しゅ〜る之助の夢日記

京都で「坐禅とラン」で生き抜く!そんな暮らしの中で、思ったことや感じたこと、あるいは、自分が見た夢の解釈を通じて、自分の心の世界を綴ります・・・・。

坐禅のお供に「雲堂」を・・・d(^O^)b

「雲堂」というスマホアプリがあることは数年前から知っていたが、最近、スマホにアプリをDLして、坐禅の時に使っている・・・。

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今までは、料理用のストップウォッチを使っていたが、この「雲堂」だと、開始の鐘の音が三回鳴るので、非常に雰囲気が出る。

東福寺などの坐禅会の時も、坐禅開始の時、リンが三回鳴る・・・。

その最後のリンの音が、揺らぎながら、余韻を伸ばしていく音に集中していると、ふっと音が消える・・・。

その瞬間、僕の心の中も「すと〜ん」と「無」になる・・・のが理想なのだが、なかなかそうはいかない^_^;

にしても、ストップウォッチの「ぴ!」よりは、はるかに気分がよい・・・。

そして、設定した時間が経つと、終了の鐘がひとつ「ご〜ん」となる・・・。

なかなか気分がよいのである・・・d(^O^)b

※入手したい人は「雲堂」でぐぐって下せ〜^_^;

いまここにあり続けること

この変わらずいまここにあり続けていることが、真理への一瞥に繋がっていきます。

なぜなら真理とは、いまここにあるがままに存在している「これ」だから。

「これ」というのは、いま見えているもの、聞こえているもの、感じているものの総てです。

「これ」だけが存在し、「これ」以外は記憶やイメージの中にしかありません。

真理は、あまりにもあからさまに、いつだってその全貌をあらわにしています。

ところが人のマインドは、真理を思考の幕で覆ってしまい、あるがままから目をそらせてしまうのです。


するべきことや、終わったこと、あれこれの妄想、不安や後悔、さらにはあるがままを見ずしてマインドによって解釈されたいまを見ています。

人のマインドはいつも、過去や、未来や、妄想の中にいて、あるがままのいまを見ようとはしません。


阿部敏郎ブログ「かんながら」2018年5月31日より

修行即菩提

「ありのまま」で居続けたら、どこまでも苦悩は続く。「あなたはすでにそのままで悟っている」と言われても苦悩から逃れられるわけではない。

そんな意味のない言葉を聞き続けるより、自ら発菩提心を湧き起こし、坐ることが、苦悩からの脱却の第一歩だ、と今日の暁天坐禅で思った・・・。

俺って、まるで、叡山から飛び出した時の道元禅師みて〜じゃん!

任せる


今朝の暁天坐禅にて・・・。


「任せる」・・・とにかく「何に任せるのか?」みたいなことは、とりあえず、置いといてもよい。


すべての「はからい」を打ち捨てて、ただ自分を任せきる・・・。


よく真宗の篤信者「妙好人伝」なんかを読むと、阿弥陀様にすべてを任せきることができた時、心の底からの「安穏」に包まれた・・ということが書いてある。


僕の場合・・・あえて「何に任せるのか?」と問えば、そこに表れてくるのは「法(ダルマ)」・・・かな〜・・・。

水が一滴づつ、コップに溜まってくように・・・。


僕が毎週日曜日の東福寺さんの坐禅会に参禅していることは、何度もこのブログで書いているが、それ以外にも、ある禅寺に、年に数回参禅している・・・。

こちらの坐禅会は本山のとは違って、ちょっと本格的な坐禅会で、坐禅一炷も40分と長く、経行(歩行禅)も法話もある・・・。

それに、希望者には、師と一対一で対面する「独参」って〜個別面談もあり、在家の禅修行者にとっては、非常に有難い坐禅会なのである・・・。

僕はこれまで「独参」は「他の若い人優先でえ〜やろ」という思いから遠慮してきたが、今後、野暮用がさらに増えそうで、この坐禅会になかなか参禅できね〜だろ〜って〜思いがあり、今回ちょっと強硬ではあったが独参をお願いした・・・。

独参の内容はここでは書けないが、独参の時、師匠の話しで、非常に心に響いた言葉があった・・・。

「〇井さん、(日々の修行は)コップに水が一滴づつ垂れて、コップに溜まっていくようなものです。(そのコップの様子は目には見えませんが)やがて、コップの水が溢れる時が必ずきますよ・・・。それを信じて坐りなさい」

日々の修行の中で、目に見える効果がないと、人は、ふと「ひょっとして無駄なことをやってるのかも」と疑心暗鬼になることがある・・・。僕なんかは、さしずめ「疑心暗鬼」が人の格好しているよ〜な人間だから、特にひどいのである・・・(-_-;)

しか〜し「正法眼臓」の内容が分からなくても、「只管打坐」の意味が分からなくても、とにかく毎朝坐り続けてさえいれば、コップに水が一滴、落ちていくのかも知れない・・・。

