岩下俊三のブログ

黄泉の国へは何時でもいける。生きてる限りは、やはり「反帝反スタ」のままなのだ。

文学

土佐日記もどき

BlogPaintブログの大半を占めるであろう日常の描写を表すこと自体、恥ずかしいのか、おおくは「男もすなる日記といふものを、、、」という土佐日記をもじって「日記」を書いている。ご多分ににもれず、我輩もそうであるから、文句は言えないが、紀貫之があの世で、さぞや嘆いておるだろう。盗用されたからではなく、誤読、曲解されているからである。

そもそも日記というものは、あの時代にはなく、随筆エッセイの類の「にき」という大和詞を、漢字であてたもので、われわれのブログのようなくだらない日常の日記にふさわしくない。まあそれはご愛嬌としても、王朝文学を解しない現代人(なかには理解している瀬戸内寂聴みたいなひともいるが)の殆どは、土佐日記もどきを書いている。それが紀貫之の文学を貶めている。「女もしてみむとて するなり」といういまでゆうトランスジェンダーの裏返しの、男紀貫之の洒脱と心意気が、誤解されている。

当時に戻れば、(もどれないから、想像すれば)完全なる男社会で、貧富の差はとてつもなくおおきい。にもかかわらず、女流文学のほうが優れているという事実(いまでこそ清少納言や紫式部が高い評価をされているが)を認識していた紀貫之の感性の鋭さに脱帽する。いわゆる「よみもの」として写本ないし口伝された宮中のあそびであった「やまとことば」のしかし怪しくも鋭い感覚をもった女官に、彼は嫉妬したに違いない。その土佐日記がブログに乱用されている。

俺もそうだが、「もどき」のはやる世の中。でも政治家もどきだけは死んでも嫌だし、文学者もどきや哲学者もどきが増殖してるのも困ったもんだ。もどき文化がサブカルチャーだって?馬鹿いうんじゃない!

殺意

画像2 002殺意を持っただけで、告訴するのは困難である。殺意があるだけで、実証できなければ難しい。たとえば何処かに紙に書いて表すなりブログや電子メールで表明しても、訴訟まで持ち込むのはむずかしい。他人に言えば、他者の証言として恐喝とか脅迫とかの容疑として、罪に問えるかもしれないが、人間の内面を立証するのは難しい。なんとなく殺意がありそうな顔で本人も将来の夢は殺人鬼だと言っていて右上にある暗い表情をしてれば、精神鑑定を疑うか、容疑者候補として、なんとなく看ていることしかなく、保護観察とか任意同行とかを求めるのにも、躊躇する。

暗い顔をした岩下俊三君を、もし自殺または殺人の容疑者とする根拠が「顔が陰気である」という主観で、逮捕できるなら、戦前の特高と同じで、「あいつは無政府主義らしい」として、思想信条の自由を拘束し、国家権力が人間の内面に土足で侵入する、いわゆる恐怖政治が横行することになる。これは過去の話ではない。たとえばビルマ(ミャンマー)では日常的に行われている。ではわが国ではないのか、といえば数々の冤罪の発生のみならず、メディアの自主規制が進行し、言葉狩りから思想のおくまで踏み込むような、引き締めが行われている。

極端にいえば、たとえば「明日、天皇を殺す」とはいくら無限の表現の自由が許されていても、憚られる。とくにマスメディアでは絶対無理である。
では、核を持ちもませずと見解をだした政府が、嘘をついても許されるのはいいのか、あらゆる証拠と証言があっても、「ない」「なかった」と強弁すれば、見解の相違であり、人間の内面を裁けないとする建前として、ゆるされるんだろうか。

権力は建前として戦前のタブー「蟹工船」をゆるし、核を持ち込まない平和な国家だと吹聴し、高校野球少年を聖人化する。建前だけで国家が運営され、問題を惹起した三島由紀夫やウサマ・ビンラディンを(いい悪いは別として)気違いやテロリストという官製範疇に閉じ込める。大田竜や竹中労もおなじだ。では深沢七朗はどうだろう。

枠外の気違い、部落をタブー化し、殺人自殺を隠し、皆んな平和なお金持ちですよと嘘をつく、「文学」が死ぬ日もちかい。自殺か他殺か。否すでに死んでいるという説もある。後輩の森達也君が「放送禁止歌」をだしたけど、公職選挙法って、おかまブス目クラつんぼおしビッコ部落片手土方などを表現できる唯一の抜け穴だったが、今それをできる人はいない。

