しゅ〜る之助の夢日記

京都で「坐禅とラン」で生き抜く!そんな暮らしの中で、思ったことや感じたこと、あるいは、自分が見た夢の解釈を通じて、自分の心の世界を綴ります・・・・。

2015年04月

「酒やめて」・・・。



このブログのシリーズもので「仏のお言葉」という記事がある・・・・。京都市内のお寺で、伝道掲示板を出しているお寺の掲示板の画像を載せるだけの記事なのだが、今回のこれは、さすがに「にやっ」と、笑ってしまった・・・。

酒やめて

何度か取り上げたことのある、三条商店街の浄土宗「妙泉寺」の伝道掲示板の久々大ヒットの「仏のお言葉」である。

この言葉に深遠な「教え」を読み取ろうとすれば、「煩悩にどうしても負けてしまう人間の業の弱さと、阿弥陀様への帰依を促す」といったところだろうか・・・・・。この解釈にしても、実はちょっとちんぷな感じがしてて、本当はもっと違う解釈があるのかも・・・・とか、思ったりしてしまうのである。

庶民のつつましい生活の中での、微笑ましいヒトコマ、という捉え方をすべきなのかも知れないが・・・もし違った解釈を思いつかれた方は、是非書き込みをお願いします<m(__)m>

それ以前に、な〜んか最近の僕の生活ぶりを皮肉られているようで、気にはなるのだが・・・・。





「格好だけの修行」の夢



先日、こんな夢を見た・・・・。

僕は大勢に人たちと、何かの修行をしていた。それは、東福寺の僧堂のようなところでもあり、今バイトをしている、大きな真言宗の本山でもあるようなところであった・・・・。

修行の内容は主に坐禅のようだったと思うが、その他にもいろいろな修業をしていたような感じだった。

そんな時、僕は広い方丈のようなところに入って行くと、たくさんの修行仲間たちが、二人一組になって、それぞれが碁盤を挟んで向い合い、碁を打っていた。

僕は、そばにいた修行仲間の一人が、碁の相手が来るのを待っているかのように立っていたので「何をしてるんや?」と尋ねると、彼は「碁の練習をしているようです」と応えた。

「でも、わし碁の打ち方なんて知らへんで」というと、彼も「僕も知りません。でも、碁を打つかっこうだけすればよいらしいですよ」と言うのであった・・・・。「おかしな話しやな〜」と思いながらも、僕は彼と向い合って、空いている碁盤の前に坐って、碁を打ち始めた・・・・。

勿論、碁の打ち方なんか全く知らないのだから、僕と彼は、勝手に交互に好きな場所に、碁石を置いていった・・・。碁石を置きながら僕は思った「いくら、格好から入る事が大切とはいえ。これはやり過ぎやろ・・。ちょっと上に人に抗議した方がいいな〜。こんな事何時間やっても、全く無意味やし・・・」と、思ったのであった。

覚えているのは、この部分だけである・・・・。

なんで、この部分だけを覚えているのか、というと、僕自身が坐禅等を日々の日課で続けていながら、実はその事に対して疑問を持っていることが、夢になって現れた・・・・と思ったからである。

在家の立場で、毎日の習慣として坐禅を続けることにどんな意味があるのか、僕は普段から、けっこうそんな事を考えている。同じ立場の人たちにも、このことを一度質問してみたいとも思っている。

であるにも関わらず、僕は日々の坐禅を辞めようとは全く思わないのである。何故だろう・・・。「格好から入っても、それ続けていればやがて本物になって、精神的なものもついてくる」というわけでもない・・・・。そんな一時的な浅い考えでは、とっくの昔に坐禅は止めていただろうと思うのだ。

でも、逆に「何故坐禅を続けるのか」という質問に、明確に答をもっていないのも事実なのだ・・・。この調子で坐禅を続けても、悟れるわけでもない、というのはこれまでの経験や本やネットで通じて、十分納得している。

でも坐禅を止めない・・・・。果たしてどんなそこにどんな効果を期待しているのか・・・・。あるいは、自分をユニークに見せるための、ただの格好づけなのか・・・・。

そんな僕の無意識の疑問がみさせた夢なのかもしれない・・・・と思ったのである。


お坊さんも自殺するのか?



