平成は人生の大きな転機①~障害者運動に関わったきっかけ~太田 雅之

決められた人生

昭和45年3月、僕はへその緒が首に巻き付いた仮死状態で生まれ、脳性麻痺になった。

幼少時代から学生時代と25歳ぐらいにかけて、国が決めた障害福祉のを歩いた。

平成になったのは、僕が19歳の時だ。人権のない人里離れた山奥の入所施設で「自分の人生って、このまま決められた世界の中で終わっていくのかな?」と思い始めた頃だった。

障害者運動が行われていることすら知らない僕だった。

 

障害者感を変えた協会との出会い

紆余曲折を経て、現在活動しているメインストリーム協会(以下、「同協会))に出会ったのは、僕が25歳の時である。

障害者自身が運営し、どんな重度な障害者でも、地域で当たり前に生活が出来るように運動している団体を知って、びっくりした。それまでは「何も出来ない人達=障害者」という世界にどっぷりと浸かっていたため、衝撃が走ったのも無理はない。

2年弱、自宅から同協会に通いながら、自立生活に必要なノウハウを教えてもらい、27歳になって、僕の自立生活が始まった。
そして1年後、同協会のスタッフとなって障害者運動にも関わり始めた。

当初、事務局長さんから教わった研修の中で、幾度となく聞いた言葉に、「障害者運動は、障害当事者が声を上げなければ何も変わらない。」というのがあった。

研修をしていた時はさほど実感しなかったが、介助時間数の削減で苦しんでいる仲間を助けるために、西宮市役所障害福祉課の課長とケースワーカー達との集団交渉に立ち合い、真っ向から要望をぶつける仲間たちの気迫に圧倒されながらも、いつの間にか僕も課長達に向かって、「介助者が居なかったら、死んでしまうんや!なんで、それが分からへんのや」と言語障害の僕が、明確に言葉を発していた。

その交渉は、3度目で通った。一人のためとは言っても、一つの交渉が通れば実例となり、いずれ自分たちの時間数交渉でも優位に話を進めることが分かったので、それからは、どんな交渉事であっても自分の如く挑むようになっていった。

 

自分のために挑んだ運動特別な援助って、何?~

平成15年シンガポール航空(以下、「同航空」)を相手に起こした単独搭乗拒否裁判である。

ここまで「特別な援助って何?」と思った出来事はなかった。当時の僕は、33歳。

僕は上肢・下肢と障害がある脳性麻痺者だ。言語障害も持っているが、よく言葉を聞けば一般の健常者と会話が出来ていた。上肢・下肢・言語の障害3点セットは生まれつきで、33年間を生きてきた。

しかし同年7月30日、僕はタイ・バンコクへ行くため、関西国際空港から同航空で飛び立つ1時間前に、いきなり3点セットを理由に単独での搭乗を拒否された。

当日、出発予定時刻(午前10時)の2時間前にチェックインし、受付従業員へ単独搭乗を伝えたが、「大丈夫ですよ」と笑顔の対応だった。しかし、その1時間後に館内放送で僕の名前が呼ばれ、再びチェックインカウンターへ行くと、「太田様には介助者がいなく言語障害もあるため、緊急時の対応が出来ない」という理由で搭乗拒否を告げられた。その場で1時間以上抗議したが、結局、乗ることはできなかった。
後日、改めて同航空大阪支店に行き、話し合いを行ったが、「安全性の観点から太田様は、事前に障害状況を知らされても単独でお乗りいただくことは出来ない。太田様のような乗客の方には、事前連絡の際に介助者との搭乗をお願いしている。介助者がいたらお乗りいただけるので、搭乗拒否ではない」という一点張りだった。

 

悔しい想いから裁判で戦う

事前に連絡をしても単独では搭乗できないということを明確に言われ、話し合いでは解決しなかったので、裁判を起こすことにした。両弁護士にご支援いただき、平成16年12月16日に、神戸地方裁判所尼崎支部に提訴した。

一審では13回の公判が開かれ、単独搭乗が可能なところを証明するために、ひとりでの外出・食事のシーンからトイレまで、日常生活をビデオで撮影し提出したり、証人尋問では言語障害があっても会話が出来ることを示した。主に裁判の争点は「特別な援助とは何か」に絞られた。

