2008年11月09日

小さなレースの熱い瞬間

去年負けてからずっと目標にしてきたレース当日。スタートからぶっちぎられたSさんのスピードを、その蹴り足鋭い後ろ姿をイメージして練習に取り組んできた。

前日のレースの影響で足にハリはあったが、フォームが崩れないように気をつけながらジョグをする。調子は悪くない。そう思ったが、そう思い込もうとしている自分がいることもわかっていた。結果がどうあれ昨日のことは言い訳にはしたくない。だがしかし…。

レース前、展開にも不安があった。レースは最初にグランドを1周した後、ロードにでて2周、最後に再びグランドに戻って1周という約2キロのコース。最初から先頭で走ったら潰される。とりあえず2番手以降に付けてチャンスを狙おうと決めた。練習もつんだし、作戦も決めた。しかし異常なまでの気負いに自らプレッシャーを作り出していた。緊張のあまりトイレが近い。スタート地点に立ったときには喉がカラカラになっていた。

号砲がなり、スタートが切られた。最初のグランド1周、飛び出したのは中学生2人、Sさん。それに一昨年優勝者のWさんとぼくが続く。先頭に立ったら、と心配していたものの、いざスタートしてみれば彼らのスピードに全くついていけず、自然と5番手になった。ロードにでてもこの順番。後ろから足跡は聞こえない。

Sさんは相変わらず飛ぶようなストライド走法。バネが利いているのが後ろから見ててわかる。この一年間ぼくの脳裏に焼きついていたものであり、ゾクゾクしてくるのを感じたと同時に、勝てる気がしなくなってくる。ぼくのすぐ前にいるWさんもそれについてとばしている。こっちはこれ以上のスピードは出せないし、離されたら追いつけないのでとりあえずWさんをかわして何とか4番手についた。しかしロード1周目半ば、オーバーペースに早くも吐き気をもよおした。ここでさらにペースをあげるのはキツイ。咳がでてしまったが苦しみつつついていく。

ロード二周目に入ってすぐ、先頭で飛ばしていた中学生二人が急に落ちてきた。Sさんもペースを落して休んでいたのでぼくもここで息を整える。中学生二人をかわし、Sさんのピッチがあがる。先導の人が道路整理係りの人たちに何度も叫ぶ「ピッチあがってるよ!!!」。その叫びがぼくの緊張感に同調していた。後ろからWさんがせまってくるのがわかる。絶対に並ばせないようにピッチをあげる。そのペースにあわせてSさんもスピードをあげる。その時点でWさんの足音は聞こえなくなった。もう目の前のSさんのことしか頭にはなかったが、このピッチでずっといかれたらもうついていけない。町内の銭湯を過ぎたあたりで先導が歩行者に叫んで道をあけさせる。場はかなり切羽詰っている。次の角を曲がってSさんの姿が消えたとき、ふいに気持ちが萎えそうになったが、ぼくも曲がり、彼が視界に入ったときに彼の背中がわずかにだが近づいているような気がした。かなりきつかったがここでいかなきゃもうチャンスはない気がする。決断して、並ばずに一気にかわす。ラスト500m、ようやく先頭に立った。

振り返る余裕は全くない。グランドが見える最後の角を曲がったところでSさんへの声援があちらこちらから聞こえてきた。当たり前だがぼくを応援する声などひとつもない。いまや地元のはずなのに完全にアウェーだ。グランドに入るとき、誘導係の声がひどく切羽詰っていて、すぐ後ろにSさんがいることを予感させる。最後のトラック、早くゴールがきてくれないかと必死に願う。後ろから聞こえてくる足音がどんどん大きく、速くなってくる。ぼくの太ももはもう限界で足に力が入らない。スピードがでているのか、失速しているのかすらわからない。感覚がなくなっていた。このとき、もう負けを確信してしまった。最終カーブを曲がったところで抜かされて、1m差で負けるんだと。後ろからはものすごいプレッシャーを感じる。振り向くこともできずに、そして並ばれることもなく、ラスト10数mまでたどり着いた。まさになりふりかまわない走り、死に物狂いだ。しかし斜め後ろの視界には誰の足も見えない。あと2mというところでようやく勝利の確信をした。そのまま右手を突き上げてゴールテープを切る。万感の思いがあった。

