2019年01月01日

2019年 元旦

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2018年01月01日

あけましておめでとうございます!

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2017年11月16日

佐々木繁 の インスタグラム … ヒチコック監督作品『ダイヤルMを廻せ』

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2017年11月15日

佐々木繁 の インスタグラム … 神宮外苑の いちょう並木

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2017年11月13日

佐々木 繁 の インスタグラム … 私の選ぶ 日本三大跳ね上げ屋根

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2017年11月12日

佐々木 繁 の インスタグラム … 私の選ぶ 日本九大門

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2017年11月11日

私の故郷・譜代大名の備後福山藩の幕末 4 … 「江戸」に似ていた「福山」 2

中世の備後の推定海岸線福山の現況福山城・城下町の整備 1600年の関ヶ原の戦いの後、安芸・備後・鞆49万8千石を領有し有力外様大名の一人となっていた福島正則が、1619年に武家諸法度に反する広島城の無断修築の咎で大幅に減封され信濃の小藩に転封されると、これを好機と捉えた徳川方は、備後10万石の藩主として譜代の水野勝成を大和郡山藩6万石から移封させた。

水野家時代福山城下町明細地図水野時代後期の総構え
 (続)






福山城(天守閣はRC造で再建)幕末の福山城
  
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2017年10月02日

ただいま インスタグラム と ユイッター と デイスブック に居ます!

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2017年09月30日

ただいま インスタグラム と ツイッター と フェイスブック に居ます!

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2017年08月25日

ただいま インスタグラム と ツイッター と フェイスブック に 挑戦中 !

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2017年08月02日

ただいま インスタグラム と ツイッター に 挑戦中! 2

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 様子が少しわかってきました。
 インスタグラムは、写真とその解説と、仲間の関心表明が主。
 ツイッターは、本人の手短な意見表明と補足写真と、仲間との意見交換が主。
 双方とも、ツール利用者の交流を活発にすべく、うるさいぐらい情報を伝えてくる。これはブログにはないこと。
 ブログとは対照的なツールを求めている、私に合うのはどちらか?
 どちらかに絞るのは、友人・知人が双方に分かれているので、少し困る。
 この後、フェイスブックとラインも試してみたい。
 いろいろやってみて、合うものを選びたい。

  
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2017年07月27日

ただいま インスタグラム と ツイッター に 挑戦中! 1

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 ただいま、インスタグラムとツイッターに挑戦中!実名でやってます。
  
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2017年07月11日

私の故郷・譜代大名の備後福山藩の幕末 3 … 「江戸」に似ていた「福山」 1

幕末の大名の配置譜代大名の城・福山城福山城を西から見る 1600年関ヶ原の戦いで天下の覇権を手に入れた57才の徳川家康は、未来永劫にわたって徳川の世を続けていくための手を次々と打っていった。
 そして、1615年大坂の陣で豊臣を滅ぼした徳川家康は、人生の目的を達成したかのように翌年73才で世を去った。2代秀忠は、全国の大名の配置を見直し、いつ敵対行動を起こすかもしれない外様大名ひしめく西国に、信頼のおける譜代大名を要所々々に入れ込んでいくことを急いだ。

中世の備後の推定海岸線福山の現況 1617年には播磨姫路城に有力譜代大名の本多氏を据え、西国に集中する外様大名を監視する「西国探題」を設けた。
 さらに、その西側をと見るとある有望な場所があった……それが、備後の海浜部。

 備後の少し内陸には南北朝時代から神辺城があったが、海岸部にはなだらかな山が続き、その先は平坦地はろくに無く一面の海。ただし、芦田川が運ぶ土砂で遠浅(干潟)……現在JFE(元、日本鋼管)製鉄所となっている埋立地は、私の子供の頃は「皿山(さらやま。文字通りに皿を裏返したようななだらかな山)」と呼ばれていたキャンプ地の前海で、その海はどこまでも遠浅。足に藻が絡んで泳ぎ難かった記憶が私にはある。この埋立地はかなり軟弱な地盤で埋立工事中ブルトーザーを何台も軟弱地盤に沈めて失ったという。

1600年頃の江戸1450年(足利義政・太田道灌時代)以前の江戸の地形推定1600年頃の江戸の海浜部1643年頃の江戸(徳川家光時代) 徳川幕府は、この備後の海岸部は規模は小さいが徳川入府前の江戸の海岸部に似ていると考えたに違いない……「江戸」の海岸部も太田道灌由来の砦のような古城が建つ台地の前は入江(日比谷入江)で、対岸の半島(江戸前島)の向こうは広々とした干潟の海。平坦な陸地などはろくに無かった。そして、台地の東側は何本かの大河が好き放題に流れ込み蛇行する広大な湿地帯だった。それでも、1620年頃には城の外堀と海を繋げる水路を確保しながら、日比谷入江を神田山を切り崩した土で埋立てて立派な城下町を形成した。

 こういう実績を積みつつあった徳川方から見れば、備後の海浜部は譜代大名の拠点となる堅固な城を築くに十分魅力的だった……そこで、備後藩主として白羽の矢を立てられたのが、徳川家康の従兄弟で大和郡山藩主であった水野勝成。 (続)

  
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2017年07月09日

私の故郷・譜代大名の備後福山藩の幕末 2 … 築城される小山の前は 一面の遠浅な海だった

現在の福山芦田川水系図(国交省)中世の推定海岸線 譜代大名・水野勝成(徳川家康の従兄弟)が福山城築城に着手する1619年(完成1622年)以前の備後の地はどのような状況だったか?
 福山の城下町があった場所の地形は、中国山地の雨水を集めた芦田川が東側からの高屋川を合流させて沼隈半島の高台の北端・愛宕山にぶつかって瀬戸内海に流れ込む水が運んできた土砂でできた扇状地……この河口部の芦田川は沼隈半島の高台と築城した小山との間を流れていたようだ。そして、貝塚遺跡の位置などから現在の平坦な福山平野は一面の遠浅な海だったと推定されている。

現在の福山草戸千軒町の短冊形区画1974年の草戸千軒町の発掘調査草戸千軒町の復元 この頃の備後国の中心である国府や国分寺や西国街道(山陽道)や荘園は、芦田川上流の瀬戸内海から少し奥まった神辺平野にあったから、他国との交易のための港は当然芦田川河口部にあったはず。
 その港が、この愛宕山の裾の中世(鎌倉時代から室町時代の約300年間程)に海上交易で大いに栄えたと言われる草戸千軒町(現在は芦田川中洲の中の遺跡。草戸千軒町は長和荘という荘園に属していた)。

芦田川の河口方向を見る明王院 平安時代初期には真言宗の明王院(江戸以前は常福寺と呼ばれていた)が千軒町の西側の愛宕山の山裾に建てられたが、現在の堂塔は本堂は1321年に、五重塔は1348年の鎌倉末期から室町初期の間に再建されたもの。この頃の草戸千軒町の財力はかなりのものだったことがわかる。

 しかし、16世紀後半頃になると草戸千軒町の港は徐々に土砂の堆積が進み、江戸初期1673年の大洪水では町全体が押し流された。

江戸期の福山藩絵図福山城と城下町 この時にはすでに福山城とその城下町は完成しており、港町の機能は城の外堀から瀬戸内に続く途中の“船溜り部”に移っていた(私の子供の頃には、ここは「港町」という町名だった)。だから、草戸千軒町は復興されることなく、そのまま放棄され忘れ去られてしまう。
   草戸千軒町の存在が確認されたのは250年程後の、昭和初期1930年頃に遺物が見つかってから(私の高校の社会科の教師が少年の頃に発見したという。何度か自慢話を聞かされた)。

   そして、大阪の陣後に築城された備後福山城は規模の大きい城としては最後の近世城郭建築と言われている。 (続)

  
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2017年07月05日

私の故郷・譜代大名の備後福山藩の幕末 1 … 戊辰戦争で 福山藩は 何故 官軍に組み込まれたか?

伏見櫓福山城(久松城) 福山城福山城(天守閣はRC造で再建)私の故郷は広島県の福山……ある時、山陽新幹線で旅行して来た知人から「福山には立派なお城があるんですねぇ」と感心された。これには、私は少し面食らった。

 もちろん、広島や岡山にはもっと立派な城があるが、新幹線車内から見るとお城はビルの谷間に沈んでしまっており、チラッとしか見えない。現存する最大規模のあの姫路城でも遠景でしか眺められない。その点、福山城(久松城)は高架で走る新幹線の“眼前に”パノラマのように南側正面を見せていて一瞬で全体像がよくわかる……特に伏見櫓(ふしみやぐら。徳川家康時代の伏見城の櫓を移築)は南西部石垣隅に一見天守閣のように建っていて見事なもの。確かに、こんなに新幹線に密着した城は他にない。小田原城も新幹線に近いが、城の全体像がよくわからないうちに列車は通過してしまう。
 昨年、私は法事で帰省した折に新幹線ホームからじっくり城を眺めた……「よく見ると、立派だ」と、福山城を改めて見直した。
 
 実は、私の子供の頃には福山城には石垣と伏見櫓くらいしか無かった。太平洋戦争での米軍の空襲で天守閣などは焼失し、伏見櫓廻りだけが残った。
 戦後は、新たに東端に小さな子供向け無料動物園(羽根を広げてよく見せる孔雀がいた)がつくられたくらいで、伏見櫓にはビリヤード台が置かれるような驚くほど酷い使われ方の時期もあったという。だから、私は桜の時期以外には喜んで城には行くことはなかった。
 そのうち天守閣が鉄筋コンクリート造で再建され、私も何度か上まで登った。しかし、少し高いだけで肝心の眺めたい物があまり無い。瀬戸内海が眺められるわけでもない。南側に平坦地がずーっと開けてその先は霞んで見えるだけ……「城は魅力の乏しい場所」というのが、子供時代の私の正直な印象だった。

幕末の大名の配置かっての福山城の堀(青色)風に揺れる イグサ畑 学校では、初代備後福山藩主・水野勝成は家康に近い(従兄弟)猛将で、武勲を挙げて伏見櫓を貰ったこと。
 幕末には安政の改革を断行した老中首座・阿部正弘の阿部家が藩主だったこと。
 畳表に「備後表」というブランドがあるように備後福山は高級畳表のイグサの産地ということ、くらいは習った……私の子供時代にはまだイグサ畑は水田の中にぽつぽつだが見ることができ、細かな緑のイグサの穂先が風に揺れて美しかった。そして、私の中学校ではイグサを刈って泥水に浸した後の日干し(重労働として有名だった)の場としてグランドの一部を貸していた。
 最近、現在の航空写真に福山城の堀を落とし込んだものを見て、伏見櫓をほぼ正面に眺められた私の生家は見事に外堀の中(現住所:西三ノ丸)ということもわかった。

 そもそも、備後福山藩は譜代大名の筆頭・本多家が守った姫路城より以西の多くの外様大名の海の中に投じられた譜代大名の出城だったことや、江戸期に福山水道という優れた上水設備があったことなどは、後に知った。
   譜代の重要な藩であれば、水野家が途絶えた後も老中を出すような有力譜代大名である阿部家が藩主になるのはわかる。しかし、それにもかかわらず、幕末の動乱期に何故会津戦争のようなことにならなかったのか?……それどころか、戊辰戦争では備後福山藩の武士は官軍の一翼を担って親徳川勢力と戦ったというではないか。
   備後福山藩の幕末は、一体どうだったのだろうか? (続)

  
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2017年07月01日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 15 … 戊辰戦争は 東日本で 士族の反乱は 西日本で

日朝修好条規明治の巡査 明治9年(1876年)2月に日朝友好条規が締結されると、日本が李氏朝鮮と開戦することは当面あり得ない状況になった。
 こうなると、多くが征韓論を支持していた全国の士族(約40万戸・約189万人で全人口の約5.5%)の大部分を占める不平士族の動向はどうだったのか?

 明治政府の士族向けの授産事業・北海道開発事業や金禄公債証書の授与(明治9年8月)などにもかかわらず、士族の2/3は没落士族と言われるような状況(今年2月7日の私のブログ参照)。
 実は、明治時代の職業のうち軍人以外で一番元武士向きの職業は、警察官だった。
 そもそも日本の警察制度は明治4年(1871年)に参議だった西郷隆盛が立案したもの。当初は「邏卒(らそつ=警察官)」には士族からしか採用されなかった。特に東京では薩摩藩出身の下級武士だった士族が多く採用されて治安維持にあたった……「オイ、コラ!」の高圧的な警察文化の源は、この辺にある(私は10年程前に運転免許証の更新に行って、この文化はまだ健在と感じたことがある)。
   「邏卒」はその後呼名を「巡査」に変え、さらに「番人」に変えた。しかし、「番人」は全く不評でこれを嫌がった者の退職が相次ぎ、再び「巡査」に呼称を戻すことになった。このように、士族とは「武士は食わねど高楊枝」の気風の者が多くてプライドがむやみに高く、なかなかに扱いにくい人種だったのです。

 神風連の乱秋月の乱萩の乱西南戦争(明治10年、1877年)このような嫌われる職業でも何らかの職を持ち、没落士族ではない者はまだ良かった。もし将来が見通せない失業士族にでもなると、誰しもろくなことを考えなくなる。それが戊辰戦争の勝ち組で官軍を構成した薩長土肥の士族であれば、その忿懣たるや大変なもの……「俺はこんな情けない生活状態になるために、あの戦争で命を掛けて戦ったのではない!」と憤った。
   それでも征韓論があるうちは、没落士族でも「近々働き場所がある。国から必要とされる時が来る」と思えた。明治6年政変で西郷や江藤や板垣が下野しても「天皇は征韓論を否定したわけではない。今は時期尚早と延期しただけ」と考えられた。そして、明治7年5月には台湾出兵もあって「次はいよいよ朝鮮」と思えた。ところが、明治9年2月の日朝友好条規の締結……ついに、この望みはついえた。明治9年3月には廃刀令も出され士族の誇りは大きく傷つけられただけでなく、刀が手元にあるうちに行動を起こさねばという焦りも生んだのです。

明治時代の反乱 薩摩軍帝国陸軍  この後は士族の反乱が立て続けに起きる……明治9年の10月から12月にかけて、熊本の敬神党の乱・福岡の秋月の乱・山口の萩の乱
 そして、年が明けて明治10年1月になると、半独立国のような統治状況になっていた鹿児島から、幕末に薩摩藩が独力で造って戊辰戦争で威力を発揮した後装のスナイドル銃用弾薬とその弾薬製造設備を日本陸軍は秘密裏に県外に搬出(薩摩閥の軍人で西郷の親戚である大山巌の策。この頃、この弾薬は鹿児島でしか製造できなかった。この搬出成功は軍事的に重大事で、薩摩軍はこれによって前装銃しか使えなくなった。後装銃と前装銃の差は今年3月9日の私のブログ参照)。
 この事実の発覚を機に西南戦争に突入。明治10年2月から9月末まで続いた明治以降最大の内戦となり、この戦争の終了で武力による反政府活動は無理ということを不平士族も理解せざるを得なかった。
 
戊辰戦争1868-9年 考えてみると、明治7年2月の佐賀の乱を含めても、士族の反乱は西日本でしか起きていない。しかも、規模の大きい反乱は、自由民権運動というはけ口があった高知を除いた薩長肥で起きているのです。
 1867年11月の大政奉還後に起きた戊辰戦争(1868年1月〜1869年5月)は京都以東の東日本が舞台だった。官軍は、この時東日本のほぼ全域を制覇して親徳川勢力を一掃している。

 つまり、東日本での戊辰戦争と明治10年まで続いた西日本での士族の反乱を治めることで、ようやく明治政府は国内の軍事的安定を得て富国強兵政策に打ち込むことができたのです。 (続)

  
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2017年06月26日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 14 … わずか半年程で崩壊した 『大阪会議体制』

   明治6年政変(征韓論政変)と明治7年5月の台湾出兵以降、明治維新政府は事実上大久保利通による単独主導の国政運営となっていた。
 しかし、明治8年(1875年)2月11日の合意で、大久保利通・木戸孝允・板垣退助の薩長土の各藩閥トップが協力して国政を行う『大阪会議体制』が何とか成立。佐賀の乱で肥前閥トップの江藤新平は刑死したから、肥前閥のトップは政権内にとどまっていた大隈重信が務めた。
    しかし、再び藩閥バランスを取り戻したとは言え、意見が衝突した場合の“事の納め方”に合意ができたわけではなかった。
   そもそも、木戸は大久保に対抗するために板垣と連携することを考えていたのだが、自由民権運動をおこしたことで国民(不平士族や富裕農民)に人気があった(=国民の側を向いていた)板垣とはことごとく対立

江華島事件砲艦 雲揚李氏朝鮮 漢城府と 江華島   そして、『大阪会議』から7ヶ月後に江華島事件が発生……漢城府(ソウル)を流れる漢江の河口近くの江華島沖を名目上は測量中の日本の小型砲艦「雲揚」が江華島の砲台から砲撃されたのを機に応戦して砲台を占拠。これは雲揚乗務員が無断上陸したから戦闘になったということらしいが、日本側は三日間の戦闘の戦利品として武器を奪って長崎に持ち帰った。理由はいろいろ付けられるのだろうが、日本から遠く離れた朝鮮半島西岸沿いの測量を日本側は何故しなければならなかったのか?しかも、小型とは言え軍艦で。
 李氏朝鮮側は、日本に征韓論があることは日本人の新聞記事などからも承知していたし、日本の台湾出兵後に清国からも日本に征韓論があることは伝えられていた。それでも国家の威信やプライドが傷つけられたとなると結局武力の出番。日本側が待ち望んでいたような状況になった。それでも、幸か不幸か戦闘はこれ以上拡大せず、日朝間で争いをおさめる交渉が始まり、明治9年(1876年)日朝修好条規を締結……こうして明治初めから日本側で燻っていた征韓論は、しばらくの間は終息することになった。

   この交渉をめぐっても木戸と板垣の対立は深刻となった……征韓も台湾出兵も反対した木戸と、もともと征韓論者で不平士族の支持をバックに強硬に出ることを主張する板垣が折り合うはずもなかった。そして、板垣は再び下野。
 他方、木戸もこの頃から持病(梅毒ともいわれる)が悪化し政治活動が思うに任せなくなった。

 つまり、再び大阪会議以前の大久保主導の政治体制が復活……それでも、日本が将来的に目指す政治体制(立憲政体三権分立二院制議会)が宣言されたことには意味があったのです。 (続)                                                      

  
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2017年06月10日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 13 … 『大阪会議』 で採られた 絶対に決裂しない 方法

大阪会議が行われた料亭・花外楼大阪会議正面の外壁にレリーフ(花外楼跡地)天皇を中心とした 明治新政府 明治維新政府は、戊辰戦争で官軍を形成して功績のあった薩長土肥の藩閥指導者たちと公家指導者たちが協力して明治天皇を戴いてつくった政府で、彼ら指導者が政府の左右大臣や参議等の要職を担って構成された複合体だった。
 ところが、明治6年の征韓論政変と明治7年の台湾出兵とで、論争に敗れた側は次々と政府要職を辞して息のかかった者たちを引き連れて帰郷。元々、薩長土肥の藩閥指導者が藩の部下たちを引き連れて首都の政府や国軍に参画したわけだから、指導者が下野すればこういうことになる。まだ当時の士族たちには国よりも親や親族が暮らす出身藩の方が重要で優先されることだったのです。
   気が付けばわずか7年間で、政府に残ったのは大久保利通(明治7年時点で44才、薩摩閥)と伊藤博文(明治7年時点で33才、長州閥)と大隈重信(明治7年時点で36才、肥前閥)と西郷従道・大山巌・山県有朋らの国軍関係者と公家指導者くらい、という状況になってしまった……“政府の要職にあっても、重要問題に対して自身の渾身の意見が受け入れられなければ潔く職を辞する”という政治風土の国ならば、当然の帰結。しかし、明治維新政府の成り立ちを考えれば、これで良いわけがない。

