やさいのいぶき〜有機農園 けのひの日常〜

脱サラ夫婦が神奈川県愛川町で新しく農業をはじめた日常を綴る。畑と食卓、畑と街、畑と社会を繋いでいきます。

2009年04月

ネギの墓場ネギ畑もそろそろ盛りを過ぎ、葱坊主が目立ちはじめました。もともとネギが大好きだし、研修参加初日の一番最初にやったことがネギの収穫だったため、ネギとのサヨナラはちょっと感慨深いものがあります。

さて、この坊主のたったネギ畑をどうするのかと思ったら300株くらいは翌年のために植え替えるのですが、それ以外の相当量(小型ダンプ1台分)は廃棄するとのこと。まだ食べれるのにという思いとは裏腹に、坊主のたったネギなど商品価値は全くありません。泣く泣くの大量廃棄。裏山はさながらネギの墓場のようになりました。

このネギに限らず、通常作物はトウが立ったら苦味がでるので商品価値を失います。出荷量よりもやや多めに作ることがほとんどのため、このような大量廃棄も特に変わった風景ではありません。

以前読んだ有機農業についての本に「間引き菜からとうがたつまで」食すことに有機の思想があるとありました。食べられるものと商品価値はイコールではないので一概には言えないのですが、この食べられるのに棄てられる野菜を見るとどうも心が痛んでしまいます。

トマトトマトの苗を育てています。トマトは水をやらずにカラカラに乾いた頃にはじめて水をあげるようにすること。そうすれば甘い実ができると師匠が言っていました。それはつまり「活かさず、殺さずの頃合い」ということらしいのですが、素人のぼくにはその判断は非常に困難です。「最終的には感覚で覚えるしかねぇんだ」なんて言われるから余計にわかりません。しかしいただいたヒントの中に、野菜は原産地の気候を好むというものがありました。

よくよく調べてみるとトマトの原産は中南米のアンデス地方らしく、もともと冷涼で乾燥した気候で育つ植物らしいのです。だから水のあげすぎはよくないとのこと。その他の作物たちについて考えてみても、そういえばトンネルに入れたり、カバーのあけしめをしてやったりなど、色々と世話をやいてやっています。それはみんなそれぞれの原産地の気候に近い環境を意図的に作り出してやっているということのようなのです。野菜は勝手に育つとはいえ、そういった工夫をしておいしい野菜を作っていくということなんですね。

大根、玉ねぎ、人参は中央アジアや西アジアから、きゅうり、ナスは熱帯アジアから、ネギ、白菜は中国から来たようです。日本原産の作物には、あしたば、おかひじき、みずな、みつば、みょうがなどがあるようです。ちなみにいつも目にするキャベツはイタリアのナポリ周辺が原産だと聞いて、なんだか不思議な気分になりました。

カブの出荷が始まりました。土の上にひょっこり顔を出し、引っ張るとぷすっとまん丸アイボリーが抜け出てきます。畑で収穫待ちをしているカブは愛くるしく、とてもかわいいです。ところでカブにも色々な品種があるって知っていましたか。聖護院蕪、金町小蕪、天王寺蕪などというのではなく、スーパーで単に「カブ」として売っている一般的なカブの中にも色々な品種があるのです。例えば、研修先で作っているカブは「スワン」と「白鷹」という2種類。これらのカブは見た目には同じように見えるのですが、食べてみるとその違いがはっきりわかります。スワンはとても甘く、シンプルな食べ方、例えば浅漬けや塩茹でなどにすると甘みが引きたちます。一方で白鷹は甘みよりも辛みがまさり、炒めたりして食す方に向いているように思います。しかしこの2種類のカブ、出荷する段階においては同じカブとして流通に乗せています。袋詰めの段階においては複数種類のカブを混ぜることはないのですが、流通の過程で何軒もの生産者から「カブ」が集められ、店頭に並ぶ頃には複数品種が混合して並べられることになるといいます。つまり味が違う野菜が区別されずに同じものとして売られているらしいのです。

また、近所の農家さんに聞いた話によると、とうもろこしも品種によって旨さ、旬の時期、長さが異なるとのこと。ゴールドラッシュという品種は旨いが旬が短いため、旨さでは劣るが長い間安定して出荷できる品種を栽培していると教えてくれました。「おいしいものが一番だけど、適宜だせないとどんな旨いものも出荷できない」というお話が印象に残っています。結局その方は大好物のとうもろこし(ゴールドラッシュ)は自分用にだけ作っています。

