2007年12月30日

内藤多仲 の 『耐震壁』

内藤多仲内藤多仲(1886-1970)は、1922年「架構建築耐震構造論」を著して『耐震壁による耐震構造理論』を提唱していた。

 

内藤は、1906年のサンフランシスコ地震から10年経った時期の1916年に、1年間アメリカに留学した。大地震後、アメリカでは耐震面で何か新しい動きが起きているのではないかという期待があったと思われます??ところが、内藤は何も得ることなく帰国する羽目になる。これは残念なことだが、自分で考え出せるチャンスを貰ったということ。

 

工事中の 『耐震壁』工事中の日本興業銀行外壁工事中の日本興業銀行ほぼ無傷の 日本興業銀行本店『耐震壁』は、“荷造りの仕切板”という自身の旅行荷造り体験による独自の発想から発展させた耐震理論だった。

『柱と梁は現在程度の強度のままでも、要所要所に“強い壁(耐震壁)”を造れば、充分に丈夫な建物になる』と主張した。

 

内藤がこの理論に基づいて構造設計した日本興業銀行本店(渡辺節設計による鉄骨造7階建)は1923年6月に完成していた??実に、関東地震の3ヶ月前です。

確かに、日本興業銀行の工事中の写真を見ても、『耐震壁』以外の柱・梁の鉄骨は当時としても特別なサイズではないようです。

 

 

内田祥三これに対して、佐野利器(1880-1956)の後を継いで東大教授となった内田祥三(1985-1972)は『壁は無いよりも有った方が丈夫なことはわかる。が、どの程度有れば良いかを判断することは難しい。したがって、過度に壁に期待すべきではない。それよりも、柱と梁の強度をさらに上げることが大原則である』と反論していたのです(佐野も内田の立場を支持していたと思われます)。 (続)

  

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2007年12月16日

東京駅舎は 日本で2番目(?) の 鉄骨造

東京駅舎の歴史を調べていたら『構造は鉄筋レンガ造(!)』という(聞きなれない)構造との説明がありました。私は『穴あきレンガに鉄筋を縦横に通した、現在のコンクリートブロック造のような構造』を佐野利器が工夫したのだと推測していました。

 

東京駅建設現場1(1910年)建設現場2建設現場3ところが、東京駅舎工事中(1908年〜1914年)の1910年頃の上棟時の写真を見ますと、何のことはない立派な『鉄骨造』なのです。

『レンガ』は鉄骨の耐火被覆と内外壁の下地材及び仕上材だということ。決して、構造材ではないのです。

 

丸善書店(1909年)東京駅(1914年)“日本初の鉄骨造”は、1909年に佐野利器の構造設計で完成した日本橋の丸善書店と紹介しました。

推測するに、佐野は丸善書店で『鉄骨造』の小手調べを終えてから、辰野金吾の下で東京駅舎の『鉄骨造』による構造設計に取り組んだということなのです。

これは、ひょっとすると、辰野の指示だったのかもしれません――ということは、東京駅舎は“日本で2番目の鉄骨造”なのかも

 

この東京駅舎に関しては、個人的な思い出があります。

かって、私がカマボコ型のシリンダー屋根の設計に取り組んでいた時、そのオーナーのお父さんが口を出さずにおられないと出てこられた。

現在の東京駅「私の若い頃、東京駅が当代一流の設計陣と当時も業界一のS組の施工で造られた。それなのに、ネギボウズ屋根の雨漏りは何度やり直しても、とうとう最初から最後まで止められなかった。だから、丸い屋根は絶対に反対である」と強く主張された。

 

私は、「カマボコはネギボウズよりも単純な形であり、雨漏りをさせないことには自信を持っています」と詳細納まり図で説明して対抗。

実力者であったお父さんの反対は手強くて困ったのですが、最後は、オーナーに「私たちはこの設計が気に入っています」と押し切っていただいたのです(幸い、いまだに雨漏りはなくて済んでいる)。

 

関東大震災で崩壊した 丸善書店で、1923年の関東大震災には東京駅舎は何とか耐えて現在に残っています。屋根のネギボウズが変わってしまったのは、戦災被害があったから。復興時には、お金もないし雨漏りの心配のない形の屋根になっていますね。

 

ところが、日本初の鉄骨造の丸善書店の方は、残念ながら、関東大震災で無残なことになってしまった。

同じ『鉄骨造』でありながら、何がこの差を生んだのでしょうか? (続)

  
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2007年12月14日

震源は走る!

1923年(大正12年)5月から6月にかけて茨城県東方で200〜300回の群発地震が発生。有感地震は水戸で73回、銚子で64回、東京で17回――後に“前震”といわれた。

 

関東地震の震度分布及び本震と余震の震源1923年9月1日午前6時の天気図関東地震の地震計記録そして、“本震”。9月1日の午前中は能登半島付近を台風が通過中だった。東京も前夜から強めの風にさらされていたが、午前中には夏の日差しが雲間から射し始めていた。

 

午前11時58分32秒。まず、小田原の真下で地震発生。

10〜15秒後に三浦半島の真下でも地震発生。この二つの地震は区別できず一つの地震の揺れとして感じられた。M7.9。そして、12時1分にM7.2。12時3分にM7.3。――つまり、この大地震は5分間に起きた3つの地震の連続だった。

原因はフィリピン海プレートの沈み込みによって生じたプレート境界の跳ね返りとされた。

 

大地震では、大きな揺れが数分間にわたって続くといいます。それは、こういうことなのですね。

つまり、震源は点ではない。ある広がりを持つもので『震源は走る』という形容が相応しいのだそうです。

 

余震”は当日から翌日にかけてM6.3〜M7.3のものが11回(うち、M7以上が3回)。

 

