sennsouji日本語とくに平仮名ことばにおける達人といえば、故池波正太郎先生であった。「正月のほとぼりもさめたころ、浅草にやってきた」とか好物の饂飩の創り方を「余燼のほとぼりで煮込んだものらしい」とか見事な「ほとぼり」の使い方を先生がされていたのを思いだす。

もちろん「ほとぼり」は先生の小説の影の主役”盗人(ぬすっと)”どうしでよく使われる言葉で「お盗(おつとめ)」のほとぼりを冷ますため江戸を離れるという設定も多いが、このほとぼりというのはもともと「熱」と書いてほとぼりと読ませるものである。だから「正月のほとぼり」とか「余燼(よねつ=残り火の熱)のほとぼりで煮込んだ」とかいう池波文学の奥深さと粋な味はこたえれれないのである。

ところが、この「ほとぼり」が最近は浅草界隈ではなく永田町で流行っているらしい。

まずは霞ヶ関では例の朝霞の公務員宿舎建設を凍結しないと悲願の増税に背水の陣が布けないとみるや、官僚は「仕方ないからほとぼりを冷ますしかない」とこそこそ言っているらしい。

また永田町のご本家自民党内やすこし三宅坂よりの民主党内部で囁かれているのは「ちょっと原発事故のほとぼりを冷まさないと、いきなり再稼動や推進は難しいよな〜」と漏れ聞こえてくるのである。

官僚や政治家の会話は盗人の会話そのものである。世が世ならばお頭(火付け盗賊改め長官)に御注進して、このような不逞の輩は一網打尽にしてほしいものだ。

こんなふうに「ほとぼり」で何とかなると思われている国民も舐められたものだが、一過性の報道の過熱ぶりもあって「喉もと過ぎれば」という風潮が強く、五年もすれば皆騒がなくなってくれることを知っているので、すぐ世論(実はマスコミ)次第でいくらでも妥協できるのである。

つまり始めからのりしろは残して妥協点を探すというのは、彼らの常套手段であり、今回も「そもそも論」がするりと抜け落ちているのである。「そもそも」原子力は要らないし、公務員だけの優遇もいらないのだあるが、「ほとぼり」が醒めるまで一旦停止という姿勢で乗り切ろうとしているのがみえみえなのだ。


ちなみに丸五年前は安倍信三が登場し、イナバウアーとハンカチ王子が騒がれた年であったが、これから五年後は世の中がどうなっているか想像もつかない。はたして「ほとぼり」は醒めるのだろうか。

日本とはそういう国ではなかったはずだが。