 この間に論争に敗れて下野した参議たちはもちろん、その参議たちに連なって職を辞した600人以上にも上った元官僚・軍人の不満は大きく、沸々たるものがあった……明治7年1月半ばには、その元官僚・軍人たちの一部による右大臣・岩倉具視暗殺未遂事件が起き、その半月後には下野した前参議・江藤新平(明治7年40才で刑死)が佐賀の乱を引き起こした。
 さらに、左大臣に登用された元薩摩藩主・島津久光(明治7年時点で54才)は絵に描いたような保守反動の人物。明治維新政府が必死の思いで実施した「廃藩置県や地租改正などの改革を元に戻せ」という建白書を出して周囲を引っ掻き回す始末。
 大久保は「明治政府は大久保の独裁」と言われかねないこの状況と政治の混乱を憂え何とかしたいと考えた。そのためには、台湾出兵に反対して下野した長州閥のトップ・木戸孝允(明治7年時点で41才)には薩長閥のバランスを保つためにも政府の要職に何としても復帰してもらいたい」と考えていた。大久保はこの時点で、幼馴染の西郷隆盛(明治7年時点で46才)が政府に復帰することは望んでいなかったと思われる。仮に復帰すると、またまた薩長閥のバランスが悪くなるからだ。

井上薫(前)と五代友厚(後)五代友厚邸 と 花外楼   ここでその薩長間の仲立ちを買って出たのが、当時民間人として大阪経済界で活躍していた井上馨(明治7年時点で38才、長州閥)と五代友厚(明治7年時点で38才、薩摩閥)……たまたま、この二人のようなバランスのとれた薩長閥有力関係者が民間人として大阪に居たのは幸運だった。
   この二人と政権内で大久保を支えていた伊藤博文の三人が、大久保と木戸に加えて反乱は起こしていないが自由民権運動を始めていた土佐閥のトップ・板垣退助(明治7年時点で37才)との“三者の政権運営のための環境づくり”の根回しに取りかかった(肥前閥のトップ・江藤新平はすでに処刑されており、もう一人の土佐閥の後藤象二郎は高島炭坑の経営に乗り出しており超多忙)。

   大久保は板垣の復帰は特段望まなかったが、「民間で反政府運動を自由にされるよりは、政権内に取り込む方が得策」と五代たちから説得され渋々同意した。木戸の方は、復帰後に大久保と対峙しながらも協働していくためには、連携をとりやすく国民の人気も高い板垣の存在を望んでいた。
 
京・伏見への船便発着場は 天満橋 大阪会議の舞台となった花外楼二代目 花外楼明治7年の年末、大久保は東京から大阪に向かい、大阪経済界の中心人物となって中之島に屋敷(現・日銀大阪支店)を構えていた五代の、別邸である靭(うつぼ)邸(現・大阪科学技術館)に入った。明治8年の年が明けると、木戸は萩から板垣も東京から来阪した。

 そもそも大阪は、幕末に活躍した彼ら西国の勤皇の志士あがりにとっては馴染みの街。自らの藩と御所のある京都との往来には必ず大阪を経由したからだ。
大阪・伏見間の水運伏見〜京都三十石舟の浮世絵   大阪城の外堀近くの天満橋から伏見の豊後橋(現・観月橋)までの淀川44.8劼蓮三十石舟(客定員28人・船頭4人)」の定期船便を利用できた(幸い淀川は水面高差(河床勾配)はわずか10m程で極めて緩やかな流れだったから、上りでも浅瀬で棹差したり陸から船曳したりしながら平均時速3.5〜5劼らいで半日の12〜13時間で行けた。下りは倍の時速10劼らいで4〜5時間。幕末の最盛期には、船頭を6人に増やした「早舟三十石」も登場。日に約9千人もの舟客が大阪・伏見間を往来して人荷運搬の大動脈だった。伏見・京都間はほぼ平坦で近いから人は陸を行き、荷は角倉了以が江戸初期に開削した高瀬川で小運搬した)。
 さらに、大久保にいたっては「大阪遷都(浪華遷都)」を明治維新直後に主張して、一度は決定までさせた程に大阪に思い入れがあった(大阪に造幣局が設けられたのは、この決定のため)。

征韓論論争 この時の話し合いの当事者は大久保と木戸と板垣の三人だったが、直接三人が一堂に会して議論をたたかわすようなことはしなかった。直接議論する方法では、話し合いがまとまる確率が低くなる……征韓論や台湾出兵問題では関係者が一堂に会して熱く議論して見事に決裂してしまったではないか。五箇条御誓文の第一条『広く会議を興し、万機公論に決すべし』だけでは上手くいかなかったのだ。

   必ず話をまとめ上げたい彼らは、別々の場所に逗留していた当事者三人を井上・五代・伊藤の仲介役が何度か訪れては三人の目指したい政体改革の方針を聞き出し本音を探り要求を過不足なく取り入れて調整した。木戸が靭邸の大久保を訪れることもあったが、それは碁を打って親睦を深めるためであって、この時は政治の話はしなかったという。こうして1ヶ月程かけて、三者間で国の目指す政体改革(立憲政体樹立三権分立二院制議会確立)に見事合意。そして、木戸と板垣の3月からの参議復帰が決まったのです。

初代 花外楼明治天皇による 立憲政体の詔書大阪会議の碑   こうして、明治8年(1875年)2月11日に当事者三人と仲介役二人(五代は主席せず。中央政界への表立った関与は避けたものと思われる)は、幕末から主に木戸たち長州藩関係者が贔屓にしていた北浜の料亭加賀伊(かがい)に集った。木戸が大久保と板垣を招いて主導した(=大久保が木戸を立てた)という形にした。
 これは『大阪会議の手打ち式のようなものだったでしょう……この日実際に行ったことと言えば署名くらいで、後はご馳走と綺麗どころを揃えての飲めや歌えや、歌えや踊れ、となったはず。
 この結果を喜んだ木戸は、記念に加賀伊の店名を「花外楼」と改名することを提案し、自ら看板を揮毫した……料亭「花外楼」は、この後大阪政財界の要人たちが頻繁に訪れる店になり、人を結びつけるお見合いの場としても人気が高まった。
 明治天皇もこの結果を喜んで受け入れ、4月には『漸次立憲政体樹立の詔書』を発せられた。
   これだけのお膳立てで始まった『大阪会議体制』だったが、早くもわずか半年後には崩壊。どういう事態が起きたのだろうか? (続)

  
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2017年05月30日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 12 … 明治政府 初の海外出兵 と 木戸孝允の下野

佐賀の乱 明治6年(1873年10月下旬)政変からわずか3ヶ月少し後には、参議を辞したばかりの江藤新平を中心にした元佐賀藩士による反乱・佐賀の乱(1874年2-3月)が起きた……どうも藩閥政治家は東京を離れて帰郷すると、反乱を起こしても「時の政権に正義を主張しているのであって、天皇に歯向かっているわけではない」というような意識だったようだ。
 副島種臣(遣韓派)や大隈重信(遣韓から遣韓反対に転じた)や山口尚芳(遣韓反対派)といった元佐賀藩士はこの反乱を支持せず、それでも然したる準備もなく1ヶ月程で鎮圧されてしまうような反乱を起こした江藤の短慮ぶりには呆れるばかり。
 しかし、江藤は佐賀藩士を率いて戊辰戦争では上野寛永寺の彰義隊を長州藩の大村益次郎と共に討伐したり、「
江戸を東京と改称すべきことを提言」したりした“維新の十傑”の一人。だから、明治5年(1872年)に司法省が設置されると、江藤は初代司法卿に就いて、参議にもなった。江藤は明治新政府でここまでの高位にいながら、短気に反乱を起こし、直ぐに鎮圧され、逃亡中薩摩の西郷に会って挙兵を請うも断られ、土佐でも断られ、上京して岩倉への意見陳述を企てるも、江藤を知る人もいない土佐の田舎町で“手配写真”で逮捕され、佐賀で裁判にかけられ、処刑された……皮肉にも、自身が司法卿として制定した“手配写真制度”の被適用者第1号だったし、司法省での自らの部下に死刑(晒し首)を言い渡されたのです。

民選議院設立建白書 序文(明治7年)自由民権運動の始まり100円紙幣の板垣退助 明治6年政変(征韓論政変)で下野した前参議の内、近代政治家として望ましい行動をとったのは、土佐の
板垣退助……閣議で決定され、世論にも支持されていた「即時遣韓」を理不尽にも無期延期にされたのは、民意を汲み上げ議論を戦わせ決定する制度や機関が無いからと考えた。
 先ず議会制度を持つ必要があると、士族を中心とした世論に支持された板垣は、
即座に愛国公党を組織し、下野して2ヶ月程後の明治7年(1874年)1月には早くも『民選議院設立建白書』を左院(当時の立法議政機関)に建議するも、却下された……これが自由民権運動の始まり(この1ヶ月足らず後に反乱を起こした江藤新平もこの建白書の連名者の一人となったが、近代政治家というよりも“怒れる侍”であった江藤にとっては、この道はまどろこしかったのでしょう)。

清とその属国台湾出兵台湾出兵時の戦艦 大久保と木戸を中心とした明治政府は征韓論は退けたが、初の海外出兵が思わぬ形で半年後には決定されることになった。明治7年(1874年)5月から6月の台湾出兵だった。
   事の発端は、岩倉使節団が横浜港を出発する一月程前の明治4年(1871年)11月に起きた宮古島島民遭難事件……琉球王国の首里に年貢を納めた帰りの宮古船1隻が遭難して台湾に漂着した折54人もの乗務員が台湾原住民に殺害されるという悲惨な事件(12人の生存者は、台湾在住の漢人移民に保護され清国経由で帰国できた)。明治政府は清国に対し「事件を調査をし、然るべき処罰を与える」よう厳重抗議するも、清国は「統治外の未開人の蛮行に責任はない」として日本の抗議を無視……しかし、明治6年(1873年)にも台湾に漂着した日本船が掠奪を受けるという同様の事件が繰り返された。当然日本では、このまま据え置くわけにはいかないという世論が燃え上がった。

   大久保利通も「台湾出兵は征韓と違って受け容れを前向きにする理由がある」と主張した。
 数年に一度は起こり得る国民の安全に関わる事件は放置できないし、日本が事件を解決することで清国も主張しかねない琉球の帰属問題を終わりにできるし、朝鮮に比べると台湾原住民の一部が引き起こした事件の解決ははるかに容易だし、海外出兵で士族を中心とした不満の解消が図れる……こうして、大久保は台湾出兵を決めた。

志士時代の木戸孝允(桂小五郎)台湾出兵時の日本軍西郷従道 しかし、木戸孝允は「我々は海外出兵につながりかねない征韓論(遣韓)を時期尚早として退けたばかり。状況はまだ何もかわっていないのに、台湾出兵を決するようなことでは政策矛盾」として大反対。
 木戸は、自身の意見が容れられないと参議を辞して長州に帰郷。長州閥のトップまで政権を離れるという困った事態になった(この時、伊藤博文はまだ33才。長州閥を代表するには少し若過ぎ、戊辰戦争での功名も不足していた)。
   大久保はこの機会に、下野した西郷隆盛の参議復帰も期待していた。しかし「琉球の安全と帰属問題の解決は、元薩摩藩士の大将たる西郷隆盛の仕事であり責任」という大久保のメッセージは生かされることはなかった。致し方なく、大久保は出兵した日本軍の指揮は西郷の実弟従道に託さざるを得なかった。

 簡単に済むと思われた台湾出兵で、対外経験の浅い明治初期の日本政府は二つの失策をしている……まず、台湾の気候環境がわからずマラリアで531人もの兵士を失った。戦死6人に対して、異様に多数の病死者。軍医が漢方医ではマラリアには無力だったのです。
 次に、清国にも清国に権益を持つ欧米列強国にも台湾出兵を通告せず根回しもしないで出兵してしまった。だから、出兵後の収拾では大久保が直接北京を訪問し、難航の末ようやく和議にこぎ着けた……征韓を実行していたら、この程度のことでは済まなかったでしょう。 (続)

  
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2017年05月20日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 11 … 近代日本の骨格をつくった 大久保利通

明治維新から大久保利通暗殺まで明治時代の反乱大久保利通 大政奉還から明治10年の西南戦争までの10年間の日本の歴史年表を見ると、一国の社会を一挙に変えていくことの大変さを痛感する。
 このことは、それまで連綿として続けられてきた、当たり前と考えられていたことをすべて覆すに等しいわけだから、歓迎されるよりも拒否され恨まれることの方が多かったのではなかろうか。この間に多くの明治維新の功労者が暗殺され、戦死し、病死して姿を消した。
 この時期、正に中心になって命懸けで活動したのが大久保利通(1830-78年)。1873年5月に欧州に派遣されていた岩倉使節団を離れて一足先に帰国した大久保は、新たに設置された内務省初代内務卿として、矢継ぎ早に重要施策(地租改正学制徴兵制等)を実施に移し、これら新たな負担に反対して各地で頻発した一揆もすべて鎮圧していった。
 1873〜74年には血税一揆(徴兵反対一揆)が、1874〜77年には地租改正反対一揆が各地で起き鎮圧には軍隊が出動。つまり、明治10年頃までは毎年のように日本のどこかで新政策に反発する一揆(暴動)が発生していたことになる。

明治6年の地租改正条例地券地租改正反対一揆 地租改正条例は、その年々の米の収穫高に課税して米で物納させていた古来からの租税法を抜本的に変えた。土地の所有者に地価の一定割合を課税して金納させることで、毎年安定的な税収をもたらす租税法に改正……このためには土地が価値のあることが前提。だから、国民の土地私有と売買を認めた。
   しかし、不作の年でも納税額が豊作の年と変わらないということは、そうそう簡単には国民に受け入れられなかった。当初は「地価の3%」とされていた地租は、激しい抵抗の末1877年には「2.5%に減額」。こうして、ようやく一揆(暴動)は鎮まっていった。
   このように明治初めの最も困難な時期の日本を一貫して指揮し続けたのが、大久保利通。驚くべきことに、大久保利通は暗殺されるまでのわずか10年程で、近代日本の骨格をつくり逝ったのです。

   そして、この時期の一連の一揆は主に農民の反発だったのだが、明治の最大の不満分子であった全国約40万戸の士族はどうだったのか?
 特に、明治6年政変(征韓論政変)で下野した薩長土肥の藩閥政治家である西郷・板垣・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らは、帰郷後はどう活動したのか? (続)

  
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2017年05月17日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 10 … 何故 『征韓論』 か?

征韓議論図征韓論論争 明治新政府が最初に直面した外交課題は、欧米列強が武力を背景にして江戸幕府に結ばさせた不平等条約の改正問題だった……そもそも岩倉使節団の派遣は、この不平等条約改正の下打合せが欧米社会視察に並ぶ重要な目的だった。
 ところが、2年9ヶ月にわたった大視察旅行から岩倉使節団が帰国した折には、西郷隆盛や板垣退助や江藤新平たちの留守政府では、
朝鮮との外交トラブルをどう解決させるか議論沸騰!というより、もう西郷隆盛を大使として朝鮮に派遣することを決定。後は明治天皇の了承だけ、という状態だった。

大政奉還から西南戦争直前天皇を中心とした 明治新政府岩倉使節団の代表 明治新政府首脳は、戊辰戦争の官軍を指揮した薩長土肥の藩閥軍の中心人物たちだったが、岩倉使節団の岩倉大使と4人の副使(山口尚芳は肥前藩)はもちろん全員が征韓論に反対。ところが留守政府の主要メンバーは、三条実美がどっちつかずである以外は全員が征韓論でまとまっていた。
 木戸や大久保たちは「留守中には重大な決定はしないという約束を、何故守らない」と西郷たちに迫ったが、西郷たちは「決定を帰国後まで待てない重大事が起きたのだ」と譲らない。

朝鮮通信使 実は、問題の発端は岩倉使節団の出発(明治3年末)前から始まっていた……明治新政府は、成立すると徳川時代と同様の交流を望む旨を朝鮮側に伝え、明治3年(1870年)の2月と9月には使節を派遣するが、日本側の外交文書の形式が従来と異なっていることを理由に鎖国攘夷政策をとる朝鮮側はその受け取りを拒否していた。岩倉使節団が出発し日本側が留守政府となってからの明治5年9月にも使節を派遣するが、朝鮮側は頑として応じない。
 明治政府側は開戦に値する無礼なことだと「征韓」を主張し、朝鮮側は欧米化した隣国など「排日」にすべしと非難。

朝鮮の歴史清とその属国 李氏朝鮮この時期400年間程も続いていた統一王朝・李氏朝鮮はペリー来航(1853年、4年)後に攘夷で盛り上がったわずか20年程前の日本の江戸時代末期とあまり変わる社会ではなかった。それでも朝鮮社会は、1866年にはシャーマン号焼き討ち事件で通商を求めて来たアメリカ武装商船を撃退し、さらにフランス人宣教師の処刑を端緒にしたフランス海軍との戦いにも勝利して、攘夷の気運は大いに高まった時期だったのです。

 明治6年(1873年)5月末には大久保利通が岩倉使節団より先に一人で帰国。7月には木戸孝允も一人先に帰国……が、征韓論で沸騰していた留守政府首脳たちは、大久保と木戸の「広く世界の情勢を見渡せば征韓は時期尚早」という説得に耳を貸さない。『広く会議を興し、万機公論に決すべし』という木戸孝允発案・明治天皇了承の五箇条の御誓文を地で行っていたのです。

 とうとう8月17日には、板垣退助の「居留民保護のために直ちに朝鮮に出兵すべし」という策は退けたものの、西郷隆盛の「西郷自らが大使として朝鮮に行き友好を求める」という「遣韓」を閣議で決定してしまう。これを実行し拒否されれば、開戦となることも考えられる。
   後は、太政大臣の三条実美が明治天皇に上奏して了承を得るだけ、という状況となった。翌日、この決定を三条から上奏された明治天皇は「約束通り岩倉たちが帰国してからの決定にせよ」と指示……天皇としても、内戦である戊辰戦争がやっと終わったばかりのこの時期に、隣国と一戦交えることなど全く歓迎ではなかったのでしょう。西郷たち士族には、他国との戦争は最高に自分たちの存在意義を高められる出来事なのだが…。

 1894年の漢城(ソウル)1904年の崇礼門1888年のソウルようやく9月13日になって岩倉使節団が帰国。当然ながら岩倉具視や伊藤博文が「遣韓反対」に加わり議論をぶり返す。
 10月14日と15日に開かれた閣議では大隈重信らが「遣韓反対」に転じ賛否は同数となる。ここに至って、西郷は「遣韓」が認められなければ参議を辞す、と議長の三条を脅す。恐れをなした三条は「遣韓」賛成を表明し閣議で「遣韓」を決定する。しかし、今度は大久保、木戸、大隈たちが辞表を提出し岩倉も辞意を表明。
 この板挟みとなって収拾に窮した三条は、天皇上奏直前に倒れる。
 そして、三条に代わり太政大臣代理となった岩倉は、10月23日に閣議決定の西郷遣韓策と岩倉たちの遣韓延期策(反対ではない)の両論を明治天皇に上奏。この両論を聞いた天皇は、岩倉たちの意見を受け入れ西郷を大使とする使節団の朝鮮派遣は無期延期とした……これを聞いた西郷・板垣・江藤・副島種臣・後藤象二郎の遣韓派の参議5人が即座に辞任。任務引継ぎも無視して帰郷……さらに、辞任した参議に繋がる軍人・官僚が大量に約600人程もこれに続いて辞職する、という大騒動になった。
 これが明治6年政変(征韓論政変)。士族を中心にした世論も圧倒的に征韓論を支持したのだが、この政変で血を見なかったことは幸い、と言うしかない。血を見ないで済んだのは天皇の存在があったからでしょう。下々の者が血を見る一歩手前まで揉めて分裂しても、この存在さえあれば日本が分断されることはなかったのです。
   仮に天皇が、ドイツ帝国を破滅させた第3代皇帝・ヴィルヘルム2世のように、下々の者の議論より自らの考えを優先させて行動するような存在であったなら、日本の明治時代は大きく変わったものになったに違いない。
 (続)
  
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2017年05月04日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 9 … 明治日本は どこまで プロイセン化していたか? 2

1928年のドイツ国会議場1900年頃のドイツ帝国国会議事堂全権委任法の成立(1933年3月)第二次世界大戦での破壊(1945年) プロイセン王国は普仏戦争の勝利が見えた1871年にドイツ帝国建国を宣言。そのドイツ帝国の首都ベルリンの国会議事堂(下院、石造)は、ビスマルク(1815-98年)がまだ首相を務めていた時期の1884年に着工され、罷免されて4年後の1894年に竣工した。つまり、ビスマルクが意見を述べて建設承認はしたがこの国会議事堂でビスマルクが活躍することはなかった
   そして、ドイツ帝国が第一次世界大戦(1914-8年)の敗北で崩壊すると、1918年以降はワイマール共和国下院の国会議事堂となった。