横浜山下町 1酒匂橋鎌倉鶴岡八幡宮 神楽殿この地震そのものによる死者は2000人程度といわれます。これで済んだら大震災とまではいわれなかった。

 

ところが、最終的な死者行方不明者は14万2800人(東京10万7500人、神奈川3万3000人、他県2300人)という膨大な被害。そのほとんどは火事による死者だったのです。

 

 

地震後の火災被害が、特に東京で大きかったので関東大震災と呼ばれます。

 

震災での死者・行方不明者数の分布東京日本橋・神田方面の惨状しかし、震度の分布を見ると、相模湾の沿岸部と房総半島の南端部の広範囲が震度7であるのに対して、東京は一部を除くとほとんどが震度6弱以下です。

ということは、地震そのものは相模・房総地震とか南関東地震とか呼ばれるべき地震だったのですね。 (続)

  
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2007年12月12日

佐野利器 の 地震被害調査報告

1906年のサンフランシスコ地震の被害調査から帰国した佐野利器は、1891年の濃尾地震の翌年から設置されていた震災予防調査会で調査報告を行った。

 

佐野利器(1880-1956)日本の『洋館建築』建設関係者は、大変な期待で報告を聞いたのだと思います。佐野は26才と若いとは言っても、日本人で初めて育ちつつあった建築構造専門家といえる人材でしたから。

濃尾地震以降、日本の『洋館建築』建設関係者が払ってきた努力・工夫は、果たして、間違っていなかったのか?

 

        木造には、筋交いを入れてトラスを形成させるべき。

        レンガ造や石造といった組積造は、鉄骨で補強すれば建物を強化できる

 

台湾総督府(1919年)台中駅(1917年)つまり、日本の『洋館建築』建設関係者は、間違えていなかったのです――この報告に勇気付けられたかのように、この後、鉄で補強された組積造の『洋館建築』が日本全国に続々と建てられていったのです。

日本が1895年から統治していた台湾にも、現在も健在の台湾総督府(1919年)や台中駅(1917年)などがこの時期に完成した。だから、1999年の集集大地震(M7.6)に築80年を超える組積造の建築が耐えられたのも何も不思議ではないのです。

 

        地震後の火災まで考えれば、鉄筋コンクリート造が最も強い。

        これからのビル建設では、構造力学に裏打ちされた鉄骨造と鉄筋コンクリート造であるべき。

 

この報告会で、佐野は日本の将来を踏まえて、このような提言もしています。つまり、『レンガ造や石造の組積造』から『鉄骨造や鉄筋コンクリート造』へと、これからのビル構造は変えるべきであると訴えたのです。

 

丸善書店(1909年)三井物産横浜支店(1911年)世界初の鉄筋コンクリート造の建築ができたのは1903年のパリでした。が、そのわずか3年後には、すでに佐野などはこのような認識を持っていた――しかし、まだ日本には土木建造物を除くと、鉄骨造と鉄筋コンクリート造の建築は存在していなかった。

当然、まず佐野がお手本を見せろということになります。 

こういうことで、日本初の鉄骨造の丸善書店1909年に、日本初の鉄筋コンクリート造の三井物産横浜支店が1911年に、どちらも佐野利器の構造設計で造られたのです。

 

東京駅(1914年)しかし、当時の建築界の大御所・辰野金吾などは、新しい構法などにはなかなか手を出さない。辰野の設計した東京駅は『鉄筋レンガ造(穴あきレンガの穴に鉄筋を縦横に入れて補強か?)』で佐野に構造設計させて1914年に完成しています。

 

そして、この報告会の17年後の1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東地震(M7.8)の発生です。 (続)

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2007年12月09日

1906年 サンフランシスコ地震 … 欧米先進文化が初めて出合った大地震

世界の主なプレート分布サン・アンドレアス断層の衛星写真カリゾ平原上空から見たサン・アンドレアス断層1895年に赤レンガ棟、1896年に日本銀行本店が完成。

 

それから約10年後の1906年4月18日サンフランシスコで大地震が起きます。サンフランシスコ市街に近いサン・アンドレアス断層を震源とするM7.8の直下型大地震でした。

 

 

地震直後 1地震直後 2地震焼失後のシティホール地震直後に発生した火災は、3日間燃え続けサンフランシスコの市街地を焼失させるという大災害になったのです。約3.000人が死亡し、225.000人が家を失った。

 

 

この大地震が、欧米の先進文化が初めて出合った大地震だった――幸運なことに、ヨーロッパも北米東部も極めて地震の少ない地域なのです。

 

日露戦争(1904年2月〜1905年9月)直後の強い排日感情の中、明治政府は義援金を送るとともに地震被害調査団をアメリカに派遣。

 

焼失したサンフランシスコ市街地この時26才の佐野利器も随行し、貴重な大量の『洋館建築』の被害調査結果を日本に持ち帰った。

世界初の鉄筋コンクリート造の建築が1903年にパリに建ったのだから、この時サンフランシスコに建っていた建物は、ほぼ100%が組積造か木造。

そして、地震とその後の火災被害を免れた組積造を調査して、佐野はその理由を推測できた。 (続)

  
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2007年12月07日

『赤レンガ棟』 の ケース 2

赤レンガ棟補強金物 1補強金物 21891年の濃尾地震が起きた時点では、日本には建築構造技師といえるような人材はまだいなかった。何しろ、『耐震構造学』の創始者、佐野利器(1880-1956)はこの時11才です。

 

河合浩蔵(1856-1934)は、エンデ&ベックマン建築事務所が残していった実施設計図を耐震面から改めて見直したでしょう。

 

