やさいのいぶき〜有機農園 けのひの日常〜

脱サラ夫婦が神奈川県愛川町で新しく農業をはじめた日常を綴る。畑と食卓、畑と街、畑と社会を繋いでいきます。

2009年09月

たくさん採れた有機野菜をときどき友人や近所の人におすそわけするのですが、わりかし喜んでもらえることが多いような気がします。でもそれが有機だからなのか、単に野菜をもらえたから喜ばれているのかは、あげているときにはちょっとわかりません。そもそも有機野菜って何なのでしょう。ちょっと考えてみます。

まず、有機野菜はうまいのか、という問いですが、それはもちろん、うまいに決まってる!といいたいところですが、「うまいから有機」なわけでも、「有機だからうまい」というわけでももちろんありません。一般的に有機野菜が保証しているものは以下の3点だと考えます。

?食品の安全性
以前からいくつかの記事で紹介しているように、完全に無農薬であり、肥料も無化学肥料となっています。そのため人体に入って悪影響を及ぼすような物質はすべての行程において散布されておらず、泥を落とすだけで安心して食べられます(種子の段階で消毒されているものはありますが発芽の時点で薬の効果は切れているので問題ないようです)。

?自然環境への影響
上述のように農薬を使っていないため、生態系を大きく崩すということはありません。また、土壌の微生物の力を必要とするため、土もしっかりと生きており、将来にわたって持続可能な農業を行うことができます(ただし、有機肥料でも吸収量を上回る量を多投すると流亡し、地下水を汚染してしまうことがあります)。

?産地への支援
無農薬では大量生産ができないため、慣行農業の作物よりも若干割高となりますが、上記の2点を重要視している数少ない産地を守るということへ直接つながっていく価格差となります。安ければいいということを消費者側は考えてしまいがちですが、すでに産地は疲弊しており、消費者が望むような低価格では農業は続けられない状況なのです。それを支援し、日本の農業を守るための一票を直接投じるという意味あいもあります。

一方で、無農薬であれば有機野菜なのかというと実はそうではなく、有機野菜を名乗るには認可が必要となってきます。認証機関に申請し、一定の条件を満たして初めて有機となりますが、これについては様々な問題も残っています。申請を通すにあたっては様々なルールがあり、認証機関が決めた資材でなければ使ってはいけないことになっています。例えば、虫除けスプレーや蚊取り線香も畑や作業場では使用禁止のため、かなり痒いことになりますが、これに限らずナンセンスではないかと思えることが多々あるためすべての生産者が納得して行っているわけではありません。そのため認証をとらなくても同じように無農薬・無化学肥料で生産しているという方が存在し、「有機」の表示がなくても情熱を持って生産された無農薬野菜が色々な場所に出回っています。有機野菜の流通量が全体の1%未満というのもこの認証制度がネックになっているからなのかもしれません。

しかし、正直なところ身体に安心だからとか、自然環境に優しいからという理由では購買意欲はそそられませんよね。認証マークがそれらを証明してくれてはいますが、見ただけではその違いがわからず、若干高く値付けされた野菜を、産地や自然環境や安全性ということに想像力を巡らして買うというのは正直いって難しいと思います。食べ物なのでやはり味は重要です。

以前、出荷先の消費者からのお便りがまとめて届けられたことがありました。その中には「腐っていた」というご指摘ももちろんあったのですが、「人参が本当に甘くて、子どもの好き嫌いがなくなりました」というものがありました。そして人参に限らず、小松菜やほうれん草やキャベツなど、それぞれに「おいしかった」、「感動した」「好き嫌いがなくなった」と伝えてくれていたり、有機で続けることの大変さを指摘した上で、「支援します」と表明してくれる方がいたり、ぼくらの生産した野菜のファンですと名乗る方がいたり、消費者の方々のメッセージから熱いものを感じることができました。

有機野菜を見かけたら、「うまい、かもしれない」、そして「地球にも身体にも優しいし、産地を守ることにも繋がる」と意識していただくと、有機野菜や無農薬野菜を買う2次的な意義みたいなものが感じられると思います。ナマモノだけにそれぞれ個体差などがあるため、どうしても味の保証ということはできませんが、やはり味で選ばれた上での有機野菜でなければ選んでもらえないのは当然です。その辺はぼく自身、妥協なくがんばりたいと思います。

いのちの食べ方食のグローバルスタンダードの現場、大規模な農業であったり、魚の養殖場、家畜の生産・加工の現場などを定点カメラをベースにナレーションも音楽もなしに坦々と約90分間映し続ける。何の説明も無いので、画面上で繰り返し行われている作業を、見る側が解釈していくことで成り立っていく。

巨大なプールに大量のリンゴが流れている場面や、ひまわり畑にセスナ機がやってきて「何か」を空中散布していく様子、ヒヨコがベルトコンベアに流されていき、「何らかの条件で」選別されている様子、牛に「何かの」棒のようなものを当て、倒れたところを鎖で逆さづりにしてどこかへ流していく様子…。あまりに坦々としていて抑揚がないため、現場の様子を完全に理解することは難しいかもしれないが、これらはどれもぼくらが普段口にしている食べ物を生産している現場なのだということに、次第に気づかされていく。牛が、豚が、鶏が、魚が、野菜が、果物が、スピーディーに大量に生産されていく。しかしその様子を見ていてもぼくらがいつも食べている物を生産しているとはどこか信じられないようなところがある。それはまるで食べ物がモノのように扱われているからなのか…。

映画の中で、特に印象に残ったのはときおり映し出される現場で働く人々の表情だ。毎日の仕事としてこなさなくてはならないためか、そこには何の感情も入り込んでいないように見える。「いのちの現場」で無表情で働く人間。しかし自分自身、あの現場にいたら同じような表情をするだろう。そしてただ時計の針が動いてくれることだけを楽しみにして、日々の作業をこなしていくんだと想像できてしまう。

「いのち」をいただくというのは一体どういうことなのだろうか。日々当たり前のように買ってきたものを食べているが、ぼくらを取り巻くこれらの大きな仕組みは、ぼくらに「食べ物=いのち」の尊さを忘れさせる仕組みでもあるというような気さえしてくる。というか、生産の現場は全く見えないような仕組みになっており、意識の外にいってしまっている。本来ならば、人はみなそれぞれにほんの少しであっても、何らかの形で自分で食べるものに関わり、愛着を持って「いのち」と向き合うという行為が必要なんだと思う。お金を払えば「いのち」は買える。しかしそれを通してだけでは本質的なものは何も見えてこない。

ぼくらはみんな、紛れも無く、いのちを食べ繋いで生きている。しかし、本当のところ、何を食べているのかわからないのだ。「いのち」の受け渡しを通しても、作り手も食べ手も何も思わないなんていうのはどこか悲しい。

映像からはネガティブな印象ばかりを与える映画だったが、農業を始めた自分にとっては、逆に考えなくてはならないこと、やらなくてはいけないこと、やれることなど、示唆に富んだ作品だった。

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