やさいのいぶき〜有機農園 けのひの日常〜

脱サラ夫婦が神奈川県愛川町で新しく農業をはじめた日常を綴る。畑と食卓、畑と街、畑と社会を繋いでいきます。

2009年07月

トマト夏本番を迎えトマトも最盛期。キュウリに続いてぼくらの行っているトマトの育て方を紹介しておきます。

まず、トマトはミニトマトの赤・黄、楕円形の黄色ミニトマト、ミディトマト(中玉)、大玉トマト(赤・黄)、調理用トマトの全7種類を育てているのですが、基本的に全てハウス内で同じように育てています。ミニトマトは外でも育てることができますが、大玉は雨にあたると表面が割れてしまうため、家庭菜園の場合でも雨ざらしにはできないので注意が必要です。

さてトマトの場合、一番重要なのは水の加減です。甘さを強めるために、実ができはじめてからは極力水やりを控えます。枯らさない程度に水をやるのがコツのようですがこれがなかなか難しく、水加減は経験によるところが大きいようです。その他は以下の通りです。

・芽かきを随時行う
 →このとき必ず刃物ではなく、手で芽かきをして下さい。刃物は病気が蔓延するもととなります。また雨の日や夕方も控えて下さい。傷口を乾かさないとそこから病気になるためです

・実が6段になったらその上に葉を少し残して摘芯する
 →この辺で成長点をおると全体的にバランスのとれたものが収穫できるようです 行うことはこれくらいであとはトマトの状態を見てやってください。

●茎の太さ
 →栄養状態が悪いと急に細くなってくる

●葉の巻き具合
 →木に栄養がありすぎると巻いてくる。また、肥料が強すぎると実の先に葉芽がでてしまう。これも芽かきします

●栄養過多だと果実が割れる
 →見た目が悪いが中身は充実している

●成長点とそのまわりの色
 →黄緑色のときは成長中です。あまり実を置きすぎて完熟にさせてしまうと木が成長をやめて枯れ始めてしまうので注意が必要です。ほどよいタイミングで収穫して下さい。

トマトやキュウリ、ナスといった野菜たちは手をかければかけるほどおいしい実が長く収穫できます。トマト三昧の夏も夢ではありませんよ。

赤かぼちゃ黄色しばらく放置していた実験圃場ですが、黒豆を撒いたのをきっかけに色々作業を進めてみました。現在のラインナップは次の通りです。

・ハグラウリ
 農業を始めて最初に植えた作物。いまだに食べ方を知らないのですが千葉の特産で有名だとか。生育途中ハウリムシに喰われ、一時期元気がなくなっていたのですが、息を吹き返し、立派に実をつけてくれました。草の中からひょっこりと実がでてきたときは感動しました。そして先日1つ目の実を無事収穫。

・赤皮甘栗南瓜
 こちらもハウリムシによるダメージが大きかったのですが、梅雨の後半から息を吹き返しました。今ではワッサワッサとつるを伸ばし、小さな実もつけています。赤くなったら食べごろ。見た目も味も期待大のうちのエースです。

・唐辛子(鷹の爪)
 これは宅配の販売用に定植したもので順調に実をつけています。ちなみに最近知ったのですが鷹の爪というのは唐辛子の一品種なのだそうです。唐辛子=鷹の爪というわけではなく、日光唐辛子という品種やハバネロ、タバスコ、ハラペーニョなど、その種類は何十種類にも及びます。

・丹波黒大豆
 ようやく豆まき完了。ようやく発芽した豆を食い荒らすキジに対して、殺意をいだきました…。

 ・スイスチャード(アイデアル)
 カラフルな茎を持つアカザ科のほうれん草の仲間。夏場でも作れるらしいです。黄色、赤、ピンク、白など次々に出芽中。

・つるむらさき
 まだ見たこともないのですが、夏場にとれる葉物としてスイスチャードの近くに植えました。こちらも無事に出芽中。

・はつかだいこん(赤丸はつか)
 蒔いたことも忘れていたのですが、先日草取りをしていたらラディッシュが取れました。それがこのはつかだいこんです。食べたら辛かった。

