岩下俊三のブログ

黄泉の国へは何時でもいける。生きてる限りは、やはり「反帝反スタ」のままなのだ。

自殺

土浦9人殺傷犯人の判決の意味

080424kenkei08年JR常磐線荒川沖構内の連続殺傷などの罪に対し、水戸地裁は先日、死刑との判決を下した。犯人・金川真大はニヤリとわらって法廷をアトにし、翌日弁護人の控訴も断った。弁護人は「被告(金川)が死刑を望んでいるのに、死刑判決は刑が刑として機能しない」とか「死刑願望がなくなれば更生の可能性がある。無期懲役が相当」とか屁理屈をならべているが、本人の目的が早く死にたいのだから、はやく刑に服し、早く執行されたいと望み、弁護人の申し出を断ったのは当然だ。ただ犯人の誤算は死刑執行がいつになるか分からないので、こんなに時間がかかるものとは思わなかったということらしい。

自分で死に切れなかったので、「死刑制度」を利用した。だから一人は殺していたが、一人ぐらいだと死刑にならないと思い、駅でつぎつぎと人を刺したという。でも簡単にはすぐ死刑にならなかったことを、本人は悔やんでいるらしい。死刑が目的の無差別殺人の発想は、高校時代に父(外務省勤務)からもらった哲学書「子供のための哲学対話」という本から来ているというのだ。ちなみに、、、

「死刑以上の重罰は(世の中に)ないだろ? ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ」(永井均著より)

、、、のくだりは、犯人の思想の原点であろう。crm0810111627013-p5中学生のときに、金川が書いた作文(写真右)も稚拙ながらも、自分中心の独自の哲学が窺がわれる。もちろん許しがたい犯罪で被害者は、いい迷惑であろう。だから死刑は当然である。しかし金川の、最初から世の中を絶望し、抗う意志もない、抗っても自分なりの正義は実現できないとの考えは、きわめて客観的で冷静である。自分を過信していないから、正義が実現できるはずがない、というのは「なせばなる」ことを哲学にしてきた日本社会、つまり身近な父をみて、「そんなことは無理」だと判断したのだと思う。したがって、彼の問いに正確に答えられるひとはいないだろう。建前としての論理はいくらでもいえる。でも死刑が社会的制裁であり、犯罪の抑止力でしかないことは、この判決で明確になった。すなはち刑罰そのものが、犯人の更生を目的としているというのが、建前の奇麗事でしかなったことが、この事件の顛末で証明されたわけだ。抑止とは便利な言葉だな。

彼を弁護するつもりもないし、彼も弁護してほしくないだろう。しかしこんな世の中にいたくない、死にたいと思ってる気持ちはよく分かる。同感だ。でも自分には犯罪には罪悪感があり、自殺する勇気もない。したがってどちらが卑怯かと問われれば、唸るしかない。生に執着する卑怯者は私の方だから、にわかには反論できない。

卑怯ついでにいえば、この事件を掘り下げようとしないマスコミが、もっとも卑怯だと、思うけど、、、。

放浪の俳人・山崎方代

BlogPaint~人生を覗いてみると面白い死んでしまえばそれっきりなり〜山崎方代
放浪の俳人山崎は、貧困のなかで死んだ。でも鎌倉に庵をくみ、文学の同志もいた。酒も飲んでいたし、若いときには実らなかったけど恋もした。ホームレス俳人の元祖であるが、ホームレスだろうが大金持ちだろうが俳句そのものが秀でていなければ、そもそも話題にもならない。乞食、放浪は俳人の必要条件であるけど、十分条件ではない。芭蕉にしても山頭火にしても秀逸な句あってこそ、その生涯のエピソードがある。人生観が卓越していても「作品」がなければ独特の寂寥感もうまれない。つまり芸術とは芸であり術である。寂寥感や諦観や季節感があっても、表現しないと芸術は生まれない。文字や映像や絵画、なんでもいいけど他人と共有できる媒体がなくてはならない。審美眼は人によって違うから、生存中に評価されるとは限らない。山崎も存命中から一部には支持されてはいたけど、糊口の足しにはならなかった。俳人とは本来そういうものである。

