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別に百合子ファンでもなんでもないが、なぜか醜いより美的な(容貌だけでなく)溌剌としている彼女の戦闘モードには端倪すべからざるところがあり、なんども同じ画像をつい使ってしまう。

つまり

トランプにも同じことが言えるのであろうが二人とも「選挙モード」がいまだに払拭されておらず、またもともと彼らにとって「闘うこと」「演じること」が政治活動(人生そのもの?)であると本能的に理解しているようだ。

したがって

まずは誰が敵で誰が味方であるかを決めて一旦敵となれば徹底的にやっつけるということも共通しているしており、いずれも「アメリカファースト」とか「都民ファースト」とかという有権者に分かりやすい「大義」を掲げているのである。

そのことの

是非善悪は「別として」も今までの隠然たるしかし絶対的な「ある力」に抗うことで、「それまで」なんだかわからない「既存の権威」の前でなんとなく表向き取り繕い我慢していた有権者の「深層心理」に訴えたことで勝利したのでそれを持続して「いかなければならない」ことになっているのだ。

そこで

トランプはますますマッチョに振る舞うしかないのだが、小池百合子の戦闘はさらにしたたかであって不利と見れば即矛を収めはするけれど、戦いの火はめらめらと消えることなく、チョッとでも好機と見るや素早く二の矢三の矢を放つのである。

たとえば

オリンピックの会場問題の際「ワタシ、居直ったんです!」といいその後ただちに「これを機会に、私は発想をガーッと切り替える」 といってまた「居直ってるんです」と不気味な笑いを浮かべて念を押す仕草などの彼女の「闘争心」に火がついていることをまざまざと見せつけられたのであった。

また

いまだに都知事選での自民党の「ありよう」には深い恨みを持っているらしく、すでに自ら党に進退伺を出していることをあからかにしてすべては「向こう側」の出方次第とするしたたかさである。

とはいえ

問題山積必ずしも人気絶頂だからすべて百合子の連戦連勝と言うわけではなく、オリンピック会場問題では不倶戴天の敵シンキローの「政治力」に辛酸をなめ、足元の都議会では同じく敵ドン内田の老獪な「政治力」で都議会選挙の前哨戦である千代田区長選に”与謝野カード”を切ってこられている。

しかし

いかなる政治力もいかなるエスタブリッシュメントの反撃も小池の決してあきらめない執念には「たぶん」及ばないであろうと「僕は」思っている。

なぜなら

メディアの扱い方が完全に玄人であるから(トランプの場合は「逆説的に」そうだが)とくにテレビに対する態度は元プロの僕でも感心するほどであって、軽佻浮薄な有権者を離さずに最終的に勝利するのは彼女であろうと思われるのだ。

つまり

理想論やきれいごとや一時的なパフォーマンスはだれでもできるが、常に話題を切らさないようにする工夫はできるようでなかなか出来るモノではないからだ。

たしかに

大抵の候補者は選挙が終わると次の選挙までは「悪い」スキャンダルでもない限り忘れられるのが通例だが百合子の場合自らの問題をセンセーショナルに長く引っ張る「技術」があり、それが並大抵ではないと驚かされる。

たとえば

普通は都の問題なんて「ベタ」なニュースで終わるのが常だが豊洲移転では次ぎ次と問題をあぶり出し次々と次の予定日まで結論を引っ張っているのは「あたかも」テレビの常とう手段「それはCMのあとで」とか「それは次週」とかいうやり方である。

また

オリンピック問題では小さなところで結論が出てもまだ三年以上様々な課題が噴出するだろうし、本来は地味で誰も振りむかない「区長選」が全国レベルの話題になっているのである。

そして

自らはじめた「小池塾」の進捗状況は目が外せないし、VSシンキロウからVSドン内田そしてVS自民党(永田町)そして最後はVS「エスタブリッシュメントの厚い壁」との果てしなき戦い、、、とつづけており、「当分」小池劇場は終わりそうもないのである。

それは

アメリカでも延々つづくことであろう。エスタブリッシュVSエンタテイメント?の戦いがである。

では

既得権者でも芸能人でもない僕らはもう「政治」に翻弄されるだけなんだろうか、、、、、。