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「あぢさゐの 庭にただ一人 よろこばん」〜俊三

「あぢさゐや 透き通れども あをふかし」〜俊三


誰もいない。だれも必要ともしない。

何もない。なにも必要ともしない。


老齢というものは便利なもので、禁欲、物欲、性欲すべてすでに生理的に失われ、若いときのように妄想や幻想が無限に広がることもない。したがって自然に禁欲的な仙人となって「しまうのである」。

さらには

食欲というものがたとえあったとして量が食えないし限度かあるため、究極のグルマンにはもうなれない。したがってあらゆる欲望が「ない」のである。

あるのは

死を待つ限られた「時間」だけであるが、それもおぼつかない。

たぶん「時」さえも失われているのだろう。

それに

音もない。かすかな森のざわめき、鳥の声はあるが「意志のある意図した」音は皆無である。

何の予定もないけれど無理やり今日は日曜日だから安息しなければと思うが、じつは毎日が安息日に他ならない。

つまりカレンダーすらないのである。

それでも

生きなければならない。なぜ生きなければならないかといえば、自殺するほどのエネルギーも動機も希薄だからに過ぎない。


それゆえ

ただ生きているだけで事足りる生活提案は、何の精神的修行もいらない「老人」こそが実践すべきだろうと考える。

すべての原因は「過剰なる人間の欲望」に由来するのは明確である。


それでも紫陽花は六月になると「ちゃんと」約束通り咲き誇る。

それで十分それいじょう何がほしいのであろうか?


僕が原発に反対する「理由(わけ)」はただ「それだけ」である。


「紫陽花や 藪を小庭の 別座敷」〜松尾芭蕉