2位のSさんとの差は1秒。30秒差で負けていた去年のレースから一年かけて逆転できた差だ。Sさんは非常に悔しがったが、その顔には笑顔があった。すっごい楽しかったとさわやかに言う。そして来年は絶対に負けないと。3位でゴールしたWさんにも宣戦布告された。レース後に彼らと話し、この一年間やってきたこは間違っていなかったと思った。それどころか、大きな情熱の渦がその空間を支配していて、今までスポーツをやってきた中でも一番の充実感があった。参加人数わずか20名弱の小さな大会。しかしそこには確かに熱い瞬間が存在し、共有している人々がいるという悦びがあった。

shun0301 at 00:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip! 

2008年11月08日

走り続けた先にあったもの

CLUB JOGメンバーほぼ勢ぞろいで出場したEKIDENカーニバル西東京大会。目標としてきたレースの前日とあり、正直、出場していいものかどうか悩んだ。結局3キロの区間にし、最終刺激と割り切って走ることに。ただ、走る前は明日負けたときの言い訳になりはしないだろうかという葛藤もあった。駅伝後の夜の手記。

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一年やってきた結果はEKIDENカーニバルでひとつの形を見せてくれた。CLUB JOGと会社の陸上部、どちらも団結してチームとしての一体感があったし、何より次への希望、ポジティブな意志が芽生えていて逆に刺激を受けた。

これは自分が中心になって周りを巻き込んだ結果だと思う。明日の勝ち負けという最後の結果前ではあるが、この予定外の結果に満足し、来期もまた走り続けようという気にさせてくれたことが何よりの成果だと思う。

Kファミリーに、特にそのMに火がついたのが嬉しかった。「またやりたい」というコメントも嬉しかった。



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2008年10月27日

なくてもいいもの

最近ちびちょろの動きがよくなり、部屋のものにあれこれ手を出すようになった。棚の本を出し、コンポのボタンを手当たり次第に押しまくり、植木の土を食べてしまう。

ということで、ドラスティックに部屋を変えてみた。一番大きなことはテレビを撤去したこと。

普段からテレビはほとんどみないから、なくなってもなんてことないと思ってたけど、いざなくなると無性にテレビが恋しくなる。何がみたい訳でもないけど、テレビがみたい。

といってもないものは仕方ないので、そういうときはラジオで対応。ちゃぶ台とコンポしかない部屋なので自然と食事中は会話が弾むようになった。

ちびちょろは椅子に座り、三人でちゃぶ台を囲む。暖色の明かりに照らされた食卓は、テレビがないことで少しだけど豊かになった気がする。

shun0301 at 22:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!暮らし 

2008年10月26日

前哨戦

目標のレースに向けての前哨戦2レースが終わった。

一戦目は高尾で行われた八王子ロードレース。現金書留のみの受付とあってその面倒くささも手伝ってか10キロの部の参加者は60人前後。しかしやはりモチベーションの高い人が多かったのか、速い人が多かった。

スタート直後、飛ばす人が多く、つられて最初の1キロを3分30秒台で入ってしまう。これは自分にとっては速すぎるペース。そのあと4分ジャストまで落とすも最初のハイペースが祟り、9キロ地点で疲労のピークを迎えてしまいペースがガクッと落ちた。