そして裁判長が出した判決は、「被告の判断が正しく、限られた時間内で原告の状態を判断するのは困難。言語障害と食事面はクリア出来ても上肢に障害がある以上、自分で移動が出来ないし、緊急時もしくはトイレ時に乱気流が起きた際に、客室乗務員も座席から離れることが出来ず、助けに行けない」というもので、棄却された。

 
後編は、控訴審の判決と自分の役割を語る。

週刊メインストリーム通信Vol.458 平成を振り返って 松島早七代

人間は「慣れる」生き物だから幸せな毎日にも慣れてしまう。感謝を忘れないように。

 

平成最後に読んだ本に書いてあったフレーズ。結婚して子どもが生まれてから、今まで本なんか全然読まなかった私が本を読むようになったのは驚くべき変化だ。人間は「慣れる」生き物、ほんまその通り。今の自分の生活が当たり前になっている。良く家事をしてくれている旦那にも感謝の気持ちを忘れたらあかんなと思った今日この頃。

 

現在2人の子どもの子育てしながら、介助スタッフとして働いている。私の周りには子育ての先輩や友達がいて話には聞いていたが初めて子育てしてみて「こんなに大変だったとは!」と知る。子育て中のお父さん、お母さんほんまお疲れ様です。子どもって忙しい時に限って寄ってくる。子どもってなかなかさっとできない。子どもってなかなかはっきりいえない。育休中に感じたことは子どもは可愛いけど、1日中ずーっと誰とも話しせず子ども(赤ちゃん)と2人きりだと大人と話したくなったし外の社会と繋がりをもちたくなった。仕事だと分かっていても誰かと話できる旦那が羨ましかった。1人目の時はとにかく余裕がなくて今思えばちょっと産後うつになってたのかなと思う。保育所入所激戦区の西宮で保育所が決まり、ほっとした反面少し寂しい気持ちにもなった。働きたくても保育所に入れない人もいる中でなんとも言えない気持ちだった。仕事復帰するともっと余裕がなくなるのと同時に私の中のモヤモヤした気持ちがどんどん膨れ上がっていった。メインストリームは夜にお客さんの歓迎パーティー等がよくある。パーティーだけではなく普段も夜遅くまでうだうだ話してることがあって、そんなんが好きな私に葛藤が出てきていた。事務所に残ってもっとみんなと話したいけど、帰って子どもを寝かしつけなあかん。子どもがいるから子どもを見ることは当たり前。頭では分かっていても気持ちが整理できていなかった。どんな働き方をするか、どんな子育てをしていくかを日々日常が流れていく中で考えれていなかった。今は自分ができる範囲で自分なりに関わっていこうと納得できたら前向になれた。育休中メインストリームから少し離れる時間があって思ったことは、私やっぱりこの仕事が好きなんだなっということを再確認できた。働けるってことは幸せだなっと実感した。

 

私は今メインストリームで2018年4月から始まったインクルーシブ教育部に関わらせてもらっていて、それがすごくやりがいがある。障害があっても地域の学校に行っている子を持つお母さんの熱い話は何度聞いても泣きそうになる。

障害者のことをまだまだ知らない人が多いのが現状の今。メインストリームのスタッフの子どもが小学校に行った時に言った言葉が「何で車椅子の子がいないの?」だった。これ聞いてみなさんどう思いましたか?障害者と日々関わってたら障害者が当たり前に町に、学校にいるものやと思っている子ども。そんな社会いつになったらできるやろうか。そんな社会にしていきたい。娘の友達がメインストリームに遊びに来た時に「あの人何で車椅子なん?この人は車椅子に乗ってるけど歩けるの?」と聞かれていた。私は何も教えてないけど、娘は娘なりに説明していたしよく見てるなーと感心した。平成が終わり令和の時代が始まった。どんな時代になるのかな。障害者のことを知ってもらうには私達も活動をもっと頑張っていかなければならない。今から楽しみなのは、子どもの頃からメインストリームに関わってる子どもがどんな子になっていくのかな。

 

松島早七代

週刊メインストリーム通信Vol.457 だんない講演会報告

皆さん、こんにちは。数矢です。

今回のメルマガは、128日に行われたCILだんないの講演会についてお伝えします。

 

「だんない」は、滋賀県にある自立生活センターです。周りを見渡せば、田園風景、山、春に訪れれば西宮ではなかなかいないモンシロチョウがいるという自然いっぱいな所です。