ナチスの党大会ナチス党大会 しかし、ファッショ政党・ナチスが政権奪取した1933年直後にナチスの自作自演も疑われる不審火で議事堂は炎上。ヒトラーは全権委任法を即座に成立させると、その後は国会が開かれることはほとんどなく、議事堂も修復されずに、わずか39年間の利用だけで国会議事堂は荒れるに任せて放置……ナチスにとっては、まどろっこしい民主的議会運営など愚の骨頂。
   独裁体制さえ築ければ、国会はもう不要物。年一回のナチス党大会を大々的に開いてドイツ民族であることの誇りを高ぶらせ団結を謳えれば、それで十分。独裁体制の社会には今もよく見られる光景。わずか90年程前には全くとんでもない政党も存在し得た……ワイマール共和国からナチス・ドイツに至る過程を追うと、恐ろしい気持ちになる。

参議院側から見た日本国会議事堂日本の国会参議院議場日本国会参議院議場 内観日本国会議事堂 ドイツの国会議事堂は、第二次世界大戦の最後のベルリン攻防戦でナチス親衛隊が拠点としたため、さらに破壊が進んだという極めて不遇な建築……しかし、大久保利通や伊藤博文を始めとして、ビスマルクに憧れる政府首脳が何人もいた日本では、しっかりとプロイセン王国=ドイツ帝国の在り方を、国会議事堂でもお手本にしていたのです。
   あまり語られることは無いが、
日本の国会議事堂(1920年着工1936年竣工、鉄骨鉄筋コンクリート造御影石貼)ドイツ帝国の国会議事堂を真似ている。外観もよく似ているが、特に議事堂内観はソックリ……ビスマルクが夢見た国会議事堂は東京に存在し今も現役

ドイツ連邦議会議事堂 修復工事(1999年ノーマン・フォスター設計)現在のドイツ連邦議会議事堂現在のドイツ連邦議会の議場アメリカ大統領の訪問 そして、1990年にドイツ再統一という歴史的な出来事が起きると、1933年以来長い間放置されていたドイツの国会議事堂にも変化が生じた。
   1992年の国際建築設計競技で著名英人建築家ノーマン・フォスターのドイツ連邦国会議事堂改修設計案が採用されることになり、1999年に現在のように改修された。

議会ドーム屋上ドーム 内観1屋上ドーム 内観3夜間 フォスターの設計には、ドイツ帝国の国会議事堂が醸していた重厚で威厳のある貴族的雰囲気を取り払う意図がうかがえる。
 そして、ハイテク・エコ建築のフォスターらしく、明快で簡素で機能的民主的要素を新古典様式の石造建築の中に持ち込み見事に現代建築として再生させている……屋上ガラスドーム中央の逆円錐形のガラスの筒で自然光を下部の議場に届け、同時に屋内の熱気を外に排出。また、ドーム内の螺旋状見晴らし通路は直射日光の射し込みを防いでいる。
 その他に、雨水利用やバイオマス発電装置や余分な熱の地下蓄熱システムも備えた最先端の省エネ建築で、今もベルリンの観光名所。   (続)
  
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2017年05月02日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 8 … 明治日本は どこまで プロイセン化していたか? 1

岩倉使節団の航路日英同盟新橋-横浜間鉄道開業(1872年) 岩倉使節団は、1873年7月帰国命令を受けマルセイユ港から地中海を通って帰国。2ヶ月後の9月に横浜港に帰着すると、何と2年9ヶ月にわたる大視察旅行になっていた。留守の間の1872年10月には新橋-横浜間の日本最初の鉄道もすでに開業していた。アメリカ大陸横断鉄道(1869年開通)やリヴァプール&マンチェスター鉄道(1830年開通)に感激した岩倉使節団のメンバーも日本初の鉄道に感無量だったのではないか。

 帰国の4年前に10年がかりで完成していたスエズ運河から先の帰路は、ヨーロッパ列強の食い物(植民地)にされている場所に寄港しながら、ビスマルクの言葉を噛みしめながらだったでしょう……使節団の明治政府首脳は「日本は富国強兵を目指すしか道はない」と決心していたと思う。

   “自らの国の在り方を模索する”ために、明治日本政府のように主要な先進国を現地に訪問して調査・分析・比較したケースは、人類史上にも無かったことでしょう。そして、その結果の選択・判断においてもビルマ王国のような過ち(19世紀中3度も大英帝国と戰争して国を亡ぼした)を犯さなかったことは幸いだった(4月4日の私のブログ参照)。

   明治政府は、政治の在り方はフランスやアメリカのような『共和制』は不安定な政治となり易いことを嫌って否定し、大英帝国やドイツ帝国のような『立憲君主制』を選んだ。

 初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世ヴィルヘルム2世とビスマルクドイツ帝国歴代皇帝しかも、大英帝国のように君主権は名目だけのものではなくドイツ帝国のように憲法があっても君主権は制限を受けないものとする、とした……結果的にどうなったかと言うと、ドイツ帝国を倣った大日本帝国の立憲君主制』は第一次世界大戦(1914-18年)の頃までは、君主である明治天皇(幕末に育って天皇が政治権力が無かった時代から徐々に政治権力を持つようになった理由と過程を知る)と大正天皇(病弱だったと言われる)は、幸いに国政に口出しして問題を引き起こすようなことは無かった(しかし、その後の大日本帝国の立憲君主制は軍部を制御できず暴走を許し、第二次世界大戦敗戦後は『イギリス型の立憲君主制』に変えられた) 。

   一方、お手本であったドイツ帝国の方はそう上手くはいかなかった。初代ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世のように有能な政治家(ビスマルク)を信任するような皇帝であれば問題の起きることは少ない。しかし、重篤な病気を抱え3ヶ月という短命に終わった2代目皇帝から、若輩で苦労知らずで政治能力も疑わしい3代目皇帝・ヴィルヘルム2世が、目障りな有能老練政治家(ビスマルク)を1890年にクビにして親政を始めるようになると様々な問題が勃発……先行していた英仏露に負けじとドイツ帝国も領土拡大植民地獲得欲を露骨に表すようになった。当然、こうなると英仏露と摩擦を引き起こす。そして、3代目皇帝の即位30年後に第一次世界大戦の敗北で皇帝は廃され、ドイツ帝国はワイマール共和国となったのです(しかし、ワイマール共和国はポピュリズムのファッショ政党・ナチスの台頭と独裁化を防ぐことができず、第二次世界大戦敗戦でナチス・ドイツは滅び、ドイツは西のドイツ連邦共和国と東のドイツ民主共和国に分割されるしかなかった)。
 『立憲君主制共和制よりも安定した政治体制という明治日本政府の見込みは見事に外れてしまったのです。

日本陸軍参謀本部育ての親・メッケル軍事関係のお雇い外国人日露戦争時の満州軍総司令部 明治日本の軍事面はどうだったかというと、幕末までは手っ取り早くヨーロッパから軍事顧問を雇った。これに対して、明治政府は腰を据えて対処した……新しい社会を構築するための根本的な場である一般基礎教育の次の段階である高等専門教育の現場にお雇い外国人を教師として入れたのです。このやり方は、軍事面だけでなく社会の全分野に共通していた(明治日本の優れている点は、一度“お雇い外国人”を教師とすれば、その次代の教師は外国人でなくとも間に合うレベルの日本人を全分野で次々に輩出したこと)。
 そして、明治日本軍は海軍は大英帝国を、陸軍はドイツ帝国をお手本にしていた。そこで、陸軍参謀将校を養成する陸軍大学校に、ドイツ帝国の教官を派遣することを要請……岩倉使節団の訪独時に面識ができていたプロイセン参謀本部生みの親モルトケが、有難いことに自ら人選してくれたという。
 モルトケは「ワインが飲めない国に行くのは、イヤ!」と言うクレメンス・W・J・メッケル(1842-1906)を口説いて、1885年から3年間日本に派遣してくれた。そして、幹部将校として脂が乗っていた43才のメッケルに育てられたのが、東條英教(東條英機の父)や秋山好古……厳しく熱心に指導し、学生たちからは「渋柿オヤジ」と渾名されて親しまれた。メッケルは、学生だけでなくすでに幹部将校だった児玉源太郎や桂太郎や川上操六なども教えた(メッケル自身も1888年ドイツに帰国後に昇進し、日清戦争の年・1894年にはドイツ陸軍少将、翌95年にはドイツ参謀本部次長となる程に優秀だった。が、皇帝ヴィルヘルム2世に嫌われて左遷されると96年に54才の若さで退役)。
 ドイツに帰国したメッケルはその後も日本陸軍留学生の面倒を見てくれて、日露戦争(1904-5年)時にはメッケルは児玉源太郎に手紙を送って戦略の評価やアドバイスをしてくれていたという……日本陸軍のプロイセン化はメッケルを介してかなり進んでいたと言えるでしょう。
 (続)
  
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2017年04月22日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 7 … 鉄血宰相ビスマルクの 今も有効なアドバイス

岩倉使節団の1872年12月〜73年9月ドイツ帝国とプロイセン王国ビスマルク体制 岩倉使節団は1873年2月中旬パリを出発。ベルギー・オランダを経て、いよいよドイツ帝国(普仏戦争以前はプロイセン王国)に向かった。
 自分の目で見た普仏戦争でのプロイセン軍の強さを大山巌から聞いていた使節団の面々は、ドイツ帝国に興味津々だったでしょう。

 オーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦を脱退し、普墺戦争でそのオーストリア帝国をわずか7週間で撃破して北ドイツ連邦を結成し、さらに大国フランスにも普仏戦争の開戦後2ヶ月足らずでナポレオン3世を捕虜にしたうえ10ヶ月で勝利してドイツ帝国を樹立する、というヨーロッパの一小国・プロイセン王国が巻き起こした目を見張らせる出来事に、薩長軍を中心にした官軍が戊辰戦争で長州から北海道まで攻め上がって徳川政権を倒し、天皇を戴いて明治政府を打ち立てた自らの姿を重ね合わせることもできた、と想像する。

   3月9日にベルリンに到着した岩倉使節団は、2日後には早速ドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世(76才と高齢だったが、帝国皇帝の地位に就いてまだ2年だった)に謁見。翌日には高名なビスマルク首相(58才)とモルトケ参謀総長(73才)にも面会。そして、14日にはビスマルク首相に招宴される。ドイツ帝国としても大変な歓待振り……この招宴でのビスマルクの率直な話に岩倉使節団一同は感銘を受ける。

1877年のビスマルク大モルトケ   「私は首相として三度の戦争(対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争)を指揮したが、領土獲得に野心があったわけではない。ドイツ民族の小国家群を統一国家にまとめ上げなければ、大国の餌食にされると考えたから戦ったのだ。これらの戦争は、あなた方の戊辰戦争と同じ性格のもの(ここまでの情報や知識をビスマルクは持っていた!)。我が国は、英仏露のような植民地拡大の野心は持っていない(事実、戊辰戦争中に会津藩と庄内藩は武器をプロイセンから購入し代金支払を蝦夷地の領地を植民地として提供しようとプロイセン公使に伝えたが、本国のビスマルク首相はこれを断っている)。
   そもそも、大国は自らに利があれば万国公法を持ち出すが利がなければ武力に訴える。小国であったプロイセンは、このような大国から何度も苦渋を味わらせられ怒りを覚えさせられた。あなた方も、万国公法など気にせず国を富ませ軍を強くすることに努めるべき。さもなくば、大国の植民地にされるのが落ち。そして、あなた方が親交を結ぶべき国があるとすれば、国家主権を尊重するドイツを置いて他にない」というのが、ビスマルクの話だった。

   ドイツに来るまでの岩倉使節団は、どの国でも不平等条約改正の話を持ち出すと「貴国はまず万国公法にしたがった法整備を行うべき。改正交渉はその後」と言われ続けていた。使節団一同が、確たる思想を持つビスマルクの話に感激したのも当然。
   現在では、大国であっても他国を弱いと見れば植民地にしようとする国はさすがに無いが、万国公法を無視しても隣接地を領有してしまおうという大国は依然として存在し、実際に実力行使している……残念ながら、このビスマルクの話の主旨のひとつである「国際政治は弱肉強食」は、今も有効と言うほかない。

 岩倉使節団 米欧回覧日程 2この宴でビスマルクの隣席に座った木戸孝允は、「我が国から政治顧問の派遣協力ができる」というこれ以上ない好意的な申し出をビスマルクからいただいた。ところが、木戸はこれを断る……自分たちだけの議論と判断と実行力で日本の針路は決めていくのだ、という強い意志・意欲があったのです(「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の精神)。これにはビスマルクも感心し、見込みがあると思ったのではなかろうか。
 さらにビスマルクは、岩倉使節団ほどの政府首脳が長期間にわたって本国を留守にしていることを危惧した……これは図星だった。
 岩倉使節団がアメリカ滞在中に大久保利通と伊藤博文が緊急帰国した折に漂っていた不穏な動き(征韓論)を留守中に具体化することを禁じておいたにもかかわらず、いよいよその議論は西郷隆盛を中心に沸騰していた……ビスマルクからの招宴の2週後には、大久保はロシア帝国訪問を一人キャンセルして緊急帰国。木戸もロシア訪問後に北欧・イタリア・オーストリア・スイス訪問を一人キャンセルして使節団を離れ先に帰国することを余儀なくされたのです。
  (続)
  
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2017年04月11日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 6 … 大英帝国の立憲君主制 と フランスの第三共和政  

ウェストミンスター宮殿帝国議会 前史貴族院議会庶民院議会 戊辰戦争を中心になって戦い倒幕を成し遂げた薩長土肥の藩閥指導者にとって、どのような体制で日本を統治すべきかは最重要の課題……明治初期の時点で、すでに王の存在しなかったフランスやアメリカといった「共和制」の統治体制よりも、大英帝国のように王が存在しながらも民意をそれなりに政策に反映でき産業の工業化が進み世界最強クラスの軍事力を有する体制を参考にしたいと考えたことは、天皇を戴いて「王政復古」を1867年に宣言した明治政府首脳としては当然なことだった。
 ちょうど岩倉使節団がイングランドにいた時期、太政官の左院(1871年から73年まで存在した明治政府の立法機関)もイングランドに議会調査のための使節を派遣していた。左院の使節は、何度も大英帝国議会を傍聴し、関係者からその運営実態を聴き取っている。木戸や大久保や伊藤のいた岩倉使節団ともロンドンで緊密に接触したはず……イングランドは17世紀に起きた血みどろの清教徒革命と無血の名誉革命を経て、“王を中心とした絶対君主制の絶大な王権に制限をかけながら議会を中心とした立憲君主制に政治体制を変えてきた歴史を持つ国。
   一方の明治日本政府側は、元々政治権力を持たなかった天皇にどこまでの権力を付与する体制が良いのか、を模索していた。その匙加減が、藩閥指導者には難しかったのだと思う。

ジョルジュ・オスマンのパリ改造(1853-70年)オスマン調アパルトマン 1872年8月から4ヶ月間在英した岩倉使節団は、12月6日フランスに向けロンドンを発ち10日後にはパリに到着。
 この時期のフランス、とりわけパリは混乱の中にあった……フランスは普仏戦争の敗北でナポレオン3世の第二帝政が崩壊。すぐさま第三共和政が成立してはいたが、その成立直後に社会主義共和政を目指したパリコミューン(1871年3-5月)の嵐がパリ市内で吹き荒れた。その混乱(死者4千〜5千人・銃殺刑1万人・逮捕者4万人・国外追放者5千人)が治まって、やっと1年半程経った時期だった(『鉄筋コンクリート造建築の父』と呼ばれるオーギュスト・ペレの建築施工会社を営んでいた父親もパリ・コミューンに身を投じ、その結果ベルギーに亡命を余儀なくされた。2006年7月21日の私のブログ参照)。

 それでも、第二帝政下でジョルジュ・オスマンのパリ改造(1853-69年)はすでに行われており、パリの生活環境・利便性・都市景観は格段に向上していた。
19世紀パリ オペラ座の工事現場直線・拡幅・並木通のパリ改造 改造以前のパリは、街路こそ舗装されてはいたが、ゴミや糞尿が投棄され(欧米では糞尿は肥料利用しなかった)、豚が放し飼いにされるという劣悪な環境。街路に張り出した屋根からの雨水は道路中央の溝に落ちセーヌ川に流れ込んで、腐敗した廃棄物は川を汚染。それにもかかわらず、川の水は上水として利用されていたのです。
 オスマンのパリ改造は、下水道整備・公園拡張・曲がりくねった街路を直線化し拡幅して並木道を導入・複数の広場を放射状直線道路ネットワークで接続というもの……このような大改造を、オスマンはナポレオン3世の強力な王権をバックに強引に推し進めた。ただ、この改造にはパリの都市構造をゲリラ戦に不向きにするという王権側の狙いもあったのです。そのせいか、パリ市民がその後起こしたパリ・コミューンはフランス革命のようには成功しなかった。

 このように岩倉使節団が訪れた時のパリは、エッフェル塔(1887-89年)さえ建っていれば、現在と然程変わらない都市景観となっていた。
   煙突の煤で薄汚れた喧騒のロンドンの街からオスマンのパリ改造からあまり年月の経っていない新しい石造建築が建ち並ぶパリに到着した時、「花の都パリ」を実感したでしょう。その美観と威容に圧倒されたでしょう。

 しかし、フランス革命以降のわずか80年程の間の、王政〜第一共和政〜ナポレオンの第一帝政〜王政復古〜第二共和政〜ナポレオン3世の第二帝政〜第三共和政という目まぐるしく不安定なフランス政治体制の変化は、岩倉使節団に「共和政がもたらす混乱への警戒感」を抱かせた。フランスの政治学者からも「日本の万世一系の天皇制」に賞賛を受けたという。

大久保利通(前左)と村田新八(後左)と大山巌(後右) 岩倉使節団はフランスに2ヶ月程滞在したが、パリ滞在中の写真に興味深いものが残されている。
 旧薩摩藩士が集まった時の写真……岩倉使節団の旧薩摩藩士に、一足先にヨーロッパに留学していた大山巌(1842-1916年。日清・日露戦争を指揮し戦った明治の元勲。「海の東郷、陸の大山」と呼ばれた)たち旧薩摩藩士が合流した集いだ。皆、戊辰戦争時の戦友。写真の後列右の大山は、明治2年(1869年)から渡欧して普仏戦争などを視察し、明治3年から6年までスイス・ジュネーヴに留学。大山は、帰国後は相次いだ士族反乱を指揮官として鎮圧。西郷隆盛の親戚筋だが、血筋以上に優先するものがあったのです(ただし、西南戦争以降の大山は生涯薩摩には帰郷しなかった)。
 そして、写真の前列左は大久保利通。後列左が西南戦争で薩摩方の反乱軍に加わった岩倉使節団の村田新八(使節46名のうち薩摩閥は大久保と村田の2人。村田は幼少時から終生西郷隆盛に兄事)……岩倉使節団の一員として、欧米を議論しながら見分して回っても、人つながりを優先して、士族の反乱に加わる人もいたのです。村田は二人の息子と共に薩摩軍に加わり、長男と共に戦死。 (続)

  
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2017年04月04日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 5 … 岩倉使節団 と ビルマ王国全権使節団

岩倉使節団の1872年12月〜73年9月1872年8月6日~16日 ボストン-リヴァプール間三角貿易で急成長した大英帝国 1872年(明治5年)1月15日にサンフランシスコに上陸し7ヵ月間にわたってアメリカ視察をした岩倉使節団は、8月6日にボストンを出航し10日後には大英帝国イングランドのリヴァプールに入港……アメリカの綿花のイングランドへの輸出ルートに乗って使節団は訪英したのです。

 当時のヨーロッパ世界は、普仏戦争(1870-1年)が大方の予想に反してプロイセンの大勝利に終わり、ドイツ帝国の成立が(占領していた)パリのヴェルサイユ宮殿で宣言(1871年1月)されてから、わずか1年半程後の時期。

 岩倉使節団の訪英当時の大英帝国は、まさに繁栄の絶頂にあった。その繁栄を支えたのが、奴隷貿易を含む「三角貿易」で栄えた港湾都市のリヴァプールと綿織物を大量生産する「紡績機械工」のあったマンチェスター