建前民主主義、建前マスコミ、他国の奴隷、拝金主義マイホーム。万歳。

勝間和代

Sunset
勝間和代さんの言い分はすべて正しい。和代の本は売れている。不況の出版会はおじさんアイドルの発掘に躍起だ。美人のアラフォーにいじめられたい歪んだ願望の若者や、颯爽たる「断る力」をもったキャリアウーマンのバイブルにもなっている。たしかにずばり前向きな成功談は、いかなる理由であれ、脳内アドレナリンを分泌し、人気がある。別にそれは仕事人としては、結構なことで彼女を非難するつもりはない。ただ自分と正反対の時代なんだなーという感慨を持つだけのことである。

つまり平安時代にあった「文学」が喪失し、ドライな時代が、もてはやされる時代を嘆いている孤独な老人の愚痴にすぎないのだが、そもそも「源氏物語」の「更級」の冒頭にある「おとしみそねみたもう」ひとこそ原日本人的な人間であって、ひねくれて嫉妬して愚痴をいうことこそ文学の原点であるとおもうのである。このじっとりとした風土に、紫式部自体が日本文学の原点にふさわしいのであって、勝間さんのように(たぶんマスメディアに踊らされているだけで彼女に罪はないのだが)ドライで効率的で無駄なことはしないビジネス(日本語でなりわいとか仕事という)は、確かに著作物ではあっても、「文学」とくに「日本文学」どは程遠い。出版社がいくら不況だといっても「文学」をすてビジネスなるものに心血を注ぐとは、いかがなものか。すくなくとも「読み物」ではないとおもう。反吐がでる。暇だから反吐ばかり勝手にだせばいいんじゃない、と彼女の叱正が聞こえる。

そういう割り切り方が、浅薄な受け狙いであって、実は彼女の本質は鬱で誘惑に弱い、陰隠滅滅としただらしない人間で、太宰治に代表される戦後無頼派こそが、抑制のきいた人間だったような気がしてならない。

ともあれ、すくなくとも島尾俊夫の「死の棘」のような、だらしない多湿な、しかし上質の日本独特の「文学」の時代は終わった。勝間本に惑わされてはいけない。保守のにおいは死臭である!

鉄ちゃんなら

コアな鉄道ファンを鉄ちゃんというが、いろんなタイプがあり、いまやなにをもって、鉄道ファンなのかわからない。とくに多いのが鉄道のメカニズムや鉄道模型のマニアや硬券(昔の硬い切符)などの切符やプレートの収集家だ。もともとこんなムーブの発端は、それまで隠れた鉄道ファンはいたものの(たとえば鉄道唱歌)表立って大人は幼稚なことは言わないという風潮があり、阿川弘之(佐和子の親父)や宮脇俊三の著作あたりから序序にひろがり、なくかしくも、叙情的な(たとえば夜汽車や警笛のもつ情感)孤独感や寂寥感プラスたくまざるユーモアなんかで一世を風靡した。それからである。だから今の鉄道ファンは(政治家の石破茂もそうだが)オタク系やマニア系が多く、俺や北杜夫のような文学的叙情的ほろ苦く滑稽な、いわば元祖「鉄ちゃん」とは趣がちがう。

その阿川佐和子と二年ぐらい一緒に、仕事をしたことがあったが、さすがは親父の娘だけあって、とてもさわやかでユーモアあふれるよい子の一方、あの筑紫哲也もほれこむ爺殺しでもあった。でもどこかに孤独に耐え、それをごまかしてネタにするような自虐てきなところもあり、本人は興味ないみたいだが、やはり本筋の鉄道ファンであるとみた。で、なぜ僕が鉄道ファンかといえば、当然移動手段であるから、基本的に惜別、旅情が通低音であり、何処か鉄のさびや無機質なメカへの情感(工場萌えにも共通してる)がある。それだけでなく、故郷や家族喪失の悲哀があり、とくに「いつもいつも通る夜汽車」とか「太郎をねむらせ〜」には、日本にかってあった情景を髣髴させる。

したがって、元祖「鉄ちゃん」には、単純馬鹿がおおい。老人の悲哀ではないが、失われた世界の情景を懐かしむのが「鉄ちゃん」の本道。田原総一朗の娘が「世界の車窓から」という番組を制作していたのがよくわかる。彼女は霊感のすぐれた女であった。実は親父の総一朗が、鉄道ミステリーを書くと嵌るのに、なぜかノンフィクションしか書かないのは、小説家コンプレックスがあるんだろう。近代は叙情をすてている。だから「鉄ちゃん」が増えるのだと思う。文学が売れないかわりに、鉄道地図が売れている。 

本当にほしいのは時代が変わっても、変わらない。それが「鉄ちゃん」の異常繁殖だ。
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