表現していれば、絶対にそのうち、そのキャラクターは本来の僕の姿からどんどんかけ離れたものになるのは目に見えている・・・・。

影の部分も表現することで、辛うじて僕は、そのブログの中に表現されるキャラクターを、自分の内面の一部であると認識できるのだろうと思っている。

だから、この影のブログを止めるわけにはいかないのだ・・・。このブログがあるからこそ、僕は光の側面のブログも続けていけるのだと思っている。

動中の工夫・・・。



今朝坐禅に入ってて、頭に思い浮かんだ事・・・・。

僕は、毎朝坐禅を続けてきたが、これまで、坐禅が終わったら、坐禅の事を一切考えることがなかった・・・。

坐禅は坐禅、それは24時間のうちのわずか30分程度の生活習慣であり、それ以外の圧倒的な他の生活時間とは断絶したものだった・・・・。

今朝思い浮かんだのは、それはちょっと間違ってたのではないだろうか・・・ということだった。

坐禅時の禅定は、本来坐禅の時だけのもモノではなく、自分のすべての生活時間の中で、活かすべきものではないのか・・・。

「動中の工夫静中に勝ること百千億倍」という白隠禅師の言葉を、T和尚はよく引用される。また、動と静の禅定の架け橋として「経行(きんひん)」の実践を強く薦められる・・・・。

であるなら、動中という日常生活の中においても、いかに禅定の境涯を発現しうるか・・・・という事が大切ではないのか・・・・。

日々の坐禅とは、実はその為の訓練ではないのか・・・・。

では、その静中の禅定を動中に発現する為の「紐づけ」が必要だろう・・・・。

果たして、それが「マントラ(真言)」なのかも知れないな〜・・・・。

坐禅開始のリンが鳴る・・・・。

三回鳴るのだが、三回目のリンの音は、余韻が長く引き続く・・・・。

僕は・・・ないしは僕の自我は、懸命にその余韻について行こうと追っかける・・・。

す〜っとその余韻の音に意識は集中して引きずられていく。

そして、ふいに「ふっ」とその余韻が消える・・・・。

その瞬間、僕の自我が消え、僕自身がその場から雲散霧消するのである・・・。




広告
Profile
ブログランキング
Recent Comments
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