リヴァプール と マンチェスター1830年 開業記念列車 使節団は、すでにアメリカの大陸横断鉄道で乗車経験はあったが、「列車からバッファローが撃てる」というような鉄道とは違う世界初の実用鉄道であるリヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道(1830年開業)にはさぞ驚いたでしょう。
 織物原料である膨大な量の綿花がこの鉄道でマンチェスターに運ばれ、マンチェスターからは紡績工場で大量生産された綿織物がリヴァプールに送り出されていた……これは岩倉使節団が見たかった光景と言えた。この鉄道と紡績工場の見学で大英帝国の繁栄の現場を目の当たりにできたのです。
 リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道は、水運の運賃高騰がマンチェスターの発展を抑制する事態となったため、鉄道建設反対者たちの所有地を迂回して湿地帯や岩山や峡谷を通る難工事が予想される路線となった。それでも、4年という短期間の工期で1830年に開業。この総延長56kmの世界初の実用鉄道はすでに時刻表に基づいて運行されていたのです。

1870年代後半のロンドン市街産業革命の街・マンチェスター1850年代のマンチェスター紡績工場 大英帝国は世界で最も工業化の進んだ世界最強国という認識を、使節団の誰もが持っていたはず……長州藩が英米仏蘭連合艦隊に攘夷を仕掛けて完敗した下関戦争(1863年5月・1964年7月)や薩摩藩が生麦事件の補償問題をこじらせて英艦隊が鹿児島湾内に侵攻して戦った薩英戦争(1863年8月)は、わずか9年前の出来事。薩長閥を中心に岩倉使節団の面々には大英帝国に特別な感情を抱く者が多かった、と想像する。
 そもそも、明治政府首脳は軍事に関しては“海軍は海洋覇権国の大英帝国に、陸軍はナポレオン軍の強さからフランスに学ぼう”とする気持ちが強かったのです。

戦艦三笠バロー=イン=ファーネス造船所バロー=イン=ファーネス造船所 岩倉使節団の訪英から30年後の日露戦争(1904-5年)時の日本海軍の主力戦艦は、ほとんどがイングランドで建造されている。
 東郷平八郎が座乗し指揮した日本海軍艦隊の
旗艦・三笠の建造場所も、リヴァプールの北方のアイリッシュ海に面するバロー=イン=ファーネスの造船所……天然の良港で古くからの漁村であったこの小さな町は、産業革命で鉄鉱石や石炭を運ぶ鉄道が敷かれ、製鉄所が造られ、鉄鋼が輸出され、この鋼を利用して造船業も栄えた(この当時のイギリスは鉄と石炭の世界一の産出国)。そして、この造船所がイギリス海軍艦船の重要な建造所に指定されたのは、使節団が訪英する前年のことだったからここには見学に訪れていないが、リヴァプールの造船所には訪れている。

   岩倉使節団訪英の19年前の1853年にイングランド北部の都市ブラッドフォード郊外に建設されたソルテア工場村(アルパカの毛織物工場。2001年にユネスコの世界文化遺産に登録)にも1872年10月末に見学に訪れている。

ソルテア完成図岩倉使節団訪問当時のソルテア現在のソルテアの工場村   この村は「モデル工業ビレッジ」と言われ、広さ20haに800戸・4400人もの工場関係者が暮らす自給自足の「資本主義的ユートピア」として計画された。
 工場施設と住宅群だけでなく、教会・礼拝堂・学校・図書室・商店・レストラン・銀行・菜園(2ヶ所)・スポーツ施設・診療所・養老院まであった。無かったのは、博愛主義で啓蒙的な経営者の方針に則って“酒場“くらい。
   面白いことに、工場村の衛生環境を守るために便所と浴場と洗濯場は各戸には無く共同設備として設けられた……この点が江戸の裏長屋や軍艦島の炭鉱社宅と同じなのは大変興味深い。

ミャンマー(ビルマ)第一次イギリス=ビルマ戦争   実は、岩倉使節団がソルテアを訪問見学した、わずか1ヶ月半程前の1872年9月初めにビルマ王国全権使節団がソルテアを訪問していた(工業化においては、当時共に全く進展していない国同志だったでしょう)。
   近世・近代のビルマ王国は、タイ・インド・清・山岳少数民族(カレン族)などの周辺国家や民族との抗争を繰り返していた。19世紀にはビルマは三次にわたってイギリスと戦争をした……第一次は1824-6年、第二次は1852年、第三次は1885-6年でいずれもビルマ王国が破れ、1886年にはついにビルマ王朝は滅んでイギリス領インドの一州とされて植民地となった(ここまで懲りずにイギリスに挑んで破れ続けたのは、ビルマ王国の外交政策の失敗。タイはビルマ王国の属国とされた歴史を持ちながらも“親イギリス外交”で平和と独立を維持した)。

岩倉使節団 米欧回覧日程 1   ソルテア工場村をビルマ王国全権使節団が見学訪問したのは、第二次イギリス=ビルマ戦争の敗北から20年後で、ビルマ王国は一応安定していた。そして、イギリスとの関係も悪くはなかった。
 しかし、イスラム教徒のインド人には「金融」を、仏教徒の華僑には「商売」を、キリスト教に改宗させたカレン族には「軍事・警察」を担当させ、仏教徒のビルマ人は「農奴」として統治されるという珍しい多宗教多民族による分業体制の王朝だった(現在も続くビルマ人とカレン族との抗争は、この分業支配の歴史に起因するといわれる)……本来であれば、ビルマ王国の主体となるべきビルマ人が「農奴」の役割が主というような絶対王政では、国政が賢明な判断でいつまでも上手く回っていくとは考えられない。岩倉使節団を派遣した日本が日英同盟(1902年)に向かったのに対して、ビルマ王国全権使節団を派遣したビルマ王国は第三次イギリス=ビルマ戦争(1885-6年)の破滅に向かった。これには、こういう理由があったのです。
 岩倉使節団の帰国直後に起きた明治6年の政変(征韓論政変)で、万一征韓論者が勝利していたら、日本もビルマ王国と同じような道を歩んだかもしれない。 
(続)  
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2017年03月25日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 4 … 岩倉使節団が 目にした 沸騰間近のアメリカ

岩倉使節団の1871年11月〜72年11月岩倉使節団 米欧回覧日程 1 アメリカ製造業の中心地域アメリカ東海岸岩倉使節団が横浜港をアメリカに向けて出発したのは太陰暦では明治4年(1871年)の11月末(翌年末に太陽暦に変わった。太陽暦では12月末)。使節団を乗せたアメリカの太平洋郵船の外輪船「アメリカ号」のサンフランシスコ入港は23日後の1872年1月中旬。
 岩倉使節団の訪れた時、広大な国土を有するが、1776年の独立宣言からはまだ100年足らずの新興国で、徳川封建政権崩壊のキッカケとなった1853年のペリー来航から18年後だったアメリカは、どんな社会情勢だったのか?

   アメリカは約60万人もの死傷者を出した
南北戦争(1861-5年)が終了し、直後に16代リンカーン大統領が暗殺されてから6年程経っており18代グラント大統領の時代。
 戦場となった南部の首都だったリッチモンドなどは廃墟と化したが、戦争による軍需拡大で北東部の製造業は発展、アメリカ社会はようやく戦争復興が終わりつつあった。そして、戦災で目減りした国民を増やしたいアメリカは、ヨーロッパを中心に移民をどんどん受け入れていた。

   
南北戦争で廃墟と化した南部の首都リッチモンドアメリカ大陸横断鉄道(1869年)大陸横断鉄道の経路この頃には東部に住みつくだけでなく西部に向かう移民も増えており、“ビスマルク時代のドイツ”からも多くの移民がアメリカにやって来た。
 (バイエルン王国領に生まれた現
トランプ大統領の祖父も、兵役を逃れるべく16才の1885年に姉を追ってアメリカに移民し、後に西部シアトルに移って財を成すが、妻の重度のホームシックのため帰国を余儀なくされる。しかし、ドイツに帰ると兵役忌避者のレッテルを貼られ国外追放処分。結局アメリカに舞い戻ってニューヨークに住みついている)

   岩倉使節団が訪問する2年前の1869年には
アメリカ大陸横断鉄道も開通(同じ年にスエズ運河も開通し、世界一周は格段にし易くなっていた)。それまで数ヶ月を要したアメリカの東部と西部間の危険な移動が、1週間程の比較的安全な旅行に変わった(「列車の窓からバッファローが撃てる」が横断鉄道の宣伝文句。乗客には実際にバッファローを撃つ者が出て先住民と揉めた)。1860年代から1890年頃までが西部開拓時代と呼ばれ、西部劇に出てくるようなガンマンが闊歩した時代だったのです。

  
シカゴ大火(1871年)ボストン大火(1872年11月)1873年恐慌もちろん、岩倉使節団も大陸横断鉄道を利用してアメリカ東部に移動した。そして、岩倉使節団の訪問は主要都市シカゴで発生したシカゴ大火(1871年10月)のまさに直後でもあった。この大火からのシカゴ復興を契機に始まったエレベーターの実用化と超高層ビルの建設ラッシュ(1880年代)が、シカゴとニューヨークを中心に始まろうとする10年程前の時期でもあった。つまり、アメリカは国中あちこちに、社会を新しく前向きにより豊かにして行こうというエネルギーが渦巻き好況の時代だった。
 (さらに、1872年11月には
ボストン大火も発生。1873年には欧米同時に金融危機から2度目の世界恐慌である1873年恐慌が起き1876年までアメリカは不況となった。が、岩倉使節団は1872年8月初めにアメリカからヨーロッパに向けてボストンを出港しているから、この状況は目にしていない。最初の世界恐慌は1857年恐慌でアメリカでは南北戦争まで不況が続いていた)

現在のワシントンDC1861年のリンカーンの大統領就任式1865年2回目のリンカーン大統領就任演説 アメリカを訪問して大歓迎を受けた岩倉使節団は精力的にアメリカ国内を視察しながら、1ヶ月半程かけて2月末にワシントンに到着(日本文化に強い誇りを持って一人チョンマゲ姿で和装のまま日本を出発した特命全権大使の保守派で公家出身の岩倉具視も、アメリカ文明とその国力に直に接して圧倒され、封建的風俗の象徴とみなされていたマゲをシカゴで切って洋装となった)。
   ここで岩倉使節団は、明治政府の悲願であった
不平等条約の改正問題の交渉にも手を付けようとして、早速、欧米国際政治の洗礼を受ける……アメリカ側から「日本の国家元首である天皇の“委任状”は持っているのか?」と問われて愕然とする。
   ワシントン到着直後の“
大久保利通と伊藤博文の緊急帰国”は、天皇の委任状をいただいて来るためだった。大久保と伊藤は大至急で再び大陸横断鉄道を逆に通って帰国し、使節団への再合流には4ヶ月近くもかかった(手紙が届くのに2ヶ月程かかる時代。結果的に日本の「留守政府」の様子を見て来るには良いことだった)。

フィラデルフィア・ネイビー・ヤードフィラデルフィアボストン チャールズタウン ネイビーヤード 
 しかし、天皇の委任状を持ち交渉の体裁が整ったからと言って、それだけで不平等条約が対等なものになるはずもなかった。相手には「まず、欧米諸国に準ずる文明文化を持ち、国力を高めてから、対等であることを主張せよ」と言われるのが落ち。
 これ以降の岩倉使節団は、不平等条約の改正交渉は断念。日本の進むべき道を探るため、欧米諸国の社会の有り様の見学・視察に徹した。アメリカ連邦議会も何度も傍聴している。
 当時の軍備増強の要であった海軍基地は、最重要視察場所……フィラデルフィア・ネイビーヤードとボストンのチャールズタウン・ネイビーヤードは岩倉視察団も間違いなく訪れた場所。

1890年頃のNYの絵画1900年頃のNY市マンハッタン   近代アメリカ文明を象徴するものは、自動車や高速自動車網や超高層ビル群。しかし、T型フォードは1908年からの生産で、エンパイア・ステート・ビルは1931年の完成。

 だから、岩倉使節団がアメリカを訪問した時は、これらアメリカの繁栄を象徴するものはまだ無かったそれでも20世紀前半の欧米世界の大国になろうとアメリカは力強く成長を続け活力溢れる時期だったのです。   (続)
  
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2017年03月17日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 3 … 新生の小国・日本の 国家プロジェクトに格上げされた 岩倉使節団

大政奉還から西南戦争直前岩倉使節団の代表天皇を中心とした 明治新政府 明治新政府には、早い時期から保守派と開明派の対立があったといわれている。これに薩長土肥の藩閥による人間関係、人によっては血縁関係まで絡んでいた。
   そんな中でも「新国家の目指す方向を戊辰戦争で共に戦った功労者である薩長土肥の指導者を中心に皆で考えて決めて行こう」という共通認識はあった……開明派で長州閥の代表格・木戸孝允が取りまとめ、明治天皇が同意して誓文した五箇条の御誓文の第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の精神です(使節団出発前の木戸孝允は“共和国”を理想の国家像と考えていたらしい)。

   そして、まず薩長土肥の指導者たちが一体化するためには障害となる「旧藩主」を「公家」と一緒にして「華族」に持ち上げて実務から名実共に引き離し“天皇を直接に戴いた薩長土肥の指導者たち”で政策を決定し実施して行く政治体制を立ち上げようとした……そうなるために打った手が版籍奉還であり廃藩置県、さらに官制改革であり兵制統一(海軍は英国式に、陸軍はフランス式に統一)だった。

出発時の岩倉使節団岩倉使節団 米欧回覧日程   新政府の組織づくりの次に必要だったのは「どんな国にしたいかなりたいか」という新国家の国是への共通認識を持つこと……これは最重要なことだから、現実味の無い空論ではいけない。現世界の様々な国の状況を実際に自ら見聞きして来た上で議論を深めて皆で決定するのが最良。開明派は、このプロセスが是非とも必要、と主張。

 開明派で肥前閥の大隈重信による発案では小規模な使節団の派遣ということだったが、保守派で公家の岩倉具視は、派遣するからには確実に実を結ぶような意義のある使節団にすべきとし、明治新政府の悲願となっていた徳川幕府が結ばざるを得なかった不平等条約を対等な条約に結び直すための下打合せをすることも使節団の目的に加えて、ようやく実現することになった。

   この結果、右大臣の岩倉具視を特命全権大使とし、明治新政府の首脳である参議の木戸孝允と大蔵卿の大久保利通(保守派で薩摩閥)を副使とする、使節46名・随員18名・留学生43名の総勢107名の大使節団となった。明治初めのこの時期では、国家プロジェクトというべきメンバーと規模で、日本に残った政府は「留守政府」と呼ばれた程。注目すべきは、使節46名中13名という“旧幕臣”の多さ……彼ら旧幕臣出身者は、すでに幕臣の時に留学・外交交渉の経験を積み、海外情報も多く持ち合わせた有能な人たちだったらしい。
   留学生の中にも、津田塾大学の設立者となった津田梅(8才)や自由民権運動の指導者となった中江兆民(25才)や三井財閥総帥となった団琢磨(13才)らの有能な若者がいたのです。  (続)
  
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2017年03月09日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 2 … 幕末から明治維新の頃の 欧米の情勢

普墺戦争普仏戦争ドイツ帝国ドイツ帝国時代のプロイセン王国領 幕末から明治初期の頃の欧米の社会情勢を見てみる……1853年と翌54年の黒船来航で徳川幕府を大きく揺さぶったアメリカは南北戦争(1861-5年)とそれからの復興で海外に目を向ける余裕など無い状況だった。
 一方、ヨーロッパでは目を見張るような大変化が起きていた。小国の一つと思われていたプロイセン王国の躍進だった。
 ドイツ連邦を脱退したプロイセン王国とドイツ連邦の盟主オーストリア帝国間の普墺戦争(1866年6-8月)で、プロイセン軍はわずか7週間でオーストリア軍を蹴散らし降伏させた。
 それから4年後、プロイセン王国は今度は第二帝政期の大国フランスとの普仏戦争(1870-1年)でも圧倒的勝利。プロイセン軍はナポレオン3世を捕虜にして、わずか5ヶ月でパリを占領。プロイセン王は1871年にヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝としての戴冠式を盛大に執り行って、フランス人の反独感情を逆撫でするという勇み足までしたのです(私のブログ2015年9月8日分を参照ください)。

ビスマルク、モルトケドライゼ銃捕虜となったナポレオン3世とビスマルク(右)   “政治のビスマルクと軍事のモルトケ”という二大偉人がいたプロイセン王国が、小国の一つからドイツ民族の盟主国となり、さらにヨーロッパの強大国にのし上がるという痛快な姿は、明治新政府の目指すべきお手本と見えたことは想像に難くない。

   木戸孝允や大久保利通や岩倉具視や伊藤博文たちは日本のビスマルクたらんとし、大村益次郎や大山巌や西郷従道や山県有朋たちは日本のモルトケたらんとしたのではないか。西郷隆盛は、この海外を見る目がアジア止まりで欧米までには至らなかったのだ、と私には思える。

   で、プロイセン軍は何故ここまでに強かったのか?
進軍する歩兵普墺戦争 オーストリア軍(左)とプロイセン軍(右)匍匐前進する歩兵 まず第一に、プロイセン王国が秘密裏に開発していた戦争史を変える革命的な歩兵銃「ドライゼ銃」の装備があったから。
 この銃は「目立つ華やかな軍服を着て、隊列を組んで歩いて敵前を進軍し、一斉射撃してから銃剣突撃する」歩兵を「目立たない汚れに強い軍服を着て、腹這いで身を隠して、迅速に繰り返し射撃しながら匍匐前進する」歩兵に大転換させた……弾薬の装填が銃口(前装式)から銃尾(後装式・ボルトアクション式)に変わり、しかも紙製薬莢(弾丸と雷管と黒色火薬が一体化した物)の発明で容易に装填ができるようになった。つまり、装填から射撃までの一連の動作が腹這いのままで簡単に格段に早くできるようになったのです。

 モールス電信機元プロイセン王国鉄道 機関車プロイセン東部の鉄道主要路線次に有効だったのが、電信技術(モールス電信機等)や鉄道技術などの「新技術の軍事利用」……モールス信号で瞬時に作戦伝達し、国内に張り巡らした鉄道網を走る蒸気機関車で徴兵された兵士の集合や部隊の移動展開を圧倒的に早くできた。これらの「新技術の軍事利用」はプロイセン王国に限られたことではなかったが、軍部に“参謀本部”を設けていたプロイセン王国ほど意識して積極的に行った国はなかった……この時期まではプロイセン王国以外に参謀本部を持つ国は無かったのです。

 この新旧のスタイルの軍隊がぶつかると、どうなったか?
普墺戦争の戦力・死傷者数普仏戦争の戦力・死傷者数 普墺戦争と普仏戦争における双方の戦力・損害を比べると、新スタイルのプロイセン軍の損害に対し、旧スタイルのオーストリア軍とフランス軍の受けた損害の大きさに驚く。

   明治4年(1871年11月)から明治6年(1873年9月)までの2年近くにもわたる岩倉使節団(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など明治政府首脳や留学生を含む総勢107名)は、この時代の欧米の社会情勢を現地に足を運んでつぶさに見聞きしてきた……このように真摯に学び、自ら考え、進むべき道を模索した国など世界史上にも無かったこと。
   「今の日本には、教育制度を整え、鉄道を敷き、工業を興し、軍制・軍備を整えるなどの社会の欧米化が急務である」ことを議論しながら帰国してみると、「留守政府」の西郷隆盛たちの唱える征韓論には驚き呆れたでしょう。

岩倉使節団から帝国議会まで   アジアまでしか見ない者が、“藩主に仕え守るという300年来の存在目的が消失したまま社会に放り出される形になっていた全国の約40万戸約189万人の士族を生かす方策を真剣に親身になって取りこぼしのないように考えると、抜本的な変革などできず、こういうようなことになってしまう……これでは300年前近世の豊臣秀吉と変わらない。

   帰国直後の明治6年の政変(征韓論政変)で、征韓論に組した西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、江藤新平たち明治政府首脳であった参議の約半数が下野。そして、官僚や軍人も約600人もが辞職するという大騒動になった。この政変で武力行使がなかったことは賢明で日本にとっても幸せなことだった。「留守政府」に対してブレーキ役だった明治天皇の最終判断も下されたのでしょう。
   もし、この時点で征韓論が勝利しそれを実行に移していたら、清国も欧米列強も黙っていなかっただろうし、日本はとんでもないことになったと私は思う。 (続)
  