この話はレタスもまたしかりです。シスコとオリンピアという別の品種の食べ比べを行ったのですが、シスコは肉に巻いたら旨いだろうなという歯ざわりと味だったのに対し、オリンピアはその甘みからサンドイッチに挟みたいと衝動的に思うほどの違いがありました。それでも両方「レタス」として売られます。

じゃがいもはきたあかり、メークイン、男爵など小売の時点でも区別され、消費者はその用途に合わせて選択できますが、その他の野菜は様々な問題があるのかあまり区別されていないように思います。将来宅配で皆様に野菜をお届けできるようになったらこういった品種の違いもお教えして、よりおいしく野菜を楽しんでいただけたら面白いかなと思っています。

P4241748研修中、通常は週1日、日曜に休みをもらっているのですが、今日は平日に済ませなくてはならない用事があったため急遽お休みをもらいました。 用事を済ませると時間も大分あったため、都心まで遊びに行くことに。いつも木々に囲まれた畑に身を置いているせいか、都心の街並みやそこかしこに溢れるデザインがやけに刺激的に感じられます。農的な暮らしを求めてはいてもやはり東京とは縁を切りたくないなと改めて思いました。 さて、六本木界隈をうろついていたのですが、東京ミッドタウンでたまたま農産物のマーケットが催されていたので立ち寄ってみることに。日々野菜と触れあっているせいもありスーパーの野菜コーナーやこういった野外マーケットなどが最近妙に気になります。 マーケットはそんなに広くもない芝生の広場にU字型にテントが並んでいてイチゴやメロン、米、野菜などが個人名や団体ごとに売られています。以前から耳にしたことのあるNPOや有機農家さんの名前もちらほらありました。場所が場所なため、出店料が高いのかブランド物が並んでいるのか、全般的に価格が高かったように思います。それでもやはり購入される方はいるようで中々繁盛しているように見えました。 ただ、とても気になったのが、少しばかり加工した品がかなりの値段で売られていて、なおかつそれが売れていたこと。同じものを葛飾や成田でやっても決して売れないだろう思います。 また、先日取引先のお店の方がこんな話をしていたのですが、成田の参道近くにあるそのお店ではキャベツやゴボウなどのように電車で持って帰るのに大変なものは売れない。又、なぜかチンゲン菜も売れない。一方、松戸あたりではチンゲン菜は比較的よく売れるとのこと。 よくよく考えてみると当たり前のことなのかもしれませんが、その土地によって売れるもの、売れないものが結構はっきりとわかれているということが新鮮な話として映りました。と同時に、農業においてもマーケティングがいかに大事かということに気が付かされた体験でした。 ぼくも取れたての新鮮野菜や美味しい加工食品を都心の朝市に出したいなと思っているので、しっかり研究していこうかと思います。

前の仕事をやっていて感じたのは、いかに多くのことを知っているかということよりも、欲しい情報がどこにあるのかを把握し、いかに早くその情報を手に入れることができるかを問われている、ということでした。この情報化社会においてはだいたいの情報がどこかしらに転がっているため、暗記能力よりも検索能力の方が重要になっていると思うのです。計算をするにしても暗算をするよりも早く電卓を打てる方が重要だったりします。ところが、農業では少し勝手が違うようなのです。

ある作物の育て方について、農家さんに尋ねたところ、絶対こうだ、はっきりこうした方がいいとは言ってくれませんでした。皆自分の長年の経験を持っているので「最終的には感覚だ」というところに行き着いてしまいます。三人の農家さんがいれば三者三用のアドバイスになるため時にはそれぞれのアドバイスが矛盾していることもあります。ただ、誰かが間違えているのかというとそうではなく、皆それぞれにそのやり方で40年あまりも実績をあげているため全員正解なのです。それは農家さん自身が皆そのように自覚しているようです。

例えばトマトの水やりのタイミング・方法論一つにとってもいただくアドバイスはそれぞれに違ったものとなります。それぞれの意見を聞きつつ、最終的には自分たちが決断することになりますが、研修生一堂、初めての経験となるため判断できるはずもなくなんとなく一つの方法を選択することになります。