木柱受け金物木梁受け部と受け金物レール床スラブのレール『洋館建築』の濃尾地震での被害状況を調べてハッキリわかっていることは、“とにかく、鉄で補強すること”――“鉄を入れられる場所にはすべて入れる”ということだったと推測します。

恐らく、河合は、ドイツの建設技術者たちが計画に残していった“鉄による補強”をベースに、木部との取り合いなどに工夫をしながら、大幅に鉄の補強を増やしていったのではないかと思います。

とまれ、日本最大規模の『レンガ造の洋館建築』司法省庁舎(赤レンガ棟)は着工から7年後、濃尾地震からは4年後1895年、日清戦争(1894年7月〜1895年4月)の晴れやかな戦勝気分の中で完成します。

 

辰野金吾日本銀行本店こういった状況は、工部大学校教授職にあった辰野金吾(1854-1919)も同じ。辰野は濃尾地震の起きた時ちょうど日本銀行本館(1896年完成、石造)を設計中だった。

「ドームの高さを低くしたり、可能な限り鉄骨補強を入れたりした。が、理論がないので、本当のところ、これで良いのかどうかがわからなかった」と辰野は講義で佐野たち学生に述懐しています。 

 

河合浩蔵神戸地裁その他の『洋館建築』の建設現場も、同様の状況だったのです。 

 

辰野は皆が知るように『明治建築界の三大巨匠』の一人となりますが、河合もその後大阪地裁や神戸地裁庁舎を完成させ、関西建築界の長老的な存在となったのです。 (続)

  
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2007年12月06日

『赤レンガ棟』 の ケース 1

1877年(明治10年)に日本最後の内戦である西南戦争が終結し、ようやく社会が安定に向かうと、明治政府は新政府のシステム造りとともにその官庁街をヨーロッパ列強国のそれに負けないレベルで造ろうとした。

 

エンデ&ベックマン司法省庁舎の第一次計画案竣工時の『赤レンガ棟』(1895年)“お雇い外国人”イギリス人のジョサイア・コンドル(1852−1920)は、工部大学校教授の職を1877年〜1884年で辞していた。しかし、コンドルはヨーロッパでの設計実績は少なかった。

そこで、明治政府は1886年(明治19年)ドイツから著名な建築家二人を招聘した。二人は、ドイツ最初の民間建築事務所、エンデ&ベックマン建築事務所を共同で主宰していた。

彼らは明治政府の求めに応じて来日し、大規模な官庁集中計画案を作成。この時、ネオ・バロック様式の庁舎の外壁には、日本産の石材は色合いが悪いとして“レンガを採用”していた。

しかし、紆余曲折の末、エンデ&ベックマン建築事務所の設計した官庁舎で実現に至ったのは、司法省と大審院(最高裁判所)の庁舎のみだった。

 

『赤レンガ棟』のレンガ若き日の河合浩蔵この二つの庁舎を造るためにまず最初に始めたことは、強度が高く耐火性・耐久性のあるレンガを試作することと、日本人の人材育成でした。

後に司法省庁舎建設の主任建築家となる河合浩蔵1856-1934)は、この時妻木頼黄らとともに議院建築の研究のためドイツに留学(研修?)しています。

 

そして、2年後の1888年ようやく司法省庁舎の建設に着手。

ここで、エンデ&ベックマン建築事務所の主導で詳細な設計図が作成された(この時、後にドイツ工作連盟の中心人物となる若きヘルマン・ムーテジウス(1861-1927)が建築技師として来日参加していた)。

地質加重試験図しかし、ドイツの建築構造技師による地盤強度試験なども終わり、いよいよ着工という段階で明治政府とエンデ&ベックマン建築事務所に契約上のトラブルが起こる。

結果的に、ドイツ側の総引き揚げという事態に発展――想像するに、明治政府にお金がなかったということでしょう。何しろ、日清戦争1894〜95)を前にして“軍備”に最優先で備えていた時期ですから。お金はいくらあっても足りない。

この事態を受けて、ようやく30才代を迎えたばかりの河合浩蔵が日本最大の『洋館建築』、司法省本館建設の主任建築家に任命された。

 

 

旧、司法省本館『赤レンガ棟』この時、発生したのが1891年(明治24年)の濃尾地震

 

35才の河合浩蔵も、名古屋地区の『洋館建築』全滅の報を聞いて、その被害調査のため名古屋に駆けつけた。

すでに、ドイツの建築技術陣は引き揚げている――河合浩蔵は、その責任の重さに身が押し潰されるような思いではなかったか。

幕臣の家に生まれた河合は、大政奉還を11才で迎えています。武士の心構えに似たものは持っていたに違いありません。 (続)

  
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2007年12月03日

『レンガ造』 の 耐震性の高め方 1

根尾谷断層1891年(明治24年)10月28日に発生した濃尾地震(M8.0)の地震被害状況が日本中に知れ渡ると、日本の主要都市で国家的な建築プロジェクトに携わっている人たちが被害調査に名古屋地区に駆けつけてきた。何しろ名古屋地区に建っていた『洋館建築』が悉く全壊したわけですから――でも、これは江戸時代ならあり得ないこと。

明治維新から四半世紀経つと、地震被害の教訓を共有しようという国家意識がすでに芽生えていたのですね。

 

そして、根尾谷断層が動いたこの世界最大級の内陸直下型地震の被害調査は、人類が“耐震構造”を追求するための最初の一歩だったのです

 

丸善書店(1909年、日本初の鉄骨造)イギリス、コールブルックデール橋(1779年、世界初の鉄橋)この大地震は、1884年(明治17年)から辰野金吾(1854-1919)が工部大学校教授となって、建築界の学も産も日本人自らの力で国家的建築プロジェクトを推し進め始めた時期でした。

 

