
年明けそうそうまたもNHKの話題であるが、「紅白」に続く国民的行事が「ゆく年くる年」である。紅白の喧騒の音声レベルを5秒間ゆっくりフェイド・アウトし、さらにフィラー(大体は鐘楼の俯瞰)の5秒間をみせながら、音声をフェイド・インし、音が最高レベルに上がったところで、「ゴーン」と鐘の音が入る。国民は「紅白」の余韻と炭酸ガスの煙の演出と同時に、画面が「ゆく年くる年」の静寂との格差を楽しみ、最初の鐘の音で一年の終わりという時間軸を認識する。この「紅白」から続く一連の儀式が、毎年繰り返されることで、何かしらの安心感を持つ。この仕組みが、実は大変な作業であり、文化を創っている。しかし、それはNHKによって作られた「擬似文化」であり、もっといえば「擬制」の貫徹である。そのようにして、戦前の軍国主義も、戦後のGHQ民主主義?もNHKと時の権力によって、演出されてきた。

完璧なカメラアングルと照明は、現実の景色をまるでスタジオセットのようにしていき、樹齢200年の松の古木が邪魔だから切ったとか、雪の降り方が悪いので、大型扇風機で吹雪にしたとか、毎年逸話に事欠かない。かばかりか、寺の僧侶に演出し、一般人にも絶対にカメラ目線にさせないNHKの権力はものすごい。NHKが通ったあとは「草も生えない」というのは、昔からの通説だが、村中総出で、たった数秒のカットに協力させる。30分の番組に億単位の金が使えるのは、原資が税金のような強制的な国民の金だからだろう。
しかし、完璧な映像と演出には恐れ入る。虚実皮膜ではなく、完全な「虚」を生中継だけで創る力には、敬服するが、それは「文化」ではない。単なる命令である。「租庸調」を文化とは言わない。