・ゴーヤ
 研修農場に定植後、余った苗が棄てられそうになっていたので救済したもの。ダメでもともと畑の端の方に植えてみました。5株植えて、1株生き延びました。

 以上8品目。毎日畑に足を運ぶのが楽しみでなりません。

黒豆発芽先月に自分の実験圃場にまいた丹波黒大豆ですが、播種直後の豪雨に叩かれ、結局一粒たりとも出芽することはありませんでした。種が高かっただけにこのままでは終われまいと播種の適期を過ぎているのを承知でリベンジすることにしました。追加購入で450粒。まあ、最悪大豆ができなくても枝豆取りすればいいのかなという腹積もりで。正月の枝豆も悪くないはず。

前回は育苗のために畑を鎮圧して播種、その後防虫ネットで囲むという手順を踏んだのですが、今回は一気に畑にマルチ(95cm黒)を張って直播しました。この場合、どんなリスクが考えられるかというと、まず出芽しなかった場合に畑にポツポツと穴があく、つまり何も生えていない無駄なスペースができてしまうということ。育苗した場合はよく育った苗を選んで畑に定植するため、こういう無駄はできないのですが、今回は時間的な制約から賭けにでた形です。また、ネットを張らないためキジが種や新芽を食べにくるという危険が大いにあります。特に私の畑はキジの縄張りになっているのかよく足跡が残っています。これも手間を省いて賭けにでました。その代わり保険として一ヶ所に2粒蒔きという作戦です。さて、結果やいかに。


※農業は手間を掛ければそれだけちゃんと帰ってくるもの、らしいのですが、多忙を理由にこの手抜き作業をしました。もし黒豆をまく方がいても私の真似はしない方が懸命かと思われます。一応先に断っておきます。スイマセン。

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ながぐつ研修参加から三ヶ月、早くも愛用の長靴がパックリと割れてしまいました。晴れた日は地下足袋で作業をしているのですが、朝露に濡れた朝一番の作業と雨の日は長靴が必須。また草の生い茂った畑では蛇よけにも役立ちます。今回はわずか三ヶ月で壊れてしまったので次はもっとタフなヤツにしようとリサーチを開始しました。

 まず、今まで使っていたのは田んぼ用長靴の『豊作』というもので、着脱にやや手間取るものの、軽くて、フィット感もあり機動性は抜群でした。これに匹敵するものをということで見つけたのが、日本のアマートというメーカーのパッカブルブーツでした。田んぼ用のように膝下まで丈がありフィット感もよさそうです。しかしこのブーツのコンセプトはあくまでも携帯用ブーツとのことで、耐久性にはやや疑問があります。 そこで目先を変えて耐久性とデザイン重視の方向に変えたところフランスのエーグルというメーカーのシャンタベルという長靴に出会いました。デザインも軽さも理想的で一目惚れ、購入を即決したのですが、サイズが27cmまでと規格に合わず、やむなく断念。あっけなく片想いで終了しました。
 最終的に購入したのはアメリカのアウトドアメーカー、コロンビアのラディ?という長靴。片落ち価格で4500円でした。 若干高かったのですが半年履ければ元が取れるので大切に使いたいと思います。

