不思議なサイコロ
結局何が何だか分からないままにそれを認識している主体である自分の人生が、そのうち終わってしまうのであるから、何事も絶対的真実などどこにもない。

だから

確たる証拠があろうとなかろうと、そう思って疑うのであるが「何らかの秘密を」守りたい側は臆面もなく屁理屈を論い、急に冤罪を防止するための人権派になってしまうから不思議なものである。

いままで

いくら非人道的なことをやってきていても、そしてこれからも「共謀罪」などを画策し「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ〜」を幼稚園児にまで刷り込むような連中に限って「慎重に」とか「法的根拠が希薄」とか言い出す始末なのだ。

しかも

一事が万事、物事には「お上」の判断の根拠が「何らかの力」によってしかありえないにも関わらす、肝心なところでは「忘れた」とか「記憶にない」と言えば罪に問われることもないし、突然証拠となるべき書類が「紛失」ないし「消去」されていることにすれば何の根拠もなくなってしまうということであるらしい。

だから

それがおかしいと思っても、断固おかしく「ない」とかそんなことは「ない」といえば、曖昧な蓋然性だけではあくまで「疑わしきは罰せず」の原則が優位に立ち、さらに無罪を強弁し続けると圧倒的数を誇る「非知性」側の押し切ったうえでの勝利となるのである。(押して勝利するのは稀勢の里だけにしてほしい)

それゆえ

明らかに「何らかの巨大な力」が働いていようとも、明らかにそれを忖度した結果、明らかに「不正」がそこに存在しようとも、いずれも恰も何もなかったかのごとく永田町「がらみの?」スキャンダルはいつの間にか収束してしまうのである。

それが

自民党の強靭さの「歴史」的事実そのものであり、国民の政治的無関心が「今も」続いているという現象の査証でもある。

なぜなら

それは今の権力者の祖父の時代からつづく日本人の民意の「伝統」であるからに他ならないからである。

〜「国民の『声なき声』に私(祖父)は耳を傾ける。今日も後楽園球場は満員だったそうじゃないか」。〜

まさに

60年安保のときとほとんど「声なき声」の主の意識が変わっていないのである。

なんとなら

今も国民の大半は「サムライJAPAN」に熱中し、自分の財産でもある「国有地」が不当に払い下げられていても面白がりはするが「怒り」はしないのである。

もちろん

僕個人は子供の時から野球が大好きで「狂」と言われてもおかしくないのだが、その一方で結局大騒ぎしても鼠一匹出ては来ず事の真実は永遠の闇の中に消えていくのに対して司法も動かずまして自民党ナンミョウ政権が堂々と支持されていくのには耐えられないものがある。

ゆえに

これに対して怒らないのは国民の権利を放棄したのと同じことであると言わざるを得ない。

だって

放棄したのは戦争であって知る権利ではないはずだろうから。