正朝通信

6月13日(土)に予定しておりました「第38回住吉亭」は諸般の事情を鑑み、中止することになりました。
すでにご予約をいただいているお客様には深くお詫び申し上げます。まことに申し訳ございません。
年間通し券をご購入いただいたお客様には、一回分の払い戻しをさせていただきます。

2020,3,14,住吉亭6,3開催したくてしたくて、うずうずしていたのですが、断腸の思いで決断しました。残念でなりません。
次回は9月5日(土)を予定しています。
9月にはマスク無しで高座が勤められるようになっていることを祈るばかりです。


本日6月3日(水)私は、新宿末廣亭昼の部15時20分に出演します。

末広亭のお客様には全員マスク着用をお願いしています。出演者はマスクをしていません(笑)


都知事の言う「ステップ2」になったので、寄席の興行が解禁されました。
DSC_1813今日から、新宿末廣亭と浅草演芸ホールが営業を再開しました。
DSC_18154月3日以来、ほぼ二ヶ月ぶりに仕事をしました(涙)
DSC_1814雨の初日でしたが、末廣亭にはソーシャルディスタンスをとった100名様限定のお客様が満席でした。
二階も開いて、感激しました。

お客様も待ちに待ったという感じがよく伝わってきました。
しみじみ幸せです。

一昨日初めて行った近所の床屋で、意思疎通がうまくいかず坊主にされました。
末廣亭の楽屋から、坊主頭をセルフィで公開します
DSC_1816あんまり違和感ないようです(笑)

一般社団法人落語協会から正式に発表がありましたので、こちらのブログにも書きます。
2020,5,30,落語協会
















政府の緊急事態宣言の解除と、東京都の休業要請のステップ2への移行を受け、6月1日より寄席公演を一部再開することになりました。
都内の寄席によって対応が違いますので、ご注意ください。

上野鈴本演芸場 6月末日まで休業
新宿末廣亭    6月1日より営業再開
浅草演芸ホール 6月1日より営業再開
池袋演芸場    6月末日まで休業
国立演芸場    7月末日まで休業
落語協会黒門亭 6月末日まで中止 


6月上席(かみせき・1日〜10日)私は鈴本昼の部13時15分から末廣亭昼の部15時20分の「掛け持ち」の出番をいただいていましたが、
この度、鈴本は引き続き営業を休止。新宿は再開ということになりました。
従いまして私は、末廣亭の15時20分だけ出演ということです。

2020,5,31,末廣亭6上





















ただし、以前と全く同じ営業とはならないようです。
詳しいことはまだ分かりませんが、お客様の入場制限などがあるみたいです。
お出かけになるお客様は、末廣亭のホームページ などをご確認なさいますようお願いします。

2020,5,31,末廣亭トップ

明日は、丸々二ヶ月ぶりにお客様の前で落語ができます。嬉しいです。
皆様のご来場をお待ちしています。

緊急事態宣言が延長され、自粛生活が続いています。
久しぶりにランチを外でいただくことにしました。たまには外出したっていいでしょう

元関取で今は歌手・俳優、またコメンテーターとして活躍している大至さんが、森下に「ひびきHANARE」というそば屋さんを出しました。
大至さんは門前仲町で「ひびき」というカラオケスナックをやっています。
そちらには何度か行ったことがあるのですが、そば屋を経営しているなんて、ちっとも知りませんでした。
つい先日、フェイスブックで知りました。我が家からは徒歩10分の所です。
ひびきハナレ改不要不急の外出は自粛していますが、大至さんの店と聞いて行かないわけにはいきません。
カミさんと二人で出かけました。
清州橋を左に見て、萬年橋を渡ります。
3いやあ、暑い!天気予報では最高気温29℃と言ってましたが、まさに夏の暑さです。
ぶらぶら歩いてちょうど10分。着きました。
4










































看板の「ひびき」のロゴは門前仲町のお店と同じですね。
いました。大至さん。浴衣にたすき掛けにマスク。完璧です(笑)
5改
お昼前に入店しましたが、何組かお客さんはいます。繁盛しているみたいで、結構。
ランチメニューです
7
私は「もりそば」と「ミニどんぶり明太子」のセット。カミさんは温かい「かけそば」単品
10改
私のも来ました
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ほどよい量です。
大変美味しくいただきました。
定食メニュー。こんなにあります。
8カレー各種とテイクアウトのメニュー。カレーもバリエーションが豊富です。
9
テイクアウトの注文する電話がひっきりなしにかかっていました。
どうやら儲かっているみたいです(笑)
よかったよかった

大至さん、ご馳走さま!また来ますね

緊急事態宣言が今日で終わるはずだったのが、今月いっぱいまで延びました。
自動的に都内の定席の「お休み」も、今月いっぱい続くことが決まりました。
外出自粛要請のため、仕事はゼロです。