それぞれが土も違う、気候も違う、畑の形状も違う場所で作物を作る農業は結局ネットで検索した育て方も必ずしもあてにはならないようです。しかも作物の出来が経営に直結するため他人の畑に対して断言しないということもあるようです。

詰まるところ、この仕事で必要なのは知識と経験、そして判断力。それは検索と違って瞬時に手に入るものではなく、時間の積み重ねで獲得していくしかありません。ここは全く異なる世界なのだと実感しています。

農業に休みはない、なんてことをよく言いますが、サラリーマン気分が抜け切れていないぼくにとって日曜日は待ちに待った週一回のお休み。平日も時間が作れないため、やりたいことをやりきってしまおうと朝から晩まで詰め込みすぎの一日となりがちです。ところが最近は毎週と言っていいほど雨に降られ、起き抜けからかなり残念な気分に。やりたいことのいくつかは野外で行うことなのでそれができなくなるという残念もあるのですが、雨の日は畑作業が早く終わるということもあり、別の意味でもちょっと残念な気分なのです。あぁ、今日は畑行っても半日くらいで帰ってこれたのにちょっと損したな、と。

しかし、休日の翌日に畑に行ったとき、決まって気にかかることがあります。それは昨日やった作業は何か、ということ。年に一回しかやらない作業も多い農業において、その1日をロスしてしまうということはもう研修中で経験できないままで終わってしまうことを意味します。本来ならばそういった重要な作業は全員揃ったところで行えばよいのでしょうが、天候に左右される農業は気象条件が揃ったときに行うというのが必須です。特にサトイモやサツマイモの畑作りなどは基本的には晴天を選んで一気に行われるため、翌日になると畑の景観が一変していることもしばしば。

それを考えると、雨が降っているということは外作業ができないことを意味するわけで、今日1日でロスすることはないなとちょっとほっとしてくる自分もいます。あぁ雨でよかった。安心して遊ぼう。

休んだ分だけ経験が少なくなるこの研修。週休1日は身体的に結構シンドイのですが、連休を取ったときのリスクを考えれば、もうしばらくは週休1日で充分かなと思えてきます。

たけのここの時期、研修所の裏山の竹やぶにはニョキニョキと筍が生えてきます。野菜の詰め合わせを宅配しているのですが、その中に旬を感じる一品として筍をいれようということになり、皆で筍堀りに行くことになりました。

前夜からの遠足気分で浮ついた気持ちのまま、竹やぶへ。そして探し始めて5分、第一筍を発見。さて、どうやって掘り出したものかとスコップやらクワやらで悪戦苦闘してみるも、一向に抜け出てくる気配がありません。掘り始めてようやく理解したのですが、筍は地下茎がものすごく硬く、スコップやクワでつっついたくらいではびくともしないようなのです。前夜から楽しみにしていたわりに取り方の基本さえも知らないという情けない状況に陥ってしまいました。すぐ側にいる筍掘りマスターのような先輩は、一撃で筍を粉砕するかのように次々とぶち抜いていきます。そんなお手本を見たところでパワーも経験もないぼくにはそんなにうまく行くわけがなく、1時間そこそこで帰りたくなってしまいました。本当に難しい。結局、午前中の3時間、7人で約40本収穫できました。ぼくは疲労困憊ですでにうんざり、筍掘りはもういいかなという感想です。

翌日、日本農業新聞に筍価格が高騰しているという記事がありました。なんでも、産地偽装があったせいで国産の筍が高値で取引されているらしいのです。そういえば、西友で福岡産の筍が1本480円で売られていました。そう考えると昨日の筍たちは小売価格で19200円にもなるのかと少しおいしい気もしてきます。一方で、勝手に自生している筍にも産地なんてものがあるのかとちょっと不思議な気もしました。

