内藤多仲(1886-1970)は、1922年「架構建築耐震構造論」を著して『耐震壁による耐震構造理論』を提唱していた。
内藤は、1906年のサンフランシスコ地震から10年経った時期の1916年に、1年間アメリカに留学した。大地震後、アメリカでは耐震面で何か新しい動きが起きているのではないかという期待があったと思われます??ところが、内藤は何も得ることなく帰国する羽目になる。これは残念なことだが、自分で考え出せるチャンスを貰ったということ。
『耐震壁』は、“荷造りの仕切板”という自身の旅行荷造り体験による独自の発想から発展させた耐震理論だった。
『柱と梁は現在程度の強度のままでも、要所要所に“強い壁(耐震壁)”を造れば、充分に丈夫な建物になる』と主張した。
内藤がこの理論に基づいて構造設計した日本興業銀行本店(渡辺節設計による鉄骨造7階建)は1923年6月に完成していた??実に、関東地震の3ヶ月前です。
確かに、日本興業銀行の工事中の写真を見ても、『耐震壁』以外の柱・梁の鉄骨は当時としても特別なサイズではないようです。
これに対して、佐野利器(1880-1956)の後を継いで東大教授となった内田祥三(1985-1972)は『壁は無いよりも有った方が丈夫なことはわかる。が、どの程度有れば良いかを判断することは難しい。したがって、過度に壁に期待すべきではない。それよりも、柱と梁の強度をさらに上げることが大原則である』と反論していたのです(佐野も内田の立場を支持していたと思われます)。 (続)