週刊メインストリーム通信Vol.461 平成は人生の大きな転機②〜自分が障害者運動に関わるなんて〜

今週のメルマガは459の太田さんの「平成を振り返る」の後編です。 控訴審の判決 僕は一審の判決を不服とし、控訴した。 大阪高裁の控訴審は平成19年12月21日から同20年5月29日にかけて4回開 かれた。裁判長から和解勧告があり、2回の交渉を行ったが不調に終わり、判決と なった。控訴審判決で、「当日の2時間前において、控訴人の状態を把握し介助など の対応を求めることは難しい。しかしながら本件で示された控訴人の状態から観れ ば、単独搭乗が出来る者。また機内の通路が狭いことにより私用車椅子から機内用車 椅子に乗り移らなければ座席までいけないし、それを車椅子使用者の乗客に要求する のならば、客室乗務員は私用車椅子から機内用車椅子へ乗り移る介助と座席までの移 動(座席からトイレまで移動および機内用車椅子から便座へ乗り移る介助も同様)に ついては、予定すべき機内業務である。それを特別な援助とした理由で、被控訴人は 対応困難ないし対応できない援助となるはずがない」と下した。 搭乗2時間前でも障害の状態を把握できるはずなのに、やはり「障害者=病人」のイ メージは解決が出来ていなかったので、最高裁への上告も考えた。しかし特別な援助 の観点が高裁で覆り、単独搭乗が認められた判決は最大の喜びであり、同航空側も 「損害賠償の請求は棄却とする」ことで裁判自体には勝ったため、上告は見送ること にした。 その事実確認で、僕は6月16〜19日まで同航空を単独で利用し、シンガポールま で行ってきた。客室乗務員の対応が良くて、まさに快適な空の旅だった。 長い戦いだったが、日本に差別の定義があったら、「特別な援助」についてもクリア されていただろう。 障害者差別解消法の認知度と効力について 平成25年6月26日に「障害者差別解消法」(以下、「同法」)が公布し、やっと 日本の法律に障害者の差別規定が制定された。 同法には。「改善報告を怠った場合には罰金を科す旨が定められているが、この法律 自体の認知度が低く、実際についてほぼ聞くことがない。 僕の受けた搭乗拒否において、どれほどの効力をあるのか。未だに障害を理由に搭乗 拒否を受けている人たちが存在しており、同法の認知度向上のために、啓発等の運動 が必要だ。 生きる権利を勝ち取ったデモ活動 もう一つ印象に残っている障害者運動は、平成15年に障害者支援費制度がスタート した同16年4月に、国が介護保険制度と統合し、1日の時間数を4時間までに引き 下げる閣議決議が通りかけたため、反対運動で毎週のように東京へデモに行ったこと だ。 まだ10月の初旬は台風の季節でもあり、運悪くデモの日は雨が多かった。気温も低 く、雨の中を寒さに震えながら、「生きる権利を奪うな!」と腹の底から必死で声を 張り上げ訴え続けた。 11月は、大阪のみどうすじ御堂筋を北から南へデモ行進も行った。 マスコミにも大きく取り上げられ、僕たちの運動は国を動かして、介護保険制度の統 合と支援費制度の上限も撤廃された。 最後に 僕にとって、平成は人生の大きな転機だった。 山奥の施設で自分の生きる道を失い掛けた僕が、紆余曲折を経てメインストリーム協 会に出会ったことで、180度人生が変わった。 自分が障害者運動に関わられて知った大切さと権利を勝ち取る喜び。 平成で培ったその経験を、メインストリーム協会に関わる令和の人達へ一つでも多く 伝えていくことが、これからの自分の役割だと思っている。 太田 雅之

平成は人生の大きな転機①~障害者運動に関わったきっかけ~太田 雅之

決められた人生

昭和45年3月、僕はへその緒が首に巻き付いた仮死状態で生まれ、脳性麻痺になった。

幼少時代から学生時代と25歳ぐらいにかけて、国が決めた障害福祉のを歩いた。

平成になったのは、僕が19歳の時だ。人権のない人里離れた山奥の入所施設で「自分の人生って、このまま決められた世界の中で終わっていくのかな?」と思い始めた頃だった。