ここのところ毎日のように裏山に色々な人が筍を掘りにきています。近所の人は一声かけてから山に入っていくからいいのですが、中にはどこぞやの業者のような人も数人で山に入っていき、ごっそりと採ってはそそくさと帰っていく人たちもいます。路上駐車の車の中にはぼくの実家である「相模ナンバー」の車まであるではありませんか。相模ナンバーといえば、厚木、相模原周辺地域からわざわざきているということになるのですが、なぜ、厚木から何時間もかけて、筍掘りのためにたどり着いた場所が成田、しかもうちの裏山なのかと不思議で仕方ありません。あの裏山は筍業界では有名な山なのでしょうか。竹やぶなんてどこにでもありますよね。まして厚木周辺であればそれこそどこにでもあるのに。なぜよりによってうちの裏山で、しかも許可なく泥棒していくのか。筍農家というものを聞いたことがないのですが、一般に流通されている筍はこのようにしてとられたものなのでしょうか。

そもそも、生産者がいない、このような採り方だと正確な産地も特定させられないという筍は、産地偽装以前に、産地そのものが曖昧、もしくは曖昧にせざるを得ないものなのかなと疑問に思えてきます。だってあの厚木の人が採っていった筍は正確には千葉県芝山町の某株式会社所有の土地産なのですから。

春は昼間穏やかでも夜に荒れる、と言われているように天候が変わりやすい季節です。昼間は暑いくらいの日差しなのに太陽が陰ったと思ったら肌寒かったり、夕方になると冷え込んだり、大風が吹いたり突然気候が変わって驚かされることがしばしばあります。「春=穏やかな気候」というのは間違った認識だったみたいです。そんな状況のため、畑の野菜たちには昼間は暑くなったトンネルのカバーやハウスの扉をあけて換気してあげたり、夕方は冷える前に閉じてあげたりと結構世話をやいてあげています。ほうっておいてもいいようなのですが、明け方に気温が急激に下がり、遅霜がきたりするとカバーのかかっていなかった野菜たちは全滅してしまうという恐ろしい事態になってしまうため、多少手間でも開け閉めはしっかりやってあげなくてはなりません。じゃあ閉めっぱなしでも、と思うのですがそうすると寒さを知らずにヒョロヒョロのまま伸びてしまい、実に頼りないホウレン草になってしまったりします。ある程度は保護して、あとは自然に任せる。何事も過保護はいけません。

師匠曰く、結局はなんだかんだ言っても命あるものは自ら生きようとするから大丈夫なんだ、とのこと。これは野菜だけに当てはまるわけではなさそうです。

最近毎日野菜を持って帰っているため、我が家の食料自給率はおよそ80%くらいに上昇しました。肉と魚と卵など、たんぱく質とパンくらいしか買ってないような気がします。野菜は旬の野菜限定となるため毎日同じものばかりですが妻が料理にスイーツに色々やってくれているので飽きずに楽しんでいます。

電車通勤のため、野菜はビニール袋にいれて手で運ぶことになるのですが、ネギなどはどうしても頭が袋からはみ出してしまいます。先輩たちに言わせれば、ネギは匂うから電車で迷惑なんじゃないか、となるのですが、汗臭いオヤジや学生達に比べたら異臭の程度はそれほどでもないなんて思って開き直って毎日せっせと運んでいます。

さて、今日は久しぶりの雨。春の雨は一雨ごとに草木を成長させるといいます。定植した野菜たちはうまく根付き、蒔いた種たちは顔を出すことでしょう。恵みの雨とはこういうことなのかなと実感しています。

今日始めてトラクターに乗りました。乗ったといっても、サトイモ畑予定地に施肥(肥料をまくこと)をしただけなので畑の上をまんべんなく、縦横無尽に走り回っていただけですが。それでもやっぱり始めて触る機械ってのはおもしろいものですね。

施肥の途中、風向きが変わってややニオイのキツイ、ぼかしという肥料を全身に浴びてしまいました。かなり粉っぽいし、臭いしちょっと厄介だったのですが、トラクターの上から見た遠くの畑の様子を見てちょっと考えさせられました。
この土地は有機農業だけではなく、農薬や化学肥料を使う慣行農業を行っている方々もいるのですが、その方々がジャガイモ畑になにかの白い粉をまいているのが見えたのです。マスクをしてタンクを背負い、風上から散布しています。その薬が何かは別としても、さらにぼくのように粉を全身に浴びるということをプロの方はすることがないということを前提にしてみても、農薬をまくということの危うさを垣間見た気がしました。慣行農業を否定するわけには行きませんが、農薬を散布している様子を見てしまうと、少なくともぼくの家族には慣行の野菜は食べさせたくないなと思えてしまいました。

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