ユーチューバーになって五日目!
毎日一本ずつコンテンツを上げています。
落語は以下の3本になりました。


『金明竹』2013(平成25)年1月28日,浅草演芸ホール昼

『宗論』2013(平成25)年8月7日,新宿末廣亭昼の部

いずれも、定席が休席している間だけの「期間限定公開」ですから、ご注意ください。
この動画は以前の落語協会ホームページで配信していた「インターネット落語会」の素材です。
今の協会ホームページではありません。画面に張り付けてあるURLは現在ありませんのでご注意ください。
その昔、私がホームページ委員会、委員長をやっていた頃に作ったコンテンツです。
権利の問題など、複雑な事柄が絡んでいるのですが、こういう非常事態を受けて、この期間だけ落語協会会員が限定公開しても良いことになりました。

ご覧になりましたら、ついでに会員登録もよろしくお願いします。

おはようございます。
昨日、67歳にして、ユーチューバーデビューを果たした春風亭正朝です(笑)

現在、チャンネル登録が10人!素晴らしいですね(自嘲)
噂では、1000人になったら課金できるらしいですが、よく分かりません。
ま、いいでしょう。

さて、本日は第二段です。
昨日の「男の着物。噺家の着付け」で着物を着て、角帯を締めるところまで行きました。
今日はその続きで、羽織の着方です。

羽織を着るちょっとしたコツと、羽織の紐の結び方をお教えします。結び方にもいろいろあるんですよ。
因みに私が普段高座で愛用しているのは「泥棒結び」
興味のある方は、覗いてみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=1E3Hb7Ya6ZA

最後にお客さまの前で落語をしゃべったのは、4月3日(金)末廣亭の昼席でした。
翌4日(土)からご承知のとおり、都内の寄席はすべて休席になっています。
定席以外の落語会もすべてキャンセルまたは延期になりました。

今日でちょうど一か月、仕事をしていません。
この「強制休席」はいつまで続くのでしょうか。先が見えないのが一番の不安材料です。

今は、若手を中心にして「ネット配信」がブームになっています。

私はあまり興味が無かったのですが、とうとうYouTubeに自分の動画をアップすることにしました。
初体験です(笑)
といっても「落語」ではありません。

旧・落語協会ホームページで公開していた「芸人紹介」の自己紹介ビデオです。
いくつかある中から「男の着付け・噺家の着物の着方」というPVをアップしました。

お正月の着物、夏の浴衣など、たまにしか着ないけどカッコよく着こなしたいとお考えのあなた、是非ご覧ください。
粋でいなせでカッコいい着物の着こなしを覚えてください。

知らなかったけど、昨日からGWに入ったらしいです(笑)

今年のGWは「ガマン・ウィーク」だそうです。
出歩くのをガマンしましょう


今日は四月下席千穐楽でしたが、全然実感がわきません。

朝、郵便局のバイクが来ました。

とうとう来ましたガーゼマスク。アベノマスク

1改 466億円の内の2個
2改開けてませんが、見た目、やっぱり小さいですね。

髪の毛が入ってなくて、残念(笑)

五代目春風亭柳朝一門の、というより私のすぐ上の兄弟子である春風亭小朝兄哥さん
25.4ショット・改(あえて「あにさん」と呼びます)がこの度紫綬褒章を受章しました。
兄哥さん、おめでとうございます。
(写真は3年前、三朝さんの真打昇進披露パーティーの時のものです)

我が落語協会で紫綬褒章を受章したのは、小朝兄哥さんが10人目です。
ウィキペディア によりますと、以下の十人です。

1961(昭和36)八代目桂文楽
1964(昭和39)五代目古今亭志ん生
1974(昭和49)八代目林家正蔵(彦六)
1980(昭和55)五代目柳家小さん
2005(平成17)十代目柳家小三治
2013(平成25)三代目柳家権太楼
2016(平成28)五街道雲助
2017(平成29)柳家さん喬
2019(令和1)入船亭扇遊
2020(令和2)春風亭小朝

意外なのは、圓生師匠がもらってないんですね。ちょっと驚きました。
ちなみに落語協会以外だと、上方落語協会が
六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、五代目桂文枝、三代目桂春団治、二代目露の五郎、桂三枝(現文枝)、桂文珍、四代目林家染丸の8人。
落語芸術協会が
四代目桂小南、四代目桂米丸、
そして立川流から立川志の輔
以上、すべて敬称略させていただきました。

ウェブサイトの記事を以下に貼ります。ご一読ください。
スポーツ報知 スポニチ 時事ドットコム FNNプライムオンライン  日本経済新聞
なかでもスポーツ報知の記事がいいです。
「受章を知った時に師匠、柳朝の顔が浮かびました。やっとひとつ目の恩返しができたような」と小朝は、真っ先に91年に亡くなった師匠・5代目春風亭柳朝へ感謝を口にした。
img196改