最終的に40分を若干だが切れない残念な結果に終わってしまった。

それから二週間後の今日、二戦目として西葛西で江戸川マラソンに出場した。目標は前回切れなかった40分を切ること。

この大会はファミリーの部もあり参加者は1500人くらいという中規模の大会。これくらいいると気分も盛り上がる。

前回の反省をいかし、最初の入りを意識して落としたら4分20秒もかかってしまう。そのまま4分くらいにペースをあげて、5キロ過ぎから3分40〜50秒にあげたが時すでに遅く、40分30秒でゴール。不本意だった前回よりも15秒も遅かった。自分にとって40分は壁なのかもしれない。

しかし課題も見えてきた。まず、朝のレースに身体が対応できていないこと。これは明らかに夜練習しているのが原因だ。また、フォームが固まっていないために力のいれどころがいまいちつかめずにちぐはぐな走りになっていること。

次走は目標のレースの前日に行われるEKIDENカーニバル(3キロ)。残り二週間、インターバルトレーニングで力をつけて挑みたい。

shun0301 at 22:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip! 

2008年10月08日

古都漂流

東京から新幹線でわずか3時間。嫁とちびちょろとオージーの友達の4人は京都駅のホームにいた。外は雨。厚い雲に覆われている。京都はこれで2回目。前回は8年前のヒッチハイクの旅で通ったのだった。

静岡、愛知、滋賀を経て京都にたどり着いたのは神奈川を出て3日目の夕方頃だった。彦根で乗せてくれた中小企業の社長さんだという人は途中仕事の現場に立ち寄りながらも五条大橋まで連れて行ってくれた。ぼくとRは礼を言い、バンのドアを勢いよく閉める。

「さて、これからどうしようか」。中学校の修学旅行は岩手だったので、京都にくるのは初めてだ。「とりあえず誰かに聞いてみるか」。小雨の降る五条大橋の上、犬の散歩するおばさんに声をかける。

「すいません、どこか野宿できる場所とかないですか」

突然の質問に困りながらもそのおばさんは、「知積院に行くといいよ」と教えてくれた。地図ももたない旅だったので街中にある地図を頼りに目指すお寺を探した。

実を言うと、地図は名古屋ですでに手に入れていた。街に入ると方角がいまいちつかめなくなり、どちらの道路でヒッチハイクをすればいいのかわからなかったため、どの道路で、どの方向に向かってやるのがベストなのかを知るためにも地図はぜひ必要なアイテムだった。しかし、いざ本屋へ行ってみると、道路がわかるほど詳細な地図ではこの旅を網羅できそうにない。その場その場で買うのもいいが、知りたいのは道路一本と方角だけだった。結局のところ、次から次へと移動していくこの旅で選んだのは、大きな都市の名のみ書かれた一枚の日本地図だった。

お寺につき、受付らしき場所に入っていく。まだ19歳のぼくらは恐れを知らずに受付の若い坊主に言う。

「ここに泊めてもらえませんか」

怪訝な顔をした坊主に、ぼくらはなおも続ける。
「歩いている人に泊まらせてくれるところを聞いたら、知積院に行けばいいと教えてくれたんですよ」

若い坊主は裏に行って誰かと話している。
「では、駐車場を使ってください」と許可がおりた。あまり余計なことは聞いてこない。それが坊主というものなのだろうか。

駐車場かよ、と思いながらも文句は言えない。安全な野宿場所を提供していただけたのでありがたく寝袋を広げる。3月の寒空の下、野宿のときはいつもそうであるように、温かい寝袋の中で浅い眠りについていった。1時間先の出来事すら想像できない旅、翌日の出逢いを予感させるものなんてもちろん何もなかった。

shun0301 at 13:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!旅行 

2008年10月07日

新米

先月の中ごろ、5月に田植えを行った稲の収穫をした。黄金色に染まった田んぼは本来土が固まって歩けるはずなのに、9月に入ってからも続く連日の雷雨で泥沼状態。田植えの時と同じように深い田んぼに足を取られながらの作業となった。