長靴が消耗品というのもにわかに信じがたい話ですがこれから先何十足も選べるのだと思うと、感覚的には定期的に床屋に行くような、ちょっとした楽しみになりました。

梅雨明けこのところ暑い日が続いていたと思ったら、関東地方は梅雨が明けていたそうでいよいよ本格的な夏がやってきました。

今年の梅雨は6月上旬頃から毎日曇天でしょっちゅう豪雨が降り、日照不足や読めない天気に翻弄される日々でした。かーっと晴れたこの数日、畑の野菜たちには色々な変化が現れています。 まず、あの完熟で食べたいトマトたちは一気に色づき、ハウスの中は濃い赤や黄色でとってもカラフルです。8割くらいの色づきで収穫のはずがトマトの成長が早く、ほぼ完熟で出荷しています。今トマトたちは本当に旨い! そしてキュウリ。こちらは湿気にやられてしまって病気になったのか、一気に枯れ始め、日量200本を軽く越えていた収穫量も激減し、今ではその1/4くらいまで落ち込みました。ズッキーニ、セロリは生産終了。変わってルッコラ、オクラ、ナス、ピーマン、シシトウ、トウモロコシが取れ始めています。トウモロコシは未来14という品種で本当に甘くておいしい!今まで食べてきたトウモロコシはなんだったのかというほどの旨さです。一方で秋の作付もぼちぼち始まり、ネギ苗の定植、人参播種の準備として畑の太陽熱消毒などを行っています。

こんな感じで2009年、百姓として初めての夏が始まりました。

剪定ばさみ日々の農作業において実に様々な道具を使っているのですが、そのほとんどを研修先のものを借りており、自分で所持しているものといったら携帯用のカッターナイフとメジャーくらいのものでした。夏の収穫がはじまり、毎日毎日使う剪定ばさみくらいは自分用の物を買ってみてもいいのかなと探してみることにしました。

ホームセンターに行けばそれこそ色々あるのですが、多少値段が高くても愛着を持って使いたいと思い、ネットやガーデニングショップなどを海外のものも含めてリサーチしました。その中でもこれは格好いいと思ったのが英国のジョセフ・ベントレー社のもの。ネットでワンクリックで購入もできるのですが、毎日使うものなので実際に触ってみたくて取り扱いのある店を探して触ってきたところ、はっきりいって重くて使いづらい…。らっきょうや玉ねぎの根っこ切りで何千回もはさみを動かすことを想定すると1日で腱鞘炎になっている自分が容易に想像できてしまうほど。店の主人に聞くとこれはいわゆるコレクター用であって実用品ではないとのことで断念。また、これはデザインも優れているし、使いやすいと思ったのは日本の外山刃物が出しているものだったのですが、こちらは1万円越えとちょっと高すぎて手がでませんでした。

結局選んだのはドイツのヘンケルス社のもの。刃は30°になっており、剪定しやすい角度です。また、持ち手も軽量化されており、見た目ほどの重量感はありません。若干地味なデザインですが、探した中では一番バランスがとれていたので選びました。値段の方は結構高く、2500円…。この値段を高く感じてしまう現在のぼくの経済状況を察していただけるかと思います。

ともあれ、お気に入りの道具を手に入れると毎日の作業がより楽しみになるもの。大切に、かつ大胆に使っていきたいと思います。

ちゃぶ台最近、椎名誠の『大きな約束』という本を読んだのですが、その文中に「家族みんなで食卓を囲める時代というのは、意外にもそんなに長くない」というようなことが書かれていてはっとさせられました。

親の仕事の都合、子どもの習い事や塾など、孤食化が進んでいる昨今において家族で食卓を囲めないことが多くなっていることは想像がついていましたが、家族関係が良好であってもみんなで食事をできる時代というのはそんなに長くないという事実は、考えてみればわかることなのに新鮮な驚きとして印象に残りました。

ぼくの場合、3人兄弟の5人家族なのですが、振り返ってみると実家でみんなで暮らし、食卓を共に囲んでいた時代というのはせいぜい兄が高校生くらいのときまで、つまり自分にとってはほんの15年くらいのことでしかありませんでした。しかもこれは物心ついていない時代も含めてなので、記憶にあるのはせいぜい10年分くらいのものでしょうか。そして意識せずして子ども時代の食卓は終わり、実家で暮らしているときでさえも家族で食卓を囲むことは段々減っていきました。