障害者運動が行われていることすら知らない僕だった。

 

障害者感を変えた協会との出会い

紆余曲折を経て、現在活動しているメインストリーム協会(以下、「同協会))に出会ったのは、僕が25歳の時である。

障害者自身が運営し、どんな重度な障害者でも、地域で当たり前に生活が出来るように運動している団体を知って、びっくりした。それまでは「何も出来ない人達=障害者」という世界にどっぷりと浸かっていたため、衝撃が走ったのも無理はない。

2年弱、自宅から同協会に通いながら、自立生活に必要なノウハウを教えてもらい、27歳になって、僕の自立生活が始まった。
そして1年後、同協会のスタッフとなって障害者運動にも関わり始めた。

当初、事務局長さんから教わった研修の中で、幾度となく聞いた言葉に、「障害者運動は、障害当事者が声を上げなければ何も変わらない。」というのがあった。

研修をしていた時はさほど実感しなかったが、介助時間数の削減で苦しんでいる仲間を助けるために、西宮市役所障害福祉課の課長とケースワーカー達との集団交渉に立ち合い、真っ向から要望をぶつける仲間たちの気迫に圧倒されながらも、いつの間にか僕も課長達に向かって、「介助者が居なかったら、死んでしまうんや!なんで、それが分からへんのや」と言語障害の僕が、明確に言葉を発していた。

その交渉は、3度目で通った。一人のためとは言っても、一つの交渉が通れば実例となり、いずれ自分たちの時間数交渉でも優位に話を進めることが分かったので、それからは、どんな交渉事であっても自分の如く挑むようになっていった。

 

自分のために挑んだ運動特別な援助って、何?~

平成15年シンガポール航空(以下、「同航空」)を相手に起こした単独搭乗拒否裁判である。

ここまで「特別な援助って何?」と思った出来事はなかった。当時の僕は、33歳。

僕は上肢・下肢と障害がある脳性麻痺者だ。言語障害も持っているが、よく言葉を聞けば一般の健常者と会話が出来ていた。上肢・下肢・言語の障害3点セットは生まれつきで、33年間を生きてきた。

しかし同年7月30日、僕はタイ・バンコクへ行くため、関西国際空港から同航空で飛び立つ1時間前に、いきなり3点セットを理由に単独での搭乗を拒否された。

当日、出発予定時刻(午前10時)の2時間前にチェックインし、受付従業員へ単独搭乗を伝えたが、「大丈夫ですよ」と笑顔の対応だった。しかし、その1時間後に館内放送で僕の名前が呼ばれ、再びチェックインカウンターへ行くと、「太田様には介助者がいなく言語障害もあるため、緊急時の対応が出来ない」という理由で搭乗拒否を告げられた。その場で1時間以上抗議したが、結局、乗ることはできなかった。
後日、改めて同航空大阪支店に行き、話し合いを行ったが、「安全性の観点から太田様は、事前に障害状況を知らされても単独でお乗りいただくことは出来ない。太田様のような乗客の方には、事前連絡の際に介助者との搭乗をお願いしている。介助者がいたらお乗りいただけるので、搭乗拒否ではない」という一点張りだった。

 

悔しい想いから裁判で戦う

事前に連絡をしても単独では搭乗できないということを明確に言われ、話し合いでは解決しなかったので、裁判を起こすことにした。両弁護士にご支援いただき、平成16年12月16日に、神戸地方裁判所尼崎支部に提訴した。

一審では13回の公判が開かれ、単独搭乗が可能なところを証明するために、ひとりでの外出・食事のシーンからトイレまで、日常生活をビデオで撮影し提出したり、証人尋問では言語障害があっても会話が出来ることを示した。主に裁判の争点は「特別な援助とは何か」に絞られた。