右手にノコギリのような歯がついた鎌を持ち、腰に刈り取った稲を束ねるための古い藁を巻いて田んぼに入る。足には田んぼ用の膝丈の長靴。左手で稲をつかみ、鎌で刈り取る。それを3〜4回繰り返し、片手で持ちきれなくなってきたら腰から藁を数本抜いて縛る。田んぼの端を目指してそれを続けていく。前は見ない。気持ちがなえるから。豊作をうらみながら目の前の稲だけに集中する。思うように動けない泥に悪戦苦闘するだけでなく、炎天下にさらされ体力はどんどん奪われていく。普段はケロっとしている人もこの日ばかりはつらそうだ。

稲刈り中、田んぼの中では大量の蛙、ザリガニを目にした。申し訳ないが、きっとかなりの数を踏んづけているかもしれない。農薬を使っていない分、こうした生き物たちがたくさん生息できる環境が保たれているんだろう。話しには聞いていたけど、無農薬で農業をやるということは人間だけでなく、生態系にとっても意味のあることなんだと実感する。

休憩を挟みながら、作業は延々と続く。刈り取った稲は田んぼに立てられたノロシに干され、天日干しにしていく。乾燥機ではなく、お天道様に少しずつ乾かしてもらう。週末ファーマーだからできる贅沢(?)のひとつだ。16時頃、迫りくる雷音から逃げるようにこの日の作業を終えた。朝から休憩を挟んで、実に7時間に及ぶ重労働だった。


翌週、脱穀のために再び田んぼに集合。天日干しにされた稲をノロシから下ろし、コンバインで藁と籾に分けていく。これまた大量のため、ノロシから降ろす人、ノロシを片付ける人、コンバインに入れていく人、籾がとれた藁を束ねていく人などに分かれて作業をする。ぼくはコンバインのお尻について吐き出されてくる藁を片付ける作業。藁が粉末になって降り注ぐため全身真っ黒。

その後袋に詰めて、籾摺り機のある農家さんの家へと運び、ひたすら機械に籾を入れていく。そうして最終的に玄米となって袋詰めされたお米はなんと427kg。米俵にすると約7俵にもなる。農家さんもびっくりの豊作だった。

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2008年10月06日

安心できる野菜

7月頃の話。

所属している週末ファーマーの集まりで枝豆を収穫した。昨年は個人用にと大量の枝豆を持ち帰り、食べきれずに冷凍庫で保存するほどだった。個人で消費するには十分過ぎるほどの量が収穫できたため、今年は区の交流市に出店して一般の方々に売ることになったのだ。

交流市当日の朝、畑では掘り出す人、葉っぱを採る人、分量を揃えて束ねる人に分かれて作業をする。次から次へと運ばれてくる枝豆の山から出荷できそうなものを選び葉っぱをはずしていく。このとき「お店に並んでるような感じで葉っぱを少し残して」とのアドバイスをうける。野菜コーナーに並ぶ枝豆をちょくちょく目にしていたはずなのに頭によぎるのは冷凍売り場の枝豆だけだ。なんとも情けない。葉は下から上までびっしりついている。どの部分をどの程度残せばいいかわからないので周りの人を見てなんとなく真似をしていく。また、無農薬でやっているからなのか、素人だからなのか、一株一株についている豆の量も大きさも色も形も違う。大事に自分たちが育てた豆だから、多少小さくても、多少黒くても捨てたりせずに束ねていく。

みんなもだいたいそんな感じで作業を進める。順調に作業は進んでいたかのように見えたが、出荷用の箱に入れられた枝豆の束をチェックしていたベテランの方が一喝。

「こんなもん売れるわけないだろっ!」

そうですか?全然いけますよ、もったいないじゃないですか。と心の中では思う。しかし確かに客観的に見ると、店頭に黒くなった豆、色が悪くなった野菜は置かれないし、普通そんなもの手にとらない。これはまずいな、と思えてくる。自分たちで作って、自分たちで食べるということをしているとそんな当たり前のことが見えなくなっていた。実際、食べられるが商品と考えると難しい。こんなところに素人の売り手(作り手)と買い手の気持ちの溝が見えてきた。