私とだんないとの関わりは、遡ること約3~4年前から始まりました。当日、私は関西ブロックの若手当事者の集まりのヤング委員会に入っていて、その委員会の会議がだんないであり、その時に初めて訪問しました。それ以降、地域交流を目的にした「だんない祭り」に参加させてもらったり、コスタリカの研修も受け入れてもらい研修生と同行しました。

だんないはCILの活動を同じようにしていますが、1つの特徴として僕が一番印象的だったのが、「余暇活動の保障」っていう活動です。だんないがある地域は田舎で、週末に遊ぶところ(西宮でいうとガーデンズ、甲子園など)がないので、自立障害者の余暇を良くするために電動車椅子サッカー教室や旅行などを企画しているそうです。田舎ならではの活動だなと思いました。そして、ここ最近では滋賀県に差別解消条例を制定するため尽力されていました。また、後にも触れますが、地元高校への介助者派遣も行っています。

また、そのようなだんないが去年で創立8周年ということで、記念シンポジウム「親子の壁を越えていきたい!」が開催され、鍛治さんと参加しました。

 

そして今年12829日で、だんないに講演に行ってきました。この講演会は、今年に行われるだんない主催のシンポジウムの事前内部学習会として行われました。先ほども触れましたがだんないは毎年シンポジウムを行っていて、来年度は「言語障害」にスポットライトがあてられて開催予定です。なので、今回の講演テーマとしても、「障害当事者の人生のあゆみと言語障害」でした。助っ人として、鍛治さんにも来てもらいました。

 

自分史を話す機会などはたくさんあるのですが、「言語障害」をテーマとして話すのは初めてでした。僕には切っても切り離せない言語障害ですが、改めて人生を振り返って自分の言語障害について考えました。

講演会の中では、子供時代~大学時代は「通じないし、黙っておこう」とか「周り(母親など)が話してくれるし、喋らんでいいか」とかネガティブな考え方をしていたことを伝えました。

でも、メインストリーム協会との出会いなどでたくさんの人と話す機会が増え、ネガティブな考え方が「自分のことは、自分で伝える」ことが大事と思えるようになってきました。

そして、現在はありがたいことに鍛治さんの繋がりのおかげで講演会に行く機会も増えたり、もっとたくさんの方と喋る機会も増え、経験を積むことで徐々に自信が付いてきたことも今回の講演会に改めて感じました。

 

幼いころ(小学校時代)を思い出すと、一日の半分を支援学級で学んでいてなかなか周りの友達とコミュニケーションを重ねることができなかったと思います。支援学級から何時間か普通学級へ行って勉強(一般にこのことを交流と言います)をしますが、普通学級で友達と話をしますがみんなの話題や会話のスピードに付いていけず、結局誰とも仲良くなれなかったと思います。

そのように振り返って思うことは、言語障害がある事がコンプレックスと思ってしまいコミュニケーションの失敗をしたくなくて、ずっと黙っていたと思います。このような状況を少しでも解消していくためには、子供の頃からたくさんの人と出会えてコミュニケーションの失敗をしながら覚えていく“分けられない環境”を作ることは、やはり必要だと私は思います。大人になって身につけるのは、本当に大変です。

 

今年に行われるだんない主催のシンポジウムもテーマは「言語障害」なので、また詳細が決まればお伝えしますね。私も、パネラーで参加する予定です。

 

最後になりますが、だんない訪問2日目には、だんないが介助派遣を行っている「伊香高校」の視察にも行ってきました。詳しいことは今回のメルマガでは文字数オーバーするので書けませんが、伊香高校に通っている脳性麻痺の男子生徒で授業を皆と一緒に受け、野球部のマネージャーをしてたくさんの友人と共に青春を謳歌しているそうです。授業中を見学したのですがだんないが派遣している介助者を使いながら勉強をしていました。

勉強ばかりしていた僕からすると、野球部のマネージャーもして学校生活を楽しんでいるようで、とてもうらやましく思いました。これからも高校生活を楽しんでもらいたいですね。

 

このようにインクルーシブ教育の推進も行っているだんないと、これからも繋がり合って活動していきたいと思うと共に、「言語障害」のシンポジウムに向けてネタ集めなどをして準備をしていきたいと思います。

記事検索
プロフィール

shuukanmainstream

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