先日、あるブログ(現役の曹洞宗の僧侶)で、「お坊さんの自死」をテーマにした記事を読んだ・・・・。

「え?お坊さんも自殺するの?」と、非常に不意を突かれた思いがして、ちょっと戸惑った。考えてみれば、犯罪を犯すお坊さんも枚挙にいとまがないほどいるようだし、考えてみれば、普通に「自殺」するお坊さんもいておかしくない・・・・。

しかし、何故か「自殺するお坊さん」という存在に、強烈な何か違和感を感じるのは何故だろう・・・・。

仏教の教理ににおいて、「自殺してはいけない」と明記された経典があるのかないのか、僕は知らない。確かに考えてみると、お坊さんだって、悩む事はあるだろうし、うつ病に罹患しているお坊さんは映画「アブラカサスの祭」にも出てきた・・・。

だから、うつ病に罹患したお坊さんが自殺する、というケースはあってもおかしくないのだが・・・・でも、やはり違和感がある・・・・。

抗議の焼身自殺などはチベットやベトナムの僧侶で実際にあったのは知っている。しかし、日本のお坊さんが抗議の為に自殺した、という話はあまり聞かない。が、実際年間3万人に上る日本の自殺者の中には、お坊さんが何人かいるらしい・・・。

「自殺という選択肢から一番遠い存在はお坊さん」と言う思い込みは、何故僕の中に根差したのか・・・・。

まず考えられるのは、現役の若いお坊さんたちが「自死に向きあう」という自殺願望者に対するカウンセリング活動を行っている、という現実があるだろう。彼らは「自死」というものに、お坊さんという立場で向き合い、自殺志願者を救おうとしているのであろう。であるならば、お坊さんの生き方の中に、仏教教理に基づいた、体験的な「反自殺思想」というものがあってもおかしくない。

キリスト教は、その点はっきりと「自殺は神との契約に反する裏切り行為」という捉え方であろうから、「自殺は悪である」というはっきりした態度を取っているのだろうが、仏教はどうなんだろう・・・・。

ある曹洞宗の僧侶のブログで「自殺がよいとは思わないが、人間の自由の選択肢のひとつ」と、はっきり書いた人もいたし・・・・。多分推測するに、「自殺したら、輪廻転生で二度と人間として生まれ変わることはない」という程度のことかも知れない・・・・。

その点、ある浄土真宗関係の人は「他力本願を徹底するなら、自殺はそれを否定する行為であるから、許されない」と語っていたが、これはこれで納得がいく・・・・。

前述した「お坊さんの死」について記事を書いた現役の僧侶は、その記事の中で「同じ禅宗である臨済宗南禅寺派の管長が以前自殺した事件があった」と書かれており、僕はさらに衝撃を受けた・・・。

このテーマ非常に重いので、さらに続けます。




「出会わねばならない、ただひとりの人」



相変わらず、日々に追われてなかなか更新出来てないのであるが、今回も前回に引き続いて、「ブツのお言葉」から・・・・。

西本願寺の伝道掲示板は立派なステンレス製なのだが、月一で更新されている今月のお言葉は、こんなお言葉だった・・・・。

出会わねばならない

普段は、「阿弥陀様の本願にすがりなさい」という意味のお言葉が多いのだが、今月のはちょっと変わっていた・・・・。

そもそも、この西本願寺の伝道掲示板に載せられる言葉は「真宗連合」発行のカレンダーの標語のようなので、このお言葉が本願寺派の人の言葉なのかどうかは分からない・・・。

むしろ、「教学の大谷派」と噂される、お東さん系のお言葉のような気がするのだが、どうなのだろうか・・・・・。

というのも、東本願寺がず〜っと掲げているテーマは「今、いのちがあなたを生きている」という非常に有名なテーマであり、まさに現代のスピ系の人たちの主張を代弁するようなテーマなのである。

この「出会わねば・・・」は「今、命があなたを生きている」と非常に似ていると思うのだ・・・・。

今命が

このふたつのお言葉の「いのち」や「私自身」を、スピ系で言うところの「ワンネス」や臨済宗で言うところの「無位の真人」と置き換えてみれば、よくわかるだろう。

要するに、普段、これが自分であると錯覚している「自我」よりも、より深いところにある「セルフ」や「真我」と言われる自己概念が実は、大宇宙の真理(神)と結びついているという意味なのであろう。

その事を、実感として体得する事が「悟り」なのであろうが、この場合は「出会わなければならないただ一人の人」に出会う事だと表現されているのだろう・・・・。

それは、よく分かっているのだが、僕は、その道程があまりにも遠いように感じる日々を、送っている・・・・。


「偽善」はすべて、不純なのか?



「たまには更新しなくては!」と思い、このブログにやってきた・・・・。

メインブログに書いた通り、この一カ月間は、ライフスタイルががらっと変わって、それまでの「毎日が日曜日」の生活から、慣れない短期アルバイトが始まって、時間がなくなった以上に精神的な余裕をすっかり失くしていた・・・・。

ようやく、ここにきて、とりあえず、少しづつ余裕を取り戻しつつあるところだ・・・・・。

で、久々の更新にちょっと戸惑っており、最近見かけた「仏の言葉」を紹介するだけに、止めておこうと思う・・・・。

↓これは、真宗興正寺派の本山興正寺の伝道掲示板に書かれていたものである・・・・。

よいことを

言っていることは、全くその通りであるが、でもこういう言葉って常に「それを言っちゃ〜お終め〜よ!」ないしは「そこまで言う?」という思いが常につきまとうものである・・・・。