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2017年03月04日

明治政府は 何故 士族を見捨てたか? 1 … 関ヶ原の戦い と 長州奇兵隊 そして 戊辰戦争 と 日本陸軍

長州奇兵隊19世紀のアメリカの捕鯨 幕末の幕府や雄藩の武士階級には、清でのアヘン戦争(1840-2年)・アロー戦争(第二次アヘン戦争1856-60年)の情報は入っていた……現状のままにとどまっていれば日本も欧米列強の餌食となって植民地にされかねない、という焦りと苛立ちを伴った認識が多くの武士にはあったのだ、と想像する。
 雄藩の武士階級には、これを避けるためにはまず天皇から征夷大将軍として任命されている立場の徳川氏から政権を取り上げ(倒幕)、天皇の下に一つにまとまる必要がある(尊王、王政復古)。そして悪意の欧米列強が日本に来れば力尽くでも追い払わなければならない(攘夷)、という考えが主流だった。
 しかし、長州藩の下関戦争(1863年5月、1864年7月)と薩摩藩の薩英戦争(1863年8月)で、雄藩の武力をもってしても攘夷は難しいということを思い知らされた。
 さらに、代々安定した暮らしを送ってきた保守的で行動力に欠ける上級武士層は、軍備と組織力と戦略がものを言う凄惨な近代戦には全く役に立たないことも明白になった。“上級武士層の公家化”の現実を見せつけられたのです。

 戊辰戦争戊辰戦争での長州奇兵隊(木戸孝允・伊藤博文・町人も混じる)奇兵隊の内訳会津戊辰戦争終結の地この後の雄藩の意欲的な武士たちが目指したのは、軍備増強倒幕運動。そして、1866年の薩長同盟と1867年の大政奉還の後、薩長土肥の雄藩の武士を中心とした明治政府軍(官軍)と旧幕府軍が雌雄を決すべく戦った戊辰戦争(1868年1月-1869年6月)は、勝つも負けるも武士階級あるいは士族にとっての“最後の花道”のような戦いだった。

 この戦いの中で異彩を放った部隊が、下関戦争後に高杉晋作(1867年に27才で病死)が自由意志による志願で編成した長州奇兵隊(「奇兵」とは、正規の武士の「正規兵」の反対語。ただし、長州藩の正規常備軍だから「民兵」ではない) ……先祖代々の身分制度にとらわれない考え方を理解する武士層と農民と町人から神官・僧侶までを含んだ混合編成部隊で、武士とそれ以外の者はほぼ半々。全員隊舎で共に起居し医師・蘭学者・兵学者の大村益次郎の下で訓練を受けた部隊で、戊辰戦争での長州藩兵の主力となって戦ったのです。

 それにしても、武士以外の身分の者の藩や藩主への忠誠心は乏しく期待もされていなかった時代に何故長州藩に奇兵隊が編成され得たのであろうか

司馬遼太郎『街道をゆく 芸備の道』   これに関しては、司馬遼太郎が『街道をゆく 芸備の道』で説得力のある説を述べている……「長州奇兵隊成立の根源は関ヶ原の戦いにある」というのだ。
   関ヶ原の戦いで敗者となった毛利氏は、山陰・山陽140数万石から長門・周防39万9千石に転封させられた。毛利氏は1/3以下の石高の領地となったにもかかわらず、その時“一郷団結”を謳っていた配下の武士のほとんどが萩に移住したという。こうなると、禄をいただけなかった多くの下級武士は、山野を開墾して百姓になるしかない。つまり長州の百姓の多くが、元は毛利氏の山陰・山陽時代の武士だった。百姓を250数年も続けてきても武士と同類意識が残っていたのです。だから、高杉の志願兵の呼び掛けにここぞとばかりに応じる百姓がそれなりの数に上った。これが司馬説(かの伊藤博文も、見込まれて武家の養子に入っていたが、元は貧農の出)。

靖国神社靖国神社に立つ 大村益次郎像大村益次郎像 この後の戊辰戦争で、大村益次郎は官軍の長州藩兵を指揮し、明治政府の兵部省の初代大輔(次官)を務めて、明治政府の庶政全般最終決定責任者・木戸孝允による庇護の元で事実上の日本陸軍の創始者となった……このことは靖国神社の敷地構成を見てもよく理解される。
   結果的に、大村益次郎の戊辰戦争までの知見と実戦経験が「国民皆兵を謳った徴兵制の制定」への道を開き、“士族を見捨てて消滅させるような政策”になった。その大村益次郎の思考を追ってみたい。   (続)

  
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2017年02月27日

明治政府の 士族消滅政策は 元士族の多くの家に 数世代の混乱をもたらしたのではないか

 私の義父母の三代前(曽祖父)までは徳川の幕臣で旗本・御家人だった。しかし、明治維新後の二代前(祖父)は典型的な「士族の商法」で苦難の道を歩むことになってしまった。
   その反省から、一代前(父)は末永く必要とされる職業と思われる「足袋職人」の道を歩んだ。義父の父は足袋職人として人生を全うし、義母の父は「新富町 大野屋」から暖簾分けしてもらい「溜池 大野屋」の看板を掲げて功成り遂げた。

   足袋職人だった義父の父は、大学に進む息子の義父自身に職業の選択を任せ、義父は銀行員の道を選んだ……義父の家では明治維新から80年程経ったこの世代に至ってようやく混乱が治まった、と言えた。
   一方「溜池 大野屋」の主人となった義母の父は、義母の男兄弟に家業を継がせ暖簾を守ることを託した。そして戦後に義父が戦場から復員すると、義父母の親同志が話し合って当然のように義父母を結婚させた。
 結婚した義父母は、戦後復興とそれに続く経済高度成長の中で苦労はあったとしても順調な人生を歩んだと思う。
 しかし、「溜池 大野屋」の暖簾にこだわった義母の実家の方は、予想もしなかった“足袋需要の一気の消滅”で大変な苦難の道を歩むことになった。需要が無くなれば、並大抵の工夫や努力で状況が好転するものではない……誇り高き「足袋の溜池大野屋」は、扱う商品を広げるうちにただの「洋品の大野屋」ということになった。こうなれば、普通の洋品屋と何ら違わない。そして、業績はますます細って行き、ついには消滅(義父母の父たちが「足袋職人」ではなく、例えば「豆腐職人」とか「家具職人」のような廃れない道を選んでいたら、また違う展開があったのだろうと思う)。

明治時代の反乱西南戦争(明治10年、1877年) 義母の実家の男兄弟は「溜池 大野屋」の将来には早い段階で見切りを付けていて、次世代は教員と大企業サラリーマンになった……義母の実家では明治維新からの混乱は義父の家より一世代長引いた、と言えた。

 明治政府が士族を見捨てたとも言えるような政策を行ったことによってこのような混乱が数世代にもわたって起きた元士族の家は日本中に多かったのではなかろうか、と思うのです(私の2017年2月7日のブログ参照)。

   それにしても何故、国内各地で頻発した士族の反乱にもかかわらず、明治政府はこのような強引な政策を断行したのだろうか? (続)

  
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2017年02月25日

足袋は ぬかるみ・下駄 と共に 消えた! … 団塊世代は 日常的に足袋を履いた 最後の世代

福助足袋のロゴマーク白足袋紺足袋 団塊の先頭世代で瀬戸内の備後地方の町に生まれ育った私は、いつまで足袋を日常的に履いたかを、何故か鮮明に覚えている……私は小学2年生(1956年)まで冬の寒い時期は母が用意してくれた足袋を履いていた。靴下ではなかった。冬を除くと素足だったが…。同級生の多くが同じようなものだったと思う。
 その頃は「福助足袋のロゴマーク」も身近にあふれていた(福助足袋は足袋用ミシンを開発して足袋の工場制機械工業化を成功させていた)。足袋の爪(こはぜ)をはめる時の足への感触も懐かしい。

 学校には素足にズック靴で行った。寒くなると足袋を履いてからズック靴だった。校庭などを走り回るにはズック靴は具合が良かったのだ。
 それでも、家ではズックを脱いで下駄を履いた……素足に下駄の鼻緒(花緒)と下駄上面の板のカラッとした感触は清々しくて気持ちが良かった。全力で走り回ろうと思ったら、下駄を脱いで手に持って裸足で走った。足袋を履いて下駄を履くと走り回るには不便だったが、それでも特別問題はなかった。

下駄・草履 と 足袋下駄ぬかるみには下駄 それに、雨で道がぬかるんでいたり水たまりだらけの時にはズック靴はすぐ泥だらけになってダメ下駄は歯があるからぬかるみを歩いても足は汚れずに済んだ(隣の松永の町は日本有数の下駄の産地だった)。
 明治の冬の庶民の子供たちの普段着の写真を私たち団塊世代の子供時代の様子と比べてみると、さすがに私たちは着る物は洋服だったが、男子の坊主頭と女子のオカッパ姿と足首から下は地面を含めて全く同じ……少なくとも100年近くは、日本の子供たちの頭と足元の状況には変化が少なかった、ということがわかる。

 私は小学3年生の時「もう、この方がええじゃろ」と足袋に替えて靴下を母から渡された。 
 何故そうなったかを考えてみると、下駄を履かなくなったあるいは履く必要が無くなったから。その理由は、ぬかるんだ道が少なくなったから……下駄を履くには、靴下では鼻緒(花緒)がつかめず具合が悪かった。それが道の舗装が進んで、ぬかるみが少なくなったので下駄でなくても足元が汚れにくくなったのです。
   そして、舗装されて固くなった道を下駄で歩くと、下駄は堅いので反発がもろに足に伝わって不快だった。つまり、舗装された道には弾力のある履物の方が具合良くなったのです。
 下駄を履かなくなれば洋装に合わせて足袋より靴下の方が良いし値段も安いし履くのが簡単だし、ということになったのだと思う。

七五三七五三 洋装 足袋から靴下に変わるという変化は一気に進み、日本人の日常から足袋は姿を消していった……道の舗装は、日本中で同時進行していたからだ。そして、今や家を出て帰宅するまでにどれだけ舗装していない土を踏むだろうか?全く土は踏まなかった、という日も結構多いのではなかろうか。
 小学3年生以降に私が足袋を履いたのは、茶室の設計ができるようになりたいと茶道を勉強していた期間だけ。団塊世代以降で足袋を履くのは、和服を着るような非日常の時だけでしょう。七五三の子供も洋装ですることが増えているように思う。

左足の足袋が 新富形   こういう状況だから、廉価な大衆品の足袋を大量生産して売っていた「福助足袋」はついに倒産。何とか会社更生法が適用され存続はしているが、ほとんど社名を目にすることはない。
   一方、手作り高級足袋にこだわった「新富町 大野屋」の方は、暖簾分けした大野屋は消滅の憂き目を見たが、本店だけは見栄えと履き心地の良い新富形足袋で、かっての華やかだった伝統文化をかろうじて今も静かに守り続けている。私の義父母の父たちのように足袋職人を志す者などは、もう滅多にいないと思うが。
 足袋の需要がここまでに細ってしまえば、こういうことになるのも仕方がない。

  
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2017年02月23日

何故 消えた? 「士農工商」 7 … 末永く 世に必要とされる 職業か? 

新富町 大野屋銀座 歌舞伎座前の大野屋新富町大野屋 私の義父母の一代前(父・1890年前後の生まれ)たちは、歌舞伎や日本舞踊や茶道の関係者が愛用する「足袋の大野屋」の同輩の弟子として世に出た“同じ釜の飯を食った職人仲間”。

 この時、すでに日清戦争(1894-5年)も日露戦争(1904-5年)も終わっていたから、兵役には数年取られただろうが戦場に出ることもなく職人修業に励めた。

大野屋の足袋職人たち 番頭さん(ひょっとすると義母の父か?)と思しき人がオートバイにまたがっていることから大正時代と思われる大野屋の何らかの記念写真を見ると、家の大きさは一般の民家並みであることや関係者10人という人数から、典型的な家内制手工業。数を追わず質にこだわって「高級手作り足袋」を世に出す商売をしていたらしい様子がうかがえる。写真左手前列の房付き羽織の人たちは大野屋主人と先代でしょう。
 この写真から少し後に起きた1923年の関東大震災で、大野屋の環境は大きく変わる。
 直ぐ近くにあった新富座が被災。再建されることなく、そのまま廃座になってしまう。この後は、歌舞伎公演は木挽町(現在の東銀座)に1925年に完成した第3期歌舞伎座(構造設計は東京タワーで有名な内藤多仲。構造躯体完成直後に襲った関東大震災に耐えたことから内藤の出世作となった)の方に移ったのです。そこで、大野屋は“上得意の直ぐ近くに店を構えている”という有利さを保つため、歌舞伎座近くにも支店を出す。この条件は今も変わらず維持している。

歌舞伎座交差点に東銀座 大野屋東銀座 大野屋歌舞伎座 1歌舞伎座 2歌舞伎座 3 で、義父の父は生涯「新富町 大野屋」の足袋職人に徹し、ぜいたくはできなかったが食うことに心配はなかった。
   義母の父の方は番頭に引き立てられ、震災後に“暖簾分け”されて「溜池 大野屋」の屋号を名乗り、職人の世界で功成り遂げた……義父母の父たちの人生は「士族の商法」と呼ばれて苦しんだ先代たちの反省が、確かに生かされた。

 しかし、選んだ職種「足袋屋」は見込んでいたように“末永く世に必要とされる職業だったのか?   (続)
  
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2017年02月22日

何故 消えた? 「士農工商」 6 … 商人 から 職人 へ

明治の大野屋総本店新富座(築地橋の北)と歌舞伎座(左下)築地橋から見た新富座東京名所之内 第一の劇場新富座 典型的な士族の商法で散々な目に遭った私の義父母の二代前(祖父・1860年前後の生まれ)たちは、商売の難しさを痛感した。そして、次の世代には自分たちが味わったような苦労はさせたくない、と両家とも同じように考えた。
 そこで、彼らが私の義父母の一代前(父・1890年前後の生まれ)たちのために選んだ道は、末永く世に必要とされる職業の優れた職人の元に弟子入りさせること。つまり、商人ではなく職人になることだった。
   で、自分たちの日常を見回して「これだ!」と考えたのが「足袋」。
 「足袋」がほぼ現在のような形になったのは江戸時代の元禄期(1688-1704年)だったが、履くのは秋冬だけ。薄地の夏足袋がつくられて武家や町人が年中履くようになったのは、ようやく宝暦(1851年)頃から。農民も含めて年中皆が足袋を履くようになったのは、実は明治以降。このように、足袋の普及は案外遅かったのです。

明治の庶民の子供たち 明治初期は地下足袋も考案されて、「足袋は国民的生活必需品になったばかり。だから、二代前たちが「足袋職人になれば、そう簡単には食いっぱぐれない」と考えたのも無理はなかった……では、足袋職人になるとすると、次の代の者をどこに弟子入りさせるか?
   自分たちのように、時代のイタズラで無理やり「にわか商人」にさせられて苦労するのはもうゴリゴリ。しかるべき所で、みっちり鍛えてもらい「腕の良い職人、さらには親方(経営者)」になってほしい、と願って探し当てたのが「新富町 大野屋」……先祖は旗本・御家人だった私の義父母の一代前たちの人生が、この場所で“同輩の弟子”として交錯した。

中央に助六の黄色い足袋助六の新富形の黄色い足袋   大野屋は黒船来襲の4年前の1849年(武家や町人が年間を通じて足袋を履くようになった頃)から代々新富町で足袋を作っていた。
   明治の世になって幸運にもこの地に歌舞伎の守田座が移って来て新富座と呼ばれるようになった。新富座は、明治11年(1878年)に焼失から近代的劇場に再建されると、明治中期に起きた演劇改良運動の中心地として大いに賑わった。
 そして、大野屋はご近所のよしみで、新富座の歌舞伎役者たちから足袋の注文を受けるようになった。この時、大野屋5代目福太郎が創り出した足袋は大好評。「新富形の足袋」と呼ばれるようになり、九代目市川團十郎を始めとして多くの歌舞伎役者を上得意とするようになった……足が細く小さく見えるように底を狭くとり爪先をふっくら丸く仕上げた足袋は、見栄えと履き心地の良さで有名になり、「大野屋」は東京の先端的な足袋屋になっていったのです。  (続)

  
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2017年02月18日

何故 消えた? 「士農工商」 5 … 「士族の商法」 の典型

士族の商法 「士」は江戸時代の何世代にもわたって「剣術と学問修業に精を出せ。蓄財などはもっての外」という教育を受けてきた。蓄財を成せば現世に執着心を抱いて、武士の本懐を遂げる時の邪魔になる。だから、家禄は一年のうちに使い切ることをよしとした。そして、主君に仕え粗相さえしなければ一年後にはまた家禄は貰えた……このような価値観と人生経験の誇り高き支配階級「士」の中でもエリート中のエリートだった「旧幕臣」たちが主君の徳川慶喜から離れ、つまり士族の身分と家禄を捨てて、商売のイロハも知らずに東京に残って急に「商」になっても上手くいくはずもなかった。
   私の義父母からは「二代前(祖父・1860年前後の生まれ)たちは、とにかく士族の商法の典型で何の商売をやっても上手くいかず大変な苦労をした」としか聞けなかった。

   その「士族の商法」とはどんなものだったか。
   まず、客が欲しい物・喜ぶ物を売ろうとするよりも、不要になったかっての貴重品を売ろうと古道具屋になる者が相次いだ。しかし、蒔絵の膳・椀・箪笥・長持などの豪華な生活道具や鎧・槍・薙刀などの武具は「士」が消滅した世で売れるはずもなかった。
   次に、人通りの多い場所で簡単に作れる食べ物なら売り易いだろうと考えて汁粉屋・団子屋を始める者も多かった。しかし、原料の米は家禄として毎年いただくばかりの人たちだったから、米の値段もろくに知らない。接客も武家風・旦那風が抜けなかったり、逆に馬鹿丁寧過ぎて何とも不自然だったりした。これでは、既存の叩き上げの「商」に敵うはずもない。
キムラヤのパン 銀座本店   運良く財力に恵まれていた高位の旧幕臣には小金貸しを始めた者もいた。接客は武家風・旦那風でも然程違和感のない職種だったが、小金なら良かろうと誰にでも貸したから直ぐ返済の滞る者が相次いだ。そうなると、取り立て能力がないので貸した金は踏み倒され瞬く間に立ち行かなくなった。
   この他に、米屋・酒屋・蕎麦屋・薪炭屋などを始める者も多かったが、同じような状態で99%が瞬く間に失敗したといわれる。

 数少ない成功例のひとつは「アンパンのキムラヤ」……最初、パンはなかなか売れなかったが“大福”をヒントにアンパンを考案して大ヒット。新しく菓子パンのジャンルを切り開くことになった。このような創意工夫がないと「士」がにわかに「商」になっても成功はできなかった。
   そのキムラヤも近年は業績不振といわれている。商売というものは、アンパンだけに胡座をかくことなど許さない、難しいものなのです。 (続)
  
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2017年02月14日

何故 消えた? 「士農工商」 4 … 旧幕臣 が迫られた 三つの選択

旗本退屈男徳川旗本八万騎の家紋本多家 明治9年の士族の俸禄廃止によって、士族(明治9年時点で士族約40万戸・人口約189万人・総人口の5.5%)の7割近くが、早くも明治15年頃には没落して生活苦に陥ったという。
 この士族の中で明治政府から最も厳しく扱われたのが、当然ながら多くが江戸・東京に住んでいた旧幕臣(約5.000戸・約23.600人)と、戊辰戦争で最後まで抵抗した旧会津藩士(約2.800戸・約17.300人)だった。
 明治初期の士族の没落劇に巻き込まれた人たちは、その後どのような人生を経て現代に至っているか?……23万石だった会津藩は3万石に減封されて、極寒痩せ地の下北半島の斗南藩に移封されたが、実際の石高は7千石少々にしか上がらず生死を彷徨うような大変な目に遭わされた。
   旧幕臣も旧会津藩士程ではないが、苦難の道を歩まされた。その具体的な実例が私の身近にあるので、そのことを記してみたい。

半蔵門外 麹町 その実例とは、今は亡き私の義父母……共に三代前(曽祖父・1830年前後の生まれ)までは幕臣の旗本・御家人。『旗本退屈男』などの映画に見られるような優雅な身分だったでしょう。