師匠もさぞや、喜んでいることでしょう。
小朝兄哥さん!
これからも益々、落語界全体を引っ張る存在として輝いてください。

ボンヤリしていられません。
コロナ禍で鬱々としていましたが、私も気合を入れてがんばらなくてはいけません。

新型コロナウィルスのせいで、インタハイ(全国高校総体)が史上初めて中止になった。
高校総体か・・・、半世紀も前の話だが、私には特別な思いがある。
甘酸っぱい話だ、思い出の記として書く(思いのほか長文になった)。

昭和43年4月、夢と希望を胸いっぱいに膨らませて始まった高校生活。
山口県立防府高校に入学する前から決めていたサッカー部に入って、右も左も分からずただ走り回っていた。

6月、県予選を勝ち抜いて、創部以来初めてのインタハイ出場を勝ち取った。
一年生の私はもちろんメンバーにも入っていない。
それどころか3か月前まで中学生だった私には「インタハイ初出場」という、それ自体の偉大な価値すら理解できていなかった。
夏休み、インタハイは隣県の広島で開催された。全国なのに隣なんて・・・(笑)
16番のユニフォームをもらって帯同させてもらった。
とは言っても、私が特別に優秀な一年生だったというわけではない。どんな非常事態が発生しようとも120% いや10000% 出場する可能性のない、単なる員数合わせの一年坊として入れられただけだ。
なぜならこの時、部員は3年生が5人、2年生が10人、我々1年が10人、全部で25人ほどの所帯だったのだ。
5.一年時上の写真は、私が1年の時の3年生の卒業アルバムの集合写真である。最前列真ん中の5人がその3年生だ。
私の場合「メンバー表にまだ空欄がある。とりあえず名前を書いとけ」というメンバー入りだった。

それでもインタハイに参加したことに間違いはない。感動的だったのは広島市陸上競技場での開会式だ。
入場行進は晴れがましかった。高揚した。
ロイヤル席から今の上皇さまが皇太子としてごあいさつされるのを、ピッチの上に整列してボンヤリ聞いた。15歳の私には十分過ぎる「感動のセレモニー」だった。

試合は翌日から始まった。会場はどこかの高校のグラウンド。どこだか校名も覚えてない。
一回戦の相手は、はっきり覚えている。山形の鶴岡工業。荒いチームだった。
キックオフ直後に突然スコールのような大雨が降りだした。見る見るうちに土のグラウンドには水たまりができる。泥んこになった。パスが回らなくなる。個人技も活かせない。
相手は体力にまかせてロングボールを蹴ってくるキックアンドラッシュのチームだ。
ハーフタイム、左ウィング藤本さんのストッキングは向こうズネをスパイクされてズタズタに破れていた。結果は1−2で負けた。唯一の得点はエースの渡辺さんだった。
初めてのインタハイは、あっけなく終わった。
2年生になり、私はDFのリザーブとしてメンバー入り。時々、後半から交替で出場するくらいの選手になっていた。
インタハイ山口県予選は、ベスト4で終わった。私はほとんど出場してない。サブというと聞こえがいい。早い話が補欠だ。先輩が引退した。

いよいよ俺たちの代になった。秋の新人大会は準優勝した。行ける。
3年生になってWMシステムの6番をもらった。今風にいえば3‐2‐2‐3の左のボランチ。
あっ、ちょっと違うけど(笑)
本当は全然違う(爆笑)
だってWMは、お互いに「基本マンツーマン」だから。今のボランチと全然違う。同じなのはキックオフの時に、立つ位置だけだ。
まあ、システムの話はいい。

私たち3年生の目標は、インタハイ出場だった。
全国大会の前哨戦とも言える春の中国大会には、3年連続で出場した。
鳥取で開催された大会は、あれよあれよという間に決勝戦まで勝ち上がった。今思うとミラクルだ。
1入場行進決勝の相手は、エース高見をアジアユース大会出場で欠く広島市商だ。
どう考えても、広島市商の方が実力は上だ。戦う前から分かっている。
「でも、エースがいないんだってよ。ひょっとしたら勝てるかもしれないぞ」愚かな考えを抱いたのも、また事実である。
実際は、全国レベルの強豪校になすすべも無く敗れた。本当に辛い試合だった。
7-2一試合を通じて、ハーフウェイラインを超えて相手陣内に攻め入ったのは、2回か3回しか無かったんじゃないだろうか。ずっと攻められっ放しだった記憶しかない。クリアしてもクリアしても、押し戻される。メンタルもフィジカルも、疲れきった。何十本打たれたかも分からないコーナーキックからの2失点で、0−2の負けだった。
点差以上の実力差を思い知らされた。内容から言えば0−8だろうか。
しかし、実績として中国大会準優勝であることは間違いはない。
11(左手で顔を触っているのが私。泣いているわけではない)
もちろん我が校では史上最高の成績である。
「俺たちは強い。インタハイに出るぞ」夢は手の届くところ、すぐそこまで来ていた。