芸術的才能がなく、努力も人付き合いも苦手であるが、彼らの寂寥感が理解できる人間は悲惨である。運動神経のない奴がイチローの精神がわかっても無意味である。絶対音感のない奴がモーツアルトたらんとしても無理である。努力精進さえすれば、才能がなくても芸術ができる、芸術で飯が食えるというのは嘘である。天賦の才や財力がなければ、努力だけでだれでもイチローになれると思ったら大間違い、だれでもレオナルドダビンチにはなれないのである。運と既得権益(親の財産とか)と才がなくても、大成できるというのは嘘である。だれでも勝間和代にはなれない。ダイエットしても、モデルにはなれない。英語を勉強しても英米人にはなれない。どれだけ祈っても自ら仏陀にもキリストにもなれない。

山崎は不幸な俳人の代表のようになっている。でも作品を残し、才脳があった。なにもないで不幸なだけの人間もいる。何の才も何の既得権益もなく病気で不幸なだけで死ぬひとだっていっぱいいる。相対的不幸で自殺するのは甘えてるというひともいるが、全てに絶望的で一条の光さえ見えないひとにリストカットをやめなさいといっても無理だ。山崎も厭世観はあったが、それを俳句で表現できた分、広義で孤独とはいえなかったと思う。

ただ生きているのがつらいだけ、いじめられて傷ついてもそれを跳ね返すだけの才能も体力も精神力もないひとは(僕もそうだが)死ぬぐらいしか選択肢が残されていないのではないだろうか。それでしねるひとはまだいいが、怖くてためらい傷ぐらいしか残せない勇気のないひとはどうしたらいいんだろう。さまよえるゾンビになれるのかしらん。

ゆえに山崎方代は恵まれた幸せな人生を送ったと思う。第一そんなに不幸な乞食が早稲田でて70すぎまでいきてられるか。文学がつくったストーリーにすぎない。「放浪の俳人」ベタなタイトル。

殺意

画像2 002殺意を持っただけで、告訴するのは困難である。殺意があるだけで、実証できなければ難しい。たとえば何処かに紙に書いて表すなりブログや電子メールで表明しても、訴訟まで持ち込むのはむずかしい。他人に言えば、他者の証言として恐喝とか脅迫とかの容疑として、罪に問えるかもしれないが、人間の内面を立証するのは難しい。なんとなく殺意がありそうな顔で本人も将来の夢は殺人鬼だと言っていて右上にある暗い表情をしてれば、精神鑑定を疑うか、容疑者候補として、なんとなく看ていることしかなく、保護観察とか任意同行とかを求めるのにも、躊躇する。

暗い顔をした岩下俊三君を、もし自殺または殺人の容疑者とする根拠が「顔が陰気である」という主観で、逮捕できるなら、戦前の特高と同じで、「あいつは無政府主義らしい」として、思想信条の自由を拘束し、国家権力が人間の内面に土足で侵入する、いわゆる恐怖政治が横行することになる。これは過去の話ではない。たとえばビルマ(ミャンマー)では日常的に行われている。ではわが国ではないのか、といえば数々の冤罪の発生のみならず、メディアの自主規制が進行し、言葉狩りから思想のおくまで踏み込むような、引き締めが行われている。

極端にいえば、たとえば「明日、天皇を殺す」とはいくら無限の表現の自由が許されていても、憚られる。とくにマスメディアでは絶対無理である。
では、核を持ちもませずと見解をだした政府が、嘘をついても許されるのはいいのか、あらゆる証拠と証言があっても、「ない」「なかった」と強弁すれば、見解の相違であり、人間の内面を裁けないとする建前として、ゆるされるんだろうか。

権力は建前として戦前のタブー「蟹工船」をゆるし、核を持ち込まない平和な国家だと吹聴し、高校野球少年を聖人化する。建前だけで国家が運営され、問題を惹起した三島由紀夫やウサマ・ビンラディンを(いい悪いは別として)気違いやテロリストという官製範疇に閉じ込める。大田竜や竹中労もおなじだ。では深沢七朗はどうだろう。

