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誰だって晩節は汚したくはない、ある極道なんかはいちの子分に「(俺が)再起不能だとお前が思ったら、(その時点で)頭を撃ち抜け!」と命令していたという。

しかし

拳銃も子分もない僕はただ老醜を冒頭の写真のように無様をさらしながらも未練がましく「まだ」生きている。

したがって

「老い」というものが誰にでも訪れる罰であり時として煉獄でもあり「恥」そのものであることは分かっていても「十分には認識」できないことがこの現在の自分の客観的描写(=写真)を見せつけられても「それでも」自覚できないのである。

しかるに

石原慎太郎の明らかな「老醜」がいくら見るに堪えないものであっても、自分にはそれを批判する資格はない。

だから

老いた慎太郎の呆けブリなど批判するような卑怯なことをするつもりはないけれど、彼が輝いていたであろう季節すなはち「太陽の季節」からほぼ半世紀以上ずっと彼を「僕は」軽蔑していたのである。

ゆえに

昨日の記者クラブでの彼の会見がいくら潔くなく矛盾していようと「今の」墓場寸前のヨチヨチ歩きの慎太郎を批判する気にはどうしてもなれない。(それは卑怯だ。)

どうせ

批判するなら、彼の若いとき、颯爽と「太陽族」として日本人を半世紀以上騙していた「気弱なヲタク」作家?慎太郎がいかに軽薄でバカバカ「しかった」かを改めて言及するぐらいしかないだろう。

たとえば

当時、昭和の大作家佐藤春夫などにいたっては、例の「太陽の季節」を評し、

「反倫理的なのは必ずも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった」とか「これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。そうして僕は芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視している。僕にとって何の取柄もない『太陽の季節』を人々が当選させるという多数決に対して、僕にはそれに反対する多くの理由はあってもこれを阻止する権限も能力もない」、

、、、、、などと皮肉っている。

じっさい

僕も高校生の時たまさか彼を見る機会があったがその時の主賓・今東光には「作家」のオ〜ラを感じたけれども隣にいた神経質な目線の定まらぬ木偶の坊・慎太郎にはまったく「芸術性」のようなものは感じられなかった覚えがある。

さらに

其の後も政治家ともしても期待していなかったし、都知事時代には番組で仕方なくスタジオで彼に遭遇したことは何度かあったが「ハッタリ」の強いオッサンという印象しかなく、ただのハッタリなら割と親しかったハマコーの方が上だな〜などと「密かに」思ったりしていた。

しかし

彼の都知事時代にふと僕に「俺はどっちかというと革新的つまり「左」だと思っているんだが、、」とよく言ってスタッフ(左気味の局だったから?)を嗤わかせていたが、実は彼は戦後の若者の代表として無秩序無道徳の代表として称賛を浴びており実際天皇制廃止論者としても知られているから「革新的」ではあると「僕も」思う。

そう思うけれど

余りに気が弱く周囲を気にしすぎ結果的に右翼の親玉として君臨している「都合上」青年期と同じように突っ張って見せる癖がいまだに治っていないところが欠点である。

昨日も

武士だとかなんじゃらとか言わなくてもいいことを「つい」言ってしまうから呆けてるとか古いとかいわれていまうのだ。

ゆえに

ヒトのことを言える立場ではないが、

「老兵は只消え去るのみ」
                 
 、、、というのは名言であるな~としみじみ想うのである。