そのコップの大きさも、人によって違うだろうし、僕のコップはかなり大きくて、なかなか水があふれるまでいか〜のかも知れね〜・・・。

野狐禅の怖さ・・・。


思いついた事・・・。

坐禅の世界には「魔境」って〜言葉がある。修行が進んでいくと、頭痛や耳鳴りなどの身体的不具合や、幻想や幻覚が現れたりして、修行の邪魔になる現象の事を言う・・・。

時には「悟り」的疑似体験をして、その後それに拘り続け、ず〜っとその追体験を求めてさ迷う、ということも魔境のひとつだと言われているらしい・・。

でも、これって、東洋医学で使われる概念で「好転反応」のことじゃね?と思ったのだ。

好転反応とは、疾病治療により治癒されていく過程で、一時的に起こる後退現象(症状が悪化する)のことである。

ただ好転反応の怖さは、それが好転反応かそうでないのかの見極めが非常に難しいし、専門家の判断に寄らねばならない、ということで、素人判断にはかなりのリスクがある、って〜ことだろう・・・。

逆に言えば、もしそれが好転反応であれば、その治療法が有効である、って〜ことであり、完治するために超えなければならない、大きな課題なのかもしれない。

重要な事は、それが魔境なのかどうか、あるいは好転反応なのかどうかを見極めるための、信頼できる専門家による判断と、対処法の助言なんだろうな〜・・・。

「野狐禅」の怖さはここにある・・・。

蜘蛛の糸


「またすぐに思考の世界に取り込まれてしまうけれど、そしたらまたこの記事を思い出して、いま目の前に心を込めてみます。その繰り返しです。

このことのポイントは、気づくこと。また思考にはまっているって気づくことです。

気づければ選択ができます。気づかなければ埋没したままです。

じゃ、どうやったら気づけるか。これも訓練次第で上達してきますが・・・・」BY阿部敏郎

「思考はそのまま手を付けずに、放っておきなさい」と、よく言われるが、この「放っておき」具合が、めっちゃ難しいのである・・・。

いっそ阿部さんのように具体的に「今の自分の状態に気づきなさい」と言われた方が理解しやすい・・・。

今朝も坐ったが、「今の状態に気づく」という発菩提心は、まるで極楽から垂らされた一本の細いクモの糸のようであり、僕はその糸にすがる「カンダタ」なんだろうな〜。

素の存在


今朝の暁天坐禅にて・・・。


名前も性別も過去も未来も地位も社会的役割も人間関係の絡みも・・・ひとつひとつ剥がれていって、呼吸の中に埋没する時・・・そこにいるのは「素の存在」?

佐々木閑先生著「般若心経」覚え書き

大乗仏教の初期経典である般若経系は、空の思想により、釈迦仏教を否定している、と書かれていた・・・。

先生、それはむしろ、お釈迦さんの思想を大乗仏教は「止揚発展」させたと言うべきではありませんか・・・。むしろ、釈迦仏教は大乗仏教により止揚され、日本において完成された・・と。

釈迦の仏教はまるで「心の病院」のような感じだったと書かれていたが、大乗仏教はそこに神秘性や呪術性を取り入れ、より宗教的になった・・・とも書かれていた。

先生、確かにそうかも知れませんが、むしろその方がよかったのではありませんか。おかげで、たくさんの人がその「宗教」に救われたのですから・・・。

《私論》
釈迦の十代弟子に「モッカラーナ(目連)」という「神通第一」と評された弟子がいた・・・。彼が「神通第一」と言われるようになったのは、大乗仏教の成立過程で、神秘性や呪術性が取り入れられ、より宗教色が濃くなっていく過程に、深く関係しているのだろうと思った。

何故なら、合理的論理的な釈迦の思想には、神秘性も呪術性もなかったのだから・・・。

これは、是非一度「目連」研究家の第一人者「Mさん」に一度問いかけてみる価値があるのかも知れないな〜・・・。

脳内スタジオ


今朝の暁天坐禅にて・・・。


例えばテレビ局のスタジオにテレビカメラが三台あったとする。そして副調整室の総合ディレクターが、その三台のカメラに指示を出したり、スイッチを入れたりする。

それと同じ事が、自分の脳内でも起こっていると考えてみたらどうだろう・・・。

人間の頭の中には思考的自我というカメラAが、いつも存在しているとしよう。それ以外に、実はあまり写らないが、無意識的自我というカメラBも、存在しているのかも知れない。

そして、僕が坐禅の為に結跏趺坐すると、そのスタジオに瞑想的自我というカメラCが現れるのだ・・・。

思考的自我であるカメラAには、思考が途絶えることなく流れ続けている。無意識のカメラBは、無意識そうに押し込まれた、いろんな思いやコンプレックスを映し出しているのだが、総合ディレクターは、カメラBのスイッチを入れることは殆どない。

ところが、坐禅を始めると、カメラCにもカメラBにもけっこう頻繁にスイッチが入り始めるが、やはりメインはカメラAの事の方が多い・・・。

では、いつものことながら、最後に行きつく先は、この副調整室に坐って指示を出したり、カメラのスイッチを切ったり入れたりしている「脳内スタジオの総合ディレクター」とは、一体何者なんだろうって〜ことである・・・。

その時、ふと脳内で、黒い影がこちらを向いてニヤっと笑ったような気がした・・・。

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