そして裁判長が出した判決は、「被告の判断が正しく、限られた時間内で原告の状態を判断するのは困難。言語障害と食事面はクリア出来ても上肢に障害がある以上、自分で移動が出来ないし、緊急時もしくはトイレ時に乱気流が起きた際に、客室乗務員も座席から離れることが出来ず、助けに行けない」というもので、棄却された。

 
後編は、控訴審の判決と自分の役割を語る。

週刊メインストリーム通信Vol.458 平成を振り返って 松島早七代

人間は「慣れる」生き物だから幸せな毎日にも慣れてしまう。感謝を忘れないように。

 

平成最後に読んだ本に書いてあったフレーズ。結婚して子どもが生まれてから、今まで本なんか全然読まなかった私が本を読むようになったのは驚くべき変化だ。人間は「慣れる」生き物、ほんまその通り。今の自分の生活が当たり前になっている。良く家事をしてくれている旦那にも感謝の気持ちを忘れたらあかんなと思った今日この頃。

 

現在2人の子どもの子育てしながら、介助スタッフとして働いている。私の周りには子育ての先輩や友達がいて話には聞いていたが初めて子育てしてみて「こんなに大変だったとは!」と知る。子育て中のお父さん、お母さんほんまお疲れ様です。子どもって忙しい時に限って寄ってくる。子どもってなかなかさっとできない。子どもってなかなかはっきりいえない。育休中に感じたことは子どもは可愛いけど、1日中ずーっと誰とも話しせず子ども(赤ちゃん)と2人きりだと大人と話したくなったし外の社会と繋がりをもちたくなった。仕事だと分かっていても誰かと話できる旦那が羨ましかった。1人目の時はとにかく余裕がなくて今思えばちょっと産後うつになってたのかなと思う。保育所入所激戦区の西宮で保育所が決まり、ほっとした反面少し寂しい気持ちにもなった。働きたくても保育所に入れない人もいる中でなんとも言えない気持ちだった。仕事復帰するともっと余裕がなくなるのと同時に私の中のモヤモヤした気持ちがどんどん膨れ上がっていった。メインストリームは夜にお客さんの歓迎パーティー等がよくある。パーティーだけではなく普段も夜遅くまでうだうだ話してることがあって、そんなんが好きな私に葛藤が出てきていた。事務所に残ってもっとみんなと話したいけど、帰って子どもを寝かしつけなあかん。子どもがいるから子どもを見ることは当たり前。頭では分かっていても気持ちが整理できていなかった。どんな働き方をするか、どんな子育てをしていくかを日々日常が流れていく中で考えれていなかった。今は自分ができる範囲で自分なりに関わっていこうと納得できたら前向になれた。育休中メインストリームから少し離れる時間があって思ったことは、私やっぱりこの仕事が好きなんだなっということを再確認できた。働けるってことは幸せだなっと実感した。

 

私は今メインストリームで2018年4月から始まったインクルーシブ教育部に関わらせてもらっていて、それがすごくやりがいがある。障害があっても地域の学校に行っている子を持つお母さんの熱い話は何度聞いても泣きそうになる。

障害者のことをまだまだ知らない人が多いのが現状の今。メインストリームのスタッフの子どもが小学校に行った時に言った言葉が「何で車椅子の子がいないの?」だった。これ聞いてみなさんどう思いましたか?障害者と日々関わってたら障害者が当たり前に町に、学校にいるものやと思っている子ども。そんな社会いつになったらできるやろうか。そんな社会にしていきたい。娘の友達がメインストリームに遊びに来た時に「あの人何で車椅子なん?この人は車椅子に乗ってるけど歩けるの?」と聞かれていた。私は何も教えてないけど、娘は娘なりに説明していたしよく見てるなーと感心した。平成が終わり令和の時代が始まった。どんな時代になるのかな。障害者のことを知ってもらうには私達も活動をもっと頑張っていかなければならない。今から楽しみなのは、子どもの頃からメインストリームに関わってる子どもがどんな子になっていくのかな。

 

松島早七代

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