その辺のさじ加減を理解して、今度は大胆に捨てていく。小さすぎる、少し色が悪い、慣れてくると作業のスピードも上がったが、捨てられる量も増えていく。そしてなるべくきれいに見えるように、葉を残し束ねる。作業中、むかし農業をやっていたというベテランの方がこんなことを言った「農家の手間は価格に反映されないんだけど、手間かけて見栄えをよくしなきゃ売れないんだよ」。たぶん農家の作業に手数料を乗せていくと、最終的に出荷をする段階ではものすごい額になる。しかしそれらの手間は店頭では見えない。ただ野菜そのものの値段がつけられている。朝から汗水たらして出荷準備をしていていると、わずかながらも農家の苦労がわかってくる。これがわかってくると虫がいたとかくらいではクレームなんてだせないなと思えてくる。

交流市には顔を出せなかったが、有機栽培の枝豆ということで盛況のうちに売り切ったとの報告があった。やっぱり安全・安心が求められる時代になっているということだろうか。しかし、こんなことを言う人もいた。

無農薬は虫がでてくるかもしれないから安心できない。

虫が食えるほど安全、そしておいしいのだよ、言う人もいるが、虫が嫌いな人にとってはどうにも我慢のできない問題なのだろう。

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2008年10月05日

この山を越えて

今年立てたもうひとつの目標に、地元のロードレースで優勝するというものがある。

去年負けた時点から一年を通して怪我なくコンスタントに走り続けて実力をつけて、リベンジするという計画だ。こちらの方は英語と違ってモチベーションを維持するための工夫が比較的しやすかった。

まず、走る仲間を作ること。これは今は離れて住む地元の仲間たちとチームを作れたのと、会社の陸上部で同僚たちと週一回練習をすることができている。

また定期的にレースを設定することで身体を緩めることなくここまでこれた。

今年でたのは4月の日本平桜マラソン(23.4km)と6月の皇居マラソン(10km)。桜マラソンは激しい山登りのレースでそれこそ内臓が飛び出すかと思うくらいキツかった。皇居は降りしきる雨の中のレース。身体もなかなか温まらない上、給水所もなく、最後の100mは初めて脱水症状だと思われる経験までした。

そして来週末から中一週で最後の4連戦。つまり8週後がいよいよ本番のロードレース大会。しかし持続的に練習はできているがどれだけやれば優勝できるのかの明確なラインがこれといってないのが不安。勝負事なんだからこれは当たり前だけど、なんとか去年の悪夢を払拭して次の目標を設定したい。

フルマラソンかトレイルランか、はたまた登山かクライミングか。一生続けられることを見つけたい。

とはいえ続きがあるかどうかは残りの8週間にかかっている…。

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2008年10月04日

3ヵ月坊主を繰り返す

今年に入って立てた目標の一つに、少しでいいから毎日英語の勉強を続ける、というのがあった。

日々の仕事で英文メールのやり取りをしているとはいえ、慣れてしまうといつも似たような文面の繰り返しで早い段階で成長は止まっていた。また、今年は兄の結婚式がプラハで行われるということからそれなりの準備が必要だった。

今まで何度か海外を旅してきたが、今回は弟と二人ということもあって、自分の実力が試されるという状況からは逃げられそうもなかった。

そんな理由で立てた目標。仕事の行き帰り、毎日せっせと続けるものの、モノグサな性格故に4月くらいにはサボり始めた。旅は5月。なかなかモチベーションが持続しない。そのままのらりくらりとやって旅に出た。途中サボったものの、勉強の成果があってかパリ・プラハではなんとか英語と片言の現地語で乗りきれた。

わずか10日の旅から帰国後、モチベーションが下がるかと思いきや、取引先の担当者が南アフリカから来日するという知らせを受け、再び勉強再開。世間話程度だったが楽しくランチを過ごせホッとした。