 義母の先祖は、かっては大名だった家系の名門の旗本で、溜池の近くに住んでいた。義父の先祖は、そこまでの名門ではなかったようだが、それでも関東大震災前までは代々江戸城の半蔵門傍の麹町に住んでおり、徳川家に万一のことがあれば直ちに駆けつけるような御家人の身分だった。

溜池 戊辰戦争を経て、その義父母の三代前と二代前(祖父・1860年前後の生まれ)の世代が、薩長土肥の藩閥を中心とした明治政府から厳しい選択を迫られた……明治政府の官吏、すなわち幕臣から「朝臣」に替わるか、800万石をわずか70万石にまで減らされて静岡に移封された徳川慶喜に随って誇りを保ったまま静岡に「無禄移住(実際には、雀の涙のような禄が出た)」するか、あるいは士族の身分を捨てて東京に残り「商人か職人になる」かであった。

   「朝臣」となれば安定した生活が約束されたが、後ろめたさが付いて回る。この選択をした旧幕臣は千戸に1戸程度と極めて少なく、家禄千石以上だった旗本に5戸くらいあっただけ。
   逆に「無禄移住」すれば先祖代々からの誇りを守り続けられたが、厳しい生活が待ち受けていることは容易に想像できた。それでも、この選択をした旧幕臣家族は約3.200戸・15.000人程もいて最多の選択だったというから驚き。

日本一の茶処・牧之原台地   果たして移住後は、薄給で徳川家のお傍でお守りしている気持ちだけでは、ひもじい上に将来も見えず死ぬほど暇。いつか攻めて来ると思われた明治政府軍もその様子はない……明治2年になると、荒地だった牧之原台地を開墾しようという者たちが現れる。そして徳川家の許しを得て200戸程の家族が士族の身分を捨て、この地の気候に合った茶の生産を始めた。この動きに台地の直ぐ下を流れる大井川の架橋によって職を失った川越え人足たちも、茶の生産に合流。
   もともと旧駿河国では戦国の今川氏時代から御用茶の栽培が行われており、江戸末期には全国で第3位のお茶生産地だった。これが明治中期にはお茶の優良種やぶきたの発見と輸出振興(海外でのお茶の評判を知っていた勝海舟の進言)と機械化(お茶の葉の蒸し機や荒揉み機の考案)もあって静岡は全国第1位のお茶生産地となった。
 そして、今や全国で生産されるお茶の7〜8割が「やぶきた」種……「お茶の名産地静岡」は、徳川幕府崩壊の副産物だったのです。

   一方、私の義父母の三代前と二代前は共に士族の身分を捨てて東京に残り「商人になる」道を選んだ。こういう旧幕臣家族は約1.800戸・約8.600人程いた。静岡に「無禄移住」した旧幕臣に比較すると中下級武士に多かったといわれる。
 そして、彼らは絵に描いたような「士族の商法」を実践したらしいのです。
   (続)  
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2017年02月07日

何故 消えた? 「士農工商」 3 … 「廃藩置県」 と  「士」の処遇

 日本史の教科書の歴史を見てみる。
 
まず、欧米の近代教育制度が導入され明治5年(1872年)に「学制」が発布された。そこでの教科書とされた物は、かっての寺子屋の往来もの(平安末期から明治最初期までの庶民教育の初等教科書の総称)や藩校の漢籍、さらには舶来の教科書の翻訳ものなどで特に基準はなかった。

明治7年 改正略史明治8年 日本略史 この時期ようやく近代教育機関としての体裁を整えつつあった文部省も、明治初期には緊急に重要であるにも関わらず、教科書とすべき物の無い“
天皇を中心とした日本の歴史”の作成に取り掛かっている。『史略』(明治5年)や『改正 史略』(明治7年)や『日本史略』(明治8年)などがそれで、皇国日本は古事記と日本書紀に基づいて神代から人代の初代・神武天皇からの122代にわたる天皇歴代史だった。

 そして、この時点では「江戸時代には士農工商という身分制度があった」との記述はまだなかったのでは、と思われる。何故なら、わずか数年前までの自分たちの生活のことに事実と異なる教科書の記述があれば、意義を唱える人たちが大勢いただろうから……「商人が百姓より身分が低かったなんて、そんなことはない!」と多くが言ったでしょう。
   「士(武家屋敷に住む人たち)」を除けば、明治10年足らずでは、まだ「農工商(村や町に住む人たち)」たちは江戸時代と何ら変わらぬ暮らしを続けていた。

明治10年代の東京の殖産興業・富国強兵の様相明治期の東京の様々な工場北海道の屯田兵村の配置   それに対して、大変なことになってしまったのは全国に約40万戸人口約189万人いたといわれる支配者層の」の方(明治初期の日本の推計人口は3480万人。士族人口は約5.5%)。
 明治維新後も江戸時代からの家禄は維持されていたが、早くも明治4年の「
廃藩置県」で華族とされていた知藩事(明治2年の版籍奉還で旧藩主は非世襲の知藩事となった)は東京に住まわされ、旧藩とは原則無関係の出自の県令が明治政府から派遣されて来た。そして、明治6年には国民皆兵の徴兵令が出された。
 こうして士族とされた旧藩士たちは、独占してきた政治・軍事の権限を失ったうえ親代々受け継いできた家禄を貰う根拠がなくなった。つまり、職と収入を一挙に失ったのです。

西南戦争(明治10年、1877年)   金禄公債証書この「士」の不満を抑えるため、
明治政府は明治9年に家禄に応じて金禄公債を与えて棒禄制度を廃止……世界史的に見ても、支配者層が自らの重大な既得権を、各地で反乱があったとしても、最大の抵抗が西南戦争程度で返上した、という出来事は珍しいことらしい。
 確かに大変な荒療治。明治政府は職業選択の自由を薦め、士族向けの授産事業も行い、屯田兵制度による北海道開発などに力を入れたが、焼け石に水。明治15年頃になると、士族の9割程は金禄公債を糊口をしのぐために売却してしまっていたらしい。そして、
没落士族といわれる者は士族の2/3にも上ったといわれる。

 そもそも明治最初期の士族は、何代にもわたって「剣術と学問に精を出せ、算盤や家事には目をくれるな!」と言われて教育され成長した男性たちの家族の集団。この集団の価値観は「武士の本分に関わることがあれば、潔くこの世に別れを告げられること」……だから、「商」のように蓄財することなどは御法度。財を成せば、この世に執着心を抱くことになるから。だから、家禄は一年のうちに使い切ることをよしとした。使い切れば粗相をしない限り、翌年になれば家禄をもらえた。ただし、現実は一年経たないうちに、家禄は無くなることも多かったのだろうから世話は無い(「工」の「宵越しの金は持たない」という気風の良い気性とは異なった。「工」は、稼いだ日当を気前良くその日のうちに使い切ることをよしとしたのです)。
   この集団は、面目が立って目先何とかなりそうな条件を獲得できれば、それで矛をおさめるような世間知らず……俸禄制度を廃止されて、上手く生活を維持していくことは難しかったのです。  (続)
  
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2017年01月31日

何故 消えた? 「士農工商」 2 … ともに消えた 「四民平等」

江戸時代の身分制度 江戸時代の身分制度「士農工商」が見直されるようになったのは、1990年代からだそうだ。徳川幕府が崩壊してもう120年以上も経っていたが、やはりこの身分制度説を怪しむ歴史家もいたのです。
 実証的研究がなされた結果、江戸時代には士農工商と表現される身分制度や上下関係はなかったとされ2000年代に入ると士農工商の記述は学校教科書から姿を消した
 そして、江戸時代の「士農工商」という身分制度が否定されると、同時に明治時代の四民平等も教科書から除外された……そもそも、江戸時代の「四民」間に「士」と残り「三民」の間に身分の違いがあったとしても、「三民」の間に身分差がなかったのなら、これは当然なこと。
   それにしても、何故江戸時代には士農工商という身分制度があったことについ20年程前までなっていたのであろうか?常識的には徳川幕府を倒した明治政府が怪しいが、その意図は何だったのか?

農作業慶安の御触書   私たちは小学時代に「士農工商」をどう教わったか?
   まず、江戸時代の主な職業は「士農工商」に分類され、権力や武力を一手に握り社会を支配する「士」が身分最上位。辛い重労働の農作業を耐えて社会の基本財である米を作ってくれるが、経済的に恵まれ難い「農」が(名誉の)身分第二位。才覚と忍耐力と運があれば、ウッカリすると経済力で「士」の立場を脅かしかねない「商」は卑しい業の者として(戒めの)身分最下位。残った「工」が残りの身分第三位、というような解説だったと思う。

   もしこの身分制度が実態なら、「農」は身分第二位らしく扱われ“豪農”でなくとも経済的にもっと恵まれる社会的な仕組みがあってしかるべきだったのでは?あれだけ徳政令を発しながら身分最下位の「商」の隆盛を抑えられなかったのは何故?そもそも、最下位の「商」で“豪商”なんておかしいではないか?第三位の「工」には“豪工”とか“豪職”とかいう範疇なんて無いのに。そして近世の身分制度なのに、こんなにも宗教的価値観が入らないものだろうか?現代人の目で見ても、経済的裏付けが何もなくて“名誉や戒め”程度で身分制度を永く維持できると、支配者「士」は考えたのであろうか?……いま思えば、次々に疑問が湧いてくる。

 江戸時代に身分差のあったのは農工商の間だけで、「農工商の間には身分差は無かった住む場所が村と町という違いだけ、と現在ではとらえられている。
   そもそも士農工商というような職業を表す表現が適切でない。「武家屋敷に住む人=武士」「村に住む人=百姓」「町に住む人=町人」というように住む場所で身分を分けて、「百姓と町人」には差を付けずこの上に「武士」を置いたのです。
 
歌川広重『木曽海道六拾九次の内 加納』 「武士」の華である大名行列の例を挙げると、「百姓と町人」は自らの領主の公の外出である大名行列に出会うと、道の脇で土下座しなければならなかった。歌川広重『木曽海道六拾九次之内 加納』にそういう場合の様子が描かれている。平城の加納城から出てきた城主の行列を街道の茶屋近くの「町人」のような旅人二人が土下座で迎えている。
   しかし、参勤交代などの大名行列に出くわすことの多かった江戸の「町人」はどうだったか?彼ら自身の領主は徳川将軍だから、将軍と将軍になり得る御三家・御三卿の行列の時は道の脇に避けて土下座で迎える。他の大名の場合は自らの領主ではないから、道は開けるが土下座する必要はなかった。だから、脇に立って行列を見物する感じだったのです。ただし、行列を横切ることは御法度。
 歌川広重『東海道五拾三次の内 日本橋』  歌川広重『東海道五拾三次之内 日本橋』には江戸の「町人」が土下座する必要のない大名行列が近づいてきた時の様子がよく描かれている。
 「オットいけねぇ、大名行列がやって来やがったぜ。サッサと行っちまおう」と言いながら日本橋川北岸東側の魚市方向へ急ぐ振売の魚屋連中。
 餌にありつけたらしい江戸の犬たちは要領を心得ていて、大名行列の様子を窺いながら道の脇でムシャムシャと食べている。いつでもサッと逃げ出せる態勢で。

 このように、「武士」と「百姓と町人」の身分差を表す明白な場面が大名行列だったのです。 (続)
  
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2017年01月26日

何故 消えた? 「士農工商」 1 … 身分最下位は 「農」か「商」か

否定前の江戸時代の身分制度 私の小学低学年頃の社会科の授業での記憶です。
   担任の女性教師のテストの設問の一つに「江戸時代に一番身分の低かったのはどういう身分の者だったでしょうか?」というのがあった。
 私はそれまで見た映画など(まだテレビは一般家庭にはあまりなかった)の印象から、これは簡単と「農民」と回答して出した。ほとんどの同級生がそうだったらしい。で、「◯」で答案用紙は帰ってきた。
 ところが、これに異を唱えた同級生が一人いた。学級委員長をよく務めていた、クラスのオピニオンリーダーのような子だった。「先生は、僕らに江戸時代には士農工商の身分制度があったと教えたじゃないですか。だから、答えは商人じゃないですか」と食い下がった。こう問われて教師はグッと返答に詰まった。

士農   恐らく、教師はみんなに点数を取らせるための易しい設問のつもりだったのではないかと思う。しかし、「士農工商」という身分制度があったのなら、この設問の正解は「商人」だと私も思った。ところが、教師は納得させる理由付けができなかったにもかかわらず「農民」正解を譲らず、理不尽な形で押し切った。「そんなこと言ったって、先生。士農工商の身分制度があったんだから…」と異を唱えた同級生は不満の収まらない様子。私も「あの子の言うことはもっとも…」と、そのままつい最近までモヤモヤとした気分を60年間程抱いてきた。

工商   ところがその後、どんな映画やドラマや小説でも、「農工商」が「士」に対して「ヘーヘーッ」と頭を下げる場面はいくらもあったが、「工商」が「農」にへりくだったり、「商」が「工」に頭が上がらないなどという場面など、ついぞ見たことも聞いたことも無くきた。
   だいたいが、豪農や庄屋などでもなければ江戸時代の「農」は水呑百姓というイメージが強いし、服装も「商」に比べ「農」は圧倒的にボロの野良着(泥だらけの農作業上仕方ないが)。「工」の気風の良さにも「農」は全く敵わない。つまり、実際の江戸時代の身分制度に対しての感じ方は、どう見ても「農」が最下位にしか見えなかった。

 しかし近年、この江戸時代の身分制度の士農工商という表現は適切ではないとして否定され教科書からは姿を消したというのです……これはナントいうことか!私の長い間のモヤモヤは、この「士農工商」があったからなのに! (続)
  
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2017年01月23日

江戸は 外食産業 大盛り上がりの都市 … 火事 と 単身男性 の多さがもたらした 大江戸の食生活

歌川広重『東都名所高輪廿六夜待遊興図』 天ぷら屋・うなぎ屋江戸後期の天ぷら屋台(深川江戸資料館)歌川広重の『東都名所 高輪 廿六夜待遊興之図』は天保(1830-44年)頃の作……江戸時代には旧暦七月二十六日の夜半過ぎに出る月を、弥陀三尊の出現としてあがめる仏教信仰に結びついた行事が、特に江戸で盛んだった。
   普段は夕暮れ早々に閉められる江戸各所に無数にある木戸もこの夜は開いていたろうから、みんな喜んで堂々と出歩いたのです。
 この絵には高輪の海岸近くに、すし、天ぷら、蕎麦、団子などの屋台(担いで移動)や屋台見世(担げない)が描かれ、大勢の町人で大賑わい。武士の姿もちらほら見受けられる……江戸時代は品川は東海道の日本橋から最初の宿場町というよりは、品川近郊も含めて江戸の人たちの遊興の地としての色合いの方が強かったのです。
 売られている食べ物は、現代人が食している物とすでに何ら変わらない。海には廻船が何艘も錨を下ろし、小舟も多数繰り出して、みんな灯りを落として月の出を今や遅しと待っている。だから、海や海岸はいつもに増して、真っ暗。月の出までを退屈させないように、花火も打ち上げられていたようだ。

蕎麦屋(イザベラ・バードのスケッチ)二八蕎麦屋 別に行事でなくとも、日常的に屋台や屋台見世は人出のある場所に移動して商売をしていた。「振売」と違ったのは、食材ではなくてそのまま食べられる料理を売ったこと。
   特に、蕎麦の屋台は「夜鷹そば」と呼ばれ、夜更け9時から明け方まで担いで移動しながら商売したから大いに重宝された。
   19世紀の大英帝国の女性探検旅行家イザベラバードも1878年(明治11年)に3ヶ月間日本を旅行した折に、恐らく江戸時代の姿そのままの蕎麦の屋台のスケッチを残している……その屋台の造りを見ると、この小ささ軽さで蕎麦を売るのに必要な要素はすべて備わっている。
 蕎麦屋台1蕎麦屋台2蕎麦屋台3水桶や食材や食器やまな板はすべて引出しや棚に仕舞ってある。火力は七輪で鉄鍋の湯を沸かす。
 雨はいつ降ってきても蕎麦屋は濡れない仕組みで、担ぎ棒と屋根で屋台の強度もそれなりにシッカリ。そして、その強度をさらに補う細かい意匠。もちろん、看板も付いている。
 日本人のものづくりの優秀さがよくわかる。

1811年の江戸の外食産業 居酒屋・鍵屋の外観盛んだったのは何も移動販売だけではなかった。料理と酒を出す飲食店である「居酒屋」の数も江戸には実に多かった。蕎麦屋、すし屋、餅屋、料理屋、茶漬一膳飯屋などの様々な飲食店の業種のなかでも居酒屋が最も多かった。
   町人文化が花開いた11代将軍徳川家斉の時代の文化・文政期の1811年(文化8年)の江戸には
居酒屋が1808軒あった。江戸の町は8代将軍徳川吉宗から家重への譲位期・延享年間(1744-7年)には江戸には町が1700町程あったといわれるから、江戸時代後期の江戸の町には平均して1町に1軒くらいの居酒屋があったと思われるのです(意外に多いのは団子・粉汁屋などの甘味処。それなりに生活が豊かで安定していて女性が生き生きと暮らせる社会でないと、こういう業種の店は多くないはず)。

鎌倉町 豊島屋酒店の賑わい   江戸の居酒屋の元祖といわれるのが、江戸にできた最初の繁華街・鎌倉河岸に面した鎌倉町の慶長元年(1596年)創業の豊島屋酒店(先月12月23日の私のブログ参照)。
   初めは桃の節句に白酒を売り出して人気を博した豊島屋が、1746年頃から始めた安売商法は凄まじくユニークなものだった……酒と豆腐田楽などの料理を原価近くの薄利で安く売る。当然、鎌倉河岸に集う職方・人夫・行商人などの男たちをひきつけ大繁盛。その結果、日に大樽を20樽ほども空けるようになった。江戸時代はリユースの時代。実は、豊島屋はその大量に出た空樽を売って店の利益を確保したというのです。『江戸名所図会 豊島屋酒店 白酒商う図』の絵の右上部が豊島屋の利益を生む場所だった。
 豊島屋は、安売商法では当たり前の“薄利多売”ではなく、何と“
薄利樽売”をねらっていたのだ!……いつの世も知恵者はいるもの。
   そして、元祖がこんなに安くて繁盛していれば、後に続く居酒屋も負けないように安くして踏ん張ることになり、居酒屋隆盛の時代を迎えたのです。 

目黒行人坂大火江戸の三大大火の一つ 文化の大火(1806年)裏長屋のかまど廻り   江戸でこれほど外食産業が盛んになったのは、一つに火事が多く、寺社の失火である場合を除き失火元は責任を厳しく問われたから。居酒屋が増えた時期には江戸三大大火のうちニ大火が起きている……1772年の明和大火(目黒行人坂大火)と1806年の文化大火
   裏長屋の各戸に設けられていた竃廻りを見ると恐ろしくなる。数字に挙げられなかったボヤなども無数にあったでしょう。
 こういうリスクを思うと、外食産業が盛んになるのには理解が行く。

「男の町」江戸江戸の居酒屋居酒屋にはテーブルは無かった   もう一つ挙げられる理由は、江戸の人口の男女比の大きな偏り。
   参勤交代や修業で江戸に出てくる武士は大名クラスの上級武士を除けば単身赴任または独身男性。商家の丁稚も、弟子入りの職人も、季節労働者も単身男性。こういう男たちが、賄い食以外を自炊することなどはなかった。
 なお、映画やドラマの江戸の居酒屋シーンではたいてい食卓に椅子。が、これは全くの誤り。こういう風俗は欧米文化導入後のこと。
   正しくは、絵のように座敷に腰掛けたり上がって座ったりして、御膳やお盆に載せて運ばれてきた料理や酒を床に置いていただいた。しかし、日本にはもともと縁側に腰掛けて交流する椅子的文化もあったから、導入後の居酒屋での食卓・椅子の普及は早かったのです。
  