ここまでが、マクラである。長いマクラだった(笑)
実は、ここから書く話が、冒頭に書いた「高校総体(インタハイ)の特別な思い」なのだ。本当に書きたいのは、ここからだ。お付き合い願いたい。

この当時、6月に開催される県民体育大会(県体)がインタハイ予選を兼ねていた。毎年この県体で優勝したチームがインタハイに出場することになる。
ところが、なぜかこの年(私が3年生の時)だけ、レギュレーションが変わった。
決勝戦を戦った二校が、三回戦のプレーオフを行うとなった。2勝した方がインタハイ出場権を獲得するという。
50年経った今でも、意味が分からない。
さらに、翌年からはまた、優勝校が県の代表になるという、以前の方式に戻ったのだ。
この年だけ、一体なんだったんだ。
気を取り直して・・・、
私たちは順当に勝ち上がった。山口高、南陽工業、多々良学園(現・高川学園)という強豪を打ち破り、決勝に駒を進めた。
決勝の相手は、小野田工業。間違いなく最強のライバルだ。
当時、県内で唯一芝生のピッチを有する小野田サッカー場で戦った。
勝った。県体優勝だ。バンザーイ!
去年までならここで「防府高校、二度めのインタハイ出場」だった。
念願のインタハイである。1年生から胸に抱いていた夢の実現だった。
ところが今年に限って「3回戦プレーオフ」である。まだ終わってないのだ。

決勝戦で勝った我が防府高校は、先ず1勝したわけだ。あと一つ勝てば良い。
二回の内、一回勝てばいいんだ。うちが有利であることに間違いはない。

プレーオフ第2戦は、一週間後だった。
そこは優勝したうちのアドバンテージだ。防府高校のグラウンドで行われた。
グラウンドの回りは、大勢の生徒がピッチを取り囲んで立って応援してくれた。とりわけ女子生徒の声援は力になった。我々にとっては、まさにホームだった。
ところが、負けた。
点数は全く覚えていない。1勝1敗のタイになった。
第3戦は小野田工業のホーム、小野田サッカー場に移った。
アウェイだ。うちが県体で優勝したのに、である。

プレーオフ第3戦。勝った方がインタハイ出場だ。情勢は、まだ五分五分だ。と思っていた。
しかし、実際はそうではなかった。
前半、誰のゴールか覚えてないが、1−0とリードした。ハーフタイム、先生の指示は意外なものだった。
いきなり「後半、もし失点して追いつかれてもあせるな。落ち着け」という言葉だった。

えっ?なんで?なんでそんなネガティブな話になるの?

具体的な戦術の修正とか、もう1点取りに行くのか、それとも守りを固めるのか、相手の何番を徹底マークしろとか、そんな技術や戦術の話ではなくて、
「追いつかれてもあせるな」??? なにそれ??? 精神論かい???

モヤモヤした気持ちのまま後半が始まった。
案の定というか、やはりというか、失点した。追いつかれた。
先生には予感があったのか?霊感か?言霊(ことだま)か?
「先生が言ったとおりになった〜」
相手はノリノリだ。
「おうっ、全国、行けるど」という相手の声が聞こえてきた。私の中で、なにかが崩れる音がした。
もうはね返す力は無かった。
また取られた!
ぶざまに逆転されて、敗れ去った。

手のひらに乗っていた「インタハイ出場」が指の間から、スルスルとこぼれ落ちていった。
全国へのキップは、準優勝の小野田工業に持って行かれた。
なんという不条理なんだ。なんで優勝した俺たちが行かれないんだ。

高校総体=インタハイ、甘酸っぱい思い出というのは、このことである。
あの時、オートマチックにインタハイ出場が決まっていたら、私のサッカー人生は変わっていたに違いない。
大学では落研ではなくて、体育会サッカー部に入っていたかもしれない。

ま、それはいいだろう。
話を戻そう。

今年の新3年生である。サッカーだけではない。すべての運動部に所属する選手たち。
入学した時から思い描いていたであろう「自分が3年生になった時の高校総体」
それが今日4月26日、無くなってしまった。
その悔しさ、悲しさ、喪失感、絶望感は、察するに余りある。
だが、これでお終いではない。
負けるな、高3生。人生はまだ長い。
4.サッカー部拡大
それにしても和歌山インタハイ、行きたかった

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