そして今築いている家族での食卓。こちらはチビちゃんが誕生し、今まさに始まったばかりの新しい家族です。しかし少し先を見れば、この食卓もまた20年も経たないうちにバラバラになり、最終的には妻と2人の食卓に戻っていきます。そう考えると、子ども時代と親時代、トータルしてもせいぜい30〜40年がいいところで、人生80年と考えれば家族みんなで食卓を囲める時代というのは実に半分くらいしかないのだということに気づかされます。普通、こういうのは親時代が終わったときに気が付くのだろうけど、いま気が付けてよかった。

大切な人との食事の時間。それは必ずしも家族とは限らず、恋人との食事であったり、仲間たちとのバーベキューであったり本当に色々な形が存在すると思います。とはいえ、日常において家族みんなで食卓を囲むという行為は当たり前すぎて意識することはほとんどないのですが、それだけで尊くて、素晴らしいものなんじゃないかなと思うのです。何を食べるか、というのももちろん大切なことなのですが、家族みんなで食べるというのはそれ以上に大切なことなのかもしれません。

ベビーコーントウモロコシっててっぺんにひとつできるのかと思っていたのですが、畑に行ってみたら全然違っていました。てっぺんには雌しべがあって花粉を周囲にばらまいており、肝心の実は毛をふさふさとたたえて下の方に2-3個ずつついているのでした。そしてその実の先の毛がおしべで、花粉がついてうまく受粉したら実ができるという仕組みらしいです。聞いた話で調べていないので正確なところはなんとも言えないのですが、だいたいそういった感じで実ができます。

それで木一本あたりに実は一つにする、というのは正しかったらしく、一番大きく成長している実を残してあとはすべてはずさなくてはなりません。そんなわけでトウモロコシの芽かきのためにずっと放置してあった畑に入りました。

久しぶりに入ったトウモロコシ畑はすでに背丈が2m近くにもなっており、下草も刈っていなかったためうっそうと生い茂っています。視界が悪くなった畑で、上にも下にもある草をかきわけて畑の奥へと入っていきました。ほとんどの木に実は2個以上ついているため、小さいのを判断してバリっとはずしていきます。梅雨どきのせいなのか、木に一匹ずつカエルがのっていて無農薬の畑って素晴らしいなぁなんて思いながら芽かきを進めます。最初のうちはカエルを愛でつつの作業だったのですが、広大な畑でキリがないため途中からはもうカエルが乗っていてもおかまいなしに、カエルもろとも芽かきをしてもうただ黙々と作業を進めました。
そうしてしばらくしたころ、つかもうとした目の前のトウモロコシの上で何かがニョロっと動くではありませんか。カエルがこれだけいるってことはやっぱりいたのです、ヘビが。それからの作業はどこにどれだけいるのかわからないヘビを気にしながら、恐怖と戦う時間に。安全・安心な野菜を作っているのに、現場の畑はこんなにも危険極まりないのです。

ところで芽かきをした小さなトウモロコシはいわゆるベビーコーンやヤングコーンと言われるもので、しっかり食べられます。中華料理なんかに入っているあれです。今回、恐くなって早く畑から出たかったせいで全部捨ててきてしまったのですが、現場で味見をしてみたところ、やわらかくて甘くてなかなかいけてました。

おいしいきゅうりズッキーニに関しては支柱を立ててやるくらいで割りと放任してあるのですが、キュウリやトマトは手をかけてあげないといい実が長くできません。ちょっと専門的になるかもしれませんが家庭菜園をされている方もいらっしゃるかと思うのでぼくらのやり方を紹介しておきます。

<定植後のキュウリの世話>

・下から8節くらいの花、実、わき芽は全て取る
→親株が小さいときに実をつけてもいい実にならないため下の方にできた実はすべてとります。子どもが子どもを産むようなもの、と言えばわかりやすいでしょうか。また、下の葉は病気になりやすいのでこれもすべて取ってしまいます

・水はたっぷりあげる
→きゅうりは水を好むため、乾燥させないように水を与えます。ただし、湿気は病気のもとなのであまりじめじめとさせないように風通しをよくしておきます