何せ、これ言い出したら、殆どの善行は何もできなくなるだろう・・・・。ボランティア活動なんか、このヒト言ですべてが灰燼に帰す事もあるだろう・・・・。

昔からある議論ではあるが、「動機や本心が不純なら、たとえ善行であっても、何も価値がないどころか、その行為自体が汚れている」という意見と「たとえ、動機が不純でも、その行為によって救われる人が1人でもいるのなら、止めるべきではない」という考え方の対立である・・・・。

僕なんかは、むろん後者を指示するが、しかし条件として「行為者自身が、その事を自覚した上で」とう条件付きである・・・・。「自分の行為は、動機も不純だし、偽善かも知れない。でも、その事で助かる人にとっては、それは全く関係のない事だ」という認識を持って行えば、それはむしろ、偽善とさえ言えないのかも知れない。

最悪なのは、自分の行為を全く善意として疑わないクセに、相手を蔑んで優越感に浸ったり、対価を求めたりする事であろう・・・・多分



DVD「容疑者Xの献身」のラストシーン



東野圭吾の「容疑者Xの献身」を読んだ・・・・。

とてもよかったので、一度画像で観たくなり、DVDをレンタルした・・・・。勿論、過去一度DVDで観たはずなのだが、殆ど記憶になかったは、こういうケースではいつも通りなのだが・・・・。

容疑者

湯川学は福山雅治・・・これは定番である。福山が役者としてどうなのか、素人の僕にはよく分からないのだが、上手いとも言えるし、そうでもないような気もするが、要はイメージとしては、湯川学は彼でしかあり得ない・・・と、思う。加賀恭一郎役が、阿部寛でしかありえないように・・・・。

主演は、間違いなく石神哲也役の堤真一であり、花岡靖子役の松雪泰子であるが、この二人の演技はさすがだったと思う。

原作のイメージからすると、石神哲也は、巨人の星の左門豊作のような風貌をイメージしていたが、堤真一の根暗な天才数学者の雰囲気は、まさに「はまり役」と納得させるのに、十分な程の名演だった・・・・。

細かいストーリーは、省略するが、今回はこの作品のラストについて触れてみたい・・・。

石神が拘置所に連行される時、花岡靖子が現れて、「自分も一緒に罪を償いたい」と絶叫したアト、それを聞いた石神が号泣するシーンである・・・・。それまで、淡々と自ら立てたプランを無表情にこなしてきた石神が、何故号泣したのか・・・・という事について考えてみた・・・・。

まずは、その前段階で、かって一度は人生に絶望して、自室で自殺しようとしてた石神が、その時偶然アパートの隣室に引っ越してきて、その挨拶で訪れた花岡母娘によって、自殺を思いとどまったシーンがあった。

別に、その時は花岡靖子に一目ぼれしたわけでもないのに、何故そこで自殺を思いとどまったのか・・・・・。原作では「その母娘の姿に希望を感じた」みたいな事が書かれていたような記憶があるが、映像では母娘の明るい声が隣から聞こえたり、登校途中の娘が、石神に手を振って「言ってきます!」と挨拶をするシーンが描かれていた・・・・・。

つまり、それまで天涯孤独で、うまくいかない人生に絶望していた石神にとって、久しぶりに訪れた、他人との係わりが、彼に生きる希望を与えた、ということであろう・・・・。それがやがて、花岡靖子への恋愛感情に変わっていくのに、それほどの時間がかからなかったのであろう・・・・。

その点を踏まえて、ラストシーンで何故、石神は号泣したのか・・・・。僕はこの時の石神の心境は、自分の思い通りにいかなくて、つまり予想外の花岡靖子の自首によって、自分のプランが挫折した事に対する「悲しみ」だと思った・・・・・。原作ではこのシーンはなかったと思うのだが・・・・。

しかし、ふと思った・・・・。

結局、真相を自分だけが抱えて、罪のすべてを背負うことで、花岡母娘が自分を生かしてくれたことへの感謝の意を尽くそうと思ってたのだが、真相を共有すること、つまり「二人で罪を償いたい」と絶叫した泰子と、本当の意味で、初めて自分が彼女と繋がった事を知ったのではないだろうか・・・・。

そして、そこにこそ、真の意味での人間としての幸福があることを知った・・・・のではないだろうか。

つまりラストシーンでの石神の号泣は「悲しみ」と共に「深い喜び」の証ではなかったのだろうか・・・・。その究極の状況で知った「人としての歓喜」こそ、天才数学者が計算しきれなかった「人間の情」ではなかったのか・・・・。

目に涙を浮かべながら観たこの作品のラストシーンに、そんな事を思った。

久々に、原作を凌駕する感動的な作品に、出逢えたような気がしたのであった・・・・・。



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