全くの自論に過ぎないが僕の「そもそも論」について述べたい。諸賢の見解を聞きたい。

afb7bee6d1909b2169cf1b7e7eabe910日米首脳会談は「とどおりなく」終わったかに見える。しかし政治の顔見世興業は歌舞伎ではないのだから、野田総理の初舞台ではどうしても役不足の感は否めなかった。毎年恒例の京都・南座の顔見世興業じゃあるまいし、国連でいつも脇が新人をもりたててくれるとは限らないのである。まして同通イヤホーンをつけてまで豚の空虚な能書を聞くほど出席者は暇ではないのである。

石橋を叩いても渡らない慎重派の野田佳彦のキャラクターは、国際的にみると優柔不断を通り越して「決断力」のないただの無能なリーダーとしてしか映らないし、さらに日本国自体が極めて無責任であるとの印象さえ与えてしまうようになるのだ。

どう見ても可憐とは言い難いが「やはり野に置け蓮華草」であって、野豚・泥鰌の類ではやはり国際舞台は荷が重すぎたのだろう。永田町の微妙なバランスだけで「おもわず」転がりこんできた政権であることがはからずも国際舞台で顕著になったきた。「ひきこもり」はなにも若者だけの問題ではないようだ。

巧言令色美辞麗句を並べるだけでいいのは永田町という狭い範囲だけであって、国際「会議」においては決断を披瀝しなければ、たんなる豚夫婦の品評会になってしまうのだ。オバマの苛立ちは相当なものであったらしいが、野田総理は相変わらず慎重な腹芸で乗り切ろうとしていた。しかしそれが通用しない世界もあるのだ。

オバマの要求はハッキリしている。どっちつかずではこちらも何を協力していいか決められないから、決断を聞かせて欲しい、できれば結論を聞かせてほしいと言うものであった。

ひとは難題に立ち向かったとき、取る方法は問題を先送りするか、解決するかしかないのであるが、先送りするのには限界がある。ずっと先送りしつづけても相手がある場合は、逃げ続けることは出来ないのである。

「ドーするドーなる?日米関係」というのはテレビ番組の単なるキャッチであって、20年以上「ドーなる?」と言い続けているのは伝統芸として無形文化財にはなったとしても、現実の政治活動では通用しないのである。野田総理の見識を疑う。

実は見識がないことが野田豚の豚たる由縁であることは最初から分かってはいるが、連日、日本の恥を晒しているのを看過できない。

しかしこれはなにも民主党スターリン主義者集団だけの特徴ではなく、1955年から延々と続く自民党も含めた日本独自の体質であることは言うまでもない。

「沖縄の普天間基地をどうするの、TPPをどうするの」とシンプルに聞かれておるのだからYES,NOでこたえるしかないのである。日本語の文法の問題ではない。れっきとした日本人である戦前の山下奉文はかってそう詰問しているし、国民はその質問のありように現に喝采しているではないか。

もっとシンプルに言えばまず「お前は敵か味方か」と聞いているのであって、軍事基地の移転先だとか貿易協定をどうするというのは次に質問すべき事柄であるにすぎない。

もっといえば「お前はアメリカの味方か、中国の味方か」という二択であり、いつまでも両方にいい顔をしていては何も前に進めれないというのである。

答えられなければ「今は答えられない」というしかないが、それでも何時かは問われるのである。アメリカ人は拳銃を腰にぶら下げており、味方ならハグするが敵なら撃つ、極めて単純である。だからといって直ちに言えないというのなら、もうそろそろいままでタブーにしてきた「そもそも論」を具体的に始める時期に来ているのではないだろうか。

そもそも「抑止力」とはなんなのか。そもそも「原子力」とは制御可能か。そもそも「天、、」、、、などなど、議論すべきことは山ほどある。それをしなくて小手先で誤魔化し続けてきた「つけ」が廻ってきたのだ。