・実が採れ始めたら2週に1回くらい追肥する
→きゅうりは水とともに肥料もたくさん吸収します。通路に肥料をまいて水をかけておけば吸収してまたいい実をつけてくれます

・自分の背の高さより少し高いところで成長点を折り、親づるの成長を止める
→これは収穫の都合によるところが大きいのですが、親づるを折ると子づる、孫づるが次々とでてきて実をつけてくれます

・小づるは実があるところから葉を2枚残して摘心
→ほうっておけば次々と実がなりますが、子づるに1本くらいが適当なようです。このとき光合成できるように葉を2枚残しておくのがよいようです

みなさんは有機農業と聞いてどんなイメージを持っていますか?ぼくはこの研修を始めてみるまで単に無農薬で作る農業、くらいの理解しかありませんでした。そもそも有機農業ってなんなのでしょうか。

『有機食品Q&A』(岩波ブックレット、久保田裕子)によると「有機農業とは、太陽エネルギーによる自然の広大な営みを天の恵みととらえ、自然の持つ生産力を活かし、自然と調和する農業」とあります。ではこれまでの、といっても戦後のここ30〜40年の農業はどうだったのかというと、大量生産・大量流通・大量販売の仕組みにあわせて農業を工業のように扱い、大規模化を進め、生産性の向上や画一化ばかりを突き詰めていくようなやり方で行われてきました。そして今日の農業もそういったやり方が主流になっています。

では具体的にぼくらがどうやって有機農業を行っているかというと、まず第一に農薬を使わない、そして化学肥料を使わないというのが大きな柱となっています。農薬の使用をすると草が生えなかったり、害虫を駆除することができますが、同時に土の中の微生物も死んでしまうため、土中の有機物を分解し、農作物が吸収できる無機物にする役割を負うものがいなくなってしまうことを意味するのです。そのため、微生物がいなくなった畑に化学肥料を投入して栄養を補うことになります。こういった畑は生態系が崩れており、本来いるはずの虫、微生物、草などなどがいない死んだ土となります。そこに毎年のように化学肥料を大量に投入し、生産を続けます。しかしこういったやり方も約40年で限界がきて、化学肥料を投入したとしても生産することすらできない死んだ大地になってしまうといわれています。こういった近代農業・社会のあり方に対しての根本的な問いかけとして「有機農業」の考え方があるのです。

だからといって慣行農業者は悪なのかというとそんなことは絶対に言えません。大規模化・効率化を進めなくてはならなくなった原因は国の政策や社会の仕組みに因るものが大きいし、何より本当にギリギリのところで何とか持ちこたえながらこの国の食を生産し続けている方々を責めることなど到底できることではありません。現在の農を取り巻く現実をあらわすのにこんな話があります。日本人が100人いたとすると3人が農家で、そのうちの1人が80歳、1人は60歳、そしてもう一人が40歳です。50歳代の方を「若手」と呼ぶこともあるくらいなのです。50年前までは8割が農家だったことを考えると農を取り巻くこの国の現状は決して明るいものではないことがお分かりいただけるかと思います。10年後のことを想像してみてください。
慣行のあり方、有機の考え方など様々ありますが、まず大前提としてこのような状況があるのです。

農業を始めるにあたり、ぼくは環境についての思いが、妻は食の安全に対する思いがあり有機農業を選択することになりました。そして日々学ぶ中、無農薬・無化学肥料という手法だけではなく、自然に対する自分自身のあり方そのものを問いかけられているような気がしてならないのです。というのも、たとえ無農薬であっても大規模に単一作物を栽培するような方法などを取っていては有機農業の本質とははずれていると思うからです。
有機農業とは単なる農法としての選択ではなく、思想や生き方そのものの選択なのではないでしょうか。ぼく自身はまだまだそれを語れる身分ではありません。ただ、一人前の生産者になるにあたって、この先必ず真剣に考えていかなくてはならない事柄であることは間違いないと言えます。そして日々の積み重ねの先に自分自身の回答が待っています。いつかそんな生き様を農業を持って語れる人間になりたいと強く思っています。

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