本初の鉄骨造(丸善書店)が1909年、日本初の鉄筋コンクリート造(三井物産横浜支店)が1911年にどちらも佐野利器1880-1956)の構造設計で建てられたわけだから、濃尾地震当時の『洋館建築』は一部に木造もあったが、主体はもちろん『レンガ造(レンガによる組積造)』だった。

 

1990〜2000年の世界の震央分布(M4以上、深さ50km以浅)産業革命のイギリスでの1779年の世界初の鉄橋、コールブルックデール橋(世界文化遺産)を手始めに、1889年のエッフェル塔建設などの経験から、ヨーロッパでも『レンガ造』などの組積造の耐震性を高める方法は、“ネバリがあって強度の高い鉄による補強”が有効なことはわかっていた。

 

ただ、幸運にもヨーロッパは地震多発地帯ではない。

だから、組積造の耐震性を高める方法は理論的なレベルにはほど遠く、経験的なレベルに留まっていたのです。  (続)

  
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2007年11月22日

『組積造』の耐震性向上 … 明治期の日本の国家的課題のひとつ

アドベによる『組積造』の耐震性向上”は、今もイランの国家的課題ということを紹介しました。

が、100年程前には“レンガによる『組積造』の耐震性向上”が日本の国家的課題であったのです。

 

世界初の鉄筋コンクリート造が1903年パリ・フランクリン街のアパート(オーギュスト・ペレ設計)で、日本初の鉄筋コンクリート造が1911年(明治44年)三井物産横浜支店(佐野利器の構造設計)だったから、当然、明治期の日本の『洋館建築』は一部の木造を除くと、ほぼ100%レンガによる『組積造』だった。

 

濃尾地震(1891年)の震度分布図根尾谷断層の写真明治の“お雇い外国人”の主要なひとり、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが工部大学校造家学科の教授として日本人に教えたのも当然『組積造』。

コンドルが教授職にあったのは1877年〜1884年の7年間。その教授職を引き継いだのは教え子第一号辰野金吾で、その1884年〜1902年の18年間の在職中も教えたのは当然『組積造』だけ。

 

日本の建設関係者に“レンガによる『組積造』の耐震性向上”が国家的課題だということを認識させたのは、1891年(明治24年)10月28日に起きた濃尾地震だった。

 

長良川鉄橋と堤防の崩壊大垣廓町の地震被害大垣警察署の地震被害(木造洋館)この地震のエネルギーはマグニチュード8.0。世界でも最大級の内陸直下型地震だった。そして、震源であった根尾谷断層の最大上下変位量6m・最大左横ずれ変位量8m・総延長約80kmの地上に現れた部分の写真が、世界中の人々を驚かせたのですね。

そして、学門的に言うと、この地震の余震は何と116年後の現在もまだ続いているということです。

 

この地震の被害は死者7.273人、全壊・焼失家屋142.000戸。

一般の日本の木造軸組の民家・家屋の耐震性向上も大きな課題ではありました。

全壊した名古屋郵便局 1全壊した名古屋郵便局 2が、それ以上に、日本に導入した当時の欧米の最新建築技術による『洋館建築』の耐震性の低いことは頭の痛い大問題だった。

実は、欧米の建築技術は圧倒的に地震の少ない地域に発展したもの。だから、高い耐震性は然程要求される要素ではなかったのですね。

 

いずれにしろ、それまでに名古屋地区に建てられていた『洋館建築』は、この濃尾地震ですべて全壊状態だったのです。 (続)

  
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2007年11月16日

『組積造』の大欠陥 … イランの国家的課題

アドベ(日干しレンガ・泥レンガ)の組積造』は、効率の良い蓄熱材。そして、不燃材でもあるから大規模な火事の心配はない。しかし、耐震性が低くて“地震に弱い”という大きな欠点を持っている。

世界のプレート世界の地震帯そこで、『世界の地震帯』と『アドベの組積造建築の分布地域』とを重ねてみると、トルコ・シリア・イラク・イランから中央アジアの地域が重なっている。――これは大問題です。

特に、イランのペルシャ湾岸はユーラシアプレート、アラビアプレート、インド・オーストラリアプレートの3つのプレートがぶつかり合う地震の巣なのです。

 

そういえば、この地域の地震被害のニュースが時折流れてきます。私は、その都度、地震の規模(マグニチュード)を確かめるようにしています。たいてい、“M6前後”です。

日本や東南アジアや南米太平洋岸のような“M8前後”の地震は少ない。それでも、被害は“死者数万人”ということが頻繁にあります。

「この程度の地震で、こんな大被害!」と驚くのですが、原因は『組積造』という耐震性の低い家の構造にあるのですね。

 

地震前の アルゲ・バム遺跡地震後のアルゲ・バム遺跡イラン南東部のバムという町に、アドベで造られた最大の構築物アルゲ・バム遺跡があります。今から300年程前の1700年代初頭に放置されて廃墟になったイランの観光名所。

 

このバムの町が2003年暮れの早朝、直下型のM6.3の地震に襲われた。しかも、震源の深さは4〜10kmと浅かった。バム市の人口の4割、43.200人がアドベの下敷きになって圧死。アルゲ・バム遺跡もほぼ全壊。文字通り“土に返る”という状況になったのです。

 

 

 

バムの町 と アルゲ・バム遺跡地震直後の状況私などは、宗教や核開発どころではない――と思うのですが、イランのイスラム教徒はそうは思わないらしい。

 

それでは、建築技術的にはどう対応すべきなのでしょうか?

 

実は、この解答は1923年の関東大震災直後の日本ですでに出されているのです。 (続)

  
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2006年11月05日

東京タワーの高さは、何故333mか?