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2017年01月16日

江戸は 移動販売・訪問販売 大盛り上がりの都市 … 大江戸の町人に 安定と健全さ をもたらしたもの

幕末期 の 江戸江戸のリサイクル業  1裏長屋の木戸 (ドブ板が描かれる) 自給自足や物々交換では立ち行かなくなる社会段階になると、生活必需品の供給と需要をマッチさせる最初の方法は、供給者が需要者を求めて声を掛けて移動しながら販売する方式……または棒手振り(ぼてふり)と呼ばれたものがそれ。
 これが繰り返されて、そのうち供給者がお得意さんとなった需要者から注文を受けてから生活必需品を訪問販売する方式に発展することもある。
 この商いの形が成り立つのは、人々の集落がある程度密度の高い大きな規模になって、かつ貨幣が流通するようになってから……この時期は、日本では中世からと言われる。

 日本の中世は、王朝政権から武家政権に移った時期から始まる。つまり、平安時代の平氏武家政権以降の12世紀後半からのこと。
 平清盛は王朝政権がを貨幣代わりとして使っていたのに対して日宋貿易で大量の宋銭を輸入しその宋銭を国内で流通させ絹の価値を下落させて王権の弱体化と平氏武家政権の隆盛を図った……まさに、この時期が振売の始まりだったのです。
 この動きは、鎌倉武家政権から、室町武家政権から、戦国時代になり、織豊武家政権に移っても、もう後戻りはなかった。

 すし屋の振売振売(棒手振り)江戸の振売魚屋の棒手振り - コピーそして、中世も400年経って江戸時代となり社会の安定化とともに、特に百万都市・大江戸八百八町では移動販売・訪問販売、つまり振売・棒手振りがあらゆる業種に広がり大いに盛り上がった。彼らが武家屋敷から寺社から町家や裏長屋の隅々まで隈なく商いして回ったのです。
 この商売は、特別な知識も技術も資金も必要としないので誰でも簡単に開業でき、小さな自営の稼ぎでも食いつないで行けたから、社会の安定化・健全化に大いに資し有益だった、と私は見る。

かごを売るおばあさんと孫 幕府のお触書では振売の開業許可は15才以下50才以上の者及び身体に障害がある者に限る」とした程。幕府も強者が寡占して社会的弱者が排除されることは好ましくない、と考えたのです。
 こういう零細で小規模な自営の商いが可能だったから、大江戸には多くの町人が裏長屋に集まってきて細やかでも賑やかに暮らしていけたのです。
   このお触書きは家光治世の1648年に出され「振売札」所有者だけに営業を許した。さらに、家綱治世の1659年には振売赦免の業種を再吟味して改めて「振売札」を下付している。

とうふ売り八百屋の 棒手振り1890年頃の生活雑貨の棒手振り植木屋の 棒手振りスイカ売りの 棒手振り 江戸時代の振売の絵にはまず描かれて無いが、明治以降と思われる振売の写真には振売人はほぼ全員が天秤棒を担ぐ手に杖のようなつっかえ棒”を持っていたり、天秤棒にそれが紐で結んであったりする……これは何?と奇異に思える。が、考えてみるとなかなかのグッドアイデア!
 この“つっかえ棒”が威力を発揮するのは、商品を置いて客と商いする時……二つの荷の底面と天秤棒から少し斜めに地面に突き立てた“つっかえ棒”下部が、地面に安定した三角形を形成する。だから、この状態で振売人は“つっかえ棒”上部を軽く片手で握って天秤棒の荷を吊り下げる紐にテンションを加えていれば、立体的にも安定している。そして、客との商いが済むと、ヒョイと肩を天秤棒の下に入れ担いで去って行く……日本人らしく面白い工夫だと思う。
   誰かのちょっとしたアイデアが、多く存在した振売人の間に瞬く間に広まったのでしょう。

  
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2017年01月09日

一心太助 と 日本橋(本)小田原町 と 小田原 2 … 「江戸もの」 から 「江戸っ子」 へ

長谷川雪『江戸名所図会 日本橋魚市』天保5-7年(1834-6年)広重『東都名所 日本橋真景 ナラビニ魚市全図』天保年間中頃 江戸時代の天保年間(1830-44年)の日本橋魚市場の様子を描いた絵がある。
 長谷川雪旦『江戸名所図会 日本橋魚市』天保5-7年(1834-6年)と歌川広重『東都名所 日本橋真景 并二 魚市全図』天保年間中頃(1837年頃)の絵で、艪の様子からどちらの絵にも押送船が描かれていることがわかる。
 押送船はこの頃はもうとっくに三浦半島を回り込んで、伊豆東浦や小田原から鮮魚を一気に江戸に直送できていた。魚河岸では鰹らしき大型魚を運んだり、魚店の戸板に鮮魚を並べて大変な喧騒の中で取り引きしている(魚商が戸板1枚を持つ権利は買わなければならなかった)……どちらの絵も、早朝からわずか数時間の日本橋魚河岸の賑わいを描いているのだ。

江戸時代・明治初期の三都の推定人口変遷 天保年間はすでに大江戸は100万都市だったが、実は江戸の人口が最大だったのは、この100年程も前の第8代将軍徳川吉宗(1684-1751年)治世(1716-45年、譲位後も生涯にわたり大御所として君臨)の時代だった……吉宗は、新田開発に力を入れ、小田原北条氏の時代から続いていた関八州の「四公六民」という低い租税をようやく「五公五民」の標準的なものに増税し、武家の生活全般を質素にして倹約に努めるという35年間の享保の改革で、傾いていた幕府財政立て直しに成功。
 この吉宗治世末期に大江戸の人口は120万人を超え江戸時代の中でも最大の人口となっていたのです。


一心太助安政元年(1854年)の日本橋付近の町割振売(棒手振り) 昨年11月10日の私のブログのように、江戸時代後期には江戸市中に魚市場は13ヶ所もあったのだが、最初にできて最大だった魚市場は、この日本橋魚市場……()小田原町・本船町・按針町・長浜町などの日本橋川北岸の日本橋と東隣の江戸橋の間の地域。
 さらに、その対岸である日本橋川南岸の四日市町には塩魚や干魚を扱う塩魚問屋街まであった……江戸時代の日本人は「植物性蛋白質は“豆腐”で摂り、動物性蛋白質は“家畜”からではなく“魚”から摂るという仏教の不殺生戒に基づく食生活だった」から、日本の最大都市・江戸の魚市場は、人類史上何処にもあり得なかったような規模で繁昌していた……そして、この魚市場で働く人間の気性を代表する者として、江戸後期1770年頃からの戯曲・講談の世界で生まれた架空の人物が、一心太助
 一心太助は「江戸っ子」の典型と言われ、大久保彦左衛門(徳川家康の江戸移封後の最初の小田原藩主の弟で徳川家光の補佐役)や第3代将軍・徳川家光の時代の人物として物語られる。

 ところが「江戸っ子」という呼ばれ方がされるようになったのは、第9代将軍・徳川家治(在位1760-86年)の時代以降の、江戸移封からすでに170〜180年程も経っていた時期から。
 それまでは江戸の町で生まれ育った者は、「江戸もの」と呼ばれていた……この変化は、べらんめぇ調で「こちとらぁ、〇〇よー」と粋がる時「江戸っ子よー」の方が気持ちがピッタリしたのではないか。だから、時代考証を経ると正しくは「一心太助は、江戸ものの典型」なのです。

   「江戸っ子」という呼び方が一般的になったのは、北斎が活躍し広重が出現して江戸町人文化が爛熟した文化文政年間(1804-30年)以降のことなのです。
 「江戸っ子」に匹敵する呼び方は「浪速っ子」くらい。「京っ子」という呼び方は現在ならいざ知らず、江戸時代にはなかった……恐らく、京では町人も“みやび”ている。だから「〇〇っ子」という呼び方は町人でも馴染まない、と京都人には自負があったのでしょう。

江戸切絵図(築地の南小田原町)名所江戸百景 築地門跡(広重) 日本明治時代の築地橋小田原町が「本小田原町」と呼ばれるようになったのは、第4代将軍・徳川家綱治世下の明暦大火(1657年)後に埋立地である築地ができてから……築地に再建された西本願寺の東の掘割対岸に、「南小田原町」ができたのです。
 ここにも小田原からの人たちが住みつき、魚市場が開かれていた……この魚市場は、江戸時代から明治を経て大正時代に廃れるまで続いた。大正12年(1923年)の関東大震災までは「築地と言えば西本願寺で、江戸・東京の魚市場と言えば日本橋」だった。

 現在の築地のイメージと南小田原町の魚市場の存在から「一心太助の活躍場所は、築地」と言う説もあるが、間違いなく「活躍場所は、日本橋」……何しろ、家光も彦左も明暦大火前に死去していた。だから、築地などまだ存在していなかった。
 架空の人物・一心太助の物語なのだから、そんなこと気にしなくて良いでしょうと言われれば、それまでですが…。 
  
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2017年01月02日

2017年 あけましておめでとうございます

2017年 翼の賀状2017年元旦 初日の出20170102新幹線から見た富士山
  
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2016年12月29日

一心太助 と 日本橋(本)小田原町 と 小田原 1 … 『江戸図屛風』 からわかること

江戸図屏風(日本橋と小田原町の魚店)日本橋周辺の江戸切絵図日本橋を中心とした江戸の町の構成 12月23日のブログのように、三浦半島を陸送で横断しながらも、初期の小型の押送船で大型鮮魚を江戸日本橋魚河岸に毎朝届けていた小田原の魚商たちは、便の良い日本橋界隈に店を構えて住みつこうとした。
 しかし、江戸城築城や掘割の擁壁普請に携わっていた伊豆の石工たちが、石の加工場であった神田橋門外の鎌倉河岸に近くて、かつ鮮魚を手に入れ易い日本橋魚河岸そばの町人地にすでに先に住みついており、「小田原町」と呼ばれた一角を形成していた。

   それでも、普請の早い段階で石工の工程は片ずいてしまう。だから、江戸城や江戸の町が形成されるにつれ、石工は仕事を終え伊豆に引き揚げる。そして、第3代将軍徳川家光治世(1623-51年)の寛永10年(1633年)頃に描かれた江戸図屏風を見ると、「小田原町の住人はすっかり石工から魚商に入れ替わっている

1643年頃の江戸(徳川家光時代)東伊豆 -三浦半島 -日本橋江戸時代・明治初期の三都の推定人口変遷 この後も江戸の町が発展するにつれ、日本橋魚河岸や小田原町は小田原出身者が闊歩する活力に満ちた魚市場になっていった。
 そして、家光治世最末期の1650年頃には江戸は京都に並んで人口43万人を抱える大都市になった……1590年から始まって、わずか60年間の出来事。この急成長はその後も続き、100年後の1750年には人口はさらに3倍に増。優に100万人を超える人口の大都市・大江戸となったのです。

広重『東都名所 日本橋魚市』江戸の振売 この魚市場に魚を買いに来る者は現在の築地市場と同じで、一般の町人よりも行商の魚屋の方が多かった。行商人はここで仕入れた魚を桶に入れ天秤棒で担いで、江戸市中に散らばるお得意さんを午前の内に回った。振売(ふりうり)、棒手振り(ぼてふり)と呼ばれた室町時代から続く販売方法で昼までに売り切らないと叩き売りになってしまうから、激しく競い威勢良く即断即決して売って回った

 つまり、将来“江戸っ子気質”と呼ばれるようになる江戸の町に特徴的な気風が、この場所で醸成されつつあったのです。
 (続)
  
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2016年12月23日

江戸で最初の繁華街・鎌倉河岸 … 徳川領となった相模国・伊豆国からの 江戸城普請材・材木石材の荷揚げ場

相模国(さがみの国)と古城伊豆半島の江戸城築城石の主な石切場令制国一覧 北条早雲を始祖とする五代百年にわたって繁栄した小田原北条氏を1590年に征伐して国内統一を成し遂げた豊臣秀吉は、この直後に徳川家康を三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国の五ヵ国領有から北条氏の旧領である関八州(伊豆国・相模国・武蔵国・上野国・下野国の一部・上総国・下総国・常陸国の一部)に移封。
 150万石から250万石への類を見ない大幅な加増による栄転、というのは表向き。この通りに受け取る者は少なかった。

1590年の江戸1600年頃の江戸の堀と河川幕末期 の 江戸   移封を命ぜられた時、恐らく家康は47才の自分と53才であった秀吉の10年後を見据えたのだ、と私は思う。
 この時、家康は渋々駿府から小田原に移るだろう、という大方の見方を裏切って、当時は広大な湿地帯と遠浅の海を見下ろす高台のうらぶれた出城に過ぎなかった武蔵国の江戸城に入り、大胆に自然地形に手を加えることまでしながら、白紙からの築城と町づくりに取り掛かった。
 この行動を見るだけでも、家康の将来を見る目の確かさが感じられる。秀吉が1592年から亡くなる1598年まで朝鮮侵略(文禄の役・慶長の役)にうつつを抜かしていたのとは大違い。

江戸図屏風部分(江戸城)鎌倉河岸廻りの江戸切絵図(右下)大手町川端緑道   この時、まだ天下を取れていなかった家康が普請材として使えたのは、新たな領地となった関八州からの物だけ(かっての三河国や駿河国などからの物は当然許されない)。

 その代表的な物が
相模国からの材木と伊豆国からの石材

伊豆半島の地質学的特徴伊豆の石切場入口伊豆の石切場内部 相模国の山地で伐り出された材木は、相模湾に流れ込む河川で海に運び、鎌倉の材木商が海路で江戸に運んだ。そして、伊豆半島は日本列島では唯一フィリピン海プレート上にある特殊な部分で、元はと言えば南洋の海底火山。だから、築城石に向いた石の産地が多く点在しているという地。この石も伐り出されて山の斜面を滑り落とされて、伊豆東浦から海路で江戸に運ばれた。

   石積み組積造の文化の国であれば、普請の現場を取り仕切る職種は、石工たち。
   しかし、日本のような木組み軸組造の文化の国では現場の主役は、大工たち。石工たちは基礎や城壁や掘割といった、土や水に接して耐久性・耐圧縮性が要求される下支え部だけの担当で、普請の初期段階で否応なく現場から手が引けてしまう。

神田橋・日本橋のGE写真神田橋と鎌倉河岸神田橋門外の鎌倉河岸   鎌倉の材木商や伊豆の石材商は、三浦半島を回って江戸湾から日本橋川に入って日本橋をくぐり抜け、さらにさかのぼって外堀に入った場所にある河岸(鎌倉河岸と呼ばれた)に、築城のための材木や石材を荷揚げした。
   そして、普請の主役である材木商や大工たちはこの河岸に面した「
鎌倉町」に住み、家康が近江から連れて来た建仁寺流棟梁・甲良宗広(初代幕府作事方大棟梁、江戸城・増上寺・日光東照宮などを普請)もこの町に住んだという。

 そして、材木は神田橋門から江戸城内に搬入して普請現場で加工したが、石材は荷揚げされた鎌倉河岸で小さく使用形態に加工されてから城内外の現場に運ばれた。
   普請の下支え部を受け持った伊豆からの石工たちは、鎌倉河岸から少し海寄りの魚を手に入れ易い日本橋近くの町人地に住みついて、ここは「
小田原町(伊豆半島の熱海以北は小田原藩領だった)」と呼ばれた。

鎌倉町 豊島屋酒店の賑わい江戸図屏風(左下に日本橋)江戸図屏風(1634年頃の作成)   1590年から始まった江戸大改造は1600年の関ヶ原の戦いと1603年の徳川家康の征夷大将軍への宣下以降は、天下普請としてますます盛大に大規模に行われた(西日本の外様大名などには“千石夫”=所領1,000石につき10人の人夫の夫役”が課せられた。例えば、島津藩であれば江戸初期は57万石だったから5,700人もの人夫の供出を要求された)。

   まず初めに手を付けた江戸城築城の中心地は、鎌倉河岸……一日中身を粉にして普請現場で働いた職方連中が夕暮れから楽しむことは、昔から皆でチョイと一杯と近くでやることとだいたい相場は決まっていた。鎌倉町に慶長元年(1596年)創業の酒屋・豊島屋(現在も存続)の賑わいは『江戸名所図会 鎌倉町 豊島屋酒店 白酒を商う図』に描かれている。

   江戸の創成期、築城のための材木・石材の荷揚げ場だった鎌倉河岸は、このようにして江戸で最初の繁華街になったのです。

  
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2016年12月19日

小田原出身者が住んだ 日本橋(本)小田原町 … 歌舞伎小屋も吉原遊郭もあった 江戸随一の繁華街

小田原―三浦半島―日本橋広重 『名所江戸百景 日本橋雪晴』 押送舟が見える江戸名所図会 日本橋魚市 小田原藩の領有していた伊豆の東浦を、新鮮な魚を積んで夜のうちに出航した押送船は、三浦半島を回り込んで翌朝には日本橋の魚河岸に着いたという。
 歌川広重による『
名所江戸百景 日本橋雪晴』には、そんな押送船が3艘描かれている……この押送船は、多くの平田船が繋がれ五十集(いさば)船も碇を下ろしている日本橋川に、この朝ようやく着いたところのようだ。荷の覆いには雪が積もっている。雪は降ったが、道中の波は穏やかだったよう。そして、魚河岸ではすでに商売が始まって活気付いている。
   動物性タンパク質をほぼ魚からしか摂らなかった百万都市・大江戸の住民の魚市場の賑わいは流石で、江戸随一……魚商の豪商も生まれ、この当時の日本橋魚市場一帯の町屋敷は間口1間(奥行20間)が1000両(およそ1.3億円相当)で取引されたという。

日本橋周辺の江戸切絵図江戸の長屋1東都名所 日本橋真景 魚市全図葛飾北斎『冨嶽三十六景 江戸日本橋』 職業による社会的制約の強かった時代、同業者はまとまって住む傾向が強く、同郷であれば気心も知れてなお好都合だった……押送船の例を見ても、漁業に携わる小田原出身者は一大勢力。我らの多くが表店を持ったり使用人になったりして、その店の2階(表長屋)や裏手にある裏長屋に住みついた地域は「小田原町」と呼ばれた(築地が埋め立てられ、築地に「南小田原町」ができた後は「本小田原町」)。
 そして、この一角は歌舞伎小屋(1842年まで)も吉原遊郭(1656年の明暦大火まで)もあって、売り上げが「一日千両」と称された江戸随一の繁華街だった。
   ところが、この「小田原町」にはすでに魚商以外の職の小田原出身の先住民がいた……主に伊豆の石工たちだった。
 思えば、鮮魚よりも江戸の城づくり・町づくりの方が先行して当然だから、その城や掘割に最初に必要とされる職種の労働者が住みついて当たり前のこと。 (続)

  
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2016年12月14日

葛飾北斎の 富士山 と 荒波 と 押送船 4 … 26年経って 押送船が変わった! 何故 逆になった?船の向き

北斎『おしおくりはとうつうせんのづ』1805年作成・北斎45才北斎『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 1831年頃作成・北斎71才 新鮮な中小型魚は江戸前の海で間に合った。が、鰹などの大型魚は江戸湾外から搬入するしかない。
 そのためには、安房もあったが、何といっても伊豆を中心とした相模湾と駿河湾の豊富な中大型魚を新鮮なまま百万都市・大江戸に届けること(伊豆の鮮魚江戸廻し)だった……これは長い間の小田原藩(この頃は熱海以北の東伊豆も領有。城主は大久保家)や漁業関係者の悲願だった。加工して日持ちを良くした魚はすでに、五十集船(いさばぶね、百石程度の近海運搬船)で江戸に送ってはいたが。

東伊豆-三浦半島-日本橋押送船押送船 模型 初めの頃の押送船(おしょくりぶね、帆走・漕走同時使用の小型高速船)は、小型な(3人乗りからあった)うえ速度も航海術も不十分で三浦半島を回り込んで一気に江戸に鮮魚を届けることは難しかった……この頃は、東伊豆の押送船で相模湾を突っ切った後は、相州鎌倉郡飯島から野島(現、横浜市金沢区)まで馬の背に乗せて運び、その後再び押送船に積み替えて江戸の魚河岸に搬送したという。
 大型の押送船(漕ぎ手10人まで可能)ができて、より多くの鮮魚を、より高速で、一気に伊豆の鮮魚江戸大廻しができるようになったのは江戸で町人文化が高まった文化・文政期(1804-30年)頃から……ということは、葛飾北斎の1805年の『おしおくりはとうつうせんのづ』の頃から伊豆の鮮魚江戸大廻しが始まり、1831年の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の頃には江戸大廻しすることが当たり前になっていたのです。