枠外の気違い、部落をタブー化し、殺人自殺を隠し、皆んな平和なお金持ちですよと嘘をつく、「文学」が死ぬ日もちかい。自殺か他殺か。否すでに死んでいるという説もある。後輩の森達也君が「放送禁止歌」をだしたけど、公職選挙法って、おかまブス目クラつんぼおしビッコ部落片手土方などを表現できる唯一の抜け穴だったが、今それをできる人はいない。

建前民主主義、建前マスコミ、他国の奴隷、拝金主義マイホーム。万歳。

藤村操考

1903年、藤村操は自殺して全国区となり、一世紀以上も華厳の滝を自殺の名所にした。でも哲学的遺稿となった遺書の全文をそらんじている人は21世紀の今日あまりいない。観光客が「此処で飛び込んだんだって」とまことしやかに言っているだけで、哲学的思考はしたこともないオバちゃんが盛んに携帯カメラのシャッターをおしていて騒いでいる。貪欲で醜くしかし生命力旺盛で、この世を謳歌している。自殺した藤村君の苦悩と関係なく、苦悩してる人は死に、笑って苦悩しないひとはのさばっている。これぞ一世紀変わることなき世の習、やんぬるかな。

で苦悩している負け犬の俺は彼の思想を思い出すが、貧困ゆえカメラ付き携帯も買えないし、あってもIT音痴はつかえない。ところで、藤村はこう言った、、、。

悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て比大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。

ホレーショとはシェイクスピアの登場人物とされているが、とにかくそんなことではなく、どんな哲学も彼がいだいた「不可解」は理解できないというメッセージはいまもいきており、俺ばかしでなく、恋人のようにつきあってた池田さんもやはり死んだ。死んで解決しないけど死なないと解決しそうもない苦悩がある。考えるなといってもかんがえて不眠症から鬱になるパターンだ。金持ちはノリピーみたいに薬に逃げられるが、苦悩を薬で癒す財力のない道徳的?なひとは、もっとも非道徳な自殺に逃げるしかない。

どうせいつかは死ぬのに、「不可解」といって死ぬ気持ちはよくわかる。藤村君の勇気に乾杯!ハンフリーボガードは「君の瞳に乾杯」だったけど。そういえる美女がいなければ、華厳の滝しかないだろう。

自殺の原因は「うつ」

自殺のひきがねというか、切っ掛けにはいろいろある。病気や借金を苦にしてとか、失恋なんかもあるだろう。仕事のいき詰まりも多いだろう。しかし直接の原因は「うつ」である。一時的にも精神病「うつ」症状があって、自殺する。つまり精神が病的に錯乱しないと、自殺という行為までにはいたらない。ということはいかに生存本能がつよいかということでもある。自殺の原因は「うつ」であるが、「うつ」が必ずしも自殺するとは限らない。これはどうしてかわからないが、臨床的に検証できるし、自分の周りにも「うつ」がおおいけど自分をふくめて、自殺していない。

リストカットやためらい傷もたくさん見たが、睡眠薬や練炭やくるまの一酸化炭素にも失敗例がおおく、自殺を成就した中には意外と事故死で苦悶しながら意にそわない最期をとげたひともいて、なかなか絵に描いたような自殺は少ない。穏やかな病死以外は、おおかれすくなかれ非業の死である。ベッドの上や畳の上(腹上死は実際はない)で死ぬのはいいが、孤独死や戦闘で放置された遺体は、悪臭と腐乱が早く、美しくない。むしろ醜い。

死者を冒涜しようとは思わない。「うつ」の患者を貶めようとも思わない。だって自分が脳梗塞であり統合失調症であり「うつ」だから。でもいつになったら癒されるんだろう。そう簡単に癒されないのは、罹ったひとなら知っているはずだ。絶望。朝のダウンした気分の悪さ。わかります。

でも、厳然たる事実として、自殺の原因は「うつ」である。でもたとえそれが事実であっても、逆は真ならずである。ゆえに岩下君は生きている。まだ。
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