東京タワーの航空写真東京タワー 高さ333m東京タワー(日本電波塔)の発案者は、大阪の新聞王と呼ばれた前田久吉(後の産経新聞、関西テレビ社長)。放送事業の将来性にいち早く目を付けたんですね。立志伝中の人物らしく「造るなら世界一高い物でないと意味がない。そして、バラバラに建てられているNHK・民放6社のアンテナを一本化する」という考えだった。

 

地震国・台風国日本に建てる世界一高い電波塔ということで、まず世界の“耐震構造の父”内藤多仲に構造設計の依頼が当然のごとくあった。フォローは日建設計。当時考えられる最強のコンビです。

 

計画の当初は上野公園付近に建てることが検討された。こういった高い建造物を建てるためには、東京では東京礫層に杭を打ち込む必要がある。ところが、上野付近ではこの東京礫層が深いんですね。そこで、東京礫層のより浅い地盤の良い場所を求めて、一部増上寺の墓地を取り壊してまでして現在の場所に決まった。

 

工事は19576月に起工。日本中から集めた優秀な鉄骨鳶と請負の竹中工務店の奮闘もあって、4.000tの鋼材をわずか15ヶ月(エッフェル塔は12.000tの鉄材を26ヶ月)で組み立てた。そして、195810月には無事完工した。

 

工事中の東京タワー設計条件として、東京全域に電波を送るには高さを380mとすることが要求された。ところが、380mでは強風時にアンテナが揺れて画像が乱れてしまう恐れがあった。

検討の末、風の影響で画像が乱れないギリギリの高さとして333mが決定された。それでも発信される電波は半径100km圏をカバーした。こうして、東京タワーはエッフェル塔の高さ324mを辛うじて9mクリアできた。

 

電波の発射開始は、早速1959110日から始まった。しかし、調整段階で日本テレビが離脱。根にはテレビ業界の覇権を競う産経新聞(フジテレビ)前田と読売新聞(日本テレビ)正力の対立があったのは有名な話。お陰で長い間、日本テレビは写りが悪くて困りましたよね。

 

この状況は正力松太郎が亡くなるまで続いた。正力没後の翌年1970年になって、やっと日本テレビも初めて東京タワーにアンテナを設置した。

  
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2006年10月19日

“耐震構造の父” ・・・ 内藤多仲 4

こうして、内藤多仲は、日本の耐震構造理論を飛躍的に発展させた立役者となりました。

おばけ煙突関東大震災以降、大隈講堂・明治生命本館・大丸京都店・東京厚生年金病院・根津美術館・早大文学部校舎等その後名建築といわれた数々の建築の構造設計の依頼は引きも切らずの状態となる。

「おばけ煙突」で知られた東京電灯千住火力発電所の設計もしています。

 

 

中でも構造が主役となる鉄塔は独壇場だった。1925年東京愛宕山でラジオの本放送を始めたNHKの放送塔と局舎の設計を手始めに、1933年までの間に自立式三角鉄塔二基を一組とした塔を全国で30組以上つまり60基以上の鉄塔を設計して『塔博士』と呼ばれるようになったんですね。

 

名古屋テレビ塔二代目通天閣別府タワー札幌テレビ塔博多ポートタワー戦後はテレビ本放送開始の翌年1954年に名古屋テレビ塔(高さ180m)、55年に二代目通天閣(高さ103m)、57年には別府テレビ塔(高さ100m現別府タワー)札幌テレビ塔(高さ147.2m)を経て、58年の東京タワー(高さ333m)へと続いた。62年には博多タワー(高さ103m現博多ポートタワー)も手掛け、計6つのタワーの生みの親となったんですね。

こういうタワーの構造計算もすべて計算尺を操って手計算でこなしたんです。

 

 

 

 

東京タワー中でも東京タワー(高さ333)は、内藤自身が「日本特有の地震と台風という悪条件を克服しなければならず、すこぶる難物だった。長年の経験がものを言った」と述懐しています。

 

晩年には高さ600mのタワー計画を構想していたという話です。内藤多仲の構想力は衰えることを知らなかったんです。 

  
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2006年10月18日

“耐震構造の父” ・・・ 内藤多仲 3

内藤多仲の“耐震壁による耐震構造理論”は『柱と梁は今のままでも、要所要所に強い壁を作るようにすれば充分に丈夫な建物にすることができる』という考え方。1922年に「架構建築耐震構造論」として発表。

これに対して、東大の内田祥三から異論が出された。『丈夫な建物であるためには、柱と梁が根本的に強いことが大原則。壁は無いよりも有った方が丈夫なことはわかるが、どの程度の壁が適当であるかを判断することは難しい。だから、壁に構造面で過度の期待をすべきではない』と主張した。

 

二人は日本の耐震構造の基礎を築いた佐野利器の一つ違いの兄弟弟子。この耐震構造の方向性を巡る建築学会内での論争は、結局コスト上の理由で内藤の耐震壁に軍杯が上がった。柱と梁の強度を上げるということは、基本的にサイズと鉄筋量を上げることです。どちらがコストが掛かるかは明白ですね。

 

東京歌舞伎座(1924 岡田信一郎)内藤は自身の考案した耐震構造理論に基づいて、日本興業銀行本店ビル(渡辺節設計、1923年竣工7階建)東京歌舞伎座(岡田信一郎設計、1924年竣工)の構造設計を行った。

 

そして、何と!日本興業銀行本店ビルの竣工3ヶ月後に関東大震災が起きる――まるで、現物での強度試験のような巡り合わせでした。

 

日本興業銀行本店から200m程しか離れていない旧丸ビルは内外の壁に大きな亀裂が入り惨憺たる有様。

これに対して、日本興業銀行本店ビルはほぼ無傷で耐えた。まだ工事中の東京歌舞伎座も、同様に無事であった。内藤が提唱した耐震構造理論の有効性が実証された瞬間でした。

 