広重 『名所江戸百景 日本橋雪晴』 押送舟が見える十二ヶ月の内 四月ほととぎすかつほ 舟や馬(西伊豆からは陸送した)で東伊豆の湊に集められた鮮魚を押送船に積んで夜間に出発江戸まで海上36里(約140km)を一夜で走破翌早朝には日本橋魚河岸に着いたと言うそして多少海が荒れていても欠航しない心意気を売りにした(たいていの押送船の絵が3艘1組で描かれているのを見ると、1艘に積める魚の量が限られるのと、リスクのある航行であることから、最低3艘で航行したと推測される。歌川広重『名所江戸百景 日本橋雪晴』を参照)……このお陰で、粋の証として初鰹を食べる習慣が江戸っ子に根付いたのです。
 こういう江戸っ子好みの題材を浮世絵の版元や絵師たちが見逃すはずはない

 北斎の『おしおくりはとうつうせんのづ』はこうして誕生……遠景の雪の無い富士山や初鰹の時期から、この絵は5月初め頃の江戸湾神奈川沖の絵と考えられる。そして、江戸っ子自慢の粋な習慣を描くのだから、見た情景をそのまま活写することが要求された、と想像する。
 ここで浮かんでくる疑問は、この二つの絵のに描かれた波の向きは同じなのに3艘の押送船は何故向きが逆になったのか?ということ。

相模湾・富士山・三浦半島三浦半島城ヶ島近くの 神奈川沖 『おしおくりはとうつうせんのづ』は、押送船は伊豆の鮮魚を積んで荒波を物ともせず踏ん張って櫓を漕ぎ勇ましく江戸に向かっているが、強風だから着脱式の帆は着けていない、という恐らく写実的な絵(少なくとも遠景は極めて写実的)。
 一方、『神奈川沖浪裏』の押送船はその帰り。3艘の内2艘には積荷が見えるが魚ではないはず。そして、立っておれないくらいに揺れが強くて、漕ぎ手は全員身を屈めてしゃがみ込んだまま。これでは艪は漕げない。押送船は潮流に流されるだけ。
 用を済ませた帰りを、これ程急いで無理する必要があるのか?
   記録では、1803年には江戸周辺で64隻の押送船が運用されていたという(東伊豆が最多の保有数)のだから「押送船の売りは欠航しないこと」とは言っても、数隻の押送船の帰港が予定より一日か二日くらい遅れても差し支えないように思うのだが…。

北斎『賀奈川沖本杢之図』1803年作成・北斎43才・五大力船 これは、絵のテーマである“荒波の激しさの表現”を強めるためには、荒波に対して船は逃げていくのが良いのか?向かっていくのが良いのか?ということへの北斎の判断だったのだ、と私は思う。

 1803年に北斎が描いた『賀奈川沖本杢之図』では、海岸と荒波の向きの関係は絵のようであることが、自然。波は海岸に押し寄せるからだ。
 この絵の2年後1805年の『おしおくりはとうつうせんのづ』では、初夏の南風に煽られた荒波の向きは絵のような方向になり、伊豆の鮮魚を江戸に運ぶ押送船は江戸方向に向かって必死に漕いでいなければ、絵が威勢良くならないのだ。
 これからさらに26年経って、1831年の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』のように、描かれる主役・脇役が「荒波と押送船」から「荒波と富士山」に変わってくると、押送船の物語性による縛りは無くなったと考えられる。そして、初夏だから雪の無かった富士山も、冠雪してより富士山らしく描かれ季節も問題にならなくなった......物語性よりも、よりシンボリックであることが重要視されてきたのだ。

黒潮の東京湾への貫流模式図東京湾の潮流の代表的パターン こうなると船は押送船でなくても構わないし、船がどこに向かっているかも重要ではなくなる。「荒波と船」という二者の関係性だけを考慮すれば良いだけ。結果的に押送船が他の船に変わらなかったのは、押送船の形態が荒波と絵画的馴染みが大変良かったということでしょう……こうして押送船の向きは逆になった

 で、江戸に背を向けて荒波に弄ばれる艪も漕げない船は、どうなるのか?と神奈川沖の潮流を調べてみると、『神奈川沖浪裏』の状況は決して不自然なことでもない、ということがわかってくる……荒天でも、潮の満ち干を承知して下げ潮時に神奈川沖を通るように江戸から船を出せば、東伊豆を目指すことは不自然なことではないのです。

  
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2016年12月07日

葛飾北斎の 富士山 と 荒波 と 押送船 3 … 26年経って 目線が変わった! 荒波が変わった!

北斎『おしおくりはとうつうせんのづ』1805年作成・北斎45才北斎『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 1831年頃作成・北斎71才北斎『賀奈川沖本杢之図』1803年作成・北斎43才・五大力船 1805年の『おしおくりはとうつうせんのづ』も1803年の『賀奈川沖本杢之図』も、葛飾北斎は西洋画の透視図法(遠近法)で描いた。どちらの絵も近景・中景・遠景の区分がわかり易い。
 ところが1831年の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』では、26年前の絵にあった「海鳥が舞い、白抜きで表現された海」という、のどかささえ漂う中景が省略された。これは画面上の目線が、鳥の目線から人の目線に下がったからだ。絵のテーマである「猛狂う大波の表現」を弱めている無駄な要素を排除した、のだと思う……この結果、中景が無くなっただけでなく、遠景も富士山とその上空の不気味な空模様だけに集約された。しかも、その富士山は“写実的に描かれた山”から“民衆の信仰を集めるシンボリックな霊峰”に変わっていた。
 さらに、目線が下がったことから、荒波の裏側まで描写し易くなった。北斎が『浪裏』という題を付けたことにも理解が行く。

見得を切る東洲斎写楽の役者絵(1794年) 26年経って決定的と言える変化は、荒波の表現……妙にねっとりした油のような荒波表現から、水飛沫が舞い散る躍動感のある大海原の荒波らしい表現に変わった(『浪裏』の絵は、欧米では『グレイト ウェーブ』と呼ばれている)。
 そして、その荒波は歌舞伎役者のように「見得を切っている」……見得を切る相手は「押送船の船頭たち」。彼ら船頭は皆恐れ入って艪も漕げず、ひたすら身を屈めて荒波の鎮まるのを待つしかないのだ。勢い余って、富士山にも見得を切っているようにも見える。

 近景の荒々しく大きくうねる波と、それに弄ばれる3艘の押送船。遠景の富士山上空からは近景まで覆い尽くしてしまいそうな怪しげな雲行きに空模様。そして、このような“動き”の中央で、あくまでドッシリと“不動”の霊峰・富士山……絵の要素がすべてシンボリックに集約され“荒波の激しさを表する”という絵のテーマを強めている……こうして『浪裏』は北斎の大傑作となった、のです。

葛飾北斎『千絵の海 総州銚子』1833年頃作成・北斎73才北斎『東海道江尻田子の浦略図』1830-2年頃作製 荒波の表現に手ごたえを得た北斎は、版元の要望に応えて、この後も『千絵の海 総州銚子(1833年)』や『冨嶽百景 海上の不二(1835年)』といった荒波表現をテーマとした絵を描いた。
 前者は富士山は無く(銚子近辺は、九十九里浜と違って富士山は見えない)、船も押送船ではなく『田子の浦略図』に描かれたと同じような漁船。
 一方、後者は富士山は望めるが、大波だけが荒れ狂っており船の姿が無い。
 北斎は大傑作を物した後、どのようなことを考えて、これらの絵を描いたのか?……北斎は、『浪裏』の荒波表現をさらに超えようとした、のだと私は思う。

 『総州銚子』では、海岸の岩場に寄せては引く強力な大波と岩場にぶつかって砕け散る荒波の表現が秀逸。そんな激しく荒々しい岩場の近くで投網漁の2艘の漁船。漕ぎ手の漁師たちは身を屈めながらも必死に艪を漕ぎ、投網を打とうとする恐らく頭の漁師は大揺れの舳先に立って投網を整えている。近景のみの絵だが、奥行きと躍動感と緊張感を感じられる北斎の傑作の一つ。 

北斎『富嶽百景 海上の不二』1835年作成・北斎75才歌川広重『富士三十六景 駿河薩タ之海上(1859年)』 『海上の不二』では、『浪裏』に似た波頭に水飛沫と見えるが、よくよく見ると、何と千鳥!……“波に千鳥”という絵になり易い似合いの伝統的組み合わせ(梅に鶯、竹に雀などと同じ)を、北斎は巧みに利用している。
 そして近景に船は無く、印象的にうねる波頭と波の腹だけの表現。その代りに千鳥と海岸林で中景が復活している。この“波に千鳥”を組み合わせた表現は、歌川広重『不二三十六景 駿河薩タ之海上(1859年)』などにも影響を与えている。
 ただ残念なことは、船が描かれなかったことで絵のスケール感も緊張感をもたらすストーリー性も曖昧になってしまったように感じること。 (続)
  
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2016年12月04日

葛飾北斎の 富士山 と 荒波 と 押送船 2 … 26年経って 色が変わった! 富士山が変わった!

紫色(富士山が見える場所)北斎『富嶽三十六景 尾州富士見原』富士山の見える最遠の地・色川富士見峠 富士山が眺められる場所の範囲はどのくらいか?関東ではほぼ全域で眺められるとは思っていたが、実際そのよう……房総半島の南部以外は、九十九里浜を含めて関東ではほぼどこからでも富士山を眺められるという。
 計算上は海上では220(日本橋と富士山頂の距離は約100)の範囲まで富士山が見られるということだが、陸上では関東や東海や甲州以外でも標高の高い山地に富士山が見える場所があちこちに点在している。
 私は名古屋市中区に「富士見町」という地名を見つけたことがある(『冨嶽三十六景 尾州不二見原』の場所らしい)が、三重県の伊勢湾沿岸部でも富士山が見えるのだから驚くようなことではない(
江戸時代のお伊勢参りの人たちは江戸を出立して伊勢に着くまでほぼずっと富士山を眺めていたことになる)。現在知られている最遠の地は、和歌山県那智勝浦町色川小麦峠(通称、富士見峠。富士山から322.9)。
 これだけ広範囲の地域から眺められ、姿が極めてシンプルで雄大で美しく、どこよりも早く雪を戴き、最後まで雪を残す富士山は、気高く唯一無二の不二の霊峰と崇められる存在であったことは、合点が行く。

北斎『おしおくりはとうつうせんのづ』1805年作成・北斎45才三浦半島城ヶ島近くの 神奈川沖北斎『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 1831年頃作成・北斎71才 葛飾北斎(1760-1849年)45才の1805年(この年から「葛飾北斎」の号を用いるようになった)に描かれた『おしおくりはとうつうせんのづ』の遠景の中の富士山は、シルエットだけの表現で大きさなども実際の見え方に近く写実的。だが、霊峰などといえるような特別な山としては描かれてはいない……この絵が描かれたのは、幕府財政の緊縮を厳しく押し進めた松平定信の寛政改革(1787-93年)後の時代だった。
 だが、定信が失脚しても改革時代の倹約・風紀粛清の社会風潮は直ぐには変わらなかった。それでもこの風潮の反動の如く、11代将軍徳川家斉治世下の
文化・文政年間(1804-30年)を中心とした時代になると幕政の綱紀は緩み江戸を中心に太平楽の享楽的な町人文化が花開いた
 北斎が絵師として修業し活躍しだしたのは、正にこの時代……つまり
文化・文政期の初めの1805年におしおくりはとうつうせんのづ』を描き、文化・文政期の終わりの1831年に冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を描いた。
 そして、先の絵は富士山を含む遠景から、江戸湾の神奈川沿岸とわかる。後の絵は題名から、先の絵と同じような場所と知れる(相模湾沿岸であれば題名は『相州沖浪裏』としたはず)……絵の描かれた場所も題材もテーマもほぼ同じ二つの絵が26年経って何故ここまで違ったのだろうか

   
この時代は、お伊勢参り・富士講が流行り、五街道・宿場が整備され、浮世絵の人気も美人画・役者絵・武者絵から名所絵・風景画に移っていった……北斎は18才で絵師を志し、美人画・役者絵を得意とする勝川派に弟子入りするが、他にも狩野派や唐絵や果ては西洋画までの、これはと思ったあらゆる画法を貪欲に学んだ。
 そして、浮世絵の版元には、絵師に企画を持ち掛けて描き上がった絵を彫師や摺師を使って木版画に仕上げ、さらに流通から販売までこなすプロデューサーのような有力者も現れた。

北斎『富嶽三十六景 上総ノ海路』 菱垣廻船北斎『富嶽三十六景 浅草本願寺』 富士山信奉者で富士講の講元も務めていた版元の西村永寿堂は、このご時世に「冨嶽図」を出版すれば大当たり間違いなしと考え、『北斎漫画』などを出して達者な腕前を披露していた葛飾北斎を絵師として選んだ。永寿堂は気が乗らなければ偏屈な面を見せる北斎に、当時入手困難だったベロ藍(ベルリン青=プロイセンの青=プルシアンブルー)を手渡してその気にさせたという。
 こうして北斎は63才の1823年に『冨嶽三十六景』に着手。8年後71才の1831年に出版され、版元の目論見以上の大ヒット。好評のため十景が追加されて1833年まで出版。
   まず、このベロ藍で北斎の描く絵の色が変わった……風景画には、空や川や海を描くのにベロ藍の青は極めて効果的だった。
   もう一つ、富士山が見える風景画を描くのに重要だったのが、西洋画の透視図法(遠近法)。ただし、『おしおくりはとうつうせんのづ』もすでに透視図法で描かれていた。北斎が修業時代に貪欲に学んでいたことが生きていたのです。

田子の浦沖から見た富士山北斎『東海道江尻田子の浦略図』1830-2年頃作製大井川 金谷北斎『富嶽三十六景 東海道金谷ノ不二』1832年頃作成 実はこの仕事依頼を受ける前の52才の1812年頃に、北斎は生まれて初めて関東を離れ、名古屋の弟子宅に逗留して大坂・紀州・吉野・奈良・伊勢へと旅をしている。この間に遠景としてしか見たことがなかった富士山を、初めて間近に眺めて写生したに違いない……恐らく感動と畏敬の念を抱いて
 私は晩春の冠雪が残る頃に富士山を近くで眺めたことがある。承知はしていても、私も富士山は見る度、改めてその雄大さに驚かされる。そして、この時の残雪の様子が、まさに『凱風快晴(赤富士)』の残雪表現と全く同じだった……私は、北斎は雪が解けている時期の富士山を写生して描いたに違いない、と実感した。

 北斎『富嶽三十六景 諸人登山』北斎『富嶽三十六景 山下白雨』1830-2年頃作成北斎『富嶽三十六景 凱風快晴』1832年頃作成北斎に『冨嶽三十六景 諸人登山』のような最も富士山らしく見えない絵もあるところをみると、北斎は富士登山にも挑んだに違いない……これらの体験が北斎の描く富士山を変えたのではないか。
   では、北斎は富士山をどうとらえたか?……その表現から察すると“高く険しく、時候によって多様な風貌を見せる霊峰”とみたようだ。
 だから、北斎の富士山の八合目辺りから上はどれも反り上がってより険しく尖がった表現にしている。この霊峰に登ることは厳しいことだが、登頂することは価値が高いと感じる。
 さらに、北斎は富士山だけを題材としそれを凝視した結果、「赤富士」や「黒富士」と呼ばれるような対照的な富士山の名作も残している。

広重 『名所江戸百景 日本橋雪晴』 押送舟が見える日本橋・江戸城・富士山広重『東都名所 日本橋魚市』広重『不二三十六景 東都江戸橋 日本橋(江戸橋の上からの眺め) 歌川広重(1797-1858年)の作品にも『不二三十六景(1852年)』があり、また名作『東海道五十三次(1833-4年)』の中でも、広重は多くの富士山の絵を描いている。しかし、広重の富士山は、いずれも“雄大さ”の表現が優先されており、実際よりもかなり大きさが誇張されている。そして、北斎の富士山のようには頂上付近が尖っていない(広重が富士山の“高さ”を表現する時は、“絵の枠”から富士山頂を突き出すという妙手を編み出したりしている)。

広重『不二三十六景 相模七里ガ浜 風波』広重『不二三十六景 甲斐御坂越』広重『不二三十六景 上総木更津海上』(五大力船、木更津の浜は遠浅)広重『不二三十六景 駿河富士沼』 広重は、北斎に負けないくらいランドマークとしての富士山の絵を数多く描いたが、北斎のように富士山だけを題材にした絵は無かった
   つまり、広重より北斎の方が、富士山に対する思い入れが強かったのだ、と私は思う。恐らく、広重は富士登山もしたことはなかったのであろう。 (続)

  
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2016年11月24日

葛飾北斎の 富士山 と 荒波 と 押送船(おしょくりぶね) 1 … 26年経って 何が変わった?

北斎『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 1831年作成・北斎71才北斎『おしおくりはとうつうせんのづ』1805年作成・北斎45才押送船押送船 模型 葛飾北斎(1760-1849年)の代表作『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は北斎71才の1831年に描かれた。海外でも『グレイト ウェーブ』と呼ばれて有名……あのゴッホが激賞し、ドビュッシーが交響詩『海』のモチーフとした絵。

 実はこの絵には、ほぼ同じ素材(荒波・富士山・押送船・空模様)・構図・テーマのものがあった……それは『おしおくりはとうつうせんのづ(押送波濤通船の図?)』という一風変わった題名の北斎45才の1805年の絵。
   作成時期に26年という長い年月が横たう、この二つの絵は似ていると言えば似ている。が、“迫力”がまるで違う。何が、この違いを生んだのか?何が、変わったのか?

北斎『賀奈川沖本杢之図』1803年作成・北斎43才・五大力船広重『東海道五十三次之内 桑名』 五大力船 『おしおくりはとうつうせんのづ』に似た絵として、その2年前の1803年に北斎が描いた『賀奈川沖本杢之図』も考慮しなければならない。
 この絵に描かれた船は、鮮魚輸送専門の小型高速船(着脱式3本帆で帆走・漕走同時併用船)の押送船ではなく、海川両用で船底が浅い人荷輸送の中型帆船の五大力船。この船は歌川広重(1797-1858年)の『東海道五十三次之内 桑名』に描かれたように、砂浜に乗り上げて接岸することが多かったようだ。

 『賀奈川沖本杢之図』は、荒天の中を浜に接岸しようとしてか、あるいは沖を航行中流されたかして岩場近くで座礁を避けようとして荒波と苦闘している2艘の五大力船と、そこに襲いかかる大波。そして、荒れ狂う下界の海とは対照的な、のどかささえ漂う明るい上空。そこに飛行を楽しむかのように舞い飛ぶ鳥たち。雨は上がって、遠く富士山まで見えている。つまり、暴風雨が過ぎ去った直後の高波だけが収まらない海上の風景を描いたと思われる。
 しかし、“荒波の激しさの表現”がテーマの絵にしては、波しぶきも見えず、荒波の粘度も実際の海水よりも強そうだし、荒れ狂う荒波の激しい動きが実はあまり感じられない。暴風雨と大波の発生するタイミングも不自然で、もう大波の峠は過ぎているだろうに、と思う。どうもシックリこない、絵のテーマももう一つクリアでない。
 このような批評は、『おしおくりはとうつうせんのづ』にも共通して言える、と私は思う。

相模湾・富士山・三浦半島三浦半島城ヶ島近くの 神奈川沖 北斎の言う「神奈川沖」という場所は、三浦半島から横浜辺りの江戸湾沿岸の沖合……グーグルアースでこの沖合から陸側を見ると確かに北斎の絵に似通った遠景の富士山が小さく望められる
 北斎は、実際に五大力船(普通30人程の旅客が乗船できた)に乗ってこの航路を体験したに違いない……北斎の1803年と1805年の絵は、結構“写実的”なのだ。
 
そして、1805年の絵で描かれる船が五大力船から押送船に変わったのは、「押送船は荒天でも鮮魚を江戸に届けるためにまず欠航しない」と江戸っ子が承知していたからだ……航行の“切迫感”を感じ取らせれれば絵のテーマも強調できるという意図が、北斎にはあったのではないか?
   3艘の押送船の船頭たちは、荒波に激しく揺さぶられながらも身を低くかがめ、両足を踏ん張り、息を合わせて必死に艪を漕いで、江戸に向かっている(艪は座って漕ぐオールと違って、立たなければ漕げない)。確かに、荒波の激しさをより強く感じさせられる。 (続)

  
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