その後目標を失ってしまい、またしてもモチベーションが下がる。お盆に嫁の田舎の新潟に帰省したが、その時は新潟弁を聞き取ることすらできず、新潟弁より英語の方がわかる…と思わず笑えたが。

秋がきて、つい先頃嫁の留学時代の友達が我が家に11日間泊まっていった。最初の5日くらいは何いってるかわからず自信を失ったが最後の3日くらいで持ち直して楽しく会話ができた。このときちびちょろはというとゲラゲラ笑い、身ぶり手振りでおれよりも見事にコミュニケーションを取っていた。言葉などいらないのだよ、とちびちょろに背中で語られてしまったようだ…。

こうして振り返ってみると9ヵ月の間に3回程英語を使う必要に迫られたことになる。それも結婚式の旅以外は予期せずして。となれば、モチベーション云々を言ってる場合じゃなく、英語からは逃れられない生活なんだと今更ながらに実感させられる。

とにかく今年もあと3ヶ月。まじでやらないと、年明け頃にはまた次の英語スピーカーがぼくの目の前に現れてしまう計算になる。

ちびちょろはオーストラリア土産の絵本を楽しそうに眺め、英語の歌を聞いて過ごしている。

ちびちょろという脅威。父として、ここは何としても負けられない。

2008年08月27日

結構毛だらけ、猫灰だらけ、晩夏の夜に…

会社帰り、いつも降りる駅を素通りし、柴又駅を目指す。40年前のこの日『男はつらいよ』が初めて上映されたのを記念して帝釈天の境内で野外上映会が開催されるという。中途半端な時間だったけど妻とちびちょろが会場にいるのでぶらりと向かうことにする。

いつもなら電車から降りた人たちはみな駅前の寅さんの銅像前で少し立ち止まり、参道の方へとぞろぞろと向かう。けれども20時を回ったこの時間はほぼ全員が帰路につく人たち。参道に向かう人はほんのわずかしかいない。

焼き鳥でもほうばりながら、なんて企んでいたのに参道のお店は一つも開いていない。境内では野外上映会が行われているというのにこの人気のなさはどういうことだろう。ぼんやりとした黄色い街灯に照らされた参道を独り歩く。

境内につくと、すぐに笑い声が耳に入ってきた。クスクス笑いではなく、それはもう爆笑に近い。そして観衆の目の先に、歯切れのいいセリフを放つ、若い寅さんがいた。40年前の寅さん、さすがに肌ツヤがいい。物語でも36歳という設定らしい。
境内に備え付けられた大きなスクリーン。背景には夜空にうっすらと雲や星が見える。ベンチを確保して見る人、後ろの方で立ってみる人、みな思い思いの場所でこの特別な夜を味わっているようだ。
ぼくも途中から人だかりの中に混じって映画を見る。極めてシンプルで先が読めるストーリー、それでも大げさなリアクションや寅さんの破天荒な行動、笑いを誘うキレのあるセリフなど、途中からみても、すんなり映画に入っていける。息を飲む場面、爆笑を誘う場面、いきいきとした登場人物たちに合わせるように観衆の中にも大きな一つのリアクションがその都度巻き起こる。下らないギャグにみんなで爆笑し、さくらの切実な言葉に胸がチクリとくる。大勢で映画を見る醍醐味。もしかしたらその昔テレビがあまり普及してなかった頃はこんなだったのかもしれない。ワクワク楽しくて、なんだか豊かな気持ちになってくる。

ベンチに座ったり、ちびちょろを抱っこしたりしながらあっという間の一時間半。銀幕に終了の文字が浮かぶとともに、会場は拍手で包まれた。そういえば、いままで映画を見たあとに拍手をすることってあっただろうか…。

また、いつかあそこで寅さんに会いたい。葛飾に住んでてよかったと妙に満たされた気持ちになった。

夢のような晩夏の夜、黄色い街灯に照らされた参道を、今度は三人で歩いていった。