そして、37才の若き構造家を“耐震構造の内藤多仲”として、その名を一日にして世界に知らしめたのです。 (続) 

  
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2006年10月17日

“耐震構造の父” ・・・ 内藤多仲 2

内藤多仲(18861970)は、最初は造船学を専攻していた。が、日露戦争後の造船不況を見て建築学に転向。1910年に東大を卒業後は大学院在学中から学生服姿で早稲田に教えに通った。1913年早稲田大学教授。

1916年にはアメリカに1年間留学。アメリカは1906年のサンフランシスコ大地震(7.8)から10年経っていました。何か新しい耐震構造理論ができているのでは――という期待があったんだと思われます。

ところが、期待していた耐震構造理論はアメリカにはまだなかった。内藤は何も得ることなく終わった留学に失望。明日、帰国の船が横浜に着くという時にはいっそのこと海に飛び込みたいという衝動に襲われたそうです――このあたりのことは昨年519日のブログ『恵存 内藤多仲』で触れました。

 

内藤記念館にある“内藤多仲の旅行鞄”“学ぶべきことがない”ということは“否応なく自分で考え出さなくてはならない”ということ。これは楽なことではないけど、決して不幸なことではない。

 

結果的に、内藤は留学時の“旅行鞄の荷造り体験”からヒラメキを得たんです――たくさん荷物を詰め込もうとして邪魔と思えた『仕切板』を外して荷造りしたら、荷を受け取る時にはバラバラに鞄は壊れていた。これに懲りて、しっかり『仕切板』を残して荷造りしたら、それ以降は鞄はビクともしなかった。

それに、かって内藤は造船学を志していたわけです。留学の行き帰りの数ヶ月の間に乗った客船内を興味津々で見て回ったに違いありません。『船の構造』も仕切床や仕切壁で補強されています。

 

こうした着想から、内藤多仲は“耐震壁による耐震構造理論”を提唱した。 (続)

  
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2006年10月16日

“耐震構造の父” ・・・ 内藤多仲 1

内田祥三(1885-1972)91日の防災の日以降、主に関東大震災に関わる事柄や人達のことを取り上げてきました。

 

関東大震災を境にして人生の大きく変わった人は、何と言っても今年の43日のブログで『明治38(1905)の震災論争』と題して紹介した東京帝大地震学講座教授大森房吉と同助教授今村明恒がその最たるものでしょう。おまけに二人の論争は、当時のオピニオンリーダー誌上でのもの。極めてセンセーショナルに扱われ、社会問題化までしました。

 

 

内藤多仲(1886-1970)そこまで話題になるものではありませんでしたが、実は建築構造設計の世界でも“耐震構造の方向”を巡って少し似通った論争があったんです。

 

共に佐野利器に師事し、年齢は1つ違いの東大の内田祥三(18851972)と早稲田に出されていた内藤多仲(18861970)との間の論争でした。 (続)

  
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2006年09月27日

超高層ビルは、本当に安全か? ・・・ 大問題! 長周期地震動 3

長周期地震動の引き起こす問題は、超高層ビルと免震ビルに予想されるだけではありません。

2003年十勝沖地震時の苫小牧の石油タンク火災2003年の十勝沖地震時に、震源から200km以上離れている苫小牧の石油会社の石油タンクが大火災になりました。

バケツに入れた水は小刻みに揺らしても水面はあまり波立ちませんね。しかし、ユックリ揺らすと大きく揺れてバケツからこぼれるほどになります。これは、バケツの水の揺れの固有周期が合って共振したのです。こういった現象を『スロッシング現象』と言うんです。

タンクの中身が水なら、タンクが壊れるだけです。が、中身が石油ということになればそうはいきません。タンクが壊れる時の火花で大火災になるんです。

十勝沖地震時と同じような石油タンク火災は、1964年の新潟地震でも1983年の日本海中部地震でも起きています。次の東海・南海・東南海地震が起きた時には、この海岸沿いにある数多くの石油タンク群は一体どういうことになるんでしょうか?

免震構造 

超高層ビルや石油タンクが長周期地震動で問題が出るのは、建物の性質上仕方のない面もあります。しかし、免震構造は少し違います。通常の造り方であれば剛構造となる建物を免震構造にしたものが多いわけです。免震と言っても建物が揺れないわけではなく、揺れの固有周期が長くなったということ。とすると、長周期地震動に共振して免震装置が破壊されると、上部の建物が無傷のまま地面に放り出されるような無残な被害も予想されるのです。

 

横浜ランドマークタワー(1993)このような事態を重く見た日本建築学会と土木学会は、超高層ビルなど巨大構築物の耐震指針の見直しに乗り出しています。当然のことです。一刻も早い見直しの実施が必要です。

 

現在、日本で一番高い超高層ビルは横浜みなとみらい21地区の横浜ランドマークタワー(1993)。地上70階で高さは295.8mです。NHKの番組『プロジェクトX』でも紹介されましたが、このビルの上層部にはコンピュータ制御で揺れを抑える巨大な折り畳み振り子があります。これでビル全体の制震を考えているのです。

制震を理想的に行うことはなかなか難しいことなんですが、超高層ビルは多分こういう方向に行かざるを得ないんだと思います。

免震構造の場合はどうするんでしょうか?揺れすぎを抑えるような対処が必要なんだと思いますが・・・。

  
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2006年09月26日

超高層ビルは、本当に安全か? ・・・ 大問題! 長周期地震動 2

1944年東南海地震時、三重県紀勢町錦地区の津波被害敗戦前年の1944127日に発生した昭和の東南海地震(7.9、震源は東海道沖)は、戦時中の報道統制で被害の全体像がなかなかつかめない地震。地盤の沈下や津波の発生で静岡・愛知・三重の各地に甚大な被害を与えたといわれます。

この地震発生時に現在の千葉県東金市に置かれていた地震計の記録から、昨年東大と早大の共同研究グループが長周期地震動を読み取ることに成功しています。周期12秒の長い周期の揺れが10分間以上も記録されているそうです。その際の地表の揺れは最大14cm。仮にこの場所に120階建の超高層ビルが建っていたとすると、その建物の上層階は1m揺れる計算になるそうです。

 

同じグループは、現在発生が心配されている東海地震が起きた場合の首都圏の超高層ビルの揺れの想定もしています。その時、首都圏は震度45。しかし、長周期地震動に超高層ビルが共振した場合は、上層階が左右に1.5mずつ揺れる恐れがあるといいます。この時は、室内が大混乱しエレベーターが壊れて孤立、停電、断水の中で人が閉じ込められる危険性が指摘されています。

 

東海・南海・東南海連動型地震が起きた場合は、さらに大変なことが想定されています。

長周期地震動の体験装置56秒という長周期の振動は海溝型大地震で発生し易いとされ、この連動型地震が起きると超高層ビルは共振の恐れが高いんです。名古屋大では名古屋市三の丸地区では、地表の揺れは左右に20cm。10階建は50cm。30階建は2mと想定しています。

56秒で左右に2m揺れるというのは、左に2m揺れると次に右に4m戻り、さらに左に2m戻る――という動きを56秒かけて行うわけです。8mもの行程を2度向きを変えながら56秒で移動するのです。こんな恐ろしい揺れに30階の高さで10分間以上も曝されたら間違いなく大パニックですね。私なら、床にへばりついているだけがせいぜいという気がします。ゆっくり揺れると言っても、2mも動いて建物は壊れることはないんでしょうか?家具や備品はどうなるんでしょうか?想像もつかないことが多すぎます。

 

名古屋大と地震計測会社が共同で、長周期地震動の体験装置を開発しています。一度は乗ってみたいとは思いますが・・・。 ()

  
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2006年07月27日

耐震構造の始まり 2 … 固まった基本的考え

サンフランシスコ大地震の被害調査から帰ってきた佐野利器は、早速濃尾地震の翌年から設置されていた震災予防調査会において結果報告を行った。

 辰野金吾(1854−1919)片山東熊(1853−1917)

妻木頼黄(1859−1916)明治建築界の三大巨匠、辰野金吾(18541919日本銀行本店・東京駅設計)片山東熊(18531917赤坂迎賓館・京都博物館設計)妻木頼黄(18591916横浜正金銀行・日本橋設計)の面々も臨席していた。若いとはいっても、日本で初(世界でも初)の耐震構造専門家の道を歩もうとしている佐野利器の説明です。皆、身を乗り出すように耳を傾けたに違いありません。佐野の説明は次のようなものだった。

 

     木造には、筋交いを入れてトラスを形成させるべきである。

     煉瓦造・石造の組積造は、鉄骨を使えば強化できる。

     地震後の火災まで考えれば、鉄筋コンクリート構造が最も強い。

     これからのビル建設では、構造力学に裏打ちされた鉄骨構造と鉄筋コンクリート構造であることが重要である。

 

赤坂離宮(1909 片山設計)横浜正金銀行(1904 妻木設計)今聞けば、ごくごく当たり前の話です。でも100年前の1906(明治39)当時は世界の構造設計はこんな話が革新的というレベルだった。なにしろ、オーギュスト・ペレが石造よりも安価な工法として世界初の鉄筋コンクリート造の建築をパリに完成させたのが1903年でしたから。まだ日本の震災予防調査会の全員は、鉄筋コンクリート造の建物を造ったことがなかったんです。

 

佐野の説明の後の、明治建築界の三大巨匠の反応も次のようなもの。

 

妻木頼黄 「コンクリートの中の真鍮が腐った例があったが、鉄は大丈夫か?」

片山東熊 「鉄筋コンクリートは始め強いだろうが、だんだん鉄が腐って蜂の巣の

      ようになるのは時間の問題だ。そうなれば、大変危険な構造である」

辰野金吾 「とにかく、鉄筋コンクリートをよく実験して確かめてみてくれ」 

 

何はともあれ、耐震構造の基本的な考え方が固まって、耐震技術の研究が本格的に始まったのです。日本で初の鉄筋コンクリート造の建築が出現するまで、あと一息です。(続)

  
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2006年07月26日

耐震構造の始まり 1 … 1906年のサンフランシスコ大地震

佐野利器(1880-1956)佐野利器(18801956)が東京大学建築学科の学生であった頃は、建築教育は“芸術教育”の傾向が非常に強かった。耐震構造理論やさしたる建築設備などは存在しなかった当時としては無理もない。工科大学長を兼ねる辰野金吾(18541919)が教授として日本の建築界を牛耳っていた時代です。

佐野は、質実剛健の気風の人。“形の良し悪しとか色彩のこと等は女子供のやること”という信念の人だった。そういう人物にとって当時の建築教育は苦痛でしかない。自分に不向きな学科を選んだことを悔やみ、転科も真剣に考えたらしい。

 

 

日本銀行本店(1896年)そんな折、辰野は講義の中で日本の建築界の状況を正直に話した。

日本には欧米と異なる困ったことがある。それは“地震”である。1891年の濃尾大地震では煉瓦造の建物がガラガラにやられた。ちょうどその時、自分は日本銀行本店を設計中であった。濃尾地震の被害を見て困った結果、ドームを低くしたり鉄骨補強を入れたりはした。しかし、理論がないので、これで良かったのか本当のところはわからない。耐震構造の研究は、これからの諸君のなすべき仕事のひとつである」

 

佐野利器はこの話に、建築に自分の成すべき仕事のあることを翻然と悟ったといいます。

そして“耐震構造”で国家社会に尽くすと決心した。

 

焼失した市庁舎とサン・アンドレアス断層1906年4月18日、佐野26才の時、サンフランシスコ大地震(7.8)が発生。サンフランシスコ市街に近いサン・アンドレアス断層を震源とする直下型の大地震で死者約3.000人。地震で発生した火災は3日間燃え続け市街地を焼失させた。

 

 

この時、日本政府は五万円を義捐金として送るとともに、地震学の大森房吉、今村明恒(二人はこの前年の1905年から震災論争で対立・・・今年4月3日の私のブログ参照)を中心に調査団を派遣。もちろん佐野利器も随行した。

 

当時のアメリカ西海岸では人種差別の槍玉に日本人が挙げられていた。排日感情が強く調査団は投石を受けることもあった。そんな中でも、佐野は貴重な調査報告を持ち帰る。

この地震をキッカケに、アメリカにおいてもようやく耐震研究が始まったのです。 (続)

  
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2006年07月25日

世界の地質学者、地震学者を驚かせた “1枚の写真”

1891(明治24)1028日早朝の大地震は濃尾平野を破壊し尽くした。

この時、日本中の地質学者や洋館(レンガ組積造)建設関係者が被害調査に駆けつけた。これは、江戸時代にはあり得ないこと。ただ、地質学者は少なかったし地震学者と名乗れるほどの人はほとんどいなかった。

 

上下差6mの 根尾谷断層その点、日本国中で洋館建設に携わっていた関係者はそれなりの人数であったろうと思われます。

 

私の先月17日のブログでも紹介した「赤レンガ棟(旧司法省本館1895年完成)」の責任建築家、河合浩蔵ももちろん駆けつけている。ドイツの建築家・技術者達が契約のトラブルから全員退去した後のことだから、河合浩蔵も必死だったろうと想像します。しかし「赤レンガ棟」にとっては本格的に現場工事の始まる直前で、設計を見直すには願ってもないタイミングだった。

 

この当時、体系的な耐震構造理論というものは存在していなかった。当時の先進地域で地震多発地域と言えるのは、せいぜいアメリカ西海岸くらいであったからこれは無理もないこと。

 

河合浩蔵は名古屋の洋館建築の被害状況を見て、壁や床の鉄の補強材を大幅に増やすことにしたらしい。ただ、これで本当に大丈夫なのかは大地震に遭ってみないとわからない。

結果的には1923(大正12)の関東大地震に「赤レンガ棟」は無傷で耐えた。この濃尾地震の被害調査研究がなかったら、そうはいかなかったでしょうね。

 

ただ、皮肉なことに補強組積造の耐震性がある程度認められた時には、世の大勢は“ビル建築は鉄骨造か鉄筋コンクリート造”ということになっていたんです。

 

根尾谷断層の現在こんな状況の中で、濃尾地震を調査した岩石学・火山学・地震学の東京大学教授、小藤文次郎(18561935)は調査の2年後1893年に『地すべり』を原因のひとつとするオーストリアの地質学者の説を踏まえ『断層原因説』の先駆的な論文を発表した。そして、この論文に付された1枚の写真が世界中の地質学者、地震学者を驚かせた。

 

上下差6m、全長80kmにもなる根尾谷断層の地表出現写真です。それまで、誰も目にしたことのない光景だったんです。

  
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2005年05月19日

恵存 内藤多仲

 建築の耐震性を語るには、内藤多仲先生のことに触れざるを得ません。
c39b475f.jpg東京タワーや名古屋テレビ塔・通天閣・さっぽろテレビ塔・別府タワー等の名だたる鉄塔を設計したあの「塔博士」です。NHKの『プロジェクトX』でも通天閣建設の話で取り上げられましたから、ご存知の方も多いんじゃないでしょうか。
私は内藤先生のお姿を直接拝見する機会はありませんでしたが、『内藤多仲の旅行鞄』のエピソードには本当に感動していました。
そして、たまたま私が以前ご自宅を設計させていただいた建主さんが内藤先生に近しい方でした。写真はその方のお母さんが内藤先生から贈呈された先生の著書の自筆の添え書きです。「一九六五、六、二五、恵存 内藤多仲、」と書いてあります。
 
早速、この著書をお借りして読み直してみました。
『耐震構造』をライフワークと定めて苦闘した建築家の半生記です。結局、幸か不幸か日本のような地震国は欧米にはないんですね。明治の開国後、ニコライ堂を設計したコンドルのようなお雇い外国人建築家が日本に洋館建築は根付かせました。が、耐震建築と言える程のものはそもそも存在していなかったんですね。
内藤先生も第一次世界大戦の最中、『耐震構造』を学ぶべく一年間アメリカに留学します。しかし、何ら得ることもなく帰国します。船が明日横浜に着くという前夜は、海に飛び込みたいと思う程の落ち込みだったそうです。だが、帰国後の煩悶の中であるヒラメキを得ます。
 
アメリカを旅行中、先生は大きく頑丈な旅行鞄を使っていた。サンフランシスコからワシントンに列車で行く時、できるだけたくさん荷を詰め込むために鞄の仕切り板をはずして送った。ところが、ワシントンに着いた時には鞄はバラバラに壊れていた。その後は代わりの鞄に荷を詰め込む時は、仕切り板はそのまま入れて縄で締め上げるという何の変哲もない荷造りにした。そうすると、鞄はビクともしなかった……。
 
『耐震壁』の誕生です……青い鳥は、やはり家にいたんです。
  
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